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◇ ◇ ◇
ビニールテープで窓ガラスを補強する慎の手は、たくさんのかき傷ができていた。
今晩のところはこれでよし。
物騒な割れ目からは、ぴーぷーと風が吹き込む。
「ガラス屋さんに電話しておきました」
慎の背に向かって房江は言う。
「今日はもう遅いですから、明日、早い時間帯に来てくれるそうです」
「政は」
「もうやすみました。あの子、宿題片付けたのかしら。お父さんがいるとはしゃいでしまって。男の子はなんだかんだ言っても男親が好きなのね」
暗に、普段自宅を空ける自分を責めている。
「明日はお帰りにならないのでしょう?」
「……いや、明日もここにいる」
「まあ、どうしてです?」と房江は首を傾げた。
「その……」
「はい」
「いないのだ」
「どなたが?」
房江の声が弾んで聞こえる。
わかっていて言わせるのか!
1,2,3。心の中で数字を数える。
15ぐらいまで数えてから、慎は言った。
「今、旅行にでかけている」
「まあ! 学校がありますでしょう。ああ、お休みに入ってるんですね。いいご身分ですこと!」
そんなわけがない。
学年は違うが、異母兄弟は同じ学校に通っている。
房江はわかっていて言っている。ちくちくと、針であちこちを刺すように。
「とにかくだ。帰ってくるまではここにいる」
「いつお帰りで?」
慎は沈黙を答えに替えた。
「いいんですけど。いつあちらへ戻るのか、事前に教えてくださいね。お買い物に困りますから」
この家での私の存在価値は、晩ご飯のおかずの量を決める指標程度なのか!
わかっているとも、自業自得なのだろう、これも!
慎はがくりと肩を落とした。
「そうそう、忘れてました」房江はぽんと手を叩いた。
「あなた宛に忘れ物を届けに来られた方がいたんです」
また忘れ物か!
はい、どうぞ、と差し出されたものは、白いメリヤス地の男性用下着だった。
慎は飛び退いた。
またパンツ!
だだっ広い居間の真ん中で、白いパンツを境にして妻と夫は対峙する。
「何慌てているんです? 今回は洗っておきましたから、どうぞお持ち帰り下さいな」
「おおお、お持ち帰りって……」
ぱくぱくと息を吐いて吸ってをくりかえし、慎は言う。
「これがなにかわかって言っているのか」
「ええ、もちろん。男ものの下着ですわね。政さんには大きすぎますから、あなたのでしょう?」
「違うぞ!」ムキになって大声を上げた。
「あら、そうなんですか?」
手を口に当てて驚いた仕草がわざとらしい房江は言う。
「私はてっきり、あなたがあちらのご自宅で履かれているものだとばかり」
正妻と愛人の間を行き来する一人の男を巡り、女達は暗黙のルールを作った。
素肌に身につける衣類、つまり、下着はそれぞれの家で用意し、手入れをする。お互いの家に持ち込ませないというもの。この『ルール』のおかげで、慎は外出先で、あるいは職場のトイレで、わざわざ下着を履き替えてからでなければそれぞれの家の敷居をまたげなかった。
「良く見ろ! お前は自分の夫の下着がわからないのか!」
ばんばんと、座卓を叩いて言う。
「もちろん、私が用意したものでしたら。でも、わからないのもありますから」
ここで言葉を飲んで黙るわけにはいかない。
「何故、これがここにある」
「届けに来た方がいると言ったじゃありませんか」
「誰だ!」
「女の方でした」
「女……」
「ええ。ご丁寧にありがとうございます、とお礼申し上げておきました」
コツンと、何かが落ちる音がする。
振り返ると、でっかいカナブンが落ち、畳の上をかさかさ這い回っていた。
静かだ、静かすぎて何ともイヤな空気が漂う。
虫が落ちる音すらわかるくらい、空気が澄んでいる。
「わ、私のじゃないぞ!」
負け犬程先に吠えるもの。慎は最初から負けている。
「まあ、よろしいでしょう。どっちでも私には関係ないことですから」
「どっちとは、どういうことだ」
「あなたが余所で何をしようと、されようと、ということです」
静かに答える、こんな時の妻は本当は恐ろしい。
見えない般若の面を被っているから。
「大方、あちらの方にも同じようなお届け物があるかもしれませんから、今後は気をつけることですね」
夫の表情が、くしゃっと紙を丸めてぽいしたように歪んだのを見て見ぬフリして房江は続けた。
「もしかしたら、初めてだったのかしら。あのメスブタ」と慎には聞こえないように小声で付け加えて。
「初めてとは何を。房江、何度もあったことなのか?」
「まあ、じゃ、あちらにも同じお届け物があったのですね? まあ、お気の毒に」
鈴振るように軽やかに彼女は言う。
「だって、我が家にはよくいらっしゃいますよ。忘れ物と称してあなたに会いにくる女性」
「は」
「もちろん、学生さんが起こしになることもありますよ? でも、あなたは実際のところ何人女性を囲っているんだかわかりませんから。中には直截な物言いをする方もいますからね。政さんに聞かれないようにするのも大変。あなたのような男性を相手にすると、女は皆、苦労するわ」
「たとえば」
「あら、知りたいんですか?」
「いや、いい」
聞きたくない。
「ひとつ聞いていいか」
「はい? どうぞ」
「何故、これが私のだと思った」
「自分が用意したものはわかります」
「さっきも聞いた。しかし、似たものなら……いや、まったく同じのだってあるだろう」
事実、夫婦の間におかれているものは、慎が愛用しているメーカーだった。もちろん、この家にも何枚かあるはずだ。
「ですから、わかるんです」
「何故だ」
ほほほと形の良い唇に笑みを浮かべて房江は言う。
「あなたこそ、どうして気付かないのかしら」
まさか。
慎は手洗いに直行し、ズボンを脱いで今自分が履いている下着をチェックした。
商品のタグに、手書きのマークがあった。丸の中に英字のSがちょこんと。クリーニング店が識別用につける印のような感じでついていた。
「こういうのは止めろ」
慎は手洗いから、着る物もとりあえず出てきて言う。
「こういうのとは、どういうことです?」
「だから、印は止めろ」
「じゃ、お名前にしておきますか? 尾上慎と、墨書きで」
「止めろ」
「政さんのお習字の練習にもなりますから。あの子にお願いしようかしら」
「よせ! 大の大人が、名前入り下着なぞ履けるか!」
「どうしてです?」
「恥ずかしいからだ!」
「あら。でも、そもそも誰に見せるんです。あなたには自分の名入り下着を見せて恥ずかしいお相手が他にいらっしゃるとでも?」
撃沈だった。
心のどこかに負い目がある者は、頼んでいないのに自分からボロを出す。慎は、愛人には平気で虚勢を張るが、正妻の前では牙を抜かれた虎になる。その晩、慎は妻に、過去数年の悪行、つまり女遊びについての逐一を暴露させられた。女の記憶は恐ろしく正確で隠せない。
終いには、「ごめんなさい」と自分の方から謝っていたのだった。