その四
ぼくの姉は数年前に<自死>した末、猫になった。<自死>は難しい言い方をすれば(ぼくは難しい言い方が嫌いだけど、どの医学書もペダンチックな言葉を好んで用いるので、使わざるを得ないんだ)外的世界との相互作用が欠ける人間がかかる病気。ご飯を食べてしっかり睡眠をとっても、るいそうのようにやせ細っていくから病識が欠如することはないので、その点は安心だ。<自死>を恐れて他者と関係を結び過ぎると、今度はかえって太り過ぎてしまうので、それを恐れたモデルの多くが<自死>してしまい、おおきな社会問題となった。それ以来、モデルという職業はなくなり、代わりにマネキンの生産数が増えた。
<自死>した全てのヒトが猫になるわけではない。熊になるものもいれば、季節外れの夕立になるものもいる。
何10年も前に、心理学的アプローチから<自死>に対する研究が始まり、ヒトの願望が<自死>ののちにそういった形となって現れるという結論がでた。この結論に、ぼくたちは一応の納得を示している。確かにぼくの姉は猫が好きだったし、熊になったヒトは熊が好きだったのだと思う。
この説を批判する研究者もいた。むしろ<自死>といった通過儀礼を経て、彼/彼女たちは生前苦手にしていたものに形を変えるだとか、またあるヒトは、フランスの心理学者の言葉を借り、他者の欲望を欲望としている状態になると言っていた。
非人道的な研究も行われた。生後間もない子供を六畳間に閉じ込めて、人為的に<自死>させ、その過程を観察する研究だ。その結果、驚くべきことにその子供は、見たことも聞いたこともないはずである女性の胸部、おっぱいへと形を変えたのだった。ぼくはいつも、六畳間に寝転がる2つの乳房と、それに驚愕するたくさんの研究者たちのシュールな場面
を想像しようとするけど上手くいった試しがない。
この研究結果を、本にまとめたものがある。憎たらしいことにこういった学術的な本は、実用的という理由で多くの人に好まれるんだよね。
以下はその本【自死から導き出される集合的無意識】からの引用文だ。
『これは個人の想像力の範囲を超えるレヴェルの<自死>だった。これは個人の思想や、欲望、コンプレックスを越えた集合的無意識の存在を証明する<自死>であり、深層心理の力動の説明に一定の根拠を与えるばかりか、精神分析に欠けていたエビテンス(科学的に明確な基準)を付与する偉大な発見であった。この偉大な発見が、少年の英雄的犠牲なしには起こり得なかったことはいうまでもない。科学の発展の礎となった少年に我々は、畏敬に近い、深い尊敬の念を抱いている。』
馬鹿じゃん、とぼくは思った。
ぼくは、この【自死から導き出される集合的無意識】の読者と【スクール】で喧嘩をしたことがあるんだ。それは昼食の時間だった。彼はこの学術書の、まさにぼくが引用したこの項を諳んじて、彼/彼女たちの研究を絶賛し、少年の英雄的犠牲を、人類の進化に必要な犠牲だったとのたまった。ぼくは、勿論喰ってかかったさ。だが彼は努めて冷静に、そして冷笑的に、英雄的な革命を起こした数々の偉人を例に取り、100人の命を救う為に1人の命を殺すことは歴史的に許されてきたと、噛んで含めるような言い方で滔々と語ってみせたんだ。「君は歴史の点数が悪く知識の蓄えもないから、理解が及ばないかもしれないけどね」20数世紀続く歴史をバックホーンとする理路整然とした意見がこんな係り結びで論を閉じると、食堂にぼくを嘲笑するいくつかの声がこだました。
でも、ぼくは決して、決して、決して、決して、自分は間違っていないと思ったな。確かに討論には負けたよ。討論に負け、あの食堂でぼくはマイノリティな存在になり(それは民主主義的観点から見ればおおきな敗北だよね)視界の縁が涙に濡れたけれど、ヒトの生命は決して何かの犠牲にしていいものではないと、ぼくは強く信じているんだ。
生命は何よりも尊い。科学は勿論、小説や詩や音楽よりもずっと尊い。天秤の片側に乗せていいものではない。
1つの生命を奪えば、100の命が助かるという状況はおおきな問題だ。この問題の憎たらしいところと言えばだね、どちらを選んでも良心が満たされることと、どちらを選んでも良心の呵責を感じることにあるんだ。善人にも悪人にもなりきれない状況をヒトが苦手とするのは、ぼくたちが両価的な生き物であることの証明で、つまるところすこしだけ複雑な形をした自己嫌悪に過ぎないのかもしれないね。
とにかく、ぼくはある日この問題自体が不正解などだと思い至ったんだね。この問題を問題と捉える意識、このケースをケースとする設問が、そもそも見当違いなんだ。つまりね、1つの生命を奪うということは、いかなる状況であれ手段たり得ないと言うこと。
この思想にのっとるなら、勿論ぼくは100人の命を助ける手段が、手段たり得ないとして100人の命を見殺しにすることになる。そのなかには、ぼくよりも美しい詩をかき、世界をより正確な形で語ることのできるヒトがいるんだろうね。ぼくにそれだけの胆力があるのかは判らないけどさ、結局それが自然ということであり、ぼくたちはそのようにして正しく滅んでいくべきなんだよ。
【自死から導き出される集合的無意識】は、このようにミクロな場所やマクロな枠組みで、様々な学問の観点から、おおくの論争を巻き起こしたんだ。
それでもこの<自死>に対する心理的アプローチが定説とならなかったのには、単純に、ぼくたちの生活と照らし合わせて、実用的な手段で活用することが困難だったからという理由がある。
それに比べてヒトの願望が<自死>ののちに形として現れるという考え方ははるかに判りやすかった。<アナタがカップラーメンを食べるという夢は、アナタがカップラーメンを食べたいという願望を表している>といった夢診断と同じくらい受け入れやすかったんだ。
猫になりたいものは猫になり、
熊になりたいものは熊になる。
こんな具合にとても明瞭。
ただ、季節外れの夕立になりたいという願望は、いまでもずっと不明瞭でとても詩的なものだとぼくは思う。
こうして<自死>に対する心理的アプローチはその役目を一応のところ終えたのだけれど、ぼくたちが知りたかったのは<自死>の成り立ちではなく、そののちのぼくたちの振舞い方だった。だって死亡したものは棺にいれて想い出にしてしまえばいいけれど、<自死>したものはそうはいかないじゃない?
ぼくは姉を食肉目ネコ科ネコ属と大雑把に捉えるべきか、それともしっかり細分化してスコッティッシュフォールドと捉えるべきか、もしくは原点に立ち返って姉と捉えるべきか、迷い、困惑している。ヒトとして生まれ、猫になることを望み、スコッティッシュフォールドとなった姉が、何を欲望するのか、ぼくには判断がつかない。