第五話 猫はなぜ濡れていたのか?
翌日の昼にまた四阿へ向かうと、雪衣はすでに来ていた。
そして見知らぬ内宮妓官も一緒にいた。
年頃は二十七、八か。内宮妓官としてはかなり若い。
長身痩躯とやや浅黒い膚、眼窩の深い面長の顔は、一目で分かる生粋のカジャール系である。
ぱっと見た印象、彼女はずいぶん憔悴してみえた。
「あ、月! 本当に来てくれたんだね!」
雪衣が嬉しそうに言って立ち上がる。右腕に猫の雪がいない。見れば、内宮妓官の膝の上で毛玉みたいに丸くなっていた。
どうやらたまたま同席しているわけではないらしい。
「ごめんね、遅くなって。そちらの方は?」
「橘庭の郭秀鳳どの。今月の紫薇殿付きの内宮妓官どのだよ!」
雪衣が得意そうに教える。
月牙は目を瞠った。
「え、じゃ、例の仔猫の?」
「ああ」と、秀鳳自身が応えた。「その通り、私が例の仔猫の躯の第一発見者の一人だよ」
「雪、知り合いだったの?」
「ううん。今月の紫薇殿付きの主計主典さまにお願いして手紙を届けていただいたんだ。例の件について話があるから昼にひょうたん池のほとりの四阿にって。そうしたら本当に来てくださったんだ。ありがとうございます秀鳳どの」
「いや、初めは正直脅しでもかけられるのかと思っていたんだが」と、秀鳳が膝の猫の背を撫でながら苦く笑う。「待っていたのがずいぶんお若い主計生お一人で驚いたよ」
「脅しって、仔猫殺しの件で師姉が脅されるのですか?」
「ああ。その可能性はあると思った。―-その前に、そなたは柘榴庭の新参だね?」
「あ、はい師姉。名乗りが遅れてすみません。蕎月牙と申します。今は石楠花殿の通用門の警衛を」
秀鳳は頷き、一瞬のためらいを見せてから、探るような口調で訊ねてきた。
「――仔猫殺しの件を探ろうとしているのは、柘榴庭どのの密命で?」
「いえ」
月牙は慌てて否んだ。
「頭領は関係ありません」
「私たちが勝手にやっているんですよ」と、雪衣が言い添える。
「そうか――」
秀鳳の答えからは安堵ではなく落胆が感じられた。
雪衣が眉をあげる。
「――秀鳳どのは、柘榴庭どのに密かに調査をしてもらいたいのですか?」
この場合の「柘榴庭」とは外宮妓官の頭領たる安飛燕を指す。
秀鳳はぐっと押し黙ったが、じきに諦めたようなため息をついた。
「できることなら」
「――すると、もしかして、仔猫殺しの犯人として師姉ご自身が疑われているのですか?」
月牙は思わず訊ねた。
秀鳳が顔をあげて微苦笑する。
「雪衣どのも大層聡明だが、師妹もなかなか敏いな。その通りだ。御殿付きの内宮妓官というのは、紫薇殿にとってはいわばよそ者だからな」
「よそ者?」
「ああ。西院の貴妃さまがたの御殿の奥向きに仕えているのは、基本的にはご生家から伴っていらした方々なのだ」
「近侍さまや女嬬どの、薬師どのに御祐筆までね」と、雪衣が言い添える。「紅梅殿から出向く主計主典さまも数少ないよそ者だよ」
「しかし、主計主典さまは御殿に常駐なさるわけではないからな」と、秀鳳がため息をつき、疲れ切ったように肩を落としてしまう。
「経験を積んだ妓官として情けない限りだが、この頃御殿にいると針の筵でな。誰もが私を警戒し、つねに監視しているような気がするのだ。奥向きに入ろうとしたら薬師どのに大声で叫ばれたし」
「それは――」
月牙は反応に窮した。
「大変ですね」
もはやそうとしか言えない。
雪衣が気の毒そうにつづける。
「秀鳳どのは、あの朝地面が濡れているのを見た覚えはないのだって」
「それに、あの晩内宮で門衛や宿直に立っていた同輩たちは、誰も媽祖堂の扉を閉めてなどいないというのだ」
「じゃ、猫はやっぱり誰かが持ち込んだってことになりますね?」
「そうなんだよ」と、雪衣。
「だけど、どうやって? 夕方に媽祖堂の扉は閉まっていたし、夜もずっと閉まり続けていた。そして朝開くと猫の躯があった。そんなことってありえる?」
「当然ありえない」
秀鳳が沈んだ声で応えた。
「だから我々が疑われているんだ」
答えたきり深くうつむいてしまう。
月牙は何とか元気づけたかったが、何と言っていいのか分からなかった。
雪衣はとみると、それが癖なのか、顎先に手を当て、軽く首を傾げて考え込んでいる様子だった。
秀鳳の膝の上で仔猫がもぞりと動く。
そのとき、雪衣が眉間に深いしわを寄せて唸った。
「……どうしたの雪?」
「いや、今ちょっと嫌な感じの仮定を思いついちゃってね」
「どんな?」
訊ねると、雪衣はさっと左右を見回し、しばらく聞き耳を立ててから、聞き取りにくいほどの小声で囁いた。
「つまりさ、仔猫を殺したのは紫薇殿の奥仕えの方々全員なんじゃないかってこと」
「え?」
秀鳳が目を見開く。
「どういうこと?」
「だからさ、奥向きの方々が秀凰どのを警戒しているのは、犯人だと思っているからじゃなくて、自分たちが猫を殺した証拠を隠そうとしているためなんじゃないかって、そう思っちゃったんだ」
「いやそんな、まさか」と、秀鳳がうろたえる。「紫薇殿の方々がわざと猫を殺して、それを石楠花殿の仕業だと言い募っていると? さすがにそんな悪辣なふるまいをなさる方々だとは――」
「いや、でも、そう考えれば、ずっと扉が閉まっていた媽祖堂の内に猫がどう持ち込まれたかって謎はすぐに解けるんですよ」と、雪衣が眉をよせながら続ける。「つまりね、夜のあいだ、猫の躯なんかは影も形もなかったんですよ。躯は朝、扉が開いたあとで、花と水を供える女嬬どのの手で持ち込まれたんです。たぶん、水の鉢のなかに入れてね」
「あ」
月牙は思わず声をあげた。
「あ、ああ!」
秀鳳も声をあげる。
「だから躯は濡れていたのか。溺れたからではなく」
「ええ。そう考えればすべてのつじつまがあう。唯一残った謎は、なぜそんなことをしたのかってことだけです」
「なぜ、か」
秀鳳が眉間の皴を深める。
そのとき、池の向こうから銅鑼の音が響いてきた。
「しまった、私はすぐ戻らなければ!」
真っ先に我に返ったのは秀鳳だった。膝の上の仔猫を大切そうに抱き上げて雪衣に渡してから、簡潔な礼を残して石段を駆け上がっていく。
「宮仕えは辛いね! じゃ、月、また明日。関係者一同誰のためにも、早いところ謎が解決するといいね!」
雪衣も口早に言い置いて太鼓橋を渡っていく。
月牙はその背を見送ってから四阿をあとにした。




