ネヴィルに顔を向けると、奴は驚いたように目を丸くした
跳び越えてきた十数年の間に起きた主な出来事について、僕はエリナーさんから説明を受けた。特に重要だったのは戦争終結に至った経緯とその勝敗だったが、エリナーさん曰く、一言で片づけてしまうと僕たちは――『敗戦した』とのことだった。
それを聞いた僕はほっと胸を撫で下ろした。
……自国の敗戦を喜ぶなんて変な話かもしれないが、それにはこの国の歴史にまつわる複雑な事情がある。
僕たちの国は、長い間別の国によって支配されてきたのだ。
大陸中央の北に広がる大国、僕らと国境の一部を接する某国は、いわゆる戦争国家だった。僕たちの国を含め周辺国は彼らの強力な軍事力に長きにわたって脅かされ、無理な公約を押し付けられたり資源地域の利権を奪われたり、散々な目に遭わされてきた。
某国率いる『こちら側』と、自由経済圏の国々によって構成された『あちら側』との戦争は、某国が周辺国に飽き足らず更に版図を広げようと南征に乗り出したことがそもそもの発端だった。もっとも高尚なプロパガンダが別に用意されてはいたが、侵略国家の本質は古の昔からずっと変わらない。それに始まってしまってはきっかけの正当性など誰も気にすることはなく、僕ら含め、『こちら側』の多くの国にとっては完全に巻き込まれただけの戦争だった。
勝ってもより支配が強まるだけで得るものは何もなく、かえって負けた方が失うものが少なくて済むという次第で、本当に当陣営の勝利を望んでいた人なんて僕たちの側には一人もいなかったと思う。しかし実質として資源地域の利権も交易の機会も取り上げられていた被支配国には大勢に従う以外の選択肢はなく、世論が傾くことはなかった。特に前線に近い僕たちの国は、行きたくもない戦場へ駆り出されるという地獄のような状況が長いこと続いていた。
「勝利した自由諸国側は、講和条約の中で某国に支配されてきた『こちら側』の属国を同情すべき隣人として扱ってくれた。殺し合った以上、国民感情をなだめるために必要な代償を求めはしたけれど、戦後彼らはわたしたちが某国から独立するための手伝いをしてくれたし、今では国交も結ばれ、ある程度自由に彼らの国に渡航できるくらいに関係も進展しているわ」
エリナーさんはそう言った。
それは歴史的に見てかなり重要なことだと理解できた。
十年そこらの間に、まさかそんなことにまでなっていようとは……。歴史のうねりというものは、かくも強い推進力で世相を変えてしまうのか。
まだまだ懸案事項は多く、立場を守り、発展を続けるためにわたしたちはこれからも多くのことに対処していかなくてはいけないけれど、と学校の教師らしい訓諭でエリナーさんの講義は締められたが、話を聞き終えた僕は相当に興奮していた。
「すごいですね! かなり平和じゃないですか」
口をついた素直な感想に、けれどエリナーさんは黒板を消しながら少し複雑な表情を見せた。
「実際のところ、こうして緩めの講和条約を締結できたのには先方が『こちら側』の戦力を見誤っていたことにも理由があると言われているの」
「戦力?」
「国内に〈聖霊〉が立て続けに現れたんだ」
ネヴィルがエリナーさんの言葉を引き継いで口にしたその台詞に、僕はびっくりした。
「聖霊? この国だと、学府の教会に一人いるきりじゃなかったか?」
「そうだったんだけど、戦争が始まってすぐの頃、各地で続々と現れ出したんだ。『覚醒』と、当時は呼ばれていたんだけど」
全ての生命はその根幹に核たる言葉、〈命辞〉を刻まれている。
この世界は文字や数の持つ魔力によって構成されているが、特に〈命辞〉は生物と無生物とを分ける重大な要素であることが判明しており、僕やネヴィルやエリナーさん、生きとし生ける総ての存在が等しく有する、肉体の最奥に刻まれた魂そのものともいえる文字であり言葉だ。基本的には両親から素因を受け継ぐことになり、全く同じ人間が世界に二人と存在しないのと同様、唯一無二のものである。双子だと似るそうだが、全く同じにはならない。
中でも聖霊の〈命辞〉は特別であり、解析者の手によると、それはそもそも父親、つまり母親の夫に当たる人物の特徴を受け継いでいないらしい。そのために処女受胎と呼ばれたりもするが、母親の〈命辞〉と全く同質のものを受け継いでいるのではなく、誰か別の者の素因も引き継いでいる。その『真父』と目される人物は土地や時代性の違いを超えて全ての聖霊たちで共通していることが確認されており、何故そのようなことが可能なのか――そもそも『真父』とは何者なのか――が、学術における一つのミステリーとして、神学的には創造主の存在証左として広く知られている。
聖霊は、その『真父』なるものの特殊な素因により、それぞれに固有の、世界へ干渉する不可思議なちから、〈奇蹟〉を有している。〈奇蹟〉は数秘術に課せられているあらゆる制約を無視して超常的な事象をもたらすことができ、比喩でなく神の御業とされる。そのため、聖霊は学府による調査・管理の対象ともなっている。
聖霊たちのことを、戦力、とエリナーさんは言った。
聖霊たちの有する〈奇蹟〉が、長い歴史において時に戦争の道具として使われてきたというのは知識として知ってはいたが……。
「特に戦争向きの〈奇蹟〉を持った聖霊の覚醒が国内で三件ほど観測されてね。彼女らの活躍で、一時期は戦線を『あちら側』に押し返したりもしたんだ」
「……勝ちそうだったのか?」
「某国はそのつもりだった。だが、某国以外の『こちら側』の勢力は勝利を恐れた。某国の力がこれ以上強まるのを看過できなかった」
「……?」
「密約が交わされたんだ。我々の国を含む『こちら側』のいくつかの国と『あちら側』の中枢との間で。わたしたちは某国にとって致命的となるタイミングで彼らを裏切ることに成功した。歴史の教科書には、きっと違った形で載ることになるに違いない事実だけどね」
……成程。
国同士の色々な思惑が交錯した結果、僕たちは平和な敗戦という絶妙な結果を手にすることができたということか。
「……」
圧倒された気持ちで、僕は詰めていた息をゆるゆると吐き出しつつ背もたれに深くもたれた。想像以上のことが起き過ぎていて、頭の中で処理するまでに時間がかかる。
「ところで、その密約っていうのはどういう内容のものだったんだ? ――わぷっ!?」
突然、正面からエリナーさんに抱きつかれた。
「エっ、エリナーさんっ!?」
「ん~っ。やっぱり君は可愛いなあ! もう行っちゃうんだし、最後に思い切り抱き締めさせて!」
背もたれごと僕を抱擁し、肩に顎を載せてすりすりと頬擦りしてくるエリナーさん。
そう言えばエリナーさんには『抱きつき癖』があるのだった!
……久しぶりだっ。
庇護欲を刺激されるとついやってしまうとのことだったが、エリナーさん自身が大人になった今、成長したメアリも彼女にとっては庇護の対象ということか……。
すごく良い匂いがするし……柔らかい! どこがとは言わないが、前よりもっと柔らかくなっている! 男に当てて良い部位じゃない!……
――いや待て。
僕は今メアリで、つまりは女性の身体なんだから、このままエリナーさんのいささか過激なスキンシップを受け入れていても全く問題ないのではないか?
むしろ恥ずかしいからと突き放す方が余計に子供みたいで余裕がない奴と思われてしまうんじゃないかっ!?
ならば、このまま抱きつかれていても問題無――
「おかあさーん。だれぇ? その女のひとー?」
突然、部屋の入口からあどけない声が聞こえてきた。
顔だけそちらへ向けると、そこには寝間着姿で目を擦る小さな男の子の姿があった。
というか――え?
――おかあ……さん?
「あらおはよう、お寝坊さん。もうすぐお昼よ」
僕に抱きついたままエリナーさんが笑って少年に答える。
ネヴィルに顔を向けると、奴は驚いたように目を丸くした。
「どうしたんだい? 完全に脳を破壊された人間の顔をしているよ?」
「……あっ、ああっ、あの子はっ!?」
あまりのことに動揺しまくりな僕に向かって、「あ、言ってなかっけ?」とネヴィルは呑気に答えた。
「彼の名前はラミレス。エリナーの息子さ」
「……」
僕の、初恋……。




