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八章 地球浄化の大事業
1 科学の浄化
一九一九年三月十二日 水曜日
さて、今やキリストの軍勢に加わった吾々はキリストのあとについて降下しました。いくつかの序列にしたがった配置についたのですが、言葉による命令を受けてそうしたのではありません。
それまでの鍛錬によって、直接精神に感応する指示によって自分の持ち場が何であるか、何が要求されているかを理解することができます。それで、キリストとの交霊によって培われた霊感にしたがって各自が迷うことなくそれぞれの位置につき、それぞれの役割に取りかかりました。
ではここで、地球への行軍の様子を簡単に説明しておきましょう。地球の全域を取り囲むと吾々は、その中心部へ向けていっせいに降下していきました。こういう言い方は空間の感覚──三次元的空間の発想です。
吾々の大計画の趣旨を少しでも理解していただくには、こうするよりほかに方法がないのです。
キリストそのものは、すでに述べましたように、遍在しておりました。絶大な機能をもつ最高級の大天使から最下層の吾々一般兵士にいたるまでの、巨万の大軍の一人一人の中に同時に存在したのです。自己の責務について内部から霊感を受けていても、外部においては整然とした序列による戦闘隊形が整えられておりました。
最高の位置にいてキリストにもっとも近い天使から(キリストからの)命が下り、次のランクの天使がそれを受けてさらに次のランクへと伝達されます。
その順序が次々と下降して、吾々はそれをすぐ上のランクの者から受け取ることになります。その天使たちは姿も見えます。姿だけでしたら大体三つ上の界層の者まで見えますが、指図を受けるのは、よくよくの例外を除けば、すぐ上の界層の者からにかぎられます。
さて吾々第十界の者がキリストのあとについて第九界まで来ると、吾々なりの活動を開始しました。まず九界全域にわたってその周囲を固め、徐々に内部へ向けて進入しました。するとキリストとその従者が吾々の界に到着された時と同じ情景がそこでも生じました。
九界にくらべて幾分かでも高い霊性を駆使して吾々は、その界の弱い部分を補強したり、歪められた部分を正常に修復したりしました。それが終了すると、続いて第八界へと向かうのでした。
それだけではありません。九界での仕事が完了すると、ちょうど十一界の者と吾々十界の者との関係と同じ関係が、吾々と九界の者との間に生じます。
つまり九界の者は吾々十界の者の指図を受けながら、吾々のあとについて次の八界へ進みました。八界を過ぎると、八界の者は吾々から受けた指図をさらに次の七界の者へと順々に伝達していきます。
かくしてこの過程は延々と続けられて、吾々はついて地球圏に含まれる三つの界層を包む大気の中へと入っていきました。そこまでは各界から参加者を募り、一人一人をキリストの軍勢として補充していきました。しかしここまで来ていったんそれを中止しました。
と言うのは、地球に直接つながるこの三つの界層は、一応、一つの境涯として扱われます。なぜなら地球から発せられる鈍重な悪想念の濃霧に包まれており、吾々の周囲にもそれがひしひしと感じられるのです。
黙示録にいう大ハルマゲドン(善と悪との大決戦──16・16)とは実にこのことです。吾々の戦場はこの三つの界層にまたがっていたのです。そしてここで吾々はいよいよ敵からの攻撃を受けることになりました。
その間も地上の人間はそうしたことに一向にお構いなく過ごし、自分たちを取り巻く陰湿な電気を突き通せる人間はきわめて稀にしかいませんでした。が、
吾々の活動が進むにつれてようやく霊感によって吾々の存在を感じ取る者、あるいは霊視力によって吾々の先遺隊を垣間見る者がいるとの話題がささやかれるようになりました。
そうした噂を一笑に付す者もいました。吾々を取り巻く地上の大気に人間の堕落せる快楽の反応を感じ取ることができるほどでしたから、多くの人間が霊的なことを嘲笑しても不思議ではありません。
そこで吾々は、この調子では人間の心にキリストへの畏敬の念とその従僕である吾々への敬意が芽生えるまでには、よくよく苦難を覚悟せねばなるまいと見て取りました。しかしそのことは別問題として、先を急ぎましょう。
とは言え、吾々の作戦活動を一体どう説明すればよいのか迷います。もとより吾々は最近の地上の出来ごとについて貴殿によく理解していただきたいとは願っております。
すばらしい出来ごと、地獄さながらの出来ごと、さらには善悪入り乱れた霊の働きかけ──目に見えず、したがって顧みられることもなく、信じられることもなく、しかし何となく感じ取られながら、激しい闘争に巻き込まれている様子をお伝えしたいのです。
貴殿の精神の中の英単語と知識とを精一杯駆使して、それを比喩的に叙述してみます。それしか方法がないのです。が、せめてそれだけでも今ここで試みてみましょう。
地球を取り巻く三層の領域まで来てみて吾々は、まず第一にしなければならない仕事は悪の想念を掃討してしまうことではなく、善の想念へ変質させることであることを知りました。
そこでその霧状の想念を細かく分析して最初に処理すべき要素を見つけ出しました。吾々より下層界からの先遺隊が何世紀も前に到着してその下準備をしてくれておりました。ここでは吾々第十界の者が到着してからの時期についてのみ述べます。
地球の霊的大気には重々しくのしかかるような、どんよりとした成分がありました。実はそれは地上の物質科学が生み出したもので、いったん上昇してから再び下降して地上の物質を包み、その地域に住む人々に重くのしかかっておりました。
もっとも、それはたとえ未熟ではあっても真実の知識から生まれたものであることは確かで、その中に誠実さが多量に混じっておりました。
その誠実さがあったればこそ三つの界層にまで上昇できたのです。しかし所詮は物的現象についての知識です。いかに真実味があってもそれ以上に上昇させる霊性に欠けますから、再び物質界へと引き戻されるにきまっています。
そこで吾々はこれを〝膨張〟という手段で処理しました。つまり吾々は言わばその成分の中へ〝飛び込んで〟吾々の影響力を四方へ放散し、その成分を限界ぎりぎりまで膨らませました。膨張した成分はついに物質界の外部いっぱいにまで到着しました。が、
吾々の影響力が与えた刺戟はそこで停止せず、みずからの弾みで次第に外へ外へと広がり、ついに物質界の限界を超えました。
そのため物的と霊的との間を仕切っている明確な線──人間はずいぶんいい加減に仕切っておりますが──に凹凸が生じはじめ、そしてついに、ところどころに小さなひび割れが発生しました──最初は小さかったというまでで、その後次第に大きくなりました。
しかし大きいにせよ小さいにせよ、いったん生じたひび割れは二度と修復できません。
たとえ小さくても、いったん堤防に割れ目ができれば、絶え間なく押し寄せていたまわりの圧力がその割れ目をめがけて突入し、その時期を境に、霊性を帯びた成分が奔流となって地球の科学界に流れ込み、そして今なおその状態が続いております。
これでお分かりのように、吾々は地上の科学を激変によって破壊することのないようにしました。過去においては一気に紛砕してしまったことが一度や二度でなくあったのです。
たしかに地上の科学はぎこちなく狭苦しいものではありますが、全体としての進歩にそれなりの寄与はしており、吾々もその限りにおいて敬意を払っていました。それを吾々が膨張作用によって変質させ、今なおそれを続けているところです。
カスリーン嬢の援助を得て私および私の霊団が行っているこの仕事は今お話したことと別に関係なさそうに思えるでしょうが、実は同じ大事業の一環なのです。
これまでの吾々の通信ならびに吾々の前の通信をご覧になれば、科学的内容のもので貴殿に受け取れるかぎりのものが伝えられていることに気づかれるでしょう。大した分量ではありません。それは事実ですが、貴殿がいくら望まれても、能力以上のものは授かりません。
しかし、次の事実をお教えしておきましょう。この種の特殊な啓示のために貴殿よりもっと有能で科学的資質を具えた男性たち、それにもちろん少ないながらも女性たちが、着々と研さんを重ねているということです。道具として貴殿よりは扱いやすいでしょう。
その者たちを全部この私が指導しているわけではありません。それは違います。私にはそういう資格はあまりありませんので・・・・・・。各自が霊的に共通性をもつ者のところへ赴くまでです。そこで私は貴殿のもとを訪れているわけです。
科学分野のことについては私と同じ霊格の者でその分野での鍛錬によって技術を身につけている者ほどにはお伝えできませんが、私という存在をあるがままにさらけ出し、また私が身につけた知識はすべてお授けします。
私が提供するものを貴殿は寛大なる心でもって受けてくださる。それを私は満足に思い、またうれしく思っております。
貴殿に神のより大きい恩寵のあらんことを。今回の話題については別の機会に改めて取りあげましょう。貴殿のエネルギーが少々不足してきたようです。 アーネル ±
2 宗教界の浄化
一九一九年三月十七日 月曜日
次に浄化しなければならない要素は宗教でした。これは専門家たちがいくら体系的知識であると誇り進歩性があると信じてはいても、各宗教の創始者の言説が束縛のロープとなって真実の理解の障害となっておりました。
分かりやすく言えば、私が地上時代にそうであったように(四章2参照)ある一定のワクを超えることを許されませんでした。そのワクを超えそうになるとロープが──方向が逆であればなおのこと強烈に──その中心へつながれていることを教え絶対に勝手な行動が許されないことを思い知らされるのでした。
その中心がほかでもない、組織としての宗教の創始者であると私は言っているのです。イスラム教がそうでしたし、仏教がそうでしたし、キリスト教もご多分にもれませんでした。
狂信的宗教家が口にする言葉はなかなか巧みであり、イエスの時代のユダヤ教のラビ(律法学者)の長老たちと同じ影響力を持っているだけに吾々は大いに手こずりました。
吾々は各宗教のそうした問題点を細かく分析した結果、その誤りの生じる一大原因を突きとめました。
私は差しあたって金銭欲や権力欲、狂言という言わば〝方向を間違えた真面目さ〟、自分は誠実であると思い込んでいる者に盲目的信仰を吹き込んでいく偽善、こうした派生的な二次的問題は除外します。
そうしたことはイスラエルの庶民や初期の教会の信者たちによく見られたことですし、さらに遠くさかのぼってもよくあったことです。私はここではそうした小さな過ちは脇へ置いて、最大の根本的原因について語ろうと思います。
吾々は地球浄化のための一大軍勢を組織しており、相互に連絡を取り合っております。が各小班にはそれぞれの持ち場があり、それに全力を投入することになっております。
私はかつて地上でキリスト教国に生をうけましたので、キリスト教という宗教組織を私の担当として割り当てられました。それについて語ってみましょう。
私のいう一大根本原因は次のようなことです。
地上ではキリストのことをキリスト教界という組織の創始者であるかのような言い方をします。が、それはいわゆるキリスト紀元(西暦)の始まりの時期に人間が勝手にそう祭り上げたにすぎず、以来今日までキリスト教の発達の頂点に立たされてきました。
道を求める者がイエスの教えに忠実たらんとして教会へ赴き、あの悩みこの悩みについて指導を求めても、その答えはいつも〝主のもとに帰り主に学びなさい〟と聞かされるだけです。
そこで、ではその主の御心はどこに求めるべきかを問えば、その答えはきまって一冊の書物──イエスの言行録であるバイブルを指摘するのみです。その中に書かれているもの以外のものは何一つ主の御心として信じることを許されず、結局はそのバイブルの中に示されているかぎりの主の御心に沿ってキリスト教徒の行いが規制されていきました。
かくしてキリスト教徒は一冊の書物に縛りつけられることになりました。なるほど教会へ行けばいかにもキリストの生命に満ち、キリストの霊が人体を血液がめぐるように教会いっぱいに行きわたっているかに思えますが、しかし実はその生命は(一冊の書物に閉じ込められて)窒息状態にあり、身体は動きを停止しはじめ、ついにはその狭苦しい軌道範囲をめぐりながら次第に速度を弱めつつありました。
記録に残っているイエスの言行が貴重な遺産であることは確かです。それは教会にとって不毛の時代を導く一種のシェキーナ(ユダヤ教の神ヤハウェが玉座で見せた後光に包まれた姿──訳者)のごときものでした。
しかし、よく注意していただきたいのは、例のシェキーナはヤコブの子ら(ユダヤ民族)の前方に現れて導いたのです。
その点、新約聖書は前方に現れたのではなく、のちになって崇められるようになったものです。それが放つ光は丘の上の灯台からの光にも似てたしかに真実の光ではありましたが、それは後方から照らし、照らされた人間の影が前方に映りました。
光を見ようとすれば振り返って後方を見なければなりません。そこに躓きのもとがありました。前方への道を求めて後方へ目をやるというのは正常なあり方ではありません。
そこに人間がみずから犯した過ちがありました。人間はこう考えたのです──主イエスはわれらの指揮者である。主がわれらの先頭に立って進まれ、われらはそのあとに付いて死と復活を通り抜けて主の御国へ入るのである、と。
が、そのキャプテンの姿を求めて彼らは回れ右をして後方へ目をやりました。それは私に言わせれば正常ではなく、また合理性にそぐわないものでした。
そこで吾々は大胆不敵な人物に働きかけて援助しました。ご承知の通りイエスは自分より大きい業を為すように前向きの姿勢を説き、後ろから駆り立てるのではなく真理へ手引きする自分に付いてくるように言いました。(※)
そのことに着目し理解して、イエスの導きを信じて大胆に前向きに進んだ者がいました。
彼らは仲間のキリスト教者たちから迫害を受けました。しかし次の世代、さらにその次の世代になって、彼らの蒔いたタネが芽を出しそして実を結びました。(※ヨハネ14・12)
これでお分かりでしょう。人間が犯した過ちは生活を精神的に束縛したことです。
生ける生命を一冊の書物によってがんじがらめにしたことです。バイブルの由来と中味をあるがままに見つめずに──それはそれなりに素晴らしいものであり、美しいものであり、大体において間違ってはいないのですが──それが真理のすべてであり、その中には何一つ誤りはないと思い込んだのです。
しかしキリストの生命はその後も地上に存続し、今日なお続いております。四人の福音書著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)によって伝えられたバイブルの中のわずかな言行は、およそキリスト教という流れの始源などではあり得ません。
その先の広い真理の海へと続く大きい流れの接点で立てているさざ波ていどのものにすぎません。
そのことに人間は今ようやく気づきはじめています。そしてキリストは遠い昔の信心深き人々に語りかけたように今も語りかけてくださることを理解しはじめております。
そう理解した人たちに申し上げたい──迷わず前進されよ。後方よりさす灯台の光を有難く思いつつも、同時に前方にはより輝かしい光が待ちうけていることを、それ以上に有難く思って前進されよ、と。
なぜなら当時ナザレ人イエスがエルサレムにおられたと同じように今はキリストとして前方にいらっしゃるからです。(後方ではなく)前方を歩んでおられるのです。
恐れることなくそのあとに付いて行かれることです。手引きしてくださることを約束しておられるのです。あとに付いて行かれよ。躊躇しても待ってはくださらないであろう。福音書に記されたことを読むのも結構であろう。が、
前向きに馬を進めながら読まれるがよろしい。〝こうしてもよろしいか、ああしてもよろしいか〟と、あたかもデルポイの巫女に聞くがごとくに、いちいち教会の許しを乞うことはお止めになることです。そういうことではなりません。
人生の旅に案内の地図をたずさえて行かれるのは結構です。進みつつ馬上で開いてごらんになるがよろしい。少なくとも地上を旅するのには間に合いましょう。
細かい点においては時代おくれとなっているところがありますが、全体としてはなかなかうまく且つ大胆に描かれております。しかし新しい地図も出版されていることを忘れてはなりません。ぜひそれを参照して、古いものに欠けているところを補ってください。
しかし、ひたすら前向きに馬を進めることです。そして、もしもふたたび自分を捕縛しようとする者がいたら、全身の筋肉を引きしめ、膝をしっかりと馬の腹に当てて疾駆させつつ、後ろから投げてかかるロープを振り切るのです。
残念ながら、前進する勇気に欠け前を疾走した者たちが上げていったホコリにむせかえり、道を間違えて転倒し、そして死にも似た睡眠へと沈みこんで行く者がいます。
その者たちに構っている余裕はありません。なぜなら先頭を行くキャプテンはなおも先を急ぎつつ、雄々しく明快なる響きをもって義勇兵を募っておられるのです。その御声を無駄に終わらせてはなりません。
その他の者たちのことは仲間が大勢いることですから同情するには及ばないでしょう。
死者は死者に葬らせるがよろしい(マタイ8・22)。そして死せる過去が彼らを闇夜の奥深くへ埋葬するにまかせるがよろしい。
しかし前方には夜が明けつつあります。まだ地平線上には暗雲が垂れこめておりますが、それもやがて太陽がその光の中に溶け込ませてしまうことでしょう───すっかり太陽が上昇しきれば。そしてその時が至ればすべての人間は、父が子等をひとり残らず祝福すべくただ一個の太陽を天空に用意されたことに気づくことでしょう。
その太陽を人間は、ある者は北から、ある者は南から、その置かれた場所によって異なる角度から眺め、したがってある者にとってはより明るく、ある者にとってはより暗く映じることになります。
しかし眺めているのは同じ太陽であり、地球への公平な恩寵として父が給わった唯一のものなのです。
また父は民族によって祝福を多くしたり少なくしたりすることもなさりません。地上の四方へ等しくその光を放ちます。それをどれだけ各民族が自分のものとするかは、それぞれの位置にあって各民族の自由意志による選択にかかった問題です。
以上の比喩を正しくお読みくだされば、キリストがもし一宗教にとって太陽のごときものであるとすれば、それはすべての宗教にとっても必然的に同じものであらねばならないことに理解がいくでしょう。
なんとなれば太陽は少なくとも人間の方から目を背けないかぎりは、地球全土から見えなくなることは有り得ないからです。たしかに時として陽の光がさえぎられることはあります。しかし、それも一時のことです。
アーネル ±
3 キリストについての認識の浄化
一九一九年三月十八日 火曜日
前回はキリストについて語り、キリスト教徒がそうと思い込んでいるものより大きな視野を指摘しました。今回もその問題をもう少し進めてみたいと思います。
実は吾々キリスト教界を担当する霊団はいよいよ地球に近づいた時点でいったん停止しました。吾々の仕事のさまざまな側面をいっそう理解するために、全員に召集令が出されたのです。
集合するとキリストみずからお出ましになり、吾々の面前でその形体をはっきりお見せになりました。中空に立たれて全身を現されました。
そのときの吾々の身体的状態はそれまで何度かキリストが顕現された時よりも地上的状態に近く、それだけにその時のキリストのお姿も物的様相が濃く、また細かいところまで表に出ておりました。
ですから吾々の目にキリストのロープがはっきりと映りました。膝のところまで垂れておりましたが、腕は隠れておらず何も付けておられませんでした。
吾々は一心にそのロープに注目しました。なぜかと言えば、そのロープに地上の人間がさまざまな形で抱いているキリストへの情感が反映していたからです。
それがどういう具合に吾々に示されたかと問われても、それは地上の宗教による崇拝の念と教理から放出される光が上昇してロープを染める、としか言いようがありません。言わば分光器のような働きをして、その光のもつ本質的要素を分類します。
それを吾々が分析してみました。その結果わかったことは、その光の中に真の無色の光線が一本も見当たらないということでした。いずれもどこか汚れており、同時に不完全でした。
吾々はその問題の原因を長期間かけて研究しました。それから、いかなる矯正法をもってそれに対処すべきかが明らかにされました。それは荒療治を必要とするものでした。
人間はキリストからその本来の栄光を奪い取り、代って本来のものでない別の栄光を加えることをしていたのです。が加えられた栄光はおよそキリストにふさわしからぬまがいものでした。やたらと勿体ぶったタイトルと属性ばかりが目につき、響きだけは大ゲサで仰々しくても、内実はキリストの真の尊厳を損なうものでした。
──例をあげていただけませんか。
キリスト教ではキリストのことを神と呼び、人間を超越した存在であると言います。これは言葉の上では言い過ぎでありながら、その意味においてはなお言い足りておりません。キリストについて二つの観点があります。
一つの観点からすれば、キリストは唯一の絶対神ではありません。至尊至高の神性を具えた最高神界の数ある存在のお一人です。父と呼んでいる存在はそれとは別です。
それは人間が思考しうるかぎりの究極の実在の表現です。従って父はキリストより大であり、キリストは父に所属する存在であり神の子です。
しかし別の実際的観点からすれば、吾々にとってキリストは人間が父なる神に帰属させているいかなる権能、いかなる栄光よりも偉大なものを所有する存在です。キリスト教徒にとって最高の存在は全知全能なる父です。
この全知全能という用語は響きだけは絶大です。しかしその用語に含ませている観念は、今こうして貴殿に語っている吾々がこちらへ来て知るところとなったキリストの真の尊厳にくらべれば貧弱であり矮小です。
その吾々ですらまだ地上界からわずか十界しか離れていません。本当のキリストの尊厳たるや、はたしていかばかりのものでしょうか。
キリスト教ではキリストは父と同格である、と簡単に言います。キリスト自身はそのようなことは決して述べていないのですが、さらに続けてこう言います──しかるに父は全能の主である、と。ではキリストに帰属すべき権能はいったい何が残されているのでしょう。
人間はまた、キリストはその全存在をたずさえて地球上へ降誕されたのであると言います。そう言っておきながら、天国のすべてをもってしてもキリストを包含することはできないと言います。
こうしたことをこれ以上あげつらうのは止めましょう。私にはキリストに対する敬愛の念があり、畏敬の念をもってその玉座の足台に跪く者であるからには、そのキリストに対して当てられるこうした歪められた光をかき集めることは不愉快なのです──たまらなく不愉快なのです。
そうした誤った認識のために主のロープはまったく調和性のない色彩のつぎはぎで見苦しくなっております。もしも神威というものが外部から汚されるものであれば、その醜い色彩で主を汚してしまったことでしょう。が、
その神聖なるロープが主の身体を護り、醜い光をはね返し、それが地球を包む空間に戻されたのです。主を超えて天界へと進入する事態には至らなかったのです。下方へ向けて屈折させられたのです。それを吾々が読み取り、研究材料としたのです。
吾々に明かされた矯正法は、ほかでもない、〝地上的キリストの取り壊し〟でした。まさにその通りなのですが、何とも恐ろしい響きがあります。しかしそれは同時に、恐ろしい現実を示唆していることでもあります。説明しましょう。
建物を例にしてお話すれば、腕の良くない建築業者によって建てられた粗末なものでも建て直しのきく場合があります。ぜんぶ取り壊さずに建ったまま修復できます。
が一方、ぜんぶそっくり解体し、基盤だけを残してまったく新しい材料で建て直さなければならないものもあります。地上のキリスト観は後者に相当します。本来のキリストのことではありません。
神学的教義、キリスト教的ドグマによってでっち上げられたキリストのことです。今日キリスト教徒が信じている教義の中のキリストは本来のキリストとは似ても似つかぬものです。ぜひとも解体し基礎だけを残して、残がいを片づけてしまう必要があります。
それから新たな材料を用意し、光輝ある美しい神殿を建てるのです。キリストがその中に玉座を設けられるにふさわしい神殿、お座りになった時にその頭部をおおうにふさわしい神殿を建てるのです。
このこと──ほんの少し離れた位置から私が語りかけていることを、今さらのごとく脅威に思われるには及びません。このことはすでに幾世紀にもわたって進行してきていることです。
ヨーロッパ諸国ではまだ解体が完了するに至っておりませんが、引き続き進行中です。地上の織機によって織られた人間的産物としての神性のロープをお脱ぎになれば、天界の織機によって織られた王威にふさわしいロープ──永遠の光がみなぎり、愛の絹糸によって柔らか味を加え、天使が人間の行状を見て落とされた涙を宝石として飾られたロープを用意しております。
その涙の宝石は父のパビリオンの上がり段の前の舗道に撒かれておりました。それが愛の光輝によって美しさを増し、その子キリストのロープを飾るにふさわしくなるまでそこに置かれているのです。それは天使の大いなる愛の結晶だからです。
アーネル ±
4 イエス・キリストとブッタ・キリスト
一九一九年三月十九日 水曜日
キリストについての地上的概念の解体作業はこうして進行していきましたが、これはすでに述べた物質科学の進歩ともある種の関連性があります。とは言え、それとこれとはその過程が異なりました。しかし行き着くところ、吾々の目標とするところは同じです。
関連性があると言ったのは一般的に物的側面を高揚し、純粋な霊的側面を排除しようとする傾向です。この傾向は物質科学においては内部から出て今では物的領域を押し破り、霊的領域へと進入しつつあります。
一方キリスト観においては外部から働きかけ、樹皮をはぎ取り、果肉をえぐり取り、わずかながら種子のみが残されておりました。しかしその種子にこそ生命が宿っており、いつかは芽を出して美事な果実を豊富に生み出すことでしょう。
しかし人間の心はいつの時代にあっても一つの尺度をもって一概に全世界の人間に当てはめて評価すべきものではありません。
そこには自由意志を考慮に入れる必要があります。ですからキリストの神性についての誤った概念を一挙にはぎ取ることは普遍的必要性とは言えません。イエスはただの人間にすぎなかったということを教えたがために、宇宙を経綸するキリストそのものへの信仰までも全部失ってしまいかねない人種もいると吾々は考えました。
そこで、信仰そのものは残しつつも信仰の中身を改めることにしました。でも、いずれそのうちイエスがただの人間だったとの説を耳にします。そして心を動揺させます。
しかし事の真相を究明するだけの勇気に欠けるために、その問題を脇へ置いてあたかも難破船から放り出された人間が破片にしがみついて救助を求めるごとくに、教会の権威にしがみつきます。
一方、大胆さが過ぎて、これでキリストの謎がすべて解けたと豪語する者もいます。彼らは〝キリストは人間だった。ただの人間にすぎなかった〟というのが解答であると言います。しかし貴殿もよく注意されたい。
かく述べる吾々も、この深刻な問題について究明してきたのです。教えを乞うた天使も霊格高きお方ばかりであり、叡智に長けておられます。なのになお吾々は、その問題について最終的解決を見出しておらず、高級界の天使でさえ、吾々にくらべれば遥かに多くのことを知っておられながら、まだすべては知り尽くされていないとおっしゃるほどです。
地上の神学の大家たちは絶対神についてまでもその本性と属性とを事細かにあげつらい、しかも断定的に述べていますが、吾々よりさらに高き界層の天使ですら、絶対神はおろかキリストについても、そういう畏れ多いことはいたしません。それはそうでしょう。
親羊は陽気にたわむれる子羊のように威勢よく突っ走ることはいたしません。が、子羊よりは威厳と同時に叡智を具えております。
さて信仰だけは剥奪せずにおく方がいい人種がいるとはいえ、その種の人間からはキリストの名誉回復は望めません。それは大胆不敵な人たち、思い切って真実を直視し驚きの体験をした人たちから生まれるのです。
前者からもある程度は望めますが、大部分は少なくとも偏見を混じえずに〝キリスト人間説〟を読んだ人から生まれるのです。むろんそれぞれに例外はあります。私は今一般論として述べているまでです。
実は私はこの問題を出すのに躊躇しておりました。キリスト教徒にとっては根幹にかかわる重大性をもっていると見られるからです。ほかならぬ〝救世主〟が表面的には不敬とも思える扱われ方をするのを聞いて心を痛める人が多いことでしょう。
それはキリストに対する愛があればこそです。それだけに私は躊躇するのですが、しかしそれを敢えて申し上げるのも、やむにやまれぬ気持からです。
願わくはキリストについての知識がその愛ほどに大きくあってくれれば有難いのですが・・・・・・。と言うのも、彼らのキリストに対する帰依の気持は、キリスト本来のものではない単なる想像的産物にすぎないモヤの中から生まれているからです。
いかに真摯であろうと、あくまでも想像的産物であることに変りはなく、それを作り上げたキリスト教界への帰依の心はそれだけ価値が薄められ容積が大いに減らされることになります。その信仰の念もキリストに届くことは届きます。しかしその信仰心には恐怖心が混じっており、それが効果を弱めます。
それだけに、願わくはキリストへの愛をもってその恐怖心を棄て去り、たとえ些細な点において誤っていようと、勇気をもってキリストの真実について考えようとする者を、キリストはいささかも不快に思われることはないとの確信が持てるまでに、
キリストへの愛に燃えていただきたいのです。吾々もキリストへの愛に燃えております。しかも恐れることはありません。
なぜなら吾々は所詮キリストのすべてを理解する力はないこと、謙虚さと誠意をもって臨めば、キリストについての真実をいくら求めようと、それによる災いも微罰もあり得ぬことを知っているからです。
同じことを貴殿にも望みたいのです。そしてキリストはキリスト教徒が想像するより遥かに大いなる威厳を具えた方であると同時に、その完全なる愛は人間の想像をはるかに超えたものであることを確信なさるがよろしい。
──キリストは地上に数回にわたって降誕しておられるという説があります。たとえば(ヒンズー教の)クリシュナや(仏教の)ブッタなどがそれだというのですが、本当でしょうか。
事実ではありません。そんなに、あれやこれやに生まれ変ってはおりません。そのことを詮索する前に、キリストと呼ばれている存在の本性と真実について理解すべきです。
とは言え、それは吾々にとっても、吾々より上の界の者にとってもいまだに謎であると、さきほど述べました。そういう次第ですから、せめて私の知るかぎりのことをお伝えしようとするとどうしても自家撞着に陥ってしまうのです。
ガリラヤのイエスとして顕現しそのイエスを通して父を顕現したキリストがブッダを通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。
またキリストという存在が唯一でなく数多く存在するというのも真実ではありません。イエス・キリストは父の一つの側面の顕現であり、ブッダ・キリストはまた別の側面の顕現です。しかも両者は唯一のキリストの異なれる側面でもあるのです。
人間も一人一人が造物主の異なれる側面の顕現です。しかしすべての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストとブッダ・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。
しかし顕現の大きさからいうとイエス・キリストの方がブッダ・キリストに優ります。
が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前つまりイエス・キリストとブッダ・キリストを持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてに右に述べたことが当てはまります。
貴殿が神の心を見出さんとして天界へ目を向けるのは結構です。しかしたとえばこのキリストの真相の問題などで思案に余った時は、バイブルを開いてその素朴な記録の中に兄貴としてまた友人としての主イエスを見出されるがよろしい。
その孤独な男らしさの中に崇拝の対象とするに足る神性を見出すことでしょう。差し当たってそれを地上生活の目標としてイエスと同等の完璧さを成就することができれば、こちらへ来られた時に主はさらにその先を歩んでおられることを知ることになります。
天界へ目を馳せ憧憬を抱くのは結構ですが、その時にも、すぐ身のまわりも驚異に満ち慰めとなるべき優しさにあふれていることを忘れてはなりません。
ある夏の宵のことです。二人の女の子が家の前で遊んでおりました。家の中には祖母ちゃんがローソクの光で二人の長靴下を繕っておりました。そのうち片方の子が夜空を指さして言いました。
「あの星はあたしのものよ。ほかのよりも大きくて明るいわ。メアリ、あなたはどれにする?」
するとメアリが言いました。
「あたしはあの赤いのにするわ。あれも大きいし、色も素敵よ。ほかの星のように冷たい感じがしないもの」
こうして二人は言い合いを始めました。どっちも譲ろうとしません。それでついに二人はばあちゃんを外に呼び出して、どれが一ばん素敵だと思うかと尋ねました。ばあちゃんならきっとどれかに決めてくれると思ったのです。ところがばあちゃんは夜空を見上げようともせず、相変わらず繕いを続けながらこう言いました。
「そんな暇はありませんよ。お前たちの長鞄下の繕いで忙しいんだよ。それに、そんな必要もありませんよ。あたしはあたしの一ばん好きな星に腰かけてるんだもの。これがあたしには一ばん重宝 しているよ」 アーネル ±
九章 男性原理と女性原理
1 キリストはなぜ男性として誕生したか
一九一九年三月二十一日 金曜日
貴殿に興味のありそうな話題は多々あるのですが、話が冗漫になるといけませんので割愛させていただき、兄弟かきにせめぐ今日の危機(第一次大戦一九一四~一八──訳者)に至らしめた大きな原因について述べようと思います。
それはつまるところ、霊的なそしてよりダイナミックな活動をさしおいて、外面的な物的側面を高揚する傾向であったと言えます。
その傾向が西洋人の生活のあらゆる側面に浸透し、それがいつしか東洋人の思想や行動意志まで色濃く染めはじめました。それは実際面にも表れるようになり、一般社会はもとより政治社会、さらには宗教界にも表れ、ついには芸術界すらその影響から逃れられなくなりました。
すでにお話した物質と形態へ向けて〝外部へ、下方へ〟と進んできた宇宙の進化のコースを考えあわせていただければ、そのことは別段不思議とは思えないでしょう。
顕現としてのキリストについてもすでに述べました。私はこう述べました──いかなる惑星に誕生しようと、言いかえれば、地上への降誕と同じ意味でいかなる形態に宿ろうと、キリストはその使命を託された惑星の住民固有の形態を具えた、と。
そのことは降誕する土地についても言えますが、同時に降誕する時代についても言えます。
ではこれより私は、ガリラヤのイエスとしての前回の地上への降誕について述べてみます。
人間は次の事実すなわち、少なくとも吾々が知るかぎり、神性において性の区別はないこと、男性も女性もないこと、なのにイエスは、いつの時代においても、かのガリラヤにおいても、男性として降誕したという事実のもつ重要性を見落としております。私はこれよりその謎について説明してみます。
これまでの全宇宙の進化は〝自己主張〟すなわち形体をもって自己を顕現する方向へ向かってまいりました。絶対的精髄である霊は、本来、人間が理解している意味での形体はありません。悠久の(形態上の)進化もようやく最終的段階を迎えておりますが、その間のリーダーシップを握ったのは男性であり、女性ではありませんでした。
それには必然性があったのです。自己主張は本来男性的な傾向であり、女性的ではないからです。男性は個性を主張し、その中に自分の選んだ女性を組み入れて行こうとします。
その女性を他の女性から隔絶して保護し、育み、我がものとしていきます。我が意志が彼女の意志──つまり女性は自分の意志のすべてを男性の意志に従わせます。
その際、男性の性格の洗練度が高いか低いかによって女性に対する自己主張の仕方に優しさと愛が多くもなり少なくもなります。しかし、その洗練というものは男性的理想ではなく女性的理想へ向かうものです。この点をよく注意してください。大切な意味があるのです。
そこで地球について言えば──このたびは他の天体のことには言及しません──悠久の進化の過程において、身体的にも知性的にも力による支配の原理が表現されてきました。
この二元的な力の表現が政治、科学、社会その他あらゆる分野での進歩の推進的要素となってきました。
それが現代に至るまでの地上生活の主導的原理でした。人類の旗には〝男性こそリーダー〟の紋章が描かれておりました。キリストが女性としてでなく男性として地上へ誕生したのはそのためでした。
しかし、男性支配の時代はやっとそのクライマックスを過ぎたばかりです。と言うよりは、今まさにそれを越えつつあります。そのクライマックスが外部へ向けて表現されたのが前回の大戦でした。
──その大戦のことはすでに多くを語っていただいております。これからまたその話をなさるのではないでしょうね。
多くは語るつもりはありません。しかし私がその惨事について黙することは、その大戦で頂点を迎えた、人類の進化に集約される数々の重大な軌跡を語らずに終わることになります。その軌跡が大戦という形で発現したのは当然の成り行きであり不可避のことだったのです。
冷静に見つめれば、自己主張の原理の良い面は男性的生活態度が創造主の面影をほうふつとさせることですが、それは反面において自分一人の独占・吸収という野蛮な側面ともなりかねないことが分かるでしょう。
洗練された性格の男性は女性に対して敬意を抱きますが、野獣的男性は女性に対して優位のみを主張します。同じ意味で、洗練された国家は他の国家に対して有益な存在であることを志向し、相手が弱小国家であれば力を貸そうとするものです。が、
野蛮な国家はそうは考えず、弱小国を隷属させ自国へ吸収してしまおうとする態度に出ます。
しかし、程度が高いにせよ低いにせよ、その行為はあくまでも男性的であり、その違いは性質一つにかかっております。善性が強ければ与えようとし、邪性が強ければ奪おうとします。が、与えることも奪うことも男性的性向のしからしむるところであり、女性的性向ではありません。
与えることは男性においては美徳とされますが、女性においては至極あたりまえのことです。男性は功徳を積むことになりますが、女性はもともとその性向を女性本能の構成要素の中に含んでおります。
キリストはこの自己主張の原理をみずから体現してみせました。それが人類救済の主導的原理だったのです。男性としてキリストも要求すべきものは要求し、我がものとすべきものは我がものとしました。これは女性のすることではありません。が、
徹底的にその原理を主張してしまうと、こんどは男性の義務として、すべてを放棄しすべてを与えました。が、
その時のキリストは男性としての理想に従っているのではなく女性としての理想に従っているのです。しかも女性としての理想に従っていながら、いっそう完全なる男性でもあるのです。
このパラドックスはいずれ根拠を明らかにしますが、まずはイエス・キリストの言葉を二、三引用し、キリストが身体的には男性でありながら、男性と女性の双方の要素が連帯して発揮されている、完全なる神性の顕現であることをお示ししましょう。
「人、その友のために己れを棄つる、これに優る愛はなし」(ヨハネ15・13)確かにそうですが、それは男性的な愛です。それよりさらに大なる愛が存在します。
それは敵のために己れの生命を棄てることです。自分を虐待する男になおもしがみつこうとする女性の姿を見ていて私は、そこに女性特有の(友のために捧げる愛よりも偉大な)憎き相手に捧げる愛を見るのです。
イエスは自分を虐待する者たちのために自分の生命を棄てました。私にはそれはイエスの本性に宿る男性的要素でなく女性的要素が誘発したように思えるのです。
また、なぜ「奪うよりは与える方が幸福」(使徒行伝20・35)なのか。男性にとってはこの言葉は観念的にも実際的にも理解が困難ですが、女性にとっては容易にそして自然に理解がいきます。
男性はそれが真実であることに同意はしても、なお奪い続けようとするものです。女性は与えるという行為の中によろこびを求めます。
受けたものを何倍にもして返さないと気が済まないのです。このことを考え合わせれば、今だに論争が続いている例の奇蹟に敬虔の念を覚えられることでしょう。つまり、わずかなパンを何十倍にも増やして飢えをしのがせた行為も同じ女性的愛から発していたのです。
しかしこの問題はこれ以上深入りしないでおきましょう。
私が言いたかったことをまとめると次のようなことになります。つまりこれまでの地上世界はすべての面において英雄的行為が求められる段階にあったということ。
従って〝雄々しい力〟という言葉が誰の耳にも自然な響きをもって聞こえ、〝女々(めめ)しい力〟という言い方から受ける妙な響きはありません。
しかし男性は神威の一つの側面──片面にすぎないのです。その側面がこれまでの永い地上の歴史の中で存分に発揮されてきました。が、
これより人類が十全な体験を積むためには、もう一方の側面を発揮しなければなりません。これまでは男性が先頭に立って引っぱってきました。そしてそれなりの所産を手にしました。これからの未来にはそれとは異質の、もっと愉しい資質が用意されております。 アーネル ±
2 男性支配型から女性主導型へ
一九一九年三月二十四日 月曜日
吾々から送られるものをそのまま書き記し、疑問に思えることがあってもいちいち質問しないでいただきたい。全部を書き終わってから読み直し、全体として判断し、部分的な詮索はしないでいただきたい。
このようなことを今になって改めて申し上げるのも、吾々が用意している通信は多くの人々にとって承服しかねるものであろうと思われるからです。ですが、とにかく書き留めていただきたい。
吾々も語るべきことは語らねばなりません。それをこれより簡略に述べてみましょう。
キリストがガリラヤのイエスとして地上に降誕するまでの人類の進化は、知性においても力においても、男性の〝右腕〟による支配の線をたどっておりました。
それが人類進化における男性的要素でした。他にもさまざまな要素があったにしても、それは本流に対する支流のようなもので、進化の一般的潮流にとっては大して意味はありません。私はこれよりそうした細かいことは脇へ置いて、本流について語ります。
イエスは地上に降り、人間社会の大混乱を鎮静させるためのオイルを注がれました。聞く耳をもつ者に、最後の勝利は腕力にせよ知力にせよ強き者の頭上に輝くのではなく、〝柔和なる者が大地を受け継ぐ〟(詩篇37・11)と説きました。
受け継ぐのです。奪うのではありません。お分かりでしょう。イエスは人類の未来のことを語っていたのです。
この言葉を耳にした者は実際的であると同時に美しくかく真実であることを認めました。そして以来二千年近くにわたって両者を融合させようと努力してまいりました。
すなわち支配力に柔和さを継ぎ木しようとし、国内問題、国際問題、社会問題その他あらゆる面で両者をミックスさせようとしたのです。が両者は今なお融合するに至っておりません。そこである者はキリスト教は公共問題においては無能であると言います。
その結論は間違っております。キリストの教えは地上の人生において唯一永続性のある不変の真理です。
人間は暴力と威圧による支配が誤りであったことを認識しました。が、それを改めるためにこれまでに行ってきたことは、その誤った要素はそのまま留めておいて、それを柔和さという穏やかな要素によって柔らげることでした。
つまり一方では男性が相変わらずその支配的立場を維持しつつ、他方では女性的要素である柔和さによってその支配に柔らかさを加味しようと努力したのです。
結果は失敗でした。あとは貴殿にも推察がつくでしょう。唯一残されたコースはその誤った要素を棄て、女性的要素である柔和さを地上生活における第一位の要素としていくことです。
地球の過去は男性の過去でした。地球の未来は女性の未来です。
女性は今、自分たちの性の保護のための何か新しいものの出現を期待する概念が体内から突き上げてくるのを感じております。それは感心しません。
ひとりよがりの考えであり、従ってそうあってはならないことだからです。かの昔、一人の女性が救世主を生みましたが、それは女性の救世主としてではなく全人類の救世主として誕生しました。現在の女性の陣痛から生まれるものも同じものとなるでしょう。
何か新しいものを求める気持の突き上げを感じて女性は子孫への準備に取りかかりました。男児のための衣服を作りはじめております。私は今〝男児〟と言いました。
女性が作りつつある衣服はやはり男性のためのものなのです。そのための布を求めに女性は、男性だけが売買をしている市場へ行って物々交換を申し出ました。
〝私たち女性にだって男性の仕事はできます〟と言います。そのとき女性は自分が新しいブドウ酒を古い皮袋に入れているにすぎないことに気づいていません。いけません。女性が男性の立場に立つことをしては両者とも滅びます。
女性は男性がこれまでに学ばされてきた苦い体験から女性としての教訓を学び取らなくてはいけません。男性はどこに挫折の原因があったかを学びました。
ではどうすべきかが分からぬまま迷っております。片方の手で過去をしっかりと握り、もう一方の手を未来に向けて差し出しています。が、その手にはいまだに何も握られていません。過去を握りしめている手を放さないかぎり空をつかむばかりでしょう。
女性は今、かつての男性がたどったのと同じ道をたどろうとしています。男性と対等に事を牛耳ろうとしています。しかし女性の未来はその方向にあるのではありません。
女性が人類を支配することにはなりません。単独ではもとより、男性と対等の立場でも支配することにもなりません。これからは女性が主導する時代です。支配するのではありません。
前にも述べた通り、これまでの地球の進化は物的なものへ向けての下降線をたどって来ました。そこでは男性が先頭に立ち、荒々しい闘争のために必要な甲冑がよく似合いました。が、
その下降線も折り返し点に到達し、今まさにそこを後にして霊的発達へ向けて上昇を開始したところです。霊の世界には人間が考え出した(神学の)ような、ややこしい戒律による規制はありません。あるのはただ愛による導きのみです。
地上にも、優位の立場からの支配は女性の性に不向きであることを悟った暁に女性が誘導によってリードしていく場があります。
しかし、その女性主導の未来がどういうものであるかは、いかなる形にせよ説明するのはとても困難です。と言うのも、これまでのそうした主導権の概念は支配する者と支配される者、抑える者と従わされる者、といった二者の対立関係を含んでおりますが、これからの主導権にはそうした対立関係は含まれていないからです。
この〝主導〟という用語からしてすでに一方が先を行き他方がその後に付いていくという感じ、一種の強制観念をもっています。これからの人類を待ちうけていると私が言っている主導はそれとは異なるものです。
次のように説明すればどうでしょうか。それはイエス・キリストにおいて明白に体現されております。男性としての美質が一かけらの不快さも醜さも伴わずに体現されていると同時に、女性としての優しさが一かけらの弱々しさも伴わずに融合されております。
未来は両者が、すなわち男性と女性とが、いかに完璧に一方が他方を吸収した形であっても、二つの性としてではなく、一つの性の二つの側面という形をとることになります。
力の支配するところでは〝オレが先だ。お前はあとに付いてこい〟ということになります。愛の支配するところでは言葉は不要です。以心伝心で〝最愛なる者よ、ともに歩もう〟ということになります。
私の言わんとすることがこれでお分かりと思います。
──分かります。ただ、今日までの慣習に親しんできている者にとっては、一方が(優しく)手引きし他方が(素直に)付いて行くようでなければ進歩が得られないというのは、いささか理解が困難です。
おっしゃる通りです。今の言いまわしにも苦心のあとがうかがえます。いま貴殿は地上でいう組織や整然とした規制、軍隊や大企業における上下の関係を思わせる語句を使用しておられます。
もちろん天界においても整然たる序列が存在します。しかしそれは権力の大小ではなく、あらゆる力の背後に控えるもの──愛がそうあらしめるのです。
実際においてそれが何を意味するかを次の事実から微かにでも心に描いてみてください。比喩的な意味ではなく実際の事実として、地上でいうところの高い者と低い者、偉大な者と劣等なる者は存在しません。
地上から来たばかりの霊と天使との間にもかならず共通した潜在的要素が存在します。
その意味で、若い霊も潜在的には天使と同じであるのみならず、さらに上の大天使、力天使、能天使とも同じであると言えるのです。
(訳者注──ここではオーエンがキリスト教の牧師であることから神学における天使の分類用語を使用しているまでのことで、実際にそういう名称で呼ばれているわけではない。要するに造化の仕事に直接たずさわっている高級霊と考えればよい)
さらに、たとえば天使と父との関係について言えば、地上的な観点からすれば当然天使の方が小さい存在ですが、天界全体として考えた時、両者の関係は一つの荘厳なる実在すなわち絶対神の中に吸収されてしまいます。
そこにおいては天使も絶対神と一体となります。〝より大きい〟も〝より小さい〟もありません。それは外部にまとう衣服については言えましょう。
宝石のわく飾りのようなものです。が、内奥の至聖所ではその差別はありません。
そのことはキリストの顕現の度に思い知らされることです。すなわちキリストはたしかに王であり吾々はその従臣です。しかしキリストはその王国全体と一体であり、その意味において従臣もその王の座を共有していることになるのです。
キリストが命を下し、指揮し、吾々はその命に服し、指揮に従います。が、命じられたからそうするのではなく、キリストを敬慕するからであり、キリストもまた吾々を敬愛なさるからです。お分かりでしょうか。
ともかく、こうした天上的な洞察力の光をいくばくかでも人類の未来へ向けて照射していただきたい。きっとそこに、こうして貴殿に語りかけている吾々に啓示されているものを垣間みることができるでしょう。
また次のことも銘記してください。理性というものは男性的資質に属し、したがって私のいう未来を垣間みる手段としては不適当であることです。
直感は女性的資質に属し、人間の携帯用望遠鏡のレンズとしては理性より上質です。
思うに女性がその直感力をもって未来をどう読まれるにしても、理性的に得心がいかないと満足しない男性よりは、私が言わんとすることを素直に理解してくださるでしょう。女性は知的理解をしつこく求めようとしません。理屈にこだわらないのです。
あまりその必要性がないとも言えます。直感力が具わっているからです。それで十分間に合いますし、これより先は女性と男性の双方にとってそれがさらに有益となっていくことでしょう。
──例によって寓話をお願いしたいですね。
ある金細工人が王妃の腕輪に付ける宝石としてルビーとエメラルドのどちらにしようかと思案しました。彼は迷いました。ルビーは王様がお好みであり、エメラルドは王妃がお好みだったからです。
思案にあまった彼は妻を呼んで、どう思うかと聞いてみました。すると妻は〝あたしだったらダイヤにする〟と答えました。
〝なぜだ。ダイヤはどっちの色でもないぞ〟と聞くと、〝お持ちになってみられてはいかが?〟と答えます。彼は言われた通りに持参してみることにしました。
恐るおそる宮殿を訪れてまず王様にお見せしたところ、〝でかしたぞ。このダイヤはなかなかの透明度をしている。ルビーの輝きがあふれんばかりじゃ。さっそく妃のところへ持っていって見せてやってくれ〟と言います。
そこで王妃のところへ持っていくと王妃もことのほか喜ばれ、〝なかなか宝石に目が高いのお。このダイヤはエメラルドの輝きをしている。さっそくそれでブレスレットを仕上げておくれでないか〟とおっしゃいます。
わけが分からないまま帰ってきた金細工人は妻になぜ王妃はこのダイヤが気に入られたのだろうかと聞いてみました。
すると妻は〝お二人はどんなご様子だったのですか〟と尋ねます。〝お二人とも大そうお気に召されたんだ。王様はなかなか上質でルビー色をしているとおっしゃり、王妃もなかなか上質でエメラルド色をしているとおっしゃった〟と彼は言いました。
すると妻は答えました。〝でもお二人のおっしゃる通りですよ。ルビー色もエメラルド色も、砕いてみれば何もない無色の中から出ているのであり、ほかにも数多くの色が混ざり合っているのです。
愛はその底にすべての徳を融合させて含んでおり、一つ一つの徳が愛の光線の一条なのです。王様も王妃もその透明な輝きの中にお好みの色をごらんになられたのです。
お二人が違う色をごらんになったからといって別に不思議に思われることはありません。お互いの好みの色はその結晶体の中で融合し、自他の区別をなくして本来の輝きの中に埋没してしまっているのです。それはお二人が深く愛し合う仲だからですよ〟
アーネル ±
3 崇高なる法悦の境地
一九一九年三年二十五日 火曜日
さて、未来へ向けて矢が放たれたところで一たん出発点へ戻り、これまでお伝えしたメッセージを少しばかり手直しをしておきましょう。私が述べたのは人類の発達途上における目立った特徴を拾いながら大ざっぱな線について語ったまでです。
しかし人類が今入りかけた機構は単純ではなく複雑をきわめております。次元の異なる界がいくつも浸透し合っているように、いくつもの発展の流れが合流して人類進化の大河をなしているのです。
私がこれからは男性支配が女性の柔和さにその場をゆずると言っても、男性支配という要素が完全に消滅するという意味ではありません。そういうことは有り得ません。
人類の物的形態へ向けての進化には創造主が意図した目的があるのであり、その目的は、成就されればすぐに廃棄されてしまう程度のものではありません。ようやく最終段階を迎えつつある進化の現段階は、男性の霊的資質を高める上で不可欠だったのです。
ですから、その段階で身につけた支配性は、未来の高揚のために今形成しつつある新しい資質の中に融合されていくことでしょう。
ダイヤからルビーの光が除去されることはありません。もしそうなればダイヤの燦然たる美しさが失われます。そうではなく、将来そのダイヤが新たな角度から光を当てられた時に、その輝きがこれまでよりは抑えられたものになるということです。
かくしてこれからのある一定期間は、そのまたたきが最も顕著となるのはこれまでのルビーではなくエメラルドとなることでしょう。(訳者注──前回の通信の最後の寓話になぞらえて、ルビーが男性的性格、エメラルドが女性的性格を象徴している)
また遠い過去においてそのルビーに先立って他の色彩が顕著であった時期があるごとく、ダイヤの内奥には、このエメラルドの時代の終ったあと、永遠の時の中で然るべき環境を得て顕現するさらに別の色彩があるのです。
さらに言えば、私のいう女性の新時代は激流のごとく押し寄せるのではなく、地上の人間が進歩というものを表現する時によく使う言い方に従えば、ゆっくりとした足取りで訪れます。言っておきますが、その時代はまだ誕生しておりません。が、
いずれ時が熟せば誕生します。その時期が近づいた時は──イヤ、(ここで寓話に変わる──訳者)救世主は夜のうちに誕生し、ほとんど誰にも気づかれなかった。
しかも新しい時代の泉となり源となった。それから世の中は平凡なコースをたどり、AUC(ローマ紀元。紀元前七五三年を元年とする)を使用している間は何の途切れもなく続いた。
が今日、かの素性の知れぬ赤子の誕生がもとでキリスト教国のすべてがDU(西暦紀元)を採用することになり、AUCは地上から消えた。貴殿は私の寓話を気に入ってくださるので、どうか以上の話から何かの意味を読み取ってください。
また例の天使の塔におけるキリストの顕現の話を思い出していただきたい。あれはこの地上への吾々の使命に備えるための学習の一環だったのです。
私の叙述から、その学習がいかに徹底したものであったかを読み取っていただけるものと思います。物的宇宙の創造を基盤とし、宇宙を構成する原子の構造を教えてくださったのです。
それが鉱物、植物、動物、そして人間となっていく永くかつ荘厳な生命の進化の過程が啓示されたのです。さらに学習は続き、地球に限定して、その生命を構成する要素を分析して、種類別に十分な検討を加えました。
それから地球の未来をのぞかせていただき、それが終わって今こうして貴殿にメッセージを送っているわけです。
その人類の未来をのぞかせていただいた時の顕現のすべてを叙述することはとても出来ません。ダイヤモンド(※)の内奥には分光器にかからない性質の光線が秘められているからです。
ですが、その得も言われぬ美と秘密と吾々にとっての励ましに満ちた荘厳なるスペクタクルについて、貴殿にも理解しうる範囲のことを語ってみましょう。(※これも前回の通信の寓話になぞらえて、すべての色彩が完全に融合したときの無色透明な状態を象徴している──訳者)
地球を取り巻く例の霧状の暗雲が天界の化学によって本来の要素に分析されました。それを個々に分離し、それぞれの専門家の手による作業にまかされました。
その作業によって質を転換され、一段と健康な要素に再調合する過程がほぼ完了の段階に近づいた時に、吾々は各自しばし休息せよとの伝達をうけ、その間は他の霊団が引き受けてくれました。
そこで吾々は所定の場所へ集合しました。見ると天界のはるか上層へ向けて一段また一段と、無数の軍勢が幾重にも連なっておりました。
得も言われぬ壮麗なる光景で、事業達成への一糸乱れぬ態勢に吾々は勇気百倍の思いがいたしました。その数知れぬ軍勢の一人一人が地球上の同胞の救済のために何らかの役割分担を持ち、その目的意識が総監督たるキリストにおいて具現されているのでした。
それを内側から見上げれば、位階と霊格にしたがって弧を描いて整列している色彩が、あたかも無数の虹を見るごとくに遙か遠くへと連なっておりました。
そしてその中間に広がる、一個の宇宙にも相当する大きさの空間の中へ、すでにお話したことのある静寂という実体(一章2)が流れ込んできました。それはすなわち、そこに吾らが王が実在されるということです。
静寂の訪れを感じて吾々はいつものごとく讃仰のために頭を垂れました。崇高なる畏敬の念の中に法悦を味わい、目に見えざる来賓であるキリストを焦点とした愛の和合の中にあって、吾々はただただ頭を垂れたまま待機しておりました。 アーネル ±
4 地球の未来像の顕現
一九一九年三月二十八日 金曜日
この段階で吾々はすでに、それぞれの天界の住処にふさわしい本来の身体的条件を回復しておりました。それ故、吾々は実際は地球を中心としてそれを取り囲むように位置しているのですが、地球の姿はすでに吾々の目には映じませんでした。
もちろんこのことは私自身の境涯に視点をおいて述べたまでで、私より地球に接近した界層の者のことは知りません。多分彼らにはそれらしきものは見えたことでしょう。これから述べることは私自身の視力で見たかぎりのことです。
私はその巨大な虚空の内部を凝視しました。すべてが空です。その虚空が、それを取り巻くように存在する光輝によって明るく照らし出されているにもかかわらず、その内部の奥底に近づくにつれて次第に暗さが増していきます。
そしてその中心部になるとまさに暗黒です。そう見ているうちに、その暗黒の虚空の中心部から嘆き悲しむ声に似た音が聞こえて来ました。
それが空間的な〝場〟を形成している吾々の方角へ近づくにつれてうねりを増し四方へ広がっていきます。が、その音が大きくなってくるといつしか新しい要素が加わり、さらにまた別の要素が加わり、次々と要素を増していって、ついに数々の音階からなる和音となりました。
初めのうちは不協和音でしたが吾々に近づくにつれて次第に整い、ついには虚空の全域に一つに調和した太く低い音が響きわたりました。そうなった時はもはや嘆き悲しむ響きではなく、雄々しいダイヤペーソンとなっておりました。
それがしばらく続きました。するとこんどはそれに軽い音色が加わって全体がそれまでのバス(男声の最低音)からテノール(男性の最高音)へと変わりました。変化はなおも続き、ついに吾々が囲む空間全体に女性の声による明るい合唱が響きわたりました。
そのハーモニーが盛り上がるにつれて光もまた輝きを増し、いよいよ最高潮に達したとき吾々が取り囲む内部の空間が得も言われぬ色合いを見せる光輝に照らし出されました。
そしてその中央部、すなわち吾々の誰からも遠く離れた位置で顕現が始まっていることが分かりました。それは次のようなものでした。
まず地球が水晶球となって出現し、その上に一人の少年が立っています。やがてその横に少女が現れ、互いに手を取り合いました。
そしてその優しいあどけない顔を上方へ向け、じっと見つめているうちに二人ともいつしか青年に変身し、一方、立っている地球が膨れだして、かなりの大きさになりました。
するとその一ばん上部に曲線上に天蓋のついた玉座が出現し、女性の方が男性の手を引いて上がり段のところへ案内し、そこで女性が跪くと男性だけが上がり段をのぼって玉座の中へ入りました。
そこへ大ぜいの従臣が近づいて玉座のまわりに立ち、青年に王冠と剣を進呈し、豊かな刺しゅうを施した深紅のマントを両肩にお掛けしました。それを合図に合唱隊が次のような主旨の祝福の歌をうたい上げました。
「あなたは地球の全生命の主宰者として、霊の世界よりお出ましになられました。あなたは形態の世界である外的宇宙の中へ踏み込まれ、あたりを見まわされました。
そして両足でしっかりと踏みしめられて、地球がどこかしら不安定なところを有しながらも、よき天体であるとお感じになられました。それから勇を鼓して一方の足を踏み出し、さらにもう一方の足を踏み出され、かくして地上を征服なさいました。
そこで再び周囲を見渡されて、あなたのものとなったものを点検なさいました。それに機嫌をよくされたあなたは、その中で最も麗しいものに愛をささやかれました。そのとき万物の父があなたのために宝庫よりお出しになられた全至宝の中でも、あなたにとっては女性が最愛の宝物となりました。
征服者としての権限により主宰者となられたあなたへの祝福として詠唱した以上のことは、その通りでございましょうか」
青年は剣を膝の上に斜めに置いてこう答えました。
地上での数々の闘いに明け暮れた私をご覧になってきたそなたたちが歌われた通りである。正しくご覧になり、それを正しく語られた。さすがにわれらの共通の主の家臣である。
さて私は所期の目的を果たし、それが正当であったことを宣言した。武勇において地上で私の右に出る者はおりませぬ。地球は私が譲りうける。私みずからその正当性を主張し、今それを立証したところである。
しかし私にはまだ心にひっかかるものがある。これまでの荒々しい征服が終了した今、私は次の目標をいずこへ求めればよいのであろう。永きにわたって不穏であった地球もどうにか平穏を取り戻した。が、まだ真の平和とは言えぬ。
地球は平穏な状態にうんざりとし、明日の平和を求める今日の争いにこれきり永遠に別れを告げて、真の平和を求めている。
そこで、これまで私を補佐してこられたそなたたち天使の諸君にお願いしたい。幾度も耳うちしてくれた助言を無視して私がこれまでとかく闘いへの道を選んできて、さぞ不快に思われたことであろう。それは私も心を痛めたことであった。
しかし今や私も高価な犠牲を払って叡智を獲得した。代償が大きかっただけ、それだけ身に泌みている。そこで、これより私はいかなる道を選ぶべきか、そなたたちの助言をいただきたい。
私もこれまでの私とは違う。助言を聞き入れる耳ができている。今や闘いも終わり、この玉座へ向けて昇り続けたその荒々しさに、われながら嫌気がさしているところである」
そう言い終わると従臣たちが玉座の上がり段を境にして両わきに分かれて立ち並び、その中間に通路ができました。するとその中央にさきの女性が青のふちどりのある銀のロープで身を包んで現れました。
清楚に両手を前で組み、柔和さをたたえた姿で立っておられます。が、その眼差しは玉座より見下ろしている若き王の顔へ一直線に向けられています。
やがて彼はおもむろに膝の上の剣を取り上げ、王冠を自分の頭から下ろして階段をおり、その女性のそばに立たれました。そして女性が差し出した両腕にその剣を置き、冠を頭上に置きました。それから一礼して女性の眉に口づけをしてから、こう告げました。
「そなたと私とで手を取り合って歩んで来た長い旅において私は、数々の危機に際してそなたの保護者となり力となって来ました。嵐に際しては私のマントでそなたを包んであげました。
急流を渡るに際しては身を挺して流れをさえぎってあげました。が、行く手を阻む危険もなくなり、嵐も洪水も鎮まり、夏のそよ風のごとき音楽と化しました。そして今、そなたは無事ここに私とともにあります。
しかし、この機をもって私は剣をそなたに譲ります。その剣をもってその王冠を守ってきました。ここにおいてその両者を揃えてそなたに譲ります。
もはや私が所有しておくべき時代ではなくなりました。どうかお受け取りいただきたい。これは私のこれまでの業績を記念する卑しからぬ品であり、あくまで私のものではありますが、それが象徴するすべてのものとともに、そなたにお預けいたします。
どうかこれ以後もそなたの優しさを失うことなく、私が愛をもって授けるこの二つの品を愛をもって受け取っていただきたい。それが私より贈ることのできる唯一のもの───地球とその二つの品のみです」
青年がそう言い終わると女性は剣を胸に抱きかかえ、右手を差しのべて彼の手を取り、玉座へ向かって階段を上がり玉座の前に並んでお立ちになりました。
そこでわずかな間を置いたあと彼は気を利かして一歩わきへ寄り、女性に向かって一礼しました。すると女性はためらいもなく玉座に腰を下ろされました。彼の方はわきに立ったまま、これでよしといった表情で女性の方を見つめておりました。
ところが不思議なことに、私が改めて女性の方へ目をやると、左胸に抱えていた剣はもはや剣ではなく、虹の色をした宝石で飾られたヤシの葉と化しておりました。
王冠も変化しており、黄金と鉄の重い輪が今はヒナギクの花輪となって、星のごとく輝く青と緑と白と濃い黄色の宝石で飾られた美しい茶色の髪の上に置かれていました。その種の黄色は地上には見当たりません。
若き王も変っておりました。お顔には穏やかさが加わり、お姿全体に落着きが加わっておりました。そして身につけておられるロープは旅行用でもなく戦争用でもなく、ゆったりとして長く垂れ下がり、うっすらとした黄金色に輝き、そのひだに赤色が隠れておりました。
そこで青年が女性に向かってこう言いました。
「私からの贈りものを受け取ってくれたことに礼を申します。では、これより先、私とそなたではなく、そなたと私となるべき時代のたどるべき道をお示し願いたい」
これに答えて女性が言いました。
「それはなりませぬ。私とあなたさまの間柄は、あなたさまと私との間柄と同じだからでございます。これより先も幾久しく二人ともども歩みましょう。ただ、たどるべき道は私が決めましょう。しかるべき道を私が用意いたします。
しかし、その道を先頭きって歩まれるのは、これからもあなたさまでございます」
アーネル ±
十章 天上、地上、地下のものすべて (ピリピ2・10、黙次録5・13)
1 地球進化の未来
一九一九年四月一日 火曜日
やがて吾々が取り囲む虚空全体にふたたび静寂が行きわたりました。見るとお二人は揃って玉座の中に坐しておられます。女性の方から招き入れたのです。
すると第十界まで軍団を率いてこられた方で吾々の地球への旅の身支度を指導してくださった大天使のお一人の声が聞こえてきました。玉座より高く、その後方に位置しておられました。こうお述べになりました。
「余の軍団の者、ならびに、この度の地球への降下に参加を命じられた者に告ぐ。ただ今の顕現はこれよりのちの仕事に理解をもって取り組んでもらうために催されたものである。
その主旨については、指揮を与える余らもあらかじめ知らされてはいたが、今あらためて諸君にお知らせした次第である。よく銘記せられ、前途に横たわる道をたじろぐことなく前進されたい。
父なる神は吾らの最高指揮官たるキリストに託された仕事のための力をお授けくださる。
キリストを通じてその霊力の流れがふんだんに注がれ、使命の達成を可能にしてくださるであろう。吾らが創造主への崇敬の念を片時も忘れまいぞ」
言い終るのと時を同じくして燦然と輝く霧が玉座に漂い、やがて地球全体をおおいはじめ、もはや吾々の目に地球の姿は見えなくなりました。おおい尽くすと全体がゆっくりと膨張をはじめ、虚空の四分の一ほどにもなったところで膨張を止めました。
すると今度はそれが回転しはじめ、次第に固体性を帯びていくように見えてきました。固いといっても物質が固いというのとは異なります。物的地球が半透明になるまで精妙化した状態を想像されれば、大体のイメージはつかめるでしょう。
地軸を中心にして回転していくうちに、こんどはその表面に陸と海の形が現れました。今日の地形とは異なります。吾々はいま未来の仕事の場を見せられているのです。現在の地形が変化しているごとく、それも次第に変化していたのですが、変化のスピードは速められていました。
つまり来るべき時代が短縮されて眼前に展開し、吾々はそれを動くモデルとして読み取っていたわけです。
さらにその上に都市、民族、動物、それにさまざまな用途の機械類が出現しました。かくして全表面を吾々の方角へ向けながら回転し続けているのを見ていると、その進化の様子が手にとるように分かりました。
たとえば貴殿の国を見てみましょう。最初は二、三年後の姿が目に入りました。やがてそれが視界から消え、そして次に見えた時は沿岸の形状や都市と住民の様子が少し変化しておりました。
こうして地球が回転するごとに陸地をはじめとして人類全体、建築物、交通機関、そのほか何万年、何十万年もの先までの人工の発達の様子が千年を数時間の単位に短縮されて出現しました。私の説明はこうして用語を貴殿の感覚に置きかえなくてはなりません。
吾々にとって年数というのは、地上の人間とは感覚的に同じものではありません。
もっとも、こうした形で私が人類に代わって遠い未来という深海で漁をしてあげるのは許されないことでしょう。人類は自分の夕食の魚は自分の網で取らなくてはいけません。
それが筋というものです。もっとも、よい漁場を教えてあげることくらいのことは私にも許されています。この私を信頼のおける漁船団長と思ってくださる方は、どうぞ私の海図にしたがって探求の旅へ船出してください。
さて地球は永い永い年月にわたる航海を続けるうちに、ますます美しさを増してきました。表面の光が増し、大地そのものも内部からの輝きを増しておりました。
また人間は地球上でさほどせわしく東奔西走している様子は見えません。それというのも大自然の摂理との調和が一段と進み、その恩寵にますます敬服し、激情に振り回されることも少なくなり、内省的生活の占める割合が増えているからです。
かくして地球のすべての民族が協調性を増し、同時に霊力と安らかさとを送りやすくなった吾々との一体性も増しております。
吾々はその一体性が進むのを見ていて、吾々がかつて数々の戦乱の末に獲得した豊かな幸福をこの人類の若き同胞たちが享受してくれていることを知り、興奮さえ覚えるのでした。
やがて地球そのものも変化しておりました。それを述べてみましょう。
貴殿をはじめ、最近の人間の精神の中に新しい用語が見られます。サイコメトリという言葉です。これは物体に刻み込まれた歴史を読み取る能力と私は理解しております。
実はそれには人間がエーテルと呼んでいる成分の本性と、その原子に内在するエネルギーを知り尽くすまでは十分に理解できない真相が隠されております。
いずれ人間がこのエーテルという宇宙的安定基剤を分析的かつ統合的に扱うことができる時代が来ます──地球が回転するのを見ていてそれを明瞭に観察したのです。
その時になれば今人間が液体やガス体を扱うようにエーテル成分を扱うようになるでしょう。しかしそれはまだまだ先の話です。現段階の人間の身体はまだまだ洗練が十分でなく、この強力なエネルギーを秘めた成分を扱うには余ほどの用心がいります。
当分は科学者もそこに至るまでの下準備を続けることになるでしょう。
アーネル ±
2 宇宙的サイコメトリ
一九一九年四月二日 水曜日
それ故そうしたサイコメトリ的バイブレーションは──吾々が物質を研究した上での結論ですが──物質に瀰漫するエーテルに書き込まれている、ないしは刻み込まれているのです。それだけではありません。
エーテルが物質の成分に作用し、それによって活性化される度合によって、その物質の昇華の度合が決まっていきます。
つまり活性化された成分が外部からエーテルに働きかけ、浸透し、それを物質との媒介物として活用するのです。物質の成分は地上の化学者も指摘するとおりエーテルの中に溶解した状態で存在するわけです。
その点は地上の化学者の指摘は正しいのですが、その辺は大自然の秘奥の門口であって、その奥には神殿があり、さらにその先には奥の院が存在する。
物質科学の範疇を超えてエーテル界の神殿に到着した時、その時はじめて大自然のエネルギーの根源がその奥の院にあることを知ることになります。その奥の院にこそ普遍的〝霊〟が存在するのです。
これで大自然のカラクリがお分かりになると思います。普遍的な〝霊〟が外部から、つまり基本的成分がエネルギーの量においても崇高性の度合においてもすべてをしのぐ界層から活発にエーテルに働きかけます。その作用でエーテルが活性化され、活性化されたエーテルがさらに物質の基本分子に作用し、そこに物質という成分が生まれます。
ただし、この作用は機械的なものではありません。その背後に意志が働いているのです。意志のあるところには個性があります。
つまるところエーテルに性格を賦与するのは個性をもつ存在であり、その影響がそのまま物質に反映されていきます。それ故こういうことになります───エーテルを通して物質に働きかける霊的存在の崇高さの程度に応じて、物質の成分の洗練の度合が高くもなり低くもなる、ということです。(第一巻P217参照)
ということは地球そのもの、および地球上の全存在物を構成している物質の性質は、それに向けて意識的に働きかけている霊的存在の性格と共鳴関係にあるということです。両者は物質に宿っているかいないかの違いがあるだけで、ともに霊なのです。
したがって地球人類が霊的に向上するにつれて(未来の)地球もそれを構成する成分に働きかける影響力に対して、徐々にではあっても着実に反応していきました。
物質がより洗練され、より精妙化されていきました。内部からの輝きを増していったのはそのためです。これは宇宙規模のサイコメトリにほかなりませんが、本質的にはいま地上に顕現されているものと同一です。
地球ならびに地球人類の精妙化が進むにつれて霊界からの働きかけもいっそう容易になっていき、顕幽間の交信も今日よりひんぱんになると同時に、より開放的なものとなっていきました(※)。
そして、途中の階段を省いて結論を急げば、顕幽間の交信がごく当たり前のものとなり、且つ間断なく行われる時代にまで到達しました。そしてついにこれからお話する一大顕現が実現することになります。(※シルバーバーチは霊格が向上するほど自由意志の行使範囲が広くなると述べている──訳者)
が、それをお話する前に述べておきたいことがあります。私の話は太陽およびその惑星系にしぼり、遠い銀河の世界のことは省きます。
地上の天文学者は自分たちが確認した惑星をすべて〝物的天体〟としております。さらに、それらの惑星を構成する物質がその成分の割合において地球を構成する物質と同一でないことも発見しております。
しかしもう一歩進んで、物質の密度の差を生じさせる原因の一つとして、もう一つ別の要素が存在するところまでは気づいておりません。
それが私がこれまで述べてきた霊的要素で、それが惑星系の進化の長旅において地球より先を歩んでいる天体の進化を促しているのです。
実はそれ以外に地上の人間の視力では捉えることの出来ない別の種類の惑星が存在するのです。精妙化がすでに物質的段階を超えてエーテル的段階に至っているのです。霊的までは至っていません。物質的状態と霊的状態の中間です。
その種の天体の住民には地球を含む惑星系のすべてが見えます。そして強力な影響力を行使することができます。それは、地球人類より進化はしていても、霊格において霊界の住民よりはまだ地球人類に近いからです。
それはそれなりに、れっきとした惑星なのです。ところが、それとはまた別の意味でのエーテル的天体がいくつか存在します。その一つが地球を包みこむように重なっております。その天体の構成するエーテルの粗製状態のものが地球に瀰漫しているのです。
と言って、地球のためだけの存在ではありません。また、のっぺらとしたベルト状のものではなく、表面には大陸もあれば海もあり、住民もいます。
その大半はかつて地球上で生活したことのある者ですが、中には一度も地上生活の体験のない者もいます。血と肉とから成る身体としての顕現の段階まで達していないのです。
──いわゆる幽界のことでしょうか。
その名称は使用する人によって必ずしも同じように理解されておりませんが、貴殿の理解しているものに従って言えば、私のいうエーテル的天体は幽界とは違います。
今お話したとおりのものです。聞くところによれば、そこに安住している人間に似た住民はみな、ずいぶん古くからの生活者で、これから先いつまでそこに住んでいられるか確かなことは不明であるとのことです。彼らは太古の地球人類の一種の副産物なのです。
──あなたがこの地球へ降りてこられる時はそのエーテル的天体を通過してくるわけですか。
場所的に言えばそういうことになります。が、通過する際にその環境に対して何の反応も感じません。感覚的にはその存在を感じていないということです。私がこれまで第一界、第二界、第三界と呼んできた界層とは何の関係もありません。
造化の系列が別で、実に不可思議な存在です。吾々の行動の場から離れており、したがって詳しいことはほとんど知りません。
さきほど申し上げたことは──あれ以外にもう少し多くのことが判っておりますが──これまでそうした別の要素の存在を知らなかったがために理解に苦しんでいたことを説明するために教えていただいたことです。それでやっと得心がいったことでした。
アーネル ±
3 精霊とその守護天使の群れ
一九一九年四月六日 木曜日
さて、地ならしができたところで、お約束の顕現の話に入りましょう。その主旨は吾々にこれから先のコースをいっそう自信を持って進ませるために、現在の地上人類の進化がいかなる目標に向かって進行しつつあるかを示すことにありました。
吾々の目の前に展開する地球はすでにエーテル的なものと物的なものとが実質的にほとんど同等の位置を占める段階に至っております。
身体はあくまで物質なのですが、精妙化が一段と進んでかつての時代──貴殿の生きておられるこの現代のことです──よりも霊界との関係が活発となっております。
地球そのものが吾々の働きかけに反応して高揚性を発揮し、地上の植物が母親の胸に抱かれた赤子にも似た感性をもつに至っております。
その地上にはもはや君主国は存在せず、肌の色が今日ほど違わない各種の民族が一つの連合体を組織しております。
科学も現在の西欧の科学とは異なり、エーテル力学が進んで人間生活が一変しております。もっとも、この分野のことはこれ以上のことは述べないでおきましょう。私の分野ではないからです。
以上のことはこれから顕現される吾々への教訓を貴殿にできるだけ明確に理解していただくために申し上げているまでです。
さて地球は地軸上でゆっくりと回転を続けながら内部からの光輝をますます強め、それがついに吾々までも届くようになり、それだけ吾々も明るく照らし出されました。
するとその地球の光の中から、地球の構成要素の中に宿る半理知的原始霊(いわゆる精霊のことで以下そう呼ぶ──訳者)が雲霞のごとく出てきました。奇妙な形態をし、その動きもまた奇妙です。その種のものを私はそれまで一度も見かけたことがなく、じっとその動きに見入っておりました。
個性を持たない自然界の精霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族ごとの類魂として働いているものとがあります。
鉱物の精霊はこの分野を担当する造化の天使によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚はもっておりません。
が、植物の精霊になるとその分野の造化の天使から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物にくらべて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。
同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状態にすぐ表れます。たとえば性質の相反する二つの鉱物、あるいは共通した性質をもつ二つの鉱物を、化学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応もともに即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。
ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。ふだんの発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満をもつからです。
しかしこれが動物界になると、その精霊も十分な知覚を有し、かつ又、少量ながら個性も具えています。また造化の天使も整然とした態勢で臨んでおります。
その精霊たちが地中から湧き出て上昇し、地球と吾々との中間に位置しました。すると今度はその精霊と吾々との間の空間から造化の天使たちが姿を現しました。現実には常に人間界で活動しているのですが、地上にそれに似た者が存在しませんので、その形態を説明することは出来ません。
一見しただけで自然界のどの分野を担当しているかが判る、と言うに留めておきましょう。大気層を担当しているか、黄金を扱っているか、カシの木か、それとも虎か───そうした区別が外観から明瞭に、しかも美事に窺えるのです。
形、実質、表情、衣──そのすべてに担当する世界が表現されております。もっとも衣は着けているのといないのとがあります。
いずれにせよ、その造化の天使たちの壮観には力量の点でも器量の点でも言語を絶した威厳が具わっております。それぞれに幾段階にもわたる霊格を具えた従者をしたがえております。
その従者が細分化された分野を受けもち、最高位の大天使と、動物なり植物なり鉱物なりとの間をつないでおります。
さて、その天使群が地球の光輝の中から湧き出てきた精霊たちと合流した時の様子は、いったいどう叙述したらよいでしょうか。こう述べておきましょう。
まず従者たちが精霊へ向けて近づきながら最高位の大天使を取り囲みました。かくまうためではありません。ともかく包み込みました。すると精霊たちもそのいちばん外側の従者たちと融合し、その結果、地球のまわりに美しい飾りのようなものが出来あがりました。
かくして地球はかつてない光輝を発しながら、あたかも玉座を納めたパピリオンのカーテンのごとく、上下四方を包むように飾る、生き生きとした精霊群の真っ只中にありました。今や地球は一個の巨大な美しい真珠のごとく輝き、その表面に緑と金色と深紅と琥珀色と青の縞模様が見えていました。
そしてその内部の心臓部のあたりが崇敬の炎によって赤々と輝いて見え、造化の天使とその配下の無数の精霊に鼓舞されて生命力と幸福感に躍動し、その共鳴性に富む魅力を発散しておりました。
その時です。生き生きとしたその飾りの下からキリストの姿が出現しました。完成せるキリストです。かつてのキリストの叙述にも私は難儀しましたが、いま出現したキリストを一体どう叙述したらよいでしょうか。途方に暮れる思いです。
おからだは半透明の成分でできており、地球ならびにそれを取り巻く無数の精霊のもつ金色彩をみずからの体内で融合させ完全な調和を保っておりました。そのお姿で、煌々たる巨大な真珠の上に立っておられます。
その真珠は足もとでなおも回転し続けているのですが、キリストは不動の姿勢で立っておられます。地球の回転は何の影響も及ぼしませんでした。
衣服は何も着けておられませんでした。が、その身辺に漂う生命の全部門の栄光が、その造化にたずさわる大天使を通して澎湃として押し寄せ、崇敬の念の流れとなって届けられ、それが衣服の代わりとしておからだを包み、お立ちになっている神殿に満ちわたるのでした。
お顔はおだやかさと安らかさに満ちておりました。が、その眉にはお力の威厳が漂っておりました。神威がマントのごとく両肩を包み、紫がかった光に輝く豊かな起伏を見せながら背後に垂れておりました。
かくして吾々は地球を囲みつつキリストの上下四方に位置していたことになります。もっとも、キリストにとっては前も後ろも上も下もありません。
吾々のすべてが、吾々の一人一人が、キリストのすべて──前も後もなく、そっくりそのままを見ていたのです。貴殿にはこのことが理解できないことでしょう。でもそう述べるほかに述べようがないのです。その時の吾々はキリストをそのように拝見したのです。
そう見ているうちに、無数の種類の創造物が各種族ごとに一大合唱団となってキリストへの讃仰の聖歌を斉唱する歌声が響いてきました。それが創造的ハーモニーの一大和音となって全天界ならびに惑星間の虚空に響きわたり、各天体をあずかる守護の天使たちもそれに応唱するのでした。
それほどの大讃歌を地上のたった一つの民族の言葉で表現できるはずがないのは判り切ったことです。でも、宇宙の一大コンサートの雄大なハーモニーの流れに吾々の讃仰の祈りを融合させて、その聖歌の主旨だけでも、私にできるかぎりの範囲で表現してみましょう。
「蒼穹の彼方にははたして何が存在するのか、私どもは存じませぬ。地球はあなたの天界の太陽が放つ光の中のチリほどの存在にすぎぬからでございます。
しかし父なる大神のキリストにあらせられるあなたの王国の中のこの領域を見てまいりました私どもは、このことだけは確信をもって信じます──すべては佳きに計らわれている、と。
私たちの進む道において、この先、いかなることが永却の彼方より私たちを出迎えてくれるや、いかなる人種が住むことになるや、いかなる天使の支配にあずかることになるや──こうしたことも私たちは今は存じませぬ。
それでもなお私たちは恐れることなく進み続けます。ああ、主よ、私たちはあくまでもあなたのあとに付いて参るからでございます。力と愛とが尊厳の絶頂の中で手に手を取ってあなたの両の肩に窺えます。
父なる神がいかなるお方であるか──それは最愛の御子たるあなたを拝しお慕いしてきて、私どもはよく理解できております。あなたを逢瀬の場として私どもの愛が父の愛と交わります。私どもは父をあなたの中において知り、それにて安んじております。
主よ、私どもの目に映じるあなたは驚異に満ち、かつ、この上なくお美しい方であらせられます。しかし、それでもなお、あなたの美のすべては顕現されておりませぬ。それほど偉大なお方であらせられます。
本来の大事業において私どもは心強く、楽天的に、そして恐れることなくこの身を危険にさらす覚悟でございます。叡智と力と創造的愛の完成せるキリスト、私たちはあなたの導かれるところへ迷わずあとに続いてまいります。
私たちは霊格の序列と規律の中で、あなたへの崇敬の祈りを捧げます。何とぞあなたの安らぎの祝福を給わらんことを」
アーネル ± (完)
訳者あとがき
前巻の〝あとがき〟の最後のところで私は〝いよいよ翻訳に取りかかる時は、はたして自分の力で訳せるだろうかという不安が過り、恐れさえ覚えるものである〟と述べた。
結局四度この不安と恐れを味わい、いまやっと全四巻を訳し終えた。長い長いトンネルをやっと抜けたといもう事実は事実であるが、そこにホッとした安堵感も満足感もない。
はたしてこんな訳でよかっただろうかという不安とも不満ともつかぬ複雑な感慨が過る。
とくにこの第四巻は訳が進むにつれて私の置かれている立場の厳粛さと責任を痛感させられることになった。単に英語を日本語に直す訳者としての責任を超えて、天界の大軍が一千有余年の歳月をかけた地球浄化の大事業に末端的ながらも自分も係わっているという自覚から遁れるわけにいかなくなった。
これは自惚れとか尊大とかの次元を超えた、いわく言い難い心境である。本通信の重大性を理解してくださった方ならば、そういう自覚と責任感なしに訳せるものではないことはご理解いただけるであろう。
この道の恩師である間部詮敦氏(以下先生と言わせていただく)との出会いは私が十八歳の高校生の時で、そのとき先生はすでに六十の坂を越えておられた。
その先生がしみじみと私に語られたのが〝この年になってやっと自分の使命が何であるかが判ってきました〟という言葉であった。私は〝先生ほどの霊格をおもちの方でもそうなのか〟といった意外な気持ちでそれを受けとめていたように思う。
その私が五十の坂を越えて同じ自覚をもつに至った。この心境に至るのに実に三十年の歳月を要したことになる。
ここで改めて打ち明けておきたいことがある。実はその出会いから間もないころ先生が私の母に、私が将来どういう方面に進む考えであるかを非常に改まった態度でお聞きになられた。(そのとき先生は私の将来についての啓示を得ておられたらしい)
母が「なんでも英語の方に進みたいと言っておりますけど・・・・・・」と答えたところ、ふだん物静な先生が飛びあがらんばかりに喜ばれ、びっくりするような大きな声で、
「それはいい! ぜひその道に進ませてあげて下さい」とおっしゃって、私に課せられた使命を暗示することを母に語られた。何とおっしゃたったかは控えさせていただく。ともかくそれが三十年余りのちの今たしかに実現しつつあるとだけ述べるに留めたい。
母はそのことをすぐには私に聞かせなかった。教育的配慮の実によく行き届いた母で、その時の段階でそんなことを私の耳に入れるのは毒にこそなれ薬にはならないと判断したのであろう。私が大学を終えて先生の助手として本格的に翻訳の仕事を始めるようになってから「実は・・・・・・」といって打ち開けてくれた。
母は生来霊感の鋭い人間であると同時に求道心の旺盛な人間でもあった。当市(福山)に先生が月一回(二日ないし三日間)訪れるようになって母が初めてお訪ねしたとき、座敷で先生のお姿を一目見た瞬間〝ああ、自分が求めてきた人はこの方だ〟と感じ、〝やっと川の向う岸にたどり着いた〟という心境になったと語ったことがある。
それに引きかえ父は人間的には何もかも母と正反対だった。〝この世的人間〟という言葉がそのまま当てはまるタイプで、当然のことながら心霊的なことは大きらいであった。
それを承知の母はこっそり父の目を盗んで私たち子供五人(私は二男)を毎月先生のところへ連れていき、少しでも近藤家を霊的に浄化したいと一生けんめいだった。
やがてそのことが父に知れた時の父の不機嫌な態度と、口をついて出た悪口雑言は並大抵のものではなかったが、それでも母は自分の考えの正しいことを信じて連れて行くことを止めなかった。
そのころ運よく当市で催された津田江山霊媒による物理実験会に、それがいかなる意義があるかも知らないはずの母が兄と私の二人を当時としては安くない料金を払って出席させたのも、今にして思えば私の今日の使命を洞察した母の直感が働いたものと思う。
当時は津田霊媒も脂の乗り切った時期で、『ジャック・ウェーバーの霊現象』に優るとも劣らぬ現象を見せつけられ、その衝撃は今もって消えていない。
当時のエピソートは数多いが、その中から心霊的にも興味あるものを一つだけ紹介しておきたい。
当時の母は一方では近藤家のためだと自分に言い聞かせつつも、他方、そのために必要な費用はそのことを一ばん嫌っている主人が稼いでくれているものであり、しかもそれを内しょで使っているということに心の痛みを覚えていた。
そこである夜、先に寝入って横向きになっていびきをかいている父に向かって手を合わせ〝いつも内しょで間部先生のところへ行って済みません。
きっと近藤家のためになると思ってしていることですから、どうかお父さん許してくださいね〟と心の中で言った。すると不思議なことに、熟睡しているはずの父が寝返りをうちながら〝ああ、いいよ〟と言った。それを見て母は〝ああ、今のは守護霊さんだ。
守護霊さんは分かってくださってるんだ〟と思って、それまでの胸のつかえがきれいに消えたという。けだし母の判断は正解であった。私はこの話を母から二度も聞かされたが、この話には母の人間性のすべてが凝縮されているように思う。
〝苦〟と〝忍〟の中にあってなお思いやりの心を忘れないというのは、宗教的な〝行〟の中よりもむしろこうした平凡な日常生活での実践の方がはるかに難しいものである。
シルバーバーチが〝何を信じるかよりも日常生活において何を為すか──それが一ばん大切です〟と述べているのはそこを言っているのである。
母はこうした心霊的なエピソートがいろいろとあるが、今そのすべてを語っている余裕はない。ともかくそれらのすべてが今私がたずさわっている英国の三大霊訓およびこれから発掘されていくであろう人類の霊的遺産の日本への紹介という仕事につながっていることを、今になってやっと痛感させられているところである。
私は最近その母のことを生身の背後霊だったとさえ思うようになった。母にも母なりの人生があったことであろうが、その中での最大の使命は私を間部先生と縁づけ、そして以後ずっと勇気づけ父から庇ってくれたことにあったように思う。
あるとき母が少しはにかみながら私に一通の封書を見せてくれた。間部先生からの達筆の手紙だった。読んでいくうちに次の一文があった──〝あなたのような方を真の意味での人生の勝利者というのです・・・・・・〟母にとってこれ以上の慰めとなる言葉はなかったであろう。
では父はどうかと言えば、最近になって私は、そういう父なかりせば果たして今日の私にこれだけの仕事ができたかどうか疑問に思うことがある。
もしも父が俗に言う人格者(これは大巾に修正を必要とする言葉となってきたが)で聞き分けのいい人間だったら、こうまでこの道に私が情熱を燃やすことにはならなかったのではないかと思われるのである。
母は真の人生の指導者を求め続けてそれを間部先生に見出した。そしてそれを千載一遇の好機とみて、父から何と言われようと、何とかして子供を先生に近づけようとした。
そして私が大学を終えたのち父の期待を裏切って何の定職にもつかずに先生のもとへ走ったことで父が激高し、その責任を母になすりつけても、母は口応えすることなくじっと我慢して耐えてくれた。
こうしたことの一つ一つが節目となって私はこの道にますます深入りしていった。そうした観点から見るとき、その父の存在もまた神の計画の中に組み込まれていたと考えることができる。今ではそう信じている。
その父がこの〝あとがき〟を書いている日からちょうど一か月前に八三歳で他界した。
母がいかにも母らしくあっさりと十年前に他界したのとは対照的に、父は二年間の辛い療養生活ののちに息を引き取った。二年前、私の『古代霊は語る』が出て間もないころに脳こうそくで倒れたのであるが、その時はすでに私のその本をひと通り読み通していて、〝すらすらと読めるからつい最後まで読んじゃった。
もう一度読み直そうと思っているよ〟と語っていた。それから一週間もしないうちに倒れて長男の家で療養を続けていたのであった。
その父が一週間前にやっと私の夢に姿を見せてくれた。白装束に身を包み、元気だった頃とは見違えるほどアクの抜けた顔で立っていたが、私が顔を向けるとうつむき終始無言のままだった。
これから修行の旅にでも出かけるような出で立ちで、ひとこと私に言いたいことがあるような感じがした。
それは口にこそ出さなかったが、かつての父に似合わず小さくなっている態度が私に言葉以上のものを物語っていた。私が他界した時はぜひ母とともに笑顔で迎えてくれることを祈っている。
父と母と私、それに間部先生の四人によるドラマはすでに終り、私は曲がりなりにも与えられた使命を果たしつつある。その間の数えきれないほどの不愉快な出来ごとも、終ってしまえばすべてが懐かしく、そして何一つ無駄ではなかったことを知らされる。
あとは、最初に述べたように、果たしてこんな訳でよかったのだろうかという責任感が残るばかりである。その重大性を知るからこそ責任感も痛切なものとなる。
が、シルバーバーチがよく言うように、人生は、この世にあろうとあの世にあろうと、すべてが途中の階梯である。この霊界通信は通信霊の古さのせいで原典そのものが古風な英語で書かれており、私はこれを原典のそれなりの味を損なわない程度に現代風にアレンジして訳したつもりであるが、それもいつかは古すぎる時代がくるであろう。
それは人間界の常としてやむを得ないことである。その時代にはその時代で有能な人材が用意されていることであろう。そう期待することで一応、訳者としての肩の荷を下ろさせていただきたい。
訳の是非は別として、この通信そのものは私が改めて解悦するまでもなく、これまでの〝死後の世界〟についての概念に大巾な修正を迫る重大な事実を数多く含んでいると信じる。
日本の神ながらの思想をはじめとして世界各地の古代思想において神話風に語られてきている天地創造の真相を〝霊〟の〝物質〟への顕現としてとらえ、さらに宇宙のチリほどの存在にすぎない地球の過去一千有余年にわたる特殊事情を説き、それが現在のスピリチュアリズムの潮流につながっている事実を示唆している。
いずれ日本にも日本人に親しみやすい形での〝新しい啓示〟が与えられる日が到来することであろうが、私見によればそれは、こうした西洋的啓示によって日本人特有の〝霊〟についての曖昧かつ摩訶不思議的概念を改められ、霊こそ実在とした合理的かつ論理的概念を十分に摂取してからのちのことになるであろう。その辺に本通信の日本人にとっての意義があると私は観ている。
最後に、こうした特異な通信を快く出版してくださった潮文社に対して深い感謝の意を表したい。 (一九八六年)
新装版発行にあたって
「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数、寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。
平成十六年二月
近藤 千雄
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