その三
❹
街と【スクール】について語り終えたので、ぼくはぼくの生活について語ることになる。
❺
「ぼくは決して【失われた世界】の住人にはならないよ」
ぼくはガーリックの効いたサラダを口に運びながらそう言う。
閉店間際のバーは閑散としていている。閑古鳥も寂し気に鳴いてしまいそうである。エイジはすっかり酔っぱらい、ふやけた視線をコースターに当て「俺だって同じ気持ちさ」と呟いた。蚊の鳴くような声なのに、その低い呟きはしっかりとぼくの耳に届いた。
ぼくとエイジと大切な友人は、3人でつるんでいた。
性格や好きな食べ物、女性の好みまで違うタイプだったのに、こうして仲良くやってこられたことをぼくは不思議に思った。
大切な友人はぼくの疑問にこう答えた。「きっと価値観が似通っているんだよ。俺達は劣等生だし、3人とも末っ子だ。それに同じ年代に生まれた人間ならね、それがどんなにつまらない相手でも、それなりの関係にはなれるのさ」
エイジは「とどのつまりただの腐れ縁だろ」と笑っていた。
2つの意見のどちらが正しいのか、いまだその決着はついていない。一方の論者は凄惨な死体になったからだ。ぼくたち3人が2人となった現在でも、ぼくたち3人の交友関係は続いている。
「弘子さん俺、音楽が聴きたいよ」とエイジは言う。
「なんか、こう退廃的なものがいいな。路地裏の吐瀉物に浮かぶ月のような」
カウンターの向こうでカラマーゾフの兄弟を読んでいた弘子さんは、紙面を親の仇のように睨みつけたまま頷き裏へ引き下がった。もしかしてほんとうにドストエフスキーに親を殺されたことがあるのかもしれないね。ほどなくして店内にテレキャスターの荒々しいカッティッングが響き渡った。入り口から一番離れたボックス席でタンカレ―のロックを舐めていたサラリーマンは「AまたはBでないという状況は、AではないかつBではないという状況と同じ」と言って無機質なステンレス製の顔のまま店をあとにした。
「あれも【失われた世界】の住人だったんだな!」
エイジはサラリーマンの背中を指さしぼくに耳打ちする。
「当たり前だよ」とぼくは答える。「あの年齢の社会人が住人でなかったらね、それは、雨が天井へ向かって降りしきるくらい可笑しなことだもの」
「そして俺はその天上に降りしきる雨になりたがっている」
彼は眉間にしわを寄せてそう言った。エイジは深刻な顔をするとき、ギリシャ神話のようにたくましい顔立ちになる。そして深刻でないときは、どうしようもない存在になるんだ。アイスのはずれ棒のようにどうしようもない存在に。
「すいませんね、弘子さん。俺が音楽なんてリクエストしたばっかりに」
「構わないわよ」と弘子さんは手をふる。「坂口安吾の短編やジャン・コクトーの詩の良さが判らない連中を相手にしていても仕方がないじゃない」
「酒を飲みに来る連中の大概は、そういった種類の人間ですよ」優しさが堪えたのか、エイジは砂浜に打ち捨てられたビーチボールのように、すっかりしょんぼりとしてしまった。
「親殺しの犯人教えましょうか?」
ぼくがカラマーゾフの兄弟の核心を口にしようとすると、弘子さんは蛇のように目を細めそれを制した。
「ところで」と弘子さんは切りだす。「あなたたちが言う【失われた世界】というのは何?そういう言い回しが今の【スク―ル】で流行っているの?」
「そうですよ。これは【スクール】でできた造語です」とぼくは幾分得意げに言う。「音楽や詩にうつつをぬかさない完璧な人類である彼等の総称。もっと端的に言えば大人達ということになります」そしてぼくはもうすぐその大人達の仲間入りなのだと自嘲する。
「弘子さんは信じられますか?」とエイジはやにわに問いかけた。彼は本心を吐露するとき倒置法を多用する傾向にある。そういった会話の組み立て方がぼくは好きだな。倒置法は、ショートケーキの苺を最後まで残しておくときのように、特別な気持ちになれるから。
「何を?」
「何って、いつかは俺達も【失われた世界】の住人になるということですよ」
「そうね」と言って弘子さんは髪を耳にかける。そして耳の縁をなぞった指を口元にあてた。「考えもしなかったな。はじめて生理になったときと一緒で、物事が起こってしまってから大慌てしまうかも」
「俺達は真剣に話しているのに」
「あら、わたしだって真剣よ。問題はわたしの本性が極めて不誠実だというところにあるの」弘子さんはそんな哲学的なことを言って、ぼくのグラスにメロンリキュールと炭酸ジュースを注ぎ込む。
「こんな炭酸ジュースみたいな味のお酒飲めないよ」
「どんな味がいい?」
「バナナミルクみたいな味のお酒です」
「それなら素直にバナナミルクを頼みなさいな」
弘子さんは胸ポケットからラッキーストライクを取り出して火をつけた。たゆたう紫煙を、エイジは起き抜けの赤子のような顔をして見守る。
ぼくはメロンリキュールを口に含み音楽に耳をそばたてる。ぼくの大切な友人も音楽が好きだったことを思いだす。友人はこの街で唯一ロックスターになりえる可能性を秘めた人間だった。なぜならこの街に音楽家を志す人間なんて誰一人いなかったからだ。
かりかり、かりかり。
8分音符をベースとしたリズムに、別の音が飛び込んできた。
顔を上げると弘子さんと視線が合う。彼女は蛍火のような煙草の火先を灰皿に押し付けると、店の入口へ顎をしゃくる。
「誰だ?」エイジは後ろを振り向くのも億劫なのか、そうぼくに尋ねた。
「食肉目ネコ科ネコ属」とぼくは答えた。
「ミステリー作家だって、もっとましなヒントをだす」
「スコッティッシュフォールドよ」弘子さんもぼくを真似ておどけた。ぼくは何だか愉快な気持ちになる。余白に公式を残したフェルマーも、数々の数学者の奮闘をちょうどこんな気持ちで眺めていたのかもしれないね。
癇癪玉のような顔つきになったエイジをおもんばかり、弘子さんは戸口まで歩み寄るとドアノブをひねった。痺れを切らしたエイジが振り返ると、その視線は一匹の姉を捉えた。
姉は上流階級の気だるげな午後みたいに優雅な足取りで店内に入ると、四足歩行に勢いをつけて飛び上がり、ぼくの太腿の間にすっぽりと身を収めた。まるでそれが本来のぼくの形であるように、姉はすぐさまぼくの太腿に馴染んだ。
「御機嫌いかがですか?レディ」エイジが手櫛で毛並みを揃えてあげると、姉は喉を鳴らしてこう言った。
「いいかんじ」