メアリー・ホームズとその助手
探偵と怪盗。そんな夢の住人たちの存在がまだぼんやりと残る時代。19世紀末。
そこには産業革命のスモッグに紛れて怪物達が隠れていた。
驚異のスピードで発展する化学技術。機械に職を奪われていく恐怖。ルール改変の波。
人々は世紀末の雰囲気に言いようのない不安を抱えていた。
そう、彼らは敏感に感じ取っていたのである。
世界戦争の前触れが落とす、くらい影を。
1895年、イギリスのロンドン。今日は街全体がクリスマスの中にぎわっていた。
吐くと息は白い蒸気へと変わり、指先はかじかんで手袋をしてもまったく効果がなかった。家々のドアの前にはリース、内装にはツリー、屋根や道には雪がやむことなく飾られていっていた。
少年は買ってくることを命ぜられたケーキを両手で抱え、はやく家に帰りたいと思った。暖炉の前のあの暖かさが恋しい。帰ったらまず紅茶を入れて温まってからクリスマスの飾りつけを手伝いはじめよう。同居人は今頃きっと、部屋で鼻歌まじりにモールやリースを壁一面にくっつけているにちがいない。
そんなふうに考えて彼が少し足早になったとき、目の前の小道から、小柄な人影が大急ぎで飛び出してきた。
長い赤毛を後ろにまとめ、紺色の暖かそうなコートを着ている品の良さげな女性。頬は薄く上気し、息も荒い。
「うわっ」
飛び出してきた人影は雪にすべり、勢いに任せて顔面からつっぷしそうになった。が、ちょうど通りがかった少年に支えられ、間一髪のところ助かった。少年が抱えていたケーキは両者に挟まれ箱の中で無残な音を立てたが。
人影は「あ……」と声を出し、気まずそうに少年の顔を見た。内容物が箱の中から漏れ出し、路地にぼとりと落ちる。が、先も言った通り何か急ぐ理由があるのだろう、「ごめんなさい」といってすぐ街のほうへ立ち去っていってしまった。少年はそのまま呆然と乱入者の背中を見送っていた。
その後、
「このケーキ、3時間並んだのに……」
という少年の呟きは、降る雪の中に溶けて消えてしまった。
それから暗い表情で家に帰り、ドアノッカーを3回鳴らした。黒塗りのドアから出てきたのは能天気な同居人の姿。ケーキまみれのコートとつぶれた箱を見せたとたん、大笑いされたのは、言うまでもない。
______さて。
シャーロック・ホームズとは、世界的にも有名な私立諮問探偵である。今日でも彼の名前を知る人は多いだろう。その功績のおおくはワトスン博士の日記によく書かれている。
突然だが、彼にはひとり、七歳違いの兄がいた。
彼の名前はマイクロフト・ホームズ。作中でシャーロックは「活動的でさえあれば私より優れた探偵になれたであろう」と語る。面倒くさがりで何事も長続きしない性格の持ち主なのだが、頭脳だけはシャーロックをも超える天才だった。
さて。
またしても突然だが、兄マイクロフトには一人娘がいた。
シャーロック・ホームズの兄の娘、つまり姪にあたる彼女は1872年に産まれ、4歳から8歳の実に三年間半を叔父であるシャーロックと共に過ごした。
彼女の名前はメアリー。
メアリー・ホームズ。
風変わりな叔父と風変わりな父親に囲まれて育ったメアリーが一般家庭のいっぱしで普通の女の子になるはずはなく、彼女もやはり風変りに育った。
そして彼女もまた、ホームズ家の血を色濃く受け継いでいた。
ただ、ひとつ違っていたのは、「彼女がその技術と頭脳を使うときは必ず、推理という探偵業に限ったことではなかった」ということのみである。
「おーい、シャム。そこの緑のモール取って」
私が住居をおくのはロンドンのモンタギュー街だ。大英博物館とロンドン大学が目と鼻の先にあるこの位置は読書好きの人間にとっては有意義な場所である。
「あ。ケーキ買いに行ってるの、忘れてた」
このアパートはかれこれ4年ぐらい住んでいるだろうか、外観は温かみのあるレンガ造りの家。大きい出窓が二つと、小さい窓がひとつ。今は雪が積もって何も見えないが、天窓がひとつ。家内には安楽椅子と赤いカウチ。あと暖炉の上には私のお友達がひとり。
住み始めた当初と比べて、ずいぶんと私のコレクションも置いて住みやすくなったと思う。
そのアパートのドアが3回ほど鳴った。今宵は聖なる夜クリスマス。キリストにとっては誕生日。私にとってはごちそうとプレゼントの夜。
街のほうも盛大ににぎわっていた。
そんなめでたい日に誰が依頼を持ってこようか。いや、持って来まい。
きっとこれはもう一人の同居人が帰ってきた音に違いない。
メアリーはうきうきとした気持ちで想像した。
今なら全世界の人間にも優しくできるかもしれない。
シャムは多分ケーキを買いに長時間並んだろうから、凍えているに違いない。暖かく迎え入れてやろう。
そうして、モールを飾り付けていた手を休め、玄関へと迎えに行ってやる。
私は重いドアの金具を勢いよく引いた。
するとどうしたものか、彼はコートや手袋にケーキの残骸をくっつけて、ただひとこと
「ケーキ、つぶれました」
と不機嫌そうに言った。
膨れた頬と汚れた服。せっかく綺麗に使っていた黒いコートが今やケーキのクリームでコーティングされ、果てはイチゴの切れ端までトッピングしてある。
私は盛大に噴き出した。普段彼はこんな失敗をする人間ではないからいっそうおかしかった。
「ま、まぁ……クリスマスのロンドンは寒かっただろ?シャム、おかえり」
まだ笑いそうになるのを必死でこらえ、相方を中に招きいれてやる。しばらくしたら、また思い出して笑いそうだ。
シャムと呼ばれた少年は唇を尖らせ、目を合わせないようにしながら渋々「……ただいま」と言った。