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四章 霊界の大都市
1 カストレル宮殿
一九一三年十月十七日 金曜日
前回のあのお気の毒な女性──今は十分祝福を受けておられますが──をお預けするホームへまだ到着しないうちから私はもう一つの使命を思い出しました。
そこから遥か東方にある都市まで行くことになっていたのです。あなたはまた〝東〟という文字を書き渋っているけど、私たちはその方角を東と呼んでいるのです。
と言いますのは、こちらへ来て初めてイエス様のお姿と十字架の像を拝見したのがその方角だったのです。その方角にある山の上空は今も明るく輝いております。私にはそれが地上の日の出を象徴しているように思えてなりません。
さて私たち五人はその山の向こう側にある都市を目指して出発いたしました。出発に先立ってよく道順をお聞きしておきました。上の方のお話ではその都市の中央には黄金色のドームを頂いた大きい建物があり、その都市の中心街はコロネード(列柱)で囲まれているとのことでした。
初めは徒歩で行きましたが、あとは空を飛んで行きました。歩くより飛ぶ方が難しいのですが、飛んだ方が速いし、それに場所を探すのには空から見た方が判りやすいということになりました。
やがてその都市の上空に来て目標のドームを見届けてから正面入り口めがけて着陸し、そこから本通りへ入りました。本通りはその都市のド真ん中を一直線に横切っており、その反対の端の裏門から出るようになっています。
その幅広い通りを境にして両側にはとても敷地の広い、宮殿のような建物がズラリと並んでおります。そこはその地域一帯を治められる高官の方が住んでおられ、そこが主都になります。
畑仕事に精を出している光景も見られます。また建物が沢山見えます。一見して住居ではなくて別の目的を持っていることが判ります。やがてコロネードで囲まれた中心街に出ました。さすがに建物も庭園もそれはそれは見事なものでした。
どの建物にも必ずその建物に相応しい色彩とデザインの庭園がついております。それらを見て歩きながら、この辺で待ち合わせて下さると聞いていた方からの合図を気にしておりました。こうした場合には連絡が先に届いて待ち受けて下さっているのです。
歩いて行くうちに、いつの間にか公園のような所に入りました。とても広い公園で、美しい樹木がほどよく繁り、ところどころに噴水池が設けてあります。それ以外は一面みどりの芝生です。
その噴水が水面に散る時の音はメロディと言えるほど快く、またそれぞれの噴水が異なったメロディを奏でており、それらが調和して公園全体を快い音楽で包んでおります。その噴水にある細工を施すと、えも言われぬ霊妙な音楽が聞けるとのことです。
その細工を施すのは度々ではないのですが、時おり行われますと、その都市に住む人はむろんのこと、ずっと郊外の丘や牧草地帯に住んでいる人までが大勢集まって来るそうです。
私達が行った時は素朴な音楽でしたが、それでもそのハーモニー、その快さは見事でした。
暫くその公園の中を散歩しました。とても心の安まる美しいところです。芝生に腰を下ろして休んでいますと、そこへ一人の男性が優しい笑みを浮かべて近づいてきました。私たちを迎えにこらえたのだということはすぐに判ったのですが、お姿を拝見して、私たちとは比較にならぬほど霊格の高い方であることが知れましたので、しばらくは言葉が出ませんでした。
──どんな方ですか。出来れば名前も教えて下さい。
そのうちお教えしましょう。焦ることが一番いけません。こちらの世界では焦らぬようにということが一ばん大切な戒めとされているほどです。焦ると、判りかけていたものまで判らなくなります。
その天使様はとても背の高い方で、地上で言えば七フィート半は十分あったでしょう。私は地上にいた時より背が高くなっていますが、その私よりはるかに高い方でした。
その時の服装は膝まで垂れ下がったクリーム色のシャツを無雑作に着ておられるだけで、腕も脚も丸出しで、足には何も履いておられませんでした。私は今、あなたの心に浮かぶ疑問にお答えしているのですよ。
帽子? いえ、無帽です。髪型ですか。ただ柔らかそうな茶色の巻き毛を真ん中で左右に分けておられるだけで、それが首の辺りまで垂れ下がっておりました。
頭には幅の広い鉢巻のような帯を締めておられましたが、その帯は金で出来ており、真ん中と両側に一つずつ宝石が付いておりました。
また胴にはピンクの金属で出来た帯を締めておられましたが、何も飾っていないまる出しの手足からも柔らかい光輝が発しておりました。これらは全部その方の霊格の高さを示しておりました。
お顔は威厳に満ちていましたが、その固い表情の中にも言うに言われぬ優しい慈悲がにじみ出ており、それを見て私たちの心に安心感と信頼心が湧いてきました。
また尊敬の念も自然に湧いてきました。やがて天使さまは私たちの波長に合わせていることがすぐに判るような、ゆるやかな口調でこう言われました。ゆるやかでも、その響きの中に心に沁みわたるものを感じ取ることが出来ました。「私の名前はカス・・・・・・」いけません。
名前は私の弱点のようでして、地上へ降りてくるとどうも名前を思い出すのが苦手です。そのうち思い出すでしょう。とにかくご自分のお名前をおっしゃってから、こんなことを言われました。
「私のことはすでにお聞きになっておられると思います。やっとお会いできましたね。では私の後に付いてきて下さい。さっそくあなた方をお呼びした目的をお話しいたしましょう。」私たちは言われるまま天使さまのあとから付いて行きましたが、その道すがら気軽に話しかけられるので、いつの間にかすっかり気安さを覚えるようになりました。
天使さまと一緒に通った道は公園を出てすぐ左手にある並木道でしたが、やがて別の公園に入りました。入ってすぐに気づいたのですが、そこは私有の公園つまり公園と言ってもよいほど広い庭園ということです。真ん中にはそれはそれは見事な御殿が建っていました。
一見ギリシャ風の寺院のような格好をしており、四方に階段が付いております。よほど偉い方が住んでおられるのだろうと想像しながら天使さまの後についてその建物のすぐそばまで近づきました。
近づいてみてその大きさに改めて驚きました。左右の幅の広さもさることながら、アーチ形の高い門、巨大な柱廊玄関、そして全体を被う大ドーム。私たち五人はただただその豪華さに見とれてしまいました。
黄金のドームを頂いた大きな建物と聞いていたのはその建物のことでした。近づいて見るとドームの色は純粋の黄金色でなく少し青味がかかっておりました。私はさっそくどんな方がお住みになっておられるのかお聞きしてみました。すると天使さまはあっさりとこう言われました。
「いや何、これが私の住居ですよ。地方にも二つ私宅を持っております。よく地方にいる友を訪ねる事があるものですから。それではどうぞお入り下さい。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。」
天使さまの言葉には少しも気取りというものがありません。〝気取らない〟ということが霊格の偉大さを示す一つの特徴であることを学びました。地上でしたらこんな時には前もって使いの者が案内して恭々(うやうや)しく勿体ぶって拝謁するところでしょうが、この度はその必要もないので全部省略です。
もっとも必要な時はちゃんとした儀式も致します。行うとなれば盛大かつ厳粛なものとなりますが、行う意味のない時は行われません。
さて、カストレル様──やっと名前が出ましたね。詳しいことは明晩にでもお話いたしましょう。あなたもそろそろ寝まなくてはならないでしょう。ではおやすみ。
2 死産児との面会
一九一三年十月十八日 土曜日
カストレル様のご案内で建物の中に入ってみますと、その優雅さはまた格別でした。入口のところは円形になっていて、そこからすぐに例のドームを見上げるようになっています。そこはまだ建物の中ではなく、ポーチの少し奥まったところになります。
大広間の敷石からは色とりどりの光輝が発し、絹に似た掛けものなどは深紅色に輝いておりました。前方と両側に一つずつ出入口があります。見上げると鳩が飛び回っております。ドームのどこかに出入口があるのでしょう。そのドームは半透明の石で出来ており、それを通して柔らかい光が射し込みます。
それらを珍しげに眺めてから、ふと辺りを見回すと、いつの間にかカストレル様が居なくなっております。
やがて右側の出入口の方から楽しそうな談笑の声が聞こえて来ました。何事だろうとその方向へ目をやると、その出入口から子供を混じえた女性ばかりの一団がゾロゾロと入って来ました。総勢二十人もおりましたでしょうか。
やがて私たちのところまで来ると、めいめいに手を差し出してにこやかに握手を求め、頬に接吻までして歓迎してくれました。挨拶を済ませると中の一人だけが残って、あとの方はそのまま引き返して行きました。大勢で来られたのは私たちに和やかな雰囲気を与えようという心遣いからではなかったろうかと思います。
さて、あとに残られた婦人が、こちらへお出でになりませんか、と言って私たちを壁の奥まったところへ案内しました。五人が腰かけると、婦人は一人一人の名前を言い当て、丁寧に挨拶し、やがてこんな風に話されました。
「さぞかし皆さんは、一体何のためにここへ遣わされたのかとお思いのことでしょう。また、ここがどんな土地で何という都市なのかといったこともお知りになりたいでしょう。この建物はカストレル宮殿と申します。そのことは多分カストレル様から直々にお聞きになられたことでしょう。
カストレル様はこの地方一帯の統治者にあらせられ、仕事も研究もみなカストレル様のお指図に従って行われます。話によりますと皆様はすでに〝音楽の街〟も〝科学の街〟もご覧になったそうですが、そこでの日々の成果もちゃんと私どもの手許へ届くようになっているのです。
届けられた情報はカストレル様と配下のお方がいちいち検討され、しかるべく処理されます。この地方全体の調和という点から検討され処理されるのです。単に調和と申しますよりは協調的進化と言った方がよいかも知れません。
「たとえば音楽の街には音楽学校があり、そこでは音楽的創造力の養成につとめているのですが、そういった養成所があらゆる部門に設置されており、その成果がひっきりなしに私たちの手許に届けられます。届きますとすぐさま検討と分析を経て記録されます。必要のある場合はこの都市の付属実験所で綿密なテストを行います。実験所は沢山あります。
ここへお出でになるまでに幾つかご覧になられたはずです。かなりの範囲にわたって設置されております。しかし実はその実験所の道具や装置は必ずしも完全なものとは申せませんので、どこかの界で新しい装置が発明されたり改良されたりすると、すぐに使いを出してその製造方法を学んで来させ、新しいのを製造したり古いものに改良を加えたりします。
そんな次第ですから、その管理に当たる方は叡智に長けた方でなければなりませんし、また次から次へと送られてくる仕事を素早く且つ忍耐強く処理していく能力が無くてはなりません。実はあなた方をここにお呼びしたのはその仕事ぶりをお見せするためなのです。ここに御滞在中にどうか存分にご見学なさってください。
もちろん全部を理解していただくのは無理でしょうし、とくに科学的な面はなかなか難しい所が多かろうかと思いますが、たとえ判らなくても、あなた方の将来のお仕事に役立つことが多かろうと思います。さ、それでは話はこれ位にして、これからこの建物をひと通り案内してさしあげましょう。」
婦人の話が終わると私たちはていねいにお礼を述べて、さっそく建物の中の案内をお願いしました。すべてが荘厳としか言いようがありません。どこを見てもたった一色というものがなく、必ず何色かが混ざっています。ただ何色混ざっていても実に美しく調和しているので、ギラギラ輝くものでも、どこかしら慰められるような柔らかさを感じます。
宝石、貴金属、装飾品、花瓶、台石、石柱、何でもがそうでした。石柱には飾りとして一本だけ立っているものと束になったものとがありました。それから、通路には宝石類で飾られた美事な掛け物が掛けてあります。通りがけにそれが肩などに触れると、何とも言えない美しいメロディを奏でるのです。
庭に出ると噴水池がありました。魚も泳いでおりました。中庭には芝生と樹木と灌木とが地上と同じような具合に繁っておりましたが、その色彩は地上のどこにも見られないものでした。
それから屋上へ案内されました。驚いたことに、そこにもちゃんとした庭があり、芝生も果樹園も灌木も揃っておりました。噴水池もありました。この屋上は遠方の地域と連絡を交わすところです。時には見張り所のような役目も果たします。通信方法は強いて言えば無線電信に似たようなものですが、通信されたものが言語でなしに映像(※)となって現れますから(*)、実際には地上の無線とも異なりましょう。
(※この通信が書かれた頃はまだテレビジョンが発明されていなかったこと、そして、地上の発明品はことごとく霊界にあるものの模造品であることを考え合わせると興味深い。──訳者)
私たち女性グループはずいぶん永い間その宮殿にごやっかいになりながら、近くの都市や郊外まで出ていろんなものを見学しました。その地域全体の直径は地上の尺度で何千マイルもありましょう。それほど広い地域でありながら全体と中心との関係が驚くほど緊密でした。その中心に当たるのが今お話した大ドームの建物すなわちカストレル宮殿というわけです。その全部をお話していると幾ら時間があっても足りません。
そこでそのうち幾つかをお伝えして、それによって他を推察していただきましょう。もっとも、それもあなた方の想像の及ばないものばかりですけど。
第一に不思議に思ったことはその都市に子供がいることでした。なぜ不思議に思ったかと言いますと、それまで私は子供には子供だけの世界があって、皆そこへ連れて行かれるものと思い込んでいたからです。最後に居残ってお話をしてくれた婦人はそこの母親のような地位にあられる方で、その他の方々はその婦人の手助けをされてるらしいのです。
私はその中の一人に、そこの子供たちがみんな幸福そうで愛らしく、こんな厳かな宮殿でいかにも寛いでいることには何か特別な理由があるのですかと尋ねてみたところ、大よそ次のような説明をしてくれました。
〝ここで生活している子はみな死産児で、地球の空気を吸ったことのある子供とは性格上に非常な違いがある。僅か二、三分しか呼吸したことのない子供でも、全然呼吸していない死産児とはやはり違う。それ故死産児には死産児なりの特別の養育が必要であるが、死産児は霊的知識の理解の点では地上生活を少しでも体験した子より速い。
まだ子供でありながらこうした高い世界で生活できるのはそのためである。が、ただ美しく純粋であるだけでは十分とは言えない。ここで一応の清純さと叡智とを身につけたら、こんどは地球と関係した仕事に従事している方の手にあずけられ、その方の指導のもとに間接的ながら地上生活の体験を摂取することになる・・・・・・〟
私は初めこの話を興味本位で聞いておりました。ところがその呑気な心の静寂を突き破って、この都市へ来たのは実はそのことを知るためだったのだという自覚が油然として湧いてきました。
私にも実は一度死産児を生んだ経験があるのです。それに気がつくと同時に私の胸にその子に会いたいという気持ちが止めどもなく湧いて来ました。〝あの子もきっとここに来ているに違いない〟そう思うや否や私に心の中に感激の渦が巻き起こり、しばし感涙にむせびました。その時の気持ちはとても筆には尽くせません。
そばに仲間がいることも忘れて木蔭の芝生にうずくまり、膝に顔を押し当てたまま、湧き出る感激に身を浸したのでした。親切なその仲間は私の気持ちを察して黙って私の肩を抱き、私が感激の渦から脱け出るのを待っておりました。
やがて少し落着くと、仲間の一人が優しくこう語ってくれました。「私もあなたと同じ身の上の母親です。生きた姿を見せずに逝ってしまった子を持つ母親です。ですから今のあなたのお気持がよく判るのです。私も同じ感激に浸ったものです。」
それを聞いて私はゆっくりと顔を上げ、涙にうるんだ目をその友に向けました。すると友は口に出せない私に願いを察してくれたのでしょう。すぐに腕を取っていっしょに立ち上がり、肩を抱いたままの姿勢で木立の方へ歩を進めました。ふと我に帰ってみると、その木立の繁みを通して子供たちの楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてくるではありませんか。多分私はあまりの感激に失神したような状態になっていたのでしょう。
まだ実際に子供には会ってもいないのにそんな有様です。これで本当に会ったら一体どうなるだろうか──私はそんな事を心配しながら木立に近づきました。
表現がまずいなどと言わないでおくれ。そう遠い昔のことではありません。その時の光景と感激とが生き生きと甦ってきて、上手な表現などとても考えておれないのです。地上にいた時の私は死産児にも霊魂があるなどとは考えてもみませんでした。ですから、突如としてその事実を知らされた時は、私はもう・・・・・・ああ、私にはこれ以上書けません。どうかあとは適当に想像しておくれ。
とにかくこの愚かな母親にも神はお情けを下さり、ちゃんと息子に会わせて下さったのです。私がもっとしっかりしておれば、もっと早く会わせていただけたでしょうにね。
最後に一つだけ大切なことを付け加えておきましょう。本当はもっと早く書くべきだったんでしょうに、つい感激にかまけてしまって・・・・・・。その大切なことというのは、子供がこちらへ来るとまずこちらの事情に慣れさせて、それから再び地上のことを勉強させます。
地上生活が長ければ長いほど、こちらでの地上の勉強は少なくて済みます。死産児には全然地上の体験が無いわけですが、地球の子供であることに変わりはありませんから、やはり地球の子としての教育が必要です。
つまり地上へ近づいて間接的に地上生活の経験を摂取する必要があるのです。もちろん地上へ近づくにはそれなりの準備が必要です。また、いよいよ近づく時は守護に当たる方が付いておられます。死産児には地上の体験がまるで無いので、地上生活を体験した子に比べて準備期間が長いようです。
やはり地上生活が長いほど、またその生活に苦難が多ければ多いほど、それだけこちらでの勉強が少なくて済み、次の勉強へ進むのが速いようです。
もちろんこれは大体の原則を述べたまでで、ここに適用される時はその子の性格を考慮し、その特殊性に応じて変更され、順応されます。
ともかく全てがうまく出来あがっております。では神の祝福を。お休みなさい。
3 童子が手引きせん
一九一三年十月二十日 月曜日
ひき続きカストレル様の都市の見学旅行中の話です。中央通りを歩きながら私はなぜこの都市には方形の広場が多いのか、そしてその広い中央通りの両側にある塔のように聳える建物が何のために建てられているのかを知りたいと思っていました。
そのうち中央通りの反対側の入口に到着してやっと判ったのは、その都市全体が平地に囲まれた非常に高い台地にあるということでした。
案内の方のお話によりますと、そこに設けられている塔からなるべく遠くが見渡せるようにということと、まわりの平地の遠い住民からもその塔が見えるようにという配慮があるとのことでした。そこがその界の首都で、全てがそこを焦点として治められているのでした。
帰途も幾つかの建物を訪れ、どこでも親切なおもてなしを受けました。その都市ではカストレル様のお住まいで見かけた以外に子供の姿はあまり見かけませんでした。ですが時折そこここの広場で子供の群れを見かけます。
そこには噴水があり、まわりの池に流れ落ちて行きます。池の水はその都市を流れる大きな川につながり、無数の色彩と明るい輝きを放散しながら、下の平地へ滝となって落ちて行きます。その滝の流れはかなり大きな川となって平地をゆったりと流れて行きますが、その川のあちこちで子供たちが水浴びをして遊んでいるのを見かけたのです。
しきりに自分のからだに水をかけております。私はその時はあまり深く考えなかったのですが、そのうち案内の方から、あの子供たちはあのような遊びをするよう奨励されているとの話を聞かされました。と言うのは、そこの子供たちは死産児として来たので体力が乏しく、あのような遊びによって生体電気を補充し体力を増強する必要があるというのです。
それを聞いて私が思わず驚きの声を上げると、その方は「でも別に何の不思議もないでしょう。ご存知のように、私たちの身体は肉も血もないのにこうして肉体と同じように固くて実体があります。また現在の私たちの身体が地上時代よりはるかに正確に内部の魂の程度を反映していることもご存知の筈です。
その点あの子供たちの大半がやっと成長し始めたばかりで、それを促進するための身体的栄養が要るのです。別に不思議ではないと思いますが・・・・・・」とおっしゃいました。
別に不思議ではない──言われてみれば確かにその通りです。私はさきに天界を〝完成された地上のようなところ〟と表現しましたが、その本当の意味が今になってようやく判ってきました。多くの人間がこちらへ来てみて地上とあまりによく似ていることに驚くはずです。
もっとも、ずっと美しいですけど。大ていの人間は地上とは全く異なる薄ぼんやりとした影のような世界を想像しがちです。
が、よく考えてごらんなさい。常識で考えてごらんなさい。そんな世界が一体何の意味がありますか。それは段階的進歩ではなく一足跳びの変化であって、それは自然の理に反します。
確かにこちらへ来てすぐから地上と少しは勝手が違いますが、不思議さに呆然するほどは違わないということです。特に地上生活でこれといって進歩のない生活を送った人間が落着く環境も地上と見分けがつかない程物質性に富んでおります。
そういう人間が死んだことに気づかない理由はそこにあります。低い界から高い界へと向上するにつれて物質性が薄れて行き、環境が崇高さを増して行きます。しかし、地上性を完全に払拭した界、地上生活とまったく類似性を持たない界まで到達する霊は稀です。特殊な例を除いてまず居ないのではないかと思っております。が、
この問題については私に断定的なことを言う資格はありません。何しろ地上生活と全く異なる界に到達していないどころか、訪れてみたこともないからです。
今いる所はとても美しく、私はこの界の美と驚異を学ばねばなりません。学んでみると、実は地球はこの内的世界が外へ向けて顕現したものにほかならず、従って多くの細かい面において私たち及び私たちの環境と調和していることが判ります。もしそうでなかったら、今こうして通信していることも有り得ないはずです。
そして又──私みたいな頭の良くない人間にはそう思えるというまでのことですが──もしもあなた方の世界と私たちの世界に大きな隔たり、巨大な真空地帯のようなものがあるとしたら、地上生活を終えた後、どうやってこちらへやって来れるのでしょう。
その真空地帯をどうやって横切るのでしょうか。でも、これはあくまで私自身の考えです。そんなことはどうということは無いのかも知れません。ただ確実に言えることは、神と神の王国は一つしか無いこと、その神の叡智によって宇宙は段階的に向上進化して行くように出来ているということさえ銘記すれば、死とは何か、その先はどうなっているのかについての理解が遥かに深くなるであろうということです。
死後の世界にも固い家屋があり、歩くための道があり、山あり谷あり樹木あり、動物や小鳥までいるということが全くバカバカしく思える人が多いことでしょう。その動物が単なる飾りものとして存在するのではなく、実際の用途を持っております。
馬は馬、牛は牛の仕事があり、その他の動物も然りです。が動物達は見た目に微笑ましいほど楽しく働いております。私は一度ある通りで馬に乗ってやって来る人を見かけたことがありますが、何となく人間よりも馬の方が楽しんでいるように見えたものです。でも、こうした話は信じて頂けそうにありませんから話題を変えましょう。
その広い市街地の建物の一つに地方の各支部から送られて来る情報を保管する図書館がありました。また、新しいアイディアを実地にテストするための研究所もありました。さらには教授格の人が自分の研究成果を専門分野だけでなく他の分野の人を集めて発表するための講堂もありました。そしてもう一つ、風変わりな歴史を持つ建物がありました。
それは少し奥まったところに立っていて、木材で出来ておりました。マホガニー材をよく磨いたような感じで、木目には黄金の筋が入っております。随分古い建物で、カストレル様がその領地の管理を引き継がれるずっと前に、当時の領主の為の会議室として建てられたものです。
かつては領主がそこに研究生たちを召集され、それぞれに実際的知識を発表することに使用されておりました。
こんな話を聞きました。その発表会でのことです。青年が立ち上がって講堂の中央へ進み出て学長すなわち領主に向かって両手を広げて立ちました。
立っているうちにその青年の姿が変化し始め、光輝が増し、半透明の状態になり、ついに大きな光の輪に囲まれました。そしてその光の輪の中に高級界からの天使の姿が無数に見えます。学長が意味ありげな頬笑みを浮かべておられますが、青年にはそれが読み取れません。
彼──首席代表であり領主の後を継ぐべき王子の様な存在でもあります──が何か言おうと口を開きかけた時です。入口から一人の童子が入って、大勢の会衆に驚いた様子できょろきょろ見回しました。
その子は光の輪のそばまで来て、層を成して座っている天使の無数の顔を見つめて気恥ずかしそうにしました。そしてその場から逃げ帰ろうとした時に、中央におられる学長の姿が目にとまりました。光と荘厳さに輝いておられます。瞬間、子供は一切を忘れて、両手を広げ満面の笑みを浮かべて学長めがけて走り寄りました。
すると先生は両手を下げ腰を屈めてその子を抱き上げ、ご自分の肩に乗せ、青年のところへ歩み寄ってその子を青年の膝の上に置き、元の位置に戻られました。が、戻りかけた時から姿が薄れ始め、元の位置に来られた時は完全に姿が見えなくなり、その場には何もありませんでした。子供は青年の膝の上にいて青年の顔──実に美しいお顔立ちでした──を見上げてニッコリと致しました。
やがて青年が立ち上がり、その子を左手で抱き、右手をその頭部に当てて、こう言われました。
「皆さん、聖書に〝彼らを童子が手引きせん〟と言う件があります(イザヤ書11・6)。それをやっと今思い出しました。今我々が見たのは主イエス・キリストの〝顕現〟(※)であり、聖書の言葉どおり、この童子は主の御国から贈られた方です。」そう述べてから童子に向かい、「坊や、さっき先生に抱かれて私のところまで連れて来られた時、先生は坊やに何とおっしゃいましたか」と尋ねました。
(※これまでの〝顕現〟と種類が異なり、これは霊界に〝変容現象〟と見るべきであろう。イエス自身、地上時代に丘の頂上で変容した話がマタイ17・マルコ9に出ている。──訳者)
すると子供は初めて口を開き、子供らしい言い方で、大勢の人を前に気恥ずかしそうにしながらこう言いました。
「ボクが良い子をしてお兄さんの言いつけを守っていたら、時々あの先生がこの都市と領土のためになる新しいことを教えて下さるそうです。でもボクには何のことだかよく判りません。」
それは青年も他の生徒たちも最初のうちは判りませんでした。が青年が閉会を宣し、その子を自宅へ連れて帰ってその意味を吟味しました。その結果彼が辿り着いた結論は、あれはエリとサムエルの物語(サムエル書1・3)と同じだということでした。そして、事実その結論は正しかったのです。
その後その子は研究所やカレッジの中を自由に遊び回ることを許されました。少しも邪魔にならず、面倒な質問もせず、反対に時おり厄介な問題が生じた時などにその子が何気なく口にした言葉が問題解決のカギになっていることがあるのでした。
時がたつにつれて、このことがあの顕現のそもそもの目的だったことが理解できました。つまり子供のような無邪気な単純さの大切さを研究生たちは学んだのです。特殊な問題の解決策が単純であるほど全体としての解決策にも通じるものがあるということです。
他にも学生たちがその〝顕現〟から学んだものはいろいろとありました。例えばキリスト神は常に彼らと共に存在すること、そして必要な時は何時でも姿をお見せになること。これは、あの時、学生の中から姿を現わされたことに象徴されておりました。また広げた両手は自己犠牲を意味しておりました。
あの後光が象徴したように、荘厳さに満ちたあのコロニーにおいてさえも自己犠牲が必要なのです。その後あの童子はどうなったか──彼は例の青年の叡智と霊格が成長するにつれて成育し、青年が一段高い界へ赴いたあと、青年の地位を引き継いだということです。
さて以上の話は随分昔のことです。今でもそのホールは存在します。内側も外側も花で飾られて、常によく手入れされております。しかし講演や討論には使用されず、礼拝場として使用されております。その都市の画家の一人が例の〝顕現〟のシーンを絵画にして、地上でも見られるように祭壇の後ろに置いてありました。
そこにおいて主イエスを通しての父なる神への礼拝がよく行われます。それ以上に盛大に行われるのはあの顕現の時の青年が大天使として、今では指導者格となっている例の童子を従え、あの時以降青年の地位を引き継いだ多くの霊と共に、そこに降臨することがあります。そこに召集された者は何か大きな祝福と顕現があることを察知します。
しかしそういう機会に出席できるのはそれに相応しい霊格を備えた者にかぎられます。一定の段階まで進化していない者にはその顕現が見えないのです。
神の王国はどこも光明と荘厳さに満ち溢れ、素晴らしいの一語に尽きますが、その中でも驚異中の驚異と言うべきものは、そうやって無限の時と距離を超えて宇宙の大霊の存在が顕現されるという事実です。神の愛は万物に至ります。
あなたと私の二人にとっては、こうして神の御国の中の地上界と霊界という二つの世界の間のベールを通して語り会えるようにして下さった神の配慮にその愛を見る事が出来るのです。
4 炎の馬車
一九一三年十月二一日 火曜日
カストレル様の都市についてはまだまだお話しようと思えば幾らでもあるのですが、他のも取り挙げたい問題がありますので、あと一つだけ述べて、それから別の話題へ移りたいと思います。
宮殿のある地域に滞在していた時のことです。そこへよく子供たちが遊びに来ました。その中には私の例の死産児も含まれておりました。他の子供たちはその子の母親つまり私と仲間の四人と会うのが楽しみだったようです。そして私たちがそれまで訪れた土地の話、特に子供の園 や学校の話をすると、飽きることなく一心に聞き入るのでした。
来る時はよく花輪を編んでお土産に持って来てくれたのですが、実はそのウラにはゲームで一緒に遊んでもらおうという下心があったのです。もちろんよく一緒に遊んであげました。その静かで平和な土地で可愛い幼児とはしゃぎまわっている楽しい姿は容易に想像していただけると思います。
ある時、あなたも子供のころ遊んだことのあるジョリーフーパーゲームに似た遊びで、子供たちが考え出したゲームに興じておりました。大てい私たち五人が勝つのですが、そのうち私たちと向かい合っている子供たちが突然歌うのを止めて立ちつくし、私たちの頭越しに遠くを見つめているのです。振り向くと、その空地の端の並木道の入口のところに、他でもない、カストレル様のお姿がありました。
笑みを浮かべておられます。風采からは王者の威厳が感じられますが、その雰囲気には力と叡智が渾然となった優しさと謙虚さがあるために、見た目には実に魅力があり、つい近づいてみたくなるものがあります。こちらへゆっくりと歩を進められ、それを見た子供たちが走り寄りました。するとその一人一人の頭を優しく撫でてあげておられます。
やがて私たちのところまで来られると「ご覧の通りガイドなしで一人でやってまいりましたよ。どこにおられるのかはすぐに判りますから。ところで、悪いのですが、遊びを中断していただかねばならない用事が出来たのです。あなた方もぜひ出席していただきたい儀式がもうじき催されます。こちらにおられる〝小さい子供さん〟はそのままゲームを続けなさい。
あなた方〝大きい子供さん〟は私といっしょに来て下さい」とユーモラスにおっしゃるのです。
すると子供たちは私たちの方へ駆け寄ってきて、うれしそうに頬にキスをして、用事が終わったらまたゲームをしに来てね、と言うのでした。
それからカストレル様の後について、頭が届きそうなほど枝の垂れ下がったトンネル状の並木道を進み、やがてそこを通り抜けると広い田園地帯が広がっていました。そこでカストレル様は足を止めてこうおっしゃいました。「さて、ずっと向こうを見て御覧なさい。何が見えますか。」
私たち五人は口を揃えて、広いうねった平野と数々の建物、そしてさらにその向こうには長い山脈のようなものが幽かに見えます、と答えました。
「それだけですか」とカストレル様が聞かれます。
私たちが目立ったものとしてはそれだけですと答えると、「そうでしょうね。それがあなた方の現在の視力の限界なのでしょうね。いいですか。私に視力はあなた方よりは発達していますから、その山脈のさらに遠くまで見えます。よく聞いて下さいよ。これから私に視力に映っているものを述べていきますから。
その山脈の向こうに一段と高い山脈が見え、さらにその向こうにそれより高い山頂が見えます。建物が立っているものもあれば何もないものもあります。私はあの地方に居たことがあります。ですから、あそこにも、ここから見ると小さく見えますが、実はこの都市を中心とした私の領土全体と同じくらいの広さの平野と田園地帯があることを知っております。
「私は今その中の一つの山の頂上近くのスロープを見つめております。地平線ではありません。あなた方の視力の範囲を超えたところに位置しており、そこにこの都市よりも遥かに広くて豊かで壮大な都市が見えます。
その中央へ通じる道の入口がちょうど吾々の方を向いており、その前は広い平坦地になっております。今の通路を騎馬隊と四輪馬車の列が出て来るところです。集合し終わりました。いよいよ出発です。今その中からリーダーの乗った馬車が進み出て先頭に位置しました。命令を下しております。群集が手を振って無事を祈っております。
リーダーの馬車が崖の縁まで来ました。そして今その縁を離れて宙を前進しております。それを先頭に残りの隊がついて来ます。さあ、こちらへ向かっていますよ。私たちも別の場所へ行って到着の様子を見ましょう。」
何のためにやって来るのか、誰れ一人尋ねる者はいませんでした。畏れ多くて聞かなかったのではありません。お聞きしようと思えばどんなことでもお聞きできたのですが、なぜか以心伝心で納得していたようです。
ですがカストレル様は一応私たちの心中を察して「皆さんはあの一隊が何のためにやって来るのを知りたがっておられるようですが、そのうち判ります」とおっしゃって歩を進められ、私たちも後についてその都市を囲む外壁のところまで至り、そこから平地の向こうの丘の方へ目をやりました。が、さっき述べたもの以外は相変わらず何も見えません。
「隊の姿を誰が一ばんに見つけますかな」とカストレル様がおっしゃいます。そこで私たちは目を凝らして一心に見つめるのですが、一向に見えません。そのうち私の目に遥か山脈の上空に星が一つ輝いて見えたような気がしました。それと時を同じくして仲間の一人が「先生、あそこに見える星はここに来た時は無かったように思います」と大きい声で言いました。
「いえ、最初からあったのですが、あなたに見えなかっただけです。では、あなたが最初ですか、見えたのは」と聞かれます。
私はどうも〝私にも見えておりました〟とは言いたくありませんでした。先に言えば良かったのでしょうけど。するとカストレル様は「私にはもう一人見える方がいるような気がするのですがね。違いますか」と言って私の方を向いてにっこりされました。私は赤くなって何だか訳の分からぬことを口ごもりました。するとカストレル様が、
「よろしい。よく見つめていて下さい。他の方もそのうち見えはじめるでしょう。あの星が現時点では数界を隔てた位置にあります。まさかあの界まで見える方がこの中に居られるとは予想しませんでした」とおっしゃって、私たち二人の方を向かれ、「ご成長を祝福申し上げます。
お二人は急速に進歩を遂げておられますね。この調子で行けばきっと間もなく仕事の範囲も拡大されます」と言って下さいました。二人はそのお言葉を有難く拝聴しました。
さて気がついてみますと、その星がさっきよりずっと明るく輝いて見え、みるみる大きく広くなって行きます。その様子を暫く見続けているうちに次第にそれが円盤状のものでなくて別の形のものであることが判り、やがてその形が明瞭になってきました。
それは竪琴の形をした光のハーブとも言うべきもので、まるでダイヤモンドを散りばめた飾りのようでした。が、段々接近すると、それは騎馬と馬車と従者の一団で、その順序で私たちの方角へ向けて虚空を疾走しているのでした。
やがて都市の別のところからも喚声が聞こえて来ました。同じものを発見したのです。
「あの一隊がこの都市へやって来る目的がそろそろお判りでしょう」とカストレル様がおっしゃるので、
「音楽です」と私が申し上げると、
「その通り。音楽と関係があります。とにかく音楽が主な目的です」とおっしゃいました。さらに近づいたのを見ると、その数は総勢数百名の大集団でした。見るも美しい光景でした。騎馬と炎の馬車──古い伝説に出てくるあの炎の馬車は本当にあるのです。
──それが全身から光を放つ輝かしい騎手に操られて天界の道を疾走して来たのです。ああ、その美しさ。数界も高い天界からの霊の美しさはとても私たちには叙述出来ません。その中の一ばん霊格の低い方でもカストレル様と並ぶほどの方でした。が実はカストレル様はその本来の光輝を抑え、霊格をお隠しになっておられました。
それはこの都市の最高霊であると同時に一人の住民でもあるとのご自覚をお持ちだからです。ですが、高級界からの一隊がいよいよ接近するにつれてカストレル様のお姿にも変化が生じ始めました。お顔と身体が輝きを増し、訪問者の中で一ばん光輝の弱い方と同じ程度にまで輝き始めました。
なぜカストレル様が普段この天界の低地の環境に合わせる必要があるのか。私は後で考えて理解がいきました。それは、こうして普段より光輝を増されたお姿を目の前にしますと、まだまだ本来の全てをお出しになっておられないのに、私たちにはとても近づき難く、思わず後ずさりさせられるほどだったのです。おっかないというのとは違います。意外さに思わず・・・・・・というよりほかに表現のしようがありません。
一隊はついに私たちの領土の上空まで来ました。最初の丘陵地帯と私たちの居る位置との中ほどまで来た時、速度を緩めて徐々に編隊を変えました。今度は・・・・・・の形(※)を取りました。そして遂に都市の正面入口の前の広場に着陸しました。(※末尾のところで説明が出る──訳者)
カストレル様はその時にはすでに私たちから離れておられ、一隊が着陸すると同時に正面入口からお付きの者を従えて歩み出られました。光に身を包まれて・・・・・・と表現するのがその時の印象に一ばん近いでしょう。王冠は曾て見たこともないほど鮮やかに光輝を増しております。
腰に付けられたシンクチャー(帯の一種)も同じです。隊長の近くまで来るとそこで跪ずかれました。カストレル様より遥かに明るい光輝を発しておられます。馬車から降りられるとカストレル様に急ぎ足で歩み寄られ、手を取って立ち上がらせ、抱き寄せられました。
その優雅さと愛に満ちた厳かな所作に、一瞬、全体がシーンと静まり返りました。その抱擁が解かれ、私たちに理解できない言語での挨拶が交わされてから、カストレル様が残りの隊へ向かってお辞儀をし、直立の姿勢で都市の外壁の方へ向かれ片手を挙げられました。
すると突如として音楽が鳴り渡り、全市民による荘厳なる讃美歌が聞こえて来ました。前に一度同じような大合唱のお話をしたことがありますが、それとは比較にならない厳かさがありました。この界があの時より一界上だからです。その大合唱と鐘の音と器楽の演奏の中を二人を先頭に一隊から都市の中へ入って行きました。
こうして一隊はカストレル宮殿へ向かう通りを行進し、いよいよ例の並木道へと入る曲がり角で隊長が馬車を止め、立ち上がって四方を見回し、手を挙げて沿道の市民にその都市の言葉で祝福を述べ、それから並木道へと入り、やがて一隊と共に姿が見えなくなりました。
でも、ダメですね、私は。今回の出来ごとの荘厳さを万分の一でもお伝えしようと努力してみましたが、惨めな失敗に終わりました。実際に見たものは私が叙述したものより遥かに遥かに荘厳だったのです。私が主として到着の模様の叙述に時間を費やしたのは、今回の一隊の訪問の使命についてはよく理解していなかったからです。
それは私ごとき低地の住民には理解の及ばないことで、その都市の指導的地位にある方や偉大な天使が関わる問題です。
せいぜい私が感じ取ったのは、あのコロニーの中で音楽の創造に関わっている人の中でも最高に進化した人々による研究に主に関連している、ということだけです。それ以上のことは判りません。もちろん私以上に語れる人が他にいるのでしょうけど。
さっき出なかった言葉(一六二頁)は〝惑星〟です。編隊を変えたあとの形のことです。いえ〝惑星〟ではありません。〝惑星系組織〟です。地球の属する太陽系なのかどうか──たぶん他の太陽系でしょうが、私にはよく判りません。
今夜はこれでおしまいです。祝福の言葉をお待ちのようですね。では神の祝福を。目をまっすぐに見据えて理想を高く掲げることです。そして私どもの世界の本当の栄光に比べれば、地上で想像し得るかぎりの最高の栄光も、太陽に対するローソクのようなものでしかないこと、それほど霊の世界の栄光は素晴らしいことをお忘れにならぬように。
5〝縁〟は異なもの
一九一三年十月二二日 水曜日
もしも地球全体が一個のダイヤモンドか真珠のようなものであったら、太陽や星の光を反射して地球のまわりがどんなにか明るく輝くことでしょう。もちろん地球に輝きが無い訳ではありません。少しは輝いております。ただ表面にツヤが無いために至ってお粗末なものに見えます。
その輝きと真珠の輝きとを比較していただけば、地上生活と私たちが今いる光と美の境涯、いわゆる〝常夏の国〟(※)との違いが想像していただけると思います。
(※曽ては〝常夏の国〟 が天国とされていたが、近代の霊界通信によってそれがまだまだ霊界の入口あたりに過ぎないことが明らかとなってきた。本通信でも〝天界の低地〟に属し、善と悪、暗黒界と光明界の二面性があることが窺える。──訳者)
この常夏の国の平野や渓谷に遠く目をやっておりますと、地上の大気による視覚への影響を殆んど忘れております。もっとも、地上独特のものでこちらに存在しないものを幾つか思い出すことは出来ます。例えば距離です。
距離感覚はぼやけて行くのではなく、少しずつ消失して行くのです。樹木や植物は地上のようにシーズンが来ると咲きシーズンが終わると枯れて行くというのではありません。いつも咲いております。
それを摘み取ってもずいぶん永い間いきいきとしております。やがて萎れるのかと思うとそうではなく、これもいつの間にか大気の中へ消滅して行くのです。大気は地上と同じような感じがしますが、必ずしも無色透明ではありません。カストレル様の都市はどこか黄金の太陽の光のようなものに包まれております。モヤではありません。
それが視力を妨げることもありません。それどころか、他のさまざまな色彩を邪魔することなく一切を黄金の光輝の中に包み込んでいるのです。うっすらとしたピンク、あるいは青色をしている地方もあります。各地方に独特の色調又は感じがあって、それがそこの住民の本性と性向と仕事の特徴を表わしているのです。
大気の色調はこの原理に基づいているようです。が同時に、その色調が住民の言動に反映しています。他の地域を訪れるとそれがよく判ります。霊格が高くなると、その土地へ足を踏み入れるとすぐに、そこの住民の一般的性向と仕事の内容が判るようになります。
と同時にその人もすぐにその影響を受けることになります。もちろん根本的性格は変わりません。感覚的な面で影響を受け、それがすぐに衣服の変化となって表われます。
ですから、見知らぬ土地へ行っても、内面的にも外面的にもすぐに同胞意識を覚えるようになります。これは私が知った最大のよろこびの一つです。どこへ行っても兄弟姉妹が居るようなものです。
もし地上がそういうところだったらどうなるか、想像してご覧なさい。居ながらにして天使の平和と善意のメッセージが現実となり、地上が言わば〝天界の控えの間〟となることでしょう。
さて私たちはカストレル様の都市の訪門を終えての帰路、今回の体験で私たちがどう変わったか、いかなる教訓を学んだかを反省いたしました。私自身について言えば、それはもう、あの死産児に会えたということだけで十分であったという気持ちです。
思いも寄らなかった神からの贈り物です。が、平野をのんびりと歩きながら、私だけでなく仲間の一人一人がその人なりの祝福を得ていたことを確かめ合ったことでした。
都市を訪れる時は天空を飛行しました。そこで帰りは山脈のところまでは歩いて行きましょうということになったわけで、その道すがらずいぶん色んなことを語り合いました。それを全部綴れば大変なページ数になります。そして内容も興味ぶかいものばかりですが、私たちと違い、あなたにとって、また新聞社にとっては、時間と紙面が大切な要素ですから(※)それは割愛して、どうしても語っておかねばならないことだけを述べることにしましょう。
(※この霊界通信は一九二〇年から二一年にかけて新聞に掲載されている。霊界側は当初よりこういう形での公表を念頭において通信を送って来たことが窺える。──訳者)
私たち五人が本来の界へ帰り着いた時、私たちの属する霊団の最高指導霊であらせられる女性天使も例の〝かけ橋〟での用事を終えてすでに帰っておられました。この度はあなたもよくご存知の婦人を連れて帰られました。
──どうぞその方のお名前を!
S婦人です。あの方は、死後、不如意な体験が重なりました。こちらへ来られた頭初は急速な進歩が得られる境涯へ案内されたのですが、あの方の場合は複雑でした。性格が複雑な方だったために、どこに置かれてもしっくり来なかったのです。
いろいろと工夫して援助してあげたのですが、しかし──これはあなたも是非知っておくべきことですが──こちらでは自由意志と個性が非常に重要視され、いくらその人のためになることでも押し付けることは許されないのです。
S婦人は間もなく気持ちが落着かなくなり、私たちも本人の好きにさせるほかはないと判断しました。そこで警告と忠告を十分に与えた上で二つの道の岐路に案内して、好きな方角を選ぶにまかせたのです。但し指導霊を付けて蔭から監視させ、必要とあらばいつでも援助の手を差しのべる用意をした上でのことです。
さて婦人は自分の求めるもの、つまり〝心の落着き〟を得るためにはどこへ行けばよいか、何をすればよいか迷っておりました。それで相当永い間、例の〝かけ橋〟の近くをウロウロしておりました。
そのS婦人がようやく自分の誤りに気づいて光明の方へ足を向け、女性天使に連れられて最初の境涯へ戻って来ることになったのは、我が侭を通せば通すほど暗闇が増し、会う人も見る光景も聞く音も心地良さが薄れ、時には恐怖さえ覚えさせるものになって行きつつあることに気づいてからでした。
今もまだまだ進歩は遅いようです。ですが、頑なな心が次第に和らかさを増し、謙虚さと信頼心が強まりつつあります。そのうち立派になられるでしょう。これまで私がS婦人の消息が判らずお役に立てなかったのも、こうした経緯があったからです。これからは時の経過と共に少しずつ力になってあげられることと思います。
私がこれから当分の間仕事に従事することになっているこの土地へ連れて来られたのも、多分そのためでしょう。あの方のことは私は地上ではあなたを通じて存じ上げていただけで、あまりよく知りませんでした。私とのこの度のご縁は多分あの方のお子さんたちとあなたとの情愛がかけ橋となっているのでしょう。
こちらでは地上でのご縁が全て生かされております。ふとした縁、行きずりの縁も意味があるものです。人生におけるあらゆる出会いが何らかの影響を及ぼしております。たまたま隣り合わせに腰掛けた人と交わした会話、偶然の出会い、ふと買い求めた一冊の本、友人の紹介で握手を交わし、それきり生涯会うことのなかった人等々、すべてが記録され、考慮され、整合されて、必要に応じて利用されます。今回の私とS婦人との関係もその一つの例と言えましょう。
ですから、日常の行為の一つ、言葉の一にも気をつけなくてはいけません。神経質になるのではなく、常に人の為を思いやる習慣を身につけることです。いつでも、どこでも親切の念を出し続ける習慣です。これは天界では大変重要なことで、それが衣服に明るさを、そして身体に光輝を与えるのです。
ではお寝みなさい。この挨拶は〝良い夜〟お過ごし下さいという意味ですから地上の方には意味がありますが、私達には意味がありません。こちらでは〝善〟を愛する者にとっては全てが〝良い〟ことばかりであり、絶対的な光に満ちておりますから〝夜〟が無いのです。
五章 天使の支配
1 罪の報い
一九一三年十月二三日 木曜日
天界における向上進化の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったら恐らくうんざりなさることでしょう。
ですが、ここで一つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終わりで述べたことを補足説明しておきたいと思います。
最近のことですが、又一人の女性が暗黒界から例の〝橋〟に到着するという連絡を受け、私ともう一人の仲間二人で迎えに行かされたことがありました。急いで行ってみますと、件の女性がすでに待っておりました。
一人ぼっちです。実はそこまで連れてきた人たちがその女性に瞑想と反省の時を与えるためにわざと一人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。
一本の樹木の下の芝生の坂にしゃがんでおり、その木の枝が天蓋のようにその方をおおっております。見ると目を閉じておられます。私たちはその前に立って静かに待っておりました。やがて目を開けると怪訝そうな顔で私たちを見つめました。
でも何もしゃべらないので、私が「お姉さま!」と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私たちを見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で顔をおおい、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。
そこで私が近づいて頭の上に手を置き「あなたは私たちと姉妹になられたのですよ。私たちは泣かないのですから、あなたも泣いてはいけません」と言いました。
「私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう」──その方は頭を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだどこか、ちょっぴり私たちに対する反撥心がありました。
「どなたかは存じませんが、どんなお方であるかは存じ上げております。あなたはずっと父なる神の子の一人でいらっしゃるし、従って私たちと姉妹でもありました。
今ではもっと広い意味で私たちと姉妹になったのです。それ以外のことはあなたの心掛け一つに掛かっております。
つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの〝橋〟を渡って戻って行く人となるかは、あなたご自身で決断を下されることです」と私が述べると、暫く黙って考えてから、
「決断する勇気がありません。どこもここも怖いのです」と言いました。
「でも、どちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留るわけには行きません。私たちと一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね、私たちが姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから。」
「ああ、あなたはこの先がどんな所なのかをどこまでご存知なのでしょう」──その声には苦悶の響きがありました。「今まで居た所でも私のことをみんな姉妹のように呼んでくれました。
私を侮っていたのです。姉妹どころか、反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。
ああ、思い出したくありません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り、堕落しきったダメな女です。」
その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。そして彼女にこういう主旨のことを言いました──当分はそうした苦しい体験を忘れることに専念しなさい。
そのあと、私たちも協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろうことは容易に想像できました。
でも向上の道は一つしかないのです。何一つ繕うことが出来ないのです。すべてのこと──現在までの一つ一つの行為、一つ一つの言葉が、あるがままに映し出され評価されるのです。
神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしか無いのです。がその婦人の場合は、それに耐える力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私たちは彼女を励ましてその場から連れ出しました。
さて、道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんなところがあるかとか、これから行くホームはどんなところかとか、いろいろと尋ねました。
私たちは彼女に理解できる範囲のことを教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使のこと、そしてその配下で働いている霊団のこと等を話して聞かせました。
その話の途中のことです。彼女は急に足を止めて、これ以上先へ行けそうにないと言い出しました。〝なぜ? お疲れになりましたか〟と聞くと〝いえ、怖いのです〟と答えます。
私たちは婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にそれが何であるかはよく判りません。何か私たちに摑みどころのないものがあるのです。
そこで私たちは婦人にもっと身の上について話してくれるようお願いしたところ、ついに秘密を引き出すことに成功しました。それはこう言うことだったようです。
〝橋〟の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに救助の者を差し向けました。行ってみると、悪臭を放つ汚れた熱い小川の岸にその女性が気を失って倒れておりました。
それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れて来ました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って、私たちが迎えに出た場所まで連れて来たというわけです。
さて、救助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時のことです。気がついたその女性は辺りに誰かがいる気配を感じましたが姿が見えません。
とっさに彼女はそれまで彼女をいじめにいじめていた悪の仲間と思い込み、大声で「さわらないで! こん畜生!」と罵りました。
が次に気がついた時は門楼の中に居たというのです。彼女が私たちと歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとそのことが蘇ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせたわけです。
自分の言葉が余りに酷かったので光を見るのが怖くなったのです。実際は誰に向かって罵ったか自分でも判りません。しかし誰に向けようと呪いは呪いです。そしてそれが彼女の心に重くのし掛かっていたのです。
私たちは相談した結果これはすぐにでも引き返すべきだという結論に達しました。つまり、この女性には他にも数々の罪はあるにしても、それは後回しに出来る。それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人の心が安まらないであろうし、私たちがどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私たちは彼女を連れて引きかえし〝橋〟を渡って門楼の所まで来ました。
彼女を救出に行かれた件の天使に会うと、彼女は赦しを乞い、そして赦されました。実はその天使は私たちがこうして引き返して来るのを待っておられたのです。
私たちより遥かに進化された霊格の高い方で、従って叡智に長け、彼女がいずれ戻って来ずに居られなくなることを洞察しておられたのです。
ですから私たちが来るのをずっと門楼から見ておられ、到着するとすぐに出て来られました。その優しいお顔付きと笑顔を見て、この女性もすぐにこの方だと直感し、跪いて祝福をいただいたのでした。
今夜の話にはドラマチックなところは無いかも知れません。が、この話を持ち出したのは、こちらでは一見何でもなさそうに思えることでもきちんと片付けなければならないようになっていることを明らかにしたかったからです。
実際私には何か私たちの理解を超えた偉大な知性が四六時中私たちを支配しているように思えるのです。
あのお気の毒な罪深い女性が向上して行く上において、あんな些細なことでもきちんと償わねばならなかったという話がそれを証明しております。〝橋〟を通って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。
ですが、自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕の言葉を頂いた時に初めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものであること、為すべきことを為せばきっと恵みを得ることを悟ったのでした。
その確信は、彼女のようにさんざん神の愛に背を向けて来た罪をこれから後悔と恥辱の中で償って行かねばならない者にとっては、掛けがいのない心の支えとなります。
──その方は今どうされていますか。
あれからまだそう時間が経っておりませんので目立って進歩しておりません。進歩を阻害するものがまだいろいろとあるのです。ですが間違い無く進歩しておられます。
私たちのホームにおられますが、まだまだ他人のための仕事をいただくまでには至っておりません。いずれはそうなるでしょうが、当分はムリです。
罪悪というのは本質的には否定的性格を帯びております。が、それは神の愛と父性(※)を否定することであり、単に戒律を破ったということとは比較にならない罪深い行為です。
魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬をはたらくことに他なりません。その汚れた神殿の掃除は普通の家屋を掃除するのとはわけが違います。
強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは格別です。何となれば神の御心のまにまに生き、人を愛するということの素晴らしさを味わうからです。
(※民族的性向の違いにより神を〝父なる存在〟と見なす民族と〝母なる存在〟と見なす民族とがある。哲学的には老子の如く〝無〟と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えばアメノミナカヌシノカミである。──訳者)
2 最後の審判
一九一三年十月二七日 月曜日
今夜もまた天界の生活を取りあげて、こちらの境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝えできればと思います。私たちのホームは樹木のよく繁った丘の中腹に広がる空地に建っております。
私がお世話している患者──ほんとに患者なのです──は明かりの乏しい、言わば闇が魂に忍び込むような低地での苦しい体験の後にここへ連れて来られ、安らぎと静けさの中で介抱されております。
来た時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは、余ほど体力を回復してからのことです。
あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じ詰めれば〝愛〟の一語に尽きましょう。それが私たちの指導原理なのです。
と言うことは、私たちは罪を裁かず、罰せず、ただ愛を持って導いてあげるということですから、その事実を知った患者の中にはとても有難く思う人がいます。ところが実はそう思うことが原因となって、却ってそこにいたたまれなくなるものなのです。
例えばこんな話があります。最近のことですが、患者の一人が庭を歩いている時に、私たち霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。
その人はつい目を反らして脇の道へ折れようとしました。怖いのではありません。畏れ多い気がしたのです。すると天使様の方から近づいてきて優しく声を掛けられました。話をしてみると意外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていたことを尋ねる気になりました。
「審判者はどこにおられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。そのことを思うといつも身震いがするのです。私のような人間はさぞ酷い罰を言いつけられるにきまっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです。」
この問いに天使様はこうおっしゃいました。
「よくお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するに、もうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。それが審判の第一歩なのです。
それから、審判者はどこに居るのかとお尋ねですが、それ、そこにおられます。あなたご自身ですよ。あなた自身が罰を与えるのです。これまでの生活を総点検して、自分の自由意志によってそれを行うのです。
一つ一つ勇気を持って懺悔する毎に向上して行きます。ここにお出でになるまでのあの暗黒界での生活によって、あなたはすでに多くの罰を受けておられます。
確かにあれは恐ろしいものでした。しかしもうそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさらないといけません。ただし苦痛は伴うでしょう。
大変辛い思いをなさることと思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう。」
「でも報酬を与えたり罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです。」
「なるほど、玉座ですか。それならいずれご覧になれる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判というのはあなたがお考えになっているものとは大分ちがいます。でも怖がる必要はありません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます。」
これは実はこちらへ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪いことをしているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問に掛けられるものと思い込んでいるので、そんな気配がないことに却って戸惑いを感じるのです。
また、自分は立派なことをしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さ──時にはみじめなほど低い環境にとても落胆することがよくあります。
内心では一気にキリスト神の御前に召されて〝よくぞやってくれた〟とお褒めの言葉でも頂戴するものと思い込んでいたからです。もう、それはそれは、こちらへ来てからは意外なことばかりです。喜ぶ人もおれば悲しむ人もいるわけです。
最近こんな人を見かけました。この方は地上では大変博学な文筆家で、何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場のかまたきをしていた青年に話しかけ、いろいろと教わっているところでした。楽しそうな様子なのです。
と言うのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですがこの人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、すでにこちらへ来ている筈の曽ての知人のところへ赴いて地上での過ちや知的な自惚れを告白することはしたくないのです。
しかし、いずれはしなければならないことです。青年との関係はそのための準備段階なのです。しかし同時に、私たちの目にはその人の過去も現在もまる見えであり、とくに現在の環境が非常に低いことが明白なのに、本人は相変わらず内心の自惚れは他人に知られてないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。
こういう人には指導霊も大変な根気がいります。が、それがまた指導霊にとっての修行でもあるのです。
ここで地上の心霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題というのは、心霊上の問題点についてなぜ霊界からもっと情報を提供してくれないかということです。
これにはぜひ理解していただかねばならない事情があるのです。こうして地上圏まで降りてきますと、私たちはすでに本来の私たちではなく、地上特有の条件による制約を受けます。
その制約が私たちにはすでに馴染めなくなっております。例えば地上を支配している各種の法則に従って仕事を進めざるを得ません。
そうしないとメッセージを伝えることも物理的に演出してみせてあげることも出来ません。実験会では出席者がある特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいはその霊にまつわる証拠について質問したいと思っていることは判っても、それに応じるには私たちは非常に制約された条件下に置かれています。
例えばその出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、こちらが必要とする肝心なものは閉じられたままで、結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならないことになりますが、それが往々にして十分でないのです。
さらに、その人の意念と私たちの意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台なしになったりすることもあります。なるべくなら私たちを信頼して私たちの思いどおりにやらせてほしいのです。
そのあとで私たちが何を伝えんとしているかを批判的態度で検討して下さればいいのです。もし特別に情報が欲しいと思われる問題点があれば、それを日常生活におけるのと同じように、時おり心の中に宿していただけばそれでよろしい。
私たちがそれを察知して検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ早かれ、それに応じてあげます。
実験その他、何らかの形で私たちが側に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけでよろしい。
あとは私たちにまかせて下さい。出来るだけのことをして差しあげます。しつこく要求してはいけません。私たちはお役に立ちたいと言う意図しかないのですから、あなたの為になることなら出来る限りのことをしていると信じて下さい。
ちょうどその好い例があります。あなたはずっとルビーのことを知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求することがなかったので、私たちは存分に準備することが出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。
ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事もなかなか上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。
なぜ今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子にはほかにすることがありますし、私たちは私たちで計画に沿って果たさねばならないことがあります。
そう、こんなことも言っておりました──「お父さんに伝えてちょうだい。お父さんが教会でお説教をしている時の言葉があたしたちのところまで届けられて、その中の幾つかを取りあげてみんなで討論し合うことがあるって。地上で学べなかったことについてのお話が入ってるからなの」と。
──ちょっと考えられないことですね。本当ですか。
おやおや、これはまた異なことを。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。いいですか、幼くしてこちらへ来た者はまずこの新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってからこんどは地球と地上生活について少しずつ勉強することを許されます。
そしていずれは完全な知識を身につけないといけないのです。そのために、慎重を期しつつあらゆる手段を活用することになります。
父親の説教を聞いて学ぶこと以上に素晴らしい方法があるでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分のはずです。常識的にお考えになることです。少しは精神構造が啓発されるでしょう。
──でも、もしもあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教など出来なくなります。それと、どうか気を悪くなさらないで下さい。
ご心配なく。機嫌を損ねてなんかいませんよ。実はあなたの精神に少なくとも死後の環境とその自然さについて、かなりの理解が見られるようになって有難く思っていたのです。ところが、愚かしい漠然とした死後の観念をさらけ出すような、あのような考えを突如として出されたので驚いたのです。
でも、他人に説教する際はよくよく慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構なことです。でも、このことはあなた一人にかぎったことではありません。全ての人間がそうあらねばならないことですし、全ての人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。
こちらではそれが悉く知れてしまうのです。でも一つだけ安心していただけることがあります。万が一良からぬこと、品のないことをうっかり考えたり口にしたりした時は、そういうものはルビーがいるような境涯へは届かないように配慮されております。
ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。思いのままを遠慮なくおしゃべりになることです。こちらの世界では誠意さえあれば、たとえその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。
さ、お寝みなさい。皆さんによろしく。神の祝福を。そして神が常にあなたに勇気と忠誠心をお与え下さいますように。
3 使節団を迎える
一九一三年十月二八日 火曜日
これまでに私たちが伝えたメッセージはすべてあなたの精神(※)に私たちの思念や言葉を印象づける方法で行われております。
このためには私たちはあなたの精神に宿されているものを出来るだけ多く取り出し、活用して、少しでもラクに伝わるように工夫します。ですが、それがうまく行かなくて、やむを得ずあなたの霊を地上環境から連れ出して、私たちが伝えんとしている内容を影像の形で見せ、それをあなたに綴らせると言う手段を取ることがよくあります。
(※霊側から見た精神には実体があり、そこに宿された想念や記憶が具体的に手に取るように見える。いわゆる潜在意識もこれに含まれる。──訳者)
いいえ、あなたをその身体から連れ出すという意味ではありません。だって、あなたはその間ずっとそこにいて意識を持ち続けているわけですから。
私たちが行うのは言わばあなたの内的視覚──霊体の視力──に霊力を注ぎ込む為に一時的にあなたの注意力を私たちが吸収してしまうのです。するとその間はあなたは環境をほとんど意識しなくなります。
つまり周囲のことを忘れ、気を取られなくなります。その瞬間をねらって今述べた霊界の影像を伝達して、それに私たちが実際に見た出来ごとの叙述を添えるということをするわけです。
例えばカストレル様の都市へ音楽の使節団が光のハーブの編隊を組んで到着するシーンを述べた時、シーンそのものは実際のものをお見せして、それに群がる群集や正面入口での挨拶の様子、その他、伝えたいと思ったことを後で私たちが復元して添えたものです。
そういう次第だったのです。具体的にどういう風にするかは、いずれこちらへお出でになれば判ります。
さて、これから私たちはもう一つの光景をお見せしてみようかと思います。〝みよう〟という言い方をしたのは、大事なことについては私たちはそう滅多にしくじることはありませんが、所詮私たちも全能ではありません。いろいろと邪魔が入り、思うに任せないこともあるからです。
それではこれから暫くあなたの注意力をお貸しいただいて、私たちのホームへ使節団が見学に訪れた時の様子を叙述してみましょう。私たちは良くお互いに使節団を派遣し合って、他のホームでの仕事ぶりを学び合うことを致します。
私たちはホームの裏手にある丘の頂上近くに立って使節団の到着を待っておりました。やがて広々とした平野の上空はるか彼方にその姿が見えはじめました。その辺りの空は深紅と黄金と緑の筋が水平に重なって見えます。
それを見て私たちはその使節団がどの地域からのもので、どんな仕事に携わっている人たちであるかが判断できます。その使節は主に儀式と式典の正しい在り方を研究している人達で、非常に遠方のコロニーからお出でになられたのでした。
虚空を翔る様子を見つめておりますと、平地で待機していた私たちのホームの出迎えの代表団が空中へ舞い上がりました。大空での出迎えの様子を見るのもまた一興でした。遥か上空でお互いが接近し、いよいよ距離が狭まると、こちらの一団の何人かが音色もポストホルン(※)に似たものを吹奏し、それに応じて他のグループが別の楽器を取り出し、演奏を始めると同時に更に別のグループが歓迎の合唱を始めました。
(※昔駅馬車や郵便馬車の到着を知らせる為に御者が用いた二~三フィートの真ちゅうのラッパ。──訳者)
やがて歓迎の儀式が終わりました。後方に一台の二頭立ての馬車が用意してあります。昔の(天蓋のない)馬車にそっくりです。近代風の馬車を使用してもよいのですが、こちらでは天蓋は不要なのです。
それで古代の馬車がずっと使われているわけです。使節団はさらに近づいて、こちらの一団と向かい合って並びました。そのシーンを想像して下さい。
あなたには不思議に思えることでしょうが、私たちの世界では至って自然なことであることがそのうちあなたにもお判りになる日が来るでしょう。
さらに向上すると空中で立つだけでなく地上とまったく同じように跪いたり、横になったり、歩いたりすることまで出来るようになります。
さて、私たちのお迎えのリーダーと使節団のリーダーとが進み出ました。そして両手を握り合い、互いに額と頬に口づけをしました。
それからお迎えのリーダーが右手で相手の左手を取って馬車まで案内し、迎えの残りの者が間を開け恭しくお辞儀をしてお通ししました。お二人が馬車に乗ると、今度は双方の残りの人々が両手を広げて近づき合い、同じように額と頬に口づけをし合いました。
それから全員が私たちの方角を向き、ゆっくりとした足取りで降りて来て、ついに丘の麓まで来られました。
空中を行くとどんな感じがするか──これはあなたにはちょっと判って頂けないでしょう。私も一度ならず試してみたことがあります。が、その感じはあなたの想像を超えたものです。
ですからそれを述べるよりも、見た目に実に美しいものだと言うに留めておきましょう。カストレル様やアーノル様のような霊格の高い天使になると、地面を歩かれる時の姿は単に気品があるというに留まらず、その落着いた姿勢や動作にうっとりとさせられる美しさがあるのです。
空中になるとそれが一層美しさを増します。静かで穏やかな威厳と力に溢れた、柔らかで優雅な動きは、まさしく王者の風格と神々しさに満ち満ちております。今目の前にしたお二人もまさにその通りでした。
一行は曲がりくねった小道を歩いて私たちのリーダーの住居に至りました。ここにおいて私たちの指導霊である女性天使と共にこの領土を支配しておられます。
私にはお二人の間に霊格とか地位の差は無いように思われます。全く同じでは無いにしても、どちらが上でどちらが下かは直接お聞きしてみないと判らないほどで、それはちょっとお聞きしかねることです。
お互いの愛と調和性はとても程度が高く、命令と服従との関係が優雅で晴れ晴れとした没我性の中で行われるために、お二人の霊的な差を見分けることが出来ないのです。
そのお住まいはあなたがご覧になればきっと中世の城を思い出されることでしょう。山の中腹の岩の上に建てられており、周りは緑と赤と茶と黄色の樹木と、無数の花々と芝生に囲まれております。
使節団は玄関道を通って中へ入り、そこで私たちからは見えなくなりました。が中へ入った一行の光輝によって、あたかも一度に何千もの電灯が灯されたように、窓を明るく照らし出しました。
その色彩豊かな光輝は何とも言えない美しさでした。一つに融合してしまわずに、それぞれの色調を保ちつつ、渾然と混ざり合い、あたかも虹の如く窓を通して輝くのでした。
これまでの私の叙述に〝出入口〟がしばしば出て来ましたが〝門〟については特に述べていないことにお気づきと思います。実は私はこれまで出入口に至る門を見たことがないのです。
〝ヨハネ黙示録〟の中には天界の聖都とその門についての叙述があります(21章)。私はヨハネが霊視したと思われる都市に酷似した都市の門を思い出していろいろと考えたのですが、どうも今いる都市には出入口に通じる門は見当たらないように思います。
で、私が思うに、ヨハネが〝聖都の門は終日閉じることなし〟と述べておいて、そのあとすぐ地上の都市では昼間は戦いでもない限り門は閉じられることはなく夜はずっと閉じられていることを思い出して───〝(ここに夜あることなきが故なり)〟とカッコして釈明を付け加えたのは、本当は地上と同じような門は無かったからではないかと思うのです。これは私個人の考えです。
間違っているかも知れませんが、ぜひあなたの改めて黙示録を読み返し、私の意見を思い出して、あなた自身で判断してみて下さい。
お城の中でのフェスティバルのことは私自身出席しておらず、出席した方からお聞きしただけですので、ここでは述べないことにします。それよりも、私が目撃したものを述べておきましょう。
その方が生き生きと表現できますから。しかし、あれだけ多くの高級霊が一堂に会したのですから、それはそれは荘厳なフェスティバルであったろうことは容易に想像できます。
そうね。あなたやあなたの家族もこの神の愛と祝福が草原の露のごとく降りて、辺り一面に芳香を漂わせる神の御国へお出でになれば、こうしたことを全部目のあたりにすることが出来ます。
授かるよりは授ける方が遥かに幸である事を何かにつけて学ばされている私たちが、その素敵な芳香を私たちの言葉を通じて地上の方にも味わっていただき、いかに神の愛が有難く優しいものであり、神を信じる者がいかに幸せであるかを判っていただきたいと思うのは少しも不思議でないことが、これでお判りでしょう。
幾久しく神の祝福のあらんことを。アーメン
4 強情と虚栄心
一九一三年十月三十日 木曜日
その手をご自分の頭部へ当ててみてください。そうすると通信が伝わりやすくなり、あなたも理解しやすくなります。
──こうですか。
そうです。あなたと私たち双方にとって都合がいいのです。
──どう言う具合に。
私からあなたへ向けて一本の磁気の流れがあります。今言ったとおりにして下されば、その磁気の散逸が妨げるのです。
──さっぱり判りません。
そうかもしれません。あなたにはまだまだ知っていただかねばならないことが沢山あります。今述べたこともその一つです。それ一つを取り上げれば些細なことかもしれませんが、それなりに大切なのです。
成功を支えるのは往々にしてそうした些細なことの積み重ねであることがあります。
ところで、私たちはこうした通信で採用する方法については所詮あなたに完全な理解を期待するのは無理ですから、あまり細かいことは言うつもりはありません。
でも、このことだけは述べておきたいのです。つまり私たちが使用するエネルギーはやはり〝磁気〟と呼ぶのが一番適切であること、そしてその磁気に乗って私たちのバイブレーションがあなたの精神に伝わるということです。
そうやって手を当てがって下さると、それが磁石と貯蔵庫の二つの役目をしてくれて、私たちは助かるのです。でも、この問題はこれ位にして、もっと判り易い話題に移りましょう。
この〝常夏の国〟では私たちは死んでこちらへやって来る人と後に残された人の双方の面倒をみるように努力しております。これは本当に切り離せない密接な関係があります。と言うのも、こちらへ来た人は後に残した者のことで悩み、背後霊がちゃんと面倒を見てくれていることを知るまで進歩が阻害されるケースが多いのです。そこで私たちは度々地上圏まで出かけることになるのです。
先週も私たちのもとに夫と三人の幼い子供を残して死亡した女性をお預りしました。そして例によってぜひ地上へ行って四人のその後の様子を見たいとせがむのです。
あまりせがまれるので、やむを得ず私たちは婦人を地上へ案内しました。着いた時は夕方で、これから夕食が始まるところでした。ご主人は仕事から帰って来たばかりで、これからお子さんに食事をさせて寝させようと忙しそうにしておりました。
いよいよ四人が感じの良い台所のテーブルを囲み、お父さんが長女にお祈りをさせています。その子はこう祈りました。〝私たちとお母さんのために食事を用意して下さったことをキリストの御名において神に感謝します〟と。
その様子を見ていた婦人は思わずその子のところへ近づき頭髪に手を当てて呼びかけましたが、何の反応もありません。
当惑するのを見て私たちは婦人を引きとめ、少し待つように申しました。暫く沈黙が続きました。その間、長女と父親の脳裏に婦人のことが去来しています。
すると長女の方が口を開いてこう言いました──「お父さん、母さんは私たちが今こうしているのを知ってるかしら?それからリズおばさんのことも。」
「さあ良く判らないけど、きっと知ってると思うよ。この二、三日、母さんがとても心配してるような、何だか悲しい気持がしてならないからね。リズおばさんの念かも知れないけれどね。」
「だったら私たちをおばさんとこに届けないでちょうだい。〇〇婦人が赤ちゃんの面倒を見てくれるし、私だって学校から帰ったら家事のお手伝いをするわ。そしたら行かなくって済むでしょ。」
「行きたくないのだね?」
「私は行きたくないわ。赤ちゃんとシッシーは行くでしょうけど。私はイヤよ。」
「なるほど。父さんもよく考えておこう。だから心配しないで。皆んなで何とかうまくやって行けそうだね。」
「それに母さんだってあの世から助けてくれるわ。それに天使様も。だって母さんはもう天使様とお話が出来るのでしょ?お願いしたらきっと助けてくれるわ。」
父親はそれ以上何もしゃべりませんでした。が、私たちにはその心の中が見えます。そしてこんなことを考えているのが読み取れました──〝こんな小さな子供がそれほどの信仰を持っているからには自分もせめて同じくらいの信念は持つべきだ〟と。
それから次第に考えが固まり、とにかく今のままでやってみようと決心しました。もともと子供を手離すのは父親も本意ではなく、引き止めるための言い訳ならいくらでもあるじゃないか、と思ったのでした。
こうした様子を見ただけで母親が慰めを得たとはとても言い切れません。が地上を後にしながら私たちはその婦人に、あの子の信仰が父親の信念によって増強されたら私たちが援助して行く上で強力な手掛かりとなりますよ、と言ってあげました。そうでも言っておかないと、今回の私たちが取った手段が間違っていたことになるのです。
帰るとその経過を女性天使に報告しました。すると即座に家族が別れ別れにならぬように処置が取られ、その母親には、これから一心に向上を心掛け、早く家族の背後霊として働けるようになりなさいとのお達しがありました。
それからというもの、その婦人に変化が見られるようになりました。与えられた仕事に一心に励むようになったのです。私たちの霊団に加わって一緒に地上へ赴き、彼女なりの仕事が出来るようになる日もそう遠くはないでしょう。
この話はこれ位にして、もう一つ別のケースを紹介してみましょう。先ごろ私たちのコロニーへ一人の男性がやってきました。この方も最近地上を去ったばかりです。
自分の気に入った土地を求めてさ迷い歩き、私たちの所がどうやら気に入ったらしいのです。ずっと一人ぼっちだったのではありません。少し離れた所から何時も指導霊が見守っていて、何時でも指導する用意をしていたのです。
この男性も私たちが時折見かける複雑な性格の持ち主で、非常に多くの善性と明るい面を持ち合わせていながら、自分でもどうにもならない歪んだ性格のために、それが発達を阻害されているのでした。
その男性がある時私たちのホームのある丘からかなり離れた土地で別のホームの方に呼び止められました。その顔に複雑な表情を見て取ったからです。
実は出会った時点ですぐに、少し離れた位置にいた指導霊から、合図によってその男性の問題点についての情報が伝わり、その方は即座にそれを心得て優しく話しかけました。
「この土地にはあまり馴染みがない方のようにお見受けしますが、何かお困りですか。」
「お言葉は有難いのですが、別に困ってはおりません。」
「あなたが抱えておられる悩みはこの土地で解決できるかも知れませんよ。全部というわけにはいかないでしょうけど。」
「私がどんな悩みを抱えているかご存知ないでしょう。」
「いや、少しは判りますよ。こちらで一人も知り合いに会わないことで変に思っておられるのでしょう。そしてなぜだろうと。」
「確かにその通りです。」
「でも、ちゃんとお会いになってるのですよ。」
「会ったことは一度もありません。一体どこにいるのだろうと思っているのです。実に不思議なのです。あの世へ行けば真っ先に知人が迎えてくれるものと思っておりました。どうも納得がいきません。」
「でも、お会いになってますよ。」
「知った人間には一人も会っておりませんけど。」
「確かにあなたはお会いになっていませんが、相手はちゃんとあなたにお会いしています。あなたが気づかないだけ、いや、気づこうとなさらないだけです。」
「何のことだか、よく判りませんね。」
「こういうことです。実はあなたが地上からこちらへ来てすぐから、あなたの知人が面倒を見ているのです。ところがあなたの心は一面なかなか良いところもあり開かれた面もあるのですが、他方、非常に頑なでむやみに強情なところがあります。あなたの目に知人の姿が映らないのはそこに原因があるのです。」
男はしばらくその方を疑い深い目でじっと見つめておりました。そしてついに、どもりながらもこう言いました。
「じゃ、私のどこがいけないのでしょう。会う人はみな優しく幸せそうに見えるのに、私はどの人とも深いお付き会いが出来ないし落着ける場所もありません。私のどこがいけないのでしょう。」
「まず第一に反省しなくてはいけないのは、あなたの考えることが必ずしも正しくないということです。ちなみに一つ二つあなたの誤った考えを指摘してみましょう。
一つは、あなたはこの世界を善人だけの世界か、さもなくば悪人だけの世界と考えたがりますが、それは間違いです。地上と似たり寄ったりで、善性もあれば邪悪性も秘めているものです。
それからもう一つ。数年前に他界された奥さんは、あなたがこれから事情を正しく理解した暁に落着かれる界よりも、もっと高い界におられます。地上時代は知的にはあなたに敵いませんでしたし、今でも敵わないでしょう。
ところが総合的に評価すると霊格はあなたの方が低いのです。これがあなたが認めなくてはならない第二の点です。心底から認めなくてはダメです。あなたのお顔を拝見していると、まだ認めてないようですね。でも、まずそれを認めないと向上は望めません。
認められるようになったら、その時はたぶん奥さんと連絡が取れるようになるでしょう。今のところまだそれは不可能です。」
男の目が涙で曇ってきました。でも笑顔を作りながら、どこかさびしげに言いました。
「どうやらあなたは予言者でいらっしゃるようですね。」
「まさしくその通り。そこで、あなたが認めなければならない三つ目のことを申し上げましょう。それはこういうことです。あなたのすぐ近くにあなたをずっと見守り救いの手を差し伸べようと待機している方がいるということです。
その方は私と同じく予言者です。先覚者と言った方が良いかも知れません。さっき申し上げたことは全部その方が私に伝達してくれて、それを私が述べたに過ぎません。」
それを聞いて男の顔に深刻な表情が見えてきました。何かを得ようとしきりに思い詰めておりましたが、やがてこう聞きました。
「結局私は虚栄心が強いということでしょうか。」
「その通り。それもいささか厄介なタチの虚栄心です。あなたには優しい面もあり謙虚でもあり、愛念が無いわけではありません。この愛こそ何にも勝る力です。
ところがその心とは裏腹にあなたの精神構造の中に一種の強情さがあり、それは是非とも柔げなくてはなりません。言ってみれば精神的轍の中にはまり込んだようなもので、一刻も早くそこから脱け出て、もっと拘泥を捨て、自由に見渡さなくてはいけません。
そうしないといつまでも〝見えているのに見えない〟という矛盾と逆説の状態が続きます。つまり、あるものは良く見えるのにあるものはさっぱり見えないという状態です。
証拠を突きつけられて自説を改めるということは決して人間的弱さの証明でもなく堕落でもなく、それこそ正直さの証明であることを知らなくてはいけません。
もう一つ付け加えておきましょう。今言ったように、その強情さはあなたの精神構造に巣食っているのであって、もしそれが霊的本質つまり魂そのものがそうであったなら、こんなに明るい境涯には居られず、あの丘の向こう側──ずっとずっと向こうにある薄暗い世界に落着くところでした。以上、私なりにあなたの問題点を指摘してさし上げました。後は別の人にお任せしましょう。」
「どなたです?」
「さっきお話した方ですよ。あなたの面倒を見ておられる方。」
「どこにおられるのですか。」
「ちょっとお待ちなさい。すぐに来られますから。」
そこで合図が送られ、次の瞬間にはもうすぐ側に立っていたのですが、その男には目えません。
「さあ、お出でになりましたよ。何でもお尋ねしなさい。」
男は疑念と不安の表情で言いました──「どうか教えて下さい。ここにおられるのであれば、なぜ私に見えないのでしょうか。」
「さっきも言った通りあなたの精神構造に見えなくさせるものが潜んでいるからです。あなたがある面において盲目であるという私の言葉を信じますか。」
「私は物がよく見えています。非常にはっきり見えますし、田園風景も極めて自然で美しいです。その点では私は盲目ではありません。ですが、同じく実質的なもので私に見えないものが他にもあるかも知れないと考えはじめております。多分それもそのうち見えるようになるでしょう。でも…」
「お待ちなさい、その〝でも〟はやめなさい。さあ、ここをよく見なさい。あなたの指導霊の手を私が握って見せますよ。」
そう言って指導霊の右手を取り、「さ、よく見なさい。何か見えますか」と聞きましたが、男にはまだ見えません。ただ何やら透明なものが見えるような気がするだけで、実体があるのか無いのかよく分かりませんでした。
「じゃ、ご自分の手で握って見なさい。さ、私の手から取ってごらんなさい。」
そう言われて男は手を差し出し、指導霊の手を取りました。そしてその瞬間、どっと泣き崩れました。
男にそうした行為が出来たということ、そして指導霊の手を見、さらにそれに触れてみることが出来たということは、男がその段階まで進化した人間であった事を意味します。手を出しなさいと言われた時はすでに、それまでのやりとりの間に男がそれが出来るまで向上していたということで、さっそくその報いが得られたわけです。
指導霊は暫くの間男の手をしっかりと握りしめておりましたが、そのうち男の目に指導霊の姿がだんだん見え始め、且つ、手の感触も強くなって行きました。
それまで相手をされた方はそれを見てその場を去りました。男は間もなく指導霊が見えるだけでなく語り合うことも出来るようになったことでしょう。そして今はきっと着々と霊力を身につけて行きつつあることでしょう。
ルビーがあなた方両親にこんなメッセージを伝えて欲しいとのことです───「お父さん、お母さん、地上の親しい人が良い行いや親切なことをしたり、良いことを考えたりお話したりすることが全部映像になってこちらへ伝わって来るのは本当です。
私達はそれを使って部屋を美しく飾ったりします。リーンちゃんがあのお花で部屋を飾るのといっしょよ」と。
では神の祝福を。お寝すみなさい。
<原著者ノート>最後のルビーからのメッセージの中の〝あのお花〟というのは、学校で寮生活をしている姉のリーンに私たちが時折送り届けている花のことのようである。以上で母からのメッセージは全部終了し、この後の通信は私の守護霊であるザブディエルに引き継がれる。それが第二巻「天界の高地」篇である。
〔本章は、これまでのオーエン氏の母親からの通信の中に時おり割り込む形で綴られた、アストリエルと名告る霊からの通信をまとめたものである。九九章<原著者ノート>参照──訳者〕
六章 見えざる宇宙の科学
1 祈願成就の原理
一九一三年十月七日 火曜日
このたび初めて同行して来た霊団の協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より観た〝信仰〟の価値について少しばかり述べてみたいと思う。
キリスト教の〝信徒信条〟に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。すでに多く語られ、それ以上の深いものを語るにはまだ人間側にそれを受け入れる用意が十分に出来ていないからである。
そこで吾々は差し当たってその問題については貴殿の判断におまかせし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている、と述べるに留めておきます。
そこで吾々としては現在の地上の人間があまり考察しようとしない問題を取り上げることにしたい。その問題は、人間が真理の表面──根本真理でなく真理のうわべに過ぎないもの──についての論争を卒業した暁にかならず関心を向けることになるものである。
それを正しく理解すれば、いま人間が血眼になっている問題の多くがどうでもよい些細なことであることが判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向けることになるでしょう。
その一つが祈りと冥想の効用の問題である。貴殿はこの問題についてはすでに或る程度の教示を受けておられるが、吾々がそれに追加したいと思います。
祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されて然るべきものです。
祈りに実効を持たせるためには、その場かぎりの目先の事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛り込みたいと思っていた有象無象の頼みごとの大部分が視界から消え、より重大で巾広い問題が創造力の対象として浮かび上がって来る。
祈りにも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を五千人分に増やしたというイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として〝祈りが叶えられる〟ことになる。
つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的回答が与えられるのです。
祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。放射された意念が目標物に当たらずに逸れてしまい、僅かに適中した分しか効果が得られないことになる。
さらに、その祈りに良からぬ魂胆が混入しても効力が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。
さて、こうしたことは人間にとっては取りとめのない話のように思えるかも知れませんが、吾々にとっては些かもそうではない。
実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分析し選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る。そこでさらに検討が加えられ、その価値評価に従って然るべく処理されているのです。
これを完璧に遂行するためには、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。例えば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。
そして科学者にもまだ扱い切れない光線が存在することが認識されているように、吾々のところへ届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションをもつものがあります。
それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこでの一段と高い叡智による処理にまかされる。高等な祈りがすべて聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。
その訴え、その嘆きが、国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。
「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」──天使がコルネリウス(※)に告げたと言われるこの言葉を御存知であろう。これは祈りと善行がその天使の前に形体をとって現われ、多分その天使自身を含む霊団によって高き世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。
この言葉は次のように言い変えることができよう──〝貴殿の祈りと善行は私が座長を勤める審議会に託され、その価値を正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人よりさらに上の界の審議官によりても殊のほか価値あるものとのご認知をいただいた。依ってここに命を受けて参じたものである〟と。
吾々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、こちらでの実際の事情を出来るだけ理解していただこうとの配慮からです。(※ローマ教皇二五一──二五三)
以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味していただけば、吾々霊界の者が目のあたりにしている実在の相をいくらか推察していただけるであろう。
そして大切なのは、祈りについて言えることがそのまま他のあまり感心出来ぬ心の働きにも当てはまるということです。例えば憎しみや不純な心、貪欲、その他もろもろの精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、こちらでは立派な形態をとって現われるのです。
悲しいかな、天使は嘆くことを知らぬと思い込むような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く吾々の心中をご存知ない。神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々のために吾々がいかに心を砕いているかをご覧になれば、吾々に愛着を感じて下さると同時に、無闇に神格化してくれることもなくなるでしょう。
さて、この問題は貴殿がその価値をお認めになれば、あとはご自分でさらに深く考究していただくことにして、貴殿はもう少し通信を続けたいとのお気持なので、貴殿にとって興味もあり為にもなる別の話題を提供しようかと思います。
貴殿の教会の尖塔に風見鶏が付いております。あれは貴殿があのような形にしようと決められたことは憶えておられることと思いますが、いかがであろう。
──今あなたから指摘されるまですっかり忘れておりました。おっしゃる通りです。建築家から何にするかと言われて魚と鶏のどっちにしようかと迷ったのですが、最終的には鶏にしました。でも、そんなことが何の意味があるのでしょうか。
ごもっとも。貴殿にとっては些細なことでしょうが、吾々の世界から見ていると、些細なことというのは滅多にないものです。
鶏の恰好をしたものがあの塔の先に付いている光景は実は五年前に貴殿の精神の中での一連の思念の働きの直接の結果でした。一種の創造的産物というわけです。こんな話を聞けばお笑いになる方も多いでしょうが、それは一向に構いません。
吾々の方から見ても人間のすることに苦笑することが多々あり、なぜ笑うのか理解に苦しまれるであろうことがあるものです。
貴殿が何気なく決めた時の一連の思念の働きというのは、風見鶏を見ることによって信者の方に、ペテロが主イエスに反いたことを思い出してもらおうということでした。思うに貴殿は今の時代に二度とペテロと同じ過ちを繰り返さぬようにその警告のつもりだったのでしょう。
しかし、ただそれだけの一見些細に思える決断が吾々の世界へ届き、吾々はそれを真剣に取りあげたのです。
申し上げますが、新らしく教会を建立するということは実はこちらの世界からの大いなる働きかけを誘う大事業です。新しい礼拝の場の建立ですから、礼拝に出席する霊、建物を管理する霊、等々じつに大勢の霊がそれぞれの役目を与えられてその遂行に当たります。
貴殿の同僚の中にはその様子を霊視した人がおられますが、その数はきわめて限られております。牧師、会集、聖歌隊、等々のそれぞれの性格を考慮に入れ、吾々の中の最適の霊つまり指導する対象にとって最も相応しい霊を選出し、さらには建物の構造まで細かく配慮する。象徴性はとくに念入りに検討します。
人間には気づかない重要な意味があるからです。風見鶏もその意味で考慮したわけです。話題としてはもっと大きなものを取り上げても良さそうですが、一見なんでもなさそうに思えるものにもちゃんとした意味があることをお教えしたくて、これを選んだわけです。
さて、シンボルとして貴殿が雄鶏を選んだからには、吾々としてもそれに応えて教会に何かを寄贈しようということになった。それが吾々の習慣なのです、そこで選ばれたのが例の鐘で、そのために聖歌隊の一人に浄財を集めさせたのです。
教会が完成して祝聖式が取り行われた時はまだ鐘は付いておりませんでした。雄鶏は中空高く聳えていても、その口からは貴殿の目論む警告が発せられない。そこで吾々がその〝声〟を雄鶏に与えたという次第です。鐘の音が雄鶏の言葉──〝夕べの祈り〟の時も聞こえていた如く──です。
貴殿はこうしたことを霊界での幻想とでも思われますか。ま、そういうことにでもしておきましょう。でも、とにかくあの鐘のことは有難いと思われたのではないですか。
──それはもう、本当にうれしかったです。この度の通信にもお礼申し上げます。よろしかったらお名前を伺いたいのですが。
吾々は貴殿のご母堂が時おり訪れる界から参った者です。実はご母堂から吾々にもっと貴殿を身近に観察して、出来れば何かメッセージを送ってほしいとのご要望があった。仲間の方といっしょに来られたのです。
霊団を代表して私から言わせていただけば、この度のことは吾々も喜んでお引き受けいたしました。が実は貴殿のことも教会の建立のことも、ご母堂からお聞きする前から知っておりました。
──御厚意に感謝いたします。お名前をお聞きするのは失礼に当たりましょうか。
別に失礼ではありませんが、申し上げても貴殿はご存知ないし、その名前の意味も理解できないのではないかと思いますが。
──でも、よろしかったら是非お教え下さい。
アストリエル。神の祝福を。 ♰
<原著者ノート>アストリエル霊は通信のおしまいに必ず十字架のサインをした。
2 神々の経綸
一九一三年十月九日 木曜日
この度も貴殿のご母堂の要請を受けて参じました。再びベールのこちら側より語りかける機会を得て嬉しく思います。こうして地上へ戻ってくることを吾々が面倒に思っているとは決して考えないでいただきたい。
勿論地上の雰囲気は吾々の境涯に較べて明るさに欠け、楽しいものでないことは事実ですが、こうして使命を仰せつかることの光栄はそれを補って余りあるものがあります。
今回は天体の科学について述べてみたく思います。貴殿にも興味がおありであろうし役に立つと考えるからです。科学と言っても地上の天文学者が行っている単なる物質の表面的分析のことではありません。その構成要素の内奥に関わるものです。
ご承知のように恒星はその一つ一つが周囲に幾つかの惑星を従えた一個の組織を構成しているというところまでは認識されていますが、実はそれのみでなく、組織全体に亘って地上のいかに精巧なる器機や秀でた頭脳を持ってしても感識出来ないほど精妙な粒子が行き亘っております。その粒子は物質と霊質との中間的存在で、物質的法則と霊的法則の両方の働きに反応します。
それというのも、両者は根源的には多面性を有する一個の進化性を持つ有機的組織の二つの面を表わすに過ぎず、あたかも太陽とその惑星の関係の如くに互いの作用と反作用とを繰り返しています。
重力もその粒子に対し物的・霊的の両面において反応します。吾々が心霊実験において写真の乾板に、さらには肉眼に感応するまでに霊体に物質性を付加する時に使用するのがこのエネルギーです。本当は貴殿には理解できない要素があるのですが、貴殿の知る用語としては〝エネルギー〟しかないので、取りあえずそう呼んでおきます。
それ以外にも広い規模で機能しております。例えば、もしその粒子が存在しなかったら大気は真っ暗になります。つまり太陽や恒星からの光線が地球まで届かないということです。
なぜかと言えば、そもそも光線が肉眼に映じるのは光波がその粒子に当たった時の反射と屈折の作用のせいだからです。〝伝導〟と言うのは正しくありません。
伝導とか伝達には別の要素が関わっており、それについてはここでは次のように述べるに留めておきます。すなわち、人間の肉眼に映じているのは光線でもなく光波でもなく、光線がその精妙な粒子に当たった時の衝撃によって生じる波動である、と。
この問題に関しては地上の科学者はまだまだ学ばねばならないことが沢山あります、と言って、それを吾々がお教えすることは許されません。人間が自らの才能を駆使して探るべきものだからです。
もしその範囲を逸脱して教えてしまえば、地上という物的教育の場が地球ならではの価値を減じます。人間の個人的努力ならびに協調的努力によって苦心しながら探ることの効用を台無しにすることのない範囲に援助を抑えているのは、そういう理由によります。
この点をよく銘記していただきたい。その点を理解していただけば、こうした通信において吾々がよく釈明することがあることも納得が行かれると思います。
さて、恒星は光を放射している。が放射するためには内部にそれを蓄えておかねばならない。しかし恒星は自らを自らの力で拵えたわけではない以上、エネルギーを蓄えるには何処からか与えてもらわねばならない理屈になります。では一体誰れが与え、どういう過程で与えられるのであろうか。
「それは神が与えるのである。何となれば神は万物の根源だからである」──こう言ってしまえばむろん簡単である。そしてそれは確かにその通りなのであるが、実際にそのことに携わるのは神の使徒たる天使(※)であり、その数は人間的計算の域を超えます。そしてその一人一人に役目が割り当てられているのです。(※日本神道でいう八百万の神々である。──訳者)
実は恒星は、整然たる秩序と協調性を持って経綸に当たるその数知れぬ霊的存在からエネルギーを賦与されている。霊的存在が恒星の管理に当たっているのであり、各々の恒星が天体としての役目を遂行するためのエネルギーはそこから受けるのです。
貴殿に是非とも知っていただきたいのは、神の造化の王国には何一つとして盲目的ないし無意識的エネルギーは存在しないということです。光線一本、熱の衝撃波一つ、太陽その他の天体からの電波一つにしても、かならずそれには原因があり、その原因には意識的操作が加わっている。
つまり、ある意識的存在による確固たる意図に基づいた、ある方角への意志の働きがあるということです。その霊的存在にも無数の階級と種類があり、霊格は必ずしも同じでなく、形態も同一ではありません。(※)
がその働きは上層界の霊によって監督され、その霊もまたさらに高い霊格と崇高さを備えた神霊によって監督されているのです。(※日本の古神道ではこれをひとまとめにして〝自然霊〟と呼んでいる。──訳者)
これら物質の大きな球体は、ガス体であろうが液体であろうが固体であろうが、あるいは恒星であろうが彗星であろうが、すべてが連動され、エネルギーが活性化され、それぞれに存在価値を与えられている。
何か機械的な法則の働きによるのではなく、そうした意識的存在が内面より先に述べた法則に則って働きかけております。今〝知的存在〟と言わずに〝意識的存在〟と言いましたが、創造神のもとで造化の大事業に勤しむ霊的存在はそのすべてが必ずしも知的ではありません。
貴殿が理解しているところの〝知性〟を持つ存在は全体の割合から言うと極めて限られております。但し驚かないで頂きたいが、貴殿が〝知的存在〟と呼ぶであろうところの存在は、実は、下等な存在と高等な存在の中間に位置する程度のものであり、その下等な存在は知的とは言えませんが、全体の経綸に当たる高等な存在になると貴殿の言う〝知的〟という用語の遥かに超えた、崇高なる存在ばかりです。
その下等と高等の中間に、知的存在と呼ぶに相応しい霊の住む界層が幾つも存在します。
注意しておきますが、下等といい高等といい知的存在といい、その意味するところは地上の人間が使用するものとは違います。
貴殿がこちらへ来られてある程度こちらの事情に慣れれば、その本来の意味が判るでしょう。私は地上の言語を使用しているのであり、貴殿の立場に立って説明していることを忘れないでいただきたい。
さて以上の説明によって霊と物質とがいかに緊密なる関係にあるかがお判りになるでしょう。そして又、先日の夜にお話した貴殿の教会の建立と指導霊の働き、なかんずく例の風見鶏に関するものは、今述べたのと同じ創造の原理を小規模の形で物語ったものに他なりません。
小規模とはいえ、全く同じ原理なのです。数知れぬ恒星と惑星の存在を維持するための機構と同じものが、各種の原子の集積体──石材、木材、レンガ等──の配列に関与し、その結果があの教会と呼ぶ一個の存在の創造となったわけです。
その素材は奔流の如き意念の働きによって、それぞれの位置にあってしっかりと他と連動されています。他とのつながりなしに置かれているのではありません。もしそんなことをしたらすぐに崩壊が始まり、バラバラになってしまいます。
以上述べたことに照らして、貴殿らが教会とか劇場とか住居とか、その他もろもろの建物に入った時の〝印象の違い〟について考えてみられるとよろしい。それぞれの機能に相応しい影響力が放射されておりますが、それは今吾々が解説したのと同じ原理が働いた結果です。
言ってみれば霊から霊への語りかけ──物的身体を持たない霊が物的粒子を媒体として、その建物に入って来る人間の霊に働きかけているのです。
お疲れのようですね。通信がしにくくなって来ました。これにて失礼します。良ろしければ改めてまた参りましょう。貴殿並びにご家族、教会関係の皆様に幾久しき神の祝福のあらんことを。
アストリエル ♰
3 天体の霊的構成
一九一三年十月十六日 木曜日
吾々が霊界の事情について述べることの中にもしも不可思議で非現実的に思えるものがある時は、こちらには地上の人間に捉えられないエネルギーや要素が沢山なることを銘記していただきたい。そのエネルギーは地上の環境の中にまったく存在しないわけではありません。
大半が人間の脳では感知し得ない深いところに存在するということです。霊的感覚の発達した人にはある程度──あくまである程度でしかありませんが──感知できるかも知れません。
霊的に一般のレベルより高い人は平均的人間にとって〝超自然的〟と思える世界との境界線あたりまでは確かに手が届いております。
その時に得られる霊的高揚は知能や知識をいくら積んでも得られない性質のもので、霊的に感得するしかないものです。
今夜もまたご母堂の要請で、人間界について吾々が見たまま知り得たままを語りに参りました。可能な範囲に限ってお話しましょう。それ以上のことは、すでに述べた如く吾々には伝達技術に限界があり、従って内容が不完全となります。
──アストリエル様ですか。
アストリエルとその霊団です。
まずは主イエス・キリストの名において愛と平和のご挨拶を申し上げます。吾々にとっての主との関係は地上における人間と主の関係と同じです。ただ、地上にいた時に曖昧であった多くのことがこちらへ来て明らかとなりました。そこで厳粛なる気持ちで申し上げます
──主イエス・キリスト神性の真意と人類との関かわりの真相を知らんと欲する者は、どうか、恐怖心に惑わされることなく敬虔なる気持ちを持って一心に求めよ、と。そういう人にはこちらの世界から思いも寄らない導きがあるものです。
そして又、真摯に求める者は主の説かれた真理の真意がいずこにあるかをいかにしつこく問い詰めようと、決して主への不敬にはならない──何となれば主がすなわち真理だからである、ということを常に心に留めていただきたく思います。
しかしながら、吾々にもそれと同じ大胆さと大いなる敬意を込めて言わせていただけば、地上のキリスト教徒の間で〝正統派〟の名のもとに教えられているものの中には、こちらで知り得た真相に照らしてみた時に、多くの点において適正さと真実性に欠けているものがあります。
と同時に、それ以上のものを追求しようとする意欲と、神の絶対愛を信じる勇気と信念に欠ける者が多すぎます。
神は信じて従うものを光明へと誘い、その輝ける光明が勇気ある者を包み、神の玉座へ通じる正しく且つ聖なる道を教え示して下さる。
その神の玉座に近づける者は何事をも克服していくだけの勇気ある者のみであること、真に勇気ある者とは、怖じ気づき啓発を望まぬ仲間に惑わされることなく、信じる道を平然と歩む者のことであることを知って下さい。
さて前回の続きを述べましょう。貴殿に納得のいくものだけを信じていただけばよろしい。受け入れ難いものは構わないでよろしい。そのうち向上するにつれて少しずつ納得がいき、やがては全体の理解がいきます。
前回は天体の構成と天体間の相互関係について述べました。今回はその創造過程と、それを霊的側面から観察したものを、少しばかり述べましょう。
ご承知の如く、恒星にも惑星にも、その他物的なもの全てに〝霊体〟が備わっております。そのことは貴殿はご承知と思いますので、それを前提として吾々の説を披露します。
天体は〝創造界〟に属する高級神霊から出た意念が物的表現体として顕現したものです。全天体の一つ一つがその創造界から発せられた思念と霊的衝動の産物です。
その創造の過程を見ていると、高級神霊が絶え間なく活動して、形成過程にある物質に霊的影響力と、その天体特有の言わば個性を吹き込んでおります。かくして、例えば太陽系に属する天体は大きな統一的機構に順応してはいても、それぞれに異なった性格を持つことになる。
そしてその性格は責任を委託された大天使(守護神)の性格に呼応します。天文学者は地球を構成する成分の一部が例えば火星とか木星とか、あるいは太陽にさえも発見されたと言う。それは事実であるが、その割合、あるいは組み合わせが同じであると考えたら間違いです。
各天体が独自のものを持っております。ただそれが一つの大きな統一体系としての動きに順応しているということです。太陽系を構成する惑星について言えることは、そのままさらに大きな規模の天体関係についても当てはまります。
つまり太陽系を一個の単位として考えた場合、他の太陽系とは構成要素の割合においても成分の組み合わせにおいても異なります。各太陽系が他と異なる独自のものを有しております。
さて、そうなる原因は既に説明した通りです。各太陽系の守護神の個性的精神が反映するわけです。守護神の配下に更に数多くの大天使が控え、守護神の計画的意図に沿って造化の大事業に携わっている。
とは言え、各天使にはその担当する分野において自由意志の行使が許されており、それが花とか樹木、動物、天体の表面の地理的形態といった細かい面にまで及ぶ。千変万化の多様性はその造化の統制上の〝ゆとり〟から生まれます。
一方、そのゆとりある個性の発揮にも一定の枠が設けられている為に、造化の各部門、さらにはその部門の各分野にまで一つの統一性が行き亘るわけです。
こうした神霊の監督のもとに、さらに幾つもの段階に分かれた霊格の低い無数の霊が造化に関わり、最下等の段階に至ると個性的存在とは言いかねるものまでいる。
その段階においては吾々のように〝知性〟と同時にいわゆる自由意志による独自の〝判断力〟を所有する存在とは異なり、〝感覚的存在〟とでも呼ぶべき没個性的生命の種族が融合しております。
──物語に出てくる妖精とか小妖精とか精霊といった類のことですか。
その通り。みな本当の話です。それに大ていは優しい心をしています。ですが進化の程度から言うと人類よりは遥かに低く、それで人霊とか、天使と呼ばれるほどの高級霊ほどその存在が知られていないわけです。
さて地球それ自身についてもう少し述べてみましょう。地質学者は岩石の形成過程を沖積層とか火成岩とかに分けますが、よく観察すると、その中には蒸気状の発散物───磁気性の成分とでも言ってもよさそうなものを放出しているものがあることが判ります。
それが即ち、その形成を根源において担当した霊的存在による〝息吹き〟の現われです。こうした性質はこれまで以上にもっともっと深く探求する価値があります。科学的成分の分析はほぼ完了したと言えますが、休むことなく活動しているより精妙な要素の研究が疎かにされている。
岩石の一つたりとも休止しておらず、全成分が整然と休むことなく活動しているというところまで判れば、その作用を維持し続けるためには何か目に見えざる大きなエネルギーが無ければならないこと、さらにその背後には或る個性を持った〝施主〟が控えているに相違ないという考えに到達するには、もうあと一歩でしかありません。
これは間違いない事実です。その証拠に、そうした目に見えない存在に対する無理解のために被害をこうむることがあります。これは低級な自然霊の仕業です。
一方〝幸運の石〟(ラッキーストーン)と呼ばれるものをご存知と思いますが、これはいささか曖昧ではありますが背後の隠れた真相を物語っております。
こうした問題を検討するに際しては〝偶然〟の観念をいっさい拭い去って秩序ある因果律と置き換え、その因果律を無知なるが故に犯しているその報いに過ぎないとお考えになれば、吾々が言わんとすることにも一理あることを認めていただけるでしょう。
便宜上、話題を鉱物に絞りましたが、同じことが植物界や動物界の創造にも言えます。今夜はそれには言及しません。こうした話題を提供したのは、科学に興味を抱く人でこれまでの科学では満足できずにいる人に、見えざる世界に臆することなく深く踏み込める分野がいくらでも開けていることをお知らせしようという意図からです。
以上を要約してみましょう。それに納得が行かれれば、吾々が意図した結論も必然的に受け入れねばなりません。つまり物的創造物はどれ一つとってもそれ自体は意味がないし、それ一つの存在でも意味がない。
それは高級神霊界に発した個性的意念が低級界において物質という形態となって表現されているもので、霊的想念が原因であり、物的創造はその結果だということです。
ちょうど人間が日常生活において自分の個性の印象を物体に残しているように(※)創造界の神々とその霊団が自然界の現象に個性を印象づけているわけです。(※サイコメトリという心霊能力によって、物体を手にするだけでその物体に関わった人間のことが悉く読み取れる。──訳者)
何一つ静止しているものはありません。全てがひっきりなしに動いております。その動きには統一と秩序があります。それは休むことなく働きかける個性の存在を証明するものです。
下等な存在が高等な存在の力によって存続するように、その高等な存在はさらに崇高なる守護神の支配を受け、その守護神は宇宙の唯一絶対のエネルギー、すなわち宇宙神の命令下にあります。が、そこに至るともはや吾々の言語や思索の域を超えております。
宇宙神に対しては、全てはただただ讃仰の意を表するのみであり、吾々は主イエスの御名において崇高の意を表するのみです。全ては神の中に在り、全ての中に神が在します。
アーメン ♰
4 霊的世界の構図
一九一三年十月二四日 金曜日
今夜もまた貴殿のご母堂ならびにその霊団の要請を受け、私の霊団と共にメッセージを述べに参りました。貴殿にとって何がもっとも興味があろうかと考えた挙句に吾々は、地上へ向けられている数々の霊力の真相をいくらかでも明かせば、貴殿ならびに貴殿の信者にとって、地上生活にまつわる数々の束縛から解脱した時に初めて得られる膨大な霊的知識へ向けて一歩でも二歩でも近づく足掛かりとなり、天界の栄光へ向けて自由に羽ばたくことになろうとの結論に達しました。
──どなたでしょうか。
前回と同じ者──アストリエルとその霊団です。第十界(※)より参りました。話を進めてよろしいか。 (※界が幾つあるかについての回答はこの先に出てくる。──訳者)
──どうぞ。ようこそこの薄暗い地上界へ降りて来られました。さぞ鬱陶しいことでしょう。
〝降りてくる〟とおっしゃいましたが、それは貴殿の視点からすればなかなかうまい表現ですが、実際の事実とは違いますし完璧な表現でもありません。と言うのは、貴殿が生活しておられる天体は虚空に浮いているわけですから〝上〟とか〝下〟とかの用語の意味がきわめて限られたものとなります。
そのことはすでに貴殿の筆録したもの、と言うよりは霊的に印象づけられたものをお読みになって気づいておられるはずです。
最初に〝地上へ向けられている数々の霊力〟と申しましたが、これは勿論地上の一地域のことではありません。地球と呼ばれる球体全部を包括的に管理している霊力の働きのことです。地球のまわりに幾つもの霊的界層があり、言わば同心円状に取り巻いております。下層界ほど地表近くにあり距離が遠のくほど力と美が増して行きます。
もっとも、その距離を霊界に当てはめる際は意味を拡大して理解していただかないといけません。吾々にとっては貴殿らのような形で距離が問題となることがないからです。
例えば私がそのうちの十番目の界にいる以上は、大なり小なりその界特有の境涯によって認識の範囲が制限されます。時おり許しを得てすぐ上の界、あるいはさらにその上まで訪れることは出来ますが、そこに永住することは許されません。
一方、下の界に住むことは不可能ではありません。何となれば私が住む第十界も球体をしていますから、幾何学的に考えても、下の九つの界を全部包含していることになるからです。
従ってこれを判り易く言いかえれば次のようになりましょう。すなわち地球は数多くの界の中心に位置し、必然的にその全ての界層に包まれている。
故に地上の住民はその全ての界層と接触を取る可能性を有しており、現に霊的発達程度に応じて接触している──あくまで霊的発達程度です。なぜならその界層はすべて霊的であり物質的なものではないからです。
その地球の物質性も実は一時的な現象に過ぎません。と言うのは、地球はそれを取り巻く各界の霊力が物質となって顕現したものだからです。実はそれらの界の他にも互いに滲透し合っている別の次元の界の影響もあるのですが、それは措いておきます。当面は今まで述べたもののみの考察に留めましょう。
さて、これで人間の抱く願望とか祈願とかがどういう意味を持つかが、ある程度お判りでしょう。絶対的創造神ならびに(貴殿らに判り易い言い方をすれば)最高界ないしは再奥界にあって他の全ての界の全存在を包含する聖霊との交わりの手段なのです。
従って地球は創造神より託された計画のもとに働く聖霊によって行使される各種の、そして様々な程度の霊的影響力によって取り囲まれ、包み込まれ、その影響を受けているのです。
しかし、向上して行くと事情は一段と複雑となってまいります。地球に属するそうした幾つかの界層に加えて、太陽系の他の惑星の一つ一つが同じように霊的界層を幾つも持っているからです。地球から遠く離れて行くと、地球圏の霊界と一ばん近くの惑星の霊界とが互いに融合し合う領域に至ります。
各惑星にも地球と同じように霊的存在による管理が行き届いておりますから、それだけ複雑さが増すわけです。ここまで来ると、霊界の探求が地上の熱心な方がお考えになるほどそう簡単に出来るものでないことが判り始めます。
ちなみに太陽を中心に置いてそのまわりに適当に惑星を配置した太陽系の構図を画いてみて下さい。それから、まず地球の周りに、さよう、百個ほどの円を画きます。
同じ事を木星、火星、金星、その他にも行います。太陽にも同じようにして下さい。これで、神界までも探求の手を広げることの出来る、吾々の汲めども尽きぬ興味のある深遠な事情が大ざっぱながら判っていただけるでしょう。
しかし、ことはそれでおしまいではありません。いま太陽について行ったことを他の恒星とその惑星についても当てはめてみなくてはなりません。こうして各々の太陽系について行った上で、今度は太陽系と太陽系との関係についても考えなくてはなりません。
これで、あなたがこちらへお出でになったら知的探求の世界が無限に広がっていくと述べた真意が理解していただけるでしょう。
ところで、その霊的界層は全部で幾つあるかという質問をよく受けます。ですが、以上の説明によって、まさか貴殿が同じ質問をなさることはありますまい。
万一お聞きになっても、たかが第十界の住民にすぎない吾々にはこうお答えするしかありません
──〝知りません。また、これ以後同じ質問を何百万回、何億回繰り返され、その間吾々が休むことなく向上進化し続けたとしても、多分同じ返事を繰返すことでしょう〟と。
さて貴殿にはこの問題を別の角度から考えてみていただきたい。以上述べた世界は霊的エネルギーの世界です。ご承知の如く天体は科学者が〝引力〟と呼ぶ所のエネルギーによって互いに影響し合っておりますが、各天体の霊界と霊界との間にも霊的エネルギーによる作用と反作用とがあります。
先ほどの太陽系の構図をご覧になればお判りのとおり、地球はその位置の関係上、必然的に数多くの界層からの作用を受け、それも主として太陽と二、三の惑星が一ばん大きいことが推察されます。
その通りです。占星術にもやはり意味があるのです。科学者はそれについて余計な批判はしない方がいいでしょう。と言うのは、霊的エネルギーというものが厳として存在することを理解しない科学者には到底理解しがたいことであり、ともすると危険でもあるからです。
霊的エネルギーには実質があり、驚異的な威力を秘めております。それがあればこそ各界がそれなりの活動ができ、なおかつ他の天体の霊界との関係も維持されているのです。こうした問題になると最高の崇敬の念と祈りの気持ちを持って研究に当たらねばなりません。
何となれば、そこは天使の経綸する世界であり、さらにその上には全ての天使をも一つに収めてしまう宇宙の大霊が在しまし、吾々はただ讃仰を捧げるのみ。何とお呼びすべきかも知りません。
近づかんとすれば即座に己れの力の足らなさを思い知らされます。距離を置いて直視せんとしても、その光の強さに目が眩み、一面真っ暗闇となってしまいます。
しかし貴殿に、そして未知なるものへ敬虔の念を抱かれる方に誓って申し上げますが、たとえ驚異によりて幾度も立ちすくまされることはあっても、神の存在感の消え失せることは決してないこと、神の息吹とはすなわち神の愛であり、その導きは慈母が吾が子を導く手にも似て、この上なく優しいものであることを自覚せぬ時は一時たりともありません。
それ故、貴殿と同じく吾々は神を信じてその御手にすがり、決して恐れることはありません。栄光よりさらに大いなる栄光へと進む神々の世界は音楽に満ち溢れております。友よ来たれ。
挫けず倦まず歩まれよ、と申し上げたい。行く手を遮る霧も進むにつれて晴れ行き、未知の世界を照らす光が一層その輝きを増すことでしょう。未知の世界は少しも怖れるに及びません。故に吾々は惑星と星辰の世界の栄光と神の愛の真っ只中を幼子の如く素直に、そして謙虚に歩むのです。
友であり同志である貴殿に今夜もお別れを述べると同時に、この機会を与えて下さったことに感謝申し上げます。吾々の通信が、たとえ数は少なくとも、真理を求める人にとって僅かでもお役に立つことを祈っております。では改めてお寝みを申し上げます。神のお恵みを。 ♰
5 果てしなき生命の旅
一九一三年十月二五日 土曜日
今夜も、もしよろしければ、死後の世界に関する昨夜の通信の続きをお届けしようと思います。
引き続き太陽系に関してですが、昨日の内容を吟味してみると、まだまだ死後の世界の複雑さの全てを述べ尽くしておりません。
と言うのも、太陽と各惑星を取り巻く界層が互いに重なり合っているだけでなく、それぞれの天体の動きによる位置の移動──ある時は接近しある時は遠ざかるという変化に応じて霊界の相互関係も変化している。
それ故、地球へ押し寄せる影響力は一秒たりとも同じではないと言っても過言ではありません。事実その通りなのです。
また同じ地球上でもその影響の受け方、つまり強さは一様ではなく場所によって異なります。それに加えて、太陽系外の恒星からの放射性物質の流入も計算に入れなければならない。
こうした条件を全て考慮しなければならないのです。何しろそこでは霊的存在による活発な造化活動が営まれており、瞬時たりとも休むことがないことを銘記して下さい。
以上が各種の惑星系を支配している霊的事情のあらましです。地上の天文学者の肉眼や天体望遠鏡に映じるのはその外面に過ぎません。ところが実は以上述べたことも宇宙全体を規模として考えた時は大海の一滴に過ぎない。船の舳先に立っている人間が海のしぶきを浴びている光景を思い浮かべていただきたい。
細かいしぶきが霧状になって散り、太陽の光を受けてキラキラと輝きます。その様子を見て〝無数のしぶき〟と表現するとしたら、ではそのしぶきが戻って行く海そのものはどう表現すべきか。
キラキラ輝く満天の星も宇宙全体からすればその海のしぶき程度に過ぎません。それも目に見える表面の話です。しぶきを上げる海面の下には深い深い海底の世界が広がっている如く、宇宙も人間の目に映じる物的世界の奥に深い深い霊の世界が広がっているのです。
もう少し話を進めてみましょう。そもそも〝宇宙〟という用語自体が、所詮表現できるはずのないものを表現するために便宜的に用いられているものです。
従って明確な意味は持ち合わせません。地上のある詩人が宇宙を一篇の詩で表現しようとして、中途で絶望して筆を折ったという話がありますが、それでよかったのです。もしも徹底的にやろうなどと意気込んでいたら、その詩は永遠に書き続けなければならなかったことでしょう。
一体宇宙とは何か。どこに境界があるのか。無限なのか。もし無限だとすると中心が無いことになる。すると神の玉座はいずこにあるのか。神は全創造物の根源に位置していると言われるのだが。
いや、その前に一体創造物とは何を指すのか。目に見える宇宙のことなのか。それとも目に見えない世界も含むのか。
実際問題として、こうした所詮理解できないことをいくら詮索してみたところで何の役にも立ちません。もっとも、判らないながらもこうした問題を時おり探ってみるのも、人間の限界を知る上であながち無益とも言えますまい。そう観念した上で吾々は、理解できる範囲のことを述べてみたいと思います。
これまで述べて来た霊的界層にはそれぞれの程度に応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて一界また一界と、低い界から高い界へ向けて進化して行く。そして、先に述べたように、そうやって向上して行くうちにいつかは、少なくとも二つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。
さらに向上すると今度は二つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径を持つ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、二つ以上の太陽系まで包含してしまうほどの広大な世界に至る。
そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的・物的の区別なく、影響力を行使している。ご承知のとおり吾々はようやく惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化して来たところです。
その先にはまだまだ荘厳にして驚異的な世界が控えておりますが、この第十界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実なことは何一つ判らないという有様です。
が、これで吾々が昨夜の通信の中で〝神〟のことを、何とお呼びすべきか判らぬ未知にして不可知の存在のように申し上げた、その真意がおぼろげながらも理解していただけるのではないかと思います。
ですから、貴殿が創造主を賛美する時、正直言ってその創造主の聖秩について何ら明確な観念はお有ちでない。〝万物の創造主のことである〟と簡単におっしゃるかも知れませんが、では〝万物〟とは一体何かということになります。
さて少なくとも吾々の界層から観る限り次のことは確実に言えます。すなわち〝創造主〟という用語をもって貴殿が何を意味しようと、確固たる信念を持って創造主に祈願することは間違っていない。
その祈りの念はまず最低界に届き、祈りの動機と威力次第でそこでストップするものとそこを通過して次の界に至るものがある。中にはさらに上昇して高級神霊界へと至るものもある。
吾々の界のはるか上方には想像を超えた光と美のキリスト界が存在する。そこまで到達した祈りはキリストを通して宇宙神へと届けられる。地上へ誕生して人類に父なる神を説いたあの主イエス・キリストである。(この問題に関しては第二巻以降で詳しく説かれる。──訳者)
ところで、以上述べたことは全て真実ではあるが、その真実も、語りかける吾々の側とそれを受ける貴殿の側の双方の能力の限界によって、その表現が極めて不適切となるのです。
例えば段階的に各界層を通過して上昇して行くと述べた場合、あたかも一地点から次の地点へ、さらに次の地点へと、平面上を進むのと同じ表現をしていることになります。ですが実際は吾々の念頭にある界層は〝地帯〟というよりは〝球体〟と表現した方がより正確です。
なぜなら、繰り返しますが、高い界層は低い界層の全てを包んでおり、その界に存在するということは低い界の全てに存在するということでもあるからです。
その意味で〝神は全てであり、全ての中に存在し、全てを通じて働く〟という表現、つまり神の遍在性を説くことはあながち間違ってはいないのです。
どうやら吾々はこのテーマに無駄な努力を費やし過ぎている感じがします。地球的規模の知識と理解力を一つの小さなワイングラスに譬えれば、吾々はそれに天界に広がる広大なブドウ畑からとれたブドウ酒を注がんとしているようなもので、この辺でやめておきましょう。
一つだけお互いに知っておくべきことを付け加えておきますが、その天界のブドウ園の園主(宇宙神)も園丁(神々)も霊力と叡智において絶対的信頼のおける存在であるということです。
人生はその神々の世界へ向けて果てしない旅であり、吾々は目の前に用意された仕事に精を出し、完遂し、成就し、それから次の仕事へと進み、それが終わればすぐまた次の仕事が待っている。かくして、これでおしまいという段階は決して来ない。
向上すればするほど〝永遠〟あるいは〝終わりなき世界〟という言葉に秘められた意味の真実性を悟るようになります。しかし貴殿にそこまで要求するのは酷というものでしょう。失礼な言い分かも知れませんが。
では再び来れることを希望しつつお別れします。ささやかとは言え天界の栄光の一端をこうして聞く耳を持つ者に語りかけることが出来るのは有難いことであり、楽しいことでもあります。どうか、死後に待ち受ける世界は決して黄昏に包まれた実体なき白日夢の世界ではないことを確信していただきたい。そしてそのことを聞く耳を持つ者に伝えていただきたい。
断じてそのような世界ではないのです。そこは奮闘と努力の世界です。善意と努力とが次々と報われ成就される世界です。父なる神へ向けて不屈の意志を持って互いに手を取り合って向上へと励む世界です。
その神の愛を吾々は魂で感じ取り鼓舞されてはおりますが、そのお姿を排することも出来ず、その玉座は余りに崇高なるが故に近づくことも出来ません。
吾々は向上の道を必死に歩んでおります。後に続く者の手を取ってあげ、その者のスソをその後に続く者が握りしめて頑張っております。友よ、吾々も奮闘していることを忘れないでいただきたい。まさに奮闘なのです。貴殿と、そして貴殿のもとに集まる人々と同じです。
吾々が僅かでも先を行けば、つい遅れがちなる人も大勢おられることでしょう。どうかそういう方たちの手を貴殿がしっかりと握ってあげていただきたい──優しく握ってあげていただきたい。貴殿自身も同じ人間としての脆さを抱えておられることを忘れてはなりません。
そして、例えあなたに荷が過ぎると思われても決して手を離さず、上へ向けて手を伸ばしていただきたい。そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折はさせません。
ですから明るい視野を持ち、清らかな生活に徹することです。挫折するどころか、視野が燦然たる輝きを増すことでしょう。聖書にもあるではありませんか──心清き者は幸なり。神を見ればなり、と。(マタイ5・8) ♰
6 予知現象の原理
一九一三年十月三一日 金曜日
吾々がこうして地上を訪れるのは人間を援助するためである、と思って下さるのは結構であるが、人間本来の努力が不要となるほどの援助を期待されるのは間違いです。地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じるようなことは許されません。
これはもう自明の理と言ってもよいほどの当たり前のことでありながら、人間にしか出来ないことまで吾々に依頼する人が多く、それもほどほどならともかくも、些か度を超した要求をする人が多くて困ります。
──どなたでしょうか
ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です。
──どうも。いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。
違いましょう。同じではないはずです。その理由は一つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、こちらでもそれぞれ特有の性格が出るものです。もう一つは、地上での時代がご母堂たちとは違うからです。
──古い時代の方ですか。
さよう。英国でした。ジョージ一世(1660~1727)の時代です。もっと古い時代の者もおります。
──霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教えねがえませんか。
いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく分かりそうに思えても、吾々には大変厄介なものです。でも分かるだけのことを申し上げましょう。
私はウォーリック州に住み、学校の教師──学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確なことは判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のないことです。
では用意してきたものを述べさせていただきましょうか。吾々は援助することは許されていても、そこには思慮分別が必要です。
例えば吾々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をするための才能をお授けになっていることを忘れた考えです。人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来るかぎりのことを尽くした時にはじめて吾々が手を差しのべ、向上と真理探究の道を誤らないように指導してあげます。
──何か良い例を挙げていただけますか。
すぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導していた時のことです。彼は夢の中に予知現象が混じっている原因を研究していました。つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。
私との意志の疎通ができた時に、私は、今までどおりに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時機をみて理解させてあげようという主旨のことを伝えました。
その夜彼が寝入ってから私は直接彼に会い(※)現在という時の近くを浮遊している出来ごと、つまり少し前に起きたことと、そのすぐ後に起きることとを影像の形で写し出す実験をする霊界の研究室へ案内しました。
そこでの実験にも限界があり、ずっと昔のことや、ずっと先のことまでは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。(睡眠中人間は肉体から脱け出て、地上または霊界を訪れる。その時かならず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄には滅多に感応しない。きちんと回想出来る人が霊能者である。──訳者)
吾々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映し出し、よく見ているように言いました。そこに〝上演〟されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の町に入ってくる光景でした。終わると彼は礼を言い、吾々の手引きで肉体へ戻って行きました。
翌朝目を覚ました時何となくどこかの科学施設で実験をしている人たちの中にいたような感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。が午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇って来ました。それと一緒に、断片的ながら夢の中の体験も幾つか思い出しました。
それから二、三日後のことです。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問することになっているという記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。
吾々が案内した実験室も、スクリーンに上演して見せたものも思い出せません。がその人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこういうことでした。──肉体が眠っている時人間は少なくとも時たまは四次元の世界を訪れる。
その四次元世界では本来のことを覗き見ることが出来る。が、この三次元の世界に戻る時にその四次元世界での体験の全てを持ち帰ることは出来ない。しかし地上の人物とか行列の顔といった三次元世界で〝自然〟なものは何とか保持して帰る、と。
予知された夢と実際の出来ごととの関係は四次元状態から三次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きいために、時間的にも、出来ごとの連続性においても、後者よりはどうしても広い範囲に亘ることになります。
さて、こうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。
むろん彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずであり、実際的効用を持っております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上のことは出来なかったでしょう。
以上が吾々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合のよいやり方をしつこく要求する人は、吾々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身につけてくれれば再び戻って来て援助を続けることになります。
ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時おり吾々の通信が霊界からのものであることに疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)鮮明にしてくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えになれば、貴殿自ら考察していく上でヒントになるものはちゃんと与えてあることに納得がいかれるはずです。
忘れないでいただきたいのは、貴殿はまだまだ〝鍛錬〟の段階にあるということです。本来の目的はまだまだ成就されておりません。いや、地上生活中の成就は望めないでしょう。
ですが吾々を信じて忠実に従って下されば事情がだんだん明瞭になって行きます。自己撞着のないものだけを受け入れていけばよろしい。証拠や反証を求めすぎてはいけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。
吾々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。が、その批判に公正を欠いてはなりません。貴殿のまわり、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方がはるかに多く存在しています。
少しでも多くの真理を求めることです。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。例えば山道を行くとしましょう。貴殿は二つの方向へ注意を向けます。
すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険が無いかを確かめます。が、危険が無いかというのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道という積極的な方へ注意を向けるでしょう。それでよろしい。危険ばかり気にしては先へ進めません。
ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進むことです。怖がる者はとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥ることがよくあります。
では失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝き渡っております。その輝きは万人に隔てなく見えるはずのものです──見る意志なき者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。
<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りに呆っ気なさすぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭い切れない。そこで次に通信を引き継いだザブディエル霊にその点を率直に質してみた。(第二巻の冒頭で──訳者)
──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょう。あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。
さよう、終わりである。あれはあれなりで結構である。もともと一つにまとまった物語、あるいは小説のようなものを意図したものではないことを承知されたい。断片的かも知れぬが、正しき眼識を持って読む者には決して無益ではあるまい。
──正直言って私はあの終わり方に失望しております。余りに呆気なさすぎます。また最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、有りのままを公表するということですか。
それは汝の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが、ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられるさらに高尚なる通信のための下準備であった。それを予が行いたい。
結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本篇はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取るほかはなさそうである。
G・V・オーエン
解説 霊的啓示の進歩
本書は原著者の「まえがき」にもある通り一九一三年から始まった本格的な霊界通信を四つの時期に分けてまとめた四部作の内の第一部である。
「推薦の言葉」を寄せたノースクリッフ卿が社主を務める「ウイークリー・ディスパッチ」紙上に連載され、終了と同時に四冊の単行本となって発行されたのであるが、これとは別に、オーエン氏の死後、残された霊界通信の中から断片的に編集されたものが二編あり、それが一冊にまとめ第五巻として発行されている。
誰が編纂したのか、その氏名は記されていない。それは己むを得ないとしても、内容的に前四巻のような一貫した流れが無く、断片的な寄せ集めの感が拭えないので、今回のシリーズには入れないことにした。
通信全体の内容を辿ってみると、第一巻の本書はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占め、その母親らしさと女性らしさとが内容と文体によく表れていて、言ってみれば情緒的な感じが強い。
がその合間をぬってアストリエルと名告る男性の霊からの通信が綴られ、それが第六章にまとめられている。地上で学校長をしていたというだけあって内容が極めて学問的で高度なものとなっている。
がそれも第二巻以降の深遠な内容の通信を送るための(オーエン氏の)肩ならし程度のものであったらしい。
第二巻を担当したザブディエルと名告る霊はオーエン氏の守護霊であると同時に、本通信のために結成された霊団の最高指導霊でもある。が地上時代の身元については通信の中に何の手掛かりも出て来ない。
高級霊になると滅多に身元を明かさないものであるが、それは一つには、こうした地上人類の啓発のための霊団の最高指揮者を命ぜられるほどの霊になると、歴史的に言っても古代に属する場合が多く、例え歴史にその名を留めていても、伝説や神話がまとわりついていて信頼できない、ということが考えられる。
さらには、それほどの霊になると地上の人間による〝評判〟などどうでもよいことであろう。このザブディエル霊の通信の内容はいかにも高級霊らしい厳粛な教訓となっている。
これが第三巻そして第四巻となると、アーネルと名告る(ザブディエルと同じ界の)霊が荘厳な霊界の秘密を披露する。
とくにイエス・キリストの神性に関する教説は他のいかなる霊界通信にも見られなかった深遠なもので、キリストを説いてしかもキリストを超越した、人類にとって普遍的な意義を持つ内容となっている。まさに本通信の圧巻である。
さて近代の霊界通信と言えば真っ先に挙げられるのがステイトン・モーゼスの自動書記通信『霊訓』であり、最近ではモーリス・バーバネルの霊言通信『シルバー・バーチの霊訓』である。そして時期的にその中間に位置するのがこの『ベールの彼方の生活』である。
内容的に見ると『霊訓』はキリスト教的神学の誤謬を指摘し、それに代わって霊的真理を説くという形で徹頭徹尾、文字通り〝霊的教訓〟に終始し、宇宙の霊的組織や魂の宿命、例えば再生問題などについては概略を述べる程度で、余り深入りしないようにという配慮さえ窺われる。それは本来の使命から逸脱しないようにという配慮でもあろう。
これが『ベールの彼方の生活』になると宇宙の霊的仕組みやキリストの本質について極めて明快に説き明かし、それが従来の通念を破るものでありながら、それでいて理性を納得させ且つ魂に喜悦を覚えさせるものを持っている。もっともそれは、正しい霊的知識を持つ者にかぎられることではあるが。
そしてシルバーバーチに至ると人間世界で最も関心をもたれながら最も異論の多い〝再生〟の問題について正面から肯定的に説き、これこそ神の愛と公正を成就するための不可欠の摂理であると主張する。ほぼ五十年続いた霊言に矛盾撞着は一つも見られない。
同時にシルバーバーチが〝苦難の哲学〟とでも言えるほど苦しみと悲しみの意義を説いているのも大きな特徴で、「もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた宿命に背いたことになります。
私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間と成って下さることが私どもの真の目的なのです」と語るのである。
こう観て来ると、各通信にそれぞれの特徴が見られ、焦点が絞られていることが判る。そして全体を通覧した時、そこに霊的知識の進歩の後が窺われるのである。それをいみじくも指摘した通信が『霊訓』の冒頭に出ている。その一部を紹介する。
『啓示は神より授けられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾することは有り得ぬ。但しその真理は常にその時代の必要性と受け入れ能力に応じたものが授けられる。
一見矛盾するかに見えるのは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。
時の経過とともに、何時しか頭初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなって行く。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなってしまう。やがて新しき啓示が与えられる。
がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾は無い。
が矛盾せるが如く思わしめる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。
人間は己れに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。
神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして、限られた人間への特殊なる啓示と思うがよい。これまでも常にそうであった。モーゼは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者をみるがよい。
自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意の出来ていた者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それで良いのである。』
今改めて本霊界通信を通覧すると、第一巻より第四巻へ段階的に〝進歩〟して行っていることが判る。それを受け入れるか否か、それは右の『霊訓』のとおり〝己れに宿る理性の光〟によって判断して頂く他はない。願わくば読者の理性が偏見によって曇らされないことを祈りたい。
訳者としてはただひたすら、本通信に盛られた真理を損ねないようにと務めるのみであるが、次元の異なる世界の真相を如何に適切な日本語で表現していくべきか、前途を思うと重大なる責任を感じて身の引き締まる思いがする。が〝賽は投げられた〟のである。あとは霊界からの支援を仰ぐほかはない。
シルバーバーチの言葉を借りれば〝受け入れる用意の出来た人々〟が一人でも多くこの霊界通信と巡り合い、その人なりの教訓を摂取して下さることを祈る次第である。
(一九八五年)
新装版発行にあたって
「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数、寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。
平成十六年二月
近藤 千雄
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