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 5 ザブディエル十一界へ召される   


 一九一四年一月三日  土曜日


主イエスは黙したまましばし恍惚たる表情で立っておられた。何もかもがお美しい。やがて天使団に動きが生じた。ゆっくりと、いささかも急ぐ様子もなく、その一団が天空へ向けて上昇し、イエスを中心にして卵型に位置を取った。後部の者は主より高く、前方の者は主の足より下方に位置している。かくして卵形が整うと、全体が一段と強烈な光輝を発し、吾々の目にはその一人一人のお姿の区別がつかぬほどになった。


今や主の周りは光輝に満ち満ちている。にもかかわらず主の光輝はそれよりさらに一段と強烈なのである。但し、主の足元のすぐ前方に一個所だけ繋がっていないところがある。つまり卵形の一番下部に隙間が出来ているのである。


 その時である。主が左手を吾々の方へ伸ばして祝福をされた。それから右手のカリスを吾々の方へ傾けると、中から色とりどりの色彩に輝く細い光の流れがこぼれ出た。


それが足もとの岩に落ち、岩の表面を伝って平地へと流れ落ちて行く。落ちながら急速に容積を増し、平地に辿り着くと一段と広がり、なおも広がり続ける。今やそれは光の大河となった。その光に無数の色彩が見える。


濃い紫から淡いライラック、深紅から淡いピンク、黄褐色から黄金色等々。それらが大河のそこここで各種の混合色を作りつつ、なおも広がり行くのであった。


  かくしてその流れは吾々の足もとまで来た。吾々はただその不思議さと美しさに呆然として立ちつくすのみであった。今やその広大な平野は光の湖と化した。が、吾々の身体はその中に埋没せず、その表面に立っている。だが、足もとを見つめても底の地面まで見通すことはできない。あたかも深い深い虹色の海のような感じである。


しかも吾々は地面に立つようにその表面にしっかりと立っている。が、表面は常に揺らめき、さざ波さえ立てている。それが赤、青、その他さまざまな色彩を放ちつつ吾々の足元を洗っている。何とも不思議であり、何とも言えぬ美しさであった。


  やがて判ってきたことは、その波の浴び方が一人一人違うことであった。群集のところどころで自分が他と異なるのに気づいている者がいた。そう気づいた者はすぐさま静かな深い瞑想状態に入った。側の者の目にもそれが歴然としてきた。


まず周囲の光の流れが黄金色に変わり、それがまずくるぶしを洗い、次に液体のグラスのような光の柱となって膝を洗い、更に上昇して身体全体が光の柱に囲まれ、黄金色の輝きの真っ只中に立ちつくしているのだった。


頭部には宝石その他、それまで付いていたものに代って今や十一個の星が付いている。それまた黄金色に輝いていたが、流れの黄金色より一段と強烈な輝きを発し、あたかも〝選ばれし者〟を飾るために、その十一個の星に光が凝縮されたかのようであった。


その星の付いた冠帯が一人一人の頭部に冠せられ、両耳の後ろで留められていた。かくして冠帯を飾られた者はその輝きが表情と全身に行き亘り、他の者より一段と美しく見えるのであった。


 そこで主がカリスを真っ直ぐに立てられた。と同時に流れが消えた。光の流れにおおわれていた岩も今やその岩肌を見せている。平地も次第に元の草原の姿を現わし、ついに光の海は完全に消滅し、吾々群集は前と同じ平地の上に立っていた。


 さて、その〝選ばれし者〟のみが最後まで光輝に包まれていたが、今はもうその光輝も消滅した。が、彼らはすでにもとの彼らではなかった。


永遠に、二度ともとに戻ることは無いであろう。表情には一段と霊妙さが増し、身体もまた崇高さを加え、衣装の色調も周りの者に比して一段と明るさを加え、異った色彩を帯びていた。十一個の星は相変わらず光り輝いている。包んでいた光の柱のみが今は消滅していた。


 その時である。〝聖なる山〟の神殿からもう一人の天使が姿を現わし、優しさを秘めた力強い声で、星を戴いたものはこの山の麓まで進み出るように、と言われた。それを聞いて私を含めて全員が集結し───実は私も星を戴いた一人だったのである───そして神殿の前に立たれる主イエスのお姿を遥かに見上げながら整列した。


 すると主がおよそ次のような趣旨のことを述べられた。「あなた方は託された義務をよくぞ果たされた。父なる神と余に対し、必ずしも完璧とは言いかねるが、出来うるかぎりの献身を為された。これより案内いたす高き界においても、これまでと変わらぬ献身を希望する。では、ここまで上がって来られたい。


あなた方を今や遅しと待ち受ける新たな館まで案内いたそう。さ、来るがよい。」


 そう言われたかと思うと、すぐ前に広い階段が出来あがった。一ばん下は吾々の目の前の平野にあり、一ばん上は遥か山頂に立たれる主の足元まで伸びている。その長い階段を吾々全員が続々と登り始めた。数にして何万人いたであろうか。


が、かなりの位置まで登って平野を見下ろして別れの手を振った時、そこにはそれに劣らぬ大群集が吾々を見上げていた。それ程その時の群集は数が多かったのである。


 かくして吾々全員が神殿の前の広場に勢揃いした時、主が下に残った群集へ向けて激励と祝福を述べられた。仮に吾々と共に召されなかったことを悲しんだ者がいたとしても、私が見下ろした時は、そこには悲しみの表情は跡形もなかった。


主イエス・キリストのましますところに誰一人悲しむ者はあり得ず、ひたすらにその大いなる愛と恩寵を喜ぶのみである。


 その時吾々と同じ神殿の前から幾人かの天使が階段を降り始めた。そしてほぼ中途の辺りで立ち止まった。全員が同じ位置まで来ると〝天に在す栄光の神〟を讃える感謝の賛美歌を斉唱した。平地の群集がこれに応えて交互に斉唱し、最後は大合唱となって終わった。


 聖歌隊が再び上がって来た。そして吾々と同じ場所に立った。その時はすでに階段は消滅していた。どのようにして消えたか、それは私にも判らなかった。


見た時はもうすでにそこに無かったのである。そこで主が両手をお上げになって平地の群集に祝福を与えた。群集はただ黙って頭を垂れていた。それからくるりと向きを変えられて神殿の中へお入りになった。吾々もその後に続いたのであった。





 ザブディエル最後のメッセージ


 さて、私の同志であり、友であり、私が守護を託されている貴殿に、最後に申し置きたいことがある。別れの挨拶ではない。これよりのちも私は常に貴殿と共にあり、貴殿の望みに耳を傾け、そして答えるであろう。


いついかなる時もすぐ近くに居ると思うがよい、たとえ私の本来の住処が人間の距離感では遥か彼方にあっても、吾らにとってはすぐ側に居るのも同然であり、貴殿の考えること望むことそして行うことにおいて、常に接触を保ち続けている。


なぜなら、私にはその全てについて評価を下す責務があるからである。それ故、もしも私が友として援助者として貴殿に何らかの役に立ってきたとすれば、私が下した評価において貴殿が喜ぶように私も貴殿のことを喜んでいるものと心得るがよい。


七つの教会の七人の天使のこと(七章2)を思い出し、私の立場に思いを馳せてほしい。


更に又、いずれの日か貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくがよい。


では祝福を。もしかして私は再び貴殿と語る手段と許しとを授かることになるかも知れない。同じ手段によるかも知れないし、別の簡単な手段となるかも知れない。それは私も今は何とも言えない。貴殿の選択に任されるところが多いであろう。


ともあれ、何事が起ころうと常に心を強くもち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心を持って事に当たることである。


 神の御恵みのあらんことを。私はこれをもって終わりとするに忍びないが、これも致し方ないことであろう。


 主イエス・キリストの御名のもとに、その僕として私は常にすぐそばに居ることをつゆ忘れるでないぞ。 アーメン    ♰   

              ザブディエル






 訳者あとがき


 第一巻はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占めた。その親子関係がかもし出す雰囲気には情緒性があり、どこかほのぼのとしたものを感じさせたが、この第二巻は一転して威厳に満ちた重厚さを漂わせている。


文章も古い文語体で書かれ、用語も今日では〝古語〟または〝廃語〟となっているものが数多く見受けられる。


が、同時に読者はその重厚な雰囲気の中にもどこかオーエン氏に対する温かい情愛のようなものが漂っていることに気づかれたであろう。最後のメッセージにそれがとくに顕著に出ている。もしそれが読み取っていただけたら、私の文章上の工夫が一応成功したことになって有難いのであるが・・・


実は私は頭初より本書を如何なる文体に訳すかで苦心した。原典の古い文体をそのまま日本の古文に置き換えれば現代人にはほとんど読めなくなる。それでは訳者の自己満足だけで終わってしまう。


そこで、語っているのがオーエン氏の守護霊である点に主眼点を置き、厳しさの中にも情愛を込めた滋味を出すことを試みた。それがどこまで成功したかは別問題であるが・・・


 さて、その〝厳しさの中の情愛〟は守護霊と人間との関係から出る絶対的なもので、第一巻が肉体的ないし血族的親子関係であれば、これは霊的ないし類魂的親子関係であり、前者がいずれは消滅していく運命にあるのに対し、後者は永遠不滅であり、むしろ死後においてますます深まっていくものである。


ついでに一言述べておきたいことがある。守護霊という用語は英語でも Guardianガーディアン と言い、ともに〝守る〟という意味が込められている。


そのためか、世間では守護霊とは何かにつけて守ってくれる霊という印象を抱き、不幸や苦労まで取り除いてくれることを期待する風潮があるが、これは過りである。


守護霊の仕事はあくまでも本人に使命を完うさせ宿命を成就させるよう導く事であり、時には敢えて苦しみを背負わせ悲劇に巻き込ませることまでする。そうした時、守護霊は袖手しゆうしゆ傍観しているのではなく、ともに苦しみともに悲しみつつ、しかも宿命の成就のために霊的に精神的に援護してやらねばならない。


そうした厳粛な責務を持たされているのであり、その成果如何によって守護霊としての評価が下されるのである。


そのことは本文の〝七つの教会〟の話からも窺われるし、シルバーバーチの霊訓が〝苦難の哲学〟を説くのもそこに根拠がある。


 守護霊にはその守護霊がおり、その守護霊にもまた守護霊がいて、その関係は連綿として最後には守護神に辿り着く。それが類魂の中の一系列を構成し、そうした系列の集合体が類魂集団を構成する。言ってみれば太陽系が集まって星雲を構成するのと同一である。


 その無数の類魂の中でも一ばん鈍重な形体の中での生活を余儀なくさせられているのが吾々人間であるが、それは決して哀れに思うべきことではない。


苦難と悲哀に満ちたこの世での体験はそれだけ類魂全体にとって掛けがえのないものであり、それだけ貴重なのであり、それ故人間は堂々と誇りをもって生きるべきである、というのが私の人生観である。


 ただし一つだけ注意しなければならないのは、この世には目には見えざる迷路があり、その至る所に見えざる誘惑者がたむろしていることである。大まじめに立派なことをしているつもりでいて、その実とんでもない邪霊にもてあそばれていることが如何に多いことか。


 では、そうならないためにはどうすべきか。それは私ごとき俗物の説くべきことではなかろう。読者みずから本書から読み取っていただきたい。それが本書の価値の全てとは言えないにしても、それを読み取らなければ本書の価値は失われるのではなかろうか。


 一九八五年九月

                                近藤千雄



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