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その日の朝、尾上慎の目覚めは最悪だった。
ぴちゅぴちゅとスズメが鳴く庭先には、小春日和を思わせる陽の光がさしかかり、平和を絵に描いたような休日の到来を告げている。
布団の上で胡座を組んで、慎は頭を二度三度振った。
痛い。
振るのではなかった、頭痛ががんがんと彼を襲う。
ううう、と、ついうなり声が出る。
昨晩のことはよく覚えていない彼は、私立大学の教授を生業としている。
時は師走。同業者同士の会合に出席し、気の置けない者も、そうでない者も雑多に集まった。その後の歓談会では場所を移した。年末も近い。少し早めの忘年会だ。出席者は皆社会的にはそれなりの地位についている。が、酒が入るとどこまで紳士然たりえるか怪しい。一次会が二次会、三次会となり、いい歳しながら学生のようなノリで店をはしごした。
呂律や足元が危ない者が続出する中、平然としているのは、大学の同期で、職場の同僚でもある武幸宏教授だ。
彼の胃袋はアルコールというアルコールを消化吸収できないのではないかと疑いたくなるくらい酒にめっぽう強く、平気で鯨飲する。飲んでも飲まなくても陽気でパワフルだ。彼と一緒に飲む者は例外なく潰れる。だから彼と酒席を共にする者は相当気をつけなくてはいけない。
慎も長年の付き合いで良く知っているからその辺りの対処には長けているはずなのだが、難しい発表を済ませた彼は、無事完遂できた開放感も手伝って普段より飲んでしまった。武のペースにあわせてはいけないのは重々承知していながら、いろいろと羽目を外した。
記憶がすっぽ抜けるぐらいに。
朝、家を出る時、家人と約束をした。
いい? 慎さん。
今日は慎一郎の誕生日よ。
集まりがあるのはわかってます。
でも、できることなら早く帰ってあげて。
無茶を言うなと笑って応じた。
「会合の後に忘年会を兼ねた懇親会が入っている。どちらも中座はできないよ。君も大人の付き合いは理解してくれているだろう」
「ええ、もちろん。無茶なお願いなのは承知してます」と彼女、茉莉花は応じる。
「でもね、わかってて言うの。私が物わかりがいい女じゃないのは、慎さんが良くご存知でしょう?」
確かに。
慎は、彼女とは何十・何百と約束をし、ことごとくを満足に守った試しがない。
その都度許してくれた茉莉花だからと、今回も甘く考えた。
もちろん、家には連絡は入れた。やはり遅くなると。彼女はわかったと言ってくれたではないか。立派な免罪符をもらったようなものだ。
さあ次、もう1軒! と店を変えていく武達に付き合い続け、結局その日のうちには中座できず、午前様となっていたところまでは覚えていたが、以降の記憶は途切れている。
へべれけになった慎を「仕方がないわね」と茉莉花は出迎えた……と思われた。
帰宅してからの時間は、延べにしておそらく数時間程度だ、満足に睡眠が取れているとは言えない。
しかし、外はスズメがちゅんちゅんとうるさく、陽射しはまぶしく彼の目を貫く。
それもそのはず、彼が寝ていたのは、寝室ではなく客間。陽当たりが恐ろしく良い部屋で、ご丁寧に太陽光が燦々と降り注ぐよう、カーテンも雨戸も閉めないで開け放たれたままだった。
茉莉花め。怒っているな。
ゆるゆると起き上がった彼は廊下を歩いた。
ふわふわと彼の元に漂ってきた、鼻孔をくすぐる味噌汁の匂いに腹が鳴って仕方がなかったからだった。
「おはよう」
「ね、言った通りでしょう?」
暖簾をかき分けて食堂に入った彼を、茉莉花は横目で見て、息子・慎一郎に言った。
「本当だー」と慎一郎も母親に目配せする。
「何の話だ」二日酔いの頭痛が収まらないので、小声になった。
「お父さんを起こしに行くんだってきかないんですもの。大丈夫よ、自分から起きてここへ座るから待ってなさいって言いつけていたの。どう? ゆっくり眠れまして?」
イヤミか。
「君のおかげで素晴らしい朝を迎えられたよ」と答えるしかない。
「どういたしまして」にっこりと微笑む彼女の笑顔は素晴らしいが、その影に隠れた棘が怖い。
何が隠されているのやら。
椅子を引いた慎は、息子に言った。
「昨日は悪かった。1日遅れだが、誕生日おめでとう」
ううん、と慎一郎は首を振って言った。
「それより、お父さん、ありがとうー!」
慎の目の前に掲げられたのは一冊の分厚い本だ。「まあ、ここまで持ってきて!」と茉莉花は呆れ声だ。
「お食事の時は本はお部屋に置いてきなさいといつも言っているでしょう?」
母のお小言などまったく耳に入らない子供は嬉々とした表情を浮かべている。
「これ、欲しかったんだ」
本のタイトルは『海洋生物図鑑』。まったく子供向けではない書籍だ。男の子にはよくあるように、慎一郎は物語よりは図鑑を読むのがとにかく好きで、植物よりは動物を好み、その中でも海洋動物がお気に入りだった。
「気に入ったか」
「うん!」
「もう、慎さんは子供には甘いんだから。子供には贅沢すぎます」
よく言う。
慎は椀を口に運びながら心の中でつぶやく。
君は、お出かけと称して息子と一緒にあちこち放浪しまくっているじゃないか。
最近では平気で本州を脱出している。
私など可愛いもんだ。
「今日の味噌汁も美味いな」
「はぐらかさないで下さいな」
茉莉花が言葉を続けようとした時だった。
ぴんぽーん
インターフォンが来訪者を告げる。
「こんなに朝早くに。どなたかしら」
手を拭きながら玄関先へ向かった茉莉花は、知り合いではないみたいなのに、なかなか戻ってこない。誰と話していたのかは台所までは伝わってこない。
少し長すぎないか?
慎が玄関先を伺った時、茉莉花が戻ってきた。
その表情は穏やかで、形の良い眉は三日月のよう。口角が上がると花がほころぶような笑顔が浮かぶ。
これは、……危険信号だ。
慎は先程から続いていた頭痛が自己主張しなくなっているのに気付いた。
茉莉花は怒っている時ほど顔に感情が乗りにくい。心からの笑顔と怒っている時に浮かぶ笑顔は、他人から見ると区別が着かないが、長い付き合いの中で慎はそのわずかな違いをかぎ分けられるようになった。
危険な香りを孕む時は、嵐が過ぎ去るのを待つが如く彼女に接しなければならない。しかし、今回は原因に思い当たる節がない。
何があった?
慎は彼女を伺うような仕草をする。
にっこり笑う茉莉花は、慎を飛び越して息子を見た。
「慎一郎君」
「なあに、お母さん」
「あなた、見たいって言ってたでしょ」
「なにを」
「その本に載ってる……そう、白と黒がパンダみたいになってるお魚」
「魚じゃないようー、ほ乳類だようー」息子は唇を尖らせる。
「どっちでもいいじゃないの。海泳いでるものはお魚でいいの」
「どっちでも良くないよ。これのこと?」
慎一郎は分厚い本を瞬時に開いて見せた。
「そうそう、それ」
つられて見た慎の目には、水生生物の図像が見えた。
パンダというより黒の部分が多く、白は目の周りは口元、お腹のところが少しだけ。
「シャチだろう」慎はあっさり名前を口にする。
「そう、シャチ!」息子は言う。
「そうね、シャチ」茉莉花も同意した。
「慎一郎君、見に行きましょうか」
「なにを」
「だからシャチを」
「え、ホント!」
「は?」
息子と父は同時に声を上げる。
「本当よ。お母さんからのお誕生日プレゼント。慎一郎君にまだ上げてなかったものね。どう? 行きたい?」
「行きたーい!」
「じゃ、決まりね。早く仕度してらっしゃい」
はーいとも、わーいとも取れる歓声を上げて、慎一郎は椅子から飛び降りた。
「そういうことですので。お留守番宜しくおねがいしますわ」
「え」
「戸締まりと、そうそう、火の元には注意して下さいね。慎さん抜けてるから」
「え」
「慎一郎の学校の先生へも連絡お願いしますわ」
「え。何で」
「いやですわ、今日は学校がある日ですもの」
確かに。
今日は平日で普通の小学生は学校で勉学にいそしむものだ。
学校は違えど、教員をしている自分に、ずる休み届けを出せというのか?
「休ませてはダメだろう」
「どこをです?」
「だから、学校をだね」
エプロンを外してくるくると巻きながら、「そうそう」と一旦巻いたエプロンを開いた茉莉花は、ポケットから布を取り出す。
「これ、忘れ物ですって」
「私のか?」
「ええ。わざわざ届けて下さったの。ホントに慎さんって忘れんぼ! もう一生治らないわ。相手の方にちゃんとお礼申し上げておいてね」
食卓の端に置かれたそれは、真っ白いメリヤスの、成人男性用下着だった。
何だこれは!
ちょっと待て!
慎が呼び止める間もなく、母子は嬉々として家を出た。行ってきまーすと陽気に、近場のお出かけにしては多すぎる荷物を抱えて。
玄関先にはメモ書きが、いつの間に書いたのやら、茉莉花の字で、1枚が添えられていた。
探さないで下さい
慎は呆然と立ち尽くす。
二日酔いの頭痛はすでになく、食卓の味噌汁はまだ冷めていなかった。