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その六


          ❻


 目を覚ますとぼくは古めかしいマカボニー製のソファに横たわっていた。身体には煙草とピザの香りが染みついた毛布がかけられている。半身を起こすと、全体の筋肉が夕食に出されるフレンチトーストのようにかちかちになっていることが判った。上腕二頭筋やももの裏筋を数分かけて丹念にマッサージし、じゅうぶん血流が行き届いたことを確認して立ち上がった。

 店内を見回すとエイジは板張りの床に仰向けになって寝転がっていた。姉の姿はなかった。弘子さんはカウンターの向こうの丸椅子の上に体育座りをして、カラマーゾフの兄弟の続きを読んでいる。

昨夜の喧騒が嘘みたいに部屋はしんと静まり返っていた。それはすごく品のある特別な静けさだったんだ。まるで、オースケトラの演奏が終わり観客の拍手がホールを満たすまでのあの空白が、ずっと続いているようなかんじ。ストーブのうえで沸騰する薬缶の音だけが健在で、ぼくはハルシオンを飲んだあとみたいにぼんやりとした顔でそいつに手をかざした。そうして昨夜のなごりを楽しむ。もうすぐ鳥の声が聴こえるはずだ、とぼくは思った。そして新しいぼくたちの生活が始まる。あるヒトは新規のお客様に補聴器を売りつけ、あるヒトは弁護士を通して性的暴行事件の訴訟を取り下げてもらうのかもしれない。またあるヒトは電気シェーバーの充電アダプターを買い替え、あるヒトは重要文化財に射精し器物損壊罪で訴えられるかもしれない。

そしてぼくだけが停滞しているのかもしれないね。

「カモミールティー飲む?」

弘子さんの問いかけにぼくは頷く。

「エイジくん、息してる?」

「ええ?」とぼくは首を傾げる。「わかんないけど、していようがいまいが、どちらにしても起き上がりますよ」そんな適当なことを言ってマグカップを手に包み暖をとる。

「タフなのね」と弘子さんは笑った。

「ぼくなんかよりずっとね」とぼくは言った。カップの縁に口を付けると、カモミールティーのほんのりした甘みが鼻からぬけていった。ぼくはカモミールの花言葉も知らないのに、カモミールティーを美味しく飲める。そこには大切な秘密が隠されているようだったけど、考えるのをやめた。朝はどうしても、ものぐさになってしまうのだ。

「あら、あなただってタフよ。いつも懸命に戦っているじゃない」

「相手が何なのかも判らないですけどね、1人で土俵にあがるような虚しさをいつも感じているよ」

「いっそのこと諦めたくなる?」

「ときたま」とぼくは言った。

「そう」と弘子さんは2、3回頷いてから勢いよく顔をあげる。「でもね、貴方達。絶対に小説を書いたり、モノを作ったりすることを、諦めたり、辞めたりしたら駄目よ。たとえいつか【失われた世界】の住人になっても決してね。これはわたしとの約束。貴方たちが世間様からなんと言われようとわたしは味方だから」

 真っ直ぐな眼差しにぼくは息をのんだ。こみあげてくるものを、身体を左右に揺すって分散させる。ジーンズはにわかにきつくなり、ベルトは腹部に食い込んでいく。ぼくはすっかり参ってしまったな。ぼくは優しいヒトが苦手だ。とりわけぼくに心優しくしてくれるヒトが苦手なんだ。ぼくの根っこの悪い部分に勘付かれ、軽蔑されたり敬遠されたりするのが恐ろしくてたまらない。いっそのこと世の中が悪人だらけならいいとすら思えるよ。だってそれなら誰かを傷つけてもこころは痛まないでしょう?

「弘子さん、昨晩は酔っているふりしていたでしょう?」とぼくは言った。

 弘子さんは答えずに、採光窓から景色を覗き込む。夜の底は白み、夜と朝の境界線は

街を青く染めている。もうすぐ朝が来るみたいだね。

「ねえ、起きなよ」と言ってぼくはエイジの尻を軽く踏みつける。それから外套を肩にひっさげて煙草に火をつけた。

カウベルの不規則な音の連なりを残して店をでると、エタノールのように澄みわたった外気を肺一杯に吸い込み、天井に降りしきる雨の様な紫煙をはきだした。


         

「冬の朝のコーヒーと煙草は、どうしてこんなに美味いんだろう」

エイジはコウノトリの伝説を信じる少女のような口調でそんなことを言った。

 ぼくたちは国道沿いのコンビニエンストアで退屈を満喫している。

「最近、とみに昔のことばかり想い出すようになった」エイジは国道を走る社用車を見詰めながらぽつりとこぼす。早朝の社用車はエイジにとって大切なメタファーだった。その暗喩が何を象徴するものなのかぼくには判らない。

「昔のこと……、大切な友人のこととか?」

「そうとも」とエイジは言う。「もしくは俺自身の傷についてとか」と言ってエイジはコンバースの靴底で煙草をもみ消した。それから曼荼羅に座り込むキリストのような居心地の悪い顔をしてこう言った。

「実はだな、俺は、弘子さんのことが好きだ」

「気付いていたよ」とぼくは笑う。

「仮に上手くいったとしても、それは大切な友人にたいする裏切りになるのかもしれない」

「うん」

「だから悩んでいるんだ。友情と恋愛のどちらをとるか、俺にしては、なかなか文学的な葛藤だろう?子宮から飛び出してすぐの頃は、自分だけはその2つとも手に入れることができると信じていたんだけどな」

「あるいは、どちらも手に入らないと信じていたとか?」

「その通り」とエイジは言う。「英雄になるか、それでなければ何者にもならないかの2択でしか考えてこなかった。まさかこんな中途半端な人間になるなんて、夢にも思わなかったよ」

「まあね」とぼくは言った。「でもさ、ぼくたちは客観的に見てもまだまだこれからな気がするけど」

「なあ、お前ならどうする?」

「友情と恋愛の話?」

「そうだ」とエイジは頷く。

 ぼくはしばらく考え込んだ。

エイジはぼくが口を開かないかぎり、1年でも2年でもそこでじっとしていそうだった。

「ぼくたち3人はいつも一緒だったよね」とぼくは切り出した。「警察の世話になるくらい馬鹿なことをやったし、救急車の世話になったことは実際にあったよね。それは想い出で、孤独と向き合ったときぼく達を唯一癒してくれるものだと思う。でも、それに後ろ髪をひかれていまを台無しにしてもつまらないじゃない。ぼくは変えられない過去について、ちょうどいまのエイジと同じくらい悩んだけど、結局のところそれは努力とは関係のない問題だから、納得して受け入れるしかないんだよ。だって記憶に縛られて得をすることは、それほどおおくないからね。そう理解していても思い悩むから、まったくぼくという人間は救いようがないトンマだよ。それはともかくね、エイジは、罪悪感を覚えながら、大切な友人のことを思いながら、弘子さんを愛するべきだと思う。道徳は大切だけど、こころから君が欲しがるなら、その為に他人のことを傷つけてもいいんだよ。しっかり自責の念を感じながら全力で傷つけるなら、それがぼくには素晴らしいことに思えるんだ」

「お前はたいした思想家だな」エイジは徹夜明けのような顔をして笑った。「まったく女性はなんて厄介な生き物なんだ」と言って清潔に刈りそろえられた頭髪をかきむしった。「こちらがいくら思考を巡らせても筆舌に尽くしがたい、美というものをあいつらは生来的に知っているのさ!そして、ふとしたときに、わけのわからない軌道で、美しい花を咲かせやがるんだ!俺はこわいよ、弘子さんに軽蔑されるのがたまらなく恐ろしい!」

「大丈夫だよ、人間は案外頑丈にできているものさ。うまくいかなければまたやりなおせばいいじゃない。色んな女の子とキスをして、違う色のお花をプレゼントすればいい」

「オムレツが食いたいのにハンバーグで腹を満たすような真似はしたくない!」とエイジは声を荒げる。ぼくはなんだかとても億劫な気持ちになってきた。「ああ、なんてことだ!俺が欲しがるものは決して手に入らないような気がするよ。だからこそ俺は生きていけるのかもしれないぞ!」

「きっと疲れているんだよ、エイジは。今日はもう帰ろうよ」

「何か詩を読んでくれ!でないと俺は発狂してしまいそうだよ」エイジは泣きそうな顔をしてそう言った。

「因果な話だよ。

 フラニーはなんでもお見通し。

 舌がからまり、喉はからから、言葉はしっかり空回り。

 まったく因果な話だよ。

 それは腰丈の罠、

 やっと間に合う高さのやすらぎ、

きれぎれの嘘、

 さよなら、ワンダーウォール。                 」とぼくは言った。

「ありがとう。ほんとうにお前はたいした思想家だよ。たいした思想家であり、たいした詩人だよ。きっとお前はうまくやれるさ」とエイジは言った。ぼくは途端に不憫な気持ちになってしまい何も言えなくなった。

「大丈夫だよ。そんな目でみるな。俺だってうまくやるさ。たいした造形作家になるんだ」

「1人で帰れる?」とぼくは尋ねた。

「お前は最低な気分のとき何を考える」とエイジは答えた。

「火星の陸上競技場を走る黒人のことだよ」とぼくは言った。「ねえ、1人で帰れるの?」

「ああ、大丈夫さ。もう大丈夫、問題ない」と言ってエイジはゆっくりと立ち上がった。

「土曜日の午後8時に駅前大通りのパチンコ店にいってみるといい」

「へ、何?パチンコだって?」

「駅前大通りのパチンコ店、時間は午後8時だ。気が乗らなければ20時でも構わない」と言ってエイジはひとりでに笑う。「それじゃあ、また【スクール】で」

「パチンコ……?それはいったいどうしてさ?」

「行けば判るよ。さようなら!」 

「また【スクール】で」と言ってぼくは手をふった。


          ❼


 姉はずっと家にいるわけではない。

突然行方をくらませて2日、3日帰らないということもザラにある。

「今日はどこで遊んできたの?」とぼくは言った。

「かんねんのせかい」姉はスズムシのような声でそう答えた。


 ぼくの日常はこんなふうにして過ぎていく。


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