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その五

「いいかんじ」

 いいかんじと言っているからには、姉は確かにいまいいかんじなのだろうね。

「どうしていつも閉店間際に来るのよ?」と弘子さんは口を尖らせる。

「どうしてでしょうね」とぼくは言う。

「お姉さんじゃなくてあなたの方よ。迷惑という意味でなくてね、1時間早くきてくれるだけであなたは沢山のヒトとお話をすることができる。それがこの場所の醍醐味なのよ?」

「奴さんすっかり人間不信になっているんですよ」ぼくの代わりにエイジはそう答えた。「外的世界との交流を拒絶しているんです。そのせいで、見て下さいよ、この体。ほら、一昔前のパンクロッカーみたいに痩せこけちまった。薬が原因なら反体制みたいで恰好つくんですけど、こいつの場合失恋なんだから、女々しいったらないですよ!あの娘に袖にされてから、それによりいっそう拍車がかかっちまったんだ!」

エイジが名前を伏せてあの子といったのには、実名を出すとぼくがこのうえなく不愉快な気持ちになるからという配慮の念が感じられたけど、それならその慮りのラインをもう少し手前にひいてほしいとぼくは常々思っている。

「どうして別れたの?」と弘子さんは問う。

 ぼくは呆れて「君たちはぼくを馬鹿にしようとしているね」と言った。それからまるで借りてきた猫みたいにすっかり黙り込んでしまったんだ。これが10代の頃の武勇伝であればさ、ぼくだって立て板に水を流すように、大言壮語を織り交ぜて饒舌に語ることはできるよ。けれど、ぼくの傷はさきほどのエイジが言ったとおり、女々しく、笑いの種にならない、後ろ暗い傷なんだ。その古傷をいったいわざわざ自らえぐりだしては、あれはたいした悲劇だったと感傷に浸らなければならないのだろうか。ぼくは、はたしてマゾなのだろうか。

そして一番不愉快なことと言えは、ぼくの、女々しく、笑いの種にならない、後ろ暗い傷を、酒の肴にしてしまおうという魂胆が、彼/彼女たちから沸々と感じられるところだ。一見親身に見える弘子さんの口元が仄かに緩み始めているのが、ぼくには判る。彼女の桜色の唇、その奥の二枚舌が、笑いの種にならない話を酒の肴に変えてしまう強引とも言える弁舌のふるいかたを熟知していることを、ぼくは知っているのだ。

それでも、やはりぼくは、ぼくのことを出来る限り正確に、誠実に語らなければならないんだろうね。価値を転換させて考えると、武勇伝を通じてできた傷と、失恋を通してできた傷は、存在としての本質性は同じだということが判る。ただ、こちらの傷の方がすこしばかり見るに堪えないと言うだけさ。



 ぼくと彼女は普遍的な一組だった。遊園地で小石を投げれば、3回に1回はぼくらのようなカップルに当たるくらい、どこにでもいる凡庸で紋切型な一組だった。そしておおくのカップルがそうであるように、ぼくは、ぼくらの関係が、およそ他人とはちがう特別ななにかであると、すっかりのぼせあがっていたわけだ。どれくらいのぼせあがっていたかというとだね、恥ずかしい話、自宅のロッキングチェアーにこっそり彼女とぼくのイニシャルを掘ってしまうくらいには浮かれていた。彼女もぼくのことを、当初は、2番セカンドのように重要な存在だと考えてくれていたと思うよ。

 彼女は不細工でも美人でもなかった。これはぼくの意見ではなく、まわりの人間がそう批評していたのだ。彼女は食べることに関心があった。苺をハムスターのように口に詰め込んで頬張る姿は、例え不細工でも美人でもないにせよ、それでもとにかく絶品だったな。【スクール】に散見される大多数の女性よりも、はるかな存在的価値が彼女にはあったと、ぼくはいまでも確信しているくらいなんだ。

 彼女は知的で優秀な人間だったが無垢なヒトでもあった。ぼくは、博識と純粋性が共存できることを、彼女を媒介として理解することができた。それに比べて、ぼくはひねくれたものの見方をすることがあったし、そういうスタンスをかっこいいと思っている節もあった。これは今でもそうなのかもしれないね。不健全なものに美意識を見いだす傾向があったし、煙草やお酒を愛していた。彼女はぼくに何度も煙草やお酒を止めるように進言したけれど、ぼくは、彼女がぼくに対して何かを忠告することが面白く、幾度もその進言を聞き流した。

彼女はぼくに、相互的に向上しあえる関係を望んだけれど、そのときのぼくは性的なことで頭がいっぱいだった。これも今でもそうなのかもしれないけれど、言い訳を1つしてもいいなら、ぼくは享楽的な感情に身を任せてそういうことをしたがったのではなく、ぼくたちの関係性の深さを1つの具体的な事実にしたがっていたのだ。

 ぼくはこのヒトと結ばれる為に生まれてきたのだと、自分勝手に意味をみいだし、その他の様々なことをおろそかししはじめた。そしてまた彼女もそうしてくれることを望んだ。

 けれど彼女は人間的に自立したヒトだった。確立されたパーソナルスペースは、否と思うことを否と言える芯の強さを獲得しており、それがぼくには面白くなかった。否を是にする為に様々な心理的攪乱を試みて、その度に彼女を軽蔑させてきた。

それでも、ぼくは3年間彼女と交際することができた。ぼくは物事を0か100かでしか考えることのできない人間であり、軽薄になることもあれば、太陽が月に重なることがあるように、ぼくも他人を大切にできることがあったのだ。それはただの気まぐれであり、一過性の愛情に過ぎなかった。でも、彼女はその気まぐれが確かなものになる日を信じて待っていたのかもしれない。そして終わりの日はしっかりとやってきた。

 苺を頬張る彼女の顔に、都の影が差し始めたのだ。

「わたし通行券を貰ったの。【壁の向こう側】に行く時がきたの」と彼女は言った。

 ぼくは彼女の気持ちをコントロールすることにやっきになったけれど、彼女はあくまでかたくなだった。彼女の眼には、優れた知性に裏打ちされた未来が見えていた。そこにはあそこにコンドームを装着することに没頭するぼくの姿はなかった。ぼくは深く絶望し、自分の様々な行いを猛省するそぶりを見せたけれど、それでも心変わりしないことを知るやいなや【壁の向こう側】へ旅立つ彼女に嫉妬し、彼女を傷つける言葉を、これは正当な意見であるというようにもっともらしく、わざと、幾度も、執拗にぶつけた。

 もはや修復な不可能な一組であるぼくたちは、ある日電車とバスを乗り継いで紫陽花祭りを見に行った。珍しくその日は、彼女からの誘いだった。ぼくは前述した諸々の事柄から、すっかりへそを曲げてしまい、退屈なふりをしては祭りを非難し始める。立ち並ぶB級グルメの屋台の味を非難し、日照り続きで元気のない紫陽花に風情がないと嫌味をはいた。勿論それには、彼女を遠回しに批難するという名目があった。その企みに気付いた彼女が悲しい顔をすると、ぼくはてのひらを返すように、精神的耐性が未熟な人間を仕方なく励ます役に徹し、乾いた何かを満たそうとした。帰りのバス停へ続く通りに小さな露店があり、彼女は犬のキャラクターが描かれたマグカップを手に取り、しげしげと見つめて微笑んだ。ぼくには長いこと見せてくれることのなかったその笑みに苛立ちを覚え、必要以上の声量でバスの時間に間に合わないから早くしてくれと、せきたてた。

 それでも彼女は翌日、紫陽花を撮った写真を5枚ぼくにプレゼントしてくれた。それは素敵な想い出を形作るための1つの演出だった。大切なものは失ってからはじめて気づくというのは、嘘だとぼくは思うな。大切なものは決して失うことはないとおおくのヒトは勘違いしているだけなんだ。

 最後の日に、ぼくは彼女に何かしてあげることを望んだ。けれど彼女がぼくに望む唯一のことは、ぼくがこれ以上、彼女に対して何も働きかけないことだった。

「考え直してよ」とぼくは言った。それはみじめな懇願だった。

「わたし煙草を吸うヒトは苦手なの」と彼女は言った。 

比喩はどの時代の人間が読んでも理解できるものであれ、というのがぼくの美意識なのだけど、その美意識を破って表現するなら、彼女にとってぼくはスマートフォンの広告のような存在になっていたのだ。

3年間、ぼくは彼女と交際した。

そしてようやく自分がおおくのことを勘違いしていることに気付かされた。

自分には他人の気持ちを尊重するだけの寛容さがあると勘違いしていたし、自分の根底には道徳的な優しさがあると勘違いしていたし、真剣に向き合えばヒトとヒトは判り合えるものであると勘違いしていた。それにもしかしたら、ほんとうに彼女は、喫煙者というだけの理由でぼくを嫌ったのかもしれない。

彼女に別れを告げられたぼくは、それからすっかり意味を見失ってしまい、意味の、意味の、意味を執拗に求めることになった。

 だからぼくは、文章を考えるとき、いつもあのときの紫陽花やB級グルメの為に何か書けたらなと、思っている。 

被虐的な興奮とアルコールでぼくはすっかり頭が回らなくなってしまった。2人はジン・トニック片手に訳知り顔で、各々の人生観を語りはじめた。ぼくは羽目板に突っ伏して、じっくり木目を眺めながら、2人の講釈が終わるのを待つ。テーブルに額を押し付けていると、次第に蓄積した疲労が睡魔に変わっていくのを感じた。

弘子さんの笑い声やエイジの叱咤が、お風呂場にいるみたいに耳元でエコーする。

反響した笑い声や叱咤は、あたまのなかで渦を巻いて混沌としていく。

「不愉快だ。ぼくは不愉快だ」と呟く。

途端、「しっかりしなさい!」と弘子さんに背中を叩かれる。

「ぼくを試合前のボクサーと勘違いしていませんか?」

「しっかりしらさい」

「呂律のまわらない弘子さんこそしっかりするべきだよ」とぼくは言った。

「じゃあ、元気を出しらさい!」と再び背中を叩かれる。弘子さんは胸ポケットからくしゃくしゃの紙幣を二枚取り出すと、こう言った。「これを食べなさい」

「盲腸になりますよ」とぼくは落ち込む。

エイジは口に含んでいたアルコールを盛大に辺りに吐き出した。太腿の谷間でまどろんでいた姉は部屋の隅に逃げだすと、身体を左右にゆすってしぶきを飛ばす。

「ないすじょーく」

「ぼくは冗談を言ったつもりはないのに」ぼくはなんだか苛々した。

「いやいや、これは上等なジョークだ」エイジはハンカチーフで口元をぬぐった。「いいか上等な喜劇が喜劇たりえる所以はだな、当人にとって悲劇的ないし無意識的であるところにあるのさ。今日はたのしい夜だ!ここには全てがある。それは酒と、煙草と、それから音楽だ。俺は例えアルコール中毒や肺癌患者になって、おまけに【失われた世界】の住人になろうとも、必ずこれらを愛し、祝福してみせよう!」

「その意気よ!」と弘子さんはグラスを掲げる。間接照明の明かりに照らされた硝子が羽目板の上に波模様の影を形作る。「わたしたちは、芸術を愛するこころを忘れてはいけないわ。わたしも【スクール】にいた頃は、たくさんいけないことをしたものよ!」

「今だってじゅうぶん貴女はいけない人間ですよ」とエイジは笑う。

「今よりもずっといけないことをしたの!」

「つまり、そのいけないことって?」と仕方なしにぼくは尋ねる。

「君たちの大切な友人に歌詞をプレゼントして、唄を作ってもらったの」と言って弘子さんは扇情的に首を傾けた。

「それはコケティッシュだな!」エイジは目を皿のように丸くした。ぼくは羨ましさを悟られないように咄嗟に難しい顔をしてみせた。

「それを2人で唄ったりしたのよ!」

ぼくらの反応に気を良くした弘子さんは追い打ちをかけてジン・トニックをあおる。グラスの底をテーブルに叩きつけると、帝国ホテルマンのノックのような耳ざわりのいい音が響く。壁にかけられたシックな丸時計を一瞥して彼女は叫んだ。

「今日は朝まで飲むわよ!これよりこのお店のお酒は全て無料!」

「いいかんじ」

と再び姉は鳴いた。


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