表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

3-2



 六章 宇宙の創造原理・キリスト  


1 顕現としてのキリスト  

一九一七年十二月十一日 火曜日


こうして通信を送るために地上へ降りてくる際に吾々が必ず利用するものに〝生命補給路〟(ライフライン)とでも呼ぶべきものがあります。それを敷設するのにかなりの時間を要しましたが、それだけの価値は十分にありました。初めて降りた時は一界また一界とゆっくり降りました。


各界に特有の霊的な環境条件があり、その一つひとつに適応しなければならなかったからです。


 これまで何度往復を繰り返したか知れませんが、回を重ねるごとに霊的体調の調節が容易になり、最初の時に較べればはるかに急速に降下できるようになりました。


今では吾々の住まいのある本来の界での行動と変わらぬほど楽々と動くことができます。かつては一界一界で体調を整えながらだったのが、いまでは一気に地上まで到達します。最初に述べたライフラインが完備しており、往復の途次にそれを活用しているからです。



──あなたの本来の界は何界でしょうか。


 ザブディエル殿の数え方に従えば第十界となります。その界についてはザブディエル殿が少しばかり述べておられるが、ご自身は今ではその界を後にして次の界へ旅立っておられる。


その界より上の界から地上へ降りて来れる霊は少なく、それも滅多にないことです。


降りること自体は可能です。そして貴殿らの観念でいう長い長い年月の間にはかなりの数の霊が降りてきていますが、それは必ず何か大きな目的───その使命を自分から買って出るほどの理解力を持った者が吾々の十界あるいはそれ以下の界層に見当たらないほどの奥深い目的がある時にかぎられます。


ガブリエル(第二巻三章参照)がその一人であった。今でも神の使者として、あるいは遠くへあるいは近くへ神の指令を受けて赴いておられる。が、そのガブリエルにしても地上近くまで降りたことはそう滅多にない。


 さて、こうして吾々が地上界へ降りて来ることが可能なように、吾々の界へも、さらに上層界から高級な天使がよく降りて来られる。それが摂理なのです。


その目的も同じです。すなわち究極の実在へ向けて一歩一歩と崇高さを増す界を向上していく、その奮闘努力の中にある者へ光明と栄光と叡智を授けるためです。


 かくして吾々は、ちょうど貴殿ら地上の一部の者がその恩恵に浴するごとく、これからたどるべき栄光の道を垣間見ることを許されるわけです。そうすることによって、はるか彼方の道程についてまったくの無知であることから免れることができる。


同時に、これは貴殿も同じであるが、時折僅かの間ながらもその栄光の界を訪れて、そこで見聞きしたことを土産話として同胞に語り聞かせることも許されます。


 これで判るように、神の摂理は一つなのです。今おかれている低い境涯は、これより先の高い境涯のために役立つように出来ています。


吾々の啓発の使命に喜んで協力してくれる貴殿が未来の生活に憧れを抱くように、吾々は吾々で今おかれている境涯での生活を十分に満喫しつつ、神の恩寵と自らの静かな奮闘努力によって、これよりたどる巡礼の旅路に相応しい霊性を身につけんと望んでいるところです。


 そういう形で得られる情報の中に、キリストの霊と共に生活する大天使の境涯に関する情報が入ってくる。渾然一体となったその最高界の生活ぶりは、天使の表情がすなわちキリストの姿と目鼻だちを拝すること、と言えるほどです。


 底知れぬ静かな潜在的エネルギーを秘めた崇高なる超越的境涯においては、キリストの霊は自由無碍なる活動をしておられるが、吾々にとってその存在は〝顕現〟の形をとって示されるのみです。が、その限られた形体においてすら、はや、その美しさは言語に絶する。


それを思えば、キリストの霊を身近に拝する天使たちの目に映じるその美しさ、その栄光はいかばかりであることであろう。



──では、あなたもそのキリストの姿を拝されたことがあるわけですね。


 顕現としては拝しております。究極の実在としてのキリストの霊はまだ拝したことはありませんが・・・・・・。



──一度でなく何度もですか。


 いかにも。幾つかの界にて拝している。権限の形においては地上界までも至り、その姿をお見せになることは決して珍しいことではない。ただし、それを拝することの出来る者は幼な子のごとき心の持主と、苦悶の中にキリストの救いを痛切に求める者にかぎられます。



──あなたがキリストを拝された時の様子を一つだけお話ねがえませんか。


 では、先日お話した〝選別〟の行われる界で、ちょっとした騒ぎが生じた時のお話をお聞かせしましょう。その時はことのほか大ぜいの他界者がいて大忙しの状態となり、少しばかり混乱も起きていた。


自分の落着くべき場所が定まらずにいる者をどう扱うかで担当者は頭を痛めていた。群集の中の善と悪の要素が衝突して騒ぎが持ち上がっていたのです。


というのも、彼らは自分の扱われ方が不当であると勝手に不満を抱きイラ立ちを覚えていたのです。こうしたことはそう滅多に起きるものではありません。が、私自身は一度ならずあったことを知っております。


 誤解しないでいただきたいのは、そこへ連れて来られる人たちは決して邪悪な人間ではないことです。みな信心深い人間であり、あからさまに不平を口にしたわけではありません。心の奥では自分たちが決して悪いようにはされないことを信じている。


ただ表面では不安がよぎる。その明と暗とが複雑に絡んで正しい理解を妨げていたのです。


口先でこそ文句は言わないが、心では自分の置かれた境遇を悲しみ、正しい自己認識への勇気を失い始める。よく銘記されたい。自分を正しく認識することは、地上でそれを疎かにしていた者にとっては大変な苦痛なのです。


地上よりもこちらへ来てからの方がなお辛いことのようです。が、この問題はここではこれ以上深い入りしないことにします。


 さきの話に戻りますが、そこへその界の領主を勤めておられる天使が館より姿を見せられ、群集へ向けて全員こちらへ集まるようにと声を掛けられた。


みな浮かぬ表情で集まって来た。多くの者がうつ向いたまま、その天使の美しい容姿に目を向ける気さえ起きなかった。柱廊玄関から出て階段の最上段に立たれた天使は静かな口調でこう語り始めた──なぜ諸君はいつまでもそのような惨めな気持ちでいるのか。


これよりお姿をお見せになる方もかつては諸君と同じ立場に置かれながらも父の愛を疑わず、首尾よくその暗雲を突き抜けて父のもとへと帰って行かれた方であるぞ、と。


 首をうなだれたまま聞いていた群集が一人また一人と顔を上げて天使の威厳ある、光輝あふれる容姿に目を向け始めた。その天使は本来はずっと高い界層の方であるが、今この難しい界の統治の任を仰せつかっている。


その天使がなおも叡智に溢れた話を続けているうちに、足もとから霧状のものが発生しはじめ、それが全身を包みこみ、包まれた容姿がゆっくりとその霧と融合し、マントのようなものになった。その時はもはや天使の姿は見えなかった。が、それが凝縮して、見よ! 


今度は天使に代って階段上の同じ位置に、その天使より一段と崇高な表情と一段と強烈な光輝を放つ姿をした、別の天使の姿となりはじめたではないか。


その輝きがさらに強烈となっていき、眼前にその明確な容姿を現わした時、頭部に巻かれたイバラの飾り輪の下部と胸部には、いま落ちたばかりかと思われるほどの鮮血の跡が見て取れた。が、


いやが上にも増していく輝きに何千何万と数える群集の疲れた目も次第に輝きを増し、その神々しい容姿に呆然とするのであった。


今やそのイバラの冠帯は黄金色とルビーのそれと変わり、胸部の赤き血痕は衣装を肩で止める締め金具と化し、マントの下にまとうアルバ(祭礼服の一種)は、その生地を陽光の色合いに染めた銀を溶かしたような薄地の紗織の中で、その身体からでる黄金の光に映えていた。


その容姿はとても地上の言語では説明できない。その神々しき天使は他ならぬ救世主イエス・キリストであるという以外に表現のしようがないのである。


その顔から溢れでる表情は数々の天体と宇宙の創造者の一人としての表情であり、それでありながらなお、頭髪を額の中央で左右に分けた辺りに女性的優しさを漂わせていた。冠帯は王として尊厳を表わしていたが、流れるようなその頭髪の優しさが尊大さを掻き消していた。


長いまつげにはどこかしら吾々に優しさを求める雰囲気を漂わせ、一方、その目には吾々におのずと愛と畏敬の念を起こさせるものが漂っていた。


 さて、その容姿はゆっくりと大気の中へ融合していった──消えていったとは言わない──吾々の視力に映じなくなっていくのをそう感じたまでだからです。その存在感が強化されるにつれて、むしろその容姿は気化していったのです。


 そしてついに吾々の視界から消えた。するとその場に前と同じ領主の姿が現われた。が、その時は直立の姿勢ではなかった。片ひざをつき、もう一方のひざに額を当て、両手を前で組んでおられた。


まだ恍惚たる霊的交信状態にあられるので、吾々はその場を失礼した。その時はじめて吾々の足取りが軽く心が高揚されているのに気づいた。もはや憂うつさは消え、いかなる用事にも喜んでいつでも取り掛かれる心境になっていた。


入神状態にあられる領主は何も語られなかったが、〝私は常にあなたたちと共にあるぞ〟という声が吾々の心の中に響いてくるのを感じた。吾々は満足と新たな決意を秘めて再び仕事へ向かったのでした。 




2 イエス・キリスト

一九一七年十二月十二日 水曜日


 吾々のことを想像なさる時、はるか遠くにいると思ってはなりません。すぐ近くにいます。貴殿は直接書いているのがカスリーンであるから吾々はどこか遠く離れたところから彼女へ思念を送っていると考えておられるようですが、そうではない。


霊的身体を調節しながら降下してくる難しさを克服した今、貴殿のすぐ近くに来るために思念を統一することは容易です。天界においても同じですが、地上にも霊格の格差というものがあります。


吾々にとっては、動物的次元からさほど霊的に進化していない人類に近づくことは敢えて不可能とは言わないにしても、きわめて困難なことです。一方、吾々に憧憬の念を抱いてくれている人に対しては、吾々としても精一杯努力してその人が背のびできる最高の段階で折合うようにする。


貴殿の場合もそうです。これで少しは貴殿の気休めになると思うのですが如何でしょう。



──初めの説明は私もそう理解しておりました。しかし、あとの方の説明が事実だとするとカスリーンは必要ないことになりませんか。


 そのことに関しては以前に少なくとも部分的には説明したつもりですが、ここで少しばかり付け加えておきましょう。貴殿に知っておいていただきたい事実が二、三あります。


すなわち──まず霊団の大半がかなり古い時代の人間であるのに較べてカスリーンは貴殿の時代に近いことがあげられます。


そのため平常時においては吾々より貴殿の霊的状態に近く、吾々は貴殿の内的自我とは接触できても、言語能力とか指の運動能力を司る部分つまり肉体の脳への働きかけとなるとカスリーンの方が容易ということになります。


また吾々の思念を言語に転換する際にも彼女が中継してうまくやってくれます。もっとも、それはそれとして、貴殿と吾々とは完全に調和状態で接触していることは事実です。



──質問があるのですが・・・・・・


 どうぞ──ただ一言ご注意申し上げるが、貴殿は知識が旺盛な余り先を急ぎすぎる嫌いがあります。一つ尋ねて、それが片付いてなお余裕のある時にさらに次の質問をお受けしましょう。



──どうも。キリストの地上への降下の問題についてですが、肉体に宿るべく父の住処を離れたあと地上へ至るまでの途中の界層の一つ一つで環境条件に波長を合わせていく必要があったと思われます。キリストほどの高い境涯から降りてくるには余ほどの〝時〟をけみする必要があったと思うのですが・・・・・・。


 吾々が教わったかぎりにおいて言えば、キリストは地球がまだ形体を持つに至る以前、すなわち非物質的存在の時から存在していた。


そして、いよいよ物質が存在し始めたとき宇宙神は、物的宇宙を今貴殿らが知るところの整然とした星座とするために、キリストをその霊力の行使の主宰霊 Master Spirit とされた。


が、存在はしても、当時まだ物的宇宙に形態がなかったごとくキリストの霊みずからも形態を具えていなかった。そして宇宙が物的形態を賦与された時にまず霊的形態を具え、それから物的形態を具えるに至った。


当時の天地創造の全現象の背後にキリストの霊が控え、無限の時を閲して混沌カオスより整然たる宇宙コスモスへと発展するその道程はすべてキリストの霊を通して行われたのであった。それは混沌たる状態を超越するあの強大な存在による外部からの働きかけなくしては不可能であった。


何となれば、秩序に欠けるものから秩序を生ずるということは、新たな要素を加えずしては有り得ないからである。かくして宇宙はキリスト界とカオスとの接触の産物にほかならない。


 カオスとは物質が 未知の可能性を秘めた状態である。コスモスとは物質がその潜在力を発現した状態である。とは言え、その顕現されたものは〝静〟の状態を〝動〟の状態へと転じさせた、その原動的エネルギーの現象的結果に過ぎない。


動とはつまるところ潜在的意念の活動の総計である。意念はその潜在的状態から顕現へと転換する過程においては、その創造力として働く意念の性質に相応しい動の形を取る。


かくして万物の創造主はキリストの意念を通してその創造活動を悠久の時の流れの中で行使し続け、ついにコスモスを生んだのである。


 さて以上の説明によって吾々が抱いている概念をいくらかでも明確にすることが出来たとすれば、キリストが物質的宇宙の創造の当初より存在していたこと、それ故に地球が徐々に物質性を帯び、形態を整え、ついには顕著な年代的特徴を刻んでいくに至るその全過程において存在し続けていたことが解るであろう。


言いかえれば地球それ自体が創造原理を宿し、それに物的表現を与えていったということである。そのことは地球そのものから鉱物と植物と動物という生命形態が生まれてきた事実によって知れる。そこで、友よ、結局いかなることになると思われるか。


ほかでもない。地球並びに物的全宇宙はキリストの身体にほかならないということです。



──地上に誕生したあのキリストですか。


父と一体なるキリスト、そして一体なるが故に父の個性の一部であったところのキリストです。ナザレ人イエスは父の思念の直接の表現体であり、地球人類救済のためのキリストとして肉体をまとったのです。


友よ、貴殿の心に動揺が見られるが、どうか思念の翼を少しばかり広げていただきたい。


 太陽系の他の惑星上には人類とは異なる知的存在が生活を営んでいる。他の太陽系の惑星上にもまた別の存在が生活を営んでいる。さらに他の星雲にも神およびそのキリストとの間に人類と同じつながりを持つ存在がいて、人類と同じように霊的交わりを持つことが出来る。


が彼らの形態は人類とは異なり、思念の伝達も、人類が言語と呼んでいる方法とは異なる。それでいて創造神とそのキリストとの関係は人類の場合と同じなのです。


彼らにとってもキリストは彼らなりの形態を持って顕現する必要があったのであり、今なお必要です。が、それはナザレ人イエスと同じ人間的形態をまとって現われるのではありません。それでは彼らには奇異に思われるでしょう。否、それ以上に、意味がないでしょう。


彼らには彼らなりの形態をとり、交信方法も彼ら独自のものがあり、彼らなりの合理的プロセスを活用している。こうしたことは、地動説を虚空にかなぐり棄てながらも精神的には相も変わらずまるでミイラの如く物的観念によってぐるぐる巻きにされている者にとっては、およそ納得のいかないことでしょう。


彼らはその小さい世界観から一歩も出ることが出来ず、創造神にとって重大な意義を持つ天体がこの地球以外にも存在することが得心できないのです。


 そこで吾々はこう表現しておきましょう──ガリラヤに来たキリストは宇宙的キリストの地球的顕現に過ぎない。が、真のキリストであるという点では同じである、と。


 では結論を述べるとしよう。もっとも、以上述べた程度では無窮の宇宙の美事な韻律が綴った荘厳にして華麗なる物語、星雲の誕生と結婚、そしてそこから生まれた無数の恒星の物語のほんの一章節ほどにも満たないでしょう。


 要するにキリストは、エネルギーが霊的原動力の活性化によって降下──物質化と呼んでもよい──していく過程の中で降下していったということです。鉱物もキリストの生命の具現です。


何となればあらゆる物質がキリストの生命から生まれているからです。バラもそうです。


ユリもそうです。あらゆる植物がキリストの生命を宿しており、一見ただの物質でありながら美しさと素晴らしさを見せるのはその生命ゆえであり、そうした植物的生命も理性へ向けて進化しているのです。


しかし植物に宿っているかぎりその生命は、たとえ最高に進化しても合目的的活動の片鱗を見せるに留まるでしょう。キリスト的生命はまた地上の動物にも顕現しています。


動物も人間と同じくキリスト的生命の進化したものだからです。キリストの意念の最高の表現が人間であった。


それがやがて不可視の世界から可視の世界へと顕現した。つまり人間を創造したキリストみずからが人間となったのです。つまり人間に存在を与え存続させているキリストがその思念を物質に吹き込み、それがナザレ人イエスとなって顕現したのです。


それゆえ創造神より人類創造のための主宰権を委託されたキリストみずからが、その創造せる人間の子となったということです。


(質問に対する答えは)以上で十分であろう。さらに質問があれば、それは次の機会まで待っていただくことにしましょう。神とそのキリストは──その共同作業が人間を生んだのですが──貴殿がその親子関係と宿命を理解し、さらに他の者にも理解させんとする努力を多とされることでしょう。




 3 究極の実在

一九一七年十二月十四日 金曜日


  前回は貴殿の質問にお答えして物質界へのキリストの降下について述べました。ではこれより本題に戻って、これまでの続きを述べさせていただこうと思います。


今回の話は物的コスモスの深奥へ下って行くのではなく霊的コスモスへの上昇であり、その行き着く先は貴殿らが〝父なる住処〟と呼ぶところの境涯です。そこが現段階での人類の想像力の限界であり、存在の可能性へ向けての人類の思考力もそこから先へ進むことは不可能です。


 それに、こちらへ来て見て吾々も霊というものが本質は確かに崇高この上ないとは言え、まだ存在のすべてではないということを知るに至りました。


物質界を超えたところに霊界があるごとく、人智を超えた光と、至純の中に至誠を秘めた、遠く高き界層のそのまた彼方に、霊のみの存在にあらずして、霊たるものの本質をすべて自己の中に収めてしまい、霊的存在のすべてを包含して、さらに一段と高き崇高さを秘めた宇宙を構成している実在が存在するということです。


(訳者注──モーゼスの『霊訓』によると地上を含めた試練と浄化のための境涯のあとに絶対無の超越界があるという。右の説はそれを指しているものと推察される。が、その超越界の一歩手前まで到達しているイムペレーター霊でも、その先がどうなっているかについては何も知らないという)


 惑星の輝きは中心に位置する太陽の放射物のごく一部にすぎず、しかもそれ自体の惑星的特質による色彩を帯びているごとく、物的宇宙は霊の影響をごく僅かだけ受け、その特質による色彩を帯びたものを反射することによって、同じように霊的宇宙の質を向上させ豊かにする上で少しづつ貢献している。


がその太陽とて自己よりはるかに大きい、恒星の集団である星雲の中のごく小さな一単位である太陽系の一部にすぎないように、霊の世界も吾々の理解力をはるかに超えた規模と崇高性を具えたもう一つ別の存在の宇宙の一部にすぎない。


そして星雲もさらに広大な規模の集合体の一単位に過ぎない──これ以上広げることは止めにしましょう。理性と理解力を頼りとしながら道を探っている吾々には、これ以上規模を広げていくと、あまりの驚異に我を忘れてしまう恐れがあるからです。


 それ故に吾々としては本来の栄光の玉座へと戻られたキリストの後に付いて、いつの日かそのお側にはべることを夢見て、幾百億と知れぬ同志と共に数々の栄光に満ちた天界の道を歩むことで満足しようではありませんか。


 無窮の過去より無窮の未来へと時が閲するにつれてキリストの栄光もその大きさを増していきます。


何となれば天界の大軍に一人加わるごとに王国の輝きにさらに一個の光輝を添えることになるからです。吾々が聞き及んだところによれば、その光輝は、天界の最も遠く高き界層の目も眩まんばかりの高所より眺めれば、あたかも貴殿らが遠き星を見つめるごとくに一点の光として映じるという。


瀰漫する霊の海の中にあってはキリスト界の全境涯は一個の巨大な星であり、天界の高所より眺めればその外観を望むことができる。もっとも、このことは今の吾々には正しく理解することはできません。が、ささやかながらも、およそ次のようなことではあるまいかと思う。


 地上から太陽系全体を一つの単位として眺めることは不可能であろう。地球はその組織の中に包まれており、そのごく一部に過ぎないからです。が、アークツルス(牛飼座の一つ)より眺めれば太陽系全体が一つの小さな光球として見えることであろう。その中に太陽も惑星も衛星も含まれているのです。


同じように。そのアークツルスと他の無数の恒星を一個の光球と見ることのできる位置もあるでしょう。かくして、キリストの王国と各境涯を一望のもとに眺めることのできる超越的境涯がはるか彼方に存在するというわけです。


そしてその全組織は、それを構成する生命が物質性を脱して霊性へと進化してゆく悠久の時の流れの中で少しずつ光輝を加えていく。


つまり私は霊的宇宙全体を一つの恒星に見立て、それを一望できる位置にある高き存在を、霊の界層を超越した未知と無限の大いなる〝無〟の中の存在と見なすのです。


 その超越界と吾々第十界まで向上した者との隔たりは、貴殿ら地上の人間との隔たりとも大して差がないほど大きいものです。かりに人間から吾々までの距離を吾々と超越界との距離で割ったとすれば、その数値は計算できないほどの極小値となってしまうでしょう。


 が、恒星の集団のそのまた大集団が、悠久とはいえ確実なゴールへ向けて秩序整然たる行進を続けているごとく、霊の無数の界層もその宿命へ向けて行進している。その究極においては霊の巡礼の旅路は超越界へと融合し、そこに完全の極地を見出すことでしょう。


 その究極の目標へ向けてキリストはまず父の御胸より降下してその指先でそっと人類に触れられた。その神的生命が、魂の中に息づく同種の生命に衝動を与えて、人類は向上進化の宿命に目覚めた。そして至高の君主の後に付いて、他の天体の同胞に後れを取らぬように、ともに父の大軍として同じ目標へ向けて行進し続けているのです。



──一つよく理解できないことがあります。吾らが主は幼な子の純心さについて語ってから〝神の御国はかくの如き者のものなり〟と述べています。あなたのこれまでのお話を総合すると、私たちは年を取るにつれて子供らしさの点において御国に相応しくなくなっていくという風に受け取れるように思います。


たしかに地上生活については私も同感です。が、これでは後ろ向きに進行する、一種の退行現象を意味することになるでしょう。


しかも地上生活が進化の旅の最初の段階であり、それが死後のいくつもの界層まで続けられるとすると、子供らしさを基準として進化を測るのは矛盾するように思えます。その点をどう理解したらよいでしょうか。



 子供はいくつかの資質と能力とを携えてこの世に生まれてきます。ただし幼少時の期間は無活動で未発達の状態にある。存在はしていても居睡りをしているわけです。それが精神的機能と発達とともに一つ一つ開発され使用されるようになる。


そうすることによって人間はひっきりなしに活動の世界を広げ、そして、広げられた環境が次から次に新しいエネルギーを秘めた界層と接触することによって、そのエネルギーを引き寄せることができるようになる。


私のいうエネルギーは創造性と結合力と霊的浄化力とを秘め、さらには神の本性を理解させる力も有しています。


それらの高度なエネルギーをどこまで活用できるか──霊的存在としても人間の発達はそれに掛かっています。幼な子を御国の者になぞらえるのはその心が父なる神の心に反しない限りにおいてのことです。


人間の大人もその能力の開発の道程においてはそのことを銘記し幼な子の如き心を失わなければ、その限りなく広がりゆく霊的能力は壮大な神の目的に沿って、人類ならびに宇宙的大家族の一員であるところの他の天体の知的存在の進化のために使用されることになるでしょう。


が、もし年齢的ならびに才能上の成長とともに幼児的特質であるところの無心の従順さを失っていくとしたら、それは神の御心にそぐわなくなることを意味し、車輪の回転を鈍らせる摩擦にも似た軋みが生じ、次第に進化の速度が鈍り、御国の辺境の地へと離れていき、離れるにつれて旅の仲間との調和が取れにくくなる。


一方その幼児的従順さを失わず、生命の旅において他の美徳を積む者は、退行することなくますます御国の子として相応しい存在となって行く。


ナザレのイエスがまさしくその見本でした。その生涯の記録の書から明確に読み取れるように、父なる神の御子として、その心は常に御心と完全に一体となっていた。少年時代にあってもその心を占めていたのは父なる神についてのことばかりであった。


(修行時代に)自己中心的にならず世俗的欲望から遠ざけたのは父の館であった(*)。


ゲッセマネの園にあってもあくまで父の御心と一体を求めた(**)。十字架上にあっても父のお顔を振り返ろうとした。しかしそのお顔は地上時代の堕落の悪気によって完全に覆いかくされていた。が、それでもその心は神の御心から片時もそれることなく、肉体を離れるや否や神へ向けて一気に旅立って行った。


さらにイースターの日にはマグダラのマリヤに約束された如く(***)その日を神への旅路の道標としてきっと姿をお見せになる。


パトモス島の予言者ヨハネが天界の大聖堂にて主イエスと再会した時、イエスはヨハネに対してご自分が父の御心と完全に一体となっていたことを父が多とされて、天界にても地上と同じように、霊力と共に最高の権威を委ねられたと述べた。


吾々のごとく地上にてはささやかな記録バイブルを通じて知り、こちらへ来てからは直々にそのお姿を拝した者が、汚れなき霊性に霊力と完成された人間性の威厳が融合し、その上に神性の尊厳を具えた童子性を主に見出して何の不思議があろう。


 さよう。友よ、父の御国の童子性を理解するのは天界の高き境涯にまで至った者のみなのです。



(*モーゼスの『霊訓』によると、イエスの背後霊団は一度も肉体に宿ったことのない天使団、日本神道で言う〝自然霊〟によって構成され、イエスも自分が出世前その霊団の最高の地位クライにあったことを自覚し、一人でいる時は大てい肉体から脱け出てその霊団と交わっていたという。


**ゲッセマネとはイエスがユダに裏切られ生涯で最大の苦悶に遭遇した園。父との一体を求めたというのはその時に発した次の言葉のことで、祈りの最高の在り方としてよく引用される──〝父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給え。しかし私の望みより、どうか御心のままになさらんことを〟。***マルコ16・9~11。訳者)





 七章 善悪を超えて


 1 聖堂へ招かれる         

一九一七年十二月十七日  日曜日


 これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解した限りにおいて述べました。


そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて一歩一歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。


それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れも摂り入れていく。人間の生命も同じです。


その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。


川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。


が、海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるに過ぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変わらず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終わりであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。


また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海にはさらに大きくかつ強力な生命力を持つ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。


 それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。


生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へ届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽やかに、そして充実させて、次なる仕事に取り掛かるのです。



──どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。


 それは大変です。数も多いし内容も複雑なので・・・・・・。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。


 吾々の本来の界(第十界)の丘の上に聖堂が聳えています。



──それはザブディエル霊の話に出た聖堂──〝聖なる山〟の寺院のことですか。(第二巻八章4参照)



 同じものです。〝聖なる山〟に聳える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その十界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りて来られる霊が格別に神聖だからであり、又、十界の住民の中で次の十一界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。


それには長い修行と同時に、十一界と同じ大気の漂うその聖堂と麓の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。


 吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関ポーチに近づいた。



──向上するための資格を身につけるためですか。


 今述べた目的のためではありません。そうではない。十一界の大気はいつもそこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節に限ってのことです。


 さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお一人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分と一緒に中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰一人として中に入ったことのある者はいなかったからです。


するとその方がにっこりと微笑まれ、その笑顔の中に〝大丈夫〟という安心感を読み取り、何の不安もなく後ろについて入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。


 入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っているはりを支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの──貴殿らのいう青空天井になってる。


柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載っている梁には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが一つだけある。


それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が一つも付いてないことで、これは、その聖堂全体が一つの界と次の界との通路に過ぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。


その長くて広い柱廊を一番奥まで行くとカーテンが下りていた。そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。


が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控えの間に辿り着いたばかりだった。その控えの間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。


これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。


 吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。



 「皆さん、この度あなた方霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界の為の仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫くお持ちください」


 言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。先程の方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイヤを散りばめたように漂っていた。


やがて吾々に近づかれると手を差し出され、一人ひとりと握手をされた。そのとき(あとで互いに語りあったことですが)吾々は身は第十界にありながら、第十一界への近親感のようなものを感じ取った。それは第十一界の凝縮されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。


 吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。秘密というのではありません。


人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。


 お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。



──生身の人間ですか。


 さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく〝悲哀かなしみの人〟イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。


が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切りユダの心に次のような揶揄からかいの声が聞こえてきた───


〝これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。


今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しができぬであろうよ〟と。


 その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて一度も安らぎの気持ちで見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。


が、死に瀕しているイエスの目はおぼろげであった。もはやユダを見る力はない。


そそのかしの声はなおも鳴りひびき、あざけるかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気のない場所でみずから命を捨てた。


帯を外して首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして二人は同じ日に同じく〝木〟で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。


 さて、霊界へ赴いた二人は意識を取り戻した。そして再び相見えた。が二人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして〝赦〟しを携えて再び訪れるべき時期ときがくるまで、後悔と苦悶に身を委ねさせた。


つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。


(*イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと〝お前もイエスの一味であろう〟と問われて〝そんな人間は知らぬ〟と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて〝あなたは今夜鶏の鳴く前に三度私を知らないと言うだろう〟と忠告しておいた。訳者)


 しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)


 以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ちかえって罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。


犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。


 さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。


 願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者とともにいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にも主の慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にも主の慈悲を給わらんことを。



 訳者注──ここに言う〝赦し〟とはいわゆる〝罪を憎んで人を憎まず〟の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。


イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。因果律は絶対であり〝自分が蒔いたタネは自分で刈り取る〟のが絶対的原則であることに変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の一つであろう。



 

2 使命への旅立ち          

 一九一七年十二月十八日  火曜日


 お話を給わった拝謁はいえつの間を出て、吾々はその高き聖所を後にした。お話は私がお伝えしたよりもっと多かった。それを愛をこめて話してくださり、吾々は使命へ向けて大いに勇気づけられた。


ポーチまで進み、やがて立ち止まって広い視界に目をやった。下方には草原地帯が横たわり、左右のはるか彼方まで広がっている。


その先に丘が聖所を取り巻くように連なっており、そこから幾すじかの渓流が平野へ向けて流れ、吾々から見て左方向にある湖で合流している。


それがさらに左方向へ流出し、その行く手に第十界と第九界との間に聳える山脈が見える。そう見ているうちに、さきほど話をされた方が吾々の中央に立たれ、ご自身の霊力で吾々を包んで視力をお貸しくださり、ふだんの視力では見えない先、これから赴かねばならない低い界層をのぞかせてくださった。


初め明るく見えるものが次第に明るさが薄れ、かすんで見えるものがおぼろげに見え、ついには完全なモヤとなった。その先は吾々が位置した最も見えやすい位置からでも見透すことは不可能だった。


と言うのも、そこはすでに地球に隣接する界層及びそれ以下の境涯であり、地上界へ行きたい者はひとまずその境涯から脱出しなければならず、一方地上で正しい道を踏み外した者は自然の親和力の作用によってその境涯へと降りて行く。地獄と呼んでいるのがそれである。


なるほど、もし地獄を苦痛と煩悶と、魂を張り裂ける思いをさせることを意味するのであれば、そこを地獄と呼ぶのも結構であろう。


 さて必要な持ち物と、これより先に控える仕事を吟味し終えると、吾々はその方に向かって跪き、祝福をいただくとすぐに出発した。まず左手の坂道を下り、山間あいを通り抜けて、そこからまっしぐらの長い旅なので、四つの界層を山腹に沿って一気に空中を飛翔ひしょうした。


そして第五界まで来て降下し、そこでしばし滞在し、そこの住民が抱える悩みごとの解決にとって参考になるように、入念に言葉を選んで話をした。



──旅の話を進められる前に第五界でのお仕事の成果をお話ねがえませんか。


 吾々の仕事は各界で集会を開いて講演をすることでしたが、そこでの話がその最初となりました。まずそこの領主──第五界の統率者の招きにあずかりました。


その領主は、どの界でもそうですが、本来はその界よりも高い霊格を具えた方です。が、吾々が滞在したのは行政官の公舎でした。


行政官はその界でいつまでも向上出来ずにいる者たちの問題点に通暁しておられ、吾々がいかなる立場に立っていかなる点に話題をしぼって講演すべきかについて、よきアドバイスを与えて下さる。


 さて、そういう悩みを抱えた人々が公舎の大ホールに集まった。実に大きなホールで、形は長円形をしています。ただし、片方の端がもう一方より圧縮された格好をしています。



──西洋ナシのようにですか。


 はて、これはもう、ほとんど忘れかけた果実ですのでしかとは申せませんが、さよう、大体の格好は似ていましょう。ただしあれほど尖った形ではありません。その細い方の外側には大きなポーチがかぶさるように付いており、会衆はそこから入りました。


演壇は左右の壁から等距離の位置にあり、吾々はそこに上がりました。実は吾々の霊団の中に歌手が一人いて、まず初めにその時のために自分で作曲した魅力あふれる曲を歌いました。


その内容は──すでにお話したものも含まれていますが──究極の実在である神がいかなる過程でその霊力を具象化し、愛がいかにして誕生し、神の子等(造化に携わる高級神霊のこと──訳者)がその妙味に触れてそこから美が誕生するに至ったかを物語り、それ故にこそすべての美に愛が宿り、すべての愛が純朴であり、いかなる形で表現されても美にあふれていること。


しかし現象界の発展のために働く者の意志が愛に駆られた美の主流に逆らう方向へと働いた時、そこに元来の至純さと調和しない意志から生まれる或る種の要素が生じ、そのあとに創造される存在は美しくはあっても完全なる美とは言えず、また、ますます激しさを増す混沌たる流れに巻き込まれてさらに美的要素を欠く存在が出現したが、それでも根源より一気に一直線に下降を続けた者の目には見えない美しさを、おぼろげながら具えていた・・・・・・


 そう歌いました。会衆は身じろぎひとつせず聴き入っていた。それほどその曲が美と愛の根源から流れ出て来るような雰囲気を帯びていたのです。


またその言葉そのものが〝究極にして絶対〟の存在とは〝統一〟であり、それ自体に多様性はあり得ず、それまでに生じた多様性はてこ的存在としての意義を持つ──つまり多様性の中に表現されたものが抵抗によって再び高揚され統一へ向かうという哲学を暗示しておりました。


 さて、歌が終わると会場を重厚な静けさが支配し、全員が静粛にしていた。身じろぎ一つする者がいない。立っている者は立ったまま、ベンチあるいはスツールに腰を下ろしている者もそのまま黙しており、何かに寄り掛かってしゃがみ込んでいる者もそのままの気楽な姿勢でいた。


そのことをはっきりと見てとった。誰ひとり位置を変える者もいなかった。それは、はるか彼方の生命とエネルギーの力強い脈動の中に生まれた歌の魔力が彼らを虜にし、今の境涯と知識とで精一杯頑張ろうという決意を秘めさせたからです。


 ややあって、いよいよ私が語る段取りとなった。すでに先の歌い手が、抑え気味に、しかし甘美な声で歌い始めていた。それでも、天体の誕生の産みの痛みの時代の物語に至るとその痛みに声が激しさを増し、勢いとエネルギーが魂の中で激しく高まり、痛ましいほどの壮大な声量となってほとばしり出るかの如くであった。


それからカオス(混沌)が自ら形を整えてコスモス(宇宙)となり、さらに創造主の想像の中から各種の生命体が誕生する段階になると、声と用語の落着いたリズムが整然たる進行の中で次第に平穏となり、最後は単一音で終わった。


それはあたかも永遠の創造活動が今始まったばかりで未だ終局していないことを暗示するために、そのテーマを意図的に中天で停止させたかのようでした。

 

 そのあとを継いで語り始める前に私は一呼吸の間を置いた。それは私の話に備えて頭の中を整理させ、あたりに漂う発光性の雲の中でその考えをマントのごとく身にまとわせ、話をしている私の目に各自の性格と要求とが読み取れ、私の能力において出来うるかぎりの援助を与えるためでした。


 それからいよいよ講演に入った。全員に語りかけながら同時に個々の求めるものを順々に満たしていった。多様性となって顕現し虚空に散らばったものを再び一点に集約し、美そのもの、愛そのものである究極の実在からの熱と光りとを吸収しそして発散するところの大いなる霊的太陽について語った。


また、ペテロとユダの背信行為と裏切りとその後の後悔の話──一方は地上において束の間の地獄を味わい、一千年もの悔恨を一カ月で済ませて潔白の身となった。


そこに秩序ある神の家族内での寛恕と復権の可能性が見られること。もう一方は最後まで懺悔の念が生じず、自分が絶望の狂乱の中で金で売った人物イエスが死を迎えた時に、いつもの自暴自棄的気性のために早まって(首を吊って)この世から逃げた。が、


これで消えてしまったと思い込んだ思惑とは裏腹に彼は生き続けていた。しかし彼はなおも懺悔の念は生じず、イエスみずからが、迷える小羊を探し求めるごとくに、奥深き地獄の峡谷へユダその他の罪人に会いに赴いた。


そして陰気さと、触れられるほどの真実味のある暗闇の中にいる彼らに光と愛そのものである神の存在と、その聖なる御子を通じて愛の輝きが想像を絶した宇宙の果てまで、そしてその地獄の世界までも投射されている事実を語って聞かせた。


彼らは最後に光を見てから何十年何百年ものあいだ光というものを見ておらず、今では光とは何か、どのように目に映じるものかもほとんど忘れている。


その彼らの目に久しぶりに一条ひとすじの光が見えてきた。もとよりイエスは彼らの視力に合わせてご自分の身体を柔らかい、優しい、ほのかな光輝で包み込んでおられた。


その足元へ一人また一人と這い寄ってくる。その目から涙がこぼれ落ちている。それがイエスの光に照らされてダイヤモンドのしずくの如く輝いて見える。その中の一人に裏切り者のユダもいた。そしてイエスから赦しの言葉を聞かされた。


ペテロがのちにイエスにあったとき主の寛恕の愛を聞かされたごとくにであった。


 聴衆はじっと聞き入り、そして私の述べていることが、宇宙の君主であり愛そのものであるところの神への一体化についてであり、そして又その神への従順さが生み出すところの産物──それは人間から見れば難問でありながら実はその一体化を促すためのてこ的意義を持つものであることを理解し始めていた。


 私は静寂のうちに講演を終わり、同じく静寂のうちに他の者とともに演壇を下り、ホールを出て公舎を後にし、次の旅へ向かった。行政官が総出で吾々をていねいな感謝の言葉とともに見送ってくださり、吾々も祈りでもってこれに応えた。かくしてその界を後にしたのであった。




 3〝苦〟の哲学

一九一七年十二月十九日  水曜日


さて吾々は急がずゆっくりと歩を進めました。と言うのは、そろそろ吾々の霊的波長が容易に馴染まぬ境涯に近づきつつあったからです。が、どうにか環境に合わせることができました。そしてついに地上から数えて二番目の界の始まる境界域に到達した。便宜上地上界をゼロ界としておきます。



──話を進められる前にお尋ねしておきたいことがあります。あなたがある種の悩みを抱えていたために他の界よりも長期間滞在されたというのは第五界だったのではありませんか。


 貴殿の要求は、私を悩ませしばらくその界に引き留めることになった問題の中身を説明してほしいということのようですな。よろしい。それはこういうことでした。


 私はすべての人間が最後は神が万物のぬしであることを理解すること、そしてその神より出でた高級神霊がそのことを御座みくらの聖域より遠く離れた存在にも告げているものと確信していた。


しかしそうなると吾々のはるか下界の暗黒界───悲劇と煩悶が渦巻き、すべての愛が裏切られ、その普遍性と矛盾するように思える境涯に無数の哀れな霊が存在するのはなぜか。


 それが私の疑問でした。昔からある悪の存在の問題です。私には善と悪という二つの勢力の対立関係が理解できないし、それを両立させることは少なくとも私の頭の中ではできなかった。つまり、もしも神が全能であるならば、なぜ一瞬たりとも、そして僅かたりとも悪の存在を許されたのであろうか、ということでした。


 私は久しくそのことに思いをめぐらしていた。そして結果的に大いに困惑を増すことになった。なぜなら〝神の王国〟の内部でのこうした矛盾から生まれる不信感が、目も眩まんばかりの天界の高地へ向上していく自信を私から奪ってしまったからです。


私はもしかしたらその高地で心の平静を失い、これまで降りたこともない深淵へ落ちて深いキズを負うことになりはせぬかと恐れたのです。


 煩悶しているうちに私は、いつもここという時に授かる援助をこの時も授かる用意が出来ていたようです。自分では気づかないのですが、啓発を受ける時はいつもそれに値するだけの考えが熟するまで私は論理的思考においてずっと指導を受け、その段階において直感的認識がひらめき、それまでの疑念のすべてが忘却の彼方へと一掃され、二度と疑わなくなるのでした。


 ある日のこと──貴殿らの言い方で述べればのことですが──私は小さな赤い花の密生する土手の上で東屋に似た木蔭で腰を下ろしていた。先の難問を考えていたわけではありません。他にもいろいろと楽しい考えごとはあるものです。


私はすっかり辺りの美しさ──花、木々、小鳥、そのさえずりに浸っていた。その時ふと振り返ると、すぐそばに落着いた魅力あふれる容貌の男性が腰を下ろしていた。


濃い紫のマントをつけ、その下からゴースのチュニック(*)が見える。そしてそのチュニックを透かして、まるで水晶の心臓に反射して放たれたような光が身体から輝いて見えた。肩に付けられた宝石は濃い緑とすみれ色に輝き、髪は茶色をしていた。


が、目は貴殿のご存知ない種類の色をしていた。(*ゴースはクモの糸のような繊細な布地。チュニックは首からかぶる昔の簡単な胴衣。なおこの人物が誰であるかはどこにも説明が出てこないが、多分このリーダー霊の守護霊であろう。訳者)


 その方は前方へ目をやっておられる。私はお姿に目をやり、その何とも言えない優雅さにしばし見とれていた。するとこう口を開かれた。


 「いかがであろう。ここは実に座り心地が良く、休息するには持ってこいの場所であるとは思われぬかな?」


 「はい、いかにも・・・・・・」私はこれ以上の言葉が出なかった。


 「がしかし、貴殿がそこに座る気になられたのは、きれいな花が敷きつめられているからであろう?」


 そう言われて私は返答に窮した。するとさらにこう続けられた。


 「さながら幼な子を思わせるつぼみの如き生命と愛らしさに満ちたこれらの赤い花の数々は、こうして吾々が楽しんでいるような目的のために創造されたと思われるかな?」


 これにも私はただ「そこまで考えたことはございませんでした」と答えるしかなかった。


 「そうであろう。吾々は大方みなそうである。しかも吾々が一人の例外もなく、片時も思考をお止めにならず理性から外れたことを何一つなさらぬ神の子孫であることを思うと、それは不思議と言うべきです。


吾々がいくら泳ぎ続けてもなおそこは神の生命の海の中であり、決してその外に出ることがない。それほど偉大な神の子でありながら、無分別な行為をしても赦されるということは不思議なことです」


 そこでいったん話を止められた。私は恥を覚えて顔を赤らめた。その声と話ぶりには少しもきびしさはなく、あたかも親が子をたしなめるごとく、優しさと愛敬に満ちていた。が、言われていることは分かった。


自分は今うかつにも愛らしく生命に溢れた、しかし、か弱い小さな花を押しつぶしているということです。そこで私はこう述べた。


 「お放ちになられた矢が何を狙われたか、より分かりました。私の胸深く突きささっております。これ以上ここに座っていることは良くありません。吾々のからだの重みでか弱い花に息苦しい思いをさせております」


 「では立ち上がって、いっしょにあちらへ参りましょう」そうおっしゃってお立ちになり、私も立ち上がってその場を離れた。


 「この道へはたびたび参られるのかな?」

 並んで歩きながらその方が聞かれた。


 「ここは私の大好きな散策のコースです。難しい問題が生じた時はここへ来て考えることにしております」


「なるほど。よそに較べてここは悩みごとを考えるには良いところです。そして貴殿はここに来て土手のどこかに座って考えに耽る、と言うよりは、その悩みの中に深く入り込んでしまわれるのではないかと思うが、ま、そのことは今はわきへ置いて、前回こちらへ来られた時はどこに座られましたか」


 そう聞いて足を止められた。私はその方のすぐ前の土手を指さして言った。


 「前回こちらへ来た時に座ったのはここでした」


 「それもつい最近のことであろう?」


 「そうです」


 「それにしては貴殿のからだの跡形がここの植物にも花にも見当たらない。嫌な重圧をすぐさまはね返したとみえますな」


 確かにこの地域ではそうなのである。その点が地上とは違う。花も草も芝生もすぐさま元の美しさを取り戻すので、立ち上がったすぐ後でも、どこに座っていたかが見分けがつけにくいほどである。これは第五界での話で、すべての界層がそうとは限らない。地上に近い界層ではまずそういう傾向は見られない。


 その方は続けてこう言われた。


 「これは真価においても評価においても、創造主による人間の魂の傷に対する配剤とまったく同じものです。現象界に起きるものは何であろうとすべて神のものであり神お一人のものだからです。では私に付いてこられるがよい。


貴殿が信仰心の欠如のために見落しているものをお見せしよう。貴殿は今ご自分が想像していた叡智の正しさを疑い始めておられるが、その疑念の中にこそ愛と叡智の神の配剤への信仰の核心が存在するのです」


 それから私たち二人は森の脇道を通り丘の麓へ来た。その丘を登り頂上まで来てみると森を見下ろす高さにいた。はるか遠い彼方まで景色が望める。


私は例の聖堂のさらに向こうまで目をやっていると、その聖堂の屋根の開口部を通って複数の光の柱が上空へ伸びて行き、それが中央のドームのあたりで一本にまとまっているのが見えた。それは聖堂内に集合した天使の霊的行事によって発生しているものだった。


 その時である、ドームに光り輝く天使の像が出現し、その頂上に立った。それは純白に身を包んだキリストの顕現であった。衣装は肩から足もとまで下りていたが足は隠れていない。


そしてその立ち姿のまま衣装が赤味を帯びはじめ、それが次第に濃さを増して、ついに深紅となった。まゆのすぐ上には血の色にも似た真っ赤なルビーの飾り輪があり、足先のサンダルにも同じくルビーが輝いていた。


やがて両手を高く上げると、両方の甲に大きな赤い宝石が一つずつ輝いていた。私にはこの顕現の私にとっての意味が読み取れた。最初の純白の美しさは美事であった。が今は深紅の魅力と美しさに輝き、そのあまりの神々しさに私は恍惚となって息を呑んだ。


 喘ぎつつなおも見ていると、その姿の周りにサファイヤとエメラルドの縞模様をした黄金色の雲が集結しはじめた。が、像のすぐ背後には頭部から下へ向けて血のような赤い色をした幅広いベルト状のものが立っており、さらにもう一本、同じような色彩をしたものが胸のうしろあたりで十文字に交わっている。


その十字架の前に立たれるキリストの姿にまさに相応しい燦爛たる光輝に輝ていた。


 平地へ目をやると、そこにはこの荘厳な顕現を一目見んものと大勢の群集が集まっていた。その顔と衣服がキリストの像から放たれる光を受けて明るく輝き、その像にはあたかも全幅の信頼を必要とするところの犠牲と奉仕を求める呼びかけのようなものが漂っているように思えた。


それに応えて申し出る者は、待ち受ける苦難のすべてを知らずとも、みずから進んでその苦難に身を曝す覚悟が出来ていなければならないからである。が、


その覚悟のできた者も、多くはただ跪き頭を垂れているのみであった。もとより主はそれを察し、その者たちに聖堂の中に入るよう命じられ、中にて使命を申しつけると仰せられた。そしてみずからもドームを通って堂内に入られた。そこで私の視界から消えた。


 私はそばに例の方がいらっしゃることをすっかり忘れていた。そして顕現が終わったあとも少しの間その方の存在に気づかずにいた。やっと気付いて目をやった時、


そのお顔に苦難の体験のあとが数多い深い筋となって刻まれているのを見て取った。

もとよりそれは現在のものではなく遠い昔のものであるが、その名残りがかえって魅力を増しているのだった。


 しかし私から声をお掛けできずに黙って立っていると、こうおっしゃった。


「私は貴殿に悲哀の人イエスの顕現をお見せするためにこの界のはるか上方から参っております。主はこうしてみずからお出でになっては悲哀を集めて我がものとされる。それは、その悲哀なくしては今拝見したごとき麗しさを欠くことになるからです。


主にあれほどの優しさを付加する悲哀は、その未発達の粗野な状態にあっては苦痛を伴って地上を襲い、激痛をもって地獄を襲うものと同一です。


この界においては各自その影を通過する時に一瞬のものとして体験する。吾々とて神の御心のすべてには通暁し得ない。しかし今目のあたりにした如く、時おり御心のすべてに流れる〝苦の意義〟を垣間見ることが出来る。


その時吾々が抱く悩みから不快な要素が消え、いつの日かはより深い理解が得られるとの希望が湧き出てきます。


 しかし、その日が訪れるまでは主イエスが純白の姿にて父の御胸より出て不動の目的をもって地上へ赴いたこと、そこは罪悪と憎悪の暗雲に包まれていたことを知ることで満足しています。


さよう、イエスはさらに死後には地獄へまでも赴き、そこで悶え苦しむ者にまで救いの手を差しのべられた。そしてみずからも苦しみを味わわれた。


かくして悲哀の人イエスは父の玉座の上り段へと戻り、そこで使命を成就された。が、戻られた時のイエスはもはや地上へ向かわれた時のイエスではあられなかった。聖なる純白の姿で出発し深紅の勝利者となって帰られた。


が流した血は自らのおん血のみであった。敵陣へ乗り込んだ兵士がその刃を己の胸に突きさし、しかもその流血ゆえに勝者として迎えられるとは、これはいかにも奇妙な闘いであり、地上の歴史においても空前絶後のことであろう。


 かくして王冠に新たなルビーを加え、御身に真っ赤な犠牲の色彩を一段と加えられて、出発の時より美しさを増して帰られた。そして今や、主イエスにとりて物質界への下降の苦しみは、貴殿が軽率にも腰を下ろしても変わらぬ生長力と開花力によっていささかも傷められることのなかった草花のごとく、一瞬の出来ごとでしかなかった。


主イエスは吾々の想像を絶する高き光と力の神界より降りて来られて、自己犠牲の崇高さを身を持ってお示しになった──まさに主は私にとって神の奇しき叡智の保証人でもあるのです。


 では罪悪の悲劇と地獄の狂乱はどうなるのか。これも、その暗黒界を旅してきた者は何ものかを持ち帰る。神とその子イエスの愛により、摂理への従順の正道を踏み外して我が儘の道を歩める者も、その暗黒より向上してくる時、貴重にして美妙なる何ものかを身につけている。


それが神と密接に結びつけるのです。さよう、貴殿もいずれその奇しき叡智を悟ることになるであろう。それまで辛棒強く待つことです。が、それには永き時を要するでしょう。


貴殿がその神秘の深奥を悟るのは私より容易ではなく、私ほど早くもないかも知れません。なぜなら貴殿はかの悔恨と苦悶の洞窟の奥深く沈んだ体験の持ち合わせがないからです。私にはそれがあるのです。私はそこから這い上がって来た者です」


 

 4 さらに下層界へ        

 一九一七年十二月二十日 木曜日


 さて、吾々はいよいよ第二界へ来た。そして最も多く人の集まっている場所を探しました。と言うのも、かつてこの界に滞在した頃とは様子が変っており、習慣や生活様式に関する私の知識を改めざるを得なかったのです。


貴殿にも知っておいていただきたいことですが、地上に近い界層の方がはるか彼方の進化した界層に較べて細かい点での変化が激しいのです。


いつの時代にも、地上における学問と国際的交流の発展が第二界にまで影響を及ぼし、中間の第一界へはほとんど影響を及ぼしません。


また死後に携えてきた地上的思想や偏見が第二界でも色濃く残っておりますが、それも一界また一界と向上して行くうちに次第に中和されて行きます。かなり進化した界層でもその痕跡を残していることがありますが、進歩の妨げになったり神の子としての兄弟関係を害したりすることはありません。


第七界あるいはそれ以上の界へ行くとむしろ地上生活の相違点が興味や魅力を増すところの多様性バラエティーとなり、不和の要素が消え、他の思想や教義をないがしろにすることにもならない。


さらに光明界へ近づくとその光によって〝神の御業の書〟の中より教訓を読み取ることになる。そこにはもはや唯一の言語を話す者のための一冊の書があるのみであり、父のもとにおける一大家族となっております。


それは地上のように単なる遠慮や我慢から生まれるものではなく、仕事においても友愛においても心の奥底からの協調関係から、つまり愛において一つであるところから生まれるものです。


 うっかりしていました──私は第二界のことと、そこでの吾々の用事について語るのでした。


 そこではみんな好きな場所に好きなように集まっている。同じ民族のものといっしょになろうとする者もいれば、血のつながりよりも宗教的つながりで集まる者もいました。政治的思想によってサークルを作っている者もいました。


もっぱらそういうことだけで繋がっている者は、少し考えが似たところがあればちょくちょく顔を出し合っておりました。


例えばエスラム教徒は国際的な社会主義者の集団と親しく交わり、帝国主義者はキリスト教信仰にもとづく神を信仰する集団と交わるといった具合です。


色分けは実にさまざまで、その集団の構成分子も少々の内部変化があっても、大体において地上時代の信仰と政治的思想と民族の違いによる色分けが維持されていました。 


 それにしても、吾々第十界からの使者が来ることはすでにその地域全体に知れ渡っておりました。と言うのも、この界では地上ほど対立関係から出る邪心がなく、かなりの善意が行きわたっているからです。


かつて吾々が学んだことを今彼らも学んでいるところで、それで初めのうち少し集まりが悪いので、もし聞きたければ対立関係を超えていっしょに集まらねばならぬことを告げた。


吾々は小さなグループや党派に話すのではなく、全体を一つにまとめて話す必要があったからです。


 すると彼らは、そう高くはないが他の丘よりは小高い丘の上や芝生のくぼみなどに集結した。吾々は丘の中腹に立った。そこは全員から見える位置で、背後はてっぺんが平たい高い崖になっていた。


 吾々はまず父なる神を讃える祈りを捧げてから、その岩の周りに腰を下ろした。それからメンバーの一人が聴衆に語りかけた。彼はこの界のことについて最も詳しかった。


本来は第七界に所属しているのであるが、この度は使命を受けてから、道中の力をつけるために第十界まで来て修行したのです。


 彼は言語的表現においてなかなかの才能を有し、声を高くして、真理についての考えが異なるごとく服装の色彩もさまざまな大聴衆に向かって語りかけた。声は強くかつ魅力に富み、話の内容はおよそ次のようなものでした。


 かつて地上界に多くの思想集団に分裂した民族があった。そうした対立を好ましからぬものと考え、互いに手を握り合うようにと心を砕く者が大勢いた。


この界(第二界)にも〝オレの民族、オレの宗派こそ神の御心に近いのだ〟と考える、似たようなプライドの頑迷さが見受けられる。吾々がこうして諸君を一個の民族として集合させ、神からのメッセージを伝えるのも、これよりのちの自由闊達にして何の妨げもない進化のためには、まずそうした偏狭さを棄て去ってしまわねばならないからである、と。


 これを聞いて群集の間に動揺が見られた。が、述べられたことに何一つ誤りがないことは彼らも判っていた。


その証拠に彼らの目には、吾々のからだから発する光輝が彼らをはるかに凌いでいることが歴然としており、その吾々もかつては今の彼らと同じ考えを抱いていたこと、そして吾々が当時の考えのうちのあるものはかなぐり捨て、あるものは改めることによって、


姿も容貌も今のように光輝を増したことを理解していたからです。だからこそ静かに耳を傾けたのです。


 彼はいったんそこで間を置いてから、新たに彼の言わんとすることを次のように切り出しました。


「さて、主の御国への王道を歩んでおられる同志の諸君、私の述べるところを辛棒強く聞いていただきたい。かのカルバリの丘には実は三つの十字架があった。


三人の救世主がいたわけではない。救世主は一人だけである。同じ日に三人の男が処刑されたが、父の王国における地位くらいが約束できたのは一人だけであった。王たる資格を具えていたのは一人だけだったということである。



三人に死が訪れた。そのあとに憩いが訪れるのであるが、三人のうち安らかな眠りを得たのは一人だけだった。なぜであろうか。


それは父が人間を自己に似せて創造した目的、および洪水の如き勢いをもって千変万化の宇宙を創造した膨大なエネルギーの作用について理解し得るほどの優しき哀れみと偉大なる愛と聖純なる霊性を身につけていたのはイエスの他にいなかったからである。


あまりの苦悩に疲れ果てた主に安らかな眠りを与えたのには、邪悪との長き闘いとその憎悪による圧倒的な重圧の真の意味についての理解があったからであった。


主イエスは最高界より物質界へ降りて差別の世界の深奥しんおうまできわめられた。そして今や物的身体を離れて再び高き天界へと昇って行かれた。そのイエスが最初に心を掛けたのは十字架上でイエスに哀願した盗人のことであり、次は金貨三十枚にてイエスを売り死に至らしめたユダのことだった。


ここに奇妙な三一関係がある。が、この三者にも、もう一つの三一関係(神学上の三位一体説)と同じく、立派に統一性が見られるのである。


 それは、盗人も天国行きを哀願し、ユダも天国へ行きたがっていた。それを主が父への贈物として求めそして見出した。が、地上へ降りてしかもそこに天国を見出し得たのは主のみだった、ということである。


盗人は死にかかった目で今まさに霊の世界への入り口に立てる威風堂々たる王者の姿を見てはじめて、天国は地上だけに存在するものでないことを悟った。


一方の裏切り者はいったん暗黒界への門をくぐったのちに主の飾り気のない童子のごとき純心な美しさを見てはじめて天国を見出した。


それに引きかえ主は地上において既に天国を見出し、父なる神の御国がいかなるものであるかを人々に説いた。それは地上のものであると同時に天界のものでもあった。


肉体に宿っている間においてはその心の奥にあり、死してのちは歩み行くその先に存在した。つまるところ神の御国は天と地を包含していたのである。御国は万物の始まりの中にすでに存在し、その時点において神の御心から天と地が誕生したのであった。


 そこで私は、人間一人ひとりが自分にとっての兄弟であると考えてほしいと申し上げたいのである。カルバリの丘の三つの十字架上の三人三様の特質に注目していただきたい。


つまり完全なる人物すなわち主イエスと、そのイエスが死後に最初に救った二人である。そこにも神の意志が見出されるであろう。


つまり上下の差なく地上の人間のすべてが最後は主イエス・キリストにおいて一体となり、さらに主よりなお偉大なる神のもとで一体となるということである。そこで、さらに私は諸君みずからの中にも主の性格とユダの性格の相違にも似た多様性を見出してほしいのである。


そして、かく考えて行けば父なる神の寛大なる叡智によって多様性をもたらされた人類がいずれは再びその栄光の天国の王室の中にて一体となることが判るであろう。


何となれば神の栄光の中でも最も大いなる栄光は愛の栄光であり、愛なるものは憎しみが分かつものを結び合わせるものだからである」






八章 暗黒街の探訪


 1 光のかけ橋                  

 一九一七年 大晦日


 ここまでの吾々の下降の様子はいたって大まかに述べたにすぎません。が、これから吾々はいよいよ光輝が次第に薄れゆく境涯へ入っていくことになります。


これまでに地上へ降りて死後の世界について語った霊は、生命躍如たる世界については多くを語っても、その反対の境涯についてはあまり多くを語っておりません。いきおい吾々の叙述は理性的正確さを要します。


と言うのも、光明界と暗黒界について偏りのない知識を期待しつつも、性格的に弱く、従って喜びと美しさによる刺戟を必要とする者は、その境界の〝裂け目〟を吾々と共に渡る勇気がなく、怖気づいて背を向け、吾々が暗黒界の知識を携えて光明界へ戻ってくるのを待つことになるからです。


  さて、地上を去った者が必ず通過する(すでにお話した)地域を通りすぎて、吾々はいよいよ暗さを増す境涯へと足を踏み入れた。すると強靭な精神力と用心ぶかい足取りを要する一種異様な魂の圧迫感が急速に増していくのを感じた。


それというのも、この度の吾々は一般に高級霊が採用する方法、つまり身は遠く高き界に置いて通信網だけで接触する方法は取らないことにしていたからです。


これまでと同じように、つまりみずからの身体を平常より低い界の条件に合わせてきたのを、そこから更に一段と低い界の条件に合わせ、その界層の者と全く同じではないがほぼ同じ状態、つまり見ようと思えば見え、触れようと思えば触れられ、吾々の方からも彼らに触れることの出来る程度の鈍重さを身にまとっていました。


そしてゆっくりと歩み、その間もずっと右に述べた状態を保つために辺りに充満する雰囲気を摂取していました。そうすることによって同時に吾々はこれより身を置くことになっている暗黒界の住民の心情をある程度まで察することができました。


 その土地にも光の照っている地域があることはあります。が、その範囲は知れており、すぐに急斜面となってその底は暗闇の中にある。


そのささやかな光の土地に立って深い谷底へ目をやると、一帯をおおう暗闇の濃さは物すごく、吾々の視力では見通すことができなかった。


その不気味な黒い霧の上を薄ぼんやりとした光が射しているが、暗闇を突き通すことはできない。それほど濃厚なのです。その暗黒の世界へ吾々は下って行かねばならないのです。


 貴殿のご母堂が話された例の〝光の橋〟はその暗黒の谷を越えて、その彼方のさらに低い位置にある小高い丘に掛かっています。その低い端まで(暗黒界から)辿り着いた者はいったんそこで休息し、それからこちらの端まで広い道(光の橋)を渡って来ます。


途中には幾つかの休憩所が設けてあり、ある場所まで来ては疲れ果てた身体を休め、元気を回復してから再び歩み始めます。


と言うのも、橋の両側には今抜け出て来たばかりの暗闇と陰気が漂い、しかも今なお暗黒界に残っているかつての仲間の叫び声が、死と絶望の深い谷底から聞こえてくるために、やっと橋までたどり着いても、その橋を通過する時の苦痛は並大抵のことではないのです。


 吾々の目的はその橋を渡ることではありません。その下の暗黒の土地へ下って行くことです。



──今おっしゃった〝小高い丘〟、つまり光の橋が掛かっている向こうの端のその向こうはどうなっているのでしょうか。


 光の橋の向こう側はこちらの端つまり光明界へつながる〝休息地〟ほどは高くない尾根に掛かっています。さほど長い尾根ではなく、こちら側の端が掛かっている断崖と平行に延びています。その尾根も山のごとく聳えており、形は楕円形をしており、すぐ下も、〝休息地〟との間も、谷になっています。


そのずっと向こうは谷の底と同じ地続きの広大な平地で、表面はでこぼこしており、あちらこちらに大きなくぼみや小さな谷があり、その先は一段と低くなり暗さの度が増していきます。暗黒界を目指す者は光の橋にたどり着くまでにその斜面を登って来なければならない。


尾根はさほど長くないと言いましたが、それは荒涼たる平地全体の中での話であって、実際にはかなりの規模で広がっており、途中で道を見失って何度も谷に戻ってきてしまう者が大ぜいいます。


いつ脱出できるかは要は各自の視覚の程度の問題であり、それはさらに改悛の情の深さの問題であり、より高い生活を求める意志の問題です。


 さて吾々はそこで暫し立ち止まり考えを廻らしたあと、仲間の者に向かって私がこう述べた。


 「諸君、いよいよ陰湿な土地にやってまいりました。これからはあまり楽しい気分にはさせてくれませんが、吾々の進むべき道はこの先であり、せいぜい足をしっかりと踏みしめられたい」


 すると一人が言った。


 「憎しみと絶望の冷気が谷底から伝わってくるのが感じられます。あの苦悶の海の中ではロクな仕事はできそうにありませんが、たとえわずかでも、一刻の猶予も許せません。その間も彼らは苦しんでいるのですから・・・・・・」


 「その通り。それが吾々に与えられた使命です」──そう答えて私はさらにこう言葉を継いだ。「しかも、ほかならぬ主の霊もそこまで下りられたのです。


吾々はこれまで光明を求めて主のあとに続いてきました。これからは暗黒の世界へ足を踏み入れようではありませんか。なぜなら暗黒界も主の世界であり、それを主みずから実行してみせられたからです」(暗黒界へ落ちた裏切り者のユダを探し求めて下りたこと。訳者)

 

 かくして吾々は谷を下って行った。行くほどに暗闇が増し、冷気に恐怖感さえ漂いはじめた。しかし吾々は救済に赴く身である。酔狂に怖いものを見に行くのではない。そう自覚している吾々は躊躇することなく、しかし慎重に、正しい方角を確かめながら進んだ。


吾々が予定している最初の逗留地は少し右にそれた位置にあり、光の橋の真下ではなかったので見分けにくかったのです。そこに小さな集落がある。


住民はその暗黒界での生活にうんざりしながら、ではその絶望的な境涯を後にして光明界へ向かうかというと、それだけの力も無ければ方角も判らぬ者ばかりである。


行くほどに吾々の目は次第に暗闇に慣れてきた。そして、ちょうど闇夜に遠い僻地の赤い灯を見届けるように、あたりの様子がどうにか見分けがつくようになってきた。あたりには朽ち果てた建物が数多く立ち並んでいる。


幾つかがひとかたまりになっているところもあれば、一つだけぽつんと建っているのもある。いずこを見てもただ荒廃あるのみである。


吾々が見た感じではその建物の建築に当たった者は、どこかがちょっとでも破損するとすぐにその建物を放置したように思える。あるいは、せっかく仕上げても、少しでも朽ちかかるとすぐに別のところに別の建物を建てたり、建築の途中で嫌になると放置したりしたようである。


やる気の無さと忍耐力の欠如があたり一面に充満している。絶望からくる投げやりの心であり、猜疑心からくるやる気のなさである。ともに身から出た錆であると同時に、同類の者によってそう仕向けられているのである。


 樹木もあることはある。中には大きなものもあるが、その大半に葉が見られない。葉があっても形に愛らしさがない。煤けた緑色と黄色ばかりで、あたかもその周辺に住む者の敵意を象徴するかのように、ヤリのようなギザギザが付いている。幾つか小川を渡ったが、石ころだらけで水が少なく、その水もヘドロだらけで悪臭を放っていた。


 そうこうしているうちに、ようやく目指す集落が見えてきた。市街地というよりは大小さまざまな家屋の集まりといった感じである。それも、てんでんばらばらに散らばっていて秩序が見られない。通りと言えるものは見当たらない。


建物の多くは粘土だけで出来ていたり、平たい石材でどうにか住居の体裁を整えたにすぎないものばかりである。外は明かり用にあちらこちらで焚き火がたかれている。


そのまわりに大勢が集まり、黙って炎を見つめている者もいれば、口ゲンカをしている者もおり、取っ組み合いをしている者もいるといった具合である。


 吾々はその中でも静かにしているグループを見つけて側まで近づき、彼らの例の絶望感に満ちた精神を大いなる哀れみの情をもって見つめた。そして彼らを目の前にして吾々仲間どうしで手を握り合って、この仕事をお与えくださった父なる神に感謝の念を捧げた。



 

  2 小キリストとの出会い      

  一九一八年一月三日 木曜日


 さて彼らのすぐ側まで来てみると、大きくなったり小さくなったりする炎を囲んで、不機嫌な顔つきでしゃがみ込んでいる者もいれば横になっている者もいた。吾々の立っている位置はすぐ後ろなのに見上げようともしない。


もっとも、たとえ見上げても吾々の存在は彼らの目に映らなかったであろう。彼らの視力の波長はその時の吾々の波長には合わなかったからです。


言いかえれば吾々の方が彼らの波長にまで下げていなかったということです。そこで吾々は互いに手を握り合って(エネルギーを強化して)徐々に鈍重性を増していった。すると一人二人と、何やら身近に存在を感じて、落ち着かない様子でモジモジしはじめた。


これが彼らの通例です。つまり何か高いものを求めはじめる時のあの苛立ちと不安と同じものですが、彼らはいつもすぐにそれを引っ込める。


と言うのも、上り行く道は険しく難儀に満ち、落伍する者が多い。最後まで頑張ればその辛苦も報われて余りあるものがあるのですが、彼らにはそこまで悟れない。知る手掛かりといえばこの度の吾々のように、こうして訪れた者から聞かされる話だけなのです。


 そのうち一人が立ち上がって、薄ぼんやりとした闇の中を不安げに見つめた。背の高い痩せ型の男で、手足は節くれだち、全身が前かがみに折れ曲がり、その顔は見るも気の毒なほど希望を失い、絶望に満ち、それが全身に漂っている。


その男がヨタヨタと吾々の方へ歩み寄り、二、三ヤード離れた位置から覗き込むような目つきで見つめた。その様子から吾々はこの暗黒の土地に住む人間のうち少なくとも一にぎりの連中には、吾々の姿がたとえ薄ぼんやりとではあっても見ることが出来ることを知った。


 それを見て私の方から歩み寄ってこう語りかけた。


 「もしもし、拝見したところ大そうやつれていらっしゃるし、心を取り乱しておられる。何か吾々にできることでもあればと思って参ったのですが・・・・・・」


 すると男から返事が返ってきた。それは地下のトンネルを通って聞こえる長い溜め息のような声だった。


 「いったいお前さんはどこの誰じゃ。一人だけではなさそうじゃな。お前さんの後ろにも何人かの姿が見える。どうやらこの土地の者ではなさそうじゃな。いったいどこから来た? そして何の用があってこの暗い所へ来た?」


 それを聞いて私はさらに目を凝らしてその男に見入った。と言うのは、その不気味な声の中にもどこか聞覚えのあるもの、少なくともまるで知らない声ではない何ものかが感じられたのである。そう思った次の瞬間にはたと感づいた。


彼とは地上ですぐ近くに住む間柄だったのである。それどころか、彼はその町の治安判事だった。


そこで私が彼の名を呼んでみた。が私の予期に反して彼は少しも驚きを見せなかった。困惑した顔つきで私を見つめるが、よく判らぬらしい。そこで私がかつての町の名前を言い、続いて奥さんの名前も言ってみた。


すると地面へ目を落とし、手を額に当ててしきりに思い出そうとした。そうしてまず奥さんの名前を思い出し、私の顔を見上げながら二度三度とその名を口ずさんだ。それから私が彼の名前をもう一度言ってみた。すると今度は私の唇からそれが出るとすぐに思い出してこう言った。


 「わかった。思い出した。思い出した。ところで妻は今どうしてるかな。お前さんは何か消息をもってきてくれたのか。どうしてオレをこんなところに置いてきぼりにしやがったのかな、あいつは・・・・・・・」


 そこで私は、奥さんがずっと高い界にいて、彼の方から上がって行かないかぎり彼女の方から会いに下りてくることはできないことを話して聞かせた。が彼にはその辺のことがよく呑み込めなかったようだった。


その薄暗い界でよほど感覚が鈍っているせいか、そこの住民のほとんどが自分がいったいどの辺りにいるのかを知らず、中には自分が死んだことすら気付いていない者がいる。


それほど地上生活の記憶の蘇ることが少なく、たとえ蘇ってもすぐに消え失せ、再び記憶喪失状態となる。それゆえ彼らの大半はその暗黒界以外の場所で生活したことがあるかどうかも知らない状態である。


しかしそのうちその境涯での苦しみをとことん味わってうんざりし始め、どこかもう少しましなところでましな人間と共に暮らせないものかと思い始めた時、その鈍感となっている脳裏にも油然として記憶が蘇り、その時こそ良心の呵責を本格的に味わうことになる。


 そこで私はその男に事の次第を話して聞かせた。彼は地上時代には、彼なりの一方的な愛し方ではあったが、奥さんを深く愛していた。そこで私はその愛の絆をたぐり寄せようと考えた。が、彼は容易にその手に乗らなかった。


 「それほどの(立派になった)人間なら、こんな姿になったオレのところへはもうやってきてはくれまいに・・・・・・」彼がそう言うので


 「ここまで来ることは確かにできない。あなたの方から行ってあげるほかはない。そうすれば奥さんも会ってくれるでしょう」


 これを聞いて彼は腹を立てた。


 「あの、高慢ちきの売女ばいため!オレの前ではやけに貞淑ぶりやがって、些細な過ちを大げさに悲しみやがった。今度会ったら言っといてくれ。せいぜいシミ一つないきれいな館でふんぞり返り、ぐうだら亭主の哀れな姿を眺めてほくそえむがいい、とな。


こちとらだって、カッコは良くないが楽しみには事欠かねえんだ。口惜しかったらここまで下りてくるがいい。ここにいる連中みんなでパーティでも開いて大歓迎してやらぁ。じゃ、あばよ、だんな」


 そう吐き棄てるように言ってから仲間の方を向き、同意を求めるようなうす笑いを浮かべた。


 その時である。別の男が立ち上がってその男を脇へ連れて行った。この人はさっきからずっとみんなに混じって座っており、身なりもみんなと同じようにみすぼらしかったが、その挙動にどことなく穏やかさがあり、また吾々にとっても驚ろきに思えるほどの優雅さが漂っていた。


その人は男に何ごとかしばらく語りかけていたが、やがて連れだって私のところへ来てこう述べた。


 「申し訳ございません。この男はあなた様のおっしゃることがよく呑み込めてないようです。皆さんが咎めに来られたのではなく慰めに来られたことが分かっておりません。あのようなみっともない言葉を吐いて少しばかり後悔しているようです。


あなた様とは地上で知らぬ仲ではなかったことを今言って聞かせたところです。どうかご慈悲で、もう一度声を掛けてやってください。ただ奥さんのことだけは遠慮してやってください。ここに居ないことを自分を見捨てて行ったものと考え、今もってそれが我慢ならないようですので・・・・・・」


 私はこの言葉を聞いて驚かずにはいられなかった。あたりは焚火を囲んでいる連中からの怒号や金切り声や罵り声で騒然としているのに、彼は実に落着き払って静かにそう述べたからです。私はその人に一言お礼を述べてから、先の男のところへ行った。


私にとってはその男がお目当てなのである。と言うのも、彼はこのあたりのボス的存在であり、その影響力が大であるところから、この男さえ説得できれば、後は楽であるとの確信があった。


 私はその男に近づき、腕を取り、名前を呼んで微笑みかけ、雑踏から少し離れたところへ連れて行った。それから地上時代の話を持ち出し、彼が希望に胸を膨らませていたころのことや冒険談、失敗談、そして犯した罪の幾つかを語って聞かせた。


彼は必ずしもその全てを潔く認めなかったが、いよいよ別れぎわになって、そのうちの二つの罪をその通りだと言って認めた。これは大きな収穫でした。


そこで私は今述べた地上時代のことにもう一度思いを馳せてほしい・・・・・・そのうち再び会いに来よう・・・・・・・君さえよかったら・・・・・・と述べた。そして私は彼の手を思い切り固く握りしめて別れた。


分かれた後彼は一人でしゃがみ込み、膝をあごのところまで引き寄せ、向こうずねを抱くような格好で焚き火に見入ったまま思いに耽っていました。


 私はぜひさきの男性に会いたいと思った。もう一度探し出して話してからでないと去り難い気がしたのです。私はその人のことを霊的にそろそろその境涯よりも一段高いところへ行くべき準備ができている人ぐらいにと考えていました。


すぐには見つからなかったが、やがて倒れた木の幹に一人の女性と少し距離を置いて腰かけて語り合っているところを見つけた。女性はその人の話に熱心に聞き入っています。


 私が近づくのを見て彼は立ち上がって彼の方から歩み寄ってきた。そこで私はまずこう述べた。


 「この度はお世話になりました。お蔭さまであの気の毒な男に何とか私の気持ちを伝えることが出来ました。あなたのお口添えが無かったらこうはいかなかったでしょう。


どうやらこのあたりの住民のことについてはあなたの方が私よりもよく心得ていらっしゃるようで、お蔭で助かりました。ところで、あなたご自身の身の上、そしてこれから先のことはどうなっているのでしょう?」


 彼はこう答えた。


 「こちらこそお礼申し上げたいところです。私の身の上をこれ以上隠すべきでもなさそうですので申し上げますが、実は私はこの土地の者ではなく、第四界に所属している者です。私はみずから志願してこうした暗黒街で暮らす気の毒な魂を私にできる範囲で救うためにここに参っております」


 私は驚いて「ずっとここで暮らしておられるのでしょうか」と尋ねた。


 「ええ、随分長いこと暮らしております。でも、あまりの息苦しさに耐えかねた時は、英気を養うために本来の界へ戻って、それから再びやってまいります」


 「これまで何度ほど戻られましたか」


 「私がこの土地へ初めて降りてきてから地上の時間にしてほぼ六十年が過ぎましたが、その間に九回ほど戻りました。初めのうちは地上時代の顔見知りの者がここへやってくることがありましたが、今では一人もいなくなりました。みんな見知らぬ者ばかりです。でも一人ひとりの救済のための努力を続けております」


 この話を聞いて私は驚くと同時に大いに恥じ入る思いがした。


 この度の吾々一団の遠征は一時的なものに過ぎない。それを大変な徳積であるかに思い込んでいた。が、今目の前に立ってる男はそれとは次元の異なる徳積みをしてる。己れの栄光を犠牲にして他の者のために身を捧げているのである。


その時まで私は一個の人間の同胞とものために己れを犠牲にするということの真の意味を知らずにいたように思う。


それも、こうした境涯の者のために自ら死の影とも呼ぶべき暗黒の中で暮らしているのである。彼はそうした私の胸中を察したようです。私の恥じ入る気持ちを和らげるためにこう洩らした。


 「なに、これも主イエスへのお返しのつもりです──主もあれほどの犠牲を払われて吾々にお恵みくださったのですから・・・・・・」


 私は思わず彼の手を取ってこう述べた。


 「あなたはまさしく〝神の愛の書〟の聖句を私に読んで聞かせてくださいました。主の広く深き美しさと愛の厳しさは吾々の理解を超えます。理解するよりも、ただ讃仰するのみです。が、それだけに、少しでも主に近き人物、言うなれば小キリストたらんと努める者と交わることは有益です。思うにあなたこそその小キリストのお一人であらせられます」


 が、彼は頭を垂れるのみであった。そして私がその髪を左右に分けられたところに崇敬の口づけをした時、彼はひとり言のようにこう呟いたのだった。


 「勿体ないお言葉──私に少しでもそれに値するものがあれば──その有難き御名に相応しきものが一かけらでもあれば・・・・・・」




 3 冒涜の都市

一九一八年一月四日  金曜日


 その集落を後にしてから吾々はさらに暗黒界の奥地へと足を踏み入れました。そこここに家屋が群がり、焚き火が燃えている中を進みながら耳を貸す意志のある者に慰めの言葉や忠言を与えるべく吾々として最善の努力をしたつもりです。


が、残念なことにその大部分は受け入れる用意はできていませんでした。反省してすぐさま向上の道へ向かう者は極めて少ないものです。


多くはまず強情がほぐれて絶望感を味わい、その絶望感が憧憬の念へと変わり、哀れなる迷える魂に微かな光が輝き始める。そこでようやく悔恨の情が湧き、罪の償い意識が芽生え、例の光の橋へ向けての辛い旅が始まります。


が、この土地の者がその段階に至るのはまだまだ先のことと判断してその集落を後にしました。


吾々には使命があります。そして心の中にはその特別の仕事が待ち受けている土地への地図が刻み込まれております。決して足の向くまま気の向くままに暗黒界を旅しているのではありません。ただならぬ目的があって高き神霊の命によって派遣されているのです。


 行くほどに邪悪性の雰囲気が次第に募るのを感じ取りました。銘記していただきたいのは、地域によって同じ邪悪性にも〝威力〟に差があり、また〝性質たち〟が異なることです。


同時に又、地上と同じくその作用にムラが見られます。邪悪もすべてが一つの型にはまるとはかぎらないということです。


そこにも自由意志と個性が認められているということであり、どれだけ永い期間それに浸るかによって強烈となっているものもあれば比較的弱いものもある。それは地上においても天界の上層界においても同じことです。


 やがて大きな都市にたどり着いた。守衛の一団が行進歩調で行き来する中を、どっしりとした大門を通り抜けて市中へ入った。それまでは姿を見せるために波長を下げていたのを、こんどは反対に高めて彼らの目に映じない姿で通り抜けたわけです。


大門を通り抜けてすぐの大通りの両側には、まるで監獄の防壁のような、がっしりとした作りの大きな家屋が並んでいる。


そのうちの何軒かの通風孔から毒々しい感じの明りが洩れて通路を照らし、吾々の行く先をぎっている。そこを踏みしめて進むうちに大きな広場に来た。


そこに一つの彫像が高い台の上に立っている。広場の中央ではなく、やや片側に寄っており、そのすぐそばに、その辺りで一番大きい建物が立っていた。


 彫像はローマ貴族のトーガ(ウールのゆるやかな外衣)をまとった男性で、左手に鏡を持って自分の顔を映し、右手にフラゴン(聖餐用のぶどう酒ビン)を持ち、今まさに足もとの水だらいにドボドボとぶどう酒を注いでいる──崇高なる儀式の風刺パロディです。


しかもその水だらいの縁にはさまざまな人物像がこれまた皮肉たっぷりに刻まれている。


子供が遊んでいる図があるが、そのゲームは生きた子羊のいじめっ子である。別のところにはあられもない姿の女性が赤ん坊を逆さに抱いている図が彫ってある。


すべてがこうした調子で真面目なものを侮っている──童子性、母性、勇気、崇拝、愛、等々を冒涜し、吾々がその都市において崇高なるものへの憧憬を説かんとする気力を殺がせる、卑猥ひわいにして無節操きわまるものばかりである。


あたり一体が不潔と侮辱に満ちている。どの建物を見ても構造と装飾に唖然とさせられる。しかし初めに述べた如く吾々には目的がある。嫌なことをいとってはならない。使命に向かって突き進まねばならない。


 そこで吾々は意念を操作して姿をそこの住民の目に映じる波長に落としてから、右の彫像のすぐ後ろの大きな建物──悪の宮殿──の門をくぐった。


土牢に似た大きな入り口を通り抜けて進むと、バルコニーに通じる戸口まで来た。バルコニーは見上げるようなホールの床と天井の中間を巻くようにしつらえてあり、ところどころに昇降階段が付いている。


吾々はその手すりのところまで近づいてホールの中をのぞいた。そこから耳をつんざくような強烈な声が聞こえてくるが、しばらくはそれを発している人物が見えなかった。


そうして吾々の目があたりを照らす毒々しい赤っぽい光に慣れてくると、どうやら中の様子が判ってきた。


 すぐ表面に見えるホールの中央にバルコニーへ出る大きな階段がらせん状に付いている。それを取り囲むようにして聴衆が群がり、階段もその中ほどまで男女がすずなりになっている。が、その身なりはだらしなく粗末である。


そのくせ豪華に見せようとする意図がみられる。たとえば黄金や銀のベルトに首かざり、銀のブローチ、宝石をあしらったバックルや留め金を身につけている者がそこらじゅうにいる。が、ぜんぶ模造品であることは一目で判る。


黄金に見えるものはただの安ピカの金属片であり、宝石も模造品である。その階段の上段に演説者が立っている。大きな図体をしており、邪悪性が他を威圧する如くにその図体が他の誰よりも大きい。


頭部にはトゲのある冠をつけ、汚らしい灰色をしたマントルを羽織っている。かつては白かったのが性質がらが反映してすすけてしまったのであろう。


胸のあたりにニセの黄金で作った二本の帯が交叉し、腰のあたりで革紐で留めてある。足にはサンダルを履き、その足もとに牧羊者の(先の曲がった)杖が置いてある。が、見ている吾々に思わず溜息をつかせたのは冠であった。


トゲはいばらのトゲを黄金であしらい、陰気な眉のあたりを巻いていた。



 帰れるものなら今すぐにも帰りたい心境であった。が、吾々には目的がある。どうしても演説者の話を最後まで聞いてやらねばならなかった。そのときの演説の中身を伝えるのは私にとって苦痛です。貴殿が書き取るのも苦痛であろうと思います。


が、地上にいる間にこうした暗黒界の実情を知っておくことです。なぜなら、こちらの世界にはもはや地上のような善と悪の混在の生活がない。善は高く上がり悪は低く下がり、この恐ろしい暗黒界に至っては、善による悪の中和というものは有り得ない。悪が悪とともに存在して、地上では考えられないような冒涜行為が横行するようになります。


 何と、彼が説いていたのは〝平和の福音〟だった。そのごく一部だけを紹介して、後はご想像にお任せすることにしたい。 



 「そこでじゃ、諸君、吾々はその子羊を惨殺した獣を崇拝するために、素直な気持ちでここに参集した。子羊が殺害されたということは、われわれが幸福な身の上となり呪われし者の忌まわしき苦しみを乗り越えて生きて行こうとする目的にとっては、その殺害者は事実上のわれわれの恩人ということである。


それ故、諸君、その獣が子羊を真剣に求めそして見出し、その無害の役立たずものから生命いのちの血液と贖いをもたらしてくれたごとくに、諸君も、つねに品性高き行為に御熱心であるからには、その子羊に相当するものを見つけ出し、かの牧羊者が教え給うたごとくに行うべきである。


諸君の抜け目なき沈着さをもって、子羊の如き惰性の中から歓喜の熱情と興奮に燃える生命をもたらすべきである・・・・・・そして女性諸君。げすな優雅さに毒されたその耳に私より一服の清涼剤を吹き込んで差し上げよう。


私を総督に選出してくれたこの偉大なる境涯に幼児はやって参らぬ。がしかし、諸君に申上げよう。どうか優しさをモットーとするこの私と、私が手にしているこの杖をとくと見てほしい。そして私を諸君の牧羊者と考えてほしい。


これより諸君を、多すぎるほどの子供を抱えている者のところへこの私がご案内しよう。


その者たちは、かつてせっかく生命を孕みながら、あまりに深き慈悲ゆえに、その生命を地上に送って苦をなめさせるに忍びず、生け贄としてモロック(*)の祭壇に捧げたごとく、その母なる胸より放り棄てるほど多くの子供を抱えている。


さ、諸君、生け贄とされた子をいとおしみつつも、その子の余りに生々しき記憶におびえ、それを棄て去らんと望む者のところへ私が連れて参ろう」(* 子供を人身御供ひとみごくうとして祭ったセム族の神。レビ記18・21、列王記23・10。訳者)


 こうした調子で彼は演説を続けたが、その余りの冒涜性のゆえに私はこれ以上述べる気がしません。カスリーンに中継させるのも忍びないし、貴殿に聞かせるのも気がひけます。


それを敢えて以上だけでも述べたのは、貴殿並びに他の人々にこの男の善性への冷笑と愚弄ぐろう的従順さの一端を知っていただきたかったからであり、しかも彼がこの境涯にいる無数の同類の一つのタイプに過ぎないことを知っていただくためです。


いかにも心優しい人物を装い、いかにも遠慮がちに述べつつも、実はこの男はこの界層でも名うての獰猛どうもうさと残忍さを具えた暴君の一人なのです。


確かに彼はその国の総督に選ばれたことは事実ですが、それは彼の邪悪性を恐れてのことだった。その彼が、見るも哀れな半狂乱の聴衆を〝品性高き者〟と述べたものだから、彼らは同じ恐怖心にお追従ついしょうも手伝って彼の演説に大いなる拍手を送った。


彼はまた聴衆の中の毒々しく飾った醜女たちを〝貴婦人〟と呼び、羊飼いに羊が従うごとくに自分に付いてくるがよいと命じた。


するとこれまた恐怖心から彼女たちは拍手喝采をもって同意し、彼に従うべく全員が起立した。彼はくるりと向きを変えて、その巨大な階段を登ろうとした。



 彼は次の段に杖を突いて、やおら一歩踏み出そうとして、ふとその足を引いて逆に一歩二歩と後ずさりし、ついに床の上に降りた。全会衆は希望と恐怖の入り混じった驚きで、息を呑んで身を屈めていた。その理由はほかならぬ階段の上段に現われた吾々の姿だったのです。


吾々はその環境において発揮できる限りの本来の光輝を身にまとって一番上段に立ち、さらに霊団の一人である女性が五、六段下がったところに立っていました。


エメラルドの玉飾りで茶色がかった金色の髪をまゆの上あたりでしばり、霊格を示す宝石が肩のあたりで輝いており、その徳の高さを有りのまま表している。胴の中ほどを銀のベルトでしばっている。こうした飾りが目の前の群集の安ピカの宝石と際立った対照を見せている。


両手で白百合の花束を抱えているその姿は、まさしく愛らしい女性像の極致で、先ほどの演説者の卑猥な冒涜に対する挑戦でした。


 男性も女性もしばしその姿に見とれていたが、そのうち一人の女性が思わずすすり泣きを始め、まとっていたマントでその声を抑えようとした。が、他の女性たちも甦ってくるかつての女性らしさに抗しきれずに泣き崩れ、ホールは女性の号泣で満たされてしまった。


そうして、見よ、その悲劇と屈従の境涯においては久しく聞くことのなかった純情の泣き声に男たちまで思わず手で顔おおい、地面に身を伏せ、厚い埃もかまわずに床に額をすりつけるのだった。


 が、総督は引っ込んでいなかった。自分の権威に脅威が迫ったと感じたのである。全身に怒りをあらわにしながら、ひれ伏す女性たちのからだを踏みつけながら、大股で、最初に泣きだした女性のところへ歩み寄った。それを見て私は急いで階段の一番下まで降りて一喝した──


 「待たれよ!私のところへ来なされ!」


  私の声に彼は振り返り、ニヤリとしてこう述べた。


 「貴殿は歓迎いたそう。どうぞお出でなされ。吾輩はここにいる臆病な女どもが貴殿の後ろのあのご婦人の光に目が眩んだようなので正気づかせようとしているまでじゃ。みんなして貴殿を丁重にお迎えするためにな・・・・・・」


  が、私は厳しい口調で言い放った。


 「お黙りなさい! ここへ来なされ!」


 すると彼は素直にやって来て私の前に立ったので、続けてこう言って聞かせた。


 「あの演説といい、その虚飾といい、冒涜の度が過ぎますぞ!  まずその冠を取りなさい。それからその牧羊者の杖も手放しなさい。よくも主を冒涜し、主の子等を恐怖心で束縛してきたものです」


 彼は私の言う通りにした。そこで私はすぐ側にいた側近の者に、さきほどよりは優しい口調でこう言って聞かせた。


 「あなた達はあまりに長いあいだ臆病すぎました。この男によって身も心も奴隷にされてきました。この男はもっと邪悪性の強い者が支配する都市へ行かせることにします。これまでこの男に仕えてきたあなた達にそれを命じます。


そのマントを脱がせ,そのベルトを外させなさい。主を愚弄するものです。彼もいつかはその主に恭順の意を表することになるであろうが・・・・・・」

 

 そう言って私は待った。すると四人の男が進み出てベルトを外しはじめた。男は怒って抵抗したが、私が杖を取り上げてその先で肩を抑えると、その杖を伝って私の威力を感じておとなしくなった。


これで私の意図が叶えられた。私は彼にそのホールから出て外で待機している衛兵に連れられて遠い土地にある別の都市へ行き、そこでこれまで他人にしてきたのと同じことをとくと味わってくるようにと言いつけた。


 それからホールの会衆にきちんと坐り直すように言いつけ、全員が落着いたところで最初に紹介した歌手に合図を送った。すると強烈な歌声がホール全体に響き渡った。


その響きに会衆の心はさらに鼓舞され、そこにはもはやそれまで例の男によって抑えられてきた束縛の跡は見られなかった。あたりの明りから毒々しい赤味が消え、柔らかな明るさが増し、安らかさが会場にみなぎり、興奮と感激に震える身体を爽やかに包むのでした。



──どんなことを歌って聞かせたのでしょうか。


活発な喜びと陽気さにあふれた歌──春の気分、夜の牢獄が破られて訪れる朝の気分に満ち、魂を解放する歌、小鳥や木々、せせらぎが奏でるようなメロディーを歌い上げました。


聖とか神とかの用語は一語も使っておりません。少なくともその場、その時には、一切口にしませんでした。彼らにとって何よりも必要とした薬は、それまでの奴隷的状態からの解放感を味わうように個性に刺戟を与えることでした。


そこで彼は生命の喜びと友愛の楽しさを歌い上げたのでした。と言って、それで彼らがいきなり陽気になったわけではありません。言わば絶望感が薄らいだ程度でした。


そのあとは吾々が引き受け、訓戒を与え、かくしてようやくそのホールが、かつては気の向かぬまま恐怖の中で聞かされていた冒涜の対象イエス・キリストの崇拝者によって満たされる日が来ました。


崇拝といっても、善性にあふれた上層界でのそれとは較べものになりませんが、調和の欠けた彼らの哀れな声の中にも、この度の吾々のように猜疑心と恐怖心に満ちた彼らの邪悪な感情のるつぼに飛び込んで苦心した者の耳には、どこか心を和ませる希望の響きが感じられるのでした。


 それからあとは吾々に代って訪れる別の霊団によって強化と鍛錬を受け、それから先の長くかつ苦しい、しかし刻一刻開けてゆく魂の夜明けへ向けての旅に備えることになっており、吾々は吾々で、さらに次の目的地へ向けて出発したのでした。



──そのホールに集まったのは同じ性質の者ばかりですか。


  ほぼ同じです。大体において同質の者ばかりです。性格的に欠けたところのある者も少しはおりました。それよりも、貴殿には奇異で有り得ないことのように思える事実をお話しましょう。         


彼らのうちの何名かがさきの総督の失脚のお伴をすることになったことです。彼の邪悪性の影響を受けて一心同体と言えるほどまでになっていたために、彼らの個性には自主的に行動する独立性が欠けていたわけです。


そのために、それまで総督の毒々しい威力の中で仕えてきたごとくに、その失脚のお伴まですることなった。が、その数はわずかであり、別の事情で別の土地へ向かうことになった者も少しばかりいました。


しかし大多数は居残って、久しく忘れていた真理を改めて学び直すことになりました。


遠い昔の話は今の彼らにとっては新鮮に響き、かつ素晴らしいものに思えるらしく、見ている吾々には可哀そうにさえ思えました。



──その後総督はどうなりましたか。


 今も衛兵が連れて行った遠い都市にいます。邪性と悪意は相も変らずで、まだまだ戻っては来れません。この種の人間の高尚な者へ目を向けるようになるのは容易なことではないのです。



──衛兵が連れて行ったと言われましたが、それはどんな連中ですか。


 これはまた難しい質問をなさいましたね。これは神について、その叡智、その絶対的支配についてもっと深く悟るまでは、理解することは困難な問題の一つです。


一言でいえば神の支配は天国だけでなく地獄にも及んでいるということで、地獄も神の国であり(悪魔ではなく)神のみが支配しているということです。先の衛兵は実は総督を連れて行った都市の住民です。


邪悪性の強い人間であることは確かであり、神への信仰などおよそ縁のない連中です。ですが総督を連行するように命ぜられた時、誰がそう裁決したのか聞こうともせず、それが彼にとって最終的な救済手段であることも知らぬまま、文句も言わずに命令に従った。


この辺の経緯の裏側を深く洞察なされば、地上で起こる不可解な出来ごとの多くを解くカギを見出すことが出来るでしょう。


 大ていの人間は悪人は神の御国の範囲の外にいるもの───罪悪や災害は神のエネルギーが誤って顕現したものと考えます。しかし実は両者とも神の御手の中にあり、悪人さえも、本人はそうと知らずとも、究極においてはそれなりの計画と目的を成就させられているのです。


この問題はしかし、今ここで扱うには少し大きすぎます。では、お寝みになられたい。吾々の安らぎが貴殿のものとなるよう祈ります。



 

 4 悪の効用

一九一八年一月八日 火曜日


 こうした暗黒の境涯において哀れみと援助を授ける使命に携わっているうちに、前もって立てられた計画が実は吾々自身の教育のために(上層界において)巧妙に配慮されていることが判ってきました。


訪れる集落の一つひとつが順序よく吾々に新たな体験をさせ、吾々がその土地の者に救いの手を差しのべている間に、吾々自身も、一団と高き界から幸福と教訓を授けんとする霊団の世話にあずかるという仕組みになっていたわけです。


その仕組みの中に吾々がすでに述べた原理の別の側面、すなわち神に反抗する者たちの力を逆手に取って神の仕事に活用する叡智を読み取っていただけるでしょう。



──彼らの納得を得ずに、ですか。


 彼らの反感を買わずに、です。暗黒界の奥深く沈みこみ、光明界からの影響力に対して反応を示さなくなっている彼らでさえ、神の計画に貢献すべく活用されているということです。


やがて彼らが最後の審判の日(第一巻五章参照)へ向けて歩を進め、いよいよ罪の清算が行われるに際して、自分でこそ気が付かないが、そういう形での僅かな貢献も、少なくともその時は神の御心に対していつもの反抗的態度を取らなかったという意味において、聖なるものとして考慮に入れてもらえるのです。



──でも前回に出た総督はどうみてもその種の人間ではないと思いますが、彼のような者でもやはり何か有用性はあったのでしょうか。


 ありました。彼なりの有用性がありました。つまり彼の失脚が、かつての仲間に、彼よりも大きな威力を持つ者がいることを示すことになったのです。


同時に、悪事は必ずしも傲慢ごうまんさとは結びつかず、天秤てんびんは遅かれ早かれいつかは平衡へいこうを取り戻して、差引勘定がきっちりと合わされるようになっていることも教えることになりました。


もっとも、あの総督自身はそれを自分の存在価値とは認めないでしょう。と言うのも、彼には吾々の気持ちが通じず、不信の念ばかりが渦巻いていたからです。


それでも、その時点ですでに部分的にせよそれまでの彼の罪に対する罰が与えられたからには、それだけのものが彼の償うべき罪業の総計から差し引かれ、消極的な意味ながらその分だけ彼にとってプラスになることを理解すべきです。



 もっとも、貴殿の質問には大切な要素が含まれております。総督の取り扱い方は本人は気に入らなかったでしょうが、実はあれは、あそこまで総督の横暴を許した他の者に対する見せしめの意味も含まれておりました。


吾々があの界へ派遣され、あのホールへ導かれたのもそれが目的でした。その時はそうとは理解しておらず、自分たちの判断で行動したつもりでした。が実際には上層界の計画だったというわけです。


 さて、貴殿の方さえよろしければもっと話を進めて、吾々が訪れた土地、そこの住民、生活状態、行状、そして吾々がそこの人たちにどんなことをしてあげたかを述べましょう。あちらこちらに似たような性質たちの人間が寄り集まった集落がありました。


寄り集まるといっても一時的なもので、孤独感を紛らわすために仲間を求めてあっちの集落、こっちの集落と渡り歩き、嫌気がさすとすぐにまた荒野へ逃れて行くということを繰り返しています。その様子は見ていて悲しいものです。


 ほとんど例外なく各集落には首領ボスが──そして押しの強さにおいてボスに近いものを持つ複数の子分が──いて睨みをきかせ、その威圧感から出る恐怖心によって多くの者を隷属させている。


その一つを紹介すれば──これは実に荒涼とした寂しい僻地をえんえんと歩いてようやく辿り着いた集落ですが──まわりを頑丈な壁で囲み、しかもその領域が実に広い。中に入ると、さっそく衛兵に呼び止められました。衛兵の数は十人ほどいました。そこが正門であり、翼壁が二重になっている大きなものです。


みな図体も大きく、邪悪性も極度に発達している。吾々を呼び止めてからキャプテンがこう尋問した。


「どちらから来られた?」

「荒野を通っていく途中ですが・・・・・・」


「で、ここへは何の用がおありかな?」

 その口調には地上時代には教養人であったことを窺わせるものがあり、挙動にもそれが表れていた。が、今ではそれも敵意と侮蔑ぶべつで色付けされてる。それがこうした悲しい境涯の常なのです。


 その尋問に吾々は───代表して私が───答えた。

 「こちらの親分さんが奴隷のように働かせている鉱山の労働者たちに用事がありまして・・・・・・」


 「それはまた結構な旅で・・・・・・」いかにも愉快そうに言うその言葉には吾々を騙そうとする意図が窺える。「気の毒にあの人たちは自分たちの仕事ぶりを正しく評価し悩みを聞いてくださる立派な方が一日も早く来てくれないものかと一生懸命でしてな」


 「中にはこちらの親分さんのところから一ときも早く逃れたいと思っている者もいるようですな。あなた方もそれぞれに頭の痛いことで・・・・・・」


 これを聞いてキャプテンのそれまでのニコニコ顔が陰気なしかめっ面に一変した。ちらりと見せた白い歯は血に飢えた狼のそれだった。その上、彼の気分の変化とともに、あたりに一段と暗いモヤが立ちこめた。そしてこう言った。


 「この私も奴隷にされているとおっしゃるのかな?」

 「ボスの奴隷であり、ヒモでいらっしゃる。まさしく奴隷であり、さらに奴隷たちの使用人でもいらっしゃる」


 「でたらめを言うとお前たちもオレたちと同じ身の上にするぞ。ボスのために金と鉄を掘らされることになるぞ」


 そう言い放って衛兵の方を向き、吾々を逮捕してボスの館へ連れて行くように命じた。

が私は逆に私の方からキャプテンに近づいて彼の手首に私の手を触れた。するとそれが彼に悶えるほどの苦痛を与え、引き抜いていた剣を思わず放り出した。私はなおも手を離さなかった。


私のオーラと彼のオーラとが衝突して、その衝撃が彼に苦痛を与えるのであるが、私には一向に応えない。私の方が霊力において勝るために、彼は悶えても私には何の苦痛もない。貴殿もその気があれば心霊仲間と一緒にこの霊的力学について勉強なさることです。


これは顕と幽にまたがる普遍的な原理です。勉強なされば判ります。さて私は彼に言った。


 「吾々はこの暗黒の土地の者ではありませんぞ。主の御国から参った者です。同じ生命を受けておりながら貴殿はそれを邪悪な目的に使って冒涜しておられる。今はまだ貴殿はこの城壁と残虐なボスから逃れて自由の身となる時期ではない」


 彼はようやくその偉ぶった態度の薄い殻を破って本心をのぞかせ、こう哀願した。

 「なぜ私はこの地獄の境涯とあのボスから逃れられないのですか。ほかの者は逃れて、なぜこの私だけ・・・・・・」


 「まだその資格ありとのお裁きがないからです。これより吾々がすることをよくご覧になられることです。反抗せずに吾々の仕事を援助していただきたい。そして吾々が去ったあと、そのことをじっくりと反省なさっておれば、そのうち多分その中に祝福を見出されるでしょう」


 「祝福ね・・・・・・・」そう言って彼はニヤリと笑い、さらに声に出して笑いだしたが、その笑いには愉快さは一かけらも無かった。が、それから一段と真剣な顔つきでこう聞いた。


 「で、この私に何をお望みで?」

 「鉱山の入口まで案内していただきたい」

 「もしイヤだと言ったら?」

 「吾々だけで行くことにする。そして貴殿は折角のチャンスを失うことになるまでですな・・・・・・」


 そう言われて彼はしばらく黙っていたが、やがて、もしかしたらその方が得かもしれないと思って、大きな声で言った。


 「いや、案内します。案内します。少しでも善行のチャンスがあるのなら、いつも止められているこの私にやらせていただきます。もしあのボスめが邪魔しやがったら、こんどこそただじゃおかんぞ」


 そう言って彼は歩き出したので吾々もその後に続いた。歩きながら彼はずっと誰に言うともなくブツブツとこう言い続けた。


 「彼奴とはいつも考えや計画が食い違うんだ。何かとオレの考えを邪魔しやがる、さんざん意地悪をしてきたくせに、まだ気が済まんらしい。云々・・・・・・」


 そのうち振り返って吾々にこう述べた。


 「申し分けありません。この土地の者はみな、ここでしっかりしなくては、という時になるといつも頭が鈍るんです。多分気候のせいでしょう。もしかしたら過労のせいかも知れません。どうかこのまま私に付いてきてください。お探しになっておられるところへ私がきっとご案内いたしますので・・・・・・」


 彼の物の言い方と態度には軽薄さと冷笑的態度と冷酷さとが滲み出ている。が、今は霊的に私に牛取られているためにそれがかなり抑えられていて、反抗的態度に出ないだけである。


吾々は彼の後について行った。いくつか市街地を通ったが、平屋ばかりが何のまとまりもなく雑然と建てられ、家と家の間隔が広く空き、空地には目を和ませる草木一本見当たらず、じめじめした場所の雑草と、熱風に吹かれて葉が枯れ落ち枝だけとなった低木が見える程度である。


その熱風は主として今吾々が近づきつつある鉱山の地下道から吹き上げていた。


 家屋は鉱山で働く奴隷労働者が永い労働のあとほんの僅かの間だけ休息を取るためのものだった。それを後にしてさらに行くと、間もなく地下深く続く坑道の大きな入口に来た。が、近づいた吾々は思わず後ずさりした。猛烈な悪臭を含んだ熱風が吹き出ていたからである。


吾々はいったんそれを避けてエネルギーを補充しなければならなかった。それが済むと、心を無情にして中に入り、キャップテンの後について坑道を下りていった。彼は今は黙したままで、精神的に圧迫を感じているのが分かる。


それは、そうでなくても前屈みになる下り道でなおいっそう肩をすぼめてる様子から窺えた。


 そこで私が声を掛けてみた。振り向いて吾々を見上げたその顔は苦痛に歪み、青ざめていた。


 「どうなされた?ひどく沈んでおられるが・・・・・・この坑道の入口に近づいた頃から苦しそうな表情になりましたな」


 私がそう言うと彼はえらく神妙な調子で答えた。


「実は私もかつてはこの地獄のような焦熱の中でピッケルとシャベルを握って働かされた一人でして、その時の恐ろしさが今甦ってきて・・・・・・」


 「だったら今ここで働いている者に対する一かけらの哀れみの情が無いものか、自分の魂の中を探してみられてはどうかな?」


 弱気になっていた彼は私の言葉を聞いて坑道の脇の丸石の上に腰を下ろしてしまい、そして意外なことを口にした。


 「とんでもない。とんでもない。哀れみが必要なのはこの私の方だ。彼らではない・・・」


 「でも、そなたは彼らのような奴隷状態から脱し、鉱山から出て、今ではボスと呼んでいる男に仕えている、結構な身の上ではありませんか」


 「貴殿のことを私は叡智に長けた人物とお見受けしていたが、どうやらその貴殿にも、一つの奴隷状態から一段と高い権威ある奴隷になることは、粗末なシャツをトゲのある立派なシャツに着替えるようなものであることをご存知ないようだ・・・・・・」


 恥ずかしながら私はそれを聞いて初めて、それまでの暗黒界の体験で学んだことにもう一つ教訓を加えることになりました。この境涯に住む者は常に少しでもラクになりたいと望み、奴隷の苦役から逃れて威張れる地位へ上がるチャンスを窺っている。が、


ようやくその地位に上がってみると、心に描いていた魅力は一転して恐怖の悪夢となる。


それは残虐で冷酷な悪意の権化であるボスに近づくことに他ならないからである。なるほど、これでは魅力はすぐに失せ、希望が幻滅とともに消えてしまう。それでも彼らはなおも昇級を志し、野心に燃え、狂気の如き激情をもって悶える。そのことを私は今になってやっと知った。


その何よりの実物教訓が今すぐ目の前で、地獄の現場での数々の恐怖の記憶の中で気力を失い、しゃがみ込んでいる。その哀れな姿を見て私はこう尋ねた。


 「同胞としてお聞きするが、こういう生活が人間として価値あることと思われるかな?」


 「人間として・・・か。そんなものはこの仕事をするようになってから捨てちまった──と言うよりは、私をこの鉱山に押し込んだ連中によって剥ぎ取られちまった。今じゃもう人間なんかじゃありません。


悪魔です。喜びといえば他人を痛めつけること。楽しみと言えば残虐行為を一つひとつ積み重ねること。そして自分が味わってきた苦しみを他の者たちがどれだけ耐え忍ぶかを見つめることとなってしまいました」


 「それで満足しておられるのかな?」

 彼はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて口を開いた──「いいや」


 それを聞いて私は再び彼の肩に手を置いた。私のオーラを押し付けた前回と違って、今回は私の心に同情の念があった。そして言った。


 「同胞ともよ!」

 ところが私のその一言に彼はきっとして私を睨みつけて言った。


 「貴殿はさっきもその言葉を使われた。真面目そうな顔をしながらこの私をからかっておられる。どうせここではみんなで愚弄し合っているんだ・・・・・・」


 「とんでもない」と私はたしなめて言った。


 「そなたがいま仕えている男をボスと呼んでおられるが、彼の権威は、そなたが彼より授かった権威と同じく名ばかりで実質はないのです。そなたは今やっと後悔の念を覚えはじめておられるが、後悔するだけでは何の徳にもなりません。


それが罪悪に対する自責の念の部屋へ通じる戸口となって初めて価値があります。この土地での用事が終わって吾々が去ったあと、今回の私との間の出来ごとをもう一度はじめから反芻し、その上で、私がそなたを同胞と呼んだわけを考えていただきたい。


その時もし私の援助が必要であれば呼んでください。きっと参ります──そうお約束します。ところで、もっと下りましょう。ずっと奥の作業場まで参りましょう。早く用事を終えて先へ進みたいのです。ここにいると圧迫感を覚えます」


「圧迫感を覚える? でも貴殿が苦しまれる謂われはないじゃありませんか。ご自分の意志でここへ来られたのであり、罪を犯した結果として連れて来られたわけではないのですから、決してそんなはずはありません」


 それに対する返事として私は、彼が素直に納得してくれれば彼にとって救いになる話としてこう述べた。


 「主にお会いしたことのある私の言うことをぜひ信じてほしい。この地獄の暗黒牢にいる者のうちの一人が苦しむ時、主はその肩に鮮血の如き赤色のルビーを一つお付けになる。吾々がそれに気づいて主の目を見ると主も同じように苦しんでおられるのが判ります。


こうして吾々なりの救済活動に携わっている者も、主と同じほどではないにしても、少なくとも苦しむ者と同じ苦しみを覚えるという事実においては主と同じであるということをうれしく思っております。


ですから、そなたの苦しみが吾々の苦しみであること、そしてそなたのことを同胞ともと呼ぶことを驚かれることはありません。大いなる海の如き愛を持って主がそう配慮してくださっているのですから」





 5 地獄の底 

一九一八年一月十一日  金曜日


 私の話に元気づけられたキャプテンの後に付いて、吾々は再び下りて行った。やがて岩肌に掘り刻まれた階段のところに来て、それを降りきると巨大な門があった。キャプテンが腰に差していたムチの持ち手で扉を叩くと、鉄格子から恐ろしい顔をした男がのぞいて〝誰だ?〟と言う。


形は人間に違いないが、獰猛な野獣の感じが漂い、大きな口、恐ろしい牙、長い耳をしている。キャプテンが命令調で簡単に返事をすると扉が開けられ、吾々は中に入った。


そこは大きな洞窟で、すぐ目の前の隙間から赤茶けた不気味な光が洩れて、吾々の立っている場所の壁や天井をうっすらと照らしている。近寄ってその隙間から奥を覗くと、そこは急なくぼみになっていて人体の六倍ほどの深さがある。吾々は霊力を駆使してあたりを見まわした。


そして目が薄明りに慣れてくると、前方に広大な地下平野が広がっているのが分かった。どこまで広がっているのか見当もつかない。そのくぼみを中心として幾本もの通路が四方八方に広がっており、その行く先は闇の中に消えている。


見ていると、幾つのも人影がまるで恐怖におののいているかのごとく足早やに行き来している。時おり足に鎖をつけられた者がじゃらじゃらと音を立てて歩いているのが聞こえる。


そうかと思うと、悶え苦しむ不気味な声や狂ったように高らかに笑う声、それとともにムチ打つ音が聞こえてくる。思わず目を覆い耳をふさぎたくなる。苦しむ者がさらに自分より弱い者を苦しめては憎しみを発散させているのである。あたり一面、残虐の空気に満ち満ちている。私はキャプテンの方を向いて厳しい口調で言った。


 「ここが吾々の探していた場所だ! どこから降りるのだ!?」

 彼は私の口調が厳しくなったのを感じてこう答えた。


 「そういう物の言い方は一向に構いませんぞ。私にとっては同胞ともと呼んでくれるよりは、そういう厳しい物の言い方の方がむしろ苦痛が少ないくらいです。


と言うのも、私もかつてはこの先で苦役に服し、さらにはムチを手にして他の者たちを苦役に服させ、そしてその冷酷さを買われてこの先に出入口のある区域で主任監督となった者です。そこはここからは見えません。


ここよりさらに低く深い採掘場へ続く、幾つもある区域の最初です。それからさらにボスの宮殿で働くようになり、そして例の正門の衛兵のキャップテンになったという次第。


ですが、今にして思えば、もし選択が許されるものなら、こうして権威ある地位にいるよりは、むしろ鉱山の奥底に落ちたままの方がラクだったでしょうな。そうは言っても、二度と戻りたいとは思わん。イヤです・・・・・・イヤです・・・・・・」


 そう言ったまま彼は苦しい思いに身を沈め、私が次のような質問するまで、吾々の存在も忘れて黙っていた。


 「この先にある最初の広い区域は何をするところであろう?」


 「あそこはずっと先にある仕事場で溶融され調合された鉱石がボスの使用する凶器や装飾品に加工されるところです。出来上がると天井を突き抜けて引き上げられ、命じられた場所へ運ばれる。


次の仕事場は鉱石が選り分けられるところ、その次は溶融されたものを鋳型に入れて形を作るところ。一ばん奥の一ばん底が採掘現場です。いかがです? 降りてみられますか」


  私はぜひ降りて、まず最初の区域を見ることでその先の様子を知りたいと言った。


 それでは、ということで彼は吾々を案内して通風孔まで進み、そこで短い階段を下りて少し進むと、さっき覗いた隙間の下から少し離れたところに出た。


その区域は下り傾斜になっており、そこを抜けきって、さっきキャプテンが話してくれた幾つかの仕事場を通り過ぎて、ついに採掘場まで来た。私は何としてもこの暗黒界の悲劇のドン底を見て帰る覚悟だったのである。


 通っていった仕事場はすべてキャプテンの話したとおりだった。天井の高さも奥行きも深さも途方もない規模だった。が、そこで働く何万と数える苦役者はすべて奴隷の身であり、時たま、ほんの時たま、小さな班に分けられて厳しい監視のもとに地上の仕事が与えられる。が、


それは私には決してお情けとは思えなかった。むしろ残酷さと効率の計算から来ていた。つまり再び地下に戻されるということは絶望感を倍加させる。


そして真面目に、そして忠実に働いていると、またその報酬として地上へ上げてもらえる、ということの繰り返しに過ぎない。空気はどこも重苦しく悪臭に満ち、絶望感からくる無気力がみんなの肩にのしかかっている。それは働く者も働かせるものも同じだった。


 吾々はついに採掘場へ来た。出入口の向こうは広大な台地が広がっている。天上は見当たらない。上はただの暗黒である。ほら穴というよりは深い谷間にいる感じで、両側にそそり立つ岩は頂上が見えない。それほど地下深くに吾々はいる。


ところが左右のあちらこちらに、さらに深く降りて行くための横坑が走っており、その奥は時おりチラチラと炎が揺れて見えるほかは、殆どが漆黒の闇である。


そして長く尾を引いた溜め息のような音がひっきりなしにあたりに聞こえる。風が吹く音のようにも聞こえるが空気は動いていない。立坑もある。その岩壁に刻み込まれた階段づたいに降りては、吾々が今立っている位置よりはるか地下で掘った鉱石を坑道を通って運び上げている。


台地には幾本もの通路が設けてあり、遠くにある他の作業場へ行くための出入口につながってる。その範囲は暗黒界の地下深くの広大な地域に広がっており、それは例の〝光の橋〟はもとより、その下の平地の地下はるかはるか下方に位置している。


ああ、そこで働く哀れな無数の霊の絶望的苦悶・・・・・・途方もない暗黒の中に沈められ、救い出してくれる者のいない霊たち・・・・・・


 がしかし、たとえ彼ら自身もあきらめていても、光明の世界においては彼らの一人ひとりを見守り、援助を受け入れる用意のできた者には、この度の吾々がそうであるように、救助の霊が差し向けられるのである。


 さて私はあたりを見回し、キャプテンからの説明を受けたあと、まわりにある出入口すべての扉を開けるように命じた。するとキャプテンが言った。


「申しわけない。貴殿の言うとおりにしてあげたい気持ちは山々だが、私はボスが怖いのです。怒った時の恐ろしさは、それはそれは酷いものです。こうしている間もどこかでスパイがいて、彼に取り入るために、吾々のこれまでの行動の一部始終を報告しているのではないかと、心配で心配でなりません」


 それを聞いて私はこう言った。


 「吾々がこの暗黒の都市へ来て初めてお会いして以来そなたは急速に進歩しているようにお見受けする。以前にも一度そなたの心の動きに向上の兆しが見られるのに気付いたことがあったが、その時は申し上げるのを控えた。今のお話を聞いて私の判断に間違いがなかったことを知りました。


そこで、そなたに一つの選択を要求したい。早急にお考えいただいて決断を下してもらいたい。吾々がここへ参ったのは、この土地の者で少しでも光明を求めて向上する意志のある者を道案内するためです。そなたが吾々の見方になって力をお貸しくださるか、それとも反対なさるか、その判断をそなたに一任します。


いかがであろう、吾々と行動を共にされますか、それともここに留まって今までどおりボスに仕えますか。早急に決断を下していただきたい」


 彼は立ったまま私を見つめ、次に私の仲間へ目をやり、それから暗闇の奥深く続く坑道に目をやり、そして自分の足もとに目を落とした。それは私が要求したように素早い動きであった。そして、きっぱりとこう言った。


 「有難うございました。ご命令どおり、すべての門を開けます。しかし私自身はご一緒する約束はできません。そこまでは勇気が出ません───まだ今のところは」


 そう言い終わるや、あたかもそう決心したことが新たな元気を与えたかのごとく、くるりと向きを変えた。その後ろ姿には覚悟を決めた雰囲気が漂い、膝まで下がったチュニックにも少しばかり優雅さが見られ、身体にも上品さと健康美が増していることが、薄暗い光の中でもはっきりと読み取れた。


それを見て私は彼が自分でも気づかないうちに霊格が向上しつつあることを知った。極悪非道の罪業のために本来の霊格が抑えられていたのが、何かをきっかけに突如として魂の牢獄の門が開かれ、自由と神の陽光を求めて突進しはじめるということは時としてあるものです。


実際にあります。しかし彼はそのことを自覚していなかったし、私も彼の持久力に確信が持てなかったので黙って様子を窺っていたわけです。


 そのうち彼が強い調子で門番に命ずる声が聞こえてきた。さらに坑道を急いで次の門で同じように命令しているのが聞こえた。その調子で彼は次々と門を開けさせながら、吾々が最初に見た大きな作業場へ向かって次第に遠ざかっていくのが、次第に小さくなっていくその声で分かった。


 

6 〝強者つわものよ、何ゆえに倒れたるや〟

一九一八年一月十五日 火曜日


 そこで吾々はこの時ばかり一斉に声を張り上げて合唱しました。声のかぎりに歌いました。その歌声はすべての坑道を突き抜け、闇の帝王たるボスの獰猛どうもうな力で無数の霊が絶望的な苦役に甘んじている作業場や洞窟のすみずみにまで響きわたりました。


あとで聞かされたことですが、吾々の歌の旋律が響いてきたとき彼らは仕事を中止してその不思議なものに耳を傾けたとのことです。


と言うのも、彼らの境涯で聞く音楽はそれとはおよそ質の異なるもので、しかも吾々の歌の内容テーマが彼らには聞き慣れないものだったからです。



──どんな内容だったのでしょう。


 吾々に託された目的に適ったことを歌いました。まず権力と権威の話をテーマにして、それがこの恐怖の都市で猛威をふるっていることを物語り、次にその残酷さと恥辱と、


その罠にかかった者たちの惨状を物語り、続いてその邪悪性がその土地にもたらした悪影響、つまり暗闇は魂の暗闇の反映であり、それが樹木を枯らし、土地を焦がし、岩場をえぐって洞窟と深淵をこしらえ、水は汚れ、空気は腐敗の悪臭を放ち、至るところに悪による腐敗が行きわたっていることを物語りました。


そこでテーマを変え、地上の心地良い草原地帯、光を浴びた緑の山々、こころ和ませるせせらぎ、それが、太陽の恵みを受けた草花の美しく咲き乱れる平地へ向けて楽しそうに流れていく風景を物語りました。


続いて小鳥の歌、子に聞かせる母の子守歌、乙女に聞かせる男の恋歌、そして聖所にてみんなで歌う主への讃仰の歌──それを天使が玉座に持ち来り、清めの香を添えて主に奉納する。


こういう具合に吾々は地上の美を讃えるものを歌に託して合唱し、それから更に一段と声を上げて、地上にて勇気を持って主の道を求め今は父なる神の光と栄光のもとに生きている人々の住処──そこでは荘厳なる樹木が繁り、豪華けんらんたる色彩の花が咲き乱れ、父なる神の僕として経綸に当たる救世主イエスの絶対的権威に恭順の意を表明する者にとって静かなる喜びの源泉となるものすべてが存在することを歌い上げました。



──あなたが率いられた霊団は全部で何名だったのでしょうか。


 七の倍にこの私を加えた十五人です。これで霊団を構成しておりました。さて吾々が歌い続けていると一人また一人と奴隷が姿を現しました。青ざめ、やつれきった顔があの坑道この坑道から、さらには、岩のくぼみからも顔をのぞかせ、また吾々の気付かなかった穴やほら穴からも顔を出して吾々の方をのぞき見するのでした。


そしてやがて吾々の周りには、恐怖におののきながらもまだ光を求める心を失っていない者たちが、近づこうにもあまりそばまで近づく勇気はなく、それでも砂漠でオアシスを見つけたごとく魂の甦るのを感じて集まっていた。


しかし中には吾々をギラギラした目で睨み付け、魂の怒りをあらわにしている者もいた。


さらには吾々の歌の内容が魂の琴線に触れて、過去の過ちへの悔恨の情や母親の子守歌の記憶の甦りに慟哭して地面に顔を伏せる者もいた。彼らはかつてはそれらを軽蔑して道を間違えた──そしてこの道へ来た者たちだったわけです。


 その頃から吾々は歌の調子を徐々にゆるやかにし、最後は安息と安らぎの甘美なコードで〝アーメン〟を厳かに長く引き延ばして歌い終わった。


 するとその中の一人が進み出て、吾々から少し離れた位置で立ち止まり、跪いて〝アーメン〟を口ずさんだ。これを見た他の者たちは彼にどんな災難がふりかかるのかと固唾かたずをのんで見守った。と言うのも、それは彼らのボスに対する反逆に他ならなかったからです。


が、私は進み出て彼の手を取って立たせ、吾々の霊団のところまで連れてきた。そこで霊団の者が彼を囲んで保護した。これで彼に危害の及ぶ気遣いはなくなった。


すると三々五々、あるいは十人二十人と吾々の方へ歩み寄り、その数は四百人ほどにもなった。そして、まるで暗誦文をそらんずる子供のようにきちんと立って、彼に倣って〝アーメン〟と言うのだった。


坑道の蔭では舌打ちしながら吾々へ悪態をついている者もいたが、腕ずくで行動に出る者はいなかった。そこで私は、希望する者は全員集まったとみて、残りの者に向けてこう述べた。


「この度ここに居残る選択をした諸君、よく聞いてほしい。諸君より勇気のある者はこれよりこの暗黒の鉱山を出て、先ほどの吾々の歌の中に出てきた光と安らぎの境涯へと赴くことになる。


今回は居残るにしても、再び吾々の仲間が神の使いとして訪れた時、今この者たちが吾々の言葉に従うごとく、どうか諸君もその使いの者に従う心の準備をしておいてほしく思う」


 次に向きを変え、そこを出る決心をした者へ勇気づけの言葉を述べた。と言うのも、彼らはみな自分たちの思い切った選択がもたらす結果に恐れおののいていたからです。


「それから私の同志となられた諸君、あなた方はこれより光明の都市へ向けて歩むことになるが、その道中においてボスの手先による脅しには一向に構ってはなりませんぞ。もはや彼はあなた方のぬしではなくなったのです。


そして、もっと明るい主に仕え、然るべき向上を遂げた暁には、それに相応しい衣服を給わることになります。が、今は恐れることなく一途に私の言うことに従ってほしい。間もなくボスがやってきます。全てはボスと決着つけてからのことです」


 そう述べてから、吾々がキャプテンとともにそこに入ってきた門、そして四百人もの奴隷が通ってきた門の方へ目をやった、それに呼応するかのように、それよりさらに奥の門の方から騒々しい声が聞こえ、それが次第に近づいてきた。


ボスである。吾々の方へ進みながら奴隷たちに、自分に付いてきて傲慢きわまる侵入者へ仕返しをするのだとわめいている。脅しや呪いの言葉も聞こえる。恐怖心から彼の後に付いてくる哀れな奴隷たちも彼を真似してわめき散らしている。


 私はボスを迎えるべく一団の前に立った。そしてついにそのボスの姿が見えてきた。 



──どんな人でしたか──彼の容貌です。


 彼も神の子であり従って私の兄弟である点は同じです。ただ、今は悪に沈みきっているというまでです。それ故に私としては本当は慈悲の心から彼の容貌には構いたくないのです。彼が憎悪と屈辱をむき出しにしている姿を見た時の私の心にあったのは、それを哀れと思う気持ちだけでした。


が、貴殿が要求されるからにはそれを細かく叙述してみましょう。それが〝強者つわものよ、何ゆえに倒れたるや〟(サムエル書(2)1・19)という一節にいかに深い意味があるかを悟られるよすがとなろうと思うからです。


 図体は巨人のようで、普通の人間の1.5倍はありました。両肩がいびつで、左肩が右肩より上がっていました。ほとんど禿げあがった頭が太い首の上で前に突き出ている。煤けた黄金色をしたソデなしのチュニックをまとい、右肩から剣を下げ、腰の革のベルトに差し込んでいる。


錆びた(鎧)のスネ当てを付け、なめされていない革の靴を履き、額には色褪せた汚れた飾り輪を巻いている。その真ん中に動物の浮き彫りがあるが、それは悪の力を象徴するもので、それに似た動物を地上に求めれば、さしづめ〝陸のタコ〟(というものがいるとすればであるが)であろう。


彼の姿の全体の印象を一口で言えば〝王位の模倣〟で、別の言い方をすれば、所詮は叶えられるはずもない王位を求めてあがく姿を見る思いでした。その陰険な顔には激情と狂気と貪欲と残忍さと憎しみとが入り混じり、同時にそれが全身に滲みわたっているように思えた。実際はその奥には霊的な高貴さが埋もれているのです。


つまり善の道に使えば偉大な力となったはずのものがマヒしたために、今では悪のために使用されているにすぎない。彼は足をすべらせた大天使なのです。それを悪魔と呼んでいるにすぎないのです。



──地上では何をしていた人か判っているのでしょうか。


 貴殿の質問には何なりとお答えしたい気持ちでいます。質問された時は私に対する敬意がそうさせているものと信じています。そこで私も喜んでお答えしています。どうぞこれからも遠慮なく質問されたい。


もしかしたら私にも気づかない要因があるのかも知れません。その辺は調べてみないと分かりませんが、ただ、それに対する私の回答の意味を取り違えないでいただきたい。


そのボスが仮に地上ではこの英国の貧民層のための大きな病院の立派な外科医だったとしても、少しもおかしくありません。もしかして牧師だったとしても、あるいは慈善家だったとしても、これ又、少しも不思議ではない。


外見というものは必ずしも中身と一致しないものです。とにかく彼はそういう人物でした。大ざっぱですが、この程度で我慢していただきたいのですが・・・・・・



──余計な質問をして申しわけありません。


 いや、いや、とんでもない。そういう意味ではありません。私の言葉を誤解しないでいただきたい。疑問に思われることは何なりと聞いていただきたい。貴殿と同じ疑問を他の大ぜいの人も抱いているかもしれない。それを貴殿が代表してることになるのですから・・・・・・


さて、そのボスが今まさに目の前に立っている。わめき散らす暴徒たちにとっては紛れもない帝王であり、後方と両側に群がる人数は何千を数える。


が、彼との間には常に一定の距離が置かれている───近づくのが怖いのである。左手にはムチ紐が何本もついた見るからに恐ろしい重いムチがしっかりと握られていて、奴隷たちは片時もそのムチから目を離そうとせず、他の方向へ目をやってもすぐまたムチへ目を戻す。


ところがそのボスが吾々と対峙したまま口を開くのを躊躇している。そのわけは、彼が永い間偉そうに、そして意地悪く物を言うクセが付いており、いま吾々を前にして、吾々の落着き払った態度が他の連中のおどおどした態度とあまりにも違うためにためらいを感じてしまったのです。


 そうやって向かい合っていた時である。ボスの後方に一人の男が例の正門のところで会った守衛の服装の二人の男に捕らわれて紐でしばられているのが私の目に入った。蔭の中にいたので私は目を凝らして見た。なんとそれはキャプテンだった。


私はとっさに勢いよく進み出てボスのそばを通り──通りがかりにボスの剣に手を触れておいて──二人の守衛の前まで行き「紐をほどいてその男を吾々に渡すのだ」と命じた。


 これを耳にしたボスが激怒して剣を抜き私に切りかかろうとした。が、すでにその剣からは硬度が抜き取られていた。まるで水草のようにだらりと折れ曲がり、ボスは唖然としてそれを見つめている。


自分の権威の最大の象徴だった剣が威力を奪われてしまったからである。もとより私自身は彼をからかうつもりは毛頭なかった。しかし他の者たち、即ち彼の奴隷たちはボスの狼狽した様子に、ユーモアではなく悪意からでる滑稽さを見出したようだった。


岩蔭から嘲笑と侮りの笑い声がどっ沸きおこったのである。するとどうであろう。刀身が見る間に萎れ、朽ち果て、つかから落ちてしまった。


ボスは手に残った柄を最後まで笑っている岩蔭の男を目がけて放り投げつけた。その時私が守衛の方を向くと、二人は慌ててキャプテンの紐をほどいて吾々の方へ連れてきた。


 とたんにボスのカラ威張りの雰囲気が消え失せ、まず私に、それから私の仲間に向かって丁寧におじぎをした。その様子を見ても、このボスは邪悪性が善性へ向かえばいつの日か、吾らが父の偉大なる僕となるべき人物であることが分かる。


「恐れ入った・・・・・・」彼は神妙に言った。「あなた様は拙者より強大な力を自由にふるえるお方のようじゃ。そのことには拙者も潔くカブトを脱ごう。で、拙者と、この拙者に快く骨身を惜しまず尽してくれた忠実な臣下たちをどうなさるおつもりか、お教えねがえたい」



 いかにも神妙な態度を見せながらも、彼の言葉のいたるところに拗ねた悪意が顔をのぞかせる。この地獄の境涯ではそれが常なのである。すべてが見せかけなのである。奴隷の境遇を唯一の例外として・・・・・・


 そこで私は彼に吾々のこの度の使命を語って聞かせた。すると彼はまたお上手を言った。


「これはこれは。あなた様がそれほどのお方とは存じ上げず、失礼を致した。そうと存じ上げておればもっと丁重にお迎え致しましたものを・・・・・・しかし、その償いに、これからはあなた様にご協力を申し上げよう。さ、拙者に付いて参られたい。正門まで拙者が直々にご案内いたそう。皆さんもどうぞ後に続かれたい」


 そう言って彼は歩き始め、吾々もその後に続き、洞窟や仕事場をいくつか通り抜けて、吾々が鉱山に入って最初に辿り着いた大きな門へ通じる階段の手前にある小さな門のところまで来た。




7 救出

一九一八年一月十八日 金曜日


 そこまで来てみると、はるか遠くの暗闇からやってきた者たちも加わって、吾々に付いてくる者の数は大集団となっていた。いつもなら彼らの間で知らせが行き交うことなど滅多にないことなのですが、この度は吾々のうわさは余程の素早さで鉱山じゅうに届いたとみえて、その数は初め何百だったのが今や何千を数えるほどになっていた。


 今立ち止まっているところは、最初に下りてきたときに隙間から覗き込んだ場所の下に当たる。その位置から振り返っても集団の前の方の者しか見えない。が、私の耳には地下深くの作業場にいた者がなおも狂ったようにわめきながら駆けて来る声が聞こえる。


やがてボスとその家来たちの前を通りかかると急に静かになる。そこで私はまずボスに向かって言って聞かせた。


「そなたの心の中をのぞいてみると、さきほど口にされた丁寧なお言葉に似つかわしいものが一向に見当たりませんぞ。が、それは今は構わぬことにしよう。こうして天界より訪れる者は哀れみと祝福とを携えて参る。


その大きさはその時に応じて異なる。そこで吾々としてもそなたを手ぶらで帰らせることにならぬよう、今ここで大切なことを忠告しておくことにする。


すなわち、これよりそなたは望み通りにこれまでの生き方を続け、吾々は天界へと戻ることになるが、その後の成り行きを十分に心されたい。


この者たちはそなたのもとを離れて、そなたほどには邪悪性の暗闇の濃くない者のもとで仕えることになるが、そのあとで、どうかこの度の出来ごとを思い返して、その意味するところをとくと吟味してもらいたい。


そして、いずれそなたも、そなたの君主であらせられる方の、虚栄も残忍性も存在しない、芳醇ほうじゅんな光の国より参った吾々に対する無駄な抵抗の末に、ほぞをかみ屈辱を覚えるに至った時に、どうかこうした私の言葉の真意を味わっていただきたい」


 彼は地面に目を落とし黙したまま突っ立っていた。分かったとも分からぬとも言わず、不機嫌な態度の中に、スキあらば襲いかかろうとしながら、恐ろしさでそれも出来ずにいるようであった。そこで私は今度は群集へ向けてこう語って聞かせた。


「さて今度は諸君のことであるが、この度の諸君の自発的選択による災難のことは一向に案ずるに足らぬ。諸君はより強き方を選択したのであり、絶対に見捨てられる気遣いは無用である。


ひたすらに忠実に従い、足をしっかりと踏まえて付いて来られたい。さすれば程なく自由の身となり、旅の終わりには光り輝く天界の高地へとたどり着くことが出来よう」


 そこで私は少し間を置いた、全体を静寂がおおった。やがてボスが顔を上げて言った。


「おしまいかな?」


「ここでは以上で留めておこう。この坑道を出て大地へ上がってから、もっと聞きやすい場所に集めて、これから先の指示を与えるとしよう」


「なるほど。この暗い道を出てからね。なるほど、その方が結構でしょうな」

 皮肉っぽくそう述べてる彼の言葉の裏に企みがあることを感じ取った。


 彼は向きを変え、出入口を通り抜け、家来を引き連れて都市へ向かって進みはじめた。

吾々は脇へ寄って彼らを見送った。目の前を通り過ぎて行く連中の中に私はキャップテンの姿を見つけ、この後の私の計略を耳打ちしておいた。彼は連中と一緒に鉱山を出た。そして吾々もその後に続いて進み、ついに荒涼たる大地に出た。


 出てすぐに私は改めて奴隷たちを集めて、みんなで手分けして町中の家という家、洞窟という洞窟をまわってこの度のことを話して聞かせ、いっしょに行きたい者は正門の広場に集まるように言って聞かせよと命じた。


彼らはすぐさま四方へ散っていった。するとボスが吾々にこう言った。


 「彼らが回っている間、よろしかったら拙者たちとともに御身たちを拙宅へご案内いたしたく存ずるが、いかがであろう。御身たちをお迎えすれば拙者の家族も祝福がいただけることになるのであろうからのお」 


 「無論そなたも、そしてそなたのご家族にも祝福があるであろう。が、今ただちにというわけには参らぬし、それもそなたが求める通りとは参らぬ」


 そう言ってから吾々は彼について行った。やがて都市のド真ん中と思われるところへ来ると、暗黒の中に巨大な石の構築物が見えてきた。住宅というよりは城という方が似つかわしく、城というよりは牢獄という方が似つかわしい感じである。


周囲を道路で囲み、丘のように聳え立っている。が、いかにも不気味な雰囲気が漂っている。どこもかしこも、そこに住める魂の強烈な暗黒性を反映して、真実、不気味そのものである。住める者が即ち建造者にほかならないのである。


 中に通され、通路とホールを幾つか通り抜けて応接間へきた。あまり大きくはない。そこで彼は接待の準備をするので少し待ってほしいと言ってその場を離れた。彼が姿を消すとすぐに私は仲間たちに、彼の悪だくみが見抜けたかどうかを尋ねてみた。


大半の者は怪訝な顔していたが、二、三人だけ、騙されていることに気づいていた者がいた。そこで私は、吾々がすでに囚われの身になっていること、周りの扉は全部カギが掛けられていることを教えた。


すると一人がさっき入って来たドアのところ行ってみると、やはり固く閉ざされ、外からかんぬきで締められている。その反対側には帝王の間の一つ手前の控えの間に通じるドアがあるが、これも同じく閂で締められていた。


 貴殿はさぞ、少なくとも十四人のうち何人かは、そんな窮地に陥って動転したであろうと思われるであろう。が、こうした使命、それもこの暗黒界の奥地へ赴く者は、長い間の鍛錬によって恐怖心というものはすでに無縁となっている者、善の絶対的な力を、いかなる悪の力に対しても決して傷つけられることなく、確実にふるうことのできる者のみが選ばれていることを忘れてはならない。


 さて吾々はどうすべきか──それは相談するまでもなく、すぐに決まったことでした。十五人全員が手をつなぎ合い、波長を操作することによって吾々の通常の状態に戻したのです。それまではこの暗黒界の住民を装って探訪するために、鈍重な波長に下げていたわけです。


精神を統一するとそれが徐々に変化して身体が昇華され、まわりの壁を難なく通過して正門前の広場に出て、そこで一団が戻ってくるのを待っておりました。


 ボスとはそれきり二度と会うことはありませんでした。吾々の想像通り、彼は自分に背を向けた者たちの再逮捕を画策していたようです。そして、あのあとすぐに各方面に大軍を派遣して通路を封鎖させ、逃亡せんとする者には容赦ない仕打ちをするように命じておりました。


しかし、その後はこれといってお話しすべきドラマチックな話はありません。衝突もなく、逮捕されてお慈悲を乞う叫びもなく、光明界からの援軍の派遣もありません。


いたって平穏のうちに、と言うよりは意気地のない形で終息しました。それは実はこういう次第だったのです。



 例の帝王の間において、彼らは急きょ会議を開き、その邸宅の周りに松明を立て、邸内のホールにも明りを灯して明るくしておいて、ボスが家来たちに大演説をちました。それから大真面目な態度で控えの間のドアの閂を外し、使いの者が接待の準備が出来たことを告げに吾々の(いるはずの)部屋へ来た。


ところが吾々の姿が見当たらない。そのことがボスの面目をまるつぶしにする結果となりました。すべてはボスの計画と行動のもとに運ばれてきたのであり、それがことごとくウラをかかれたからです。


家来たちは口々に辛らつな嘲笑の言葉を吐きながらボスのもとを去って行きました。そしてそのボスは敗軍の将となって、ただ一人、哀れな姿を石の玉座に沈めておりました。


 以上の話からお気付きと思いますが、こうした境涯では悲劇と喜劇とが至るところで繰り返されております。しかし全てはそう思い込んでいるだけの偽りばかりです。すべてが唯一絶対の実在と相反することばかりだからです。


偽りの支配者が偽りの卑下の態度で臣下から仕えられ、偽りのご機嫌取りに囲まれて、皮肉と侮りのトゲと矢がこめられたお追従を無理強いされているのです。



<原著者ノート>救出された群集はその後〝小キリスト〟に引き渡され、例のキャプテンを副官としてその鉱山からかなり離れた位置にある広々とした土地に新しい居留地コロニーをこしらえることになる。鉱山から救出された奴隷のほかに、暗黒の都市の住民の男女も含まれていた。


 実はこのあとそのコロニーに関する通信を受け取っていたのであるが、そのオリジナル草稿を紛失してしまった。ただ、この後(第四巻の)一月二十八日と二月一日の通信の中で部分的な言及がある。

  



   訳者あとがき


 一つの問題についての意見が各自まちまちであるのは人間世界の常であるが、宗教問題、とくにこうした霊界通信の解釈においてそれが顕著であるように思われる。東洋では仏典、西洋ではバイブルの解釈の違いがそれぞれの世界で無数といってよいほどの宗派を生み、今なお新興させつつある事実がそれを如実に物語っている。


それは死後の下層界、つまり地球に隣接した世界においても同様であるらしく、むしろ地上の現状はその反映にほかならないというのが真相であるらしい。


 それはともかく、本書を含めて、筆者がこの二、三年来紹介してきた西洋的啓示、いわゆるスピリチュアリズム的霊界通信に対する読者の反応もさまざまであろう。


 頭から否定してかかる人がまず多いであろう。その否定派にも、霊言とか自動書記という事実そのものを否定する人と、その事実は認めても、その原因は霊媒の潜在意識にあると簡単に片づけている人とがいる。そういう人にとっては、人間の潜在意識とはいかなるものなのか──その潜在意識に思想的通信を語る能力。


あるいは綴る能力があるかどうかは別に問題ではないらしい。筆者にはその方がよほど有りそうにないことのように思えるのだが・・・・・・


 他方、霊的なものとなったら何でも有難がる人もいる。霊媒と自称する人が口にすること、あるいは綴ることはすべて有難いものとして、その真偽性、内容の程度、思想的矛盾といったことは一切問わない。


この種の人は、死後の下層界にはそういう信じ易いお人好しを相手にして、空よろこびさせては快哉かいさいを叫んでいる低級霊の集団が世界を股に掛けてドサ回りしている事実をご存知ない。霊界の者にとって他界者の声色やしぐさを真似たり身元を調査するくらいのことは朝めし前であることも又ご存知ない。


 さて霊界通信の信憑性を計る尺度には主観・客観の双方に幾通りもあろうが、それを今ここで論じる余裕はない。それだけで一巻の書となるほど大きな問題だからである。


が、そのいずれにも属さない尺度として、時代の波に洗われてなお揺るぎない信頼を得ているもの──言いかえれば霊界通信のロングセラーであるということがあげられる。


筆者がこれまで紹介してきたもの──この『ベールの彼方の生活』をはじめとして『シルバーバーチの霊訓』、モーゼスの『霊訓』の三大霊訓はいずれも世界的ロングセラーである。


 人によっては、なぜそんな古いものばかりを、と思われるかも知れない。が、筆者は古いからこそ信憑性が高いとみているのである。いい加減なものはいずれアラが出る。


その点右の三つの通信はいずれも百年前後の時代の波に洗われてなお一点のケチもつけられたことのない、正真正銘の折紙付きのものばかりである。


 今その三者を簡単に比較してみるに、シルバーバーチは〝誰にでも分る霊的教訓〟をモットーとしているだけに、老若男女の区別なく、幅広い層に抵抗なく受け入れられているようである。神をインディアンの用語である〝大霊〟the Great Spirit と呼び、キリスト教の用語である God をなるべく用いないようにしている。


イエス・キリストについても、本質はわれわれ一般人と同じである──ただ地上に降誕した霊の中で最高の霊格を具えた人物、としているだけで決して特別扱いをしていない。


交霊会が開かれたのが英国というキリスト教国だっただけにキリスト教に関連した話題が多いのは当然であるが、それを普遍的観点から解説しているので、どの民族にも受け入れられるものを持っている。世界中に熱烈なファンがいるのもむべなるかなと思われる。


 一方、モーゼスの『霊訓』はかつてのキリスト教の牧師である霊媒モーゼスと霊団の最高指導霊イムペレーターとの間のキリスト教を主題とした熾烈な問答集であり、結果的にはモーゼスのキリスト教的先入観が打ち砕かれてスピリチュアリズム的解釈が受け入れられていくことになるが、イムペレーター自身はキリスト以前の人物であり、内容的には普遍的なものを含んでいても、主題が主題だけに、キリスト教に縁のない方には読みづらいことであろう。


 これがさらに『ベールの彼方の生活』になると、オーエン自身はもとより背後霊団が地上時代に敬虔なクリスチャンだった霊ばかりなので、徹頭徹尾キリスト教的である。


そして第三巻の本書に至っていよいよ(オーソドックスなキリスト教からみて)驚天動地の内容となってきた。そのことはオーエン自身が通信を綴りながら再三にわたって書くのを躊躇している事実からも窺えよう。


 その重大性に鑑みて、この〝あとがき〟は頭初は「解説」として私見を述べるつもりでいたのであるが、いざ書き始めてみると、リーダー霊の述べていることが日本古神道の宇宙創成説、いわゆる造化の三神ならびに国生みの物語と余りに付節を合することにますます驚きを覚え、これを本格的に、そしてまた責任ある態勢で扱うには筆者の勉強が余りに未熟であることを痛感し、差し当たって断念することにした次第である。


 これ以外にも本書には注目すべき事柄が幾つも何気ない形で語られている。シンボルの話は〝九字を切る〟ことの威力を思い起こさせ、天使の名をみだりに口にすることを戒める話は言霊ことだまの存在をほうふつとさせ、最後のところでボスの館を脱出した方法は物品引寄現象も同じ原理であることを教えている。


その他、一つひとつ指摘してそれに心霊的ないし古神道的解釈を施していけば、ゆうに一冊の書となるであろう。将来の興味ぶかいテーマであることは間違いない。


 筆者がこの霊界通信全四巻を入手したのは二十数年前のことである。それ以来何度か目を通しながらも、その文章の古さと内容の固さのせいで、正直いって一種の取っつきにくさを拭えなかった。


しかし、いずれは世に出すべきものであり、また必ずや重大な話題を提起することになるとの認識は変わることがなかった。いよいよ今回それを訳出するに当たって、訳者としての良心の許す限りにおいて、その〝取っつきにくさ〟を取り除くよう工夫し、キリスト教的なものには、素人の筆者の手の届くかぎり注釈を施し、出典もなるべく明記して(本文には出ていない)読者の便宜を計ったつもりである。


 ついでにもう一つ付け加えれば、実はこの全巻の各章には題がついているが各通信の一つひとつには何も付いていない。ただ日付と曜日が記されているのみである。このままでは余りにも芸が無さすぎるので、筆者の判断で内容に相応しいと思う題を考えて付した。老婆心ていどのこととして受け取っていただきたい。


 これであと一巻を残すのみとなった。オーエン自身も第四巻が圧巻であると述べている。どの巻も同じであるが、いよいよ翻訳に取りかかる時は、はたして自分の力で訳せるだろうかという不安が過り、恐れさえ覚えるものである。あと一巻──背後霊団並びにオーエン氏のかつての通信霊の援助と加護を祈らずにはいられない心境である。


        一九八六年一月    近藤 千雄




携帯サイト

top   活動内容    問い合わせ(治療依頼)  


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ