好物は把握されているのに、恋慕の情は少しも伝わっていなかったという絶望感
――エリナーさんは既婚者だった。
「相手はその、昔から知っている人ですか?」
「いいえ、夫とは学校で知り合ったの」
――エリナーさんの夫こそ大人になった僕であるという一縷の希望もその一言によって簡単に打ち砕かれた。
結局、僕は逃げるようにエリナーさんの家を後にした……というわけでもなく、エリナーさんの講義が終わった後にネヴィルと街へ行くのは当初から予定していた通りのことなのだが。
玄関を出ると、ぱらぱらと細かな雨が降り始めていた。エリナーさんが二人分の傘を渡してくれた。礼を言って受け取る。彼女は指輪はしていないようだった。まあ、既婚者が全員、薬指に指輪を嵌めているわけではないだろう。
「じゃあ行ってくるよ」
「……エリナーさん。お邪魔しました」
「うん。二人とも行ってらっしゃい」
「バイバーイ」
……エリナーさんの息子、ラミレス君もエリナーさんと一緒に戸口まで見送りに来てくれた。
垂れ眉なところとか、どことなくおっとりした雰囲気がエリナーさんとよく似ている。
僕はラミレス君の目線の高さにしゃがみ、彼の柔らかな髪をそっと撫でた。
「お母さんの言うことをよく聞くんだよ?」
つい諭すようなことを言ってしまう。……何だか、急にこの子に優しくしたくなってしまった。
好きだった人の前でその人の子に優しく振る舞うことで、僕は吹っ切れたいと思っているのだろうか……。それはそれで恋破れた男の強がりでしかない気もするが。
ラミレス君はきょとんとしていたが、「うん!」と元気に返事してくれた。
……こんな無邪気な笑顔を向けられると、心が洗われる反面、自分のセンチメンタルが恥ずかしくなる。
ずっと年下の子の純真さを自分の傷心を慰めるために利用してしまった感じだ……。
「えいっ! 最後にもう一回!」
「グハァッ!?」
立ち上がり、車の方へ歩いて行こうとしたところをまたしてもエリナーさんに後ろから抱きつかれた。胴に手を回され、すりすりと頸筋に頬擦りされる。ただのとどめの一撃だった。とんでもない破壊力だ。
「そうだ! ネヴィル! 街に行くなら役所の近くのレストランへ連れて行ってあげたら? オスカーは、確か魚料理が好きだったわよね?」
抱きついてきたことへの言及は特になく(彼女にとって人に抱きつくという行為はごく当たり前の親愛の表現なのだろう。あくまで親愛の)、そのままネヴィルと喋り始める自由なエリナーさん。
……好物は把握されているのに、恋慕の情は少しも伝わっていなかったという絶望感。
これが……失恋。
いよいよ涙が零れそうになって、慌てて遠くの空を仰いだ。大好きな人に抱き締められているはずなのに、こんなにも虚しい。
ああ、さようなら、僕の初恋……。
終わりはいつだって急なものとは言うけれど、本当に急だな……。
「随分と遠い目をしているけれど、どうかした? あ、そういえば君ってエリナーのことが――」
「ワーッ! ワーッ!」
自分でも何を言っているのか分からない叫び声を上げてネヴィルの言葉を遮りつつ、何とかエリナーさんの腕を引き剥がして彼女から離れた。これ以上お子さんの目の前で僕みたいに不純な男が彼女に抱擁されていてはいけない……傍から見れば、仲の良い女友達か姉妹かにしか見えないかもしれないにせよ……。
「とにかく! お世話になりました!」
僕は最後に深々とお辞儀をしてから思い切ってエリナーさん親子に背を向け、涙がこぼれないうちに停めてある車の方へすたこら向かって行った。




