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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死の呪いに囚われた伯爵子息が婚約者のしあわせを願い、時を遡って婚約を無かったことにするお話

 その部屋は悲しみと諦めが支配していた。

 ティムリープ伯爵家の一室。そのベッドに横たわり診察を受けるのは、伯爵子息クルスイード・ティムリープだ。

 銀色の髪に青の瞳。本来は美しかっただろう整った顔立ちは、しかし今はやせ細り、顔色も青白い。既に死相が見えていた。

 

 医師は力なく首を左右に振った。クルスイードはもう余命一か月を告げられている。診察の結果は、絶望を再確認するだけのことでしかなかった。

 だが、そんな沈み込む空気を打ち破る者がいた。

 

「失礼いたします。クルスイード様にご報告があります」


 そう言って部屋に入ってきたのは一人の令嬢だった。

 肩まで届く、波うつ髪の色は金。その琥珀色の瞳は、強い意思を秘めて輝いていた。

 彼女は子爵令嬢ルプスフィア・ビューティビスト。伯爵子息クルスイードの婚約者である。

 ティムリープ伯爵夫妻に一礼すると、ルプスフィアその間も惜しむようにクルスイードの元にかけよった。

 

「クルスイード様、病の原因がわかりました。これは病魔ではなく呪いなのです。

 今、呪いの源を探させていますので、いましばらくご辛抱ください。このルプスフィアが、きっとあなたを苦しみから救って見せます」


 ルプスフィアは決意に満ちた顔で告げた。その瞳の輝きは静かながらも攻撃的で、獲物を前にした獣を思わせる鋭さがあった。


 彼女の希望に満ちた言葉は、しかし、この部屋を支配する悲しみを吹き飛ばすことはできなかった。

 クルスイードは困ったように微笑みを浮かべた。医師は顔を伏せた。ティムリープ伯爵は嗚咽を漏らす妻抱きしめた。

 自分の告げた吉報を受け、喜ぶどころか悲しみを見せる周りの様子に、ルプスフィアは戸惑った。


 クルスイードはよろよろと身を起こし、父に向けて問いかけた。

 

「お父上。彼女に事情を説明してもいいでしょうか?」

「……うむ、そうだな。知らせねばなるまい」


 深刻そうに示し合わせるクルスイードとティムリープ伯爵。

 そんな親子のやりとりが理解できず、ルプスフィアは困惑したように問いかけた。


「クルスイード様……いったいどういうことなのですか?」

「せっかく調べてくれたのに、すまない。自分の病が呪いによるものだというのはわかっていたことなんだ……」


 荒い息を吐きながら、しかししっかりとした口調で、クルスイードはティムリープ伯爵家の成り立ちについて語り始めた。

 

 100年以上昔、突如世界に魔王が現れた。魔王は魔族と魔物を集め軍を結成すると、王国に攻めてきた。

 激しい戦いが続き、王国が滅亡の危機に瀕した時、ついに勇者が現れた。勇者はその比類なき力を揮い、次々と魔王軍の砦を攻め落としていった。

 その勇者の仲間の一人にティムリープ家の祖先がいた。彼は時間を操る特殊な魔法を使うことができた。伝承によれば、時間の魔法によって勇者のピンチを幾度となく救ったと言われている。

 

 勇者の快進撃は続き、ついに魔王は打ち滅ぼされ、王国は平和を取り戻した。

 祖先は勇者の勝利に尽力した功績を認められ、貴族として爵位を与えられた。これがティムリープ家の始まりである。

 しかし、ティムリープ家の祖先の活躍は、幸福ばかりをもたらしたわけではなかった。

 

 生き残った魔王軍の幹部の一人、魔族インティミダートが、勇者に勝利を導いたティムリープ家の祖先を恨み、呪いをかけたのだ。その上、どんな呪いなのかを書き記した書状をティムリープ家に送りつけてきた。悪意に満ちた示威行為だった。

 

「君が見つけたという呪いの源は、魔族インティミダートだ。未だ生き続ける魔王軍の元幹部。危険な魔族だ。絶対に近づいてはいけない」

「魔王軍……!? そんな昔からある呪いなのですか?」

「そうだ。そして、魔族インティミダートの書状に記された呪いは二つあった。

 一つは『見せしめの呪い』。ティムリープ家の人間の誰かが呪いを受け、徐々に衰弱して苦しんで死ぬことになる呪いだ。いつ誰が呪いを受けるかわからない。先の見えない恐怖を刷り込むことが、魔族インティミダートの狙いらしい。

 僕の身体を蝕んでいるのが、その呪いなんだ……」

「呪いとわかっているなら、防御魔法や魔道具で防げないのですか?」

「魔族インティミダートの呪いは強力だ。ティムリープ家が過去幾度も試みたどんな防御魔法も、防ぐことはかなわなかった」

「そんな……!」


 ルプスフィアは胸元から下げた懐中時計をぎゅっと握った。

 かつてクルスイードが贈った物だ。彼女はいつも持ち歩き、大事にしてくれている。

 そのことを嬉しく思いながら、しかしクルスイードには、彼女に伝えなければならない残酷な事実があった。


「どうか聞いてほしい。もう一つの呪いが問題なんだ。これは君にも大きく関係するものだ。

 それは『救いを断つ呪い』。これは呪いを知る者から、魔族インティミダート討伐を依頼された人間にかかるものだ。この呪いはかかった途端に死に至る。

 かつて対策のために王家は魔族インティミダートの討伐隊を編成した。呪いに対する装備や防御魔法も整えていた。それなのに、捜索に向かった途端、討伐隊はバタバタと倒れた。呪いのことを知らせずに編成した討伐隊も、同じように呪いの餌食になったんだ」

 

 『見せしめの呪い』により、ティムリープ家の人間はいつ誰が呪いにかかるかわからない不安に苛まれる。呪いに罹った者は徐々に衰弱して死に至る。これは死ぬまでの苦しむ姿を見せつけられるということだ。

 これに対抗しようと討伐隊を出せば、今度は『救いを断つ呪い』で阻まれる。

 魔族インティミダートは、ティムリープ家を滅ぼすことなど考えていない。勇者に協力した者が末代までも苦しむ姿を見せつけ、人々の心を挫くつもりなのだ。実に執拗かつ邪悪な呪いだった。

 

「僕が『見せしめの呪い』にかかるとは限らなかった。外から来た君がかかる可能性も低かった。君を不安にさせたくなくて、黙っていたんだ。せっかく調べてくれたのに申し訳ない……」


 クルスイードはそう話を結ぶと頭を下げた。

 ルプスフィアは拳をぎゅっと握りぶるぶると震えると、たまりかねたように叫んだ。


「なぜそのことを話したのですか!? 知らないままに探り続ければ、わたしは呪いを受けなかったかもしれません! そうすれば、あなたを救えたかもしれないのに……!」

「『見せしめの呪い』の呪いの条件は、実のところ正確にはわかっていないんだ。たとえ知らされなかったとしても、君はティムリープ家とつながりを持っている。本格的に魔族インティミダートを探し始めたら、いつ命を落とすかわからない」


 ルプスフィアは崩れ落ち、ベッドに縋りつくと、声を殺して泣いた。

 クルスイードから語られたことにより、彼女は完全に呪いの発動条件を満たしてしまった。

 彼女は貴族の令嬢だ。魔法の扱いにも長けている。自分が魔力的に呪いが成立しかけていることを感じ取っているはずだ。

 

 もう魔族に立ち向かうことはできない。そんなことをすれば魔族の下にたどり着く前に、呪いによって死んでしまうことだろう。

 クルスイードを救えないという事実が、彼女に膝を屈しさせたのである。

 

「ありがとうルプスフィア。君は優しいね。そんな君が、恐ろしい魔族に立ち向かうなんて、僕は嫌なんだ。それにもう、そんなことをする必要は無いんだ。君との婚約は『なかったことにする』」


 その言葉に、ルプスフィアは伏せていた顔を上げた。


「まさか、婚約を解消なさるつもりですか? そんな……やめてください! あなたを救うことができないのなら、せめて最後の時までおそばにいさせてください!」


 彼女の顔は涙に濡れていた。悲しみに満ちた瞳に見つめられ、クルスイードを顔をゆがめた。


「ああルプスフィア。君にそんな悲しい顔をさせたくない。僕の死が君の未来に暗い影を落とすなんて、あってはならないんだ。だから全て、『なかったことにする』んだ」

「……いったい何をするおつもりなのですか?」

「ティムリープの一族は、一生に一度だけ、自分の魂を過去に送ることができる。時を遡れるんだ。僕はこれから時間を遡って婚約前に戻り、君との婚約を結ばないことにする」


 ルプスフィアは驚愕に目を見開いた。時間を遡ることなど信じ難い話だった。

 ティムリープ伯爵の方に目を向けると、彼は厳粛な顔で息子の覚悟を受け止めていた。

 それでルプスフィアはようやく、クルスイードの言葉が虚言でないことを理解したようだった。

 クルスイードはゆっくりとうなずいた。

 

「さようなら、ルプスフィア。君は優しくて、素敵な令嬢だった。君と婚約者として過ごした思い出があるからこそ、僕は死を受け入れられる。僕と関わらなければ、君はきっと幸せになれる」

「ま、待ってください! 時間を遡る能力なんて力があれば、なにか解決する術があるはずです。それを探しましょう!」


 ひたむきに告げるルプスフィアに対して、クルスイードは力なく首を振った。


「ダメなんだ。時を遡る事ができるのはせいぜい数年。かつて一族の者が何度となく試み、ことごとく失敗した。僕には魔族を打ち倒せるほどの魔力もないし、戦いの才能もない。『救いを断つ呪い』のせいで人に頼ることもできない。だから無理なんだ」

「でも、でも……!」

 

 クルスイードは愛する婚約者の頬に手を当てた。温かかった。そのぬくもりに泣きそうになった。


「ルプスフィア、今までありがとう。君はどうか、しあわせになっておくれ。死の運命から逃れられない僕にとって、それだけが望みなんだ……」


 そして、クルスイードは『秘術』を発動させた

 魂に刻まれた、一度だけ使用可能なティムリープ家に伝わる『秘術』。

 時に干渉する『秘術』の力で、その魂は過去へと遡っていった。

 

 

 

 クルスイードは気づくと屋敷の自室で机に向かっていた。一人だった。ルプスフィアも両親も、医師もいなかった。

 頬に手を当てる。げっそりと痩せていたはずの頬はふっくらとしている。立ち上がり、姿見に向かう。身体が軽い。呪いに侵されていた身体は、歩くだけでも苦痛で彼を苛んだ。しかし今は、何の痛痒もない。

 姿見に映った姿は、記憶より少しばかり幼かった。


 次に確認したのは日記だ。毎日欠かさずつけていた日記の最新の日付は、記憶より三年余り前となっていおり、これから半年後に入学する学園への期待が綴られていた。

 ルプスフィアとは学園に入学すると同時に婚約を結んだ。どうやら意図した通り、彼女との婚約前に時間を遡ることができたようだった。


 執事を呼びつけ父の居場所を確認すると、クルスイードはすぐさま部屋を出た。

 父は執務室にいた。

 

「お前か。どうした、何か用か?」

 

 父はいくつもの書類を検分しているようだった。縁談の釣り書きだ。その中にルプスフィアの名前を見つけて、クルスイードは胸の痛みを覚えた。

 しかし、彼は躊躇ずに告げた。

 

「父上。僕は『秘術』で時間を遡りました。今代の呪いの対象は僕です。縁談は全てお断りするようお願いいたします」


 クルスイードは手短に告げた。ティムリープ伯爵は顔をこわばらせたが、すぐに厳粛な顔つきに戻り、深々とうなずいた。


「よく覚悟を決めて『秘術』を使った。お前のことを誇りに思う」

 

 ティムリープ家の人間は、魂に『秘術』が刻まれる。その存在を一族のものなら感じ取ることができる。息子が『秘術』を使ったことは、ティムリープ伯爵から見れば明白だった。

 伯爵は手短な言葉だけで、息子の覚悟を察したのだった。


「クルスイードよ。これからどうする? 呪いが顕れる時まで、お前は好きに過ごすといい。可能な限り望みはかなえよう」


 伯爵は微笑みを浮かべ、愛する息子に優しい声で問いかけた。

 覚悟はできている。それでも、避けられぬ死を前にした息子に対して最後の望みをかなえてやりたいと思う親心があった。


「……不幸な縁談をなくすことが僕の望みでした。それはたった今、叶いました。

 でも、呪いに負けてふさぎこむのは嫌です。その時が来るまで、学園に通って当たり前の日常を過ごしたいと思います」


 父は立ち上がると、息子を抱きしめた。

 こんなふうに抱きしめられるのは、久しぶりの事だった。およそ三年半の未来。呪いが発動してこの世を去れば、こうして父に抱きしめてもらうこともできなくなるのだ。クルスイードはこらえきれず、嗚咽を漏らした。

 

 

 

 入学の日がやってきた。校門の前に立ち、クルスイードは寂しさを感じていた。多くの新入生たちが校門をくぐっている。人は多い。それでも寂しく思えるのは、傍らにルプスフィアがいないからだった。

 

 時間を遡る前。一度目の入学式。婚約したばかりのルプスフィアと共に校門をくぐった。あの時はお互いどう接していいかわからず、ぎくしゃくしていた。目に映るのは彼女のことばかりで、ろくにあたりを見る余裕もなかった。

 

 改めて眺める学園初日の校門。学園へ向かう新入生たちはみな未来への希望にあふれた顔をしている。そんな中にいながら、未来の閉ざされた自分はどんな顔をしているのだろうか。

 クルスイードは頭を振って嫌な考えを振り払った。死は受け入れた。残された時間を、呪いに怯えて過ごすのは嫌だった。だから学園に通うことにしたのだ。


 決意を新たに踏み出そうとしたとき。彼の視界を金色の輝きがよぎった。

 肩まで伸びた波うつ金の髪。琥珀色の凛とした瞳。ルプスフィアだ。彼女は颯爽と校門をくぐっていた。クルスイードに目を向けることすらなかった。

 彼女との初めての出会いは縁談の席だった。それまで接点は無かった。今の彼女は、クルスイードのことを知りもしないだろう。

 彼女が自分のために悲しむことは、きっとないだろう。クルスイードはそのことに安堵するとともに、喪失感に胸を痛めるのだった。


 

 

 学園に入学してから一か月ほど過ぎた。驚くほどに穏やかに時間は過ぎていた。

 学園で受ける様々な授業。友人たちとの他愛ない語らい。昼休みの食堂の喧騒。全て見知ったものだった。毎日何度も見てきたものだ。二度目の今、退屈を感じるかと考えていた。

 

 だが、そんなことはなかった。なにもかもがかけがえのないものだった。

 3年後の死を前にして、失われる日常の大切さを知った。当たり前の日々がこんなにも輝きに満ち溢れていたことを、クルスイードは初めて知った。


 日常を大切と感じながら、それでも友人との交友は最低限にとどめた。3年後に確実な死が自分と関わりを持つ者は少ないに越したことはない。

 人とかかわりを断つくらいなら、学園に通うべきではないことはわかっている。だからと言って閉じこもっていては、心まで敗北したようなものだ。その時が来るまで、当たり前のように生きることこそが、呪いに抗う唯一の道だ。

 だが、クルスイードはやがて気づいてしまった。学園に通おうと決めたのは、そんな綺麗な理由ではなかったのだ。

 

 学園のそこかしこに、ルプスフィアとの思い出があった。


 朝、学園寮を出る時間を合わせて、二人で通うようにした通学路。

 クラスは違ったが、選択授業が重なり、隣の席に着いて肩を寄せ合った教室。

 語り合いながら食事を楽しんだ食堂。

 話に夢中になるあまり、日が暮れても気づかず、体が冷えてしまい二人そろってくしゃみをした中庭。


 あまりに温かで、やさしくて、手放しがたい思い出の数々。少しでもその思い出の近くにいたくて、学園を求めていたのだ。

 

 学園ではルプスフィアの姿を見かける。一度目の学園生活とは違う、見知らぬ彼女。あの琥珀色の瞳が彼を写すことはなく、凛とした明るい声で笑いかけてくることもない。

 

 避けなければならないと、頭ではわかっている。それなのに、学園に通っている。

 自分から別れを告げたというのに、想いを断ち切れない。自分がこんなにも未練がましい人間だとは思わなかった。クルスイードは自分を恥じた。それでも、学園で過ごす時間を手放すことはできなかった。

 

 

 

 学園に通い始めて半年が過ぎた。

 ルプスフィアを求める気持ちは、前ほど強くはなくなっていた。

 気持ちが変わったわけではない。かつて彼女へ向けた愛は、胸の奥でひっそりと、大切な思い出と共にある。

 何が変わったかと言えば、状況が変わったのだ。

 ルプスフィアは、かつての彼女ではなくなっていったのだ。

 

 かつての彼女は、やや勝気なところがあったものの、控えめな令嬢だった。手先が器用で裁縫が得意だった。その器用さは魔法においても発揮され、細かな魔力操作を得意としていた。

 取得する選択授業は学術的なものが多かった。それはクルスイードにとっても興味ある分野だった。選択授業で一緒の教室になった時は隣りに座って学んだ。講義が終われば、その内容についてよく語り合ったものだった。

 

 だが今のルプスフィアは違った。選択授業で同じ教室で見かけることは無くなった。噂によれば「攻撃魔法・応用」「防御魔法・応用」「実戦魔法演習」といった、戦闘向けの選択科目ばかりとっているらしかった。

 ルプスフィアの実家であるビューティビスト家はもともと戦闘に長けており、その武勇で貴族となった家系だ。多くの士官を輩出している。過去、家督を継ぐことのない三男が、市井の冒険者として大成したという話もあった。

 家のことを考えれば、戦闘向けの選択科目をとるのはおかしなことではない。だが、自分の知るルプスフィアとは随分違うことに、クルスイードは違和感を覚えた。


 

 彼女の研鑽の成果は、学年末に行われた魔法闘技会で最大限に発揮された。

 魔法闘技会は学園で年に一度開かれる実戦形式の大会だ。参加者は一対一で戦い、魔法の技を競い合う。

 参加は任意だった。以前のルプスフィアが参加したことは無い。クルスイードにしても、参加しようと思ったことすらなかった。クルスイードとルプスフィアにとって、魔法闘技会とは観戦するだけのイベントだった。

 だが今回、ルプスフィアは一年生にして参加したのだった。

 

 さすがに心配になり、クルスイードは見に行った。近づくべきではないと頭ではわかっている。だが彼女が怪我でもしたらと思うと、居ても立っても居られなくなったのだ。

 

 だが、その心配はまったくの杞憂だった。

 

 ルプスフィアが使ったのは、彼女のビューティビスト家に伝わる固有魔法『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』だった。

 分類としては獣化魔法だ。術者が身体の一部を獣に変化させ、人ならざる力を揮うというものだ。

 だが、『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』はただの獣化魔法ではなかった。ビューティビスト家に伝わる特殊な契約魔法により、神代の時代に生きたとされる偉大な原初の獣の力を借りるというものだった。

 

 彼女はその四肢を獣と化した。

 たくましくしなやかな足。腕は倍は太くなり、その指先から伸びる爪は一本一本がナイフのように鋭い。頭にはとがった三角形の耳。膝裏まで届く尻尾は太く、先端はとがっている。四肢を覆う毛並みは彼女の金髪と同じ、輝ける黄金色だった。

 その獰猛でありながら気高い姿から想起されるのは狼だ。ルプスフィアは『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』により、狼の力を得たのだ。


 その強さは凄まじいものだった。

 とにかく速く、そして力強かった。

 一瞬で相手に肉薄し、爪を一振りするだけでほとんどの勝負は決まった。どんな堅固な防御魔法も、ルプスフィアの爪にかかっては薄紙同然だった。

 

 身体強化の魔法を用い、魔力を流した剣を武器にする者もいた。だがルプスフィアにはまるで及ばない。どれほど速度を強化しようとルプスフィアの動きにはついていけなかった。岩すら砕く剛力もたやすく止められた。並の攻撃魔法なら切り裂く魔力剣も、彼女の爪の鋭さの前には棒切れ同然だった。

 

 接近戦では勝ち目は無いと、遠距離から広範囲の魔法を放つ者もいた。だがルプスフィアの爪は魔法そのものを切り裂いた。魔法による業火も暴風も、彼女の爪の前には霧散するしかなかった。

 

 魔法闘技会は例年、三年生が上位を占める。だがルプスフィアの強さはもはや学生のレベルになかった。圧倒的な強さで、苦戦することすらなく優勝した。

 

 優勝台に立つルプスフィアは、勇ましく、しかし可憐だった。だがそれはかつて愛した婚約者の姿ではなかった。

 その姿を目にしたクルスイードが胸に抱いたのは、冷たい安堵だった。

 

 ルプスフィアはこんなにも輝かしい才能を持っていたのだ。自分との婚約は、きっと彼女を縛り付けていただけに違いない。

 もう、自分の愛したルプスフィアはいない。クルスイードはそのときようやく、自分の中にあった未練を断ち切れたと思った。

 

 ルプスフィアの魔法闘技会での優勝は、それが最初で最後だった。

 二年生に上がると、彼女を学校で見かけなくなった。しばらくして、彼女が休学届を出していたことを知った。

 クルスイードは寂しいとは思わなかった。ルプスフィアはきっと、学園生活より大切なものを見つけたのだ。自分の選択は間違っていなかったのだと、むしろ誇らしくさえ思えたのだった。

 

 

 

 三年生に上がったころ、クルスイードは学園に休学届を出し、家にこもるようになった。

 そろそろ呪いの症状が出始める頃だった。周りに心配をかけるより前に、学園生活をやめることにしたのだ。二年間でもう十分満足した。未練は無かった。

 

 両親たちは気遣ってくれた。使用人たちも事情の詳細は知らされなくても、察するものはあるらしく、心を尽くして世話してくれた。

 しあわせだと思った。報われていると思った。それでも、迫り来る死の恐怖には押しつぶされそうになった。

 

 そろそろ呪いの効果が顕れる頃だったが、クルスイードの体調に変化はなかった。時間を遡る前とはいろいろと行動を変えた。ルプスフィアと婚約しなかったことも大きいだろう。それでも呪いの対象自体は変わらないはずだった。

 

 ティムリープ家の人間も黙って呪いを受けていたばかりではない。時間を遡り抗った者もいた。だが誰一人として呪いから逃れられた人間はいなかった。時間を遡るのは数年が限度で、その間にどれだけ行動を変えようとも、呪いの標的が変わることは無かった。

 記録によれば、時間を遡り行動を変えたことで、発動する時期が変わることはあるようだった。呪いの発動が早まらなかっただけ運がいい。クルスイードはそう考えることにした。

 

 恐怖から目をそらすため、趣味だった時計作りに没頭した。

 ティムリープ家は時間に関する魔法を有しているためか、時計にこだわる者が多い。クルスイードの場合、時計の精密で規則的な構造に興味が向いた。幼い頃から時計を分解しては組み直したりして遊んでいた。今では町の時計職人にひけをとらないくらいの技術を有していた。

 

 部品を取り寄せ、様々な時計をくみ上げた。いくつもの時計を取り寄せ、分解してその構造を学んだ。時計をいじるのは楽しかった。時間はだれにも止められない。死んだ後も自分の作った時計が時間を刻み続けると思うと、少しだけ救われた気持ちになれた。

 

 そうして時計をいじるうち、久しぶりにルプスフィアのことを思い出した。

 婚約して初めて迎えた彼女の誕生日。初めて自分の手で一から組み上げた懐中時計を贈ったのだ。


 ルプスフィアが屋敷を訪れてきたのは、そんなことを思い出していた時の事だった。


 

 

 

 屋敷の庭に設えられた、瀟洒なテーブルとイス。クルスイードはそこで、ルプスフィアと向かい合わせに座っていた。

 屋敷内の応接室で迎えるつもりだったが、彼女の希望で庭で話すことになった。

 

 彼女と婚約者だった頃。長期の休みで実家に帰省した時、よくこの庭で共に過ごした。ティムリープ家の屋敷は街から少し離れた場所にあり、景観が美しい。特に、切り開かれた庭から眺める、森と山の織り成す景色が好きだと、ルプスフィアはよく口にしていた。

 

 だが時間を遡った今、クルスイードと話すことすらなかったルプスフィアにその記憶もないはずだ。彼女にとってほとんど初めて見るはずの光景だった。

 しかし今の彼女は特に景観を気にした様子もなく、ただテーブルに置かれたティーカップを見つめている。

 

 彼女の服装は、ふんだんにフリルをあしらった豪奢な黄色のドレスだった。袖が長い。先が大きく膨らんでおり、手先までも覆ってしまっている。スカートも長く、椅子に腰掛けても足先が見えないほどだった。

 ろくに知らない貴族の家を訪れるにしては、随分派手なドレスだった。まるで王宮で執り行われる晩餐会に赴く高位貴族のような装いだ。

 なにより気になるのは帽子だ。これまたフリルをあしらったつば広の帽子。令嬢にはあるまじきことに、席に着いたのに帽子を被ったままだ。通常は家に入った時点で執事なりメイドなりに預けるのがマナーだ。

 

 クルスイードの知るルプスフィアは、控えめな性格で、どちらかと言えば装飾の少ない清楚なドレスを好んでいた。

 学園の魔法闘技会で見せた『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』による強さ。身にまとう派手すぎるドレス。

 自分の婚約者であった彼女とは別の人間になってしまったのだと改めて実感する。

 しかしそうすると、何の用があってティムリープ家を訪れたのかがわからない。

 時間を遡って以来、彼女とは言葉を交わしたことすらないのだ。


「それで、当家にいらっしゃったご用向きはなんでしょうか、ルプスフィア・ビューティビスト子爵令嬢」


 先ほど、玄関で出迎えた時に最低限の挨拶は済ませた。クルスイードは用件を切り出した。

 ルプスフィアが子爵令嬢なのに対し、クルスイードは爵位が上の伯爵子息だ。物怖じする理由はなかった。


「はい、実は……」

「あっ!?」


 クルスイードは思わず驚きの声を上げてしまった。

 ルプスフィアの顔の異変に気付いたのだ。琥珀色の瞳の輝きは変わらない。しかし見えているのは左の瞳だけだった。

 気まずさから顔を直視できず、帽子のつばで隠れていたこともあり、気づかなかった。彼女は右目に幅広の布を巻いていたのだ。

 

「し、失礼しました。右目をどうかされたのですか?」

「これはちょっとした不注意でお見苦しい状態になってしまい、隠しているのです。ご不快かと思いますが、どうかご容赦ください」

「ああ、すみません。女性に対して不躾な質問をしてしまいました」

「お気になさらないでください。こちらこそ事前に説明しておくべきでした。申し訳ありません」


 焦るクルスイードに対し、ルプスフィアは淡々と返答した。彼女は予めどう答えるか決めていたようだった。

 貴族の令嬢が顔の一部を隠すというのはただごとではない。美しさが尊ばれる貴族社会だ。顔に小さな傷を負った令嬢が、傷跡が完全に消えるまで引きこもるというのも珍しくない。

 心配には思ったが、今の彼女とはほとんど他人だ。こちらの爵位は上だが、それを盾に問いただすのは躊躇われた。

 クルスイードはひとまず話を進めることにした。


「話の腰を折ってすみません。それで、今日のご用向きは何でしょうか?」

「はい、クルスイード様に『吉報』をお持ちしました」

「吉報……?」


 ルプスフィアは言葉と共に、バッグをテーブルの上に置いた。そちらも気になっていたものだった。令嬢が持ち歩くにしては不似合いな茶色の大きなバッグだった。そこからはどうも、おかしな魔力が感じられるのだ。

 

 クルスイードも魔法には精通している。魔道具について多少の目利きはできる。あの白いバッグは、おそらく封印系の魔法がかけられているようだ。そこから魔力が漏れ出すとなると、よほど強力な魔道具か魔石でも入っているに違いない。

 

 クルスイードが思案を巡らす間に、ルプスフィアはバッグの口を厳重に縛っているベルトを外していく。するとバッグの封印の効果が消えたのか、封じられていた魔力が漏れ出してきた。

 驚くほど濃密で、震えるほどにおぞましい、あまりにも強大な魔力だった。

 気づけば彼は椅子を蹴って立ち上がると後ずさっていた。無意識の行動だった。理由はわからないがそうせずにはいられなかった。極寒の地に投げ出されたみたいに全身がブルブルと震えた。


 カバンの中から取り出されたのは、握りこぶしほどの大きさの紫色の塊だった。その形は研磨される前の宝石のように荒く、しかしその表面は塗れた輝きを見せ、どこか生物的な質感があった。

 なにより感じるのは、圧倒されるほどに濃密な恐ろしい魔力。そして自分の行動の意味。その理由に思い至るより早く、ルプスフィアは静かに告げた。

 

「こちらは魔族インティミダートの『魔力核』です。わたしがあの魔族を殺した証。

 これでティムリープ家の呪いは終わりました。未来永劫、『見せしめの呪い』がティムリープ家を蝕むことはありません」


 その言葉に、クルスイードはすべての動きを止めた。声すら上げられなかった。まるで理解が追いつかなかった。

 魔族インティミダート。魔王軍幹部の生き残り。勇者を助けたティムリープ家を憎み、恐るべき呪いをかけた魔族。

 ティムリープ家の人間はいつかかるともわからない『見せしめの呪い』に対し、何代にもわたって怯えてきた。その源を断とうとしても、『救いを断つ呪い』のせいで助けを求めることすらできないかった。

 抗うことのできない執拗で邪悪な呪い。

 それが、終わった。呪いが消えた。

 

 言葉だけで受け入れられるようなことではなかった。しかし頭のどこかでは納得していた。時間を遡る前、呪いにかかった時。この『魔力核』から感じられるものと、同じ魔力を身に受けていたのだ。

 強大な魔族と言えど、その力の源である『魔力核』を失って生きられるはずがない。人間で言えば心臓を抜き出されたも同然だ。

 魔族インティミダートは死んだ。それだけは否定しようのない、確かな事実のようだった。


 魔法闘技会でルプスフィアの力は見た。あれはまだ一年生の頃だった。あれから2年近く経った今、彼女はあの頃よりも更に強くなっているのだろう。それならあるいは、魔族インティミダートを倒せたのかもしれない。

 しかしそれでもなお、大きな疑問が残った。震える声で問いかけた。

 

「……どうしてあなたが、ティムリープ家の呪いのことを知っているのですか?」


 時間を遡ってからルプスフィアとは言葉を交わしたことすらない。両親が話すはずもない。魔族インティミダートの呪いは王室から秘匿指定されている。知られれば勇者の栄光に影が差し、人々を大きな不安が襲うことになるためだ。

 ルプスフィアが知る事などありえないはずだった。


「あなたが教えてくれたのです」

「……僕は言っていないはずです」

「時間を遡って以降、あなたはわたしと話すことすらありませんでした。

 でもわたしは、病床に臥すあなたの口から、呪いについて聞いたのです」


 力が抜けた。立っていられなかった。クルスイードは地べたに腰を落とした。

 ありえない。あるはずがない。だが目の前に起きた様々な事実から導き出される答えは一つしかなかった。

 

「『秘術』は僕の魂だけでなく、君の魂までも過去に連れてきてしまったのか……!」


 ルプスフィアは仮に何らかの理由で呪いについて知ったとして、わざわざ魔族に戦いを挑む理由などないはずだ。彼女がいかに強くなっていたとしても、相手は魔王軍の元幹部だ。命がけの戦いになったに違いない。

 しかし、ルプスフィアが以前の記憶を持ったまま時を遡ったとするなら、説明がついてしまう。


 時をめぐる『秘術』についてはわからないことが多い。ティムリープ家の人間であっても、一生に一度しか使えない高度な魔法だ。ろくな検証ができるはずもなかった。予想外の事態はありうることだった。

 

 だがそれは、クルスイードには受け止めきれないことだった。

 クルスイードは『見せしめの呪い』で死ぬことを受け入れていた。そんな彼があえて時を遡ったのは、ただルプスフィアを悲しませたくなかったからなのだ。

 しかし彼女まで連れてきてしまっては、『秘術』を使った意味がない。その事実に打ちのめされるクルスイードに対し、ルプスフィアは構わず話を続けた。

 

「記憶を保ったまま時を遡れたことは幸運でした。過去に遡った時、自分がティムリープ家の呪いを知りながら、『救いを断つ呪い』の対象になっていないことに気づきました。あの呪いは、どうやら魂にまで根づいていなかったようです。

 呪いについて知りながら、呪いの対象にならない。つまり、魔族インティミダートにたどり着くことができるようになっていたのです」

「……それでも、魔族インティミダートの居場所はわからないはずだ。あの魔族は居場所を転々と変えてしまい、追跡の手を逃れてしまうはずなんだ」


 クルスイードは呻くように指摘した。

 ティムリープ家の記録にあった。呪いの発動する前に、短期決戦を挑む方策が講じられたこともあった。しかし魔族インティミダートは危険には敏感なようで、転々と居場所を変えるため特定できなかった。それどころか、各地を巡る冒険者たちから、魔族インティミダートを見かけたという知らせが来たことすらなかった。世間一般では魔王軍にそんな魔族はいなかったとまで言われているくらいだ。

 だからこそ、ティムリープ家は呪いを受けるしかなかったのだ。

 

「時を遡る前。あなたが患っているのが病ではなく呪いであると突き止めました。どうやったと思います?」


 クルスイードはまるで想像がつかず、力なく首を振った。

 ルプスフィアは得意げに微笑んだ。


「『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』です。獣の感覚は人間の何倍も鋭いのです。『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』で『金狼』の力を使い、わたしはあなたにまとわりつく邪悪な魔力を『嗅ぎ取った』のです。その匂いをたどれば、魔族インティミダートの居場所を突き止めることは、そこまで難しいことではありませんでした。短時間とは言え、自分が実際に『救いを断つ呪い』を受けたことも役立ちました」


 そこまで語ると、ルプスフィアは袖口から手を出さず器用にカップを持つと、紅茶をひとくち飲んで一息ついた。

 クルスイードは茫然とするばかりだった。

 

「……居場所はわかっても、当時のわたしは近づくことすらできませんでした。遠くから魔力を感じるだけで分かりました。魔族インティミダートは強すぎて、わたしは弱すぎたのです。だから強くなるべく努力をしたのです」


 思い起こされるのは学園でのルプスフィアの行動だ。

 かつての彼女は勝気なところもあったが、おとなしい令嬢だった。そんな彼女が実戦に即した選択科目を取るようになり、魔法闘技会では一年生でありながら他の生徒を圧倒して優勝までした。

 そして二年に上がってからは休学した。おそらく、学園で学んでいるだけではこれ以上強くなれないと悟ったのだろう。

 

 つまりルプスフィアは、魔族インティミダートを倒すために、これまで行動し続けていたことになる。


「これで種明かしはおしまいです。ご納得いただけました?」


 ルプスフィアはそう話を結んだ。

 しばらく茫然としていたが、クルスイードにも事情はわかった。

 『秘術』の想定外の効果。かつて知っていた彼女とはあまりにも違う行動の数々。すべてわかった。

 そしてわかったからこそ、新たな疑問が浮かび上がってきた。


「……魔族インティミダートがどうして倒されたのかはわかった。でも、どうしてもわからないことがあるんだ」

「なんでしょう?」

「なぜだ……なぜ君はここまでしてくれるんだ?」


 その言葉に、ルプスフィアの笑顔が固まった。これまで椅子に座り落ち着いていた彼女が、初めて立ち上がった。

 強大な魔力が立ち上った。人間の魔力とは思えない。魔族インティミダートすら凌駕するほどに強大で、しかし気高く清浄な魔力だった。

 だがいかに邪悪なものではないとはいえ、強大な魔力には変わりなかった。クルスイードは荒れ狂う海に投げ込まれた木の破片のような気持ちになった。

 

「ふざけないでください! そんなのっ! あなたを愛しているからに決まっているじゃありませんか!

 何が『僕と関わらなければ、君はきっと幸せになれる』、ですか!? 愛するあなたを失ってしあわせになる方法なんて、どこにあるって言うんですかっ!?」


 投げかけられる叫び。その迸る魔力以上に、その言葉がクルスイードの心に響いた。

 そうだ。当たり前のことだった。

 幸せになってほしかった。彼女のことを想うからこそ、時間を遡るという決断をしたのだ。でもそれは、彼女から向けられる愛情を蔑ろにした行いだったのだ。

 地面にへたり込んでいたクルスイードはすぐさま立ち上がった。

 

「すまなかった。僕が間違っていた」


 クルスイードは深々と頭を下げた。誠意を込めた謝罪の姿だった。

 強大な魔力の迸りを前にしながら、その身体は震えもしない。今の彼にとってはそんなものより、愛する女性を傷つけてしまったという後悔が大きく勝っていたのだ。

 ルプスフィアの魔力は急速に収まった。


「あなたと話すと、いつ呪いの発動条件にひっかかかるかわかりませんでした。ずっと知らないふりを続けるのは、とても辛かったです。

 でも、ああ……やっと、言えました。そしてあなたも謝ってくださいました。わたしはそれで満足です」


 その言葉を受け、頭を上げるとルプスフィアの顔が見えた。さっぱりとした笑顔を浮かべていた。


 ルプスフィアの抱えていた事情は驚くことばかりだった。だがようやく事情が飲み込めると、クルスイードの胸の中に温かな気持ちが湧きだしてきた。

 ルプスフィアは三年以上もその力を磨き上げ、命がけで戦い、そしてティムリープ家を忌まわしい呪いから救ってくれたのだ。

 これほどの恩に対し、どうすれば報いることができるのか想像もつかない。

 あふれ出る気持ちはとても言葉で伝えられそうになかった

 クルスイードはルプスフィアの元に歩み寄ろうとした。

 だが、その歩みはすぐに止められることになった。


「近づかないでください」


 言葉と共に手を上げて、ルプスフィアはクルスイードの動きを制した。


「やはり、愚かな僕のことを許せないのか……?」

 

 辛く思えたが、納得もしていた。たった一度の謝罪で許されるとは思わなかった。

 だが彼女の顔に浮かんだのは、怒りや拒絶ではなく、悲しみだった。


「……違います。あなたのことを愛しています。だからこそ、わたしはあなたから離れなければなりません」

「それはどういうことなんだ?」

「わたしは……貴族ではなくなってしまうのです」


 そう言って、ルプスフィアは帽子をとった。

 久しぶりに見る金髪には、異物があった。

 彼女の頭からちょこんと、狼の耳が突き出てた。


 だがそれはおかしなことだった。

 

 『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』は獣の力を宿す魔法だ。その使用時にはこのように狼の耳が出る。クルスイードもかつて魔法闘技会で目にしていた。

 先ほどは強大な魔力をほとばしらせた彼女だったが、今は魔法を使っている気配が無い。それなのに狼の耳が生えたままなのは異常なことだった。

 

「強くなるために『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』を使いすぎました。もはやわたしは、人に戻ることができなくなったのです」


 そう言いながら、ルプスフィアは袖をまくった。彼女の腕は金色の毛皮に覆われ、指先からは鋭い爪が伸びていた。

 そこでようやくクルスイードは思い至った。おそらく彼女はクルスイードの屋敷に来た時から獣の姿だったのだ。それを隠すためにこんなに派手なドレスを着ていたのだ。

 フリルで飾られたそのドレスでは、その下にある体型がわかりづらい。手元まで覆う長袖も、足元まで隠れる長いスカートも、きっと獣と化した四肢を隠すための物だったのだ。

 

「わたしの家、ビューティビスト家では、『獣神(ビースト・)契約(コントラクト)』を使いすぎて戻れなくなった人間は、家の恥として排除されます。時として殺されることもあるそうです。

 ですが、今のわたしは強くなり過ぎました。歴代最強と言われた父ですら、もはやわたしを殺すことはできません。王国一の冒険者パーティーであっても、死傷者なしにわたしを討伐することはできないでしょう。

 だからわたしは自分から家を出ることを提案しました。父も受け入れてくださいました」

 

 語りながら、ルプスフィアは眼帯を外した。

 その下から現れた右目には、痛々しい傷跡が走っていた。歪な傷跡は、おそらく爪で引き裂かれたもに違いない。その深さからして、右目が光を取り戻すことはもうないだろう。

 ルプスフィアはその傷跡を、獣と化した手でそっと撫でた。

 

「『金狼』は高い再生力を持ちます。この程度の傷、本来なら跡形もなく治せますが、魔族インティミダートが呪いを込めて放った最後の一撃だけは治せませんでした。

 醜いでしょう? でも本当に醜いのは、この傷跡ではないのです」


 ルプスフィアは自分の手をじっと見つめた。金色の毛で覆われ、鋭い爪の生えた獣の手を見つめた。

 

「強くなるために、たくさんの魔物をこの爪で引き裂きました。何匹も、何匹も……何匹も、殺しました! わたしの手はもう拭いようのないほどに血にまみれています……!

 あなたと添い遂げられる貴族の令嬢は、もういなくなってしまったのです」

 

 ルプスフィアは獣の腕で己の身体を抱き、目を伏せた。ひとつしかない琥珀色の瞳は悲しみに濡れていた。

 

「あなたと共に幸せになりたいと願っていました。でも、今のわたしは傍にいることであなたを不幸にしてしまう。すぐにでもここを立ち去るつもりです。だからこの庭での面会をお願いして……」


 その言葉は最後まで言えなかった。

 クルスイードに抱きしめられたからだ。

 

 ルプスフィアは獣の力を宿している。常人に人間に過ぎないクルスイードがいかに不意を突いて迫ろうと、かわすことなどたやすいはずだった。

 だが、クルスイードはあまりにも真っ直ぐだった。獣になり果て、右目に醜い傷跡を刻まれたルプスフィアから目をそらすことなく、彼女の鋭い爪を恐れることなく、ただ真っ直ぐに踏み込んできたのだ。

 あまりに真っ直ぐ過ぎて、ルプスフィアは動けなかったのだ。


「ふざけるな! たった今、君が言ったばかりじゃないか! 君のことを失って、僕はどうやってしあわせになったらいいんだ!」

「でも……でもダメなんです……わたしのような危険な『獣』がそばにいては、きっとティムリープ家は騒乱に巻き込まれます。あなたも辛い目に遭うことでしょう……」


 彼女の懸念が正しいことは、クルスイードにも理解できた。

 ティムリープ家は時の魔法を扱う伯爵家だ。その力を危険視する貴族は少なくない。そこに魔王軍の元幹部を単独で撃ち滅ぼすほどの力を有したルプスフィアが加われば、貴族社会の力関係は大きく崩れることになる。派閥間の争いは激化し、ティムリープ家はその渦中で苦しい状況に陥るに違いない。


「知ったことか! 君は僕を助けてくれたんだ! 一族を救ってくれたんだ! その恩に報いるためなら、ティムリープ家の人間はどんな困難だって受け入れる!」

「嫌です! ダメなんです! わたしがそばにいることであなたが不幸になるなんて、耐えられないんです!」


 ルプスフィアの声は、途中から涙交じりになっていた。

 クルスイードは震えた。胸の中にいるこの少女は、ティムリープ家の人間を呪いから救ってくれたというのに、何の報酬も受け取るつもりはないのだ。獣と化し、その手を血に染めたというのに、何も求めないのだ。

 ただクルスイードの苦しみを取り除くことしか考えていない。そのために、ただ一人で不幸を背負い込み、立ち去るつもりでいるのだ。

 絶対にこの手を離してはならない。二度と彼女と離れたりしない。そう心に決めると、自然となすべきことがわかった。クルスイードはルプスフィアを抱きしめたまま、彼女の目を見つめ、決然と告げた。


「わかった。それなら駆け落ちしよう。誰も僕たちのことを知らない遠い国に行って、家の名を捨てて二人で暮らすんだ」

「そんな夢みたいな話……! あなたは何も知らないのです!

 わたしは強くなるため偽名を使い、冒険者として討伐依頼をこなしてきました。必死に生きる人々の暮らしを見てきました。

 貴族として育ってきたあなたが、平民としてやっていけるわけがありません!」

「平民になるのが大変なことだと言うのなら、むしろ望むところだ! 僕は苦労しなければならない。僕を救うため身を尽くしてくれた君と共にいるために、どんな苦労も受け入れなくちゃならないんだ!」


 クルスイードの語ることは夢物語だ。綺麗ごとだ。

 それがわかっていながら、しかしルプスフィアは返す言葉が見つけられなかった。

 クルスイードの語る声は、あまりにもゆるぎなかった。どんな困難が待ち受けようと、きっと乗り越えてしまう。そう思わせるものがあったのだ。


「どちらかが犠牲になってはいけないんだ。僕たちは、二人でいっしょにしあわせにならなくちゃいけないんだ」


 迷いなく言い切られて、遂にルプスフィアは観念した。


「そうでしたね……あなたはわたしを悲しませないためだけに、時を遡ってしまうほどバカな人でしたね……」


 はあっと大きくため息をついた。

 諦めたような、安堵したような、それはそんなため息だった。

 ルプスフィアはやわらかな微笑みを浮かべた。


「でも、わたしは……そんなあなたが、大好きなんです」


 ルプスフィアはそっと、獣の腕で、愛する人を抱きしめた。

 クルスイードもまた、ぎゅっと彼女を抱き返した。

 お互いを確かめ合うように、二人は抱きしめ合った。





 ティムリープ家の呪いが解けてから数年後。

 王国から遠く離れた辺境の国。その国の商業都市の一つ。様々な種族の者たちが行きかうそこでは、獣人を見かけることも珍しくない。

 そんな商業都市に、ちょっと変わった時計店があった。

 

 店主は若く身体も細く、どこか頼りなくも見える。だが仕事には真摯に臨み、その腕も確かだと評判だった。彼の作り出す時計は精緻かつ精妙で、造形もまた美しかった。平民ばかりでなく、貴族や大商人が求めに来ることも珍しくなかった。また、魔法にも精通していて、頼めば魔道具の修理も請け負ってくれるという。

 

 その店には、獣人の看板娘がいた。

 きらめく琥珀色の瞳。金色の毛並みに覆われた手と足。後ろには丸く太い、先のとがった尻尾。狼の獣人の娘だった。

 頭から突き出た狼の耳には、白い綿製の耳当てをつけている。これは店主お手製の魔道具であり、消音の魔法が込められているという。獣人の鋭敏な聴覚では、店内にあるたくさんの時計の音がうるさすぎるらしい。

 右目には眼帯をつけている。歯車をモチーフにしたかわいらしい刺繍の縫い付けられた眼帯は、彼女の可憐さを引き立てている。

 本来なら鋭いであろう爪は、人間と変わらぬほどに短く切り揃えられている。

 彼女は、お店に客が来ると、明るい笑顔でこんな風に迎えてくれるのだ。


「いらっしゃいませ! 『クルスイードとルプスフィアの時計店』にようこそ!」



終わり

時間を遡って婚約自体を無かったことにする婚約破棄ものを書こう。

そんなことを思い立ち、設定をあれこれ作って時間を遡る理由付けとかを作っていったらこんな話になりました。


読んでいただいてありがとうございました。

楽しんでいただけたなら幸いです。

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