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ベールの彼方の生活(二) G・Vオーエン
一章 序 説
1守護霊ザブディエル
2善と悪
3神への反逆
4統一性と多様性
二章 人間と天使
1暗闇の実在
2天体の円運動の原理
3ヤコブと天使
4神とキリストと人間
5第十界の住居
三章 天上的なるものと地上的なる
もの
1古代の科学と近代の科学
2守護霊と人間
3種の起源
四章 天界の〝控えの間〟地上界
1インスピレーション
2一夫婦の死後の再会の情景
3 〝下界〟と地縛霊
4天使の怒り
五章 天界の科学
1エネルギーの転換
2〝光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず〟
3光と旋律による饗宴
4第十界の大聖堂
六章 常夏の楽園
1霊界の高等学院
2十界より十一界を眺める
3守護霊との感激の対面
4九界からの新参を迎える 祭壇
5宗派を超えて
6大天使の励まし
七章 天界の高地
1信念と創造力
2家族的情愛の弊害
3霊界の情報処理センター
4宇宙の深奥を覗く
5霊格と才能の調和
八章 祝福されたる者よ、来たれ!
1光り輝く液晶の大門
2女性ばかりの霊団
3女性団、第六界へ迎えられる
4イエスキリストの出現
5ザブディエル十一界へ召される
ザブディエル最後のメッセージ
訳者あとがき
The Life Beyond the Veil
Vol. II The Highlands of Heaven
by G. V. Owen
The Greater World Association
London, England
一章 序 説
1 守護霊ザブディエル
一九一三年十一月三日 月曜日
守護霊のザブディエルと申す者です。語りたいことがあって参りました。
──御厚意ありがたく思います。
ご母堂とその霊団によって綴られてきた通信(第一巻)にようやく私が参加する段取りとなりました。これまでに授けられた教訓を更に発展させるべき時期が到来したということです。貴殿にその意志があれば、ぜひともそのための協力を得たいと思います。
──恐縮に存じます。私にいかなる協力をお望みでしょうか。
ここ数週間にわたってご母堂とその霊団のために行ってこられた如くに、私のメッセージを今この時点より綴ってほしく思います。
──ということは、母の通信が終わり、あなたがそれを引き継ぐということでしょうか。
その通りです。ご母堂もそうお望みである。もっとも、時にはその後の消息をお伝えすることもあろうし、直接メッセージを届けさせようとは思っています。
──で、あなたが意図されている教訓はいかなる内容のものとなりましょうか。
善と悪の問題、ならびにキリスト教界および人類全体の現在並びに将来に係わる神のご計画について述べたいと思う。もっとも、それを貴殿が引き受けるか、これにて終わりとするかは、貴殿の望むとおりにすればよい。
と申すのも、もとより私は、急激な啓示によっていたずらに動揺を来すことは避け徐々に啓発していくようにとの基本方針に沿うつもりではあるが、その内容の多くは、貴殿がそれを理解し、私の説かんとする教訓の論理的帰結を得心するに至れば、貴殿にとってはいささか不愉快な内容のものとなることが予想されるからです。
──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。あのままで終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。
さよう、終わりである。あれはあれなりに結構である。もともと一つのまとまった物語、あるいは小説のごときものを意図したものでなかったことを承知されたい。断片的かも知れないが、正しい眼識を持って読む者には決して無益ではあるまいと思う。
──正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気なさすぎます。また最近になってあの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望はありのままを公表するということでしょうか。
それは貴殿の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが・・・ただ一言申し添えるが、これまで貴殿が受け取ってきた通信と同様に、今回新たに開始された通信も、これより届けられる一段と高度な通信のための下準備である。それをこの私が行いたく思います。
──いつからお始めになられますか。
今、ただちにである。これまでどおり、その日その日、可能なかぎり進めればよい。貴殿には貴殿の仕事があり職務があることは承知している。私を相手とする仕事はそれに順じて行うことにしよう。
──承知しました。出来るかぎりやってみます。しかし正直に申し上げて私はこの仕事に怖れを感じております。その意味は、それに耐えて行くだけの力量が私には不足しているのではないかということです。
と言いますのも、今のあなたの言い分から推察するに、これから授かるメッセージにはかなり厳しい精神的試練を要求されそうに思えるからです。
これまで同様に吾らが主イエス・キリストのご加護を得て、私が貴殿の足らざるところを補うであろう。
──では、どうぞ、まずあなたご自身の紹介から始めていただけますか。
私自身のことに貴殿の意を向けさせることは本意ではない。それよりも、私を通じて貴殿へ、そして貴殿を通じて今なお論争と疑念の渦中にあり、或いは誤れる熱意を持ってあたら無益な奮闘を続けているキリスト教徒へ向けた啓示に着目してもらいたい。
彼らに、そして貴殿に正しい真理を授けたい。それを更に他の者へと授けてもらいたいと思う。その仕事を引き受けるか否か、貴殿にはまだ選択の余地が残されております。
──私はすでにお受けしています。そう申し上げたはずです。私ごとき人間を使っていただくのは誠に忝いことで、これは私の方の選択よりそちらの選択の問題です。私は最善を尽くします。誓って言えるのは、それだけです。では、あなたご自身について何か・・・
重要なのは私の使命であり、私自身のことではない。それはこれより伝えていく思想の中に正直に表れることであろう。世間と言うものは自分に理解できないことを口にする者を疑いの目を持って見るものである。
かりに私が「大天使ガブリエルの顕現せる者なり」と言えばみな信ずるであろう。聖書にそう述べられているからである。が、もし「〝天界〟にて〝光と愛の聖霊〟と呼ばれる高き神霊からのメッセージを携えて参ったザブディエルと申す者なり」と申せば、彼らは果たして何と言うであろうか。
故に、ともかく私にそのメッセージを述べさせてもらいたい。私および私の率いる霊団についてはそのメッセージの中身、つまりは真実か否か、高尚か否かによって判断してもらいたい。貴殿にとっても私にとってもそれで十分であろう。
そのうち貴殿も私の有るがままの姿を見る日が来よう。その時は私についてより多くを知り、そしてきっと喜んでくれるものと信じる。
──結構です。お任せいたします。私の限界はあなたもご存知と思います。霊視力も無ければ霊聴力もなく、いかなる種類の霊能も持ち合わせていないと自分では思っております。しかし、少なくともこれまで綴られたものについては、それが私自身とは別個のものであることは認めます。
そこまでは確信しております。ですから、あなたにその意志がおありであれば私は従います。それ以上は何も言えません。私の方から提供するものは何も無いように思います。
それでよい。貴殿の足らざるところはこちらで補うべく努力するであろう。
今回はこれ以上は述べないことにしよう。そろそろ行かねばなるまい。用事があるであろう。
主イエス・キリストのご加護のあらんことを。アーメン ♰
2 善と悪
一九一三年十一月四日 火曜日
神の恵みと安らぎと心の平静のあらんことを。
これより述べていくことについて誤解なきを期するために、あらかじめ次の事実を銘記しておいてほしい。
すなわち吾々の住む境涯においては、差し当たり重要でないものはしつこく構わず、現在の自分の向上進化にとって緊要な問題と取組み、処理し、確固たる地盤の上を一歩一歩前進していくということである。もとより永遠無窮の問題を心に宿さぬわけではない。
〝究極的絶対者〟の存在と本質及びその条件等の問題をなおざりにしているわけではないが、今置かれている界での体験から判断して、これより先にも今より更に大いなる恩寵が待ち受けてくれているに相違ないことを確信するが故に、そうした所詮理解し得ないこととして措き、そこに不満を覚えないというまでである。
完全な信頼と確信に満ちて修身に励みつつ、向上は喜ぶが、さりとてこれより進み行く未来についてしつこく求めることはしないということである。それ故、これより扱う善と悪の問題においても、吾々が現段階において貴殿に明確に説き得るものに限ることにする。
それは、かりに虹を全真理に譬えれば、一滴の露ほどのものに過ぎぬし、あるいはそれ以下かも知れないことを承知されたい。
〝悪〟なるものは存在しないかの如く説く者がいるが、これは誤りである。もし悪が善の反対であるならば、善が実在するごとく悪もまた実在する。例えば夜と言う状態は存在しない──それは光と昼の否定的側面に過ぎない、と言う理屈が通るとすれば、悪なるものは存在しない──実在するのは善のみである、と言う理屈になるかもしれない。が、
善も悪も共に唯一絶対の存在すなわち〝神〟に対する各人の心の姿勢を言うのであり、その一つ一つの態度がそれに相応しい結果を生むに至る必須条件となる。ならば当然、神に対する反逆的態度はその反逆者への苦難と災害の原因となる。
神の愛は強烈であるが故に、それに逆らうものには苦痛として響く、流れが急なれば急なるほど、その流れに逆らう岩のまわりの波は荒立つのと同じ道理である。火力が強烈であればあるほど、それに注ぎ込まれる燃料と供給される材料の燃焼は完全である。
神の愛をこうした用語で表現することに恐怖を感ずる者がいるかも知れないが、父なる神の創造の大業を根源において支えるものはその〝愛〟の力であり、それに逆らう者、それと調和せぬ者には苦痛をもたらす。
このことは地上生活においても実際に試し、その真実性を確かめることができる。罪悪に伴う悔恨と自責の念の中でも最も強烈なものは、罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に湧き出るものである。
これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない。それによって味わう地獄を実在と認めないとすれば、では地獄の苦しみに真実味を与えるものは他に一体何があるであろうか。
現実にその情況を目の当たりにしている吾々は、神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみがふりかかり、それまでの苦しみは本格的なものでなかったことを知るのである。
が、そうなると、つまり悪に真実味があるとなれば、悪人もまた実在することになる。
盲目は物が見えないことである。が物が見えない状態があると同時に、物が見えない人も存在する。また物が見えないという状態は欠如の状態にすぎない。
つまり五感あるべきところが四感しかない状態に過ぎない。が、それでもその欠陥には真実味がある。生まれつき目の見えない者は視覚の話を聞いて始めてその欠陥を知る。
そしてその欠陥の状態について認識するほど欠如の苦しみを味わうことになる。罪もこれと同じである。暗闇にいる者を〝未熟霊〟と呼ぶのが通例であるが、これは否定的表現ではない。〝堕落霊〟の方が否定的要素がある。
そこで私は盲目と罪とを表現するに〝無〟と言わず〝欠如〟と言う。生まれつき目の見えない者は視力が無いのではない、欠如しているに過ぎないのである。
罪を犯した者も、善を理解する能力を失ったのではない、欠如しているに過ぎない。譬えてみれば災難によって失明した状態ではなく、生まれつき目が見えない人の状態と同じである。
これは聖ヨハネが〝真理を知る者は罪を犯すことを能わず〟と述べた言葉の説明ともなろう。但し論理的にではない。実際問題としての話である。と言うのは、真理を悟って光と美を味わったものが、みずから目を閉じて盲目となることは考えられないからである。
それ故に、罪を犯す者は、真理についての知識と善と美を理解する能力が欠如しているからである。
目の見えない者が見える人の手引きなくしては災害に遭遇しかねないのと同じように、霊的に盲目の者は、真理を知る者──地上の指導者もしくは霊界の指導霊──の導きなくしては罪を犯しかねないのである。
しかし現実には多くの者が堕落し、あるいは罪を犯しているではないか──貴殿はそう思うかもしれない。その種の人間は視力の弱い者または不完全な者、言わば色盲にも似た者たちである。つまり彼らは物が見えてはいても正しく見ることができない。
そして何らかの機会に思い知らされるまでは自分の不完全さに気がつかない。色盲の人間は多かれ少なかれ視力の未発達な者である。そうした人間が道を誤らないためには〝勘〟に頼るほかはない。それを怠る時、そこには危険が待ち受けることになる。罪を犯す者もまた然りである。
が、貴殿は当惑するかもしれないが、一見善人で正直に生きた人間が霊界へ来て、自分を未発達霊の中に見出すことが実に多い。意外に思うかもしれないが、事実そうなのである。
彼らは霊的能力の多くを発達させることなく人生を終え、全てが霊的である世界に足を踏み入れて始めてその欠陥に気づく。知らぬこととは言え、永きにわたって疎かにしてきたことについて、それから徐々に理解していくことになる。
それは色盲の人間が自分の視力の不完全さに気づくことなく生活しているのと同じである。しかも他人からもそうと知られないのである。
──何か好い例をお示し願えませんか。
生半可な真理を説く者は、こちらへきて完全な真理を説かねばならなくなる。インスピレーションの事実を知る者は実に多いが、それが神と人間とのごく普通の、そして不断の連絡路であることは認めようとしない。
こちらへくれば、代わって自分が──資格が具われば──インスピレーションを送る側にまわり、その時初めて自分が地上時代にいかに多くのインスピレーションの恩恵に浴していたかを思い知る。
こうして彼らはまず自分に欠如した知識を学ばねばならない。向上はそれからのことであり、それまでは望めない。
さて、悪は善の反対である。が、貴殿も知る通り双方とも一個の人間の心に存在する。そのいずれにも責任をとるのはあくまで自由意志に係わる問題である。その自由意志の本質とその行使範囲については又の機会に述べるとしよう。
神のご加護のあらんことを。アーメン ♰
3 神への反逆
一九一三年十一月八日 土曜日
これより暫しのあいだ貴殿の精神をお借りし、引き続き悪の問題と善との関係について述べたいと思う。善といい悪といい、所詮は相対的用語であり、地上の人間の観点よりすればいずれも絶対的ということは有り得ない。
双方の要素を兼ね具える者にはそのいずれも完全に定義することが出来ないのが道理で、ただ単に、あるいは、主として、その働きの結果として理解するのみである。
また、忘れてならないことは、ある者にとって善または悪と思えることが必ずしも別の者からみて善または悪とは思えないということである。宗教的教義の違い、民族的思想や生活習慣の違いのある場合にはそれが特に顕著となる。
故に両者の定義の問題においてはその基本的原理の大要を把握することで足れりとし、そこから派生する細部の問題は地上生活を終えたのちに託することが賢明である。
さて、悪とは法則として働くところの神への反逆である。賢明なる者はその法則の流れる方角へ向けて歩むべく努力する。故意または無知ゆえにその流れに逆らう者は、たちまちにしてゆく手を阻まれる。そして、もしもなお逆らい続けるならばそこに不幸が生じる。
生成造化を促進する生命は破壊的勢力と相対立するものだからである。故に、もし仮にその強烈な生命の流れに頑強に抵抗し続け得たとしても、せき止められた生命力がいずれは堰を切って流れ、その者を一気に押し流すことになろう。
が、幸いにして、そこまで頑強に神に反抗する者、あるいは抵抗しうる者はいない。故に、吾々神の子の弱さそのものが、実はそうした完全なる破滅を防ぐ安全弁であると言えるのである。
比較的長期間──往々にして地上の年月にして何千年何万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者がいないでもない。が、いかなる人間も永遠にその状態を続けうる者はいない。
そこに父なる創造神が子等の内と外に設けた限界があり、一人として神より見離され永遠に戻れぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである。
そこで、そうした神との自然な歩みから外れた生き方を観たからには、こんどはその反対、すなわち全てが然るべき方角へ向かっている状態に目を向けよう。確かに悪は一時的な状態に過ぎない。
そして全宇宙から悪のすべてが拭い去られるか否かは別として、少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たした時に悪の要素が取り除かれ、あとは栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしき先輩霊の後に続くに任せることになろう。
この意味において、いつかは神の国より全ての悪が清められる時が到来するであろう。
何となれば神の国も個々の霊より構成されているのであり、最後の一人が招き入れられた時は、いま地球へ向けて行っているのと同じように別の天体へ向けて援助と救助の手を差しのべることになろう。吾々の多くはそう信ずるのである。
こうして地上に降り、今いる位置から吾々の世界と地上との間に掛るベールを透して覗いてみると、一度に大勢の人間が目に入る時もあれば、僅かしか見えない時もある。彼らは各々の霊格に応じてその光輝に差異がみられる。
神より吾々を通して地上界へ流れ来る霊的な〝光〟を反射する能力に応じた光輝を発しているということである。薄ぼんやりと見える者がいるが、彼らはこちらへ来てもそれ相応の、あるいはそれ以下の、薄ぼんやりとした境涯へと赴く。
それ故、そこにいる者は各自その置かれた環境と雰囲気の中できわめて自然に映ることになる。そこがその人の〝似合いの場所〟なのである。譬え話でもう少し判り易く説明しよう。
仮に闇夜にいきなり閃光が放たれたとしよう。暗闇と閃光の対照が余りに際立つために見る者の目に不自然に映る、閃光は本来そこに在るべきものではなかった。ために暗闇に混乱が生じ、すべてのものが一瞬その動きを止める。
暗闇の中を手探りで進みつつあった者は目が眩んで歩みを止め、目をこすり、しばらくして再び歩み始める。夜行性の動物も一瞬ぎょっとして足を止める。
しかし同じ閃光が真昼に放たれたとしたらどうであろう。当惑する者は少なく、更にこれを太陽へ向けて放てば陽光と融合して、そこに何の不調和も生じないであろう。
かくして強い光輝を発する高級霊はその光輝と調和する明るさを持つ高い境涯へと赴く。むろん高級霊の間にもそれなりの差があり、各霊がそれ相応の界に落着く。
反対に霊的体質の粗野な者は、それに調和する薄暗い境涯へ赴き、その居心地良い環境の中で修身に励むのである。むろんそこが真の意味で〝居心地のよい〟環境ではない。
ただ、より高い世界へ行けばその光輝と調和しないために暗い世界より居心地が悪いというに過ぎない。そこに居心地よさを感じるためには、自分の光輝を強めるほかはない。
地上を去ってこちらへ来る者は例外なく厚い霧状のとばりに包まれている。が、その多くはすでに魂の内部において高い界に相応しい努力の積み重ねがある。そうした者はいち早くより明るい境涯へと突入していく。
今、遥か上方へ目をやれば、そこに王の道──地球の守護神の王座の坐す聖都へ通ずる道が見える。吾らはその道を一歩一歩進みつつある。そして一歩進むごとに光輝が増し、吾々も、そして吾々と共に歩む同志たちも、美と光輝とを増して行く。
その中途において特別の許しを得て、それまで辿ってきた道を逆戻りし、期間はその必要性によって異なるが、地上の者を吾々の辿って来た光と美の道へと導く仕事に携わることができるのは、吾々の大いなる喜びとするところである。
貴殿の守護霊として私は、貴殿が現在の心の姿勢で臨んでくれるかぎり、吾々霊団と共にこの仕事を続ける所存である。
貴殿はそのつもりであると信じる。が、よくよく心してもらいたいことは、勇躍この仕事に着手はしたものの、新しい真理の光に目が眩み、猜疑心を抱いてより暗い道、つまりは己の魂の視力に相応しい段階へと後戻りする者が多いことである。去る者は追わず。
吾らはその者たちを溜息とともに見送り、新たなる人物、吾々の光輝に耐え得る人物を求める。惜しくも去れる者は、時の経過とともに再び目醒めて戻ってくるまで待つほかはないのである。
願わくば神の御力によって、貴殿が足を踏み外すことなく、また目を曇らされることのなく進まれることを祈る。たとえ地上の言語で書き表せないことも、少しでも多くを綴ってもらうべく吾らとしても精一杯の努力をするであろう。
貴殿を通じて他の多くの者がそれを手中にし、そこに真理を発見し、なお勇気があれば自ら真理の扉を叩き、その光輝と栄光を手にする。その縁となればと願うからである。 ♰
4 統一性と多様性
一九一三年十一月十日 月曜日
今この地上に立って見上げる私の目に、遥か上方まで、そして更にその向こうまでも、延々と天界が存在するのが見える。私はすでにそのうちの幾つかを通過し、今は第十界に属している。
これらの界は地上の〝場所〟とはいささか趣を異にし、そこに住む霊の生命と霊力の顕現した〝状態〟である。貴殿はすでにこうした界層についてある程度の教示を受けている(第一巻・六章)ので、ここではそれについて述べることは控えたい。
それよりも私は別の角度からその光と活動の世界へ貴殿の目を向けさせたいと思う。これよりそれに入る。
善なるものには二つの方法によって物事を成就する力が滞在している。善人は、地上の人間であれ霊界の者であれ、自分の内部の霊力によって、自分より下層界の者を引きあげることが出来る。
現実にそうしているのであるが、同時に自分より上層界の者を引き下ろすことも可能である。祈りによってもできるが、自分自身の霊力によっても出来るということである。
さて、これは神の摂理と波長が合うからこそ可能である。と申すのも、神の創造した環境に自らを合わせることが可能なだけ、それだけその環境を通して働くことができる。つまり環境を活用して物事を成就することが出来るということである。
下層界を少し向上しただけの霊によってもそれは可能であり、その完成品がベールを通してインスピレーションの形で地上へ送り届けられた時、人間はその素晴らしさに感心する。
例を挙げよう。こちらには地球の存在自体を支えるための要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。ここでは後者の働きの説明となる例を挙げてみる。すなわち植物を担当する霊の働きである。
その霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には更に程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類で、その数も形態も無数である。
今のべた法則はその根源から遠ざかるにつれて複雑さを増すが、私が思うに、源流へ向けて遡れば遡るほど数が少なくそして単純となり、最後にその源に辿りついた時は一つに統一されていることであろう。
その道を僅かに遡ったに過ぎない私としては、これまでに見聞きしたものに基いて論ずるほかはないが、敢えて言わせて貰うならば、全ての法則と原理を生み出す根源の法則・原理は〝愛〟と呼ぶのが最も相応しいものではないかと思う。
何となれば、吾らの理解の及ぶかぎりにおいて、愛と統一とは全く同一ではないにしても、さして相違がないと思えるからである。
少なくとも吾々がこれまでに発見したことは、私の属する界層を始めとして地上界へ至る全ての界層において数々の地域と各種の境涯が生じていくそもそもの原因は、最も厳密な意味における〝愛〟が何らかの形で欠如して行くことにある。
が、この問題は今ここで論ずるには余りに困難が多すぎる。と言うのは地上の環境に見る多様性の全てが、今のべた崩壊作用の所為(と私には思える)でありながら、尚かつ素晴らしくそして美しいのは何故かを説明するのは極めて困難である。
それを愛の欠如という言い方をせず、統一性が一つ欠け二つ欠けして、次々と欠けていくという言い方をすれば、統一性が多様性へと発展していくとする吾々の哲学の一端を窺い知ることが出来るかもしれない。
こうした下層界の活動の全てが法則によって規制されているのであるが、それなりの枠内における自由はかなりの程度まで存在する。これまた吾々にとって魅力あることである。何となれば、貴殿も同意することと思うが、その多様性に大いなる美が存在すると同時に、植物的生命を活動させる霊の巧みさにも大いなる美が存在するからである。
精霊界及びその上あたりの界を支配する法則には私に理解しがたいものがまだまだ数多く存在する。中には理解し得るものもあるにはあるが、こんどはそれを言語で伝えることが至難のわざである。が少しばかり伝えることが出来るものがある。それ以上のことは貴殿自身こちらへ来てから、向上の道を歩みつつ学んで行ってもらうことになろう。
その一つは、一旦ある植物群の発達の計画を立てた以上は、その主要構成分子と本質的成分はあくまでも自然な発達のコースを辿らねばならないということである。群生する劣位種の影響もその不変の原則内に抑えなくてはならない。たとえばカシの木が計画されると、あくまでもカシの木としての発達を遂げさせなくてはならない。
亜種が発生することはあっても、カシとしての本性を失ったものであってはならない──シダになったり海草になったりしてはならないということである。この原則はこれまで大体において貫かれている。
もう一つの原則は、いかなる霊も他の部門の霊の働きに干渉し台無しにすることがあってはならないということである。足並みが揃わないことがあるかもしれない。
現にしばしばそういうことがあるのであるが、なるべく一時的変異の範囲に留めるよう努力し、他種の発達を完全に無視することになってはならない。それは絶滅を意味することになるからである。
故に、同じ科の二つの植物を交配すると、雑種又は混成種、あるいは変異種が出来るであろう。が別の科の植物と交配しようとしても成功しない。が、いずれにしても絶滅という結果にはならない。
また樹木に寄生植物がからみつくことがある。が、樹木はそれに抵抗し、そこに闘争が始まる。大抵の場合、樹木の方が傷められ敗北を喫する。が、簡単に敗けてはいない。延々と闘いが続き、時には樹木の方が勝つこともある。が霊界において寄生植物の概念を発想し、そして実施した霊が大局においては競り勝っていることが認められる。
こうして植物の世界においても闘争が続けられているわけであるが、これをベールのこちら側から観察していると実に興味深いものがある。
さて、ここで、先に少し触れたことで貴殿には受け入れ難いとみたことについて述べておかねばならない。こうした生成造化における千変万化の活動の主な原則は全て私自身の界(第十界)より高い界において、高い霊格と強力な霊力を持った神霊が、さらに高い界の神霊の指揮のもとに計画したものであり、その神霊も又更に高い界の神霊の支配下にあるということである。
私は今〝千変万化〟と言う言葉を用い〝対立的〟とは言わなかった。これは高い神霊界においては対立関係というものが存在しないからである。存在するのは叡智の多様性であり、それが大自然の美事な多様性となって天界より下界へと下り、ついに人間の目に映じる物的自然となって顕現しているのである。
対立関係が生じるのは大源より発した叡智が自由意志を持つ無数の霊の存在する界層を通過する過程において弱められ、薄められ、屈折した界層においてのみである。
が、しかし、さまざまな容積を具え、幾つもの惑星を従えた星辰の世界を見て貰いたい。地球の自転と他の惑星の引力によって休みなく満ち引きする大海を見てほしい。また、その地表に押し寄せるエネルギーに反応してさらに重い流動体を動かすところの、より稀薄なエーテルの大気を見るがよい。
更には、無数の形態と色彩をもつ草、植物、樹木、花、昆虫類、さらに進化した小鳥や動物たちの絶え間ない活動──他の種族を餌食としながらも互いに絶滅しないように配慮され、各種属が途上での役目を全うしていくその姿──こうしたことや他のもろもろの自然界の仕組みに目をやる時、貴殿は創造神の配剤の妙に感嘆し、その感嘆は取りも直さずその配下の高い神霊の働きへの感嘆に他ならないことを認めずにはおれないであろう。
その神の御名において貴殿に祝福のあらんことを祈る。 ♰
二章 人間と天使
1 暗闇の実在
一九一三年十一月十二日 水曜日
もしお互いが物事を同じ観点から眺めることが出来れば、いま問題としていることも容易に説明出来るのであるが、残念ながら貴殿は原因の世界と結果の世界の間に掛かったベールの向う側から眺め、私はこちら側から眺めているので、必然的に視野が対立する。
そこで何とか分かり易くしようとすれば、どうしても私の方が見地を変えて出来るかぎり地上的見地に立たねばならなくなる。
そこで私は出来るかぎりそう努力しつつ、貴殿を吾々とともに高く創造の根源へ目を向けるよう呼びかけたい。つまりは高き神霊の世界から発した思念が物的形態を取りつつ下層界へ至る、その自然な過程と流れを遡ってみたいと思う。
界を遡ると、自然界の事物が下層における時とは様相が違うことに気づく。言わば心理的映像へと変わり、内的視覚に訴えるようになる。が太陽と日没後の薄明の関係と同じく、物質界の事物、あるいは更に上界層の事物との間につながりがあることはある。
まずその光の問題から始めれば、地上では光は闇との対照によって知られる。つまり光の欠如した状態が闇であり、本質的には実体も価値も持たない。それ故、吾らが闇と言う時、目の網膜に外界の事物を印象づけさせる或る種のバイブレーションが欠如した状態を意味する。
さてベールのこちら側における霊的暗黒地帯においても同じ事情が存在する。つまり暗黒の中にいる者は他の者が外界の事物を認識する際に使用するバイブレーションが欠如している。
そのバイブレーションが受け入れられない状態下にあるということである。霊的感覚に変化が生ずれば、鮮明度は別として、ともかくも見えるようになってくる。
しかし同時に、そうした暗黒の下層界におけるバイブレーションは上層界に比して粗野である。そのために、暗黒界へ下りて行く善霊にとっては、たとえその視覚は洗練されていても暗闇はやはり暗闇であり、彼らに映じる光はぼんやりとしている。
これで理解が行くことと思うが、霊と環境との間には密接な呼応関係があり、それが余り正確で不断で持続性があるために、そこに恒久的な生活の場が出来あがるのである。
この霊と環境との呼応関係は上級界へ上昇するに従って緊密となり、外界に見る光はより完全にそしてより強烈となって行く。故に、たとえば第四界に住む者が第五界へ突入しそこに留まるには、第五界の光度に耐え得るまで霊性を高めなければならない。
そして首尾よく第五界に留まれるようになりその光度に慣れ切ると、今度は第四界に戻った時に──よく戻ることがあるが──そこの光が弱く感じられる。もっとも、事物を見るには不自由は無い。が、更に下がって第二界あるいは第一界まで至ると、もはやそこの光のバイブレーションが鈍重すぎて事物を見るのが困難となる。
地上時代と同じように見ようとすればそれなりの訓練をしなければならない。こうして地上へ降りて人間を見る時、吾々はその人間の持つ霊的な光輝によって認識する。
霊格の高い者ほど鮮明に見えるものである。もしも視覚以外にこうした霊的鑑識力が具わっていなければ、吾々は目指す地上の人間を見出すのに苦労するものと思われる。が幸いにして他に数多くの能力を授かっているために、こうして貴殿との連絡が取れ、使命に勤しむことが出来るのである。
これで〝いかなる人間も近づくことを得ぬ光の中に座す存在〟という言葉の真意が理解できるであろう。地上に居る者にして、数多くの界の彼方まで突入しうる者はいない。そして又、その高い界より流れ来る光はよほど霊性高き人間の目をも眩ませることであろう。
考えてもみるがよい、この弥が上にも完全な光が天界の美について何を物語っているかを。地上には地上なりに人間の目にうっとりとさせる色彩が存在する。が、ベールのすぐこちら側には更に美しく、そして更に多くの色彩が存在する。これが更に高い界へ進んで行けばどうなるか。
色彩一つにしても思い半ばに過ぎるものがあろう。天界をわずかに昇って来たこの私が目にしたものですらすでに、今こうして述べている言語では僅かにその片鱗を伝え得るにすぎない。
私にとっては地上の言語は今や外国語同然であり、同時に貴殿が蓄えた用語の使用範囲にもまた限度がある。
が、喜ぶがよい。美を愛する者にとって美は無尽蔵に存在し、また光と神聖さとは常に相携えて行くものであるから、一方において進歩する者は他方において大いなる喜びを味わうことになる。
これぞ〝聖なる美〟であり、すべての人間的想像の域を超える。とは言え、これは熟考の価値ある課題である。熟考を重ねる者には地上の美しきものが天界のより大いなる美を真実味をもって物語ってくれるであろう。
天界において求めるのは生命の喜びのみである。それは貴殿が誤らず向上の道を歩み続けるならば、いずれの日か貴殿のものとなるであろう。 ♰
2 天体の円運動の原理
一九一三年十一月十五日 土曜日
さて、もう一つ私の立場から見て貰いたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察し、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それにある程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどう関わっているか、その真相について述べてみたい。
そもそも〝天体〟という用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異なる。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。
が、その霊的生命力の働きについても、皆がみな同じように理解しているわけではない。霊的生命力という用語をきわめて曖昧な意味に使用している者もいる。〝神が万物を創造した〟と簡単にいう者がいるが、その意味するところは途轍もなく深遠である。
地上という薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を表現しているよりむしろ埋葬していると言いたいところであろう。もっとも偉大なものも、もっとも単純な叡智から生まれる。
絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、一つの縺れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、最も純粋にして最も単純なものしかないからである。
その至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない、遥か彼方の星辰の世界においても永遠に変わらぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。
さて、それら天体組織の各軌道は二種類の原理によって定められると言っても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった一つの原理すなわち直線から出来上がっていると述べた方がより正確かも知れない。
つまり全ての天体は本来直線軌道上の上を直進している。ところが突き進むうちに例外なく曲線を描くことになる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、一つだけ例を挙げて説明しておこう。
地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。するとまず直線コースを辿る。それが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方向へ曲がりはじめる。
そしてやがて楕円状に働いていることが判る。結果的には直線は一本もない。曲線の連続によって楕円を画いたのであり、それが地球の軌道なのである。
一方、太陽の引力は決して曲線状に働いたわけではない。やはり一直線なのである。
結局地球の軌道を直線から楕円へと変えたのは二種類のエネルギーの直線的作用──地球の推進力と太陽の引力──だったのであり、その中に多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。
実はこれには他に多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸らさぬよう、一つの原理にしぼっている。これを定義づければこういうことになろう──二本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する、と。
太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くということ自体が驚異というべきであり、真実、驚異なのである。
その両者が互いに動きを修正し合い、また大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により──明らかに対立した動きをしながらも──二本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。
貴殿はまさか両者が対立した運動をするからにはこの機構は誤っており〝悪〟の根源より出たものである、などとは思うまい。考えてもみるがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。
それを思えば、侮辱どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せ持つ叡智の存在を示している。これを考案された神への讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。
偉大な叡智と偉大な力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。
人間は神の御業をこのように正しく理解せず、見た目に映じた皮相な見解のもとに神及び神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中に先の例のような対立関係を見ると、すぐに神が不完全で在るかの如く言う。もっと良い方法があるはずであると思い、神の叡智と愛を疑う。
人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみ見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくとも全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難も無いコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正されることを好まない。
もとより、仮定の問題とすればそれ以外の働き方もあるかもしれない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させたところの、かの完璧な星辰の動きには及びもつかぬものとなるであろう。
人生における軋轢や悩み事や苦痛を生じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。
吾々とて全てが判るわけではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せるわけでもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくとも現在自分の置かれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうとも、全てがうまく出来ているとの信念を持って向上へ励むのである。
と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程についてしつこくその価値を詮索することをせず、天界に戻って煌々たる光の中において全体を眺める。その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に美事なものである。
あまりに美事であるために吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳に驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早や私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。
アーメン。私からの祝福を。勇気を持って怖れることなく歩むがよい。先のことは私が全て佳きに計らうであろう。 ♰
3 ヤコブと天使
一九一三年十一月十七日 月曜日
「汝の見るところを書に著せよ」──これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能なかぎりその命に従い、書き記したものを同志に託した。そのとき以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。
そして彼らはああでもない、こうでもないと思案の末に、よく判らぬ、とカブトを脱ぐのである。が、彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。
何となれば、もし幼子の如く素直な心を持って読めば容易に真理の扉を開く合鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取る者を待ちうける天界の美を見ることを得たはずなのである。
ところが人間はいつの時代にも〝複雑〟を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それは言わばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。
かくして人間は複雑さに更に複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さはない。知識を欠くことこそ複雑を生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に、何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。
自動書記という通信方法にこだわってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからといって、それを疑って掛ってはならない。
それは言わば家屋を建てるために使用する材料に過ぎず、そのためには貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。
更に言えば、貴殿のこれまでの半生は一つにはこの目的のための監督と準備のために費やされてきた。すなわち、こうした自動書記のために貴殿を使用し、更に又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちら側から援助してもらうためである。
吾々が映像を見せる、それを貴殿が文章として書き留める。かくして〝汝が見るところのことを書き著 (しる) し〟それを世に送る。
その受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識し得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。各々それで佳しとせねばならない。さ、吾らと共に来るがよい。出来るかぎりのものを授けよう。
──〝吾々〟という言い方をされますが、他に何人か居られるのでしょうか。
吾々は協調によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせる者もいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることの出来る者もいる。又そうするよりほかに致し方ない性質の援助もある。
それは海底のダイバーのために地上から絶え間なく空気を送り込まねばならないと同じで、吾々がこうして仕事をしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。
あたかも海底にいる如く、普段摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界にあっては、そうした種類の援助を得ることによって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝えることが出来るのである。
この点を考慮に入れ、吾々のこともその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解がいくであろう。
かく申すのも、天使はなぜ曽てほど地上へ大挙して訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが二つある。まず第一は、高い霊格を具えた天使が大挙して地上を訪れたことは絶対にない。
永い人類の歴史の中においても、あそこに一人ここに一人と、極めて稀にしか訪れていない。そしてその僅かな事象が驚異的な出来事の年代記の中において大きく扱われている。
天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まず有り得ない。万一そうするとなれば、先に述べた吾々の仕事の困難さを更に延長せねばならない。
つまり、まず暗く深い海底へ潜らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を整えなければならない。
それはあり得ないことである。確かに吾々は人類のための仕事に携わり、人類と共に存在するが、そういう形で訪れることはしない。それぞれの仕事により規則があり方法も異なる。
そこに又、第二の誤解が存在する。確かに吾々の身は今人間界に在り、繰り返し訪れているのであるが、この〝訪れる〟という言葉には、言葉だけでは表せない要素の方が実に多いのである。
ベールのこちら側にいる者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層にいる者でも、霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において意外に僅かしか理解していないものである。が、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。
例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘をして勝ったという話(創世記32)──貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのはなぜだと思われるであろうか。
──私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせてもらえたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせるためであったと思います。
つまり己れに勝ったということです。そして天使が名を明かさなかったのは、肉体に宿る人間に天使が名を明かすことは戒律に反くことだったからだと思います。
なるほど。最初の答えは良く出来ている。あと答えは今一つというところである。何となれば、考えてもみよ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反く行為であるからというのなら、では一体なぜそれが戒律に反くことになるのであろうか。
さて例の格闘であるが、あれは真実味と現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身の取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害をこうむるであろう。
確かにヤコブの目に映ずるほどの形体で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。が手荒に扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで脚の関節が外れたという話でも想像がつくであろう。
では、それほどの威力ある天使を組み伏せたほどのヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの念力によって組伏せられたのである。と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだというのではない。天使の謙譲の徳と特別な計らいがそこにあったのである。
天使が去ろうとするところをヤコブが引き止めると、天使はそれに従ったが、ぜひ帰らせてほしいと実にいんぎんに頼んでいる。
貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。いんぎんさは愛の表現の一つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の一つである。
こうして天使はその謙譲の徳ゆえに引き止められた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己れの意志の力と性格が、しばし、けちくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れた。が、その名は明かさなかった。
名を明かすことが戒律に反くという言い方は必ずしも正しいと言えない。名を明かすこともあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこういう理由による。すなわち名前というものにはある種の威力が秘められているということである。このことをよく理解し銘記してほしい。
なぜなら、聖なる名を誤って使用し続けると不幸が生ずることがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われることになりかねないからである。ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思ってのことであった。
祝福をよろこんで求めた。が、それ以上にあまり多くを求めすぎぬようにとの戒めがあったということである。ヤコブは天使の偉大なる力をほとんど直接に接触するところまで体験した。が、その威力をむやみに引き出すことは戒めなければならない。
そうしなければ、その後に待ち受ける奮闘は己れの力によるものではないことになるからであった。
今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられることがあるかということのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。
不思議に思えるかもしれないが、その浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届ける。が、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうすることによって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであるということになる。
地上の人間が必死にある者の名を呼べば、それは必ずその者に届く。そして可能な限り、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。
思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子たちとの諍い、飢餓との戦い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げたことであろう。
彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できないために信仰に迷いを生じ当惑したことであろう。また時には援助が授けられたことであろう。がそれは歴然とした形で行われたであろうから、理解するに努力は要らず、従って進歩も必要としなかったことであろう。
この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿は見えず声も聞こえないからといって、それだけで貴殿が距離的に吾々から遠く離れているわけでもなく、また吾々が貴殿から遠くに居るわけでもないことを示すためであった。
吾々が語り貴殿が聞く。しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見える。が、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何一つ案ずるには及ばない。
吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以後も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持を持ち続けてほしい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。♰
4 神とキリストと人間
一九一三年十一月十八日 水曜日
地上の全存在の創造が完了した時、最後に一つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。
驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上進化の道を啓示され、その道を自ら辿るに任された。一人ぼっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使していくかを見守っていたのである。
今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりも、もっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。
また吾々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見ることを許されているのである。
またその考察に当っては、地上で説かれている神学的ドグマに捉われることがないことも承知されたい。神学の世界は余りに狭隘であり、又あまりに束縛が多いために、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手足を伸ばせば、取り囲む壁に当って傷を負いかねない。
更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難が降りかかるかも知れないとの不安のために、つい躊躇してしまうのである。
よく聞くがよい。神学の教えをあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的なものを思い込む者には、衝撃があまりに大きく恐るべきものに思えるかも知れないが、吾々にとっては、道を誤らぬために神より賦与されている人間本来の意志と理性の自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見ることの方が、よほど悲劇に思えるのである。
考えてもみよ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。
自らの思考力を駆使して真摯に考え、その挙句にたまたまドグマから逸れたからといって、神がその者を無気味な笑みを浮かべて待ち受け網を持って捕らえんとしているとでも言うのであろうか。
それとも〝汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱くもない。よって汝の願いは却下する〟と述べたというのはこの神のことであろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持ちを持って存分に使えばよいのである。そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出たことである。
両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。一度や二度的を外れたとて少しも戸惑うことはない。恐れてはいけない。神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。
このことは自信を持って断言する。私はその二種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求める経緯を見て、その真実性を十分に得心しているのである。
さて、天界の大軍の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしいことがある。改めてこう申すのも、これから私が述べることの中には貴殿の思考にそぐわないものがあるかも知れないからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。
キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側にても軽々しく論じられている。と言うのも、地上にかぎらず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めねばならないという事情があるのである。
吾々には啓示の奇蹟は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制されることもない。人間と同様に吾々も導きは受けるが、あれこれと特定の信仰を押し付けられることはない。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説くことで万事終われりとする者が大勢いることになる。
この度の私の目的はそれを否定して真相を説くことではない。それを絶対のものとして説くつもりはさらにない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義付けを疎かにしてはこの種の問題が理解できないことを説きたいと思う。
ではまず第一に、一体〝神〟とは何を意味するかということである。〝父なる存在〟を想う時の、一個の場所に位置する個人、つまり人間のような一人物を意味するのであろうか。もしそうだとすれば、キリストが神でないのは明らかである。
さもないと、それは二重の人物つまり二個の人物が区別のつかない状態で一体となった存在を創造することになる。キリストが〝私と父とは一つである〟と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の二人の人物が一体となることは考えられないことであり、理性が即座に反撥する。
それともキリストは父なる人間として顕現したものという意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり私もそうである。なぜなら、神は全存在に宿り給うからである。
あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体としてそのまま宿ったということであろうか。もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じように神は完全なる形で宿っていることになる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。
しかしそれを、神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないという言い方をすれば、それは単なる一個の俗説に過ぎず、それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。
何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストが即ち神となって両者の区別がつかないことになるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。
それ故吾々が第一に理解しなければならぬことは〝父〟というのは神について吾々が考え得るかぎりの最高の要素を指すための名称に過ぎないということである。もっとも、吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。なぜなら、正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。
私には父なる神を定義することは出来ない。まだ一度もその御姿を拝したことがないからである。それより以下の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が拝したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。
ならばキリストと父との一体性の真意もまた、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考し得るかぎりのことを述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。
地上においてキリストは父なる神を身をもって証言してみせられた。つまり人間の身体によって顕現し得るかぎりの神の要素を吾々に示されたということである。それ以上のことは判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まり行くことであろう。
キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。〝人間性〟と呼ぶものと〝神性〟と呼ぶものとの融合したキリストの中に存在することによって、吾々は父なる神の中に存在する。
キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。たとえ語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。
さて以上の説を読まれて、これでは私は人間が組み上げてきた足場組を徒に取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないことになるではないかと言う者もいるであろう。が、私の目的は頭初に述べたように、建物を構築することではない。
今何よりも必要なのは確固たる基盤づくりであることを指摘することであった。脆弱な基盤の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩必ず崩壊して多くの労力が徒労に終わることは必定である。実は人間はまさにそれに等しいことをこれまで延々と続けてきたのである。
そして自らはそれに気づいていない。明確であるべき多くのことが未だに曖昧模糊としている原因がそこにある。〝よくは知らぬ、がしかし・・・〟というせりふで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。
また深遠な問題に対して即座に答える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じていることがあり、傲慢から真実は生まれず、また愛すべきものでもないからである。
貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なる生命であるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見え祝福し合う。では私から祝福を述べるとしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。 ♰
5 第十界の住居
一九一三年十一月十九日 水曜日
そういう次第であるから、私が語る言葉は多くの者にとって受け入れ難いものであろう。が、このことだけは知っておいてほしい。キリストの祭日には東からも西からも大勢の信者がキリストの神性の真相を知らぬまま参列する。が、
その人間的優しさと愛ゆえにキリストに愛を捧げる。少なくともそこまでは理解できるからである。が、その神性の本質を理解する者は一人としていない。
そこでこれより話題を変えて、まず肉体に宿る人間がキリストによって示された向上の道を歩む上において心すべきことを取り挙げてみよう。
何よりもまず人間は〝愛する〟ことが出来なければならない。これが第一に心がけるべきことであり、また最大のものである。難しいのはこれを持続することである。互いに愛し合うべきであると言えば、誰しもその通りであると言う。が、
これを行為で示す段階に至ると、悲しいかな、能書き通りには行かない。しかし、愛なくしてはこの宇宙は存在し得ず、崩壊と破滅の道を歩むであろう。宇宙が今あるべき姿に保ち続けているのは神の愛あればこそである。その愛は、求める者ならば至るところに見出すことが出来る。
物事を理解する最上の方法はその対照を求めることである。愛の対象は崩壊である。なぜなら、崩壊は愛の行使の停止から生じるからである。憎しみも愛の対象である。もっとも、本質的には対立したものではない。憎しみは往々にして愛の表現を誤ったものに過ぎないからである。
人間についていえることはそのまま教義や動機についても言える。他の主義・主張を嫌うその反動で一つの主義に傾倒するという者が数多くいるものである。
愚かしくもあり誤ってもいるが、必ずしも悪とは言えない。が、人間は他を憎む時、憎むが故に愛することが出来ないことになり、ついには何ものをも愛することが出来ないことになることを知らねばならない。
これが実はこちらの世界での面倒を増幅するタネの一つなのである。と申すのは、誰しも憎まずして全てを愛することが出来るようにならぬかぎり、愛がすなわち光を意味するこの世界においての進歩は望めず、愛することを知らぬ者は暗き世界において道を見失い、その多くが身も魂も精気を失くし、ついには真理の鑑識力までが外界と同じくもうろうとしてくるのである。
一方には一つ一つの石材までが光輝を放つ〝天界の住処〟が無数に存在し、あたり一円、はるか遠き彼方まで光を放っている。その光はそこに住む者の愛の純粋さが生み出すのである。
──そうした住居と、そこに住む人々について具体的にお教え願えませんか。その方が一般的な叙述より判り易いと思うのですが。
それは容易なことではない。その困難さはいずれこちらへ来れば判る。たとえ要求に応じても、貴殿が得るものは結果的には真実からずれる──少なくとも不適切なものになる。
そのこともいずれ理解が行くことと思う。が、たっての要求とあらば、何とか説明してみよう。何か特別に叙述して欲しいことがあれば申すがよい。
──では、あなたご自身の住まいから。
第十界においては低級界に存在しない事情、とくに地上では全く見られぬ事情がある。
たとえ貴殿をその十界まで案内したところで、貴殿の目には何も映らぬであろう。霊的状態がその界の状態にそぐわないからである。
せいぜい見えるのはモヤの如き光──それもその界のどの地域であるかによって程度が異なる。九界そして八界と下ればより多くのものが見えるであろうが、やはり全ては見られない。しかも、目に映じたものをすみずみまで理解することは出来ないであろう。
かりに一匹の魚を盛ったガラスの器に入れて街中を案内したとしよう。その魚には、まず第一にどれだけのものが見え、第二にそれがどれだけ理解できるであろうか。
思うに、魚にはその住処──水つまり魚本来の環境からせいぜい二、三インチ先しか見えないであろう。貴殿の顔を魚に見える位置に持って行き、次に手を見せてやるがよい。魚にはその二つの物がどう映るであろうか。
人間が吾らの界へ来た時もそれと同じである。内在する霊的能力を活性化し、楽に使用できるようになるには、ただ〝鍛錬〟あるのみである。さて、話をさらに進めて、たとえばその魚にウエストミンスター寺院を説明するとなったらどうするか。
村の教会でもよい。それを魚の言語で説明しなければならない。その話を聞いた魚が貴殿の言うことが不合理であると言ったところで、それは魚の能力の限界のために貴殿の思うに任せぬからに過ぎない。
もし村の教会やウエストミンスター寺院のようなものがあるわけがないと魚が言ったところで、それは貴殿の説明がまずいのではなく、魚の方の理解力に原因があることをどうすれば納得させることが出来るであろうか。
が、たつての要望であれば、これより私の住居、私の寛ぎの場について出来るだけの説明を試みてみよう。が、終わってみれば多分貴殿はもっと何とかならなかったものかと思うであろうし、いっそのこと何も語らずにいた方が良かったということになるかも知れない。
吾らが住居を建立している国は数多くの区域にまたがっており、それぞれの区域からはその特質を示す無数の色彩が発散され、それが私と共に住む者たちの霊性とほぼ完全に一致している。
それらの色彩のほとんどは貴殿の知らぬものばかりであるが、地上の色彩も全て含まれており、それが無限と言えるほどの組み合わせと色調を持っている。吾らが携わるその時その時の仕事によって調和の仕方が異なり、それが大気に反映する。
また吾らの界へ届けられるさまざまな思念と願望に対してもその住居が反応を示す。それには下層界からの祈りの念もあれば上層界からの援助の念もあり、その最下層に地上界が存在する。
音楽も放送される。必ずしも口を使うとは限らない。大ていは心から直接的に放送し、それが近隣の家々に反響する。これも吾らによる活性化の一端である。
周囲の樹木、花等の全ての植物もその影響を受け、反応を示す。かくて色彩と音楽という本来生命のない存在が吾らの生命力を受けて意識に反響することになる。
家屋の形は四角である。が、壁は四つだけではなく、また壁と壁とが向き合っているのでもない。全てが融合し、また内と外とが壁を通して混ざり合っている。
壁は保護のためにあるのではなく、他に数々の目的がある。その一つはバイブレーションの統一のため、つまり吾等の援助を必要とし又その要請のあった地域へ意念を集中する時に役立てる。
かくて吾々は地上からの祈りにも応えて意念を地上へ送り、他のもろもろの手段を講じて援助を授けることになる。
同じく上層界からの意念が吾々の界へ届けられ、それが吾々の家屋を始めとして他に用意した幾つかの作用によって吾々の感覚に反応するものに変えられ、それを手段として高級神霊との連絡を取り、吾々を悩ませる問題についての指導を受けることもある。
更には、反対に下層界から使命を帯びて吾々の界へ訪れる者にこの界の環境条件に慣れさせ、滞在中の難儀を軽減するために霊力を特別に授ける時にも、この家屋を使用する。
また吾々と話を交わし、吾々の姿を見せ、声を聞くことが出来るようにしてあげるのにも、その家屋に具わっている作用が活用される。それなくしては彼らは使命が全う出来ないのである。
私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の一住民による叙述によって紹介しよう。彼は私の家を見た時に〝隠し得ぬ光に包まれし丘上の都〟(マタイ5・14)という言葉を思い出したという。
見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止まり地面へ降下した。(そこまで空中を飛行していたのである)そこで暫し彼は眼を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。
例の塔(第一巻参照)も見えたが、その青い光があまりに強烈で、どこまで光輝が届いているか見分けがつかなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。それから例のドームも──赤色のもあれば黄金色のもある──その光輝が余りに眩しく、どこで終わっているのか、その全体の規模を見ることが出来なかった。
門も外壁も同じく銀色、青、赤、すみれ色に映え、眩いばかりの光で丘全体と周囲の森を覆いつくし、それを見た彼は、そこへいかにして入りそして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとのことであった。
が、吾らはすでにその者の姿が見えていた。そこで使いの者を派遣して然るべき処置を施させたのであった。無事使命を終えて吾らに別れの挨拶をしに見えたとき彼はこう述べた。
「今お別れするに当たって私の心に一つの考えがつきまとっています。それは、私が戻れば仲間の者から私が訪れた都はいかなるところであったかと聞かれることでしょうが、一たん自分の本来の界層に帰り、再び元の限りある能力での生活に戻ったとき、この光栄をどう語れば良かろうかということでございます。」
私は答えた。「これ以降、あなたは二度と曽てのあなたに戻ることはないでしょう。何となればあなたの中にこの界の光と感受性とが幾らかでも残るはずだからです。あなたの記憶に残るものは仲間に告げうるものより遥かに大きいことでしょう。
なぜなら、たとえ告げても理解してもらえないでしょうし、告げようとすればこの界の言語を使用せざるを得ないからです。
それ故あなたは彼らにこう告げられるがよろしい──より一層の向上に鋭意努力することです。そうすれば自ら訪れて、語ってもらえないものを自ら見ることが出来るでしょう、と。」
聞き終わると、彼は大いなる喜びのうちにこの界をあとにした。同じことがいずれ貴殿の身の上にも訪れる日が来るであろう。彼に告げた最後の言葉をここで貴殿にも与えることにしよう。 ♰
三章 天上的なるものと地上的なるもの
1 古代の科学と近代の科学
一九一三年十一月二一日 金曜日
読むのが速い者が必ずしも正しく読み取っているとは限らない。そういう者は、見た目に重要に思えない事柄は落ち着いてじっくり考える余裕をもたないものだからである。
表面的なこと以外は目に止まらないのである。であるから、通信が判り易く書かれていると、大部分が軽く読み流されてしまい、そのメッセージの重要性が目に止まらないことになる。
このことは人間が自然と呼んでいるもの、つまり霊力が物質を通して活動しているその表面的な現象に書かれている教訓についても言える。また人間なり民族なりがその本来の性格を基盤として繰り拡げる運命の働きについても同じことが言える。
更にこのことは、程度こそ異なるが、いわゆる科学の発見においても言えることである。ではこれより、この発見の問題を取り上げ、ざっと目を通すだけで深く読もうとしない大方の人間よりも深く踏み込もうとする人間に対して深く暗示されているものを観てみよう。
歴史と同じく科学もまた繰り返す。が決して全く同じことを繰り返すわけではない。知識の探求にも常に大よその原理というものが支配しており、その原理が一定の役割を果たすと、他の原理にその場を譲って裏側へまわり、新たな原理が人類の注目を世界中で集中的に受けることになる。
が、時の経過とともにいつしか前の原理が再び表に出て来て──順序は定まっていないが──新しく人類の注目を集める。かくして人類進化の行進が続けられる。
発見そのものの種類も又、失われては新たに発見されることを繰り返す。まったく同じものではない。外観が変わり、新たな特徴が加わり、同時に古い特徴が失われている、ということがしばしば見られる。
以上述べたことを更に判り易くするために、例を挙げて細かく説明しよう。曽ては科学そのものが今日の科学とは異なる意味をもった時代がある。つまり科学にも心があり、物質的現象は二次的な意味しか持たなかった。
錬金術がそうであり、星学がそうであり、工学ですらそうであった。当時すでに地上世界が霊的世界によって支配され、無数の霊団が自発的に──但し上層界から偉大な霊力と崇高な権威によって規制された限度内で──監督に当たっていることが知られていた。
そして当時の人間はそうした霊的支配者の程度や階級、及び自然界と人間界の各部門における彼らの役割、更には各階級から行使される霊力の量まで知ろうとする研究が行われていたのである。
事実、彼らはおびただし数の事実を発見し、分類した。ただ、そうした事実や法則、規制、条件等が地上的なものでなく霊的なものであったがために、彼らは己むなくそれを通常の言語とは別の形で表現した。
これが関心の異なる別の世代が台頭してくると、先祖が伝承話の形に込めた知識の何たるかを考慮することなく、これは単なる譬え話であり象徴的なものに過ぎないと断定してしまう。そう断定することで裏に秘められた事実が輪郭を失い。やがて真実味まで失って行く。
さまざまな民族における霊力の研究成果がそうした経過を辿り、これがヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語を生み出すことになった。それらは、まぎれもなく古代の科学が或るものを付加され、あるものを抜き取られ、さまざまに歪められながら生き残れる姿なのである。
が、そうした物語を今述べたことに照らし、その本質と近代に至ってからの潤色とを選り分けて読めば、その底に、あたかも幾世紀ものあいだ土砂に埋もれたエジプトの古代都市の如く、太古の科学すなわち霊的観点より考究した知識を見出すことが出来る。 ♰
──何か顕著な例を挙げていただけませんか。
「ジャックと豆の木」という物語がある。まず名前を見るがよい。ジャックはJohnの愛称であり、このジョンを最初に用いたのは例の「黙示録」の著者(ヨハネ、英語読みでジョン──訳者)である。
豆の木は「ヤコブのはしご」(創成記)すなわち霊界の上層界へ辿り着くための階段の翻案である。物語の意味は、天界に辿り着けばそこは現実の国であり、さまざまな地域があり、自然の風景があり、家々があり、素晴らしい知識がある。
天使はその全てを人間に授けるつもりはないのであるが、時に大胆で能力のある人間が侵入して地上へ持ち帰ることがある。
天使はそれを取り返そうとし、人間がそれ以上に大胆になることによって獲得する所有権を奪おうとするのであるが、人間は生来の機智を弄してそれを妨げることが出来るというのである。
さて、これはなかなか面白い話ではある。が、その深い意味を理解せぬ者によって幾世紀も語り継がれて来たために、話の筋が奇妙で滑稽にさえなっている。たとえば、もしも真の意味が理解されておればジャックという軽々しい愛称は用いられなかったであろう。
があのジャックのお馴染みの衣装を見れば分る通り、ジャックという俗称に変わったのは神聖なものや霊的なものが軽視された時代のことである。当時は霊的存在を理解することが出来なかったのである。
悪魔に衣服を着せ、刃物のような耳やしっぽを付けたりしたのも同じ理由からである。すなわちそうしたものは当時ではあくまで神話の世界だけの存在だったのである。従って悪魔の性格も神話的な架空のものに過ぎなかった。
この物語は数多く存在する物語の一つに過ぎない。「パンチとジュディ」という物語も救い難き極悪人としてピラトとイスカリオテ(ユダ)を風刺したものである(*)がこの宗教的にして且つ恐ろしき事実を扱うその手法にも、当時の時代的軽薄さが歴然としている。
(*「パンチとジュディ」はパンチという名のせむし男が子供を絞殺したり妻のジュディをいじめ殺したりする古い英国の人形芝居であるが、これはイエスの処刑を命じた残虐非道のローマ総督と、イエスを裏切ったユダを風刺したものとされる。──訳者)
まさに軽薄であり、これまで常にそうであった。が、今の時代に至って霊的なるものがようやく人間世界に戻り、その位置を見出しつつある。
必ずしも正当な位置を得ているとは言えないが、少なくとも過去幾世紀かにおける扱われ方に較べれば、より大きな考慮を払われていると言えよう。
かくして外面的には様相を変えてはいるものの、内面的にはかのエジプトの星学を支配した一般的原理、並びにモーゼが学びそして活用した叡智に類似したものが今日再び人間界に戻りつつある。
それが人間の意識を高め、生命力の産物──貝殻、石、化石──をいじくりながらその生命力の根源の存在を認めようとせぬ過去の唯物思想に存在意識を賦与しつつある。
曽ての唯物科学は大自然の法則の秩序ある働きを説いた──にも拘らず、その秩序と働きの背後の唯一絶対の霊的始源の存在を否定した。
大自然の美を謳った──なのに、その美も人間に〝霊〟が宿ればこそ感識し得るものであること、そしてその霊も永遠なる神の生命が存在すればこそ存在を得ていることを忘れていた。
吾らは常に人間界を見守っている。そして許されるかぎり、好機の与えられるかぎりにおいて導いている。もし人間が吾らの働きかけに忠実に応えてくれれば、今まさに過ぎ去りつつある時代よりも更に多くの光と愛と生命の美に溢れる時代が到来する。
吾々は人間はきっと応えてくれるものと確信する。何となれば、新しきものは古きものに勝るのが必定であり、更に、吾らが地上へ向けて働きかける時、背後にさらに高い世界から叡智と霊力とが澎湃として迫りくるものを感ずるのである。
そして吾らは、これぞ上層界の意図であり要望であると確信するものを実行に移す。
吾々とて、あまりに遠き未来まで 覗き見ることは出来ない。それにはそれなりの特殊な部門があり、それは現在の吾々の霊団の任務には組み入れられていない。が、
吾らはその努力が多くの人間に首尾よく反応を示してくれることに喜びを感じ、時の経過と共により多くの機会を得て、人間にとって吾らがいかに身近な存在であるか、又、人間が常に謙虚にして冷静さを保ち、最高の模範としてキリストを目指し、吾らの教説の中にたとえ走り読みにせよ見出せるであろう聖なる美を体現すべく努力をしておれば、いかに大きな仕事を成就する潜在力を秘めているかを示すことが出来る──そう期待しているのである。
それというのも、キリストの霊的生命は、それをひと目見れば、美とは何かを知る者は恍惚の境へと誘われるほどのものだからである。
キリストの名において吾らは愛し、キリストに向けて吾らは崇拝の念を捧げる。常にキリストの安らぎのあらんことを。アーメン。 ♰
2 守護霊と人間
一九一三年十一月二四日 月曜日
更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合がよい。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。
距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。
吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。
こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。
それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。
更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。
これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。
されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。
それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。
この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも答えておこう。その行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。
何となれば、その行きつくところが神の御胸であることに疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22。計り知れない勢いの意──訳者)
故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐す吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。
では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。
その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い───ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。
人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。
すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。
つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。
そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。
暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、
尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。
それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。
ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しない限り再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。
が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じてない。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈入れを司る因果律によって定められるのである。
吾々の界──驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。
全ての摂理が〝愛〟に発するものであることは、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。曽てはただ信ずるのみであったことを今は心行くまで得心することが出来ることも、憚ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。
が、吾々はそれが少しずつ明かされていくのを待つことで満足している。それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。
それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。
そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。
吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信を持って言える。そして私もその救済に当たる神の使者の一人なのである。
私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。
と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。
そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことでああった。
それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。
神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。 ♰
3 種の起源
一九一三年十一月二五日 火曜日
人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解することが出来るであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探り、それを真実であると得心しうる者は多くは見当たらない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までもそうであろう。
それは事実であるが、更にその先へ目をやれば、吾々の目には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。
その時代においては吾々と人間とがいかに身近な関係にあるかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心することであろう。
差し当たっては、警戒と期待のうちに吾々の力の及ぶかぎりの努力をし、たとえ吾々の望み通りの協調関係が得られず、無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩と理想の関係に近づきつつあり、万事が佳きに計られているとの確信を抱くのである。
さて現在の貴殿との仕事のことであるが、吾々としては成るべくならば物事が活撥に進行しているこの〝昼〟の時代に多いに進行させたい。何となれば〝夜〟 の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日はもはや今日とは異なる。
いろいろと可能性を秘めてはいても今と同じほどのことが出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来るかぎりのことをしようではないか。そうすれば吾々二人により広き界層が開かれた暁に、更に良い仕事が為し得ることになろう。
人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌を一にするものではない。何となれば吾らは霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮しはじめたばかりである。
吾々は互いにようやく近づきつつあるわけである。と言うよりは、地上の現象の意味を探る者の中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。
このことを吾々は有難きことと思う。そしてそのことがこれまでの道を更に自信を持って歩ませてくれる。吾々は人間がきっと付いてきてくれるとの確信を持っており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。
さて私はこれより、人間が〝種の起源〟と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が、結論から申せば、動物的生命の創造の起源は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。
こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたということである。
その時点においては未だ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させていくことに決定が下された。
そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということではなかったのである。
ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させていく自由を保証されたということである。
かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風に言えば神がそれを〝なかなか結構である〟と仰せられたのである。
が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸の仕事はあまりに大きく、あまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。
それが単純な知能、特に人間の如き低い階層の知能には事さらに莫大にそして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることが出来ず、むしろ邪悪の方が目に止まりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を掴みかねるのである。
が、人間が次のことを念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこういうことである。海は海洋動物だけのために造られたのではない。空は鳥たちだけのために造られたのではない。
それと同じで、宇宙は人間だけのために創造されたのではないということである。人間は海にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。それは一向に構わない。
魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他共に認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置付けたのである。
が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発達のために下等動物や植物を利用する如く、さらに偉大なる存在が人間を使用する。
これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその配下のもろもろの神霊も所詮は絶対神の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。
その修養の手段と中身は、人間との霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性において自ずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。
人間はその点をよく銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意志という生得の権利の有難さを一層深く理解することであろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪うことは出来ない。かりに出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。
なぜなら、自由意志を持たぬ人間では質的に下等な存在に成り下がり、向上進化の可能性を失うことになるからである。
さて、こうした教説を読んで、これでは人間は上級界の神霊が己れの利益のために使う道具に過ぎないのではないかと思う者もいるであろう。が、その考えは誤りである。その理由は今述べたことにある。
すなわち人間は自由意志を持つ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬということである。
それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が〝愛〟であるということもその理由である。彼らを血も涙もなき暴君と思ってはならない。
威力というものを圧力と並べて考えるのは地上での話である。天界に在っては威力は愛の推進力のことであり、威力ある者はその生み出す愛も強力となるのである。
更に申せば、悪との戦いの熾烈にして深刻な者には、その試練を経た暁に栄光と高き地位とが約束されていることを教えてやるがよい。
何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列を許され、造化の仕事の一翼を担い、開闢頭初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証しが秘められているからである。
その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組むことであろう。何となれば、その者は次のことくらいは理解するであろうからである。
すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっているということである。そうと知ればさぞ心躍ることであろうし、意を強くすることであろう。
更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾らの仕事がすなわちその者の仕事であることを知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命、全存在の向上へ向けて奮闘していることを知れば、イザという時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心を持って援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応ずる用意があることに理解がいくことであろう。
吾々はそういう人間──悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志──を援助することに最大の喜びを覚えるからである。
この真理の大道を惜しくも踏み外せる者たちのその後の見るも哀れな苦しみは、吾々が貴殿より多く見ている。が、吾らは絶望はしない。この仕事の意義と目的とが貴殿たちより鮮明に見えるからである。
その視野から眺めるに、人間も何時の日かそれぞれの時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続けることであろう。
その時はその者たちも修身の道具として今吾々が使用している人材──その者たちが今その立場にあるのだが──を使用することになるであろう。その時は他の人間が現在のその者たちの立場にあり、その者たちが指導霊の立場にまわることであろう。
キリストはかく述べている──〝悪に勝てる者はわが座位に列することを許さん。わが勝利の時、父と共にその座位に列したる如くに〟(黙示録3)と。心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。
以上である。この度はこれにて終わりとする。が、これはこの程度のメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取り上げるとしよう。
では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出ることであろう。吾々の界においては最も強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。
このことを篤と銘記されたい、そうすれば人間を惑わす数々の問題が自ずと解けることであろう。躓くことのなきよう、神の御光が常に貴殿の足元を照らし給わんことを祈る。 ♰
四章 天界の〝控えの間〟──地上界
1 インスピレーション
一九一三年十一月二六日 水曜日
語りたいことは数多くある。霊界の組織、霊力の働き──それが最上界より発し吾々の界層を通過して地球へ至るまでに及ぼす影響と効果、等々。その中には人間に理解できないものがある。また、たとえ理解はできても信じてもらえそうにないものもある。
それ故私は、その中でも比較的単純な原理と作用に限定しようと思う。その一つがいわゆるインスピレーションの問題である。それが吾々と人間との間でどのように作用しているかを述べよう。
ところで、このインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、解釈を誤ると逆に実に誤解を招き易い用語でもある。たとえば、それは吾々が神の真理を人間の心に吹き込むことであると言っても決して間違ってはいない。が、
それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。それ以外のもの──向上する力、神の意志を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就の為の叡智(愛と渾然一体となった知識)等々をも吹き込んでいるからである。
故に人間がインスピレーションを受けたと言う場合、それは一つの種類に限られたことではなく、また例外的なものでもない。
いかに生きるべきかを考えつつ生きている者──まったく考えぬ者はまずいないであろうが──は何らかの形で吾々のインスピレーションを受け援助を得ているのである。
が、その方法を呼吸運動に譬えるのは必ずしも正しいとは言えない。それを主観的に解釈すればまだしもよい。人間が吸い込むのは吾々が送り届けるエネルギーの波動だからである。
人間は山頂において深呼吸し新鮮なる空気を胸いっぱいに吸い込み爽快感を味わうが、吾々が送り届けるエネルギーの波動も同時に吸い込んでいるのである。
が、これを新しい神の真理を典雅なる言葉で世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す特殊な人々のみに限られたことと思ってはならない。
病いを得た吾が子を介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他にもろもろの人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によって吾々がその考えを変え、あるいは補足している。
たとえ当人は気づかなくてもよい。大体において気づいていない。が、吾々は出来る範囲のことをしてそれで満足である。邪魔が入らぬ限りそれが可能なのである。
その邪魔にも数多くある。頑な心の持ち主には無理して助言を押し付けようとはしない。その者にも自由意志があるからである。また、われわれの援助が必要とみた時でも、そこに悪の勢力の障害が入り込み、吾々も手出しが出来ないことがある。
悪に陥れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。
それぞれの人間が、老若男女を問わず、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えばよい。
当人が、吾々霊魂がこの地上に存在していること、つまり目に見えぬ未知の世界からの影響を受けているという事実をあざ笑ったとしても、善意と正しい動機にもとづいて行動しておれば、それは一向に構わぬことである。それが完全な障害となる気遣いは無用である。
吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう──いずれ遠からぬ日に。ただ単に、その時点においては吾々の意図を理解するほどに鋭敏で無かったということに過ぎない。
人間が吾々の働きかけの意図を理解せず、結果的に吾々が誤解されることは良くあることである。
水車は車軸に油が適度に差されているときは楽に回転する。これが錆びつけば水圧を増さねばならず、車輪と車軸との摩擦が大きくなり、動きも重い。
又、船員は新たに船長として迎えた人が全く知らない人間であっても、その指示には一応忠実に従うであろうが、よく知り尽くした船長であれば、例え嵐の夜であっても命令の意味をいち速く理解してテキパキと動くであろう。
互いに心を知り尽くしている故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、吾々の存在をより自然に、そしてより身近に自覚してくれている者の方が、吾々の意図をより正しく把握してくれるものである。
それ故ひと口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身はさまざまである。古い時代の予言者は──今日でもそうであるが──その霊覚の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。
いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。また直感的印象で受けた者もいる。
吾々がそうした方法及び他の諸々の方法によって予言者にインスピレーションを送るその目的はただ一つ──人間の歩むべき道、神の御心に叶った道を歩むための心がけを、高い界にいる吾々が理解し得たかぎりにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。
もとより吾々の教えも最高ではなく、また絶対に誤りが無いとも言えない。が、少なくとも真剣に、そして祈りの気持ちと大いなる愛念を持って求める者を迷わせるようなことには絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。
そしてそれを吾ら神の使途は大いなる喜びとして受け止めるのである。
またそれを求めて遠くまで出向くことも不要である。なぜなら地上がすでに悪より善の勢力の方が優勢だからである。そしてその善と悪の程度次第で大いに援助できることもあれば、行使能力が制限されることもある。
故に人間は、各自、次の二つのことを心しなければならない。一つは、天界にて神に仕える者の如くに地上に在りても常に魂の光を灯し続けることである。吾々が人間界と関わるのは神の意志を成就するためであり、そのために吾々が携えて来るのは他ならぬ神の御力だからである。
人間の祈りに対する回答は吾ら使徒に割り当てられる。つまり神の答えを吾々が届けるのである。故に吾々の訪れには常に油断なく注意しなければならない。
実は吾々は、かのイエスが荒野における誘惑と闘った時、またゲッセマネにおける最大の苦境にあった時に援助に赴いた霊団に属していたのである。(もっともあの時直接イエスと通じ合った天使は私よりは遥かに霊格の高きお方であるが。)
もう一つ心しなければならないことは、常に〝動機〟を崇高に保ち、自分のためでなく他人の幸せを求めることである。吾々にとっても、己れ自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩が最も援助しやすいものである。吾々は施すことによって授かる。
人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外というものは無いのである。
イエスの言葉を思い出すがよい。「私はこの命を捨てるに吝かではない。が私はそれを私の子羊のために捨てるのである」と述べ、その言葉どおりに、そして、いささかの迷いもなく、潔く生命を捨てられた。が、捨てると同時に更に栄光ある生命を持って蘇られた。
ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。貴殿も〝我〟を捨てることである。そうすれば、施すことの中にも授かることの中にも喜びを味わうことであろう。
これを完全に遂行することは確かに至難のわざである。が、それが本来の正しい道であり、ぜひ歩まねばならぬ道なのである。それを主イエスが身を持って示されたのである。
花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐまた補充し、そうした営みの中で日々成熟へと近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻って来る。
かくして二人の人間はどちらかが親切の口火を切ることによって互いが幸せとなる。又、優しき言葉はやがて優しき行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛と共に喜びと安らぎとが訪れる。
また施すことに喜びを感じる者、その喜び故に施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者が(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。♰
2 一夫婦の死後の再会の情景
一九一三年十一月二七日 火曜日
前回述べたことに更に付け加えれば、地上の人間は日々生活を送っているその身のまわりに莫大な影響力が澎湃として存在することに殆ど気づいていない。
すぐ身の回りに犇めく現実の存在であり、人間が意識するとせぬとに拘らず生活の中に入り込んでいる。しかもその全てが必ずしも善なるものではなく、中には邪悪なるものもあれば中間的なもの、すなわち善でもなければ悪でもない類のものもある。
よって私がエネルギーだの影響力だのと述べる時、必然的にそこにはそれを使用する個性的存在を想定してもらわねばならない。
人間は孤独な存在ではなく、孤独では有り得ず、また単独にて行動することも出来ず、常に何らかの目に見えない存在と共に行動し、意識し、工夫していることになる。その目に見えぬ相手がいかなる性質のものとなるかは、意識するとせぬとに拘らず当人自身が選択しているのである。
この事実に鑑みれば、当然人間はすべからくその選択に慎重であらねばならないことになるが、それを保証するのは〝祈り〟と〝正しい生き方〟である。崇敬と畏怖の念を持って神を想い、敬意の念を持って同胞を思いやることである。
そして何を行うにも常に守護・指導に当たる霊が自分の心の動き一つ一つを見守り注視していること、今の自分、およびこれより変わり行く自分がそのまま死後の自分であること、その時は今の自分にとって物的であり絶対であり真実と思えることももはや別世界の話となり、地球が縁なき存在となり、地上で送った人生も遠い昔の旅の思い出となり、
金も家財道具も庭の銘木も、その他今の自分には掛けがえのない財産と思えるものの一切が自分のもので無くなることを心して生活することである。
こちらへ来れば地上という学校での成績も宝も知人もその時点で縁が切れ、永遠に過去のものとなることを知るであろう。
その時は悲しみと後悔の念に襲われるであろうが、一方においては言葉に尽せぬよろこびと光と美と愛に包まれ、その全てが自分の思うがままとなり、先に他界した縁故者がようこそとばかりに歓迎し、霊界の観光へ案内してくれることであろう。
では、窓一つない狭き牢獄のような人生観を持って生涯を送った者には死後いかなる運命が待ち受けていると思われるか。そういう者の面倒を私は数多くみてきたが、彼らは地上で形づくられた通りの心を持って行動する。
すなわちその大半が自分の誤りを認めようとしないものである。そういう者ほど地上で形成し地上生活には都合の良かった人生観がそう大きく誤っているはずはないと固く信じ切っている。
この類の者はその委縮した霊的視野に光が射すに至るまでには数多くの苦難を体験しなければならない。
これに対し、この世的財産に目もくれず、自重自戒の人生を送った者は、こちらへ来て抱え切れぬほどの霊的財宝を授かり、更には歓迎とよろこびの笑顔を持って入れ替わり立ち替わり訪れてくれる縁故者などの霊は、一人一人確かめる暇もないほどであろう。
そしてそこから真の実在の生活が始まり、地上より遥かに祝福多き世界であることを悟るのである。
では以上の話を証明する実際の光景を紹介してみよう。
緑と黄金色に輝き、色とりどりの花の香りが心地よく漂う丘の中腹に、初期の英国に見るような多くの小塔とガラス窓を持った切妻の館がある。それを囲む樹木も芝生も、また麓の湖も、色とりどりの小鳥が飛び交い、さながら生を愉しんでいる如く見える。地上の景色ではない。
これもベールの彼方の情景である。こちらにも地上さながらの情景が存在することは今さら述べるまでもあるまい。ベールの彼方には地上の善なるもの美なるものが、その善と美とを倍加されて存在する。
この事実は地上の人間にとって一つの驚異であるらしいが、人間がそれを疑うことこそ吾々にとりて驚異なのである。
さて、その館の櫓の上に一人の貴婦人が立っている。身にまとえる衣服がその婦人の霊格を示す色彩に輝いているが、その色彩が地上に見当たらぬ故に何色とも言うことが出来ない。黄金の深紅色とでも言えようか。が、これでも殆んど伝わらないのではないかと思われる。
さて婦人は先ほどから湖の水平線の彼方に目をやっている。そこに見える低い丘は水平線の彼方から来る光に美しく照り映えている。婦人は見るからにお美しい方である。姿は地上のいかなる婦人にも増して美しく整い、その容貌はさらにさらに美しい。
目は見るもあざやかなスミレ色の光輝を発し、額に光る銀の星は心の変化に応じてさまざまな色調を呈している。その星は婦人の霊格を表象する宝石である。言わば婦人の霊的美の泉であり、その輝き一つが表情に和みと喜びを増す。
この方は数知れぬ乙女の住むその館の女王なのである。乙女たちはこの婦人の意志の行使者であり、婦人の命に従って引きも切らず動き回っている。それほどこの館は広いのである。
実はこの婦人は先ほどから何者かを待ちこがれている。そのことは婦人の表情を一見すれば直ちに察しがつく。
やがてその麗しい目からスミレ色の光輝が発し、それと同時に口元から何やら伝言が発せられた。そのことは、婦人の口のすぐ下から青とピンクと深紅色の光が放射されたことで判った。その光は、人間には行方を追うことさえ出来まいと思われるほど素早かった。
すると間もなく地平線の右手に見える樹木の間をぬって、一隻のボートが勢いよくこちらへ向けて進んで来るのが見えてきた。オールが盛んに水しぶきを立てている。
金箔を着せた船首が散らす水しぶきはガラス玉のような輝きを見せながら、あるいはエメラルド、あるいはルビーとなって水面へ落ちて行く。やがてボートは船着き場に着いた。着くと同時に眩ゆいばかりに着飾った一団が大理石で出来た上り段に降り立った。
その上り段は緑の芝生へ通じている。一団は足取りも軽やかに上って来たが、中にただ一人、ゆっくりとした歩調の男が居る。その表情は喜びに溢れてはいるが、その目はまだ辺りを柔らかく包む神々しい光に十分慣れていないようである。
その時、館の女王が大玄関より姿を見せ一団へ向かって歩を進めた、女王は程近く接近すると歩を止め、その男に懐かしげな眼差しを向けられた。男の目がたちまち困惑と焦燥の色に一変した。すると女王が親しみを込めた口調でこう挨拶された。
「ようこそジェームス様。ようやくあなた様もお出でになられましたね。ようこそ。ほんとにようこそ。」
が、彼はなおも当惑していた。確かに妻の声である。が昔とだいぶ違う。それに、妻は確か死んだ時は病弱な白髪の老婆だったはずだ。それがどうしたことだ。いま目の前にいる妻は見るからに素敵な女性である。
若すぎもせず老いすぎもせず、優雅さと美しさに溢れているではないか。
すると女王が言葉を継いだ。「あれよりこの方、私は蔭よりあなた様の身をお護りし、片時とて離れたことがございませんでした。たったお一人の生活でさぞお淋しかったことでしょう。が、それもはや過去のこと。
かくお会いした上は孤独とは永遠に別れを告げられたのでございます。ここは永遠に年を取ることのない神の常夏の国。息子たちやネリーも地上の仕事が終わればいずれこちらへ参ることでしょう。」
女王はそう語ることによって自分が曽ての妻であることを明かさんと努力した。そしてその願いはついに叶えられた。彼はその麗わしくも神々しい女王こそまさしく吾が妻、吾が愛しき人であることを判然と自覚し、そう自覚すると同時に感激に耐えかねて、どっと泣きくずれたのである。
再び蘇った愛はそれまでの畏敬の念を圧倒し、左手で両目を押さえ、時折垣間見つつ、一歩二歩と神々しき女王に近づいた。
それを見た女王は喜びに顔をほころばせ、急いで歩み寄り、片腕を彼の肩に掛け、もう一方の手で彼の手を握りしめて厳かな足取りで彼と共に石段を登り、その夫のために用意していた館の中へ入って行ったのであった。
さよう、その館こそ実に二人が地上で愛の巣を営み、妻の死後その妻を弔いつつ彼が一人さびしく暮らしたドーセット(英国南部の州)の家の再現なのである。
私はその家族的情景を、天界なるものが感傷的空想の世界ではなく、生き生きとして実感あふれる実存の世界であることを知ってもらうために綴ったのである。
家、友、牧場──天界には人間の親しんだ美しいものが全て存在する。否、こちらへ来てこそ、地臭を捨てた崇高なる美を発揮する。
この夫婦は素朴にして神への畏敬の念の中に、貧しき者にも富める者にも等しく交わる良き人生を送った。こうした人々は必ずや天界にてその真実の報酬を授かる。その酬いはこの物語の夫婦の如く、往々にして予想もしなかったものなのである。
この再会の情景は私が実際に見たものである。実は私もその時の案内役としてその館まで彼に付き添った者の一人であった。その頃は私はまだその界の住民だったのである。
──第何界での出来ごとでしょうか。
六界である。さて、これにて終わりとしよう。私はしみじみ思う──愛に発する行為を行い、俗世での高き地位よりも神の義を求める、素朴な人間を待ち受ける栄光を少しでも知らせてあげたいものと。
そうした人間はあたかも星の如くあるいは太陽の如く、辺りの者がただ側にいるだけでその光輝によって一段と愛らしさを増すことであろう。 ♰
3 〝下界〟と地縛霊
一九二三年十一月二八日 金曜日
人類の救世主、神の子イエス・キリストが〝天へ召される者は下界からも選ばれる〟と述べていることについて考察してみたい。下界に見出されるのみならず、その場において天に召されるという。
その〝下界から選ばれる者〟はいずこに住む者を言うのであろうか。これにはまずイエスが〝下界〟という用語をいかなる意味で用いているかを理解しなければならない。
この場合の下界とはベールの彼方においてとくに物質が圧倒的影響力を持つ界層のことを指し、その感覚に浸る者は、それとは対照的世界すなわち、物質は単に霊が身にまとい使用する表現形体に過ぎぬことを悟る者が住む世界とは、霊的にも身体的にも全く別の世界に生活している。
それ故、下界の者と言う時、それは霊的な意味において地上に近き界層に居る者を指す。時に地縛霊と呼ぶこともある。肉体に宿る者であろうと、すでに肉体を棄てた者であろうと、同じことである。
身は霊界にあっても魂は地球に鎖でつながれ、光明の世界へ向上して行くことが出来ず、地球の表面の薄暗き界層にたむろする者同士の間でしか意志の疎通が出来ない。完全に地球の囚われの身であり、彼らは事実上地上的環境の中に存在している。
さてイエスはその〝下界〟より〝選ばれし者〟を天界へ召されたという。その者たちの身の上は肉体をまとってはいても霊体によって天界と疎通していたことを意味する。その後の彼らの生活態度と活躍ぶりを見ればその事実に得心が行く。
悪のはびこる地上をやむを得ぬものと諦めず、悪との闘いの場として厳然と戦い、そして味方の待つ天界へ帰って行った彼ら殉教者の不屈の勇気と喜びと大胆不敵さは、その天界から得ていたのであった。そして同じことが今日の世にも言えるのである。
これとは逆に地上の多くの者が襲われる恐怖と不安の念は地縛霊の界層から伝わって来る。その恐怖と不安の念こそがそこに住む者たちの宿業なのである。肉体はすでに無く、さりとて霊的環境を悟るほどの霊覚も芽生えていない。が、
それでも彼らはその界での体験を経て、やがては思考と生活様式の向上により、それに相応しい霊性を身につけて行く。
かくて人間は〝身は地上に在っても霊的にはこの世の者とは違うことが有り得る〟という言い方は事実上正しいのである。
これら二種類の人間は、こちらへ来ればそれ相応の境涯に落着くのであるが、いずれの場合も自分の身の上については理性的判断による知識はなく、無意識であったために、置かれた環境の意外性に驚く者が多い。
このことを今少し明確にするために私自身の知識と体験の中から具体例を紹介してみよう。
曽て私は特別の取り扱いを必要とする男性を迎えに派遣されたことがある。特別というのは、その男は死後の世界について独断的な概念を有し、それに備えた正しく且つ適切な心掛けはかくあるべしとの思想を勝手に抱いていたからである。
地球圏より二人の霊に付き添われて来たのを私がこんもりとした林の中で出迎えた。二人に挟まれた格好で歩いて来たが、私の姿を見て目が眩んだのか、見分けのつかないものを前にしたような当惑した態度を見せた。
私は二人の付き添いの霊に男を一人にするようにとの合図を送ると、二人は少し後方へ下がった。男は始めのうち私の姿がよく見えぬようであった。そこで、こちらから意念を集中すると、ようやく食い入るように私を見つめた。
そこでこう尋ねてみた。「何か探しものをしておられるようだが、この私が力になってさしあげよう。その前に、この土地へお出でになられてどれほどになられるであろうか。それをまずお聞かせ願いたい。」
「それがどうもよく判りません。外国へ行く準備をしていたのは確かで、アフリカへ行くつもりだったように記憶しているのですが、ここはどう考えても想像していたところではないようです。」
「それはそうかも知れない。ここはアフリカではありません。アフリカとはずいぶん遠く離れたところです。」
「では、ここは何という国でしょうか。住んでいる人間は何という民族なのでしょうか。先ほどのお二人は白人で、身なりもきちんとしておられましたが、これまで一度も見かけたことのないタイプですし、書物で読んだこともありません。」
「ほう、貴殿ほどの学問に詳しい方でもご存知ないことがありますか。が、貴殿もそうと気づかずにお読みになったことがあると思うが、ここの住民は聖人とか天使とか呼ばれている者で、私もその一人です。」
「でも・・・・・・」彼はそう言いかけて、すぐに口をつぐんだ。まだ私に対する信用がなく、余計なことを言って取り返しのつかぬことにならぬよう、私に反論するのを控えたのである。
何しろ彼にしてみればそこは全くの見知らぬ国であり、見知らぬ民族に囲まれ、一人の味方もいなかったのであるから無理もなかろう。
そこで私がこう述べた。「実は貴殿は今、曽てなかったほどの難問に遭遇しておられる。これまでの人生の旅でこれほど高くそして部厚い壁に突き当たったことはあるまいと思われます。これから私がざっくばらんにその真相を打ち明けましょう。
それを貴殿は信じて下さらぬかも知れない。しかし、それを信じ得心が行くまでは貴殿に心の平和は無く、進歩もないでしょう。
貴殿がこれより為さねばならないことは、これまでの一切の自分の説を洗いざらいひっくり返し裏返して、その上で自分が学者でも科学者でもない、知識の上では赤子に過ぎないこと、この土地について考えていたことは一顧の価値もない──つまり完全に間違っていたことを正直に認めることです。
酷なことを言うようですが、事実そうであれば致し方ないでしょう。でも私をよく見つめていただきたい。私が正直な人間で貴殿の味方だと思われますか、それともそうは見えぬであろうか。」
男はしばし真剣な面持ちで私を見つめていたが、やがてこう述べた。「あなたのおっしゃることは私にはさっぱり理解できませんし、何か心得違いをしている狂信家のように思えますが、お顔を拝見した限りでは真面目な方で私の為を思って下さっているようにお見受けします。で、私に信じて欲しいとおっしゃるのは何でしょうか。」
「〝死〟についてはもう聞かされたことでしょう。」
「さんざん!」
「今私が尋ねたような調子でであろう。なのに貴殿は何もご存知ない。知識というものはその真相を知らずしては知識とは言えますまい。」
「私に理解できることを判り易くおっしゃってください。そうすればもう少しは吞み込みがよくなると思うのですが・・・・・・」
「ではズバリ申し上げよう。貴殿はいわゆる〝死んだ人間〟の一人です。」
これを聞いて彼は思わず吹き出し、そしてこう述べた。
「一体あなたは何とおっしゃる方ですか。そして私をどうなさろうと考えておられるのでしょうか。もし私をからかっておられるだけでしたら、それはいい加減にして、どうか私を行かせてください。この近くにどこか食事と宿を取る所がありますか。少しこれから先のことを考えたいと思いますので・・・・・・」
「食事を取る必要はないでしょう。空腹は感じておられないでしょうから・・・・・・宿も必要ありません。疲労は感じておられないでしょうから・・・・・・それに夜の気配がまるでないことにお気づきでしょう。」
そう言われて彼は再び考え込み、それからこう述べた。
「あなたのおっしゃる通りです。腹が空きません。不思議です。でもその通りです。空腹を感じません。それに確かに今日という日は記録的な長い一日ですね。わけが分かりません。」
そう言って再び考え込んだ。そこで私がこう述べた。
「貴殿はいわゆる死んだ人間であり、ここは霊の国です。貴殿は既に地上を後にされた。
ここは死後の世界で、これよりこの世界で生きて行かねばならず、より多く理解して行かねばならない。まずこの事実に得心が行かなければ、これより先の援助をするわけには参りません。しばらく貴殿を一人にしておきましょう。
よく考え、私に聞きたいことがあれば、そう念じてくれるだけで馳せ参じましょう。それに貴殿をここまで案内してきた二人が何時も付き添っています。何なりと聞かれるがよろしい。答えてくれるでしょう。
ただ注意しておくが、先ほど私の言い分を笑ったような調子で二人の言うことを軽蔑し喋笑してはなりません。謙虚に、そして礼儀を失いさえしなければ二人のお伴を許しましょう。
貴殿はなかなか良いものを持っておられる。が、これまでも同じような者が多くいましたが、自尊心と分別の無さもまた度が過ぎる。それを二人へ向けて剥き出しにしてはなりませんぞ。
その点を篤と心してほしい。と言うのも、貴殿は今、光明の世界と影の世界との境界に位置しておられる。そのどちらへ行くか、その選択は貴殿の自由意志に任せられている。神のお導きを祈りましょう。それも貴殿の心掛け一つに掛かっています。」
そう述べてから二人の付き添いの者に合図を送った。すると二人が進み出て男のそばに立った。そこで三人を残して私はその場を離れたのであった。
──それからどうなりました。その男は上を選びましたか下を選びましたか。
その後彼からは何の音沙汰もなく、私も久しく彼のもとを訪れていない。根がなかなか知識欲旺盛な人間であり、二人の付き添いがあれこれ面倒を見ていた。が、
次第にあの土地の光輝と雰囲気が慣染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に優るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。
しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克った。その時点において二人の付き添いに召されて再び始めの明るい界層へと戻った。
そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静か見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。
やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。嗚咽で肩を震わせているのが判った。
私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。 ♰
4 天使の怒り
一九一三年十二月一日 月曜日
暗黒の中にあって光明を見出す者は少なく、その暗黒の何たるかを理解する者もまた多くはない。暗黒は己れの魂の状態の反映に他ならない。その中にあって真理を求める者には、吾々の界よりその者の魂の本性と能力に応じて然るべき援助を授ける。
それは今に始まったことではない。天地の創造以来ずっとそうであった。何となれば神は一つだからである。本性において一つであるのみならず、その顕現せる各界層を通じての原理においても一つなのである。
神は、現在のこの物的宇宙を創造した時、直接造化の事業に携わる神霊に、計画遂行に要する能力を授けると同時に、すでに述べたように、その能力の行使に一定範囲の自由をも授けた。が、
万物を支配する法則の一つとして、その託された能力の行使においての自由から生まれる細々(こまごま)とした変化と、一見すると異質に思える多様性の中においても、統一性というものが主導的原理として全てを律し、究極において全てがその目的に添わねばならないことになっている。
この統一性と一貫性の根本原理は造化の大業の事実上の責任者である最高界の神霊にとっての絶対的至上命令であり、絶対に疎かにされたことはない。
それは今日においても同じである。人間はその事実を忘れ、吾ら天界の者が未発達の人間世界に関与し、こうして直接交信し、教えを説き導くという事実を否定し、それに関わる者を侮辱する。
同時に又、これに携わる者が途中で躊躇し、霊と口を利くことは悪であると思い、救世主イエスの御心に背くことになると恐れることこそ吾らには驚異に思える。
実はイエスが地上へ降りたそもそもの目的も、その大原理すなわち霊的なものと物的なものとは神の一大王国の二つの側面に過ぎず両者は一体であることを示す為であったのだが・・・・・・
イエスの教えを一貫して流れるものもこの大原則であり、皮肉にも敵対者たちがイエスを磔刑に処したのもそこに理由があった。
つまり、もともと神の王国がこの地上のみに限られるものであったならば、イエスは彼らの敵対者たちの地上的野望も安逸と豪奢な生活も批難することはなかったであろう。が、イエスは、神の国は天界にあり地上はそれに至る控えの間に過ぎないことを説いた。
そうなれば当然、魂の気高さを計る尺度は天界のそれであらねばならず、俗世が求める低次元の好き勝手は通じないことになる。
しかし人間はその大真理を説くイエスを葬った。そして今日に至るも、さきに述べたように、キリスト教会と一般社会の双方の中にそれに似通った侮辱的感情を吾らは見ている。
人間が吾ら霊魂による地上との関わり合いを認識し、神の王国の一員としての存在価値を理解するに至るまでは、光明と暗黒の差の認識において大いなる進歩は望めないであろう。
地上には盲目の指導者が余りに多すぎる。彼らは傲慢なる態度で吾々の仕事と使命を軽蔑し、それが吾々の不快を誘う。現今のキリスト教の指導者たちは言う──「当時の人間がもし真実を知っていたら栄光の主イエスを葬ることはしなかったであろう」と。まさにその通りであろう。が、現実には葬ったではないか。
同じく、そのように嘆く者たちが、もしも吾々のようにこうして地上へ降りてくる者が彼らのいう天使であることを認識すれば、吾々と地上の烏合の衆より一頭地を抜く者との交霊を悪しざまに言うこともあるまいに、と思う。
しかし現実には、吾らと係わりをもつ者たちを悪しざまに言っているではないか。そして主イエス・キリストを葬った者たちと同じ趣旨の申し開きをして、己れの無知と盲目を認めようとしないではないか。
──おっしゃることはまさにその通りで、間違ってはいないと思います。ただ、おっしゃることに憤怒に似たものが感じられます。それに、イエスを葬ったユダヤ人を弁護したのはペテロであってユダヤ人自身ではなかったのではないでしょうか。
よくぞ言ってくれた。私は今たしかに怒りを込めて語っている。が、怒りも雅量のある怒り、すなわち愛に発する怒りがある。吾々が常に平然として心を動かされることがないかに思うのは誤りである。吾らとて時に怒りを覚えることがある。が、
その怒りは常に正しい。と言うよりは、そこに些かでも邪なものがあれば明晰な目を持って吾らを監視する上層界の霊によってすぐさま修正される。が、復讐だけは絶対にせぬ。
このことだけはよく憶えておいて欲しく思う。そしてまたよく理解しておいて欲しく思う。但し、公正の立場、そして又、吾々の協力者である地上の同志への愛の立場から、不当なる干渉をする者へは吾々がそれ相当の処罰を与え、義務の懲罰を課すことはある。
が、どうやら貴殿は私の述べることに賛同しかねている様子が窺える。そこで一応その気持ちを尊重し、この度はこの問題はおあずけと致そう。が、私が述べたことに些かの誤りもないし、何か訴えるものを感じる者にとっては熟考するに値する課題であることを指摘しておく。
ペテロの弁護の問題であるが、確かに弁護したのはペテロであった。が、もう一つ次のことを忘れてはならない。私はベールのこちら側より語り、それを貴殿はベール越しに地上において聞いているということである。
人間と同じく吾々の世界にも歴史の記録──ベールのこちら側の歴史──があり、それは詳細をきわめている。その記録より判断するに、彼らイエスを告発した者たちは、こちら側へ来てその迷妄を弁明せんとしたが、大して弁明にはなっていない。
光明も彼らにとっては暗黒であり、暗黒が光明に思えた。なぜなら、彼らは魂そのものが暗黒界に所属していたからである。イエスの出現を光明と受け取れなかったのも同じ理由による。
無理からぬことであった。彼らはまさに真理に対して盲目であり理解できなかったのである。
かくて死後の世界においては盲目とは外の光を遮断することによる結果ではなく、魂の内部に起因する。外的でなく内的なのであり、霊的本性を意味する。故に真理に盲目なる者はそれに相応わしい境涯へと送られる──暗闇と苦悶の境涯である。
今は光明界の強烈な活動の時代である。地上の全土へ向けて莫大なエネルギーが差し向けられている。教会も教義も、その波紋を受けないところはまずあるまい。光が闇へ向けて射し込みつつある。修養を心掛ける者にとっては大いに責任を問われる時代である。
すべからく旺盛な知識欲と勇気とを持ってその光を見つめ我がものとしなければならない。これが私からの警告であり、厳粛なる思いを込めて授けるものである。
と申すのも、私が語ることの多くは、物的脳髄を使用するより遥かに迅速に学ぶことのできる、この霊界という学校における豊富な体験を踏まえているからでる。この種の問題についての真相を人間はすべからく謙虚に求め、自ら探し出さねばならない。
真理を求めようとせぬ者に対しては、吾々は敢えて膝を屈してまで要求しようとは思わない。そのことも彼らにしかと伝えるがよい。吾々は奴隷が王子へ贈物を差し出すがごとき態度で真理を授けることはしない。
地上のいかなる金銀財宝によっても買うことのできない貴重な贈物を携えて地上へ参り、人間のすぐ近くに待機する。そして謙虚にして善なる者、心清らかな者に、イエスの説いた真理の真意を理解する能力、死後の生命の確信と喜び、地上あるいは死後の受難を恐れぬ勇気、そして天使との交わりと協調性を授ける。
本日はこれにて終りとする。これまでと比べて気の進まぬことを書かせたことについては、どうか寛恕を願いたい。こちらにそれなりの意図があってのことだからである。又の機会に、より明るいメッセージを述べることでその穴埋めをすることにしよう。
心に安らぎと喜びを授からんことを。アーメン ♰




