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   一章 暗黒の世界

① 霊界の風景  偏見→卒業   

② 悲しみの館     

③ バイブレーションの原理

④ 光のかけ橋         

⑤ キリスト神の〝顕現〟  

⑥ 暗黒街の天使


   二章 薄明の世界

① 霊界のフェスティバル   

② 色彩の館        

③ 意念の力  

④ 死の自覚        

⑤ 天界の祝祭日     

⑥ 念力による創造実験 創造物(参考資料)


  三章 暗黒から光明へ

① 愛と叡智     

② 霊界の科学館     

③ 霊界のパビリオン 

④ 暗黒街からの霊の救出

  四章 霊界の大都市

① カストレル宮殿     

② 死産児との面会     

③〝童子が手引きせん〟   

④ 炎の馬車 

⑤〝縁〟は異なもの


  五章 天使の支配

① 罪の報い      

② 最後の審判      

③ 使節団を迎える      

④ 強情と虚栄心


六章 見えざる宇宙の科学


① 祈願成就の原理     

② 神々の経綸    

③ 天体の霊的構成  

④ 霊的世界の構図

⑤ 果てしなき生命の旅   

⑥ 予知現象の原理


  解説 霊的啓示の進歩




    推薦の言葉    ノースクリッフ卿


 私はまだオーエン師の霊界通信の全篇を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。


 こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を有ち、それとの関連性において考察さるべきであるように思われる。


私はオーエン師とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしているということであった。ご自分に霊能があるというような言葉はついぞ師の口からは聞かれなかった。


出来るだけ名前は知られたくないとの気持ちを披瀝され、これによる収益の受取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたであろうと思われるのだが。


(ノースクリッフ卿 Lord Northcliffe―本名 ウィリアム・ハームズワース Alfred Charles William Harmsworth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail デイリーメールの創刊者。


死後〝フリート街の法王〟と呼ばれたハンネン・スワッハー Hannen Swaffer がよく出席していた直接談話霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出現、スワッハーがそれを「ノースクリッフの帰還」 Northcliffe,s Return と題して出版、大反響を呼んだ───訳者 )


   

   序                  アーサー・コナン・ドイル


永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。


 新しい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。


 今その内の一つ───至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源を持つ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。


 それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。


 一字一句に捉われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新しいものだから、珍しいから、ということで無闇に有難がってもいけない。


 地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、霊的であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分あり得ることを銘記すべきである。


この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。


 神は二千年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。


 それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。


 驚異的と言われ不可思議とされた過去七十年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手を持って目を蔽う者のみと言ってよいほどである。現象そのものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。


がそれは実は吾々人間の注意を引きつける為の信号シグナルだったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。



 啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。


通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。


 その内容は古き信仰を覆すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。


これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。


 真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味を持つに至った部分が幾つあることであろうか。


 例えば「父の家には住処多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。


 それはもはや捉え難き遠い世界のまぼろしではなく、この〝時〟にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己の道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ち受けるとの確信を植え付けてくれることによって、よろこびの時にはより一層その喜びを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。


 言葉即イコール観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。


 筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を二冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。オーエン氏の通信が私の二冊とは無関係に綴られたのと同じである。


どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、この度読み返してみて、私のものより遥かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは一つも見当たらない。


 もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろうか。


 今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新しい機関車が必要なのである。


もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず───例えば第一次世界大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応え得た教会が有ったであろうか。


今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。


 新しい時代が始まりつつある。これまで貢献してきた者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚れの誘因とはならない。


目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。


 しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持ちを抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。


(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle ───言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。


そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは〝スピリチュアリズムのパウロ〟の異名を取るほど、その普及に献身した。──訳者)





   まえがき             G・V・オーエン


 この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では四部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送ってきた霊団がアラカジめ計画したものであることは明白である。


 母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。


その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。


 それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。


母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第一巻『天界の低地』を構成している。


 この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石サズガに高等である。第二巻『天界の高地』は全部このザブディエル霊からの通信で占められている。


 第三巻『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。


その名のもとで綴られたのが第四巻『天界の大軍』で、文字どおり本通信の圧巻である。前三巻のいずれにも増して充実しており、結局前三巻はこの第四巻の為の手馴らしであったとみても差し支えない。


 内容的にみて本通信が第一部から順を追って読まれるべき性質のものであることは言うまでもない。初めに出た事柄があとになって説明抜きで出て来る場合も少なくないのである。


 本通信中の主要人物について簡単に説明しておくと──


 私の母は一九〇九年に六十三歳で他界している。アストリエルは十八世紀半ばごろ、英国ウォ―リック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。


霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが一八九六年に僅か十五ヶ月で他界するその三年前に二十八歳で他界している。


 さて〝聖職者というのは何でもすぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。


が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。


チナミに私が本通信を〝信ずるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費している。すなわち、確かに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることをはっきりと得心するのに十五年かかった。


 そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出した。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じで、お前も鉛筆を握って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られて来た。


正直のところ私はそれが嫌で、しばらく拒否し続けた。が他界した私の友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持ちにもだいぶ変化が起き始めた。


こうした事実からも十分納得して頂けることと思うが、霊界の通信者は通信の目的や吾々に対する希望は述べても、そのために吾々の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決して無かった。結果論から言えば少なくとも私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛からずに済んだろうにと思われるのだが・・・・・・。


 が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、その内注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのであった。


 最初の四、五節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、その内次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。


それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。

       一九二五年秋




 一章 暗黒の世界


 1 霊界の風景             

 一九一三年九月二三日  火曜日 

──どなたでしょうか。(オーエン氏の質問──訳者)


 あなたの母親です。ほかに援助してくださる方が幾人かお出でです。私たちは順調に進歩しております。しかしまだ、述べたいことの全てを伝えることができません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受身的でないからでもあります。



──住んでおられる家屋と、今携わっておられる仕事について教えてください。


 仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。


例えばローズ(オーエン氏の妻──訳者) にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私たちです。


今でもその霊団が彼女の面倒を見ております。時おり近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分そのはずです。必要とあればすぐに近くに参りますから。


 次は家屋について。これは、とても明るく美しく出来あがっております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。



──(ここで一つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも吾々人間と同じなのだろうか、ということである。


断わっておきたいのは、この霊界通信を読んで行かれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが〝イエス〟あるいは〝ノー〟で始まって綴られているのを各所に発見されるはずである。


その点をご諒承いただいて、特に必要がないかぎり、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の思念を読み取ったものかは断わらないことにする。)


 はい、見えます。その方たちが私たちに姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私たちの発達の程度と、その方たちの私たちに対する力量次第です。


℘22

──では、今住んでおられるところ──景色その他を説明をしていただけますか。


 完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。


今は代わって私たちが、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。こちらへ来られた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備も出来ているというわけです。



 ここで、最近私が目撃した興味深い光景シーンをお話いたしましょう。そうです、こちらのこの土地でのシーンです。私たちの住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が取り行われると聞かされ、私たちもそれに出席するようにとのことでした。

 

儀式というのは、一人の霊が〝偏見〟と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです。


 言われるままに私たちも行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で・・・・・なぜ躊躇するのですか。私たちは目撃したことを有りのままに述べているのです。馬車で来る人もいます。


お好きなように別の呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬に引かれております。御者の言うことがすぐ馬に通じるようです。


と言うのは、地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いて来る人もいました。空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。


 さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。


 ですが、地上の言葉を使うほかはありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生のところに位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開しはじめました。


空の色───殆ど全体が青と金色です───が一段と強さを増しました。そしてその中から一枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた見事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いというよりは金色に輝いておりました。


それがゆっくりと広がって二人を蔽うようにかぶさり、二人がそのベールに融けこみ、ベールもまた二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。


何しろ二人とも一段階上の光明の世界へと向上して行ったのですから。



 それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。


それはそれは美しい光景でした。それは、向上して行く二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別ハナムケであり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。


あとで尋ねてみましたらその音楽は円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえて来るようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部となり切っているように感じられるのです。


 お二人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊──この方にはすでに一つ付いておりましたが──にも新たにもう一つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。


私なりの推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに、私たちが理解していることを地上の言葉で伝えること自体が難しいのです。


儀式が終わると、みんなそれぞれの仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間にわたるもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。


 儀式の最中のことですが、私たちが立っていた位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私たちには人間の容姿をしているように見えました。


今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。


もちろん私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。なぜなら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。


 さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか、それとも、あなたを通してあなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に向かって腰かけた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかったはずです。


私たちもあらかじめその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でも、こうしてあなたと霊的つながりが出来たとたんに、今の話を綴られました。そうではありませんか。



───その通りです。その点は正直に認めます。


 そうですとも、では、これでお別れです。あなたとお別れするというのではありません。私たちはあなたに理解できない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くという仕事と暫しお別れという意味です。


神の祝福のあらんことを祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。

                     




2 悲しみの館               

  一九一三年九月二四日  水曜日

  

 あなたとの間に始められたこうした通信が究極においてどういう影響をおよぼすか──そのことを少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連において考察してごらんなさい。


私たち霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私たちの目にどのように映っていたと思われますか。


それはちょうど霧の海に太陽の光が差し込んだのと同じで、霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。


 あなたの精神状態もいずれそうなると私たちは見ております。しばらくは真理という名の太陽に目がくらみ、真相が分かるよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明であること、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となることを悟られるでしょう。


光は必ずしも有難がられるものとはまっておりません。日光で生長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。


 そういう人はそれでよろしい。そしてあなたはあなたの道を歩まれることです。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど・・・・・・。


 では、ここでもう一つ、神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう。


 つい先ごろの事ですが、私たちは美しい森の多い土地を散策しておりました。歩きながらおしゃべりを始めたのですが、それもほんの少しの間でした。と言うのは、全てを聖なる静寂の中に吸い込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。


その時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。その方は立ったまま笑みを浮かべて私たちを見つめておられます。


何も語りかけません。がそのうち私たちのうちの一人に特別のメッセージを持って来られたことを私は感じ取りました。そしてそれが他ならぬ私であることもすぐに判りました。


私たちが立ち止まって待ち受けていますとすぐ近くまでお出でになり、身につけておられるマント風のもの── 琥珀色でした──を片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬を私の髪に当てて──私よりはるかに背の高い方でした──優しくこうおっしゃいました。



 「私はあなた方が信仰しておられる主イエス(※)の命を受けて参りました。主はすべてをお見通しです。あなたはまだ先のことがお判りでない。


そこでこれからあなたがおやりになる仕事のための力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる一人として選ばれております。


もちろんそちらにおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでも出来ますが、申し訳ないが暫くお別れいただいて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やっていただかねばならない仕事の案内をさせて下さい」(※他界後しばらく霊界の指導霊は当人の地上での信仰に応じた対応をするのが定石である。イエス・キリストの真実については第三巻で明かされる。)



 天使様がそう言い終わると仲間の者が私のまわりに集まってきて頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。みんな自分のことのように喜んでくれました。いえ、この言い方ではぴったりといたしません。うれしさを十分に言い表わしておりません。


さきほどのお言葉の真意を私たちが語り合うのをお待ちになってから天使様が再び私に近づき、今度は私の手を取ってどこかへ連れて行かれました。


 しばらく歩いて行くうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛びはじめました。別に怖いとは思いませんでした。私にはすでにそれだけの力が与えられていたわけです。


数々の宮殿のような建物の見える高い山並みの上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは一度も来たことのない都市でした。


 その都市を包む光は決して悪くはないのですが、私の目がその明るさに慣れていないために、まわりのことがよく判りませんでした。が、そのうち大きな建物を取り囲む庭の中にいることが判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついており、その一ばん上にテラスのようなものがあります。


建物全体が各種の色彩──ピンクと青と赤と黄──の一つの素材で出来ており、それが全体として黄金のような輝き、柔らかさを持った輝きを見せておりました。


その昇り段を天使の方へ上がって行き入口のところまで来ました。そこにはドアは付いておりませんでした。そこで一人の美しい女性が迎えてくださいました。


堂々としておられましたが決して尊大には見えません。実はその方は「悲しみの館」の主です。こんなところで不似合いな言葉と思われるでしょう。実はこういうことなのです。


 悲しみというのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上のことです。悲しみに打ちひしがれている地上の人々のことです。


この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。こちらでは物事の真相に迫りその根源を知らなくてはなりません。それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んでいくほかはありません。


いま〝霊波〟という用語を用いたのも、それが真相をズバリ言い表わした言葉であり、あなたにとっても一ばん理解しやすいと思うからです。


 その女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介して下さいました。地上とはまるで趣の異なるもので、説明するのが困難です。強いて言えば建物全体が生命で脈打っている感じで、私たちの意志の生命力に反応しているようでした。


 以来そこでの仕事が現段階での私の最も新らしい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私はまだ、地上から届いて感識される祈りと、耳に聞こえてくる──と言うよりやはりこれも感識されると言った方がよいでしょう──悶え苦しむ人々の嘆きがやっと判るようになり始めたばかりです。


 私たちはそれを言わば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識にできるようになるものですが、最初のうちは大変な努力がいります。私にはとても大変なことです。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。


 送り届けた慰めや援助などの効果は再びはね返って来るものなのですが、勉強していくうちに判ってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めとか援助のほかは私には何も知り得ない地域があるということです。


今のところ私がその仕事に携わるのは一度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。どこを見ても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。


今ではかつての仲間を訪ねに行くことがあります。会った時にどんな話をするか、あなたにも大体の想像がつくと思います。


仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。あたりは主イエス・キリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。あなたも、初めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れることになるでしょう。その時は私が何もかも案内してさしあげましょう。


そのうち多分あなたも向上して、今度はあなたの方が、あの天使様がして下さったように、私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内して下さることになるでしょう。


ずいぶん意欲的だと思っておられるようですね。それはそうですよ。それが母親の、そうね、煩悩というものかしら。いえ、母親ならではの喜びではないかしら。


 では又にしましょう。今のあなたの心の状態を見れば、すべてを真実と信じておられるのが判ります。うれしそうに明るく輝いて見えますよ。それは母親である私にもうれしいことです。では、おやすみなさい。神よ、安らぎを垂れ給え。

                           



         

 3 バイブレーションの原理     

 一九一三年九月二十五日  木曜日


 聖書の中に主イエスがペテロのことを自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたはその真意を捉えかねている様子だから、今夜は、十分ではないかも知れないけど是非そのことを明らかにしてみたいと思います。


ご存知の通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子達に対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。


その時のイエスの真意は、自分が殺されることによって一見自分たちの使命が失敗に終わったかの如く思われるかも知れないが、見る目を持つ者には──弟子達がそうであって欲しいとイエスは思ったことでしょうが──自分の真の目的はそれまでの伝導の道よりもはるかに強力にして栄光ある発展のための口火を切ることであり、それが父なる神より授かった地上人類の霊的高揚のための自分の使命なのだということでした。


 ペテロはそれが理解できないことを彼なりの態度で示しました。当然であり無理もないことです。が、このことに関して何時も見落とされていることがあります。


それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑ハリツケはその使命の中における一つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような〝喜び〟の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。


なぜならば、テコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍を転じて福となし、神の計画を推進することになるということでした。


悲劇をただの不幸と受け止めることがいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の〝価値〟を理解して初めて判ることです。さてイエスは今まさに未曾有ミゾウの悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。


もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。


そこでイエスは言いました。──「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」 と。そして遂にそうなりました。もっともそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからのことです。理解といっても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かにできたのでした。


 こうして文章で綴ってしまえばずいぶん簡単なことのように感じられます。またある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理はすべて単純だからです。ですが私たち、とくに現在の私にとっては、あなたにも判然としないかもしれない重要性を秘めております。


と言いますのは、今の私の生活の大半を過ごしている新しい建物に中での主な課題がそれと同じこと、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換することだからです。とても素敵な仕事です。


ですが自由意志の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視することは許されないのです。


当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。


時にはうんざりすることもあります。が、この仕事に携わることによって強くなるにつれて、そうした念も消えて行くことでしょう。ところであなたの質問は何ですか。尋ねたいと思っていることがあるようでしたが。



──いえ、ありません。特別な質問はありませんが。


 尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で・・・・・



──そう言えば今朝がたそのことをお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明していただくほどのことでもないように思いますが如何でしょうか。私は〝精神感応〟と呼んではどうかと思いますが。


 なるほど、当たらずといえども遠からずですね。でもピッタリというわけでもありません。精神感応というのは未知の分野も含めた大ざっぱな用語です。私たちがあなたに印象付ける手段は各種のバイブレーションです。本質がそれぞれ少しずつ異なります。


それをあなたの精神に向けて集中するのです。ですが、どうやらあなたはこの種の問題は今はあまり気が乗らないようですね。又の機会に改めて述べることにしましょう。


今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃってみてください。



──では、あなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話して下さい。


 よろしい。では出来るだけ分かりやすくお話いたしましょう。


 住居すまいは内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室バスもあれば音楽室もあり、私たちの意念を反映させていく上で補助的な役割をする道具もあります。


ずいぶん広いものです。私は今〝住居〟と言いましたが、本当はひと続きの建物で、その一つ一つがある種の仕事を割り当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。


どの家からでも始めて次の建物へ進むことができます。でもこんな話は人間にはあまりに不思議すぎて理解することも信じることも出来ないでしょうから、もっと分かりやすいものを取り上げてみましょう。


 土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。


たとえば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように生長しておりますが、その樹木と建物との間に共鳴関係のようなものがあり、樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。


それと同じことが森の中の一つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所に見られる小川や滝の配置についても言えます。


すべてが驚くべき叡智から生み出され、その効果は〝美しい〟の一語に尽きます。


 実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果がほとんど目立たないだけです。


でも実際にあることはあるのです。例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存じでしょう。それから、花が他家よそよりも長持ちする家── そういう家族があるものです。


切り花のことです。荒けずりではありますが、すべて同じことです。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、このことは私たちがいま携わっている仕事で個々のケースを正確に診断する上でよい参考になります。


大気も当然ここの植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返すことになりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶──産物と言っても良いでしょう──であり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。(その詳しい原理は第六章でアストリエル霊が解説。──訳者)


 大気はまた私たちの衣服にも影響を及ぼします。さらにはその生地と色への影響が私たちの性格そのものまで沁みこんで来ます。


ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けているわけですから、身にまとっているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。


 さらに私たちがたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化することがあります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道やさまざまな品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣が変化していくのを見るのは面白くもあり、ためにもなり、また見た目にも美しくもあります。


 小川がまた美しいのです。水の妖精の話はあなたも聞いたことがあるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくともこちらでは本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。ということは生命の存在がそこにあるということです。


このことは前にいた界でもある程度は知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうしたことが一層はっきり認識され、同時にこの調子で行くとこれから先の界は一体どうなってるのだろうと驚異を抱き始めております。


この界の不思議さなどどこへ行ってもあたり前のように思えるからです。



 でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美わしい御国の片隅を見せて下さった神はまた別の片隅を見せて下さることでしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はこの言葉で終わりとしましょう。それでは。



<原著者ノート>この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私はその話の流れが読み取れず、まとまりがなくて混乱しているように思えた。が、今読み返してみると決してそうではないことが判る。


 悲しみのバイブレーションについて述べていることを〝神の摂理の基本的原理〟についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次のようになりそうである。


 悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは〝置き換え〟ではなく〝調整〟によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送ることによって、悲しみのバイブレーションのうちの幾つかが中和され、幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。


 こう観れば、この日のメッセージも意味を持ち、多分人生における悩みごとを実際に解決していく方法に光を当てることになるかも知れない。確かにそれが神の一つの手法なのであろう。悲しみを生み出す外的条件が取り除かれるという意味ではない(極端な場合はそうするかも知れないが)。


別種のバイブレーションを吹き込むことによって悲しみを喜びへと転換してしまうという意味である。これなら日常生活でよく見かけることである。


こうした説は科学的思考に慣染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし〝別種のバイブレーション〟が実際に同じ〝交換価値〟を持つ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人もいることであろう。


 なお最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第一六章二〇である。

                      



4 光のかけ橋   

       

 一九一三年九月二六日 金曜日


 前回の通信は、あなたにもう少し深入りした感応の仕方を試して見るべきであるとの霊団の一人の要請を受けてやってみたものです。が、説明できるようにはなりましたが、説明の内容はまだまだ十分とは言えません。


そこで、あなたがお望みであれば引き続き同じ問題を取り上げようと思いますが。



──有難うございます。お願いします。


 では、あなたにも暫く私たちと共にベールのこちら側から考えていただかねばなりません。まず理解していただきたいのは、こちらへ来て見ると地上で見ていたものとはまったく異なった様相を呈していること──恐らく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的にさえ思えるのではないかということです。


どんなに小さなことでも驚異に満ちておりますから、こちらへ来たばかりの人は地上での三次元的な物の考え方から脱しない限り、飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易なことではないのです。


 さて、ここで例のバイブレーションという用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。


私たちのいうバイブレーションは作用においても性質においても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私たちはその生命力を活用して物をこしらえているのです。 


言わば私たちの意志と環境とを結ぶかけ橋のようなものです。つきつめればすべての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私たちを始め全存在を包む深い生命力の顕現したものに過ぎません。それを原料として私たちは物をこしらえ成就することが出来るのです。


バイブレーションというと何だか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。



 たとえば光明界と暗黒界との間の裂け目(一二七頁参考)の上に橋を掛けるのもその方法によります。その橋がただの一色ではないのです。暗黒の世界の奥深い処から姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を越え、最後に燦々たる光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。


その光明界の始まる高台に掛かる辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方が良いでしょうか、そんな感じの光の中で輝いて見えます。


 そうですとも。その裂け目に立派に〝橋〟が掛かっているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。


本当なのです。言い落としておりましたが、怖ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目のこちら側へやってくる霊魂が実際にいるのです。


もっとも数は多くありません。大ていはその道案内の任に当たっておられる天使様の言うことが聞けずに後戻りしてしまうのです。


 また、こういうことも知っておく必要があります。そうした天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明かりの強さと同じ程度にしか映らないということです。ですから天使様の言うことを聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要となってきます。


その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもあるわけです。実際人間の魂の複雑さはひと通りでなく、捉え難いものですね。


そこで、もう少し言葉で表現しやすい話に移りましょう。私はそれを〝橋〟と呼びました。しかし 「目は汝の身体の光である」 という言葉がありますね。


この言葉をここで改めて読んでいただきたいのです。そうすれば、それが地上の人間だけでなく、こちらの霊魂についても言えることがお判りになると思います。



 私はこれまで〝橋〟という呼び方をして来ましたが、実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、巾がそれはそれは広いのです。〝地域〟と呼ぶのが一番当たっているようです。


私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見たかぎりのものだけを話していることを念頭に置いて聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にも──たぶん数えきれないほど── 有るに相違ありません。


そのうねつまり私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んで来ます。実にゆっくりした足どりです。しかもその途中には幾つかの休泊所が設けてあり、暗黒界から這い上がって来た霊魂がその内の一つに辿り着くと、そこで案内役が交替して、今度は別の天使の一団が次の休泊所まで付き添います。


そうやって漸くこちら側に着きます。私が属している例のコロニーでの仕事も、地上の救済の他に、そうやって向上して来る霊魂の道案内も致しております。


それは先ほど述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんので、そこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。


というのは、こちらの世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比して遥かに邪悪なのです。地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですからましです。


こちらへ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、その途轍もなく恐ろしい世界から抜け出ることの大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月にわたって絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります。


 暗黒の世界から這い上がってきた霊魂が無事その橋を渡りきると天使様が優しく手を取って案内してあげます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足どりで来たはずなのに、あたりの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。


正反対の暗黒の世界に浸り切っていた霊魂には、僅かな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。



 私は今〝小高い丘〟と言いましたが、高いと言っても、それは暗黒の世界と比べた場合のことです。実際には光明の世界の中でも一ばん低い所なのです。


 〝裂け目〟とか〝淵〟とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど、私が述べた通りに実際にそこに在るのです。このことは以前にも何処かで説明があったはずです。


それから、なぜ橋をトコトコ歩いて来るのか、なぜ〝飛んで〟来ないのかと言うと、まだ霊的発達が十分でなくてそれが出来ないということです。もしそんな真似をしたら、いっぺんに谷底へ落ちて道を見失ってしまいます。


 私はまだまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たものだけで十分です。


しばらく今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入ることを許されるかも知れません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだ先の話です。


 あと一つだけお話しましょう。── あなたはそろそろやすまなくてはならないだろうからね。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。


 私は実際に見ていないのではっきりしたことは言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。悪は所詮、善には勝てないのです。


いかに小さな善にでもです。が、このことについては今はこれ以上深入りしません。


 私が今述べたことは私が実際に見たものではなく、又聞まやぎき、つまり人から間接的に聞いたことです。ですが、本当のことです。


 ではおやすみ。神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出されることでしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の黎明なのです。

                            



 5 キリスト神の〝顕現〟 

     

 一九一三年九月二七日  土曜日


──もう少し鮮明に感応できないものですか。


 これまで以上に鮮明にする必要はありません。私たちからのメッセージは一応意図したとおりに通じております。


つまりこちらでの私たちの生活ぶりや環境は一応理解していただけております。ただ一つだけ付け加えておきたいことは、こちらへ来たばかりの私たちは、まだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私たちにはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽くさねばならないということです。   



──私がこうして書いている姿が見えますか。


 見えますとも。ただし肉眼とは別のもので見ております。私たちの眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。


それであなたの心の中を見て取り、また心に直接話しかける ── あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんあなたのその左右の耳ではありません。同じように、私たちがあなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。


肉体は外套のようなものに過ぎません。ですから、かりに私があなたに触れた場合、あなたはそれを肉体的に感じるのではなく霊的に感じるわけです。私たちの感応の具合を理解するにはその点を念頭において、身体や脳といった器官の奥を見なければいけません。


 どうやらあなたは、こちらでの私たちの働きぶりや暮らしの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。こちらへ来てからの進歩にとって是非理解しておく必要のある基本的な真理の一つは、神というものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を拝することは出来ないということです。


これは必ずしもこちらへやって来る人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。みんなこちらへ来たらすぐに神々しいお姿を拝せるものと期待します。そこで、その信仰が間違っており神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。


神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上において、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じことです。


ただ異なるのは、生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易にできること──あたりに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私たちには、それを地上にいた時よりも強く感得できるということです。


以上は一般的な話として述べたのですが、これにもう一つ付け加えておく必要があるのは、時おり〝神の存在〟を実感させる現象が特別の目的のために顕現されることがあることです。ではその一つをお話してみましょう。



 ある時、私たちは田園地帯のある場所に招集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まることになっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。


地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだことが自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方たちに連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢まいりました。それぞれの落ち着くべき界へ行く前にそこで私たちとともに感謝の祈りを捧げるためです。年齢はさまざまです。


年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何か嬉しいことを期待している表情です。


そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装などを不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。


 やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。その時私たちの目に大きな光の十字架が見えました。


その平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。


だんだん判ってみると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架状に集結していたのでした。その辺り一面が金色こんじきに輝き、遠くに位置する私たちにも暖かい愛の息吹となって伝わって来ます。


 天使の集団がこの低い環境(その天使から見て低いということですが)に慣染むにつれて、その御姿が次第に私たちの視界に明瞭になってまいりました。するとです。ちょうど十字が交叉するあたりの上方にさらにもう一つの、一段と大きい天使の御姿が現われました。


それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(※)としてのキリスト神の一表現でした。


(※本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形態。それを見る者の理解度・宗教的信仰・先入観等によりさまざまな形態をとる。キリスト神とは地球神界の最高神つまり地球の守護神である。詳しくは第三巻で明かされる──訳者)


 大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると一本の光の柱が見え、それがその右手に乗りました。


それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りて来るのが見え、手のところまで来ると一旦立ち止まり、それぞれに両手を胸にあててこうべを垂れ、拝むような格好でじっとしています。


すると大天使の手が大きく弧を画いて一回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私たちの方向へ延びて来て、山の頂上と平地との間の架け橋となり、その一ばん端がそこに集結していた私たちの上に掛かりました。


 見るとその光のかけ橋を通って先ほどの天使の一団が降りて来て、私たちの真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使への讃歌が聞こえてまいりました。


その光景の美しさ、崇高さと言ったらありません。私たちは初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私たちも一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。


それを教えるのが天使様たちの来られた目的だったのです。詠唱していると、私たちとその山との間に青っぽいピンクの靄が発生し、それが不思議な働きをしたのです。


まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一団の姿も同じように大きく映って見えました。が私たちにはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊格を読み取る力はありませんでした。その表情はとても私には述べることはできません。


言葉では言い尽くせないさまざまな要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。その時に私が感じたのは、こうして神と私たちとが一体となった時、生命というものが実に聖なる尊さに溢れたものであるということです。


仲間の者も同じものを感じ取ったと思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく、大天使様の御姿にただ魅入れられておりました。


  やがてその靄が大気の中へ融け入ってしまいました。山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが、前より鮮明度が薄れ、私たちの真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。


そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象付けることにあったのでしょう。


私たちのように少しでもこちらにいる者に比べて、地上から来たばかりの者にはその見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分であったと思われます。


 私たちはそれから少しの間その辺りを散策してから静かな足取りで家路につきました。誰れもあまりしゃべりません。今見たシーンが余りに印象的だったからです。そして又、こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。


その場にいる時はあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕が無いのです。ですから、後になって段々に考えさせられることになります。


私たちは一緒に語り合い、お互いに印象を述べ合い、それを総合して、それまで余り理解していなかったことが啓示されていることを発見します。


今回の顕現で私たちが最も強い印象を受けたことは大天使様の沈黙のうちに語るその威力でした。一言も語られなかったにも拘わらず、その動き一つ一つが声となって私たちに語りかけてくるように思えたのです。


それが何を語っているかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。


 今日はこれくらいにしておきましょう。では、さようなら。求める者に主が何を用意されているか、そのうちあなたにも判る日が来ることを祈ります。

                        



 6 暗黒街の天使


 一九一三年九月二九日   月曜日


 これまでの通信をお読みになるに当たっては、地上より高い視野から観るということが実際にどんなものであるかを、十分に理解しておいていただく必要があります。


そうしないと私たちが述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思うことが少なくなかろうと思うのです。


前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が掛けられる話とは、私にはきわめて自然につなぐことが出来ます。


と言うのは、実体のあるものとして──もちろん霊界の私たちにとって実体があるということです── 実感をもって私が目撃した暗黒界との間のかけ橋は、大天使と配下の霊団がいま私たちが働いている界とその霊団のいる高級界との間に掛けた〝光の柱〟と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。



 私たちにとってその具象化の現象が、あなた方人間にとっての物質化現象のようなものであることがこれでお判りでしょう。


あれは私たち低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの〝父の王国〟(※)の中の二つの土地を結んだわけです。


どういう具合にするのかは今のところ推察するほかはないのですが、私たちのように地上からやって来た者には、この界と一段上の界とを結ぶことは別に不思議なこととは思えないのです。


(※本書ではキリスト教的表現がそのまま使用されることが多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義にはその上級界すなわち神界を指すことがある。──訳者)


 あなたにもっともっと私たちの世界の驚異について勉強していただきたいというのが私たちの願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうしたことが自然なことに思えるようになるでしょうし、さらにこちらへ来てから全くの不案内ということもなくて済むのではないでしょうか。


地上生活にあってもという意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期のようなもので、天上界は地上を磨き上げて完成させたものだということを悟るということです。こちらへ来てからのことは言うまでもないでしょう。


 そこで、この問題に関してあなたの理解を助ける意味で、私たちが大切なものと大切でないものとを見分け区別する、その分類法についてお話してみようかと思います。


私たちは何か困ったことが生じると──私たちの仲間うちだけの話ですが──どこかの建物の屋上とか丘の頂上など、どこか高いところで周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困りごとを口で述べ、言い終わると暫く、言わば自分の殻の中に退避するように努めます。


すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものがその視力と聴力に反応し、そのままいつまでも高い次元に存在し続けるのが判ります。


一方、大して重要でないものについては何も見えもせず聞こえもせず、それで大切か否かが区別できることになります。



──判るような気もしますが、何かよい例を挙げていただけませんか。


 よろしい。では、ある婦人の例で〝不信感〟の為に進歩を阻害され満足感が得られないまま過ごしていた人の話をしてみましょう。その方は決して悪い人ではないのですが、自分自身のことも、周りの人のことも、どうも確信が持てないのでした。


 中でも一番確信が持てないのが天使のこと──果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に暗黒の存在ということも有り得るのではないかと疑ったりするのでした。


私たちは当初なぜそんな事で悩むのか理解できませんでした。と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明に溢れているように私には思えるからです。


が、そのうち判ったことは、その方には自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、こちらへ来てもその人たちの姿が一人も見当たらず、どこにいるのかも判からないということが原因なのでした。


そうと判ってから私たちはいろいろと相談したあげくに、ある丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えて下さいと祈ったのです。すると思いも寄らない驚くべきことが起きました。


 ひざまずいていると丘の頂上が透明になり、私たちは頭を垂れていましたから丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見え始めたのです。


そのとき私が見た情景──私たち五人全員が見たのですから幻影ではありません──は薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、一人の大柄な男が岩に背をもたれて立っております。


そしてその男の前にはもう一人、少し小柄な人が顔を手で覆った恰好で地面に跪いております。それも男性でした。そしてどうやら立っている男に何か言い訳をしているみたいで、それを立っている男が不審の表情で聞いております。


やがて突然その男が屈み込み、伏せている男を摑えて自分の胸のあたりまで立ち上がらせ、そのまま遠くの地平線の、ほのかな明かりの見える方向へと、平地を大股で歩いて行きました。


 彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。そしてやがて明かりがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方角を指さしました。すると小柄な男が盛んに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明かりの方向へ走って行きました。


私たちはその男の後を目で追いました。あるところまで来ると大柄な男の方が橋の方角を指さします。それは前にお話したあの橋です。但しそこは例の〝裂け目〟の暗黒界側の端です。


その時点でも私たちはなぜこんな光景を見せられるのかが理解できませんでした。が、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りのための塔ではなく、暗黒界からやって来た者に休養と介助を施すところです。


 その塔からは、その男がずっと見えていたことが判りました。というのは、その男が辿り着くとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて合図の明かりが点滅されるのが見えたのです。


 その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上何も見えませんでした。

 

 私たちはますます判らなくなりました。そして丘を降りて帰ろうとしました。するとその途中で私たちの霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう一人、私たちの界のある地域の高い地位の方とおぼしき男の方がおられました。


私たちがまだ一度もお会いしたことのない方でした。指導霊がおっしゃるには、その男の方は今しがた私たちが見た光景について説明するためにお出で下さったとのことでした。お話によりますと小柄な男性は例の私たちが何とかしなければと思っている女性の曽てのご主人で、私たちからその婦人に早くあの橋へ行き、そこで暫く滞在しておればご主人がやって来るであろうことを告げてあげるようにとのことでした。


例の大柄な男はその婦人ならさしずめ〝闇の天使〟とでも呼びたがりそうな存在で、暗黒界でも相当強力な勢力を持つ霊の一人だということです。でもあのシーンからも想像できますように、良いこともするのです。ではなぜいつまでも暗黒の世界に留まっているのですか、と私たちは尋ねてみました。


 その方は笑顔でこう答えられました。「父なる神の王国はあなた方が想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまであなた方には、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全というところは一つも見当たらなかったはずです。


そのような処は一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留まっているのは、一つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に慣染めなくしているのです。


もう一つの理由は、心掛け次第で向上できるのに本人がそれを望まないということです。それは一つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとする者を大バカ者だと思っております。


光明界と暗黒界の対比のせいで、その坂道を登る時の苦痛と煩悶が事さらに大きく感じられるからです。


それで彼はその土地に留るのです。彼のように一種の憂うつと麻痺的絶望感のために光明界へ来ようとしない霊が無数におります。


そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにすることがあります。あなた方が先ほどご覧になったあの男にもさんざん残酷な行為を働き、いじめあげておりました。


それも臆病なごろつきに良くみられる残忍さを持ってやっておりました。が、その残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の嘆願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変わらないうちにと男を放してやり、道まで教えてやりました。


きっと心の奥ではあの愚か者が・・・・・・と思いながらも、自分よりはましな愚か者だと思っていたことでしょう。」



 こうした話は私にとって初めてのことでした。あの暗黒の世界にも少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば、そうであって当然だと思います。なぜかと言えば、もし完全な悪のかたまりであれば私たちの居る光明界へ来ようなどという心は起きないでしょうから。



──それにしてもこの話は、最初に言われた大切なものとそうでないものとを見分けることと一体どういう関わりがあるのでしょうか。


 善なるものが全て神のものであることは言うまでもありませんが、われわれ神の子にとっては光明も暗黒も絶対ではなく、又絶対では有り得ないということです。両者は相対的に理解しなくてはいけません。



今にして判ったことは〝暗黒界の天使〟が大勢いるということです。その人たちは魂の本性に何か歪んだもの、善なるものへの志向を妨げる強情なところがあるために、今のところは暗黒界にいる。が、そのうちいつか、長い長い生命の旅路において、もしかしたら今のところ彼らより祝福されている私たちを追い越し、神の王国において高い地位を占めることになるかも知れないのです。


 ではお寝みさない。私たちが書いたことをよく熟考して下さい。私たちにとっても大変勉強になりました。こうしたことが地上にいる人々の多くの方々にも学んでいただければ有難いと思うのですが。


                        

    

 二章 薄明の世界


 1 霊界のフェスティバル     


一九一三年九月三十日  火曜日


 こうして私たちが地上へ降りて来て、今なお地上という谷間を歩む一個の人間と通信を交わす時の心境はまずあなたには判らないでしょう。同じく霊界にいる者の中でも、私たちは余ほど恵まれた境遇にあることを身に沁みて感じるのです。


それと言うのも、こうして人類の向上のために役立つ道があることを自信を持って語れる段階まで来てみますと、善行と啓発の可能性は本当に無限にあるように思えるのです。もっとも、今のところ私たちに出来ることは限られております。


あなたのように、神を信じその子イエスに身をあずけることによって神に奉仕する者には何一つ怖れるものは無いとの信念のもとに、勇敢に私たちに協力してくれる者(※)が出てくるまでは、この程度で佳しとしなければならないでしょう。


(※オーエン氏はもともと英国国教会の牧師で「推薦文」の筆者ノースクリッフ卿が社主であった新聞 The Weekly Despatchにこの霊界通信を連載したことで教会長老から弾圧を受け撤回を迫られたが、それを拒否したために牧師の職を追われた経緯がある。──訳者)


 今なお霊魂の存在と私たちの使命とメッセージに疑いをはさむ人のためにひとこと言わせて頂けば、私たちが美しい霊界の住処すみかを離れて地球を包む暗い霧の中へ降りて来る時は、決して鼻歌交じりの軽い気持ちで来るのではありません。

 

私たちには使命があるのです。誰かがやらねばならない仕事を携えてやってくるのです。そして、そのことに喜びを感じているのです。


 さてあれから少し後──地上的な言い方をすれば──のことです。私たちは、とある広い場所へ案内されました。そこには大きな湖──湖盆と言った方が良いようなもの──があり、その中へ絶え間なく水が流れ込んでおり、まわりにはかなりの間隔を置いて塔のついた大きな会館ホールの様なものが立ち並んでおります。


建築様式も違えばデザインも違い、素材も同じ種類ではありません。ホールのまわりには広々とした庭園や森があって、中には何マイルにも広がっているものもあり、そこには各種の動物や植物が群がっております。


大部分は地上でも見かけるものですが、見かけないものもあります。ただし私の記憶では、現在は見かけなくても曽ては生息したものが少しはあると思います。以上が外観です。私がお話したいのは、そうしたコロニーの存在の目的です。



 目的は実は音楽の創造と楽器の製造に他なりません。ここに住む人たちは音楽の研究に携わっているのです。各種の音楽の組み合わせ、その効果、それも単に〝音〟として捉えるのではなく、他の要素との関連をも研究します。


幾つかの建物を見学してまわりましたが、そこに働く人全員が明るく楽しそうな表情で私たちを迎えて下さり、すみずみまで案内して下さいました。


同時に私たちに理解できる範囲のことを説明して下さいましたが、正直言ってそれはそう多くはありませんでした。では私たちに理解できた範囲のことを説明してみましょう。


 ある建物──見学してみると製造工場というよりは研究所と呼んだ方が良いと思いました──の中では地上で作曲の才能のある人間へ音楽的インスピレーションを送る最良の方法の研究に専念しており、又ある建物では演奏の得意な人間に注目し、さらには声楽の得意な人間、教会音楽の専門家、コンサートミュージック、あるいはオペラの作曲に携わる人間等々の為に各各の建物が割り当てられているのです。


 研究の成果は体系的に図表化されます。そこまでがここに働く人たちの仕事です。その成果を今度は別のグループの人たちが目を通し、それをどうすれば最も効果的に地上へ送れるかを検討します。


検討が終わると更に別のグループの人たちが実際にベールを通して地上へ送る作業に取り掛かります。まず目標とすべき人間が選別されます。すなわちインスピレーションに最も感応しやすいタイプです。


そうした選別をするのが得意なグループが別にいて、細かい検討が加えられます。全てが整然としております。湖の周りの研究所から地上の教室やコンサートホール、オペラハウス等へ向けて、天上の音楽を送り届けることに常時携わっている人たちの連繋組織があるのです。


こういう具合にして地上に立派な音楽が生まれるのです・・・・・・。もちろんそうです、地上の音楽の全てがこちらから送られたものとは限りません。


それはこちらの音楽関係者の責任ではなく、ベールのそちら側の入口に問題があり、同時にこちら側の暗黒界の霊団による影響もあり、受け取った地上の作曲家の性格によって色付けされてしまうこともあります。



──塔は何のためにあるのでしょうか。


 これからそれを説明しようと思っていたところです。


 湖は広大な地域に広がっており、その沿岸から少し離れた一円にさっきの建物ホールが建っております。


そして時おり、あらかじめ定められた時が来ると、それぞれの研究所ホールで働く人のうちの幾人か──時には全員──がそれぞれの塔に集まり、集結し終わるとコンサート、まさにコンサートの名に相応しいコンサートが催されます。


演奏曲目は前もって打合わせが出来ております。一つの塔には一つのクラスの演奏者がおり、別の塔には別のクラスの演奏者がおり、次の塔に一定の音域の合唱団がおり、そのまた次の塔には別の音域の合唱団がおります。それが幾つもあるのです。


地上では四つの音域しかありませんが、こちらでは音域がたくさんあるのです。さらに別の塔の人にも別の受け持ちがあるのですが、私には理解できませんでした。私の推測ではそれぞれの塔からの音量を適度に調和させる専門家もいるようでした。


 そのことよりも私は催しそのもの──コンサート、フェスティバル、何でもよろしい──の話に入りたいと思います。私たちは湖の真ん中あたりにある島へ案内されました。そこは美しい木々と芝生と花が生い繁り、テラスや東屋、石または木で出来た腰掛けなどがしつらえてあります。そこでフェスティバルを聞いたのです。


 まず最初にコードが鳴り響きました。長く途切れることなく、そして次第に大きくなって行き、ついにはその土地全体──陸も水も樹木の葉一枚一枚までも行き亘っていくように思えました。それは全ての塔にいる楽団及び合唱団にキーを知らせるものでした。


やがてそれが弱まって行き全体がシーンと静まり返りました。すると今度は次第にオーケストラの演奏が聞こえてまいりました。多くの塔から出ているのですが、どの演奏がどの塔という区別がつきません。完全なハーモニーがあり、音調のバランスは完璧でした。


 続いて合唱が始まりました。その天上の音楽を地上の言語で叙述するなど、とても無理な話なのですが、でもその何分の一かでも感じ取っていただけるかもしれないと思って述べているのです。


簡単に言えば、全ての存在をより麗わしくするものがありました。美しいというだけではないのです。麗わしさがあるのです。この二つの形容詞は意味合いが違うつもりで使用しております。


私たちの顔に麗わしい色合いと表情が表われ、樹木は色彩が一段と深みを増し、大気は虹のような色彩をした霞に似たものに変化して行きました。それが何の邪魔にもならないのです。むしろ全てを一体化させるような感じすら致しました。


水面には虹の色が映り、私たちの衣服もその色彩を一段と強めておりました。さらには動物や小鳥までがその音楽に反応を示しているのです。


一羽の白い鳥がとくに記憶に残っておりますが、その美しい乳白色の羽根が次第に輝きを増し、林の方へ飛んで行く直前に見た時は、まるで磨き上げた黄金のような色──透明な光あるいは炎のように輝いておりました。


やがて霞がゆっくりと消えて行くと私たち全員、そして何もかもが再びいつもの状態に戻りました。と言っても余韻は残っておりました。強いて言うならば〝安らぎ〟とでも言うべきものでした。


 以上がこの〝音楽の里〟で得た体験です。私たちが聞いた音楽はその後専門家が出来具合を繰り返し討論し合い、ここを直し、そこを直しして、これを何かの時、たとえばこちらでの感謝祭(※)とか、地上での任務を終えて帰ってくる霊団を迎えるレセプションとか、その他の用途に使用されることになります。


何しろこちらの世界では音楽が全ての生活面に滲透しております。いえ、すべてが音楽であるようにさえ思えるのです。音楽と色彩と美の世界です。すべてが神の愛の中で生きております。私たちはとてもその愛に応え切れません。


なのに神の愛が私たちを高き世界へと誘い、行き着くところ全てに愛がみなぎり、神の美を身につける如くにその愛を身につけなくてはいけないのです。


そうせざるを得ないのです。なぜなら天界では神が全てであり、何ものにも替えられないものだからです。愛とは喜びです。


それをあなたが実感として理解するようになるのは、あなた自身が私たちと同じところへ来て私たちと同じものを聞き、私たちが神の愛を少し知る毎に見ることを得た神の美が上下、前後、左右、あたり一面に息づき輝いているのを目のあたりにした時のことでしかないでしょう。


 力強く生きなさい。勇気を持って生きなさい。それだけの価値のある人生です。それは私たち自らが証言しているのですから。


 では、お寝み。時おりあなたの睡眠中に今お話したような音楽のかすかなこだまをあなたの霊的環境の中に漂わせているのですよ。それは必ず翌日の生活と仕事の中によい影響を及ぼしております。


(※霊界でもよく祭日が祝われる話が他の霊界通信にも出てくる。地上を真似たのではなく、逆に霊界の催しが人間界に反映しているのである。──訳者)                       

                    


 

 2 色彩の館         


 一九一三年十月一日 水曜日


 昨晩の〝音楽の里〟について述べたことは、私たちが見聞きしたことのホンの概略を述べたものです。それに私たちは、その里のごく一地域しか見学していないのです。


聞くところによりますと実際はその時想像していたよりも遥かに広いもので、湖を中心として遠く山岳地方まで広がっております。その山の地方にも研究所があり、一種の無線装置によって他の研究所と連絡を取りながら全体としての協同研究が休みなく続けられております。


 見学を終えての帰り道で脇へ目をやると、また目新しいものが目に入りました。とても大きな樹木の植林地で、その中にも高い建物が聳えております。


前のようなただの塔ではなく、色とりどりの大小の尖塔やドームが付いており、その中に大小のホールが幾つもありました。それが一つの建物で、とても高くまた広々としております。私たちが尋ねると住人の一人がとても丁寧に優しく迎えて中へ案内して下さいました。


そしてまずその壁の不思議さに驚かされました。外側から見ると不透明なのに内側から見ると透明なのです。そして大小のホールを次から次へと回って気がついたのは、各々のホールの照明の色調が多少ずつ隣のホールと違っていることでした。


もとの色彩は同じなのです。ですから別の色という感じはしないのですが、その深みとか明るさとかが少しずつ違っておりました。


 小さいホールはほとんど同じ色調をしておりました。その数多い小ホールを通過して行くと幾つか目に大ホールがあり、そこに、それに連なる小ホールの色彩の全てが集められております。


果たして小ホールの一つ一つが一個の色調を滲出していると断言してよいのかどうか自信はありませんが、思い出すかぎりではそんな印象でした。見たものが余りに多くて一つ一つを細かく憶えていないのです。


それに、それが初めての訪問でした。ですから大ざっぱな説明と受け止めて下さい。


 大ホールの一つは〝オレンジホール〟と呼ばれ、そこには原色のオレンジの有りとあらゆる色調──ほんのりとした明るい黄金色から最も深いオレンジ色までありました。


更にもう一つの大ホールは〝レッドホール〟と呼ばれ、ピンクのバラの花びらのうっすらとした色調から深紅のバラかダリヤの濃い色調までがホール一杯に漂っていました。


さらには〝バイオレットホール〟というのがあり、ヘリオトロープあるいはアメシストのあの微妙な紫の色調からパンジーのあの濃い暗い色調まで輝いております。


このような具合にしてその他の色彩にもそれぞれのホールがあるのですが、言い落としてならないのは、これ以外にあなたの知らない色──七色以外の、言わば紫外色と赤外色もあることで、それはそれは素敵な色です。



 そうした色調は一つに融合してしまうことなく、それぞれが独自の色調を発散しながら、それでいて全体が素敵に、美事に調和しているのです。


 そうした透明な建物ホールが一体何のためにあるのかと思っておられるようですね。それは各種の生命──動物、植物、それに鉱物、このうちとくに前二者へ及ぼす色彩の研究をするところなのです。これに衣服も含まれます。


私たちの衣服の生地と色調は着る人の霊格と性格を反映するからです。自分を取り巻く環境は言わば自分の一部です。それはあなた方人間も同じです。中でも光が一つの要素、重要な要素となっています。私たちがホールで見た通り、各種の条件下で実験する上でも重要な働きをしているのです。


 聞くところによりますと、こうした研究の成果が地球及び他の惑星の植物を担当しているグループへ手渡されるそうです。しかし、全てが採用されるわけではありません。繊細すぎて地球や他の惑星のような鈍重な世界に応用できないものもあり、結局ほんの一部だけが地球へ向けられるということになるそうです。


 残念ですがこれ以上のことは私には述べられません。一つには今述べた環境上の制約がありますし、又一つには内容が科学的で私には不向きということでもあります。ただ一つだけそこでお尋ねした事を付け加えておきましょう。


そこでは原色の全てを一つのホールに一緒に集めることはしません。なぜだかは知りません。もしかしたら私よりその方面に通じている仲間の人たちが考えているように、いっしょにしたときに出るエネルギーが余りに強烈なので、特別に設計した建物を、それも多分どこか高い山の中にでも建てなくてはならないのかも知れません。


仲間の人たちが言うには、その場合は周辺のかなりの距離の範囲で植物が生育しないだろうということです。さらに、私たちがお会いした人々が果たしてそうした莫大なエネルギーを処理コントロール出来るかどうかが疑問だと言っております。


もっと高い霊格と技術が必要であろうと考えるわけです。しかし、もしかしたら高い界へ行けばすでにそうした研究所があって、それが今紹介した研究所と連絡が取れているのかも知れません。


こちらの整然とした秩序から判断すれば、その想像はまず間違いないでしょう。



 私がそのコロニー、あるいは総合研究所と呼んでもよいかも知れませんが、そこを出て中央のドームが見上げられる少し離れた場所まで来た時、私たちのこの度の見学旅行を滞りなく進めるために同伴していた指導霊が私たちの足を止めて、出発の時から約束していたお別れのプレゼントをお見せしましょうとおっしゃるのです。


何だろうと思って見つめたのですが何も見えません。少し間を置いてから皆んな怪訝けげんな顔で指導霊を見つめました。すると指導霊はにっこり笑っておられます。私たちはもう一度よく見ました。


 やがて仲間の一人が言いました。「さっきここで足を止めて見上げた時、あのドームは何色だったかしら」。するともう一人が「赤色だったと思うけど」と言いますが、誰一人確実に憶えている者はいませんでした。


ともかくその時の色は黄金色をしておりました。そこで「暫く見ていましょうよ」と言って皆んなで見つめておりますと、なるほど、やがてそれが緑色に変わりました。ところがいつどの辺りから緑色に変化し始めるのかが見分けられないのです。


その調子で次から次へと一様に色彩が変化して行くのです。それが暫くの間続きましたが、何とも言えない美しさでした。


 やがてドームが完全に見えなくなりました。指導霊の話ではドームはちゃんと同じ場所にあるのだそうです。それが、各ホールからある種の光の要素を集めて組み合わせることによって、そのように姿が見えなくなる──それがその建物で仕事をしている人が工夫した成果の一つだということです。


そう見ているとドームと林の上空にドームは見えないままです──巨大なピンクのバラが出現しました。それがゆっくりと色調を深めて深紅に変わり、その大きな花びらの間で美しい容姿をした子供達が遊び戯れていたり、大人の男女が立ち話をしていたり、


歩きながら話に興じたりしています。みんな素敵で美しい、そして幸せそうな姿をしております。


一方では子鹿や親鹿、小鳥などが走り回ったり飛び回ったり寝そべったりしています。花は花びらが誇張して丘陵地や小山等の自然の風景の舞台と化し、その上を子供たちが動物と楽しそうに可憐な姿で遊び戯れているのです。


それがやがてゆっくりと薄れて行き、そのうちただの虚空に戻りました。私たちはその場に立ったままの姿でそうした光景を幾つか見せていただいたのです。


 もう一つ見せていただいたのは光の円柱で、ちょうどドームのある辺りから垂直に伸び、そのまま天空に直立しておりました。純白の光で、その安定した形を見ていると、まるで固形物のように見えました。


そのうち、先ほどのホールの一つから一条の色彩を帯びた光が斜めに放たれて光の円柱に当たりました。すると各々のホールから様々な色彩の光が放たれました。


赤、青、緑、紫、オレンジ──淡いものから中間のもの、そして濃いものまで──いろいろで、あなたの知っているものは勿論、ご存知でないものも幾つかありました。それらのすべてが純白の光の柱の中間部に斜めにつながりました。


 見ているとそれが形を整え始めました。一本一本が道となり、沿道にビルや住居、城、森、寺院、その他が建ち並んでおります。そしてその傾斜した道を大勢の人が上がって行きます。


一つの道は全部同じ色をしておりますが、色調は多彩でした。それはそれは素敵な光景でした。円柱まで近づくと、少し手前のところで、それを取り囲む様な形で立ち止まりました。


 すると円柱の頂上が美しい白ゆりの花のように、ゆっくりと開きました。そしてその花びらがうねりながら反り返って、下へ下へと垂れて行き、立ち止まっている群集と円柱との間に広がりました。


すると今度は円柱の底辺が同じように開き、円い踊り場のような形で、群集が立ち止まっている場所との空間を埋めました。


 これで群集は上へあがることが出来ます。今や全体が──馬も乗り物も──それぞれの色調を留めながら渾然となっております。その様子はまるで祝宴か祭礼にでも臨むかのように、多彩な色調をした一つの巨大なパピリオンに集まり行く素敵で楽しい大群集を見ているという感じでした。


その群集の色調が天井と床つまり舗道に反映し、その全体から発する光輝は何とも言いようのないほど素晴らしいものでした。


やがて群集は幾つかのグループに分かれました。すると中央の光の円柱が巨大なオルガンのような音を鳴り響かせました。何が始まろうとしているのかはすぐに判りました。


 間もなく声楽と器楽による〝グロリア・イン・エクセルシス・デオ〟(※)の大音楽が始まりました。高き光の中にします神──全ての子等に生命を与え、その栄光を子等が耐え得るだけの光の中に反映され給う全智全能なる神よ──と、


大体そういう意味の讃歌が歌われ、そしてこのシーンも次第に消えて行きました。多分この後その大群集は光に道を後戻りして帰って行ったのでしょうが、それは見せていただけませんでした。確かに、その必要もなかったのです。



 さ、時間が来ました。残念ですが、これにて終わりにしなければなりませんね。

 では神の御加護のあらんことを。

 (※Gloria in Excelsis Deo 〝天なる神に栄光あれ〟の意のラテン語で、キリスト教の大頌栄しょうえいの最初の句。ルカ2・14──訳者) 



   



3 意念の力             


 一九一三年十月二日 木曜日  


 〝イスラエルの民に申すがよい──ひたすらに前進せよ、と〟(※)これが私たちが今あなたに申し上げたいメッセージです。ひるんではいけません。行く道はきっと明るく照らして下さいます。全能なる神と主イエスを固く信じる者には何一つ恐れるものはありません。


(※モーゼが神のお告げに従ってイスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出する時、ひるみかける民を励ました言葉であるが、この頃オーエン氏は国教会の長老から弾圧を受けて内心動揺を来していたことが推察される。──訳者)      


 私たちが今さらこのようなことを書くのは、あなたの心にまだ何かしら疑念が漂っているからです。私たちの存在を感じ取っておられることは私たちにも判っております。ですが前回に述べたような話が余りにおとぎ話じみて信じられないようですね。


では申しますが、実を言えばこうした天界の不思議さ美しさは、地上のいかなるおとぎ話も足もとにもよれないくらい、もっともっと不思議で美しいのです。


それに、おとぎ話の中に出て来る風景や建物は、こちらで見られるものと似ていないこともないのです。


まだホンの僅かしか見物しておりませんが、その僅かな見聞から判断しても、地上の人間の創造力から生まれるものなどは、その不自由な肉体をかなぐり棄ててこの天界の光の中に立った時に待ち受けている栄光に比べれば、まったく物の数ではないことを確信しております。


 さて今夜お話したいのは、これまでとは少し趣が異なり、私たち新米を教え楽しませるために見せて下さった現象的なことではなくして、こちらの事物の本質に関わることです。


 今あたりを広々と見下ろす高い山の頂上に立ったとしましょう。そこから見晴らす光景はどこか地上とは違うのです。例えば、まず空気の透み切り具合いと距離感が地上とどこか違うことに気づきます。遠いと言っても、地上での遠さとは違うのです。


と言うのは、その頂上から地平線の近く、あるいはさらにその向こうのある地点へ行きたいと思えば、わざわざ山を下りなくとも、そう念ずるだけで行けるのです。


速く行けるか遅いかは意念の性質と霊格次第です。また今おかれている境涯の霊的性質より一段と精妙な大気──とでも呼ぶより仕方がないでしょう──に包まれた地域へ突入できるか否かも、その人の意念と霊格次第なのです。


 高級界からお出でになる天使のお姿が私たちに必ずしも見えないのはそのためです。見え方も人によって異なります。みんなが同じお姿を排するのは、私たちの視覚に会ったように容姿を整えられた時だけです。


もしその方の後について行く、つまりその方の本来の世界へ向かって行きますと、途中で疲労を覚え、ついて行けなくなって来ます。霊力次第でもっと先まで行ける者もおりますが。


 さらに、その頂上に立ってみますと天空が不透明に見えるのですが、それは天空そのものの問題ではなくて、霊的な光の性質つまり下の景色から距離が大きくなるにつれて強度を増して行く性質を持つ霊的な光の問題であることが判ります。


ですから、霊力次第で遠くまで見通してそこに存在する生命や景色が見える人もおれば、見えない人もいるわけです。



 また、見渡せば一面に住居やビルが建ち並んでいるのが見えます。そのうちの幾つかは私が説明した通りです。しかしビルと言っても単なる建物、単なる仕事場、あるいは研究所というのではありません。


その一つ一つの構造からはその建物の性格は疎か、それを建築した人及びそこに住まう人の性格も読み取れないことでしょう。永遠に朽ちることなく存在していることは確かです。


が地上の建物がいつまでも陰気に立ち残っているのとは違います。常に発展し、装飾を

改め、必要に応じて色彩、形、素材を変えて行きます。取り壊して再び建て直すという手間はいりません。建っているままの状態で手直しをします。


時の経過による影響は出て来ません。崩れたり朽ちたりいたしません。その耐久性はひとえに建築主の意念に掛かっており、意念を維持しているかぎり立っており、意念次第で形が変えられます。

 

 もう一つ気がつくことは、小鳥が遠くから飛んで来て、完璧な正確さで目標物にとまることです、こちらにも伝書バトのように訓練された鳥がおります。


でも地上とは躾け方が違います。第一、こちらの鳥は撃ち落とされたりいじめられたりすることがありませんから、人間を怖がりません。そこで小鳥を一つの通信手段として使用することがあります。もちろん不可欠の手段というわけではありません。


他にもっと迅速で能率的な通信方法があるのですから。ですが、必需品でなくても美しいからというだけで装飾品として身につけることがあるのと同じで、小鳥を愛玩動物として通信に使用するわけです。


そんなのがしょっ中飛び交っており、とても可愛くて愛すべき動物です。小鳥も仕事をちゃんとわきまえていて、喜んでやっております。



 面白い話を聞きました。ある時そんな鳥の一羽が仲間を追い抜こうとして、ついスピードを出し過ぎて地球の圏内に入り込んでしまいました。それを霊視能力のある人間が見つけて発砲しました。驚いた小鳥は──銃の音に驚いたのではありません。


撃とうとした時の意念を感じ取ったのです──ここは自分の居るところではないことに気づき慌てて逃げ帰りました。感じ取ったのは殺そうという欲念でした。


それを不気味に思った小鳥はその体験を仲間に話して聞かせようとするのですが、うまく話せません。それはそうです。何しろそんな邪念はこちらの小鳥は知らないのですから。こちらでの小鳥の生活を地上の小鳥に話しても分かってもらえないのと同じです。


そこで仲間が言いました──君が話せないような話なら、もう一度地球へ戻ってその男を見つけ、それをどう話して聞かせたらいいか尋ねて来たらどうか、と。


 そう言われて小鳥はその通りにしました。するとその人間──農夫でした──が〝ピジンパイ〟と言えば分かってもらえるだろうと答えました。


小鳥はその返事を携えて帰ってきましたが、さてその言葉をどう訳せばよいのかが判らず、第一その意味も分からなかったので、自分の判断で次の様な意味のことを伝えました。すなわち、これから地球を訪れる者はそこが本当に自分にとって適切な界であるかどうかをよく確かめてからにしなさい、と。


 この話がお教えんとしているのはこういうことです。与えられた仕事は、自分で納得がいき仲間も納得する範囲で努力すべきこと──熱心のあまり自分の立場、あるいは〝領域〟を確かめずに仲間を出し抜いてはならない。


さもないと自分では〝進んでる〟つもりでいて実はスタートした界より下の界層へ堕落し、そこの最高の者さえ自分本来の界の最低の者より進歩が遅れており、仲間として連れだっていく相手としては面白くないといった結果になるということです。


 これなどは軽い小話エピソードていどに聞いていただけば結構です。が、これで私たちも時に笑いころげることもあること、バカげた冗談を言ったり、真面目なつもりで間の抜けたことをしたりすることもあること、そして地上を去ってこちらへ来ても、取り立てて成長していない面もあることがお判りいただけることでしょう。


  では、さようなら。常に愉しい心を失わないようにね。





4 死の自覚  

 一九一三年十月三日  金曜日        

 もしあなたが霊的交信の真実性に少しでも疑念を抱いた時は、これまでに受け取った通信をよく検討なさることです。きっと私たちの述べたことに一貫した意図が有ることを読み取られることでしょう。  


その意図とは、霊の世界が、不思議な面もあるにせよ、きわめて自然に出来あがっていることをあなたに、そしてあなたを通じて他の人々に理解していただくことです。


実は私たちは時おり地上時代を振り返り、死後の世界を暗いものに想像していたことを反省して、いま地上にいる人々にもっと明るく明確なものを抱かせてあげたいと思うことがあるのです。


死後にどんなことが待ち受けているかがよく判らず、従ってきわめて曖昧なものを抱いて生きておりました。それでよろしいと言う人が大勢おりますが、こうして真相の見える立場に立って見ると、やはり確固たる目的成就のためには曖昧ではいけないと思います。  


確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出ることを可能にします。大勢でなくても、地上で善のために闘っておられる人々に霊界の実在と明るさについての信念を植えつけることが出来れば、その明るい世界からこうして地上へ降りて来る苦労も大いに報われるというものです。


 ではこれから、地上の人間がこちらへ来た時に見せる反応をいろいろ紹介してみましょう。もちろん霊的発達段階が一様ではありませんから、こちらの対応の仕方もさまざまです。ご存知の通りその多くは当分の間自分がいわゆる死んだ人間であることに気づきません。


 その理由は、ちゃんと身体を持って生きているからであり、それに、死および死後について抱いていた先入観が決して容易に棄てられるものではないからです。


 そうした人たちに対して最初にしてあげることは、ですから、ここがもう地上ではないのだということを自覚させることで、そのために又いろいろな手段を講じます。


 一つの方法は、すでに他界している親しい友人あるいは肉親の名前をあげてみることです。すると、知っているけどもうこの世にはいませんと答えます。そこで当人を呼び寄せて対面させ、死んだ人もこうしてちゃんと生き続けていることを実証し、だからあなたも死んだ人間なのですよと説得します。


これが必ずしも効を奏さないのです。誤った死の観念が執拗に邪魔するのです。そこで手段を変えることになります。こんどは地上の住み慣れた土地へ連れて行き、あとに残した人々の様子を見せて、その様子が以前と違っていることを見せつけます。  


それでも得心しないときは、死の直前の体験の記憶を辿らせ、最後の眠りについた時の様子と、その眠りから醒めた時の様子とを繋いで、その違いを認識させるようにします。


 以上の手段が全部失敗するケースが決して少なくありません。あなたの想像以上にうまく行かないものです。というのも性格は一年一年じっくりと築き上げられたものであり、それと並行して物の考え方もその性格に沁み込んでおります。


ですから、あまり性急なことをしないようにという配慮も必要です。ムリをすると却って発達を遅らせることにもなりかねません。


 もっとも、そんな手こずらせる人ばかりではありません。物分かりが良くて、すぐに死んだことを自覚してくれる人も居ります。こうなると私たちの仕事もラクです。


 あるとき私たちは大きな町のある病院へ行くことになりました。そこで他の何名かの人と共にこれから他界してくる一人の女性の世話をすることになっておりました。他の人たちはそれまでずっとその女性の病床で様子を窺っていたということで、いよいよ女性が肉体を離れると同時に私たちが引き取ることになっておりました。  


病室を覗くと大勢の人間がつめかけ、みんなまるでこれから途方もない惨事でも起きるかのような顔をしております。私たちから見るとそれが奇異に思えてならないのです。なぜかと言えば、その女性はなかなか出来た方で、ようやく長い苦難と悲しみの人生を終え、病に冒された身体からもうすぐ解放されて、光明の世界へ来ようとしていることが判るからです。


 いよいよ昏睡状態に入りました。〝生命の糸〟を私の仲間が切断して、そっと目醒めを促しました。すると婦人は目を開き、覗き込んでいる人の顔を見てにっこりされました。暫くは安らかで満足しきった表情で横になっておられましたが、そのうちなぜ周囲にいるのが看護婦と縁故者でなくて見知らぬ人ばかりなのだろうと、怪訝けげんに思い始めました。


ここはどこかと尋ねるので有りのままを言うと、不思議さと懐かしさがこみ上げて来て、もう一度あとに残した肉親縁者を見せてほしいと言います。


 婦人にはそれが叶えられました(※)。ベールを通して地上の病室にいる人々の姿が目に映りました。すると悲しげに首を振って「私がこうして痛みから解放されてラクになったことを知って下さればいいのに・・・・・」と歎息まじりに呟き、「あなた方から教えてあげて頂けないかしら」と言います。


そこで私たちが試みたのですが、そのうちの一人だけが通じたようです。が、それも十分ではなく、そのうちその人も幻覚だろうと思って忘れ去りました。(※誰にでも叶えられるとはかぎらない。──訳者)

 私たちはその部屋を出ました。そしてその方の体力が幾分回復してから子供の学校へ案内しました。そこにその方のお子さんがいるのです。


そのお子さんと再会した時の感激的シーンはとても言葉では尽くせません。お子さんは数年前に他界し、以来ずっとその学校にいたのです。そこでは今やお子さんの方が先生格になってお母さんにいろいろと教えていました。ほほえましい光景でした。


建物の中や講内を案内していろいろなものを見せてまわり、また友達を紹介しておりました。その顔は生き生きとして喜びに溢れ、お母さんも同じでした。


 それから暫く私たち二人はその場を離れたのですが、戻って見るとその母子おやこは大きな木の下に腰かけ、母親が地上に残した人たちの話をすると、子供の方はその後こちらへ他界してきた人のことや、その人たちと巡り会った時の話、学校での生活のことなどを話しておりました。


私たちは二人を引き離すのは辛かったのですが、遠からず再び、そして度々、きっと面会に来られるからという約束をして学校を後にしました。


 これなどはうまく行った例であり、こうしたケースは少なくありませんが、また別の経緯いきさつを辿るものが沢山あるのです。


 ところで、右の母子が語り合っている間、私たちは学校の構内を回って各種の教育器機を見学しました。その中に私がとくに目を引かれたものがありました。


直径六~七フィートもあろうかと思われる大きなガラスの球体で、二本の通路の交叉する位置に置いてあり、その通路のあたりの様子が球体に映っておりました。


ところがその球体の内部をのぞくと、花とか樹木とか植物が茂っているだけでなく、それが遠い過去から枝分かれして来たその根元のモクまで見分けられるようになっているのです。


それはさながら地上における地質学の化石による植物進化の学習のようなものでした。ただ地上と異なるのは、そこにあるのは化石ではなく実際に生きており、今も生長しているということです。それも原種から始まって今日の形態になるまでが全部揃っているのです。


 子供たちの課題は次のようなものであることを教わりました。すなわち実際にそこの庭に生長し球体に反射して見える植物、樹木、花などがどういう過程を経て進化して来たかを勉強し、そこからこんどは、それが将来さらにどういう具合に進化して行くかを心像として創造してみることです。


知的才能のトレーニングとして実に素晴らしいものですが、創造されたものは大体において苦笑を誘うようなほほえましいものが多いようです。


 さ、あまり長くなりすぎてもいけませんね。続きはまた書けるようになってからにしましょう。神のお恵みを。さようなら。 





5 天界の祝祭日           

 一九一三年十月六日  月曜日


 この度の〝収穫感謝祭〟はまたずいぶん楽しかったではありませんか。あなたは気づかなかったようだけど私たちはずっとあなたの側にいたのですよ。忙しくて私たちのことを考える余裕が無かったのでしょうけど。地上にいる方々と共に礼拝に参加して何らかのお役に立てるのは嬉しいものです。


驚かれるかも知れませんが、こちらの光明界でも時おりあなた方と同じような儀式を行い、豊かな稔りを神に感謝することがあります。地上の同胞の感謝の念を補うためでもあり、同時に私たち自身の霊的高揚のためでもあります。こちらには地上のような収穫はありません。ですが、それに相当する他の種類の恵みに感謝する儀式を取り行うのです。



 例えば私達はまわりに溢れる美と、仕事と向上への意欲を与えてくれる光明と愛を神に感謝する儀式を行います。そのような時には大てい高い界からの〝顕現〟が見られます。その一つをこれからお話しましょう。    


 川のある盆地(※)で聖餐式ユーカリストを催していた時のことです。流域に二つの丘がその川を挟むような形で聳えております。私達は讃仰さんごうと礼拝の言葉を述べ、頭を垂れ、こうした時に必ずみなぎってくる静かな安らぎの中で、その日の司祭を勤められている方からの祝福の言葉を待っておりました。その方は丘の少し高い位置に立っておられるのですが、何一つおっしゃらないので私たちはどうしたのだろうと思い始めました。


(※原文では渓谷バレーとなっている。〝谷〟というと日本人は切り立ったV字形の谷間を想像しがちであるが、本来は川を挟んだ広い低地を意味することが多いので、ここでは盆地とした。──訳者)



 暫くして私たちは頭を上げました。まるで〝内なる声〟に促されたように一斉に上げたのです。見ると司祭の立っておられる丘が黄金色の光に包まれ、それがベールのように被さっておりました。やがてそのベールがゆっくりと凝縮し、司祭の身体の周りに集まって来ました。


司祭はそうしたことにも一切気づかないような態度で立っておられます。その時ようやく我に帰られ、その光のベールの中から出て私たちの方へ近づき〝少しお待ちください。


高き界から降りてこの儀式に御臨席になっておられる方のお姿を拝することが出来ます〟とおっしゃいました。そこで私たちは有難い気持ちでお待ちしました。こちらではおっしゃったことは必ず実現するのです。


 見ると凝縮していた光が上昇して流域全体を覆い、さらに止まることなく広がり続けて、ついに天空を覆い尽くし、おおったかと思うと今度はゆっくりと下降してきて私たちを包みました。


私たちはまさに光の海──私が本来属する界の光よりも遥かに明るいのですが、柔らかくて心地よい光の海──に浸っておりました。浸っているうちにその光で視力が増し、やがて目の前に約束の影像が展開するのが見えてきました。


 まず二つの丘が炎のように煌々(こうこう)と輝き始めました。よく見ると両方の丘が〝玉座〟の側部ないしは肘掛けとなり、その周りがイザヤ書と黙示録の叙述を髣髴とさせるように虹の色に輝いておりました。しかし玉座におられる方の真の姿は私たちには見えません。


少なくとも形態をまとった姿は見えません。私たちの目に映ったのは父なる存在を示すための顕現の一つでした。そして丘の中腹の台地──そこがちょうど玉座の〝座〟の位置になります── のところに大勢の天使が集まっており、側にある大きな揺り籠の中を覗き込む姿で礼拝しているのです。


その揺り籠の中に一人の子供がいて天使団に向かってほほえんでおります。やがてその子供が両手を高々と伸ばしますと天空から一条の光が射し込んだように見えました。


 見るとその子供の両腕の中に黄金色に輝く一個の球体が降りてまいりました。すると子供が立ち上がってそれを左手でささげ持ちました。それは生命の光で躍動し、きらきらと輝き、燃え盛り、いやがうえにも明るさを増して、ついにはその球体と子供以外は何も見えなくなり、その子の身体を貫いて生きた光が放射されているように見えました。


やがてその子は球体を両手で持ち、それを真二つに割り、その割れた面を私たちの方へ向けました。一方にはピンクの光線が充満し、もう一方には青の光線が充満しております。


よく見ると後者には天界の界層が同心円状に幾重にも画かれており、その一つ一つが輝くばかりの美しい存在に満ち溢れております。


その輝きは内側ほど強烈で、外側になるほど弱まりますが、私たちの目には外側ほど鮮明に見えます。それは私たちの界がそれに近いからです。一ばん中心部になると光輝が強すぎて私たちには何があるのか全然見えません。反対に外側の円は私たちの界層であることが判りました。


 もう一つのピンクの半球はそれとは違って中に何の円も見えませんが、地球を含めた惑星上の動植物の全ての種が見えます。もっとも、あなた方が見ているものとは少し様子が異なり、完成された姿をしております。人間から最下等の海の動物までと、大きな樹木や美味な果実から小さな雑草までがありました。


私たちが暫くそれを見つめていると、その子が両半球すなわち壮麗なる天界と完成された物質界とを一つに合わせました。合わさったとたんに継ぎ目が見えなくなり、どっちがどっちだか見分けがつかなくなりました。



 ところが見る間にそれが大きくなり始め、ついに子供の手から離れて浮上し、天空へ向けて少しばかり上昇したところで止まりました。美事な光の玉です。その時です。その玉の上にイエス・キリストの姿が現われたのです。


左手に十字架を持っておられます。その一番下の端は球体の上に置かれ、一番上は肩の少し上あたりまで来ております。右手で先ほどの子供を支え持っておられます。


見るとその子供の額のところに紐状の一本の黄金の環がかぶせてあり、胸のあたりには大きなルビーのような宝石が輝いております。


そう見ているうちに光の玉はゆっくりと天空へ向けて上昇し始め、視界の中でだんだん小さくなって行き、ついに二つの丘の中間あたりの遥か上空へと消えて行きました。


 そこで全てが普通の状態に戻りました。仲間たちといっしょに腰を下ろして今見たものに感嘆し合い、その意味を考え合いました。が、こうではないかといった程度のことを言い合うだけで、確信をもって述べられる者は一人もいませんでした。


その時ふと司祭のことを思い出しました。光に包まれ、見た目には私たちより遥かに強烈な影響を受けたように思えました。


見ると司祭は岩の上に腰かけておられ、静かな笑みを浮かべておられました。何だか私たちが最後にこうして自分のところへやって来ることを見越して、思い出すのを待っておられたみたいでした。司祭は私たちにもう一度座るように命じられ、それから先ほどの幻想的シーンの説明を始められました。



 実は司祭は既にあの現象について予め説明を受けておられ、それを私たちに授け、より高尚な意味、より深い意味については私たち自身でよく考え、自分なりの理解力に応じたものを摂取することになっていたのです。今回のような手段による教育が授けられる時はいつもそうなのです。


 ピンクの半球は私たちの界より下層の世界の創造を意味し、青の半球は私たちの界および上層界の創造を象徴しておりました。が両者は〝二種類の創造〟を意味するのではなく、実は全体として一つであって、二つの半球にも他の小さな区分にも隔りはないということを象徴していました。子供は始まりと進歩と終わりなき目的を具象化したもので、要するに私たちの限りなき向上の道を象徴していたわけです。


ルビーは犠牲を象徴し、黄金の環は成就を象徴し、光球が上昇したこと、そこへキリストが出現し片手に子供を捧げ持ったことは、現在の私たちには到達できない高い界層への向上心を鼓舞するものでありました。


 もちろん以上は概略であって、まだまだ多くの意味が込められております。さっき述べたように、それをこれから自分で考えて行くことになっているわけです。私たちの慣習として、それをこれから先、折に触れて発表し合い議論し合うことになりましょう。



──どうも有難うございました。ここであなたに尋ねて欲しいという依頼のあった質問をさせて下さい。


 お書きになるには及びません。あなたの心の中に読み取ることが出来ますから。右の言葉も書かれる前から判っておりました。


  Eさんが教会の祭壇で見かけたというハトは、私が今述べた類の一種の〝顕現〟です。あの儀式には目に見えない集会も催されておりました。祭壇のまわりに大勢の霊がいて、受け入れる用意のある人にはいつでも援助を授けようと待機していたのです。


その霊たちの心の優しさがハトとなって具現して、人を怖がる事なく飛び回っていたのです。進歩の遅れた人にとっては、そうした恐れを知らない純心さを高級霊の前で維持する事は容易に出来ることではありません。


その輝かんばかりの崇高さが時として、僅かながらも持っている彼らの徳を圧倒してしまい、気の毒なことですが、疑いを宿す者を怖じ気させることがあるのです。



<原著者ノート>この通信を受ける数日前のことであるが、オックスフォードで催されたハローマス(*)の集会で出席者の一人が聖餐式の行われている最中に、祭壇の上を一羽のハトが飛び回っているのを霊視したと私に語ってくれていた。(天上界へ逝った諸賢人の霊をまつる祝祭日。──訳者)


            



6 念力による創造実験          


 一九一三年十月八日 水曜日


 私たちからの通信の奥深い意味を理解なさろうとする方にとって大事なことが幾つかあります。今夜はそうした表面を見ただけでは判らないこと──普通の物の考え方では見落とされがちな問題を扱う上で役に立ち指針となるものをお教えしようと思います。


 その一つは人間界から放射された思念がこちらへ届く時の様子です。善性を帯びた思念には輝きが見られますが、善性が欠ける思念にはそれが見られません。その光輝はもともと本人の身体から出ており、それで私たちはその色彩オーラを見て霊的性格を判断することができます。


単に明るいとか暗いとか、明るさの段階がどの段階であるといったことだけでなく、その人のどういう面が優れていて、どういう面に欠点があるということまで判断します。その判断に基づいて、長所をさらに伸ばし欠点を矯正していく上で最も適当な指導霊を当てがうことになります。


こうして一種のプリズム方式によって性格を分析し、それに基づいて診断を下します。


 これは肉体に包まれた人間の場合であって、こちらではそんなことをする必要はありません。と言うのは、こうしたことは霊的身体(※)に関わる問題であり、こちらでは霊体は当然だれの目にもまる見えであり、それが言わば魂の完璧な指標なのですから、その人の霊的性格が全部わかってしまいます。


言い落としましたが、そうした色彩は衣服にも反映しますから、その中の支配的な色彩を見て、この人はどの界のどの程度の人だという判断を下すわけです。しかし思念は精神的行為の〝結果〟ですから、その霊が生活している環境を見てもどういう思念を抱いている人であるかが判ります。


単に見えるだけでなく肌で感じることが出来ます。地上よりも遥かに正確でしかも強烈です。(※日本の心霊学ではこれを幽体と霊体と神体とに分けるのが常識となっているが、本書では霊体という用語を肉体とは別の霊的な身体という意味で用いることにする。霊界についても同じである。──訳者)


 こういう風に考えていけば私たちが強烈な思考を働かせれば、その念が目に見える客観的存在となって顕現することが当然有り得ることになります。と言うことは、美しいものを意識的に拵えることも出来るというわけです。



──何か例をあげていただけますか。


 よろしい。その方がよく分かっていただけるでしょう。


 ある時、こうした問題を勉強している仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうということになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員である一つの像を念じてその出来具合を見ました。


私たちが選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長持ちするものということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。


 私たちは空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。すると意外に速くそれが目の前に姿を現わしました。こんなに速く出来るものかと皆んなで感心しました。


しかし私たちの目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎるということ。全員の意念を加減することを忘れたのです。もう一つは、確かに生きた動物ではあるけど、部分的には石像のようなところもあることです。


生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉と混合のような、妙なものになってしまいました。他にも挙げれば細かい欠点が色々と目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。


こういう具合にして欠点を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。右に紹介したのがその一例というわけです。


 そうして拵えた像から注意を逸らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみるわけです。私達は同じモデルは二度と使用しないことにしました。送念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。


そこで今度は果実の付いた樹木にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。


 こんどは前よりうまく行きました。失敗点の主なものとしては、果実が熟したものと熟してないものとがあったこと。それから葉の色が間違ってましたし、枝の長さにまとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度に少しずつうまくなって行きました。


 あなたにはこうした学習のたのしさや、失敗から生まれる笑いやユーモアがある程度は想像していただけると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像している人は、いずれその考えを改めていただかねばなりません。


そうしないとこちらへ来てから私たちとお付き合いがしにくい──いえ、私たちの方がその方たちとお付き合いしにくいのです。でも、そういう人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託なく振舞うことが出来ることを知り、そうならないとまともに相手にしてもらえないことを悟るようになります。


地上というところはそれとは反対のように思いますが、いかがですか。いえ、地上は地上なりに生きてそれなりの教育を得ることです。そうすればこちらへ来て──ただブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですが──当たり前に生活すれば進歩も速いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感嘆するのです。



──アストリエル霊、きのう出られた方ですが、ここに来ておられますか。


 今夜はお出でになりません。お望みであれば、またお出になりましょう、きっと。



──どうも。でもあなたにも来て書いていただきたいですね。


 ええ、それはもちろん。あの方も私も参りますよ。あなたのためでもあり、同時に私たちにとっても、こうして霊感操作をすることが、今述べたのと同じように意念や霊力の使い方を勉強する上でも良い訓練になるのです。私たちが述べていることが映像となってあなたの意識に入って来るのが見えませんか。



──見えます。時には実に鮮明に見えることがあります。そう言うことだとは思ってもみませんでした。


 おやおや、そうでしたか。でもこれでお判りでしょう、さっきのことを書いたのもそれなりの目的があったということが。あなたはそれがどうもピンと来ない──多分その通りだったでしょう。それは私たちも認めます──と思っておられましたし、一体何を訴えんとしているのかと、いささか不愉快にさえ思っておられた。


ね、そうではなかったかしら。私たちはあなたのその様子を見てニコニコしていたのですよ。でもあなたは私たちに思念をほぼ私たちが念じた通りに解釈しておられましたし、そうさせた私たちの意図も、意念というものがあれほど鮮明に、そして実感を持って眼前に現れるものであることを判っていただくことにあったのです。

 では、さようなら。あなたに、そしてあなたのお家族に神の祝福を。


<原著者ノート>アストリエル霊のメッセージは数多く書かれているが、全体に連続性が見られない。なぜかはよく判らない。が結果としては母の通信の合間に割って入るために、アストリエル霊自身の通信はもちろん母の通信の連続性も破壊してしまう。そこでアストリエル霊の通信は日付の順で出さずに、巻末の第六章にまとめて紹介する。




     

 三章 暗黒から光明へ 

       

 1 愛と叡智   

  一九一三年十月十日  金曜日

 私たちの日常生活とあなた方の日常生活とを比較して見られれば、結局はどちらも学校で勉強しているようなものであること、実に大きな学校でたくさんのクラスがあり、大勢の先生がおられること、しかし教育方針は一貫しており、単純なことから複雑なことへと進むようになっていること、そして複雑ということは混乱を意味するのではなく、


宇宙の創造主たる神を知れば知るほどその知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来上っていることを悟るようになります。


 そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、こちらの世界で私たちが日頃どんなことをして過ごしているのか、神の愛がどのように私たちを包み、謙虚さと愛を身につけるにつれて事物がますます明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。



 こちらの事情で大切なことの一つに叡智と愛のバランスが取れていないといけないことが挙げられます。両者は実は別個のものではなく、一つの大きな原理の二つの側面を表わしているのです。


言わば樹木と葉との関係と同じで、愛が働き叡智が呼吸しておれば健全な果実が実ります。解りやすく説明するために、私たちが自分自身のこと、および私たちが指導することを許された人々の世話をする中でどういう具合にその愛と叡智を摂り入れて行くか、一つの具体例をあげてみましょう。



 つい先頃のことですが、私たちは一つの課題を与えられ、そのことで私たち五人で遠く離れたところにある地域コロニーを訪れることになりました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わることでした。


と言うのも、そうしたケースを扱う上でしばしば私たちの経験不足が障害となっていましたし、又あなたも御存知の通り地上にはそういう人が多いのです。


 そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、こちらへ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛錬の成果が発揮される場でないことを身を持って理解されたわけです。


 訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘わらず、少しもえらぶらず、極めて丁重で親切に応対されました。あなた達なら多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴な方で、もしもそのお姿で地上に降りたら人間はその輝きに圧倒されることでしょう。


容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としては、さしずめ〝燦然たる光輝に燃え立つような〟というところでしょう。親身な態度で私たちの話に耳を傾けられ、時折静かな口調で〝それで?〟と言って話を促され、私たちはついその方の霊格の高さも忘れて、恐れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。


 「生徒の皆さん──ここにいる間は生徒ということにしましよう──お話は興味深く拝聴いたしました。と同時に、そういうお仕事によくある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさりと解決してあげれば、皆さんは心も軽くお仕事に戻ることが出来るでしょう。が、イザ仕事に携わってみると又アレコレと問題が生じます。


なぜか。それは、一ばん心に銘記しておくべきことというものは体験してみなければ解らない細々(こまごま)したことばかりだからです。それがいかに大切であるかは体験してみてはじめて解るということです。では私についてお出でなさい。大事なことをこれからお教えしましょう。」



 私たちは先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果実の木の剪定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲がりながら各種の植え込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。そしてすぐ側にエジプト寺院のミニチュアのような石の東屋があり、私たちはその中に案内されました。


天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の一つのベンチに腰掛けると、先生も私たちのベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。


 床を見ると何やら図面のようなものが刻み込まれております。先生はそれを指さしてこうおっしゃいました。


 「さて、これが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この印のところが今いる場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。


皆さんはおしゃべりに夢中でどこをどう通ったかは一切気にとめられなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りしてみるのも良い勉強になりますし、まんざら面白くないこともないでしょう。無事にお帰りになってお会いしたら、先ほどお聞きしたあなた方の問題についてアドバイスいたしましょう。」



 そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私たちは互いに顔を見合わせ、先生が迷路のような道を連れて回られた目的に気づかなかったそのうかつさを互いに感じて、どっと笑い出しました。それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで、始めはほとんど判りませんでした。


 が、そのうち徐々に判りはじめました。それはそのコロニーの地図で、東屋はその中心、ほぼ中央に位置しております。が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が四本あって、どの道を辿ればよいかが判りません。


しかし私はこれは大した問題でないと判断しました。と言うのは四本ともコロニーの外郭へつながっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。時間が掛かりますから。


 とにかく私の頭に一つの案が浮かび、参考までに提案してみたところ皆んなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。と言って別に驚くほどのことではないのです。どの方向でも良いから、とにかく外へ出て一ばん直線的な道を進んでみるというだけの話です。


言い方がまずいようですね。要するに東屋からどちらの方角でも良いから一ばん真っ直ぐな道を取るということです。そうすると必ず外郭へ出る。その外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば遅かれ早かれ門まで来ることになるわけです。


 いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素が無いわけではありませんでした。と言うのも、そのコロニーはそれはそれは広いもので、丘あり谷あり森あり小川ありで、それがまた実に美しいので、よほど目的をしっかり意識していないと、道が二つに岐れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。


 しかし、必ずしも最短で直線的な道を選んだわけではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うと、その外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくても、その境界の様子からして円形になっていることはすぐに判ります。


そこで左へ折れ、そのまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いて行くうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。


 先生は、よく頑張りました、と言って迎えて下さり、その足で建物の前のテラスに上がり、それまでの冒険談──私が書いたものより遥かに多くの体験──をお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり「なるほど。結構立派にやり遂げられました。目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。ではお約束通り、あなた方の学ばれた教訓を私から述べさせていただきましょう」と言って次のような話をされました。


 「まず第一に、行きたいと思う方向を確認すること。次に近道と思える道ではなく一ばん確実と思える道を選ぶこと。その道が一ばん早いとは限りません。限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域までまずやってくる。その境界線から振り返ると、それまで通り抜けて来た土地の広さと限界の見当がつく。要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールは必ず、達成されるものです。


 「又、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲がりくねった道や谷や小森が沢山あって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣合が取れている──要するに完全な円形になっており、内部は一見すると迷路でごった混ぜの観を呈していても、より大きい、あるいはより広い観点から見ると、全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ていることが判るはずです。小道を通っている時は迷うでしょうけど。


 それに、その外郭を曲線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。それでも、その形からきっと求める場所つまり門に辿り着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。そして今こうして辿り着き、少なくとも概略においてあなた方の知的推理が正しかったことを証明なさったわけです。


 さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここであなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間たちにお預けしようと思います。その人たちがこの建物や環境をさらにご案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものがたくさんあるのです。


その方たちと私が述べた教訓について語り合われるとよろしい。少し後でもう一度お会いしますので、その時に話したいことや尋ねたいことがあればおっしゃって下さい。」



 そうおっしゃって私たちにひとまず別れを告げられると、代わって建物の中から楽しそうな一団が出て来て私たちを中へ招き入れました。まだまだ続けたいけど、あなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺でやめにしましょう。少しの間とはいえ、こうして交信のために降りて来るのは楽しいことです。あなたをはじめ皆さんに神の祝福を。母とその霊団より。





2 霊界の科学館           

  一九一三年十月十一日 土曜日


 昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日は引き続きあのコロニーでの体験の幾つかを述べてみたいと思います。


そこには色んな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一ばん効果的かを研究するためのものです。


昨夜お話した私たちの体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることが出来ると思います。


 さて、あのあと指導霊の一団の引率で私達はすでにお話した境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取り行われる高級界の神霊の〝顕現〟する場の一つです。


召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群集が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なるシーンが展開します。


 そこを通り過ぎて行くうちに次第に登り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか立っております。


 その中央に特別に大きいのが立っており、私たちはそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。


円形をしており、まわりの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったもので、その中に地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。 


そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。尋ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。 


 私たちはその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。これからそこの設備がどういう風に使用されるかを私たちのために実演して見せて下さることになりました。


 腰かけて見ておりますと。青い霞のようなものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条すじの光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。


すると地球儀がまるでその光を吸収していくかのように発光し始め、間もなく光線が引っ込められたあとも内部から輝き続けました。と見ているうちに今度はもう少し強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。するとその地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。


 それがホールの中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。


それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転を続けていくうちに次第に様子が変わってきました。


 山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波を立て、都市のミニチュア、建物の細々(こまごま)とした部分までが見え始めたのです。きめの細かさがどんどん進んで、人間の姿──最初は群集が、やがて一人一人の姿が見分けられるようになりました。


直径80フィートから100フィートもあろうかと思える球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。


 その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で急がしく働いている人間の様子まで見えるようになりました。


広い草原や砂漠、森林、そこに生息する動物類の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えて来ました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そして、そこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。


 私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私たちに声を掛けられました。おっしゃるには、私たちが今見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みであれば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源までを再現できますということでした。


是非その美事な現象をもっともっと見せていただきたいと申し上げると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる器機のあるところへ行かれました。


 その話の続きはあとにして、ここで今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くはありません。全体がすみずみまで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。


 さて、程なくしてその回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私たちは長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命──人間と動物と植物の太古の姿を目のあたりにしはじめました。


 さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないということです。当時の現象は〝国家〟と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(※)の単位で起きておりました。


何代もの地質学的時代がありました。人間が鉄器時代とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白いことが発見されます。あらかじめある程度の知識を持つ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが判るのです。


と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域には当てはまるかも知れませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。


が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうして、さっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。 (※地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位──訳者)


 どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分たちが何も知らずにいたことを痛感していると、その球体が次第に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻り、やがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様なものになってしまいました。


 この現象に興味をそそられた私たちが指導霊に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること、


あのような美しい現象を選んだのは科学的鍛錬を受けていない私たちには美しさの要素の多いものが適切と考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、それぞれの天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。


 壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されるとのことでした。地球儀の時と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中心部へやって来ます。


そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味でその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線──本当の科学的名称を知らないので仮りにそう呼んでおきます──を当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。するとその動物の内臓がまる見えとなります。


施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を見るのは実に見応えのあるものだそうです。


 そのモデルに別の操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形態まで遡っていくことが出来ます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きた姿のまま見られるというわけです。


面白いのはその操作を過ると間違ったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一たん元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。


又、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることも出来るそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。


 一度話に出た(八六頁参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生の一人がこしらえたのだそうです。勿論ここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかも知れません。


 今日はこれ位にしておきましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなり過ぎるので止めにします。


 何か聞きたいことがあるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私の述べた言葉は聞こえなかったようですけど。


 では、さようなら。あす又お会いしましょう。


≪原著者ノート≫最後のところで言及している勉強会のことについて一言述べておく必要がある。前の週の月曜日のことである。私はその日、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。


聖歌隊席の至聖所側の一ばん端で私の右手になる位置にE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べている最中に私の母親が両手を大きく広げ情愛あふれる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。


その姿は輝くように美しく、まるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったという。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、余りの生々しさに一瞬自分以外の者には見えていないことを忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたという。私が質問しようと思っていたのはそのことだった。

       


 

 3 霊界のパビリオン       


  一九一三年十月十三日 月曜日


 例のコロニーでの、あなたの喜びそうな体験をもう一つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味ぶかいものでした。全体として一つのグループを形成している各種の施設を次々と案内していただいていると、屋外パビリオンのようなものに出ました。


何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで、囲まれている内部に天井がありません。建物の周りについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横三フィート、高さ四フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。


その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形等がいろいろと刻まれてありました。


 その真上のドームの中央部に通路があり、そこから入って行くとその施設の器機の操作室に出るとの話でした。私たちをその文字盤(と呼んでおきましょう)のまわりに並ばせて、案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へとはいられました。


何が起きるのか判らないまま、私たちはじっとその文字盤を見つめておりました。


 すると様子が変化し始めました。まず空気の色彩と密度が変わってきました。あたりを見ますと、さっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。さまざまな色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに一本一本に分かれ、判然とした形態を整えていきました。


すっかり整え終わった時、私たちは周りを林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風にゆれているのです。


 やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交うきれいな羽をした小鳥の姿が目に入りました。林はなおも広がり、美しい森の趣きとなってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。


 再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明りに輝いておりました。


 やがて上の方から案内の方の声がして、文字盤を読んでみるようにと言われます。最初のうち誰にも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で一ばん頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物の身体を構成する成分を解説しているものですと言いました。


その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言語で説明するのはちょっとムリです。ですが判ってみると成るほどと納得がいきました。


 その後案内の方が再び私たちの所へ来られ、その建物の使用目的を説明して下さいました。ここの研究生たちが〝創造〟についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強をしておかねばならないようです。それは当たり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。


この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。


 案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。進歩してくると、その操置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。


つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置も使わずに自分の意念だけで造れるようになるわけです。


 そこで私たちは、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意志の鍛錬が目的であるとのことでした。


その鍛錬は並大抵のものではなく大変な努力を要するとのことで、それがひと通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、そこでもさらに多くの段階の修練を積まねばなりません。


その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、幾つもの界でそうした修練を経たのちのことです。その暁にはある一人の大霊、大天使、あるいは能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属することを許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとのことです。


お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造──物的か霊的かは別として──のことかも知れないと考えたりしました。が、


そんな高い界のことは現在の私たちにはおおよその概念程度のことしか摑めません。しかも、そこまでに至るには人智を絶した長い長い年月を要することです。勿論そういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私たち五人の女性にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。


でも、たとえ辿るべき宿命は違っても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。全ての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。


遥か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく荘大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。


 芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶために別のカレッジへ行っていた研究生の一団と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。


私がその女性たちにあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物にまるみを持たせる働きをし、双方が相俟って完成美を増すことになるということでした。


もちろん完成美といってもその界での能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げるという意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって、完璧な完成ということは有り得ないのです。


 やがて私たちはこの円形のコロニーの校長先生と出会ったところに帰り着きました。



 ──何故その方のお名前を出されないのですか。


 お名前はアーノルとおっしゃいます。少し変わったお名前で、地上の人間はとかく霊の名前に拘るので、出すのを控えていただけで他意はありません。霊の名前の由来はあなたには理解し難いので、これ以後もただ名前を述べるに留めて意味には言及しないことに致します。



 ──そうですね。その方が回りくどい説明が省けていいでしょう。


 そうなのです。でも私たちがこうして霊界の生活を説明する時の霊的情況の真相がもし理解できれば、手間が掛かるほど間違いが少ないということが判っていただけると思います。例のアーノル様のコロニーでの私たちの体験と教訓を思い出して下さい。



 ──それにしても、名前を出すということがなぜそうまで難しいのでしょうか。難しいものであるという話は再三聞かされておりますが。


 その難しさを説明するのがまた難しいのです。人間の立場から見れば何でもないことのように思えるでしょうけど。こういう説明ではどうでしょう。あなたもご存知の通り古代エジプト人にとっては神ならびに女神の名称には、頑迷な唯物主観の英語系民族アングロサクソンが考える以上に深い意味があったのです。


名前に何の意味があると言うのか──そう思われるかも知れませんが、私たち霊界人から観ると、そして又(こちらへ来てから得た資料で知ったのですが)古代エジプトの知恵から観ても、名前には大いに意味があるのです。


名前によっては、それを繰り返し反復するだけで現実的な力を発揮し、時には危害さえもたらすものがあります。地上にいる時は知りませんでしたが、こちらへ来てそれを知ったのです。それで私たちは、あなたには多分愚かしく思えるかも知れませんが〝名前〟という実在に一種の敬虔さを抱くようになるのです。


もっとも、物わかりの悪い心霊学者が期待するほどに霊界通信で名前が出てこないのは、それだけが理由ではありません。


 こうして地球圏まで降りて来ますと、名前によっては単に口にしたり書いたりすることさえ、あなたが想像する以上に困難なことがあるのです。その辺の事情は説明が難しいです。こちらの四次元世界の事情にもっともっと通じていただきかないと理解できないでしょう。


この四次元という用語も他に適当な用語が無いから使用しているまでです。では、二、三の例を挙げて、それで名前の問題は終わりにしましょう。


 その一つは例のモーゼが最高神の使者から最高神の名前を教えてもらった話(※)ですが、今日まで誰れ一人としてその名前の真意を知り得た者はおりません。


(※この説話は旧約聖書「出エジプト記三章」に出ているが、ステイントン・モーゼスの「霊訓」の最高指導霊イムペレーター、実は旧約聖書時代の予言者マキラによると、これは紀元前一三〇年頃の予言者、今で言う霊言霊媒チョムを通じて告げられたもので、その時の言葉は Nuk-Pu-Nuk、英訳すればI am the I am すなわち〝私は有るがままの存在である〟となり、宇宙の普遍的エッセンス、生命の根源をさすという。──訳者)


 次はそれより位の低い天使がヤコブから名前を聞かれて断られています。アブラハムその他、旧約聖書中の指導者に顕現した天使は滅多に名を明かしておりません。


新約聖書においても同じように殆んどが〝天使〟と呼ばれているだけです。名前を告げている場合、例えばガブリエルの場合(※)も、その深い意味は殆んど理解されておりません。


((※)同じく「霊訓」によると、ガブリエルは同じ大天使の中でも〝守護救済〟の任に当たる天使団の最高位の霊であり、ミカエルは悪霊・邪霊集団と〝戦う天使団〟の最高霊であるという。──訳者)



 ──ところで、あなたの名前──そちらでの新しいお名前は何でしょうか。明かすことを許されているのでしょうか。



 もちろん許されておりますが、賢明ではありません。明かした方が良ければ明かします。でも差し当たっては差し控えます。理由わけはよく判っていただけなくても、あなたの為に良かれと思ってのことであることは判っていただけるでしょうから。



 ──結構です。あなたの判断にお任せします。


 その内あなたにも判る日が来ます。その時は「生命いのちの書」(※)の中に記されている人々にいかなる栄光が待ち構えているかを理解されるでしょう。この書の名称も一考に値するものです。軽々しく口にされておりますが、その真意はほとんど、あるいは全然理解されておりません。


(※正式には Book of Life of the Lamb)で「キリストの生命の書」。天国に召されるのを約束された聖人を意味するとされている。──訳者)


 ではあなたにもローズにもそしてお子たちにも、神の祝福のあらんことを。ルビー(まえがき参照)が間もなく行けるようになると言ってちょうだい、と私に可愛らしく告げています。指図を書き留められるようになってほしいなどと言ってますよ。まあ、ほんとに無邪気な子ですこと。皆んなから可愛がられて。ではさようなら。




 

4 暗黒街からの霊の救出       

 

 一九一三年十月十五日 水曜日


 自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在することを知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実味と愛と美を説明するとしたら、あなたなら何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊であることを得心させようとなさることでしょう。


そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味を持つことに気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとすることでしょう。何しろその世界は死というベールをくぐり抜けたあとに例外なく行き着くところであり、否応なしに暮さねばならないところだからです。


 そこで私たちは、もしも地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上かぎりの果敢はかないものではないことを理解してくれれば、私たちのように身をもって死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ちかまえていることを知った者からのメッセージを、一考の価値のあるものと認めてくれるものと思うのです。


 さて、その死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、とどこおりなく神の御国での仕事に勤しむことになるのは何でもないことのようで、実はただ事ではないのです。


 これまで私たちは地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での準備と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないという認識を得ております。多くの人間は死んでからのことは死んでからで良いと多寡をくくっておりますが、イザこちらへ来てみるとその考えが認識不足であったことに気づくのです。



──今お書きになっているのはどなたですか。


 あなたの母親と霊団のものです。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。またいつかお出でになるでしょう。霊団とともに通信に来られた時はお知らせしましょう。


 では話を続けましょう。〝橋〟と〝裂け目〟の話は致しました・・・・・・



──ええ、聞きました。それよりも、アーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからのことはどうなりました。ほかに面白いエピソードはもう無いのですか。


 いろいろと勉強になり、知人も増え、お話したことより遥かに多くのことを見学したということ以外には別に申し上げることはありません。それよりも、ぜひあなたにお聞かせしたいと思っていることがあります。あのコロニーでの話を続けてもいいですが、これも同じように為になる話です。


 〝裂け目〟と〝橋〟──例の話を思い出して下さい。(四一頁参照)。その橋──地上の橋と少し趣きが異なるのですが、引き続きそう呼んでおきましょう──が暗黒界から延びてきて光明界の高台へ掛かるあたりで目撃したエピソードをお話しましょう。


 私たちがそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾よくそこまで到達する一人の女性を迎えるためでした。その方は〝光〟の橋を渡ってくるのではなく、〝裂け目〟の恐怖の闇の中を這い上がって来るというのです。


私たちにはもう一人、すぐ上の界から強力な天使様が付いて来てくださいました。特別にこの仕事を託されている方で、首尾よく救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団のお一人でした。



──お名前を伺いたいのですが。


 ビーニ──いけません。出てきません。あとにしましょう。書いているうちに思い出すかも知れません。


 到着してみると、谷を少し下った岩だらけの道に一個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っていることが判りました。やがてその光が小さくなり始め、谷底へ下りて行かれたことを知りました。それから少しすると谷底から上に向けて閃光が発せられ、それに呼応して〝橋〟にいくつか設けられている塔の一つから照明が照らされました。


それはサーチライトに似てないこともありません。それが谷底の暗闇へ向けられ、一点をじっと照らしています。するとビー・・・・・、私たちに付いて来られた天使様が私たちに〝しばらくここに居るように〟と言い残してその場を離れ、宙を飛んで素早く塔のてっぺんへ行かれました。


 次の瞬間その天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の一人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ下りて行くのを見かけたと言います。私には見えませんでしたが、間もなくその通りだったことが判明しました。


 ここで注釈が要りそうです。その照明は見え易くするためのものではありません(高級霊は自分の霊眼で見えますから)。その光には低級界の陰湿な影響力から守る作用があるのです。


最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して、常時見張っている塔から照明が当てられたのも、そのための合図だったのです。私には判りませんでしたが、その光線には生命とエネルギーが充満しており──これ以上うまい表現が出来ません──谷底で援助を必要としている霊のために発せられたわけです。


 やがて二人の天使がくだんの女性霊を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常にお強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。あとで聞いたところによりますと、途中でその女性霊を取り返そうとする邪霊集団と遭遇したのだそうで、信号を送って援助を求めたのはその時でした。


お二人はその女性霊を抱きかかえるようにして歩いて来ましたが、その女性は光の強さに半ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも、似たような体験はあります。


例の色とりどりの民族衣装を着た大集団が集結した話(四八頁参照)をしましたが、こんどの光景はある意味ではそれよりも厳粛さがありました。というのは、あの光景にはただただ喜びに溢れておりましたが、いま目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。


三人はついに橋に辿り着き、そこで女性霊は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り、回復したあと私たちに引き渡されたのでした。


 この話には私たちにとって新らしい教訓が幾つかあり、同時にそれまでは単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。その内の幾つかを挙げてみましょう。



 まず、女性霊を救出した二人の天使を見れば判るとおり、霊格の高い天使が苦しみを味わうことが無いかのように想像するのは間違いだということです。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使もられます。


ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服できそうに思うのですが、やはり光明と善の勢力の組織がしっかりしていて、且つ常に見張っておりますので、現実にそうした大変な事態になった話を聞いたことがありません。


しかし彼らとの闘いは真実〝闘い〟なのです。しかも、たいへんなエネルギーの消耗を伴います。これが第二の教訓です。高級霊でも疲労することがあるということです。


しかし、その苦痛も疲労も厭わないのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、高級霊になると、必死に救いを求める魂のために自分が苦しみを味わうことに喜びを感じるものなのです。


 また例の照明の光──エネルギーと活力の光線とでも言うべきかも知れません──の威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害をこうむったはずです。あのように光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。


 さらにもう一つ。その光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかと思える遠く深い谷底から叫び声が聞こえて来ました。それは何とも言えない不思議な体験でした。と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けとお慈悲を求める声も混じっていたのです。


それらが混ざり合ったものが至るところから聞こえて来るのです。私にはそれが理解できないので、あとで件の女性霊を待っている間にビーニックス Beanix ──こう綴るよりほかないように思えますのでこれで通します。綴ってみるとどうもしっくり来ないのですが──その方に何の叫び声でどこから来るのかお聞きしました。


するとビーニックス様は、それはよくは知らないが霊界にはそうした叫びを全部記録する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとのことでした。叫びの一つ一つにその魂の善性又は邪悪性が込められており、それぞれに相応しいものを授かることになるわけです。


 件の女性をお預かりした時、私たちはまずは休養ということで、心の安まる雰囲気で包んであげるよう心がけました。そして十分に体力が回復してから、用意しておいたホームへご案内しました。今もそこで面倒を見てもらっています。


 私たちはその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から二、三の質問がありました。なんと、あの暗黒界に実に二十年以上も居たというのです。地上時代のことは断片的にしか聞いておらず、一つの話につなげられるほどのものではありません。

それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させることは賢明ではないのです。現在から少しずつ遡って霊界での体験をひと通り復習し、それから地上生活へと戻ってこの因果関係──原因と結果、タネ蒔きと収穫──を明確に認識しないといけないのです。


 今日はこの程度にしておきましょう。ではさようなら。

 神の祝福と安らぎを。アーメン。



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