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一章 天使による地上の経綸
1 霊界の霊媒カスリーン
2 憩いの里
3 生命の河
4 生命の気流
5 天界の音楽と地上の音楽
6〝過ぎにし昔も来る世々も〟
7〝後なる者、先になること多し〟
靴職人
二章 霊的交信の原理
1 思念の濾過装置ーカスリーン
2 通信を妨げるもの
3 人間診断のスペクトル
4 男性原理と女性原理
三章 天界の経綸
1 寺院の建造
2 象徴の威力
──十字を切ることの意味
3 勇気をもって信ずる
4 美なるものは真なり
5 宇宙のすべてが知れる仕組み
四章 サクラメントの秘義
1 聖体拝領(最後の晩餐)
2 婚姻
3 死
五章 生前と死後
1 一兵士の例
2 一牧師の場合
六章 宇宙の創造原理・キリスト
1 顕現としてのキリスト
2 イエス・キリスト
3 究極の実在
七章 善悪を超えて
1 聖堂へ招かれる
2 使命への旅立ち
3 苦の哲学 深い筋
4 さらに下層界へ
八章 暗黒街の探訪
1 光のかけ橋
2 小キリストとの出会い
3 冒涜の都市
4 悪の効用
5 地獄の底
6〝強者よ、何ゆえに倒れたるや〟
7 救出
訳者あとがき
一章 天使による地上の経綸
1 霊界の霊媒カスリーン
一九一七年九月八日 土曜日
私(※)は今あなたの精神を通して述べております。感応したままを綴っていただき、評価はその内容をみて下してください。そのうち私の思念をあなたの思念と接触させることなく直接書き留めることが出来るようになるでしょう。
そこでまず述べておきたいのは、こうした方法による通信を手掛ける人間は多くいても、最後まで続ける人が少ないことです。それは人間の思念と私たちの思念とが正面衝突して、結果的には支離滅裂なことを述べていることになりがちだからです。
ところで私が以前もあなたの手を使って書いたことがある──それもたびたび──と聞かされたら、あなたはどう思われますか。実は数年前この自動書記であなたのご母堂とその霊団が通信を送ってきた時に、実際に綴ったのはこの私なのです。
あれは、あの後の他の霊団による通信のための準備でもありました。今夜から再び始めましょう。あっけない幕開きですが・・・・・・。書いていけば互いに要領が良くなるでしょう。
(※ここで〝私〟と言っているのはカスリーンである。第一巻並びに第二巻の通信も実はこのカスリーンが霊界の霊媒として筆記していたのであるが、未発表のものは別として少なくとも公表された通信の中では、カスリーンの個性が顔をのぞかせたことは一度もなかった。
それが、本書ではこうして冒頭から出て来てみずからその経緯を述べ、このあと署名までしている。しかし回を追うごとに背後の通信霊による支配が強くなっていき、八日付けの通信では途中でオーエン氏が〝どうも内容が女性のお考えになることにしては不似合のように感じながら綴っているのですが、やはりカスリーンですか〟と、確かめるほどになる。
そして第二章になるとリーダーと名告る男性の霊が前面に出て来る。─訳者)
「神を愛する者には全てのこと相働きて益となる」(ロマ8・28) ───この言葉の真実性に気づかれたことがありますか。真実なのですが、その真意を理解する人は稀です。人間の視野が極めて限られているからです。〝全てのこと〟とは地上のことだけを言っているのではなく、こちらの霊の世界のことも含まれております。
しかもその〝全てのこと〟が行き着く先は私どもにも見届けることが出来ません。それは高き神庁まで送り届けられ、最後は〝神の玉座〟に集められます。が、働きそのものは小規模ではありますが明確に確かめることが出来ます。
右の言葉は天使が天界と地上界の双方において任務に勤しんでいることを指しているのであり、往々にして高き神庁の高級霊が最高神の命のもとに行う経綸が人間の考える公正と慈悲と善性の観念と衝突するように思えても、頂上に近い位置にある高級霊の視野は、神の御光のもとにあくまでも公正にして静穏であり、私たちが小規模ながら自覚しているように、その〝神の配剤の妙〟に深く通じているのです。
今日、人間はその神の使徒に背を向けております。その原因はもしも神が存在するならこんなことになる筈がないと思う方向へ進んでいるかに思えるからです。
しかし深き谷底にいては、濃く深く垂れこめる霧のために、いずこを見ても何一つ判然とは見えません。あなたたちの地上界へは霊的太陽の光がほとんど射し込まないのです。
このたびの(第一次)大戦も長い目で見ればいわば眠れる巨人が悪夢にうなされて吐き出す喘ぎ程度のものに過ぎません。安眠を貪る脳に見えざる光が射し込み、音なき旋律がひびき、底深き谷、言わば〝判決の谷〟(ヨエル書)にいて苛立ちの喘ぎをもらすのです。これからゆっくりと目を覚まし、霧が少しずつ晴れ、
(眠っている間に行われた)殺戮の終わった朝、狂気の夜を思い起こしては驚愕することでしょうが、
それに劣らず、山頂より降り注ぐ温かき光に包まれたこの世の美しさに驚き、つい万事が愛によって経綸されていること、神はやはり〝吾らが父〟であり、たとえそのお顔は沸き立つ霧と冷たき風と谷底の胸塞ぐ死臭に遮られてはいても、その名はやはり〝愛〟であることを知ることでしょう。
それは正にこの世の〝死〟を覆い隠す帳であり、その死の中から生命が蘇るのです。その生命はただただ〝美しい〟の一語に尽きます。なぜならば、その生命の根源であり泉であるのが、ほかならぬ〝美〟の極致である主イエス・キリストその人だからです。
ですから、神の働きは必ずしも人間が勝手に想像するとおりではないこと、その意図は取り囲む山々によって遮られるものではなく、光明と喜悦の境涯より届けられることを知らねばなりません。私たちの進むべき道もそこにあるのです。では今夜はこれまでにします。
これも道を誤った多くの魂の暗き足元を照らすささやかな一条の光です。
願わくば神が眠れる巨人をその御手にお預かり下さり、その心に幼な子の心を吹き込まれんことを。主の御国は幼な子の心の如きものだからです。そして、その安眠を貪り、何も見えず何も聞こえぬまま苛立つ巨人こそ、曽て主が救いに降りられた人類そのものなのです。 カスリーン
2 憩いの里
一九一七年一月六日 火曜日
讃美歌に〝岸辺に生命の木は茂れり〟という句がありますが、この言葉はよく考えると、二つの意味があるようです。もちろん植物がその養分を河(※)から摂取するという表面的な意味もありますが、こちらの世界へ来てみて私たちは、地上の営みの一つ一つがいかに霊的な意味を持っているかを理解します。
つまりその表面的な現象が、人間の目に映るのと同じ程度の自然味をもって私たちに訴える霊的真理を秘めているのです。
作者がその天界の事情によく通じていたかどうか、それは知りません。ですが、少なくともそれを書かせた霊には、聞く耳を持つ者に対して地上的現象以上のものを伝えんとする意図があったことは考えられます。
そこで、これから私は天界の科学に私以上に通じておられる方々のご援助を得て、それを天界の事情に当てはめ、私の知識の及ぶかぎり拡大解釈してご覧に入れようと思います。(※ここに言う〝岸辺〟は次の八日付の通信に引用される〝生命の河〟と同じく、〝ヨハネ黙示録〟に画かれている霊界の河のことである。──訳者)
もっとも、今の私の念頭にあるのは河というよりは、地上なら内海とでも呼ぶべき大きな湖で、この第六界を大きく二つに分ける独立した境界域を形成しております。岸辺はとても変化に富み、岩だらけで切り立った崖となっているところもありますが、なだらかな芝生と庭園の趣も持ったところもあります。
また私の目には一本一本の樹木よりも、ぎっしりと繁った森が青味がかった黄金色に輝く湖を帯状に取り巻いているのが見えます。それはさらに丘を越え高原をおおい、一方、切り立った崖を新緑で縁どっています。
その岸辺の近くに、とくに繁った木立ちに囲まれて、大きな施設が建っております。そこは湖を渡ってくる人々のための憩いの場です。ある者は陸と海を越えての長距離の旅で疲れきっております。
第五界からようやくこの界へ辿り着いた新参がいます。この新しい国をさらに奥深く入るために身体をこの界の条件に順応させる必要があるので、ここで一服するのです。
また、使命を帯びて下層界へ、時には今の私のように地上界まで降りてきた人もいます。
その帰途、必ずとも言えませんが、しばしこの土地に立寄って、これよりそれぞれの界の領主あるいは霊団の指揮者に成果を報告しに行くために、体力を回復させるのです。
中には再び下層界へ赴くためにいったんここに戻って元気を回復し、急を要するので内陸を通らずにその湖を通って下り、未完のまま残されている仕事の完遂に奮闘する人もいます。
それから時折──これは決して珍しいことではないのですが──上層界の高級霊が地上ないしはその途中のどこかの界へ訪れる時、あるいはその帰途にここにお立ち寄りになり、しばし滞在なさってその光輝あふれる霊性で招待者を喜ばせることがあります。
まさしくここは憩いの里──この里に入った時の安らぎは入ってみた者でないと分かりません。援助を必要とする者のために危険を伴う高き使命に奮闘したあとのこの里での憩いは、私たちの最大の愉しみの一つなのです。
湖の岸辺のいかにも相応しい位置に、こんもりとした木立に囲まれて佇む住処──そこは薄暗い天界の低地に蒔かれた善意の種子が実を結び、それを領主にご報告申し上げる処なのです。
愛の旗印のもと、激しくかつ鋭い痛撃のやり取りの中に勝ち取った数々の戦勝記念品もまたここに持ち帰り、英気を養い心を癒す縁とされます。かつて主イエスが勇気を持って闘いそして勝ち得た、生きた戦利品と同じなのです。
そろそろお疲れのようです。こうして書いていくうちに無理なくラクにあなたの腕が使えるようになるでしょう。私からの愛と感謝の気持ちをお受けください。ではお寝み。
3 生命の河
一九一七年十一月 八日 木曜日
ではその〝憩いの里を〟を後にして内陸への旅をしてみましょう。その道中にもいろいろと学ぶことがあることでしょう。あなたも私も共に巡礼者であることを忘れてはなりません。
同じ光明へ向けて同じ道を歩んでいるのであり、この界と次の第七界との境界にある高い山脈を越えて、さらにさらに向上の道に励まなくてはならないのです。
私たちはその里の敷地と庭園を後にして、広々とした田園地帯に続く長い並木道を行きます。行きながら気づいたことは、その道は一直線に走っているのではなく、そこを通って海に注ぐ小川のある谷に沿っているのです。では、先に進む前に、ここでその小川の水の持つ性質を幾つか説明しておきましょう。
〝生命の水〟の話をお読みになったことがあると思いますが、これは比喩ではなく文字どおり生命の水なのです。と言うのは、こちらの世界の水には地上の水にない成分が含まれていて、それぞれの水が他に見られない独特の成分を含んでいるのです。
川にせよ泉にせよ湖にせよ、水は高級霊によって管理されており、精気と啓発の徳が賦与されているのです。
その水を浴びることによって高級霊の賦与した生命波動から精気を吸収し啓発されていくのです。私が知っている噴水池が高い塔の屋上に設けてありますが、装置を作動させると深遠な雰囲気のハーモニーを持つ一連の和音を響かせます。
(第一巻一三五頁参照)これはその土地で何かの催しがある時に近隣の人々を召集するための合図の鐘の代わりに使われております。
しかもその噴水のしぶきはかなりの広い範囲にわたって飛び散り、さまざまな色彩の光の花びらとなって、その一帯の家や庭園に落ちていきます。
その花びらにはこれから催される集会のおよその性格と目的の主旨を伝えるものが含まれており、それを浴びる人の全身に心地よき温もりを漲らせ、ぜひ出席したいと思わせるところの同志愛と連帯意識を自覚させるものも含まれているのです。
その地域一帯に集会の時と場所を知らせることも兼ね、同時に、しばしば高き界から講演のため、あるいはその界の領主の名代としてある仕事を執行するために訪れる天使についての情報を知らせることもあります。
いま私どもが歩いているすぐ側を流れている川の主成分は〝安らぎ〟です。この川の側を通る人は、地上の人には遠く理解の及ばない方法でその安らぎの成分を吸収するのです。川面の色彩、色合い、流れのざわめき、両岸に繁る植物、岩石や土手の形や雰囲気、等々がみな安らぎを与えるように構成されているのです。
また地球に近い下層界での仕事を終えて例の湖を渡って帰ってくる霊の中にも、その安らぎを必要とする者が大勢おります。
私たちは時として大変な奮闘努力を余儀なくされることがあるのであり、地上の人がよく想像するように、のんびりと単調な生活を送っているのではないのです。
そこで時としてしばし肩の荷を下ろして憩い、待ち受ける次の仕事に備えて、使命成就に必須の安らかにして強力なる霊的静寂を取り戻す必要があるのです。
さらに、ここでは全ての存在が滲み入るような個性を持っていることを理解していただかねばなりません。一つ一つの森、一つ一つの木立、一本一本の樹木、そのほか湖も小川も草原も花も家も、ことごとく滲み入るような個性を持っているのです。
それ自体は人格的存在ではないのですが、その存在、その属性、その性分は自然霊のたゆまぬ意志の働きの結果なのです。ですから、それと接触する者が摂取するのは自然霊の個性であり、またその人の感受性の度合いによって摂取量も違ってくるわけです。
たとえば樹木に対して特に感受性の強い人もいれば、小川に対して強い反応を示す人もいるといった具合です。しかし、やはり建築物に対しては誰もが反応を示すようです。中に入った時がとくにそうです。
それというのも、自然霊というのは人間と少しかけ離れた存在ですが、建物の建造に当たる霊は人間と同じ系列の高級霊であるという点で、質、程度ともに自然霊ほど遠くかけ離れた存在ではないからです。
実はそうしたこちらの世界で当たり前のことが、程度こそ違いますが地上界の普通一般の人にも起きているのです。人類は現段階ではまだ物質にどっぷりと浸っていますから、その結果として感覚が鈍いというだけです。
明瞭性の度合いが劣るというだけで、真実性の度合いは決して劣らないのです。
さっきからあなたの精神の中に質問が形成されつつありますが、何でしょうか。おっしゃってみて下さい。お答えしますから。
──実は内容が女性のお考えになることにしては不似合な感じがしております。お聞きしますが、私の手を使いたいとおっしゃったのはカスリーンですが、今書いているのもそうですか。
そうです。私です。ですが、私一人のおしゃべりでは満足なさるわけがないでしょう。
まさか私が一人で無駄話などするつもりだとは想像なさらなかったはずですが、いかがですか。とにかく私としては、そんなみじめな想像をされないためにも、私があなたを使うのとほぼ同じように私を使う方を何人か用意しました。
男性ばかりではありません。女性の方も何人かおられます。全体が一つの声、一つのメッセージとなるように一体となって作業しており(*)、したがって私が綴る言葉はさまざまな知性がブレンドしたものなのです。
このところあなたの抵抗感(**)が少し和らいでいますので、まずまずうまく行っております。どうかこの状態を維持してください。私たちもこちらなりに最善を尽くしますから。
ではお寝み。こうして書いていくことによってますます進歩が得られますように。
(*二章の1で具体的な説明がある。**オーエン氏はこの段階でもまだ時おり疑念を抱くことがあった。次の十日付の通信の末尾でもそれが表面化している。─訳者)
4 生命の気流
一九一七年十一月十日 土曜日
〝天界からお声が掛かる〟──あなたと私がまさにそれです。私があなたに呼びかけると私は上層界の方から呼びかけられ、その方たちはさらに上層界の神霊からお声が掛かり、かくして最後は、かの遠き昔、父なる神より呼ばれて薄暗き地上へと派遣された主イエスにまで辿り着きます。
私たちが絶大なる確信を抱くことが出来る根拠は実に、霊力乏しき低地の者へその強力な霊力をお授けくださる崇高なる神霊から〝お声が掛かる〟という事実にあります。
〝下界へ参れ〟との命を受けるということは、これはもうただ事ではないのです。下界へ向けて歩を進めるにつれて環境も私たちの身体も次第に光輝を失っていき、いよいよ地上界へ辿り着いた時には、あたりを見極めることが容易でないほどの状態となっています。
が、それも初めのうちだけです。次第に目が地上の波長に慣れてきて、やがて見えるようになります。これを繰り返すことによって、ますます容易になります。もっとも、そのこと自体は少しも有難いことではありません。
有難いのは、そうなることによって地上で仕事が出来るということです。と言うのは、私たちの目に映る地上の光景はおよそ楽しいものではなく、一時も早く自分の界層へ帰りたい気持ちに駆られます。
その意味でも前回お話した水辺の景色や施設が有難く望ましいものであるばかりでなく、私たちの仕事にとって絶対に不可欠のものなのです。
これに関連して、もう一つお話しなければならない機能があります。それは、その〝憩の里〟には上層界から送られてきた生命力が蓄えられていて、それが気流となってその里一帯を流れており、必要な者に存分に与えられるということです。
私たちがいざ地上へ向かう時は途中でこの里に立ち寄り、その気流に身を浸して体力と活力を摂取します。地上に近づいた時に必ずしもその効力を実感しませんが、実際には澎湃として身辺を洗い、身体に滲み込んでいます。
そして、ちょうど海中に潜っているダイバーが海上から送られる空気で生命を維持するように、私たちを支えています。
自由で広大な海上からの光が届かぬ海底は薄暗く、水という鈍重な要素のために動きが重々しくなりますが、私たちもこうして地上に降りている間はまったく同じ条件下にあります。
ですから、聞いてもらいたいことがうまく述べられなかったり、用語を間違えたり、通信内容に不自然なところがあっても、どうかそれは大目に見ていただき、決して邪霊に騙されているかに思わないでいただきたいのです。
潜水服に身を固められたダイバーが水中で別のダイバーに話しかけている図でも想像してみて下さい。私たちベールのこちら側にいる者にとって、それがいかに根気とたゆまぬ努力を要することであるか、まして人間の言い分に耳を傾けることは尚のこと根気のいるものであることが、これで理解していただけるでしょう。
ですが同時に、この地上での仕事を終え、くるりと向きを変えて天界へ上昇して行くと、そうした不自由を味わっただけ、それだけ遠き〝憩の里〟から流れてくる生命の気流をいち早く感じ取ることにもなります。
生命力の波動が再び身辺を洗います。疲れた頬に心地よく当たります。くすんでいた飾りの宝石も次第に本来の輝きを取り戻します。
衣服は一段と明るい色調に輝き、髪は光沢を増し、目から疲れと暗さが消え、そして何よりも有難いのは、私たちの耳に神のお召しのメロディが聞こえはじめ、次第に明瞭さを増していくことです。それは、神の蔵に蓄えるべき如何なる収穫を得たかをお確かめになるために、私たちを〝収穫の祝宴〟に招いてくださっているのです。
さて、これ以上お引き留めするのはやめましょう。あなたは一刻の遅れも許されない大切なお仕事が進行中であることは私にもよく分かっております。
あと一つだけ添えましょう。それは、こうしてあなたに呼びかける私たちとあなたとの間に再び懐疑の念が頭をもたげていることです。ですが、この度の通信があなたご自身から出たものでないことは確かでしょう。
──どうすればそれが私に納得できますか。
忍耐あるのみです。それが進歩を確かなものとし、確信を深めるのです。おやすみなさい。安らぎのあらんことを。
カスリーン並びに他の通信霊より慎んで申し上げます。
5 天界の音楽と地上の音楽
一九一七年十一月十二日 月曜日
──オルガン奏者がこれから演奏を始めますが、邪魔にならないでしょうね。
邪魔にならないどころか、逆にはかどります。好い機会ですので、今夜は天界の音楽について少しばかりお話しておきましょう。そうなのです。私たちにも地上のあなた方と同じような音楽があるのです。
しかし──この〝しかし〟はとくにアクセントを強くして申し上げておきます──実は地上の音楽は天界にある音楽の〝貯蔵所〟からこぼれ落ちた程度のものに過ぎません。壮麗な輝きを持つ天界の調べは地上界へも届いているのです。
ですが地上を取り巻く厚いベールを通過する際にどんどんその輝きを失っていきます。地上で名曲とされているのもその程度のものに過ぎないのです。
ではこれから私が、そうした天上の音楽がどういう具合に地上へ届けられるかを説明します。どうか思い切り想像の翼を広げて聞いてください。いくら想像を逞しくしてもなお及ばないでしょう。
目にも見えず耳にも聞こえず(*)──天界の音楽のあの崇高な躍動、盛り上がりと下降、そして魂の奥底まで響く力強さは、とうてい人間の肉耳には感応しないのです。
(*これはシェークスピアの〝真夏の夜の夢〟の一節であるが、天界に人間には聞こえない壮大な妙音が流れているという思想は紀元前からピタゴラスなどが説いていた。──訳者)
それどころではありません。受信と通訳の二つの機能を併せ持つ脳を備えた物的身体に宿っているかぎり、天界の調べのあの得も言われぬ美しさのイメージは、とても人間には想像できないでしょう。まして産み出すことなど全く不可能でしょう。
その天界の最高界から最切に流れ出た旋律がいかなるものであったかは、この低地にいる私たちには測り知ることはできません。それはあなた方地上の人間に私たちの界の音楽が想像できないと同じです。
ただ、このことだけは断言できます。これしか判らないと言ってもいいでしょう。
(そう思う程度のことです。いずれにせよ私たちの間では常識とされていることですが)それは〝神の御胸〟こそ音楽におけるハーモニーの源であるということです。神の偉大なる〝心臓部〟です。
そこから神のメロディの愛の調べが流れ出て、最も感応しやすい界層がそれを受け、他のもろもろの要素と合体して〝美〟の根源たる神にいやが上にも近づいていきます。かくて永遠の時の経過の中で遥か高き上層界の神霊が荘厳さと崇高さを帯び、神的属性を身に付けて行きつつあるのです。
しかしこの問題は次元が高すぎて、私ごとき者にはとてもうまく叙述できません。このたびの目的は数少ない言葉を精いっぱい駆使して、その流れが私たちの界まで下降してきた後地上まで送り届けられる過程を私たちに知り得た範囲で叙述することです。
私たちの界を通過した旋律はその音色を構成する微粒子の一つひとつが膨張して互いに押し合い、密度を失い、かくて漸く地上との境界に辿り着いた時は基調のキメが非常に粗いものとなっていて、地上的感覚にしか感応しなくなっております。
具体的に言えば、第六界まで流れて来たものが一つの受け入れ容器を見つけます。二つまたはそれ以上のこともあります。それが貯蔵所となり、それを利用してさまざまな節や旋律が構成され、小さくはあっても強烈な作品が再び地上へ向けて下降を開始します。
が下降しはじめた瞬間から先に述べたような膨張が始まります。ですから、あなた方が受け取った時はそれはすでに純粋なエキスではなくなっており、いわば原液が薄められた状態となっております。
これを譬えてみれば壁に開けられた小さな穴から真暗な部屋に射し込んだ光のようなもので、小さくても射し込んだ時は強烈だったものが、突き当りの壁に届いた時は性質が遥かに弱まっており、さらに雑音も加わっていて、それは隙間から飛び込んだ時の輝きを失わせることにしかなりません。
もっとも、そうして地上に届く音楽でも魂を高揚させる素晴らしいものがあることは事実です。となると私たちの界の音楽がいかに素晴らしいものであるかは、思い半ばに過ぎるものがあるでしょう。
私たちは痛いほどに魂を鼓舞する旋律に心を奪われてしまいます。それを聞いた一人ひとりがみずから霊的エネルギーの集積体となり、さらにそれを各自の個性によって解釈し形体を賦与して、自分より低い界層の者へ送ります。その際、その音楽に秘められた繊細さと効力の度合いがその道の専門家によって適当に下げられます。
高き天界の大音楽家より発せられた旋律を捉え幾らかでも留めることができる地上の程度の高い音楽家の理解力に合わせて、あまり繊細過ぎないようにとの配慮からそうするのです。
出来ればもっと話を進めたいのですが、そろそろあなたの受信度が悪くなってきました。そこであと一言だけ簡単に述べておきます。何事も同じですが、この問題においても父なる神より末端の人間に至るまでの整然たる階梯を通じて、次の大原則が支配しているのです。
すなわち〝父が自らの中に生命を宿すごとく父はその子イエスに生命を与え給うた〟ということです。単に生命のみではありません。生命現象の全てを含めての話です。その一つが音楽であるわけです。
そのイエス様が父の貯蔵所から受ける生命を大天使に分け与えるごとくに、大天使もまたその能力に応じて小天使へと授けて行く───両親が子に生命を授けるように単に生命のみを与えるのではなく、愛と美と高尚な思想と天界のメロディをも併せて授けられます。
では、私を通じてメッセージを届けている霊団の者になり代って、カスリーンが愛の祝福を申し上げます。
6 〝過ぎにし昔も来る世々も〟
一九一七年十一月十三日 火曜日
以上、父なる神の愛の流れ、天界の水とその効用、そして音楽について述べました。そこで今夜は最高界で定められた厳令を下層界へ向けて行使することを責務とする神霊によって目論まれた、ある特殊な目的の為のエネルギーの調節について少しばかり言及してみたいと思います。
こう言えば、地上という最前線にて生活する貴殿(*)には、地上に割当てられる責務が遥か天界の上層界の神霊によって、その程度と目的を考慮して定められていることがお判りであろう。役割分担によるそうした計画が下層界へ向けて末は地上に到るまで伝達されます。
その感識の仕方は各自異なる。感識の度合いも異なる。ある者は鮮明に、ある者は不明瞭に感識する。それだけ用心の度合いが劣るということです。
しかし地上生活という生存競争の渦中にいる者には、もし自ら求めて人生とは何か、自分はいかなる目的に向けて導かれているかについての確証を得たいと望むのであれば、人生の秘密の巻物を読むことが許されます。
(*そろそろリーダーと名告る高級霊、実は第一巻でアーノルの名で紹介された霊が強く表に出はじめ、文体が古めかしさを帯び始める。──訳者)
とは言え、遠き未来まで見通すこと、あるいは垣間見ることを許される者は極めて少数に限られます。イエスがかつて述べた如く〝今日一日にて足れり〟(*)が原則なのであり、人間の信頼心が堅固にして冷静でありさえすれば、確かにそれで足りよう。
未来が絶対に知り得ないものだからではない。知り得るのであるが、人生の大目的を知り得るのは余程高度の能力と地位の者に限られているからに過ぎない。
吾々の能力も僅かに先のことを知り得る程度のものであり、平均的人間の能力に至っては一寸先も見えないであろう。
先ほど述べた神の大計画も、数多くの界層を通過して来るからには当然、各界の色合いを加味され、いよいよ地上に至った時はあまりの複雑さのために究極の目的が曖昧模糊として見分け難く、吾々のように地上に関わってある程度のコツを身に付けた者にとっても、往々にして困難なことがある。そこに実は信仰の目的と効用があります。
すなわち自分の義務は自覚できても、それ以上のことは判らない。そこで計画を立てた高級界の神霊にはその目的が瞭然と見えているに相違ないとの確信のもとに勇気を持って邁進するのです。
その計画遂行の手となり足となるべき者が信念に燃え精励を厭わなければ、計画を立てた者にとっては目的成就の為の力を得たことになる。が、もし信念を欠き精励を怠れば、成就は覚束ないことになる。
なぜなら全ての人間に選択の自由があり、その問題に関するかぎりいかなる者も意志を牛耳られることはないからです。信頼心をもって忠実に突き進んでくれれば目的成就は固い。
が、たとえ計画からそれたコースを選択しても、吾々はそれを強制的に阻止することはしない。教育的指導はするが、それも穏やかに行う。そしてもしそれが無視されるに至った時は、もはや好きにやらせるほかはない。
一人ぼっちになってしまうという意味ではありません。すぐに別の種類の霊的仲間が付くでしょう。数に事欠くことはありません。
(*マタイ6・34。〝この故に明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。〟)
具体的に説明してみよう。たとえば科学に関する書物が必要になったとします。するとまず〝科学〟を基調とする界層の霊団が内容の概略を考える。
それが〝愛〟を基調とする界層へ届けられます。そこで和らかい円味を吹き込まれ、今度は〝美〟を基調とする界層へ送られます。すると調和と生彩を出すための解説が施され、それがさらに地上人類の特質を研究している霊団へ送られます。
その霊団はその内容を分析検討して、それを地上へ届けるのに最も相応しい(霊界の)民族を選択します。選択すると、最終的に託すべき界層を慎重に選ぶ。と言うのは、仕上げとして歴史的事例を付加する必要があるかも知れないし、詩的風味を注入した方がよいかも知れないし、もしかしたらロマンス精神を吹き込む必要があるかも知れません。
かくして、ただの科学的事実として出発したものが、地上に辿り着いた時は科学的論文となっていたり、歴史的梗概となっていたり、小論文となっていたり、はては誌とか讃美歌となっていたりするわけです。
ちなみに貴殿がよく親しんでいる讃美歌を右の言説に照らして見直されると、吾々の言わんとするところが僅かでも判っていただけるでしょう。例えば〝神の御胸はいとも奇し〟(二八番)は宇宙哲学あるいは宇宙科学の解説的論文として書き変えることが出来る。
また〝誰れにも読める書あり〟(**)、〝過ぎにし昔も来る世にも〟(八八番)などは神の摂理の歴史的研究の根幹を成すものであり、その研究を基調とする界層において、多分、最初の創作の段階でそうした誌文に盛り込まれたものに相違ない。
貴殿もすぐに理解がいくことと思いますが、そうした計画は一つの界層において全てが仕上げられるのではなく、数多くの界層を経過するのであり、しかも一つの界から次の界への伝達の仕方も必ずしも一様でない。
また頭初は書物として計画されたものが、幾つかの界層を経るうちに、あるいは議会の法令となり、あるいは戯曲となり、時には商業上の企画に変わることすらある。
その方法・手段には際限がない。とにかく、神の創造の大業の促進と人間の進化のための計画に関わる者が決断したことが実行に移されるのです。
かくて人間は高き世界より監視し指導する神霊の仕事を推進していることになる。ならば、そうと知った者は背後に強大な援助の集団が控えることを自覚し、何ものをも恐れることなく、途中で狼狽えることなく、勇気を持って邁進することです。
カスリーンより。以上は私が代筆したものですが、私自身からも一言付け加えたいと思います。
右のメッセージは私より遥かに多くの知識を持つ方々が、世の為に働くさまざまな人間のために贈られたものです。ですが、私の観るところではあなたの今の仕事にも当てはまるものと考えます。いかなる人間のいかなる仕事も、天界の指導と援助を受けないことはありません。お別れに当たって私からのこのささやかなメッセージをお受け取り下さい。ささやかではありますが、これはカスリーン本人からのものです。
(**これは英国の詩人キーブル John Keble の作品であるが、日本語の讃美歌集にも英語の讃美歌集にも見当たらないところをみると、讃美歌ではなく誌歌なのであろう。「オックスフォード引用句辞典」にその一節だけが載っている。その意味は、宇宙には真理を求める者、心清き者、キリストの心を持つ者であれば誰でも読める書が用意されている、ということ。──訳者)
7 〝後なる者、先になること多し〟
一九一七年十一月十五日 木曜
吾々が地上生活を送っていた時代には〝霊的真理の道を選んだ者はすぐに後悔するが最後には必ず勝利を得る〟と言われたものです。それを身を持って証明した者が少なくとも吾々の霊団の中にも幾人かいます。視野をこの短い地上的時間に縛られることなく、限りない永遠性に向けていたからでした。
今この天界より振り返り、これまでの旅路を短縮して一枚の絵の如く平たく画いてみると、そのカンバスでとくに目立った点が浮き彫りにされ、そこから読み取れる教訓に沿って本来のコースを定めることも可能です。
それにしても、天界の光に照らし出されたその絵は、かつて吾々がその最中において悪戦苦闘した時に想像していたものと何という違いであろう。そこで貴殿に忠告しておくが、人生全体と日々の暮らしを形作っているさまざまな要素の価値判断においてあまりに性急であってはならないことである。
今にして思えば、当時吾々が携わった仕事が偉大であったのは全体として見た場合のことであって、一人ひとりの役割に目を向ければ実にささやかなものであり、大切だったのは個々の持ち前ではなく、それに携わる動機のみであったことが判る。
というのも、一個の偉大な事業のもとに参加する者が多ければ多いほど、それだけ存在価値も分散し、役割分担が小さくなっていくのが道理だからです。重要なのは根気よくそれに携わる動機である。事業全体としての趣旨は人類のためであり、一人一人がその恩恵に浴するが、その分け前は至って僅かなものです。
しかし一方、動機が気高くさえあれば、世間がそれをどう評価しようと問題ではない。人生という闘争の場において自分に最もふさわしい役割を与えられたのであるから。
──何だかややこしくなって来ました。好い例を挙げて説明していただけませんか。
例ならば幾らでもあります。では一つだけ紹介しよう。
地上の言い方をすれば〝何年も前〟のことになるが、靴直しを生業としていた男が地上を去ってこちらへ来た。何とか暮らしていくだけの収入があるのみで、葬儀の費用を支払った時は一銭も残っていなかった。
こちらで出迎えたのもほんの僅かな知人だけだったが、彼にしてみれば自分如き身分の者を迎えにわざわざ地上近くまで来て道案内をしてくれたことだけで十分うれしく思った。
案内された所も地上近くの界層の一つで、決して高い界層ではなかった。が今も言った通り彼はそれで満足であった。
と言うのも、苦労と退屈と貧困との闘いのあとだけに、そこに安らぎを見出し、その界の興味深い景色や場所を見物する余裕も出来たからである。彼にとってはそこがまさに天国であり、みんなが親切にしてくれて幸福そのものだった。
ある日のこと──地上的に言えばのことであるが──彼の住まいのある通りへ一人の天使が訪れた。中をのぞくと彼は横になって一冊の本をどこということなく読んでいる。
その本は彼がその家に案内されてここがあなたの家ですと言われて中に入った時からそこに置いてあったものである。天使が地上時代の彼の名前──何といったか忘れたが──を呼ぶと彼はむっくと起き上がった。
「何を読んでおられるのかな?」と天使が聞いた。
「別にたいしたものじゃありません。どうにかこうにか私にも理解できますが、明らかにこの界の者のための本ではなく、ずっと高い界のもののようです」と男は答えた。
「何のことが書いてあるのであろう?」
「高い地位、高度な仕事、唯一の父なる神のために整然と働く上層界の男女の大霊団のことなどについて述べてあります。その霊団の人々もかつては地上で異なった国家で異なった信仰のもとに暮らしていたようです。話ぶりがそれを物語っております。
しかしこの著者はもうこの違いを意識していないようです。長い年月の修養と進化によって今では同胞として一体となり、互いの愛情においても合理的理解力においても何一つ差別がなくなっております。
目的と仕事と願望において一団となっております。こうした事実から私はこの本はこの界のものではなく、遥か上層の界のものと判断するわけです。その上この本には各霊団のリーダーのための教訓も述べられているようです。
と言うのは、政治家的性格や統率者的手腕、リーダーとしての叡智、等々についての記述もあるからです。それで今の私には興味はないと思ったわけです。遠い遠い将来には必要となるかも知れませんけど・・・。一体なぜこんな本が私の家に置いてあったのか、よく判りません」
そこで天使は開いていたその本を男の手から取って閉じ、黙って再び手渡した。それを男が受け取った時である、彼は急に頬を赤く染めて、ひどく狼狽した。その表紙に宝石を並べて綴じられた自分の名前があるのに気づいたからである。戸惑いながら彼はこう言った。
「でも私にはそれが見えなかったのです。今の今まで私の名前が書いてあるとは知りませんでした」
「しかし、ご覧の通り、あなたのものです。と言うことは、あなたの勉強のためということです。いいですか。ここはあなたにとってはホンの一時の休憩所に過ぎないのです。
もう十分休まれたのですから、そろそろ次の仕事に取り掛からなくてはいけません。ここではありません。この本に出ている高い界での仕事です」
彼は何か言おうとしたが口に出ない。不安の念に襲われ、しり込みして天使の前で頭を垂れてしまった。そしてやっと口に出たのは次の言葉だった。
「私はただの靴職人です。人を指導する人間ではありません。私はこの明るい土地で平凡な人間であることで満足です。私ごとき者にはここが天国です」
そこで天使がこう語って聞かせた。
「そう言う言葉が述べられるということだけで、あなたには十分向上の資格があります。真の謙虚さは上に立つ者の絶対的な盾であり防衛手段の一つなのです。それにあなたは、それ以外にも強力な武器をお持ちです。謙虚の盾は消極的な手段です。
あなたはあの地上生活の中で攻撃のための武器も強化し鋭利にしておられた。例えば靴を作る時あなたはそれをなるべく長持ちさせて貧しい人の財布の負担を軽くしてあげようと考えた。儲ける金のことよりもそのことの方を先に考えた。
それをモットーにしておられたほどです。そのモットーがあなたの魂に泌み込み、あなたの霊性の一部となった。こちらではその徳は決してぞんざいには扱われません。
その上あなたは日々の生活費が逼迫しているにも拘らず、時には知人宅の収穫や植えつけ、屋根ふきなどを手伝い、時には病気の友を見舞った。そのために割いた時間はローソクの明りで取り戻した。そうしなければならないほど世活費に困っておられた。
そうしたことはあなたの魂の輝きによってベールのこちら側からことごとく判っておりました。と言うのも、こちらの世界には、私たちの肩越しに天界の光が地上生活を照らし出し、徳を反射し、悪徳は反射しないという、そういう見晴らしがきく利点があるのです。
ですから、正しい生活を営む者は明るく照らし出され、邪悪な生活を送っている者は暗く陰気に映ります。
この他にも、あなたの地上での行為とその経緯について述べようと思えばいろいろありますが、ここではそれは措いておきます。それよりもこの度私が携えてきたあなたへのメッセージをお伝えしましょう。
実はこの本に出ている界に、あなたの到着を待ちわびている一団がいるのです。霊団として組織され、すでに訓練も積んでおります。
その使命は地上近くの界を訪れ、他界して来る霊を引き取ることです。新参の一人ひとりについてよく観察して適切な場を選び、そこへ案内する役の人に引き渡すのです。もう、いつでも出発の用意が出来ており、そのリーダーとなるべき人の到来を待つばかりとなっています。さ、参りましょう。私がご案内します」
それを聞いて彼は跪き、額を天使の足元につけて涙を流した。そしてこう言った。
「私にそれだけの資格があれば参ります。でも私にはとてもその資格はありません。それに私はその一団の方々を知りませんし、私に従ってくれないでしょう」
すると天使がこう説明した。「私が携えてきたメッセージは人物の選択において決して間違いを犯すことのない大天使からのものです。さ、参りましょう。その一団は決してあなたの知らない方たちではありません。
と言うのは、あなたの疲れた肉体が眠りに落ちた時、あなたはその肉体から脱け出て、いつもその界を訪れていたのです。そうです。地上にいる時からそうしていたのです。
その界においてあなたも彼らと一緒に訓練をなさっていたのです。まず服従することを学び、それから命令することを学ばれました。お会いになれば皆あなたのご存知の方ばかりのはずです。彼らもあなたをよく知っております。
大天使も力になってくださるでしょうから、あなたも頑張らなくてはいけません」
そう言い終わると天使は彼を従えてその家を後にし、山へ向かって歩を進め、やがて峠を越えて次の界へ行った。行くほどに彼の衣服が明るさを増し、生地が明るく映え、身体がどことなく大きく且つ光輝を増し、山頂へ登る頃にはその姿はもはやかつての靴直しのそれではなく、貴公子のそれであり、まさしくリーダーらしくなっていた。
道中は長びいたが楽しいものであった。(長びいたのは本来の姿を穏やかに取り戻すためであった)そしてついに霊団の待つところへやって来た。ひと目見て彼には彼らの全てが確認できた。出迎えて彼の前に整列した彼らを見た時には、彼はすでにリーダーとしての自信が湧いていた。各自の目に愛の光を見たからである。
二章 霊的交信の原理
1 思念の濾過装置ーカスリーン
一九一七年十一月十六日 金曜日
貴殿にとっては吾々の述べることの大半がさぞ不思議に思えることでしょう。吾々は現実に見ることも聞くことも出来るが、貴殿はかつて一度も見聞きしていないのであるから無理もないことです。そこで何か不可解なことがある時は次のことを思い起こしてほしい。
すなわち、今貴殿が耐え忍ばねばならない霧は、かつて吾々も遭遇したことがあるということです。ということは、貴殿の今の苦しい立場も疑念も吾々にとって決して理解できない性質のものではなく、貴殿がたびたび見せる躊躇も吾々にとって少しも驚きではないということです。
が、それはそれとして、貴殿の脳裏に浮かぶものをそのまま綴っていただきたい。
それを後で容赦ない批判的態度で読み返してみられたい。完璧性には欠けるかも知れないが、実質においても外殻においても、苦心しただけの価値があることを認められるに相違ない。外殻よりも実質の方が重要であるが、更にその奥には核心がある。
吾々の通信もその核心まで見届けてほしい。何となれば、もし吾々の通信に幾らかでも価値があるとすれば、そこにこそ見出されるであろうからです。
──文章がいささか古めかしいですね。古い言いまわしの方が近代的なものよりお得意とお見受けします。私が近代的な語句を使用しようとしても、すぐに古風な言いまわしが割り込んできてそれを押し出してしまいます。そういうことがしばしばあります。
当たらずといえども遠からず、というところであろう。かつての古い語句や言いまわしのクセが顔を出し、その方が使い勝手が良いので、ついそちらへ偏ることは事実です。が、何なら貴殿の脳の中から近代的なものを取り出して使用するように努力しましょう。貴殿がそう望まれるのならそうしてもよい。
──それには及びません。私はただこうした傾向があまり一般的でないので述べてみたまでです。例えば私が教会で説教を行っている時に指導してくれる霊は古い言い回しはしません。
それはそうであろう。吾々の仕事においては各自のやり方に少しずつ違いがあるものです。正直言って彼の場合も時たまはうっかり生前使い慣れた言い方をしそうになるに相違ない。が彼はそうならぬよう心掛け、貴殿の言い方に倣っている。
うっかり聴き慣れない言い方をすると聴衆が変に思い、貴殿がどうかしたのではないかと、牧師としての適性を疑いかねないでしょう。
一方吾々は貴殿に書き取ってもらうことを前提としてしゃべるので、力強く印象付けないと使い物にならない用語や連語があり、そのために貴殿が戸惑い、書くのを躊躇することにもなる。が、それを避けようとすると肝心の目的からそれてしまうのです。
──では、どのようになさっておられるのか具体的に説明してください。
さて、さて、これは特殊な方法であるから、たとえ説明しても部分的にしか理解していただけないでしょう。が出来るかぎり説明してみよう。まず今夜ここに居合わせているのは七人のグループです。時にはもっと多いこともあるし少ないこともある。
何を述べるかは予め大ざっぱにまとめてあるが、どのような表現にするかは貴殿の姿を見て精神状態を確かめ、同時に貴殿がそのあと何をする予定であるかを調べてから決める。それから貴殿から少し離れたところに位置をとる。
あまり近いと吾々の影響つまり数人の精神から出る意念の放射が一つにまとまらずにバラバラの形で貴殿に届けられ、貴殿の意識に混乱が生じる。
少し離れていると、それがうまく融合して焦点が定まり、貴殿に届く時には一つに統一され、語法にも一貫性ができあがる。
貴殿が時おり単語や語句を変に思って躊躇するのは、あれは吾々の思想が混ざり合ったままで、用語が決まるまでにまとまっていない時である。それで貴殿は筆を止める。が融合作用が進行して一つにまとまると貴殿の頭に一つの考えが閃き、また筆を進めることになる。確か貴殿はそれに気づいておられるはずですが・・・・・・。
──気づいてました。ただ、なぜそうなるのかが判りませんでした。
無理もないことです。では先を続けよう。吾々が思想を貴殿へ送るわけだが、時にはそれが貴殿の言うようにひどく古くさい表現となって、貴殿はとっさにその意味を捉えかねることがある。それを修正するために中間に近代的な濾過装置を用意している。吾々がこのたび語りたいのはこの濾過装置のことである。
それが実は他ならぬカスリーンです。カスリーンが間に入ってくれるおかげで吾々の思念を貴殿に届けることが出来るのです。これにはいろいろと理由がある。霊的状態が吾々よりも貴殿の方に近いということがまず第一である。
つまり吾々にはこちらへ来てからの年数が長く、地球そのものから遠く離れているので、地上的習慣や手段との馴染みが薄くなっていますが、その点カスリーンは比較的新しい他界者なので、しゃべる言葉がまだ貴殿に感応しやすい。
次にそれと関連した理由として、カスリーンにはまだ言語の貯えが残っていることが挙げられる。彼女は今でも地上の言語で思考することができる。しかもその言語は吾々のものより近代的である。もっとも吾々に言わせれば現代語は感心しない。
何やら合成語のような感じがするし、適確さに欠けるように思う。が、それなりの良さを持っているからには、吾々もアラ探しは控えねばなるまい。
吾々とて相変わらず偏見があり偏狭性を拭い切ってはいない。そうした人間的弱点はどこかに潜んでいるもので、こうして地上へ降りてくると、これまでの進化の道程で一度は捨て去ったはずのものが再び頭をもたげるのです。
地上に戻るとそうした人間的感情を再び味わうことになるが、それもまんざら悪いものでもありません。結構楽しいものです。
そうした点においてもカスリーンの方が貴殿に近く、それで吾々の思念の流れをいったん彼女を通過させて貴殿に届けるのです。また吾々が貴殿から少し離れたところに位置しているのは、吾々が一体となった時の威力が貴殿を圧倒してしまうからです。
オーラと言う語を使用してもよい──この言葉はあまり好きではないが、ここでは使わねばなるまい。つまり吾々のオーラの融合したものが貴殿に何とも言えぬ心地良さ──一種の恍惚状態──に導いてしまう。が、それでは貴殿が書き取れないことになる。
吾々がこうして降りて来るのは貴殿並びに他の大勢の人々に理性を持って読んでいただき、願わくば理解していただくために、文章として綴るのが目的なのですから。
貴殿は今タイムキーパー(時間記録器)の文字盤へ目を向けられた。それを貴殿らはウォッチ(時計)と呼んでおられる。
なぜこのようなことを? 吾々が古い言いまわしを好む一例として述べてみたまでです。ウォッチと言うよりはタイムキーパーと言った方が吾々にはぴったりくる。が、吾々の好みを押し付けるつもりはありません。礼を失することになるでしょう。
いま貴殿が文字盤──それをどう呼ばれてもよいが──に目をやられた意味も判っております。そこでお寝みを申し上げるとしよう。貴殿並びに皆様に神の祝福のあらんことを、失礼します。
カスリーンですが、私からも一言付け加えさせていただけますか。
──もちろん。どうぞ。
いま霊団の方たちが何かおしゃべりをされてます。まるで昔なじみのように、別れ際にはいつも暫くおしゃべりをされるのです。いよいよ行ってしまう時はすぐにそれと知れます。いつも最後は皆んなで私の方を向いて、有難う、さよなら、と言ってくださるのです。光り輝く素敵な男性ばかりです。
時には女性の方が付いて来ていることもあります。それは男性的精神構造では理解できない問題を扱う時だろうと私は思っています。その女性の方がどなたであるかは知りません。でも威厳のある、美しい、しかも優しい感じの方です。では今回はこれでお別れします。間もなくまた参ります。一緒に筆記していただいて有難う。
──さようなら、カスリーン。有難うは私の方から言うべきだと思うけど。
でも始めはあまり気乗りがしなかったのではないですか?
──そうね。片付けなければならないことが沢山あるものだから。それに、四年前の通信(第二巻)の時の苦しさが今も忘れられないのでね。
でも、通信の再開の話は前もって打ち合わせてあったのでしょ? 憶えてらしたのでしょ? それに、思ったほど苦痛は感じないでしょ?
──両方ともおっしゃる通り。
とくに、苦痛が少なくなったのは間違いないと思う。このカスリーンが間に入っているからです。ですから、これから先も私の存在を忘れないでね。
さようなら。そしてもう一度有難うと言わせていただきます。ルビーちゃん(※)なら〝それにキスも〟とでも言うところでしょうけど、それは娘だけの特権ね。私は愛と善意をこめて、ただ、さようなら、とだけ申し上げます。 カスリーン
(*オーエン氏の女児で、カスリーンが二十八歳で他界してから三年後にわずか十五か月で他界している。──訳者)
2 通信を妨げるもの
一九一七年十一月十七日 土曜日
吾々が送り届け貴殿が綴ったものをあとで読み返してみると、さまざまな入り組んだ事情のために、ぜひ伝えたいと思ったことがうまく表現されておらず、逆に思いも寄らないことが表に出ていることがあります。
こうしたことは通信を送る側の界と受け取る側の界との間に部厚いベールが存在することから当然生じることです。そのベールを境とした双方の大気は性質がまったく異なるために、吾々から発送した思念がそのベールに突入した際に急速にそして極端にスピードが落ち、思念の流れが乱れ、その境界線上において混乱が生じることは避け難い。
それは譬えてみれば川堰を越えて流れ落ちる水のようなもので、その表面に激しい波が立つ。
そこで吾々はなるべく静かな底流を利用することになります。そうすれば通信内容も鮮明となる。しかし、こうしたことは数多い問題の一つに過ぎません。
もう一つ、こういう問題もあります。人間の脳は実によく出来た器官ではあるが、あくまで物質であるために吾々の思念が脳に届いても、あるいは強く突き当っても、物質の固さのために内部への滲透が阻害され、その場で完全にストップされることもある。
と言うのも、吾々から出る思念のバイブレーションが高度であり、その微妙さが密度の粗い脳との感応を妨げるのです。
さらに、こちらには地上の言語では表現できないことが数多く存在します。色彩にしても、スペクトルには感応しても人間の目には見えないものがある。が、
人間の目はおろか、スペクトルにも感応しない崇高な色彩も存在します。音も同じで、地上では絶対に感応しないものがある。エネルギーにしても、人間には利用もできないし存在を証明してみせることも出来ないものが存在する。人間側に知識も経験もないからです。
こうした事情から〝四次元〟という用語が用いられることがあります。必ずしも正確な表現とは言えないが、そう表現しておく方が、まったく述べずにおくよりはましかも知れません。といって吾々がそれを高く評価していると受取ってもらっては困るが・・・・・・。
とにかく、そうしたものやその他の無数の要素が入り組んで存在し、吾々の生活環境を形成しているわけです。
が、それについて、あるいは人間の目に映じる地上の諸現象との因果関係について語ろうとすると、とたんに吾々は大いに当惑し、人間に理解してもらい且つなるべく吾々の知る実相から掛け離れない程度に説明するには、一体どうしたものかと思案にくれるのです。
これでお判りと思うが、こちらの界から地上界へ通信を送るには大変な操作が必要であり、それがまた決して容易ではないのです。が、それだけにやり甲斐の在る仕事でもある。吾々は鋭意努力して少しでも満足の行く仕事を残したいと思います。
地上の人間がもし吾々の存在と吾々との協調関係についてもっと信仰心を持ってくれれば、吾々もずっと仕事がやり易くなることでしょう。
またその信仰がもっと大胆にして強烈なものとなり、心がもっと素直にそして一途なものとなってくれれば、霊的環境が改善されて仕事がやり易くなり、吾々からの援助が受け入れ易くなるでしょう。
たとえば吾々にとっては西洋人よりもインド人の方が思念が伝わり易い。それはインド人が西洋人よりも霊的なものに馴染んでいるからです。西洋においては有機物と無機物──と西洋人は考えるがこれは誤りです──つまり物質の科学と、何かというと同盟や機構を作ること──いわば政治力学──にばかり躍起となります。
(*)それも必要であり、しかも立派に成し遂げている。さらにはそれを世界的規模にて行うのも必要なことではあった。
が、それもすでに現在の時勢に関するかぎり、ほぼ完全に近い。吾々としては西洋人がそろそろチャンネルを切り換えて霊的世界へ目を向けてくれるのを期待しています。
そうなってくれれば地上と連絡したがっている大勢の者にとって、そのチャンスを与えられることになる。その時も近い。
そして援助せんとする勢力もその時を今や遅しと待ち構えている。吾々にとっての最大の敵は西洋の物質万能主義であり、それとの闘いに吾々は貴殿と同じく喜びを持って挑みます。またそう易々とサジは投げません。
今夜はこれ以上述べません。貴殿は疲れて来ました。ではお寝み。神の安らぎを。
(*折しも第一次大戦が終局へ向かいつつある時で、三国同盟協商とかのことを指しているのであろう。──訳者)
3 人間診断のスペクトル
一九一七年十一月二十二日 木曜日
再び貴殿の精神をお借りして、吾々が人間界に対して行う仕事と援助の方法について、もう少し述べてみたいと思う。理解していただけると思いますが、天界は広大な範囲にまたがり、その住民の数は文字どおり無数であり、従って人間界への関わり方もまた地域によってさまざまであり、霊団の進化の度合いによっても異なります。
そこで、ここでは吾々の霊団の話に限定し他の霊団のことまでは言及しないことにします。実は霊団どうしで互いの強化と協力のために相手霊団の仕事の進展具合を研究し合っており、従って範囲を広げればキリがないのです。そこで吾々の霊団に限ることにしたい。
こうして吾々の界より地上へ降りてきて人類のために授けるよう託されたものは数多くあります。それを幾つかに分類し、中でも特殊なものが幾つかの霊団に割り当てられる。ここにいる吾々七人はその霊団の中の一つの班を構成している。
その仕事が今こうして行っているように一連の通信をまずカスリーンを通して送り、さらに貴殿を通して地上の人々に届けるということです。霊団の数は時の経過とともに変わります。新しく加わることもあれば、古いメンバーが上層へ召されて行くこともある。
現在のところでは総勢三十六名です。それが六名のメンバーと一人のリーダーで一個の班をこしらえていますが、それは原則であって、その時々の仕事の内容次第でもっと多くなる時もあれば少なくなることもある。
一人でなく複数で行動する理由はエネルギーを結集して強化するためだけではなく、一つに融合した時の各メンバーの影響力のコンビネーションを考慮してのことです。このことはすでに説明しました(本章1)。
そのコンビネーションの効果を上げるためには、それを伝達するための地上の霊媒、場合によっては霊界の霊媒ともうまく調和しなければなりません。それがうまく行かないと確実性が乏しく、大なり小なりの誤りが生じやすくなります。仕事によってはそれを必要としないこともありますが、それは今は措いて、現在の吾々の仕事に限ることにする。
今の吾々の仕事には二人の霊媒がいる。すなわちカスリーンと貴殿です。カスリーンは通訳──そう呼ぶのが適切であろう──として吾々の班の一人に加わっています。
彼女と貴殿の二人については過去何か月にも亘って観察を続けてきました。まず貴殿に目をつけました。そのきっかけは貴殿がご母堂から(第一巻)、そしてのちに吾々の霊団の最高指揮者であられるザブディエル殿から(第二巻)通信を受けていることを知ったからです。
──ザブディエル様について何か教えていただけませんか。
喜んでお教えしたいところであるが、それは適切な時期を選んで改めて述べるとしよう。今夜は控えたい。
さて吾々はそれから貴殿の精神構造と、そこに蓄積されているそれまでの地上生活の中身、それは貴殿の霊───貴殿の霊的身体と思えばよい。吾々はその意味で使用します──とその健康状態、そして、これ以後の仕事の完遂のために要請される要素等を分析検討し、そして最後に貴殿の魂そのものの質と性格を出来る限り診断した。
それから、そうした調査結果を吾々の界で使用しているスペクトルにかけてみたのである。
(地上の科学者が使用するスペクトルとはあまり似ていないが、地上の科学者が光波の分析に使用するのと同じように吾々はそれを人間の診断とオーラの分析に使用している)
こうして貴殿は何も知らないうちに吾々によって細心の注意をもって調査されテストされていたのです。つまり吾々は貴殿の詳細な診断書を作成して、それをザブディエル殿がかつて貴殿を使用される時に作成された診断書と比較し、また精密さにおいては劣るが、ご母堂の霊団が最初に貴殿に思念を印象付ける方法で通信を送る際に用意された相当くわしい記録とも比較してみました。
以上三つの記録が貴殿の進歩の様子を明らかにしてくれました。貴殿はある面では・・・・・・貴殿のことを明かしてもよいであろうか。
──結構です。どうぞ。
貴殿はある面では進歩しておられたが、別の面では退歩しておられた。それは主に今継続中の(第一次)大戦のために時間と思考が奪われているせいでもある。総合的に診断すれば貴殿は三、四年前に比べて霊媒としては少し劣っておられるように見受けられる。
が吾々は、この程度ならば何とか以前とほぼ同程度に使用できるとの結論に達したのです。問題は貴殿が奥深い霊覚を失っておられることであった。
つまり霊的高揚や法悦状態に導き、内的視力とも言うべき想像性豊かな能力と内的聴力に吾々が働きかけるのを可能にしてくれるものが消え失せていることでした。しかし何とか使用できる、そして使用するうちに改善される可能性もあると判断して、貴殿を吾々の道具とすることに決めたのです。
そのほかにも吾々は、上がったり下がったりしながらの進化のコースは、右の三つの記録をつなぎ合わせた時の一直線のコースとは必ずしも一致しないことを発見しました。
そこに幾つかの食い違いがあったのです。そして吾々の記録とすぐその前の(ザブディエル殿の)記録との間の食い違いは吾々の診断の方に原因があり、ザブディエル殿のために記録を作成した霊団の手落ちではなかったことが判明しました。
これは吾々の採用した例の特殊な方法を考慮していただけば驚くには当たりません。何しろ貴殿の進歩は決して一定方向ではなく、数々の方向への線が複雑に交叉して絡み合い、そこに混乱が生じていたのです。ともあれ落度は吾々の側にありました。
今夜はこれにて終わり、明日また同じ問題を扱うことにしたい。このたびは貴殿は一度ならず中断し、それも必要以上に間延びした。その意味で今夜は貴殿はあまり扱い易くありませんでした。これ以後こうしたことのないようにするために何か良い方法を考えねばなりますまい。
何とかやってみましょう。ではお寝み。貴殿の進まれる道に神の祝福のあらんことを。
4 男性原理と女性原理
一九一七年十一月二十三日 金曜日
前回の話を続けたい。
吾々霊団の精神的融合体と、そこから出る思念体の流れを受け取る貴殿の鉛筆と用紙との間の連絡関係は、今まさに完璧な状態に近づきつつあります。
頭初、貴殿の人間性と特質の調査を終えたあと吾々は、こんどは吾々と貴殿との間を取り次ぐもの──その思念体の流れを受け取り、屈折させ、ある程度まで変質させ、言ってみればスペクトルの中の無用の要素、つまり人間の網膜に感応しない要素に相当するものを取り除くことのできる存在を探す必要に迫られた。
これでお判りの様に、最終的に貴殿に届けられるのは吾々が最初に発送したもの全部ではないのです。
それは譬えてみればスペクトルの中の可視光線と呼ばれている部分、つまり赤外線と紫外線を除いた波長でできた、人間の目に映じる部分と同じである。人間の手によって綴られる通信に筋の通らないものが見られる要因も、そうした複雑な事情によります。
法則というものは全ての分野で一貫しており、どこか相通ずるものがあるもので、この問題においても同じである。例えば人間の目に映じる白色光は合成体ではなく統一体であるが、吾々の霊団についても同じことが言える。
つまり白色光が複数の色彩を統一して一色の光波つまりは無色の光の流れをこしらえるのと同じように、吾々霊団も六名の要素の寄せ集めではなく、融合統一することによって、あたかも一つの精神のように思えるほどの一体性を作り出す。
そこから出る思念がカスリーンという素晴らしい媒体を通過することで一層その度合を強める。その一体性を出すためには各自の霊力の割合をうまく調節しなければならない。
さもないと効果が損なわれます。それはちょうど光を構成している色彩の割合が崩れてそのうちの一つでも目立つと、もはや無色ではなくなり色合いが出てしまうのと同じです。
さてここまでの説明は言ってみればプディングの材料を一つ一つ用意してきたようなものです。このままではまだオーブンには入れられない。もう一つだけ大切なものを忘れている。と言うよりは軽く扱い過ぎている。吾々がカスリーンに目を付けたのは、貴殿の血縁関係の一人との間の交友関係と二人の間の親和性とがあったからです。
──ルビーのことですか。
いかにも。他にはいないでしょう。貴殿のお嬢さんのルビーはカスリーンにとって親友であると同時に指導者でもあります。うまくしたものです。と言うのは、カスリーンについても貴殿の場合とほぼ同じような調査をしたのですが、そのうち吾々の仕事の成否を左右しかねない、非常に微妙でしかもほほえましい問題に逢着したのです。
吾々六人は男性である。カスリーンは女性である。地上と同じように、こちらの世界でも科学の分野は圧倒的に男性が支配しており、地上との関係においても男性の頭脳の方が働きかけ易いものです。
そこで──勿体ぶらず結論を急ぐが──吾々は一方において吾々男性と通じ合うことができ、他方において女性とも通じ合える人物を見つけ出した。
それがルビーで、吾々の通訳のような役をしてくれています。彼女はこちらの世界の存在であり、同時に吾々の霊団の一人でもあり、従って実際の事実にも通じ、それもすでに長い期間に及んでいる。
メンバーの一人として霊団とよく調和しており、同時に女性の特性においてカスリーンともウマが合う。吾々の精神活動──思念操作──の全体をまとめ上げ、ブレンドした上で、さらにそれをカスリーンを通して貴殿に届けてくれるのはルビーなのです。
通信全体を通しての思想とその表現に男性的雰囲気が漂っているのに気づかれるであろう。それは霊団の中の班を構成している吾々六人の男性的要素が支配しているからです。
しかし、その中にあって時おり女性的要素が顔を出すのに気づかれるであろう。それは通信の内容上、女性がリードして吾々男性が哀れにも車を後押しするような形で力を貸した方が都合がよい時です。カスリーンも時おり顔をのぞかせることがあるでしょう。
そしてそれが彼女特有のナイーブな雰囲気をもたらして可愛らしさを感じさせるであろう。吾々にとっても同じです。
──お聞きしていると今回の通信はこの先かなり長く続きそうな感じがします。嫌がってるように受け取られては困るのですが、前回(第二巻)の時が苦痛だったものですから・・・・・・。
いや、いや、そう怖がられることはない。今回の通信──そう大そうなものではないが──に当たってずいぶん骨を折ってきたが、貴殿が止めたいと希望されるなら、いつ止めても結構です。が、私が観たところ貴殿は吾々霊団を見放すようなことはなさらないであろう。
現に貴殿は、こうして吾々に接近して通信に耳を傾けることを結構楽しんでおられる。このまま私の意図した通りに通信が続きそうである。
ただ貴殿が懸念しておられるので私から一言申し上げておくが、吾々が目論んでいるのはザブディエル殿の通信ほど大きなものではない。あれほど深刻な内容のものではありませんが、しかし有益であるに相違ないと思う。
──あなたは時に〝私〟と言い、時に〝吾々〟とおっしゃっています。思うにそれはあなたの通信に二つの面があるからでしょう。流れは一つでも、その流れを構成している要素は複数である。それで七人が時に複数でしゃべり時に単数でしゃべる。そうじゃないですか。
──まずい説明とも言えない。ある程度は正鵠を得ている。が、ある程度、です。〝私〟と言ってる時は(現在のところ)三十六名の霊団全体のリーダーの資格において語っており、〝吾々〟と言う時はこの小班の他の六名を代表して〝私〟が語っている。
そこで貴殿もよく考えてほしい。統一性と多様性、単数と複数とがいかに見事にしかも、この通信に見られるように、いかに簡単に使い分けが可能であるかをです。
よく承知していただきたい。こちらの世界には肉体に宿っている者がどうあがいても探り得ない深層があります。何となれば、地上というところは崇高なる〝三位一体の神秘〟を秘蔵した宇宙最奥の聖殿の〝外郭〟に過ぎないからです。
<原著者ノート>この通信のあとカスリーンが私の妻が使用しているプランセットを通じて私のことで次のようなことを言って来た。「ジョージ(私)は明日教会で一人になれるでしょうか。〝リーダー〟が彼にあまり会話をさせないようにと望んでおられるのです。
話をしに来る人たちがジョージに余計な神経を使わせるのを気にしておられます。明日早朝に〝リーダー〟が通信を送られるので私がその準備に参ります。カスリーン」
私が「そのリーダーというのはあなたの属する班のリーダーのことですか」と聞くと、
「そうです。私たちはいつも〝リーダー〟とお呼びしています」とのことだった。これで私はこれ以後の通信の全てをリーダーからのものと判断した。
三章 天界の経綸
1 寺院の建造
一九一七年十一月二十七日 火曜日
話題はこちらで用意してあり、いつでも述べられる態勢にあります。再び貴殿の精神をお貸しいただきたい(*)。こちらで進行中の仕事を吾々が監督する要領を知っていただくために、つい最近吾々の界で起きた出来ごとをぜひ貴殿に語って聞かせたいと思うのです。
(*前にも述べたことであるが、霊界の者から見ると人間の精神は人間自身が想像しているような無形の観念ではなく、具体的な実質があり触れると実感がある。訳者)
それは、ほかでもない、寺院風の建物の建造です。その建造の目的は強いて言えば天界のエネルギーが地上へ届き易いようにそこで調整するためである。今ゆっくりと最後の仕上げをしており、完成も間近い。
これよりまずその建物に使用する資材を説明し、続いてその用途を述べるとしよう。
資材にはさまざまな色彩と密度とがある。さりとて地上の如くレンガや石等を積み重ねるのではない。全体として一つなのである。吾々は設計図が出来上がったところで、こぞって予定された敷地へ向かった。
その敷地は第五界の低地と高地の中間に位置する台地にある。なお吾々の通信における界層の数え方はザブディエル殿に倣っていることを承知されたい。数え方は霊団によってさまざまですが、貴殿にとってはすでに親しんでいるものが良かろうということでそうすることにしました。
また、それが他の数え方と較べてなかなかうまく出来ています。他のものはあまりに複雑すぎたり、反対にあまりに大ざっぱすぎたりします。その点ザブディエル殿の数え方は言わば中庸を得ているので、ここではそれに倣うことにします。
さて敷地に到着すると吾々は、まず全員の創造エネルギーを一丸とするための精神統一を行ったのち、そのエネルギーを基礎工事へ向けた。すると、そのエネルギーが敷地からゆっくりと湧き出て来て、そのまま高く伸びて頂上にドーム形の屋根を拵えた。
そこへ大天使が姿を現わし、吾々のエネルギーを一つにまとめて一たんご自分の霊力の中に収められ、それを少しずつ放射しつつ、穏やかに吾々の仕事に細かい手を加えられた。その間、吾々は念波の放射を手控えて見守っていた。
何ゆえ大天使までお出ましになるのか──貴殿にはそれが不思議に思われるであろう。
理由を述べよう。一つの霊団として吾々もそれ相当の修養を積み、協調的仕事にも長いあいだ携わってきた。
しかし脆弱な第一段階の基礎工事の仕上げに当たっては、吾々より遥かに強烈な霊力をお持ちの大天使によって、吾々の放射したエネルギーを調節していただく必要がある。
それを怠ると形体にキズが残ったり、思わぬ不備から構造が崩れ、折角の努力が烏有に帰することも有りうる。そのほかにも理由はあるが、それは吾々の言語を理解してもらえない以上は説明困難です。
もっとも、次のように考えていただけば、手段はともかくとして、理由だけは多分わかっていただけるであろう。
つまり原理的に言えば誕生時の〝へその緒〟の切断、死亡時の〝たまの緒〟の切断、もしくは堰の水門の急激な閉鎖、大体そういったものに類似したものを想像していただけばよい。そうすれば地上の言語で表現できないものを、おぼろげにでも理解していただけるでしょう。
こうして第一期工事はまず外形の完成に集中する。が、あくまで外形であって、そのまま手を引けば見る間に消滅してしまう。一服したのち吾々は引き続き第二期の基礎工事に着手した。第二期は柱、門、大小の塔を強固にすることである。
最下部から始めて徐々に上方へ向けて手を加えて行き、最後にドームにまで達する。
これを幾回となく繰り返した。まだ外形のみである。が、外形としては一応完成した。残るは色彩を鮮明にすることと、細かい装飾、そしてそれが終わると最後に全体を引き締めて、幾世期にも亘る持続性を与えることである。
吾々はしばし工事に携わっては少し休み、その間にエネルギーを補充し、再び工事に着手するといった過程を幾度となく繰りかえし、その寺院風の建物に全身全霊を打ち込んだ。
美の創造に携わることほど楽しく且つ有難いものはない。吾々の建造せるその建物は大きさといい、デザインといい並はずれて雄大なものであり、同時に又、その雄姿が自分たちの力で着々と美しさを増していったのであるから尚のことであった。
こちらの世界における建築が全てこれと同じ方法で行われるとは限らない。が、いかなる方法にせよ、出来上がったものは建築家による建造物というよりは〝吾が子〟のような存在となる。すべてが建造者のエネルギーと創造力とによって作られたものだからです。
そうして出来あがった建物が、のちにその建物において仕事をする者の理想に叶って居ることも論を俟たない。
何となれば、その建物にはすでに生命がこもっている。意識的生命ではないが、一種の感性を宿しているからです。こう言えばよかろうか。つまりこちらの世界の建物とその創造者との関係は、言うなれば肉体とそれに宿る霊との関係のようなものである。
肉体と霊とは覚醒時は言うに及ばず、睡眠中でも常に連絡を保持している。それと同じく、吾々建造者はたとえ完成後に各地へ分散しても、常にその建物を意念の焦点として互いに連絡を取り合っているのです。
その生き生きとした実感と満足感は実際にこちらへ来て創造の仕事に携わってみなければ判らないであろう。もっとも、こちらへ来た者のすべてが創造の仕事に携わるとは限らないが・・・・・・。
さて建物としての一応の形が整い、さらにそれを強固にし終ると、あとに残された仕事は内部装飾の仕上げである。すなわち各室、ホール、聖堂等々にそれなりの装飾を施し、柱廊は柱廊らしく仕上げ、噴水には実際に水を通してその流れ具合を確かめる。
それをするのに吾々はまず外部に立って念波を送り、それから内部に入って仕上がり具合を点検する。手先はあまり使用しない。主役を務めるのは頭と心である。
そこまで終了すると、以後は吾々が実際にその建物で生活して、地上の言い方をすれば毎日のように部屋から部屋へ、ホールからホールへと足を運び、設計図に照らして少しずつ手直しをする。そして最後に全体を美しく飾って終わりとする。
こうして吾々による仕事が完了した暁に、畏れ多くも大天使が再度遥か高遠の世界から降りて来られ、細かく点検して回られた。そしてもし不備の点があれば大天使みずから手を加えられた。が、時として吾々の勉強のためを思われて、吾々に直々にお言いつけになることもある。
かくして落成の日が訪れると、その大天使がもう一人の大天使を伴って再びお出でになられた。霊格がさらに上の方である。
その権威はイスラエルで言えばアロン(*)とその弟子たちのそれにも相当しよう。ギリシャならば神官、キリスト教ならば主席司祭にも相当しよう。その時の目的は建物の〝聖化〟とでも呼ぶべきものである。(*ユダヤの最初の大司祭。モーゼの兄──訳者)
──献堂式(*)でしょうか。(*新築の教会堂を神に奉納する儀式──訳者)
それで良かろう。地球を含む低級界とを結ぶ保護のための拠点となり、同時に又、それ以後そこに住む人々が神の恩寵と霊力に与る中継の場となるのである。
地上の寺院は天界の寺院のお粗末な模倣に過ぎない。が、その目的と機能は本質的には同一である。イスラエルにおいては雲が地上界とエホバ神との中継をすると考えられた。
古代エジプトにも同じ考えがあった。ギリシャの都市国家においては寺院の霊的活力が衰えていたが、まだ少しは残っていた。イスラエルにおいては天界からの援助と高揚という特殊な側面にはまったく関心を示さないようである。
私はイスラムの霊界を訪ねてみたことがあるが、そこには顕幽の交わりが根本的に違った形で行われていることを知った。キリスト教の(霊界の)教会堂にも同じくその観念はあるが、程度の差が著しい。
キリストを祀る幾つかの教会堂においてはキリストとその側近の大天使の顕現がもう少しで見られる段階に至っている。実際に見られるようになるのも遠い先のことではなさそうに私には思える。
そういう次第で、地上の寺院も基本理念においては同じものを持っており、遠い過去が引き継がれているのであるが、それがこちらの世界では目に見えて霊験あらたかとなり、見た目に美しくもあり、天界の高地へ向けて一界又一界と上昇して行く者への祝福に満ち満ちているのである。
──今回お建てになった寺院には特別な使用目的があるのでしょうか。
あれは第五界の各地、時にはそれより下の界から訪れる者が身を浸すエネルギーの貯蔵所としての機能を開始しかけているところです。
訪れた者は色彩の持つ霊妙な波動に浸り、堂内を流れる生命を秘めた小川と噴水に身を洗われ、すみずみまで漲る霊妙な旋律に包まれて、欠乏した生命力を補い、鈍化した知力を啓発される。そこに注目されたい。単なる保養所ではありません。
もっと質の高い機能を有している。それから先の魂の向上の旅に備えて体力をつけ、入手する知識を即座に、そして効率よく理解する知性を身に付ける場でもあることは確かであるが、同時に、その聖堂を焦点として愛と生命力を注ぎ、彼ら巡礼者の向上を待ち受ける高級神霊との霊的交わりを得るところでもあるのです。
──向上する者は必ずそこを通過しなければならないのでしょうか。
そうと決まっているわけではありませんが、第五界の者は大半がそこを通過します。この界は永く滞在する者がわりに、いや、ずいぶん多いところです。各自の特性を点検し調整して円満さを身に付けなければならない、大切な界だからです。
(第二巻八章参照)その意味では卒業しにくい界であり、滞在が永びいている者が多く見出される理由はそこにある。聖堂の建立もそのためであった。その必要性が生じたのである。出来上がってまだ日も浅く、これからいろいろと機能を発揮していくことであろう。
また経験を積むにつれて細かい手直しも施されることであろう。
が、その聖堂まで来て中を覗いてみて学ぶべきものが特に見当たらず、自己の中に改めるべきものも見当たらないほどのゆとりをもってこの界を卒業して行く者もいる。
そうした優等生的霊魂はさっさと上の界へと進み、その道すがら祝福を垂れ、通過する道が一段と輝きを増すほどである。近くの者はそれを有難がり、その姿を見て勇気を鼓舞される。地上ではこうしたことは見かけぬであろう。
が第五界まで向上した者は品性卑しからず、己れより美しく且つ高き霊力を具えた者を見ることが己れ自身の美徳を高め、かくして〝全て神の子〟の真実味をいやが上にも確認することになるのである。
2 象徴の威力──十字を切ることの意味
一九一七年十一月二十八日 水曜日
貴殿がもし吾々の存在を疑わしく思うような気分になった時は〝十字〟を切っていただくとよろしい。それだけでも吾々が守ってあげていることを認識されると同時に、貴殿と吾々との間に割って入ろうとするあの手この手の邪魔を排除することができます。
身体を張って邪魔するのではなく、思念を放射し、それがモヤのように漂って吾々の視界を遮るのです。程度から言うと吾々よりも彼らの方が貴殿の近くまで接近し、吾々の望んでいる好条件を奪ってしまうことがあるので、よくよく注意していただきたい。
──十字を切るとどういう効果があるのですか。
それが象徴するところの実在の威力が発揮されます。よく考えてみると記号というものも実は大きな威力を発揮しているものです。それは記号そのものに能動的な力が潜んでいるからではなく、それが象徴しているところの存在ないしはエネルギーの潜在力のせいです。
──例えば?
例えば貴殿がいま使用しておられる文字も単なる記号に過ぎない。が、それによって綴られた文章を親しみと愛を持って読む者は、こうしたものを全く読むことなく人生を終わる者と違って、こちらへ来てからの進歩を促進する適応性を蓄えることになる。
一人の王様の名前も、その王を象徴する記号に過ぎないが、その名前を軽々しく口にする者は、その王の署名のもとに布告された命令を無視する者と同様に、秩序ある国家においては軽々しく見逃されることはない。
それによって生じる混乱と不統一が原因となって国家の運営が著しく阻害されるからです。故に、名前というものは崇敬の念をもって扱わねばならない。地上に限りません。
天界においても同じことです。たとえば大天使の名をぞんざいに呼ばわる者は、携わる仕事が何であれ、その者の立場を危うくしかねない。そういうことになっているのです。
そして最高の御名である主の御名は、貴殿らの聖典で規制されているように最高の敬意をもって扱わねばなりません。
さて、もともと〝十字架〟の記号は吾々が教わり、遠い過去より今日に至るまでに地上の人間に啓示された数多くの聖なる記号の中の一つに過ぎない。ところが今日では他のいずれにも増して威力を持つに至っている。
ほかでもない、地上の進歩のために注がれる〝生けるキリスト〟の生命の表象だからです。他の時代には他の──ためらわずに書かれよ──キリストの世があった如く(※)、今の世は天界の政庁から派遣された最後の、そして最高のキリストの世という意味において特殊な世なのである。
それ故、十字架を使用する者はキリストの生命を意味するおん血によって書かれた 親署を使用することを意味し、たとえキリストの絶対的権威を認めずその愛を理解せぬ者も、キリストの十字架の前にはおのずと頭を垂れなければならない。
何となればそれを前にすればその威力を思い知らされ畏れおののくからである。(※キリストの名で呼ばれる存在が他にもいたということにオーエン氏が戸惑いを見せている。イエス・キリストの真相についてはこの後三つの章で細かく説かれる。訳者)
──では、地獄にいる者でもキリストの十字架の威力が分かるということですか。
まさにその通りである。ここで少しばかりその問題に触れておきたい。というのも、地上には理解力が不足しているために、この記号にあまり崇高の念を覚えぬ者が多いからです。私はしばしば薄暗い低級界を訪れることがあるが──最近は他に用があって訪れていないが──訪れた時はなるべく十字を切らないようにする。
何となれば、心に少なからず苦悶を抱く哀れむべき魂にとっては、十字を切ることがその苦悶の情をいっそう掻き立てることになるからです。
──十字を切られた時の反応を実際の例で話してください。
あるとき私は、地上からの他界者の一人で、妙なことにいきなり第二界へ連れて来られた人物を探しに派遣されたことがあった。当然そこは居心地がよくなくて、やがて薄暗い下層界へと引き下ろされて行った。
なぜこのようなことになるのかは今ここで詳しい説明はしない。滅多にないことであるが、まったく有り得ないことでもないのである。
指導と案内に当たる者の認識不足によって、あちこちで同じような事態が起きていることは事実です。一生けんめいになるあまり、善意が先走って判断力と洞察力を追い越すことがあるもので、少し複雑で問題の多い人物の処遇に当たって、往々にしてそういうケースが生じます。
さて私は陰鬱な境涯へ降りて身体が環境に適応しきるのを待って、いよいよ捜査を開始した。市から市へと捜し歩いたあげくに、やっとその人物の気配を感じる門の前まで来た。貴殿には私の述べることが容易に理解できないであろうけど、構わず筆を進められたい。そのうち理解できる日が来ます。
さて、中へ入ってみると、まず目についたのは広場一帯をおおう陰気な光で、そこにかなりの数の群集が集まっていた。空気はまるで鍛冶屋の如く火照り、群集が気勢を上げると明るさを増し、意気消沈すると弱まるというふうであった。
その中央に石の台があり、そこに私の探し求めている人物が立っていた。何やら激しい口調で群集に向かって演説をぶっている。私は蔭に隠れて聞き入った。
彼は〝贖い〟と〝贖い主〟について語っていた。が、その名が出てこない。暗に言及しているだけである。そこに注意していただきたい。二度、三度と名が出かかるのであるが、どうしても出ない。口元まで出かかると顔に苦痛の表情が浮かび、手をぐっと握りしめ、しばし沈黙し、それからまた話を進めた。
誰の名を言わんとしているのかはその場の誰一人として知らぬ者はいなかった。彼は悔い改めの必要性を長々と説いた。
そして自分が宗教心の不足から否応なしに、ほんのわずか垣間みた天国と光明界からこの苦悶と悔恨の境涯へ引きずり下ろされたことを語って聞かせた。彼はこう語った──自分はこの界へ降りて来る道すがら、この目を見開いて道をしかと確かめてきた。
だから、どこをどう行けば光明界へ行き着くかをよく知っている。が、その道は長く苦しい登り坂となっており、しかも暗い。そう述べてから、自分と共に出発する意志のある者を募り、羊の群れの如く一団となり手を取り合って進めば、例え道中は苦しくとも必ず目的地に辿り着き、ゆっくりと休息できる。
ただ道中ではぐれぬよう注意する必要がある。道なき峡谷を通り、左右の見分けもつかぬ森林地帯を抜けて行かねばならぬ。
万一はぐれたら最期、道を見失って一人永遠にさ迷い続けることになる。いずこをさ迷っても常にそこは暗闇であり、また極悪非道の輩が待ち伏せして通りかかる者に残虐のかぎりを尽くす危険がある。だから絶対に自分が掲げる旗から目を離さぬように。
そうすれば恐れるものは何もない。なぜならその旗には道中に耐えるだけの強大な力のシンボルとなるものを用意するつもりでいるからだ、と。
以上が彼の演説の要旨である。これに対して群集はまんざらでもない反応を示しているようであった。彼は台から降りて、しばし黙したまま立っていた。すると群集の一人がこう聞いた──「どういう旗を考えてるんだ。何の紋章を飾るつもりだ。我々が付いて行くのに分かるものでないと困るぞ」と。
するとさっきの男が再び広場の中央の石の上に立って右手を高く上げ、それを下ヘ向けて直線を描くように下そうとするが、下せない。何度も繰り返すが、その度に手がしびれるようであった。そして結局最後は──彼を知る私には見るに忍びない光景であったが──大きな溜息と苦悶の涙と共に、その手をだらりと力なくぶら下げるのだった。
が間もなく、彼はきりっと姿勢を正し、顔に決意の表情を浮かべて、もう一度試みた。
そして何とか手を垂直に下すことができた。すると、どうであろう、その手の辿ったあとに微かに光輝を放つ一本の線が描かれているではないか。そこで又力をふりしぼり、用心深く、今度はその垂直の線の真ん中よりやや上あたりに横棒を描こうとして手を上げるのであるが、またもや出来ない。
私には彼の心が読めていた。光明界への旅に彼が掲げ持つ旗の紋章として十字架を飾ることを群集に示そうとしているのである。あまりの哀れさに私は進み出て、ついに彼の側に立った。そして、まだうっすらとではあるが目に見えている直線をなぞった。
ゆっくりとなぞった。するとさっと光輝が増して広場全体と群集の顔という顔を照らし出した。次に私は横棒を画いた。それも同じように光輝を放った。私はその光輝を避けて、見えないところに身を隠した。
ところが、その直後に狂乱した声と泣き叫ぶ声が聞こえてきたので再び出てみた。十字架はやや輝きを失っていたが、群集は、ある者は地面にひれ伏し、ある者はのたうち回りながら顔を隠し、十字架のイメージを消そうと必死になっていた。
嫌っているのではない。そこの群集はすでに自分の罪に対して良心の呵責を覚える段階にまで達した者たちであった。
苦痛の原因はその良心の呵責を覚えさせるほどの〝進化〟そのものであった。悔恨の情が罪悪と忘恩の不徳に対する悲しみへと変化し、その進化そのものが悲しみの情に一層の苦痛を加えていたのである。
くだんの男はそうした群集のようにひれ伏さずに両手で顔を覆い、両ひじを膝の上に置いて跪き、他の者たちと同じく悔恨の情にからだを二つに折り曲げるようにして悶えていた。
私はやっと気がついた。私のした事は彼らにとって余りに早まった行為だったのである。慰めになると思ってやってあげたことが実は彼らの古傷に手荒らに触れる行為となっていたのである。そこで私は群集を鎮めるためにその友人に代ってあの手この手を打った。
そして何とか治まった。が私は、その時その場で、これ以後は低級界ではよくよくのことがない限り十字架のサインは使用しない決心をした。心に傷を持つ者はそれが痛みを増す結果になることを知ったからです。
──今その男のことを〝友人〟と呼ばれましたが・・・・・。
その通り。彼は私のかつての友人だったのです。二人は地上で同じ大学で哲学を教えたことがありました。彼はまっとうな生活を送り、時には奇特な行いもしないでもありませんでした。が、残念ながら敬虔な信仰心に欠けていた。もっとも今はもう順調に向上の道を歩み、善行にも励んでいますが・・・・・・。
さきの話に戻りますが、どうにか旗が出来上がった。しかしそれはおよそ旗と呼べるしろものではなかった。二本の木の枝、それも節だらけの曲がったものを十字に組んだものに過ぎない──この界層でもそんな樹木しか見当たらないのです。
それでも彼らには立派な十字架に見えるのだった。横棒がぐらぐらしている。彼らの一途な気持ちと彼らにとっての深刻な意味合いを考えると、あまりにグロテスク過ぎるが、彼らにとってそれは自分たちを守ってくれる霊力を意味し、又、その源でありキリストを意味する。
したがってそれはそれなりに彼らにとって最も〝聖なるしるし〟であり、よろこび勇んで、しかし沈黙と畏敬の念をもって付いて行くべき目標であった。
二本の枝の交わる部分を結わえている赤の布切れは血の流れの如くなびいていた。そして彼らはいよいよその十字架の後について長き旅に出発した。足は痛み、疲れ果てることもしばしばであろう。が、
光明が見出せることを信じて、あくまでも高地へ高地へと進み続けることであろう。
──どうも。これでお終いにしたいのですが、最後に一つだけお聞きしたいことがあります。昨夜の例の聖堂のことですが、最初にその建立の目的は地上界への援助のためとおっしゃって、あとでそれとはまったく違った使用目的を話されました。そこのところが納得できません。ご説明ねがえますか。
吾々の述べたことに何ら誤りはありません。ただ吾々が意図したほど明瞭には伝わっていないだけです。昨夜は貴殿は重々しい感じがしていました。今も疲れておられる。吾々の意図していた真意は次の機会に述べるとしよう。では今宵も神の祝福のあらんことを。
3 勇気をもって信ずる
一九一七年十一月二十九日 木曜日
約束どおり例の建物についての問題点を説明しましょう。実は問題というほどのものは何もないのです。憶えておられるでしょうが、あの建物は第五界およびそれより下の界の住民を対象としていると述べました。その中には当然地球も含まれます。
地球は外観こそ違え、本質的には貴殿らが霊界と呼んでいる世界と少しも変わらない。その建物から出た影響力は中間層を通過して、最後は地上界にも至ります。表現が明確さを欠いていたようです。別に吾々が先を急いだからではありません。
貴殿の限界のせいです。すなわち精神的ゆとりと受容力とを欠いておられた。
この二つは密接に関連しています。静けさと安らかさのゆとりをもたぬ者は、環境条件の異なる界層からやって来た吾々の思念及び出発の際に携えて地上界との境界のぎりぎりのところまで運んできている穏やかな霊力には感応しません。
その霊力は地上界に至るまでにある程度は散逸しますが、全部を失うわけではない。ぶじ持ち来ったものを、それに反応を示す者とそれを必要としている者に分け与えんとします。が、吾々とてそのうち善意とエネルギーが枯渇する。
そこで補給のために澄み切った天界へと舞い戻る。そこが全ての霊力と安らぎの源泉だからです。
ここで例の聖堂が関わってきます。それが用途の一つなのです。すなわち高き天界から送られてきた霊力と数々の恵みを蓄えておき、必要に応じて地球を包む下層界の為に使用するというわけです。
仕事が進展していけばまた新たな用途も見出され、今行われている仕事と組み合わされていくことになります。
さて、貴殿は今夜はこの仕事にかかるまでに何かと用事が続き、またこのあとも貴殿を待っておられる人々がいるようなので、あまり長く引き留めることが出来ない。そこで今夜は早く切り上げようと思うので、通信はあと少しだけ──それも貴殿がまだ明確に理解していない点を指摘するだけに止めておきましょう。
吾々がこうして地上界へ下りてきても、吾々の到来を心待ちにし通信を期待している人でさえ必ずしもすんなりと交信状態に入れないことがあります。
貴殿でもそういう場合があります。例えば吾々が身近にいることをどうにか気付いてくれたことが吾々には判る。ところが交信が終わると貴殿の心に疑念が生じ、単なる自分の想念に過ぎなかったように結論し、霊的なものであったと思ってくれない。
このように吾々の側から送信しにくく貴殿の側がそれを受信しにくくさせる原因は、主として信ずる勇気の欠如にある。貴殿は自分ではその勇気なら人後に落ちないつもりでおられる。
吾々もそれをまったく認めぬわけでもありませんが、こと霊的交信の問題となると、真理探究の仕事における過ちを恐れすぎる傾向がしばしば見受けられます。
次のように言い切っても決して言い過ぎではないでしょう。つまり貴殿が何か身近に存在を感じた時は必ず何かがそこに存在する。それは貴殿にとって望ましいもの、あるいは見分けの付くものであるかも知れないし、そうでないかも知れない。
が、何であれ、そこに何かの原因があってのことであるから、冷静に通信を受け続ければ次第にその本性がはっきりしてきましょう。
貴殿は最初それを知人の誰それであると判断する。が、実際はそうではなくて全く別人であったとする。が、それは落ち着いて通信を受けていくうちに必ず判ってくるはずのものです。
ですから、誰かの存在を感じたら、余計な憶測を排除し、同時に判断の誤りについての恐怖心を拭い去っていただきたい。そして、送られて来るものを素直に受けるだけ受けた上で、その通信内容から判断を下しても決して遅くはありません。
この度はこれで終わりにしておきましょう。貴殿は他の用事で行かねばなりますまい。その仕事に限らず、日々のすべてのお仕事に神の御力のあらんことを。
4 美なるものは真なり
一九一七年十一月三十日 金曜日
〝美〟なるものは〝真〟である──これが天界において最も目立つ原則の一つです。逆の言い方をすれば、見た目に醜く歪なものは、細かく観察すると必ずどこか真実の持つ特質に欠けていることが判ります。
吾々が〝真実〟というときは貴殿らが神または父と呼ぶところの究極の精神と調和したものを意味する。
父より湧き出ずるものには必ず秩序があり、その子孫たる吾々の至高にして至純なる憧憬と相通ずるものがある。その特質に相応しいものは〝美〟を惜いて他にありません。
何となれば美なるものは見た目にも心地よいものだからです。愛の本質を知る者にとって、その愛を心地よく包むものは〝調和〟です。
その愛のみが上せうる馳走に何の食欲もそそられない者は、どこか愛に逆らうものを宿している者にかぎられます。そして、ここで銘記すべきことは、愛は神より出ずるものであると同時に神そのものでもあるということです。
そこで吾々は陸の風景にせよ海の風景にせよ、あるいは人間の顔にせよ身体にせよ、その美しさ、その均整美は神の倉庫より取り出せる美の表現であり、真なるものも神の意思と調和したもの以外は有り得ないことを理解しているので、美なるものはすべて真であり、真なるものはすべからく美を具えていなければならないと言うのです。
神の生命の流れが汚されるのはその本流に逆らう何らかのエネルギーが流入するからであり、この譬えはそのまま人類に当てはまる。
すなわち一家庭ないしは一国家内の不和はそれ自身の中にあるのではなく、その源ははるか天界において神の目的と意志に逆らうものが混入した時点にまで遡ることができる。
しかし、神の御力はあくまでも〝奇しきもの〟である。究極的には神がそうした不純な要素をも有用なるものに変え、活用を誤った神的生命力の対立的表現の一つ一つから、人間も天使も含めた全存在の向上進化のために役立つものを抽出していく。
──おっしゃることが(私の筆で)正しく表現できているかどうか私には判りませんが、いずれにしてももう少し判り易い話題、そして単純に表現できるものにしていただけないでしょうか。
では、すでに話題にした例の大聖堂について今少し述べるとしましょう。この話題なら貴殿の霊聴力と同時に霊視力も使用できるので、吾々にとっても表現しやすく、貴殿にとっても受けやすいでしょう。貴殿は今夜は吾々の期待するほどの心の平静さが見られません。
(創造物)
その大聖堂に大きな塔が付いている。が、その塔に吾々が解しかねる一角があった。その大塔は建物の角に立っており、正方形をしている。その四つの角の一つが他の三つと様子が異なるのだった。
が、妙なことに吾々の中の誰一人として、他の角と比較して何が欠けているとかどこがどう違っているとかが判らなかった。
四つの角を同時に見た時は、私の目には形も均整も他と全く同じに見える。ところが他の三つを見てからその角に目をやり、さらに近づいてその台座を見て回ると、明らかに調和に欠けるものを感じる。何度やっても同じものを感じるのです。
余計な話は省略して結論を急ぎましょう。結局その欠陥を見出したのは、その建築に携わった吾々のうちの誰でもなく、たまたまその第五界を通りかかった、もう一つ上の界の方で、その方があとで詳しく原因を教えて下さったのであった。
その方は暗黒の下層界で大きな対立や反乱が起き、その悪影響が境界を接したすぐ上の界へ及んでいる時に、その鎮圧に赴く霊団のお一人である。
そうした騒乱による悪影響は強烈で、上の界まで及んで進歩を阻害し、ようやく光明界へ向けて向上せんと必死に努力している霊を挫けさせ、一時的に努力を怠らせる結果となる。もっとも、よほどの騒乱でないかぎり完全に絶望的なものには至らない。
その方はそうした騒乱が発生した時に霊団の一人として暗黒界へ降りてその鎮圧に当たり、せっかく光明に目覚めて向上しかけた霊が足を引っぱられぬように配慮する仕事に携わっておられる。
吾々を困惑させていた塔の異常の原因をすぐに突き止めることができたのも、そうした烈しい仕事に永く携わってこられたからである。その方はまず四つの壁を入念に点検されてから、その建物を離れて遠くの丘に上がり、そこからしばらく塔を見つめておられた。
やがて戻って来られ、吾々を平地に呼び集めて、およそ次のような言葉で欠陥を説明してくださった。
「皆さんがこの聖堂の建築に携わっておられた時、この塔の部分だけを残してまず他のホールの仕上げを急がれた。それが終わってから持てるエネルギーの全てをこの塔を強固にする作業に集中された。そのとき仕事に夢中になって一つだけ見落されたことがあります。
四つの側面の手入れに同じ頭数で当たるべきだったことです。その上、高く聳えた塔の上の部分に遠くからの光が当たった時に下の部分で働いていた人たちの意思がその方へ奪われ、その時そこを流れていた霊力に十分に曝されなかった。
ちょうどその時です。たまたま私たちの一団が暗黒界での仕事からの帰りにここを通りかかりました。私たちは悪戦苦闘したあとで、すっかり体力を消耗していましたので、そこを流れていた霊力を吸収してしまったのです。
そのとき四つの側面に同じ人数が携わっていれば良かったのですが、私たちもそうとは知らずに、その数の少ない問題の部分から吸収してしまったということです。
ですから問題の角は形と均整がいびつなのではなくて、素材のキメが粗いのです。この私の話を念頭に置かれてもう一度よくご覧になれば、他の三つの角に較べてその角だけが色調が暗いことに気づかれるでしょう。
それは今も言ったとおり私たちによって生命力を奪われ光沢を失ったからで、形態は他と少しも変わらないのに、見た感じが見劣りがするわけです」
そのあと吾々もその通りであることを確認し、その修復を行ったが、それは簡単に済みました。最初に建築に携わった同じメンバーを集めて仕事に取り掛かりました。
全員から湧き出る意念の流れをその問題の箇所に向けて放射すると、次第に色調が明るさを増して他の部分と同じ光輝を放つようになりました。そして完全に同じとなった段階で意念の放射を止めました。仕上がりは上々で、完璧な調和を見せておりました。
これでお判りの通り、そもそもの原因はまだ建築が完全に仕上がっていない段階で暗黒界でエネルギーを使い果たした一団がそうとは知らずに近くを通りかかったことにあった。悪というものは本質的には侵略的なものではなく消極的なものです。
善性の欠如にすぎません。善なるものには力があります。暗黒界での仕事でエネルギーを使い果たした一団が吸い取った力も善なる天使の力です。
吾々の側を通りかかった時に無意識のうちに生命力を再摂取したのも、元はといえば暗黒界の悪影響に原因があり、それが不調和を生んだ。それは美の欠如を意味する。かくして吾々は廻りめぐって〝美なるものは真である〟という最初の言葉に戻って来た。
では失礼します。祝福を。
5 宇宙の全てが知れる仕組み
一九一七年十二月三日 月曜日
こうして地上へ降りてくる時、吾々は道中でこんなことを語り合ったりします──これから向かう国は霧と黄昏の世界だ。その奥地に入り込んだら吾々自身の光と熱をかなり放出することになるかもしれない、と。
高き界層にいる時からそれが判ります。貴殿はそれにはいかなる化学、もしくは理法が働いているのかと不思議に思うでしょうが、その詳しい原理は到底地上の言語では説明できません。
が、もし貴殿に興味がおありならば、これを後で読まれる方々のためにも、その概略だけでも何とか説明してみましょう。
──どうも。ぜひ説明していただきたいです。
では、できるだけ簡略に説明してみます。そもそもこうした霊的交信の必要性の中でも第一に大切なものは貴殿にはもう容易に知れるでしょう。地上の人間と天界の吾々とを一つの海、同じ大海の中に浸らせる普遍的原理としての効用です。
私が言っているのは霊的生命、霊力、霊的エネルギーのことです。霊的生命は貴殿に取っても吾々にとっても、そして少なくとも吾々の推理と想像の翼の及ぶかぎりにおいて、吾々よりさらに上層界の神霊にとっても同じものを意味します。
霊的生命こそ地上の生命現象の拠って来たる根源であることは貴殿も容易に納得してくれるであろう。この原因と結果の相関関係は界が上がるにつれて緊密の度を増して行く。
それは当然、延々と最高界までも続くという理屈になります。その最高界は完全なる調和の世界であろう。が、その完全なる世界においてこそ、吾々が洞察するかぎり、その因果律が最も顕著に働いているであろうことが予想される。
こういう次第であるから、吾々が一個の霊的エネルギーの大海という時、それは単なる空想的観念を述べているのではなく、現実に吾々自身の手によって操作できる具体的な事実について述べている。このことをまず第一に認識していただきたい。
次に認識すべきことは、地上から上層界へ向けて進むときに界と界との間に完全な断絶は無いということです。聖書には深い裂け目の話があることは承知しています。が、そこに何も無いのではない。その淵にも底がある。それも地上と次の界との間にあるのではない。遠く脇へそれた位置にあり、向上して行く道には存在しません。
各界の中間には一種の境界域があり、そこで融合し合ってひと続きになっている。従ってそこを通過する者は何の不安もない。しかし、互いに接する二つの界にはそれぞれ明確な特徴がある。そしてその境界域はどっちつかずの中間地帯というわけではなく、両界の特質が渾然と融合し合っている。
従って何も無いというところはどこにもなく、下から上へ段階的に実質的つながりが出来ているのである。以上の二つの事実を前提として推論すれば、吾々と地上の人間は潜在的に直接の交信関係があるという結論が極めて自然に出て来るであろう。
次に、ではこうした条件を吾々がどのように活用しているかを説明せねばなりますまい。
これには数多くの方法がありますが、そのうちでもよく使用されるものを三つだけ紹介しておきましょう。この家(*)には窓が数多くあっても、よく使用する窓は幾つかに限られているのと同じことです。(*オーエン氏の自宅──訳者)
第一の方法は、地上に関する情報や報告が地上と接した界層の者によって、ひっきりなしに上層界へ送られ、その情報処理に最も適した界まで来る。
これが極めて迅速に行われる。が、その素早い動きの中にあっても、通過する界ごとにふるいにかけられ、目ざす界に届けられた時はエキスだけとなっている。
地上の人間の願望も祈りも同じようにふるいにかけられた上で高級界へ届けられる。そうしないと地上特有のアクのためにその奥にある崇高な要素が、届けられるべき界層まで届かないのである。この方法についてはこれ位にしておきます。まったくの概略であるが、先を急がねばならないので已むを得ません。
次は〝直接法〟とでも呼ぶべきものです。地上には特殊な使命を帯びて高級界からの直接の指導を受けている者がいます。中には非常に高級な光り輝く天使もいて、地上よりはるかに掛け離れた界層に所属している。そういう霊になると直接地上界まで降りて来られないことがある。
というのは、霊格は高級であっても必ずしも万能というわけではない。地上界まで降りるためには途中の界層の一つ一つにおいて、それぞれの環境条件に順応させる必要があり、それには莫大なエネルギーがいる。
安全が十分に保障されている時は敢えてそれを行うことがあるし、それも決して珍しいことでもありませんが、無駄な浪費は避けたい。霊的エネルギーがいくら無限だといっても無益なことには使いたくない。そういう時には原則としてこの直接法を使用するわけです。
そのためには、地上的な言い方をすれば電話または電信に似た装置を架設する。振動または波動による一本の線で地上界とつなぐのです。その敷設には指導に当たる霊と指導される人間の生命力の融合したものが使用される。
〝敷設〟だの〝生命力〟だのと、あまり感心しない用語を使っていますが、貴殿の脳の中に他に良い言葉が見当たらないので、已むを得ません。ともかく、こうした方法によって交感度の高い通信が維持されるのです。(守護霊と人間との関係が原則的にこれに当てはまる──訳者)
これは言ってみれば脳と身体との関係を結ぶ神経組織のようなものです。意識しない時でも常に連絡が取られており、必要に応じて機能する。地上の人間の思念や願望が発せられると瞬間的に届けられて、最も適切な処置が為される。
以上の二つの方法によりさらに入り組んだ三つ目の方法があります。〝普遍的方法〟とでも言えるかもしれません。どうもしっくりしませんが、已むをえません。
第一の方法では地上から上層界へと流れる思念が各界で必要な処置を施される。それはちょうど大陸を横断して郵便馬車が配達していくようなもので、途中で馬を交代させたり休憩したりしないだけと思っていただければよろしい。
第二の方法では通信網はいつでも使えるように入力されている。電話にいつも電気が通っているようなものです。それが地上の人間と指導霊とを直接結びつけています。
この第三の方法では過程がそれとは全く異なる。地上界の人間のあらゆる思念、あらゆる行為が、天界へ向けて放送され録音され記録されている。能力を有する者なら誰でもそれを読み、聞くことが出来ます。生のままであり、しかも消えてしまうことがない。が、その装置は言語では説明できません。
前の二つの方法の説明でも不便な思いをさせられたが、この方法の説明では全くお手上げです。が、せいぜい言えることは、一人ひとりの人間の一つ一つの思念が宇宙全体に知れ渡り響き渡っているというだけである。
宇宙に瀰漫する流動体──何と呼ばれようと結構である(オリバー・ロッジの言うエーテル質のことであろう──訳者)──の性質は極めて鋭敏であり緻密であり連続性に富んでいるので、かりに貴殿が宇宙の一方の端をそっと触れただけでも他の端まで響くであろう。
いや、その〝端〟と言う言葉がまたいけません。地上での意味で想像していただいては、こちらの事情に合わなくなります。
貴殿にその驚異を少しでも判っていただくために私が伝えようとしているのは、救世主イエスがとくに名称を用いずに次のようにただその機能だけを表現したものと同じである。
曰く〝汝の髪の毛一本が傷つくも、一羽のひなが巣から落ちるのも、父なる神は決してお見逃がしにはならない〟と。
(イエスがこういう譬えをよく用いたことは事実だが、この通りの文句は私が調べたかぎりでは見当たらない。オックスフォード引用句辞典にも載っていない。たぶん霊界の記録からの引用であろう。そのことは次章の最初の通信からも窺える。訳者)
四章 サクラメントの秘義
(訳者注───サクラメントというのはキリスト教の儀式の中でもとくに大切にされている儀式で、〝秘跡〟と訳されることが多いが、各派によって異なるのでここでは言語のまま用いた。)
1 聖体拝領(最後の晩餐)
一九一七 年十二月四日 火曜日
貴殿は受け取った観念を文章に綴ってくれればそれで宜しい。そしてそれが吾々の霊団からのものであることに疑念を抱かれる必要はまったくありません。
と言うのも、一方において吾々は貴殿が筆記されている間は貴殿の身柄をしっかりと確保し、他方において吾々の通信を横取りして自分たちの通信に使用せんとする狡賢い霊の集団を排除すべく努力をしているからである。
それが可能なのも、カスリーンを通じて実際に貴殿との通信を始めるずっと以前から貴殿について準備し、また吾々の側の準備をも着々と積み重ねてきたからです。
さて今夜はキリスト教の聖なる儀式の問題について語ってみたい。キリスト教界において今なお行われており、キリストを主と仰ぐ者にとって大いに関心を持つべきものだからです。中でも聖体拝領の儀式(マタイ26)はキリストを主と仰ぐ者にとって生涯にわたる意味を秘めている。
これには数々の意味が含まれてるので、これより少しばかり述べてみたい。まず、その由来について。
現存する聖典から推察されるように、キリストの生涯については過去幾世紀にもわたって伝えられてきたものよりも記録されずに終わったものの方がはるかに多い。大ざっぱに読んでもそれが推察できるであろう。
しかも残っている記録も、本質においては相通じるものがあっても、細かい点になると曖昧なところが多い。残っている記録は数多くあったものの中のごく一部に過ぎないことを知らねばならない。
他の記録は完全に地上から消滅したか、未だどこかに残っていて、いつの日か陽の目を見ることになるかもしれない。が、こちらの世界にはその全記録が保存されており、吾々もこの度それを勉強したところです。これから述べることはそれを根拠にしています。
(訳者注──その一例が自動記霊媒カミンズ女史を通じて書き記された The Scripts of Cleophas で聖書の欠落した部分やその後の歴史を物語る通信が見事な散文体で書かれている。これは第一級の聖書研究家やキリスト教の聖職者によって〝正真正銘〟の折紙がつけられている)
そのとき主イエスは肉体を具えた存在から肉体なき存在へと変化を目前にしていた。死期の迫ったことを知ったイエスは、十二人の弟子との会合の中で、自分の死後もこの弟子たち並びに自分の教えに従う者との霊的交わりを強化し、自分を生命力の源とさせるための、思い出と霊交の儀式を行ったのです。
ここで前回に述べた霊交の三つの型を思い出していただきたい。最高界より流れくるところの脈動する生命力は、その鋭敏さゆえに、主の王国全体(*)に張り巡らされている特殊な組織への針の先でつついたほどの衝撃さえ中心的始源まで波及し、即時に反応が返ってくることが理解していただけよう。
その反応と緻密性と即時性を具体的に説明せんとしても、地上にはそれを譬えるべきものが何一つ見当りません。ここではせめて〝運動する粒子はその速度が速ければ速いほどそれに加えられる外的刺激による反応が大きい〟という法則を思い出していただくに留めてきましょう。
(*最高界といい王国というも地球的規模における話。イエスは普遍的キリスト神の地球的表現すなわち地球の守護神の部分的表現である。六章でその詳しい説明が出る─訳者)
父なる神より湧き出た生命の流れがまず主に至り、主の霊性を加味されて御国のすみずみにまで放散されるのは、その組織があるからこそです。その組織への衝撃が例の〝主の祈り〟(マタイ・6)とともにパンとぶどう酒による儀式によって与えられる。
すると会衆の前に並べられた品々にその生命の流れが注がれ、主の生命と融合し、主みずから述べられた如くに、それが主の聖体とおん血に変わる。貴殿らが使用する祈りは〝祈願〟であると同時に主の生命を受け入れることへの会衆の〝同意〟を意味します。
何となれば、同意なくしてはいかなる恩恵といえども人間に押し付けることは許されないからです。その同意は必ずしも声に出す必要はない。要は〝心〟です。
それが地球へ向けて流れくる主の生命力の流れに遭遇し、オリーブ山を越えてサレムへ来られるイエスを迎えに集まった者たちと同じように、そこで合流し主の流れの即時的反応を受けて再び元の会衆へ戻ってくる。
こうして与えられる恵みは三つの形を取る。まず第一は霊と霊との交わり、すなわち祈願する者と主との交わりです。第二はその霊を包むところの身体すなわち霊体の健康と活力の増進です。そして第三がその二種類の作用の自然な結果、つまり内的活力と肉体との融合です。
これを吾々はキリストの総身(*)の活性化と呼びます。すなわち根源からの生命の流れと合流し、一人ひとりが活力を得ることによってキリスト自身も活力を増進していくのです。
(*顕幽にわたる地球規模の自然界そのものをさす。第六章で詳しく解説──訳者)
この聖体拝領の儀式にはもう一つの意味が秘められています。が、その説明は簡略なものに留めざるを得ません。何となれば、いかに努力してみたところで、その真相の全てを伝えることは無理だからです。吾々にも吾々の言語があるのですが(*)、それでは貴殿の方が理解できず、さりとて地上の言語では全く用を為さない。
その真相は地上の言語の痕跡を留めない上層界にわたることであり、最高界に近い崇高な界層の言語でしか伝え得ないものです。
(*死後の世界では言語は使用されないと言われるが、音声による形態の言語は無いという意味であって、地上の各民族によって言語が異なる如く、各界層によってその表現形式の異なる言語があるようである──訳者)
聖書にあるごとくパンとぶどう酒という二つのありふれた品物はイエスの聖体とおん血に変わる。
従ってそれはその言葉(マタイ26・26~29)を発したイエスの一部となったことになります。このことに関してこれまで、一体なぜ肉と骨と血でできた身体をまとっているイエスにそれが出来たのかという疑問があったようですが、実は人間は一人の例外もなく、生涯を通じてひっきりなしに、外部の物体と霊的に反応し合っている。
身にまとったものには、その人の個性が泌みこむ。手を触れるものにも住まう家にも個性が伝わり、それは永遠に消えることがない。そういう性質を生まれながらにして具えているのです。(心霊学でいうサイコメトリ現象がそれを証明している──訳者)
イエスは、ユダヤとガリラヤにおいて病める人や不自由な者をその生命力で癒したごとく、また弟子たちに霊力を吹き込みその生命力で鼓舞したごとく、そのパンとぶどう酒に生命力の流れを注ぎ、かくしてそれは真実の意味においてイエスの身体となり血となったのです。
今日とて同じです。イエスは晩餐が終わればあとは十字架にかけられるのを最後に、すべてが終わりとなる身であった。そのような身の上の者が自分とからだと血を永遠のものとして授けるはずはありません。
そうではない。その時のパンとぶどう酒、十二人の弟子たち、並びにそこに参集せる者たちへ注がれたのは、その時のイエスが束の間の地上生活のためにまとい、やがて使い古した衣服のごとく棄てられる肉体と血ではなかった。
また、始源から流れくる生命力の流れの通路となったイエスの霊体でもなかった。それはイエスの霊そのもの、今も昔も変わらぬ永遠なるキリストの生命そのものであり、それは肉体があろうと無かろうと同じことであった。
なぜなら霊力や霊的エネルギーに関する限り、そうした形式は問題ではないからです。表現形式はどうあろうと、表現されるもの自体は少しも変わりません。
それ故、最後の晩餐においてパンとぶどう酒が主の願いと意図のもとに生命力の貯蔵庫となり、その意味において主の聖体とおん血となったと言うのは正しいわけです。
そして又、イエスのからだがこの世から消えたからといって、そのことは主の働きかけを阻止するどころか、むしろ一つの媒体がなくなったことによって、より一層容易にそして直接的に働きかけることが可能となったと言えます。
少なくとも肉体が無いということは、主より流れ出る生命力がパンとぶどう酒に注がれることを妨げることにはなりません。
それゆえ司祭が会衆の同意のもとに、パンとぶどう酒を食卓に並べ置き高き天界の在す主の犠牲を祈願する時、それは実質において主の御胸に手を置き、高き天使の在す天上界へ目を向け、父なる神の顔を見つめ、人類のためにその子イエスの愛と認識を嘆願していることになるのです。
もしその司祭が素直にして幼子の如き心の持ち主であるならば、今日でさえその手の下に主の御胸の静かなる生命の鼓動を感じ取ることができるでしょう。その生命力による援助のもとに、その祈りの念は聖にして純なる天界へと送り届けられ、主の祈りそのものとして嘉納されることになるのです。
2 婚 姻
一九一七年十二月五日 水曜日
昨夜はサクラメントの中でもとくに深遠な意味をもつものを取り上げました。今夜はそれよりは重要性は劣るものの、キリストを主と仰ぎ絶対と信じる者の生活において見逃せない意義を持つものを取り上げたい。
吾々がサクラメントと言う時、それはキリスト教界における狭い宗教的意味で用いているのではなく、霊力の始源に一層近い位置においてその働きをつぶさに観察することのできる吾々の境涯における意味で用いております。
まず最初に、創造的機能を具えた二つの存在の結合としての婚姻について述べましょう。人間はこれを二つの〝性〟のたどるべき自然な成り行きとして捉え、男性と女性とが一体となることで成就されると考えます。
実はそれは絶対不可欠の条件ではありません。ただそれだけのことであれば、人間を両生動物(単性生殖動物)とすればよかったことになります。
が、今日のごとき理想的形態での物的存在が確立されるよりはるか以前、最高神界において議られしのちに神々は創造の大業を推進するための摂理の一つを定められた。
それは貴殿や地上の思想家が考えるような、人類が男女二つの性に分かれるという単なる分裂としての発達ではなく、性というものを物質という存在形態への霊の発展進出のための一要素とすることであった。霊は物的形態以前から存在する。
それが物的形態に宿ることによって個性が誕生し、物的形態の進化と共にその個性を具えた自我が発達して互いに補足し合うことになった。性はあくまでも一つなのです。それが二種類から成るというまでの話です。
肉と血液とで一個の人体が構成されるように、男と女とで一個の性を構成するわけです。
神がなぜそう決定したか。吾々の知り得たかぎりにおいて言えば、それは自我をいっそう深く理解するためである。もっとも、これは大いなる謎です。吾々とてその全貌を知るカギは持ち合わせていません。
が、男性と女性の二つの要素を創造することによって〝統一性〟の真意がいっそう理解しやすくなったと解釈しています。つまり統一が分裂して霊の世界より物質の世界へと誕生し、やがて再び霊の世界へと回帰して元の統一体を回復することにより、その統一性への理解を得るということです。
神という絶対的統一体に含まれる二大原理が、それを一つとして理解し得ない者のために、二つに分離して顕現したわけです。
男性が女性を知るということは結局は自我をいっそう明確に理解することであり、女性が男性を知るのも同じく自我への理解を深めることになります。
なぜなら両者はこの物質という形態の中での生活の始まる以前においては別個の存在ではなかったのであり、したがって物質界を後にした生活において、いずれは再び一体となるべき宿命にあるのです。
つまり天界の深奥を支配するその絶対的統一性が下層界へも及ぶためには、地上人類を構成すべき個々の存在にその二つの原理を包含させる必要があった。かくして婚姻が生じた。実にこの婚姻は人類のたどるべき宿命の折り返し点なのです。
〝静〟の大根源が無限の発展という目的をもって〝動〟へ顕現したとき、全体を支配した基調はただ一つ〝多様性〟であった。かくしてその無数の存在の中に個性を特質と形態の原理が導入されるに至った。その多様性の最後の、そして究極の作用となったのが、貴殿らがセックスと呼んでいるところの生殖機能としての二つの性の創造であった。
その段階において再び一体化へ向けて進化せんとする反動的衝動が生まれる。絶対的統一体すなわち神へ向けての第一歩が踏み出されるのです。
かくして物的意味における両性と同時に霊的意味における両性の融合から、その両性を一つに体現した第三の要素が誕生する。主イエスこそ人類としてのその完璧な体現者であり、その霊的本質は男性的徳性と女性的徳性のほどよく融合せるものでした。
その大原理は身体上にも同じくあてはまります。男性の胸にはかつての女性の象徴が二つ付いているであろう。生理学者に尋ねてみるがよい。体質的にも女性的なものが含まれており、それが男性的なものと一体となって人間という一個の統一体をこしらえていることを証言してくれるであろう。
この両性の一体化された完全無欠の人間は、これより究極の完全状態へ向けての無限の奮闘努力を通じて、己れを空しくし他を愛し他へ施しをすることが実は己れを愛し己れに施すことになること、そして又、己れの下らなさを自覚する者ほど永遠の天界において恵みを受けるという叡智に目覚めることであろう。
この叡智を説いた人を貴殿はよく知っている。わざと妙なこと、謎めいた原理を語ったわけではありません。貴殿も吾々も今なおその崇高なる叡智を学びつつあるところであり、その奥義にたどり着くまでにはまだまだ果てしない道が前途に横たわっています。が、主イエスはすでにそこへ到達されたのです。
3 死
一九一七年十二月六日 木曜日
これまで述べたことはごく手短に述べたまでであって、十分な叙述からほど遠い。述べたくても述べられないのです。たとえ述べても分量が増えるばかりで、しかもそれが貴殿の自由な精神活動の場を奪い、真意の理解を妨げることになるでしょう。
吾々としては取りあえず貴殿が食するだけのケーキの材料として程よい量の小麦を提供する。
それを貴殿が粉にしてケーキを作り、食べてみてこれはいけると思われれば、今度はご自分で小麦を栽培して脱穀し粉にして練り上げれば、保存がきくのみならず、これを読まれる貴殿以外の人へも利益をもたらすことになる。では吾々の叙述を進めましょう。
前回の通信で婚姻が進化の過程における折り返し点であると述べましたが、この表現も大ざっぱな言い方であって、精密さに欠けます。そこで今回はこの問題の細かい点に焦点をしぼり、その婚姻の産物たる子供──男児あるいは女児──について述べてみましょう。
生まれくる子供に四つの要素が秘められていることは(前回の通信を理解すれば)貴殿にも判るでしょう。父方から受ける男性と女性の要素と、母方から受ける女性と男性の要素です。
父方における支配的要素は男性であり、母方における支配的要素は女性です。この四つの要素、と言うよりは、一つの要素の四つの側面、もっと正確に言えば二つの主要素と二つの副次的要素とが一個の子孫の中で結合することにより、性の内的原理の外的表現であるところのそうした諸要素がいったん増加して再び一つになるという、一連の営みが行われるわけです。
かくしてその子も一個の人間として独自の人生を開始する──無限の過去を背負いつつ無限の未来へ向けて歩を進めるのです。
どうやら貴殿は洗礼とそれに続く按手礼(手を信者の頭部に置いて祝福する儀式)について語るものと期待しておられたようですが、そういう先入主的期待はやめていただきたい。吾々の思う通りに進行させてほしい。
貴殿からコースを指示されて進むよりも、貴殿の同意を得ながら吾々の予定通りに進んだ方が、結局は貴殿にとっても良い結果が得られます。
吾々には予定表がきちんと出来上がっているのです。貴殿は吾々の述べることを素直に綴ってくれればよいのであって、今夜はどういう通信だろうか、明日はなんの話題であろうかと先のことを勝手に憶測したり期待してもらっては困るのです。
吾々としては貴殿の余計な期待のために予定していない岬を迂回したり危険な海峡を恐る恐る通過することにならないように、貴殿には精神のこだわりを無くしてほしく思います。
吾々の方で予定したコースの方がよい仕事ができます。貴殿に指示されるとどうもうまく行かないのです。
──申しわけありません。おっしゃる通り私は確かに次は洗礼について語られるものと期待しておりました。サクラメントの順序を間違っておられるようです──聖餐式、それから婚姻と。でも結構です。次は何でしょうか。
(訳者注──本来の順序は洗礼が第一で聖餐式がこれに続き、婚姻はずっとあとにくる)
〝死〟のサクラメントである。貴殿にとっては驚きでしょう。もっとも人生から驚きが無くなったらおしまいです。それはあたかも一年の四季と同じで、惰性には進歩性がないことを教えようとするものです。進歩こそ神の宇宙の一大目的なのです。
〝死〟をサクラメントと呼ぶことには貴殿は抵抗を感じるでしょう。が、吾々は〝生〟と〝死〟を共に生きたサクラメントと見なしています。
〝婚姻〟をサクラメントとする以上はその当然の産物として〝誕生〟もサクラメントとすべきであり、さらにその生の完成へ向けての霊界への誕生という意味において〝死〟をサクラメントとすべきです。
誕生においては暗黒より太陽の光の中へ出る。死においてさらに偉大なる光すなわち神の天国の光の中へと生まれる。どちらが上とも、どちらが下とも言えない。
〝誕生〟においては神の帝国における公権を与えられ、〝洗礼〟によって神の子イエスの王国の一住民となり、〝死〟によって地上という名のその王国の一地域から解放される。
誕生は一個の人間としての存在を授ける。それが洗礼によって吾が王の旗印のもとに実戦に参加する資格を自覚させる。そして死によってさらに大いなる仕事に参加する───地上での実績の可なる者は義なる千軍万馬の古兵として、〝良〟なる者は指揮官として、〝優〟なる者は統治者として迎えられるであろう。
したがって〝死〟は何事にも終止をうつものではなく、〝誕生〟を持って始まったものを携えていく、その地上生活と天界の生活との中間に位置する関門であり、その意味において顕幽両界を取り持つ聖なるものであり、それで吾々はこれを吾々の理解する意味においてサクラメントと呼ぶのです。
これで結果的には〝洗礼〟についても述べたことになるでしょう。詳しく述べなかったのは、主イエスの僕としての生涯におけるその重大な瞬間を吾々が理解していないからではありません。他に述べるべきことが幾つかあるからです。
そこで〝死〟のサクラメントについてもう少し述べて、それで今回は終わりとしたい。貴殿にも用事があるようですから。
いよいよ他界する時刻が近づくと、それまでの人生の体験によって獲得しあるいは生み出してきたものの全てが凝縮し始める。これはそれまでの体験の残留エキス──希望と動機と憧憬と愛、その他、内部の自我の真の価値の表現であるところのものの一切です。
ふだんは各自の霊体と肉体の全存在を取り巻き、かつ滲み渡っている。それが死期が近づくにつれて一つに凝縮して霊体に摂り入れられ、そしてその霊体が物的外被すなわち肉体からゆっくりと脱け出て自由の身となる。それこそが天界の次の段階で使用する身体なのです。
しかし時として死は衝撃的に、一瞬のうちに訪れることがある。そのとき霊体はまだ霊界の生活に十分な健康と生命力を具えるに至っていない。そこで肉体から先に述べた要素を抽出し霊体に摂り入れるまで上昇を遅らせる必要が生じる。
実際問題としてその過程が十分に、そして完全に終了するまでは、真の意味で霊界入りしたとは言い難い。
それは譬えてみれば月足らずして地上へ誕生してくる赤子のようなもので、虚弱であるために胎内にて身につけるべきであった要素を時間をかけてゆっくりと摂取していかねばならない。
そういう次第で吾々は〝死〟は立派なサクラメントであると言うのです。きわめて神聖なものです。
人類の歴史において、そのゆるやかな物体の過程──人間の目にはそれが死を意味するのですが──を経ずに肉体を奪われた殉教者がいる。貴殿が想像する以上に大勢いました。が、いずれの過程を経ようと、本質においては同じです。
主イエスは死が少しも恐るべきものでないことを示さんとして、地上的生命から永遠の生命への門出を従容として迎えた。
その死にざまによって主は、人間の目にいかなる形式、いかなる価値として映じようが、死とは〝神の心〟より流れ出る〝生命の河〟の上流へ向けて人類がたどる、ごく当たり前の旅のエピソードであることを示したのでした。
五章 生前と死後
1 一兵士の例
一九一七年十二月七日 金曜日
地球を取り巻く暗闇──光明界から使命を帯びて降りてくる霊のすべてがどうしても通過せざるを得ない暗闇を通って、地上という名の〝闘争の谷〟から光明と安らぎの丘へと、人間の群れが次から次へと引きも切らずにやってまいります。
これからお話しするのは、その中でも、右も左も弁えない無明の霊のことではなく、〝存在〟の意味、なかんずく自分の価値を知りたくてキリストの愛を人生の指針として生きてきた者たちのことです。彼らは地上においてすでに、その暗闇と煩悩の薄暮の彼方に輝く太陽が正義と公正と愛の象徴であることを知っておりました。
それゆえ彼らはこちらへ来た時に、過ちではなかろうかと気にしながらも生きてきたものを潔く改める用意と、天界へ向けての巡礼の旅において大きく挫折しあるいは道を見失うことのないよう蔭から指導していた背後霊への信頼を持ち合わせているのです。
それはそれなりに事実です。が、彼らにしてもなお、いよいよこちらへ到来してその美しさと安らぎの深さを実感した時の驚きと感嘆は、あたかもカンバスの上に描かれた光と蔭だけの平面的な肖像画と実物との差にも似て、その想像を超えた躍動する生命力に圧倒されます。
──判ります。私にはその真実性をすべて信じることが出来ます、リーダーさん・・・・・・あなたがそちらでそう呼ばれていることをカスリーンから聞いております・・・・・・
でも、何か一つだけ例をあげていただけませんか。具体的なものを。
無数にある例の中から一つだけと言われても困りますが、では最近こちらへ来たばかりの人の中から一人を選んでみましょう。現段階では吾々の班は地上界との境界近くへ行って新参の案内をする役目は仰せつかっていませんが、それを仕事としている者と常に連絡を取り合っておりますので、その体験を参考にさせてもらっています。
では、つい先ごろ壁を突き抜けてきたばかりで、通路わきの草地に横になっていた若者を紹介しましょう。
──〝壁〟というのは何でしょうか。説明していただけませんか。
貴殿らの住む物質界では壁といえば石とかレンガで出来ていますが、吾々のいう壁は同じく石で出来てはいても、その石はしっかりと固いという意味で固形をしているのではありません。
その石を構成しているところの分子は、地上の科学でも最近発見されたように常に波動の状態にある。そしてその分子の集合体も地上でエーテルと呼ぶところの宇宙に瀰漫する成分よりもさらに鈍重な波動によって構成されている。
そもそも〝動〟なるものは意念の作用の結果として生じるものであり、また意念を発するのは意識を持つ存在です。
したがって逆に考えれば次のようなことになりましょう。まず一個の、または複数の意識的存在がエーテルに意念を集中するとそこに波動が生じる。そしてその波動から分子が構成される。
それがさらに別のグループ(天使団と呼んでもよい)の意念の働きによって濃度の異なる凝固物を構成し、あるいは水となり、あるいは石となり、あるいは樹木となる。
それゆえ、あらゆる物質は個性的存在である意念の物質化現象であり、その個性的存在の発達程度と、働きかけが一個によるか複数によるかによって、構成と濃度が異なるわけです。つまり意念の不断の放射がその放射する存在の発達程度に相応しい現象を生み出すわけです。
霊界と物質界との間には常にこうした一連の摂理が働いているのです。
さきの〝壁〟は実は地上界から放射される地上独特の想念が固まってでき、それが維持されているものです。すなわち天界へ向けて押し寄せてくる地上の想念が地上に近い界層の想念によって押し返される。
これを繰り返すうちに次第に固さが増して一種の壁のようなものを形成する。その固さと素材は吾々霊界の者には立派に感触があるが、地上の人間には一種の精神的状態としてしか感識できません。
貴殿らがよく〝煩悶の暗雲〟だの〝霊的暗黒〟だのと漠然と呼んでいる、あれです。
従って吾々が〝その壁は地上の人間の想念によって作られている〟と言うとき、霊の想像力の文字どおりの意味において述べているのです。全ての霊に創造力があり、肉体に宿る人間は本質的には霊です。
そしてその一人ひとりが吾々と同じく宇宙の大霊の一焦点なのです。それゆえ霊界との境界へ向けて押し寄せてくるこの想念の雲は霊的創造物であり、それを迎えうって絶えず押し返し続け地上圏内に止めているところの霊界の雲と同じです。
本質において、あるいは種類において同じということです。程度において異なるのみです。つまり程度の高い想念体と低い想念体との押し合いであり、その時々の濃度の割合によって霊界の方へ押し込んで来たり、また地上近くへ押し返されたり、を繰りかえしている。
が、それにも限界があり、全体としてみればほぼ定位置に留まっており、決して地上圏からそう遠ざかることはありません。
さて、貴殿の質問が吾々に一つの大きなテーマを課す結果になりました。今日の地上においては未だ科学の手の届いていない領域の一つを無理して地上の言語で語ることになってしまいました。
いずれ科学が領域を広げた暁には地上の誰かが人間にとってもっと馴染みやすい用語で、もっと分かり易く説明してくれることでしょう。
──大体の流れは掴めました。どうも済みませんでした。
さてその男は道路わきの芝生に横になっていましたが、その道は男を案内して来た者たちの住居の入り口に通じる通路でした。間もなく男は目を開いて、あたりの明るい様子に驚きの表情を見せたが、目が慣れてくると彼を次の場所まで案内するために待機している者たちの姿が見えてきた。
最初に発した質問が変わっていた。彼はこう聞いたのである──「私のキット(*)はどうしたのでしょうか。失くしてしまったのでしょうか」(*ふつうは身の回り品のことであるが、ここでは兵士の戦闘用具──訳者)
すると、リーダー格の者が答えた。「その通り、失くされたようですね。でも、その代りとして私たちがもっと上等のものを差し上げます」
男が返事をしようとした時あたりの景色が目に入り,こう尋ねた。「それにしてもこんなところへ私を連れてきたのはどなたですか。この国は見覚えがありません。敵の弾丸が当たった場所はこんな景色ではありませんでしたが・・・・・・」
そう言って目をさらに大きく見開いて、今度は小声で尋ねた。「あの、私は死んだのでしょうか」
「その通りです。あなたは亡くなられたのです。そのことに気づかれる方はそう多くはありません。私たちはこちらからずっとあなたを見守っておりました。
生まれてから大きく成長されていく様子、職場での様子、入隊されてからの訓練生活、戦場で弾丸が当たるまでの様子、等々。あなたが自分で正しいと思ったことをなさってきたことは私たちもよく知っております。
すべてとは言えないまでも、大体においてあなたはより高いものを求めてこられました。ではこれから、こちらでのあなたの住居へご案内いたしましょう」
男は少しの間黙っていたが、そのあとこう聞いた。「お尋ねしたいことがあります。よろしいでしょうか」
「どうぞ、何なりとお聞きください。そのためにこうして参ったのですから・・・・・・」
「では、私が歩哨に立っていた夜、私の耳に死期が近づいたことを告げたのはあなたですか」
「いえ、その方はここにいる私たちの中にはおりません。もう少し先であなたを待っておられます。もっとしっかりなさってからご案内しましょう。ちょっと立ってみてください。歩けるかどうか・・・・・・」
そういわれて男はいきなり立ち上がり、軍隊のクセで直立不動の姿勢をとった。するとリーダー格の人が笑顔でこう言った。
「もう、それはよろしい。こちらでの訓練はそれとはまったく違います。どうぞ私たちを仲間と心得てついてきて下さい。いずれ命令を授かり、それに従うことになりますが、当分はそれも無いでしょう。
その時が来れば私たちよりもっと偉い方から命令があります。あなたもそれには絶対的に従われるでしょう。叱責されるのが怖くてではありません。偉大なる愛の心からそうされるはずです」
男はひとこと「有難うございます」と言って仲間たちに付いて歩み始めた。いま聞かされたことや新しい環境の不思議な美しさに心を奪われてか、黙って深い思いに耽っていた。
一団は登り道を進み丘の端を通り過ぎた。その反対側には背の高い美しい樹木の茂る森があり、足元には花が咲き乱れ、木々の間で小鳥がさえずっている。その森の中の小さく盛り上がったところに一人の若者が待っていて、一団が近づくとやおら立ち上がった。
そして彼の方からも近づいてくだんの兵士のところへ行って、片腕で肩を抱くようにしていっしょに歩いた。互いに黙したままだった。
すると突如として兵士が立ち止まり、その肩にまわした腕をほどいて若者の顔をしげしげとのぞき込んだ。次の瞬間その顔をほころばせてこう叫んだ。「なんと、チャーリーじゃないか。思ってもみなかったぞ。じゃあ、あの時君はやはりダメだったのか?」
「そうなんだ。助からなかったよ。あの夜死んでこちらへ来た。すると君のところへ行くように言われた。君にずっと付いて回って、出来るだけの援助をしたつもりだ。が、そのうち君の寿命が尽きかけていることを知らされた。
僕は君にそのことを知らせるべきだと思った。と言うのも、僕が首に弾丸を受けた時君が僕を陣地まで抱きかかえて連れて帰ってくれたが、あのとき君が言った言葉を思い出したんだ。
それで君が静かに一人ぼっちになる時を待って(死期の迫っていることを知らせるべく)できるだけの手段を試みた。あとでどうにか君は僕の姿を見るとともに、もうすぐこちらへ来るぞという僕の言葉をおぼろげながら聞いてくれたことを感じ取ったよ」
「なるほど〝こちらへ来る〟か・・・・・・もう〝あの世へ行く〟(*)じゃないわけだ」(*第一次大戦ごろから〝死ぬ〟ということを英語で俗に go west 〝西へ行く〟と言うようになった。ここでは死後の世界から見れば〝行く〟ではなく〝来る〟となるので come west と言ったわけである──訳者)
「そういうわけだ。ここで改めてあの夜の君の介抱に対して礼を言うよ」
こうした語らいのうちに二人だけがどんどん先を歩んだ。と言うのも、他の者たちが気をきかして歩調を落とし、二人が生前のままの言葉で語り合うようにしてあげたのである。
さて吾々が特にこの例を挙げたことにはいろいろとわけがあるが、その中で主なものを指摘しておきたい。
一つは、こちらの世界では地上での親切な行為は絶対に無視されないこと。人のために善行を施した者は、こちらへ来てからその相手から必ず礼を言われるということです。
次に、こちらへ来ても相変わらず地上時代の言語をしゃべり、物の言い方も変わっていないことです。ために、久しぶりで面会した時にひどくぶっきらぼうな言いかたをされて驚く者もいる。今の二人の例に見られるように軍隊生活を送った者がとくにそうです。
また、こちらでの身分・階級は霊的な本性に相当しており、地上時代の身分や学歴には何の関係もないということです。この二人の場合も、先に戦死した男は軍隊に入る前は一介の労働者であり、貧しい家庭に育った。
もう一人は世間的には恵まれた環境に育ち、兵役に就く前は叔父の会社の責任のあるポストを与えられて数年間それに携わった。が、そうした地位や身分の差は、負傷した前者を後者が背負って敵の陣地から連れて帰った行為の中にあっては関係なかった。こちらへ来てからは尚のこと、何の関係もなかった。
こういう具合に、かつての知友はこちらで旧交を温め、そしてともに向上の道に勤しむ。それというのも、地上において己れの義務に忠実であった者は、美と休息の天界において大いなる歓迎を受けるものなのです。
そこでは戦乱の物音一つ聞こえず、負傷することもなく、苦痛を味わうこともない。地上の労苦に疲れた者が避難し、生命の喜びを味わう〝安らぎの境涯〟なのです。
2 一牧師の場合
一九一七年十二月十日 月曜日
前回のような例は言わば地上の戦場シーンがこの静けさと安らぎの天界で再現されるわけであるから、貴殿にとっては信じられないことかも知れませんが、決して珍しいことではありません。人生模様というものはそうした小さな出来ごとによって織なされていくもので、こちらへ来ても人生は人生です。
かつての同僚がこちらで再会し、地上という生存競争の荒波の中で培った友情を温め合うという風景は決してこの二人に限ったことではありません。
では、さらにもう一歩踏み込んで、別のタイプの再会シーンを紹介してみよう。吾々との間に横たわる濃霧の下で生活する人々に知識の光を授けたいと思うからです。その霧の壁は人間の限られた能力では当分は突き破ることは不可能です。
いつまでもとは言いません。が、当分の間すなわち人間の霊覚がよほど鋭さを増すまでは、こうした間接的方法で教えてあげるほかはないでしょう。
第二界には地上界からの他界者が一たん収容される特別の施設があります。そこでは〝選別〟のようなことが行われており、一人ひとりに指導霊が当てがわれて、霊界での生活のスタートとしてもっとも適切な境涯へ連れて行かれます。
その施設を見学すると実にさまざまなタイプの者がいて、興味ぶかいことが数多く観察されます。中には地上生活に関する査定ではなかなか良い評価をされても、確信と信念とかの問題になると、ああでもないこうでもないと、なかなか定まらない者もいます。
誤解しないで頂きたいのは、それは施設でその仕事に当たっている者に判断能力が不足しているからではありません。
新参者もまず自分自身についての理解、つまりどういう点が優れ、どういう点が不足しているか、自分の本当の性格はどうかについて明確な理解がいくまでは、はっきりとした方向決めはしない方がよいという基本的方針があるのです。
そこで新参者はこの施設においてゆっくりと休養を取り、気心の合った人々との睦び合いと語らいの生活の中において、地上生活から携えてきた興奮やイライラを鎮め、慎重にそして確実に自分と自分の境遇を見つめ直すことになります。
最近のことですが、吾々の霊団の一人がその施設を訪れて、ある複雑な事情を抱えた男性を探し出した。その男性は地上では牧師だった人で、いわゆる心霊問題にも関心を持ち、いま吾々が行っているような霊界との交信の可能性についても一応信じていた。
が彼はもっとも肝心な点の理解が出来ていなかった。であるから、内心では真実で有益であると思っていることでも、それを公表することを恐れ、牧師としてお座なりのことをするだけにとどまった。
肝心な問題をワキへやったのです。というのも、彼は自分には人を救う道が別にある・・・が今それを口にして騒がれてはまずい・・・・・・それはもっと世間が理解するようになってからでよい・・・・・・その時は自分が先頭に立って堂々と唱導しよう・・・・・・そう考えたのです。
そういうわけで、真剣に道を求める人たちが彼を訪ねて、まず第一に他界した肉親との交信は本当に可能かどうか、第二にそれは神の目から見て許されるべきことであるかどうかを質しても、彼はキリスト教の聖霊との交わりの信仰を改めて説き、霊媒を通じての交わりは教会がテストし、調査し、指示を与えられるまで待つようにと述べるにとどまった。
ところが、そうしているうちには彼自身の寿命が尽きてこちらへ来た。そしてその施設へ案内され、例によってそこで地上の自分の取った職業上の心掛けと好機の活用の仕方についての反省を求められることになっていた。
そこへ吾々の霊団の一人が──
──まわりくどい言い方をなさらずに、ズバリ、彼の名をおっしゃってください。
〝彼〟ではなく〝彼女〟、つまり女性です。ネインとでも呼んでおきましょう。
ネインが訪ねたとき彼は森の小道──群葉と花と光と色彩に溢れた草原を通り抜ける道を散策しておりました。安らかさと静けさの中で、たった一人でした。というのも、心にわだかまっているものを明確に見つめるために一人になりたかったのです。
ネインが近づいてすぐ前まで来ると、彼は軽く会釈して通り過ぎようとした。そこで彼女の方から声をかけた。
「すみません。あなたへの用事で参った者です。お話することがあって・・・・・・」
「どなたからの命令でしょうか」
「地上でのあなたの使命の達成のために主の命を受けて、あなたを守護し責任を取ってこられた方です」
「なぜその方が私の責任を取らなくてはならないのでしょう。一人ひとりが自分の人生と仕事に責任を取るべきです。そうじゃないでしょうか」
「たしかにおっしゃる通りです。ですが残念ながらそれだけでは済まされない事情があることを、私たちもこちらへ来て知らされたのです。
つまりあなたが地上で為さったこと、あるいは為すべきでありながら為さずに終わったことのすべてが、単にあなた一人の問題として片づけられないものがあるのです。
守護の任に当たられたその方も、あなたの幸せのために何かと心を配られましたが、思い通りになったのは一部だけで、全部ではありませんでした。こうして地上生活を終えられた今、その方はその地上生活を総ざらいして、ご自分の責任を取らねばなりません。喜びと同時に悲しみも味わわれることでしょう」
「私には合点がいきません。他人の失敗の責任を取るというのは、私の公正の概念に反することです」
「でも、あなたは地上でそれを信者に説かれたのではなかったでしょうか。カルバリの丘でのキリストの受難をあなたはそう理解され、そう信者に説かれました。すべてが真実ではなかったにしても、確かに真実を含んでおりました。
私たちは他人の喜びを我がことのように喜ぶように、他人の悲しみも我がことのように悲しむものではないでしょうか。守護の方も今そういうお立場にあります。あなたのことで喜び、あなたのことで悲しんでおられます」
「どういう意味でしょうか。具体的におっしゃってくださいますか」
「慈善という面で立派な仕事をなさったことは守護霊さまは喜んでおられます。神と同胞への愛の心に適ったことだったからです。が、あなたみずから受難について説かれたことを実行するまでに至らなかったことは悲しんでおられます。
あなたは世間の嘲笑の的になるのを潔しとしなかった。不興を買って牧師としての力を失うことを恐れられた。つまり神からの称賛より世間からの人気の方を優先し、暗闇の時代から光明の時代へ移り始めるまで待って、その時に一気に名声を得ようと安易な功名心を抱かれました。
が、その時あなたは意志の薄弱さと、恥辱と冷遇を物ともしない使命感と勇気の欠如のために、大切なことを忘れておられました。
つまりあなたが到来を待ち望んでいる時代はもはやあなたの努力を必要としない時代であるかも知れないこと、闘争はすでに信念強固なる他の人々によってほぼ勝ち取られ、あなたはただの傍観者として高見の見物をするのみであるかも知れないこと、又一方、その戦いにおいて一歩も後へ退かなかった者の中には、悪戦苦闘の末に名誉の戦死を遂げた者もいるかも知れないということです」
「いったい、これはどういうことなのでしょう。あなたはいったい何の目的で私のところへ来られたのでしょうか」
「その守護霊さまの使いです。いずれその方が直々にお会いになられますが、その前に私を遣わされたのです。今はまだその方とはお会いになれません。あなたの目的意識がもっと明確になってからです。つまりあなたの地上生活を織り成したさまざまな要素の真の価値評価を認識されてからのことです」
「判りました。少なくとも部分的には判ってきました。礼を言います。実はこのところずっと暗い雲の中にいる気分でした。
なぜだろうかと思い、こうして人から離れて一人で考えておりました。あなたからずいぶん厳しいことを言われました。ではどうしたらよいのかを、ついでにおっしゃっていただけますか」
「実はそれを申し上げるのが私のこの度の使いの目的だったのです。それが私が仰せつかった唯一の用件でした。つまりあなたの心情を推し量り、ご自身でも反省していただき、あなたに向上の意欲が見られれば守護霊さまからのメッセージをお伝えするということです。
今あなたはその意欲をお見せになられました──もっとも心の底からのものではありませんが・・・・・・。そこで守護霊さまからのメッセージをお伝えしましょう。あなたがもう少し修行なされば、その方が直々にご案内してくださいます。
その方がおっしゃるには、取りあえずあなたは第一界に居所を構えて、そこから地上へ赴いて、こちらの光明の世界の者との交信を求めている人たちの気持ちをよく汲み取り、その人たちをキリストの光明と安らぎへ向けて向上させてあげるために慰めと勇気づけのメッセージを送ることに専念している(光明界の)人たちの援助をなさることです。
あなたの教会の信者だった人の中には、悲しみに打ちひしがれた人たちのために交霊会を開き、他界した肉親との交信をさせて喜ばせ、かつ、自らも喜びを得ようと努力しておられる人もいます。
今こそあなたはその人たちのところへ赴き、あなたの存在を知らしめ、あなたが地上時代に説かれたことを撤回するなり、語るべきでありながら勇気がなくて語らずに終わった真理を説いて聞かせるなりすべきです。これは恥を忍ばねばならないことではあります。
でも、それによって地上の信者は大いに喜びを得るでしょうし、あなたの潔い態度に好意を抱くことでしょう。と言うのは、その方たちはすでに今のあなたの位置よりはるかに高い天界からの愛の芳香を嗅ぎ取っているのです。
でも、どうなさるかはあなたの自由意志に任されております。言われる通りになさるなり、拒否なさるなり、どうぞご自由になさってください」
彼はしばし黙して下を向いていた。必死で思いを廻らしていた。その心の葛藤は彼のようなタイプの人間にとって決して小さなものではなかった。果たせるかな彼は決断に到着することが出来ず、後でもっとよく考えてからご返事しますとだけ述べた。
怖れと優柔不断という、かねてからの彼の欠点が相も変わらず彼をマントの如くおおい、その一線を突き破りたくても突き破れなくしていた。ネインは自分の界へ戻って行った。
が、彼女が求めに来た嬉しい返事を携えて帰ることはできなかった。
──それで結局彼はどうしました? どういう決断をしたのでしょうか。
このあいだ聞いたところでは、まだ決めていないとのことでした。もっとも、この話はつい最近のことで、まだ結末に至る段階ではありません。彼の自由意志によって何らかの決断を下すまでは結末はあり得ないでしょう。
貴殿が催される〝交わりの集会〟へは彼のような立場の霊が大勢参加するものです。
──交わりの集会というのは聖餐式のことでしょうか。それとも交霊会のことでしょうか。
どう言い変えたところで同じでしょう。確かに地上の人間に取っては両者は大いに違うでしょうが、吾々には地上の基準で考えているのではありません。どちらにせよ同じ目的、つまり両界の者と主イエスとの交わりを得るためです。吾々にとってはそれだけで十分です。
ところで吾々が派遣した女性のことですが、貴殿はなぜこのような使命を女性が担わされたのか──キリスト教の牧師を相手にしてその行為と態度を論じ合わせたのはなぜかと思っておられる。その疑問にお答えしましょう。
答えは至って簡単です。実は彼には幼少時代に一人の妹がいたのですが、それがわずか二、三歳で夭折した。そして彼一人が成人した。例の女性がその妹です。
彼はその妹を非常に可愛がっていた。であるから、もしもその人生においてもう一段高い霊性を発揮していたら、たとえその後の彼女が美しく成人していても、すぐに妹と知れたはずです。が、低き霊性故に彼の視界は遮られ、視力は曇らされ、遂に彼女は自分が実の妹であることに気づいてもらえないまま去って行った。
げに吾々は、喜びにつけ悲しみにつけ一つの家族のようなものであり、それを互いに分かち合わねばならない。主イエスも地上の人間の罪と愛、すなわち喜びと悲しみを身を持って体験されたのですから。




