6 領主様の婚約者にまつわるあれやこれや
畑を越え街を越え、一つの山をも越えて、ハルファッファ領から遠く、南方に位置するのは王都ホルンである。
山際に沿うように聳え立つホルン城は、冷え冷えとした石の頑強さを湛えた黒城である。
堅牢な城壁が取り囲み、中央に尖塔が突き抜け、それを囲むようにやや低めの尖塔が四方に建つ。それらの尖塔を繋ぐように建物が連なる。大きい建物、小さい建物、様々な塔など、無秩序に建てられて集約されているように見えるが、素朴であるのに関わらず、ホルン城には壮麗な建築美があるといわれている。
黒城は山と土地の起伏をすべて計算しつくした上で建てられている。
尖塔が天を貫き、起伏の多い、無秩序なその城はなだらかに山と一体化し、大きな黒い獣のように見える。
一つの森と草原を有する広大な敷地を抱え、王都の中心を為すその城は、かつて多くの小国を掌握し、統一した王の居城として、また政治の中心地として、相応しい威容を備えている。
凍てつく冬は白雪を背景に、黒いホルン城は佇む。
すべてが凍りつき、時を止めたような城の景色は、圧倒的な威圧感があった。
しかし、人々が家にこもり、肩を寄せ合い、雪に囲まれた季節が過ぎ去ると、山頂の雪解け水が一筋の川を作り、ホルン城に巡らされた水路に新しい水が流れ始める。
この頃、ホルン王国各地の川も増水し、人々は本格的に動き始める。
春祭りのために、各地で王都に持ち寄る品を大量に用意し始める。
王都はやがて賑わう。ホルン各地からの商品が溢れかえり、道には花が飾られる。メインの通りには市が立ち、舞台が設えられ、歌い子や劇団がそこに立つ。
そして、長い冬を越し、力を蓄えた人々にとって、春の最も大切な行事が待っている。
王都市街の東端に位置する円形ドームは、活気付いたもしくは殺気立った剣士たちが集まり、最も熱い季節を迎える。
―――ホルン王国の春がやって来た。
ガキィンッ!
剣と剣が合わさる硬質な高音が会場内に響き、観衆がどよめいた。
剣闘会五日目。
円形ドームの客席は満員御礼である。
ドーム一階席を与えられた、この剣闘会で既に敗れて観客となっている剣士からも関心の目が注がれるのは、これが最終戦だからだ。
今年の剣闘会は大番狂わせだ。
アリーナの中心では剣士が闘っていた。
黒い岩壁のように立ち、大剣を振るう王。
そして、薙ぎ払われそうになりながら必死に食い下がろうとする細身のブラウンの髪の青年。
ホルン王国王都ホルンで、春祭りと共に開催される剣闘会は、この国の華といえる。
各地から腕に自信のある者たちが集まり、五日間に渡りトーナメント戦が行われる。
王都はこの期間、貴賤問わず、最も人の出入りが多くなる。
市場は開かれ、縁日が続き、強い者が尊ばれる。
武勇を誉れとするホルン王国にとって、重要な祭りなのだ。
五日目の最終試合に行われるのは、王族・騎士の部を勝ち上がった者と、一般の部から勝ち上がった者の闘いである。
王族・騎士の部では、現王であるシャイン王が勝ち上がった。もうすぐ五十に届こうかという齢に関わらず、その覇気と体力は物凄い。というか、毎年シャイン王が勝ち上がっているので、誰にとっても予想通りだった。
大番狂わせは一般の部に出場した、ハルファッファ領領主、ハウプト・ウィクリカイトである。
昨年春に行方不明になったハルファッファの領主が、常連でもないのに、まさか剣闘会に出場するとは思われていなかった。
謀略によって殺害されそうだったと発覚し、中央政府の高官クロッサ・ライトネルによって事件は落着したと伝わっている。無事が確認された直後、春祭りの剣闘会に参加表明をしたので、多くの人々が首を傾げたのも、無理もなかった。剣闘会に出場したのは過去に王都で学院に通っていた頃に一度だけ、しかも一回戦敗退。王都にやって来ることすら、滅多にないご仁だ。
一般の部は、王族・騎士の部とは違って、各地方の領主、町人、商売人、農民、外国人まで出場できる広い枠で、勝ち残るのは剣術を身につけるのが当たり前な領主や地主、政府の高官といった権力者の立場にいる者たちが大体だが、戦場を渡り歩いた傭兵もいるし、時にめちゃくちゃな闘い方をする出場者もいる。言ってしまえば、下手に出場すれば死ぬのが一般の部だ。
事件から生還したばかり。
上流階級での評判は「穏やかで堅実な領主」。
その細腕で一体どうして剣闘会を勝ち上がれよう。
ほとんど実力的には無視され、身の程知らずの田舎領主をみる冷たい目線の中に、ハルファッファの領主は現れた。
ハウプト・ウィクリカイトは、王都で学んだ少年期よりずっと精悍さを増した青年だったけれど、その闘いぶりは、素晴らしいとまではいえなかった。
しかし、技としての剣術を主流としている剣士が多い中、ハウプトは体勢を崩しながらも剣を振り、すぐさま突きを繰り出し、膝をついてもなお諦めない泥臭い闘い方で勝ち上がっていき、人々を驚かせた。
特に人々を驚嘆せしめたのは王弟ガウスとの対戦だ。
トーナメントに当てられた戦闘狂の傭兵たちを悉く下して勝ち上がったガウス殿下は剣闘会の常連である。
何故王族・騎士の部から出場しないかというと、殿下が気まぐれで「いつもと違った味を体験したい」と一般の部に出場を勝手に決めてしまったからである。
王族・騎士の部の者たちがほっとし、一般の部の出場者が震え上がったのはトーナメント発表の後のこと。
文人風の優男に見えるガウス殿下は、藍色がかった黒髪に氷の青の瞳をした美麗なる男である。
普段は王立図書館館長として図書館に引きこもっている。
ただ、その凶暴さと狂気じみた闘いぶりは毎年の剣闘会で知られて悪名高い。
ガウス殿下は背が高い。
彼は、会場に現れるとき、いつも自分の背丈の一・五倍はあるつるつるした鉄球を、鎖で引きずってくる。
その鎖の先には短剣が取り付けられている。それによって、一応その武器は剣闘会において『鉄球付の剣』ということになっている。
剣を構える相手に、ガウス殿下は鎖で鉄球を振り回し、投げつける。
普段のガウス殿下のイメージを壊したくなかったら、この時の殿下の表情はあまり見ない方が良いだろう。
肉食動物のように目を光らせてにやりと笑う姿は、朗らかで飄々とした優男とは想像もつかないものだ。
彼は容赦なく、細身から信じられないほどの剛腕で巨大な鉄球を振り回し、襲いかかる。
会場の壁を破壊し、地面に亀裂を走らせてまでも鉄球を投げてくる殿下に、対戦相手は恐怖に駆られて五分もかからないうちに音を上げる。
命知らずの傭兵でも、ガウス殿下に剣が届かず、挙句に剣を粉々に砕かれて降参する。
勝ち上がったハウプトは、トーナメントの都合でガウスと対戦せざるを得なかった。
否が応でも、この対決に注目が集まった。
そして、当日。ハウプトは重たい剣を選び、会場に参上した。
殿下はいつも通りの鉄球である。
ハウプトとしては、いくらガウスが怖いといっても、過去に何回も負けているので、恐ろしい相手ではあるが、倒せないわけではないと考えていた。
殿下に勝った剣士がどんな方法を使ったのか情報を集め、対策を練っていたのである。
戦闘開始と同時に、ニヤリと笑んだ殿下は、ハウプトに鉄球を浴びせた。
ハウプトはアリーナ内を走り回って、鎖を使って縦横に鉄球を操る殿下を左右に揺さぶった。
すれすれのところで避けながら、チャンスを待つ。
鉄球が会場の壁に当たってのめり込むのを見た瞬間、ハウプトはブラウンの髪を靡かせ、駆けた。
それまで観察してきた中で一番負担が大きい、鎖の磨滅している部分を狙い定めた。
剣を思い切り振り降ろし、叩き壊すように、切断した。
静まり返った会場で、息を切らしたハウプトが剣を構える。
ハウプトの様子を眺めていたガウス殿下は、柔和な笑みを浮かべて言った。
「なるほど。考えたね」
そして鎖の千切れた、使い物にならない短剣を捨てた。
「降参しよう」
それは剣闘会四日目。
春祭り一番の歓声が王都に轟いたときだった。
こうした剣闘会での雄姿によって、俄かにハウプト・ウィクリカイトの名声は上がった。
貴公子然とした優雅さを持つ青年の、力の限り闘う姿は、人々に感動を湧き起こし、凶暴でほぼ反則な王弟殿下を下したことでより一層株を上げた。
そして、五日目。
遂にハウプトは最終決戦、国王の対戦する日を迎えた。
国王の剣の重たい衝撃を受けながら、ハウプトはくたくたの体に喝を入れながら応戦した。
やはり、強かった。
王族・騎士の部は、もともと洗練された剣士が集まっているトーナメントである。国王だろうと最初から勝ち上がって行くのが毎年の習わしだ。
なのに、この重たさ。体力。覇気。
一般の部から勝ち上がって、既に疲労でボロボロのハウプトにとって、国王との対戦は堪えた。
各戦闘といい、ガウス殿下といい、如何に勝つか、そのために頭を使い、慣れない剣闘に自身を奮い立たせて、神経も擦り減らされている。
金属音を響かせて、ハウプトの剣はまともに国王の剣を受ける。
両手に、両腕に全体重をかけて、ハウプトが押し返そうとすると、国王がおもしろそうな顔をしてハウプトを見下ろした。
どうあろうと、ハウプトは国王に全力で向かい合う。
国王は真剣に戦いに挑んだ者を称賛するのだ。
国王の偉容は、黒い岩壁の如き厳めしさと、迫力にある。
藍色がかった黒髪に、怜悧な氷の凍てついた青い瞳。皺の刻まれた顔は男らしい麗しさをもつ。
一切の慈悲なき冷徹な表情は、ハウプトを畏怖させる。
約百年前、ホルン王国を統一し、武王といわれたレイファの子孫である、という事実が脳裏によぎる。
熱した闘いに、会場の歓声すら耳に入ってこない。ひたすらに、剣を合せる。
それでも、一筋の思いは脳裏にしっかりこびりついている。
―――陛下に最良のお言葉を頂くにはどうしたらいいか。
思い描くのは、藍色のマントの彼女を迎えに行く自分だ。
白熱するドームの、貴族やら、一般人やら、傭兵やら、騎士やらの、剣士たちが居並ぶ一階の席。
その続きに、貴賓席がある。
華やかなその一画は、令嬢たちの区画だ。
ドレスに身を包んだ令嬢たちは色とりどりの扇子を煽ぎ、お話をしながら観戦している。専ら、現在戦っている殿方、ハウプトが話題になっている。
涼やかで優しげな方、でもあれほど粘り強く陛下に食いついていくなんて、人は見かけによらないものね、私胸がときめきますわ。
笑いさざめく席で、一人、会話にも加わらず、ひたすら闘う剣士を見つめる令嬢がいた。
栗色の豊かな髪を結い上げ、ぱっちりとした目、瞳は青い。慎ましやかな可愛らしさを持つ見た目だ。
少女と女の中間に位置するであろうその令嬢は、ハウプトを目で追って、ほう、と溜め息を吐いた。
「素敵だわ、ハウプト様」
「遠目で見えないけれども、空を映した泉のせせらぎのような色の瞳なんですって」
「聞いたことがあります?ハルファッファのご領主、王都に滞在されていた頃はとても女性に好かれたそうよ」
「お優しいから、些細なことでも令嬢がのぼせ上がるとか」
「旅行先にまで女性が追い駆けて行って、大変なことにもなったらしいわよ」
小耳に挟んだ話に、令嬢は、いいえ、と強く心の中で否定した。
あの方の心を射止めるのは私よ。
そうしたら、もう他の女にはそんな厚顔なことをさせない。
お父様に、あの方との縁談を申し込んで頂きましょう。
恋をした栗色の髪の令嬢は、頬を染めて、未だ闘うブラウンの髪の貴公子を眺める。
貴賓席に続くのは、来賓席である。
海外からのお客を含め、国内で特別に招待された者などが座る。民族衣装や格式張った格好の、比較的落ち着いた佇まいの人々が観戦している。
王と挑戦者の闘いを見ていた来賓の一人が、ひょこひょこと目の前を横切る金色のツインテールにふと気付き、思わず微笑んだ。
来賓席の間を早歩きする小さな金髪の少女は、試合には目もくれず、一心に王族席を目指している。来賓席の人々はその姿を認め、一様に目尻を下げた。
柔らかな金髪をツインテールにした少女は、空色の瞳を持った愛らしい容貌だった。ピンクのレースがたくさんあしらってあるドレスを纏い、溌剌として足を進める。
目指すは王族席にいらっしゃる、あの方。
来賓席の人々も、それを知っているから、彼女を咎めないのである。
紫色の生地に美しい刺繍模様が入っている紗幕に囲まれた王族席。
真ん中には、ホルン王国王妃、トゥーイムが座っている。
赤毛を緩やかに結い上げ、猫目石のような瞳がチャーミングに輝く。
口元はヴェールで覆い、王妃としての威厳と愛らしさを持ったホルンの国母は、異民族の国サウラ=フィフィールから嫁いだ賢き王女だ。
小麦色の肌をしたこの高貴な方は、天真爛漫な微笑みを浮かべ、試合の成行きを見守っていた。
「あの方も年なのではないかと毎年思うけれど、やるわねぇ」
話しかけられたのは隣に座る王太子、フロウである。
彼は不満げに溜め息を吐いた。
藍色がかった黒髪は、父のもの。
猫目石の瞳と小麦色の肌は、母のもの。
顔立ちは怜悧で厳めしい美貌を持つ国王の若き頃にそっくりといわれている。慧眼、人心掌握術の才があり、獣のように美しい青年と次期王の評価は高い。
彼は王族・騎士の部に出場していたが、前日に国王たる父と対戦して負けた。善戦したものの悔しい結果である。
おまけに、おもしろくないことに、国王の刃に当たって腕に怪我をしてしまった。
剣闘会で真剣を用いるのにはそれなりの理由がある。実践を鑑みて剣闘会を実施する伝統と、技の競い合い。刃が当たるスレスレのところで、剣を止める。剣を避ける。こうした応酬で、完璧に剣を制御する研鑽を積むのが、この剣闘会なのだ。
剣に当たってしまったのは、あまり名誉なことではない。怪我は負けた者の落ち度となる。
「貴方ももう十七、もっと強くおなりなさいな。陛下がお強いのは分かりますけれど、もう引退させてあげてもいいのではない?」
「分かっておりますよ、母上」
やれやれ、五月蠅い母上だ。
ふてくされて王太子が椅子の背もたれに沈み込む。
と、ひょこひょこと早足でやってきたピンク色のドレスが、目的の人物を見つけて目を輝かせた。
おや、とフロウが体を起こすと、金髪の美少女は頬を染めて駆け寄ろうとした。
「おうたいしさま!」
嬉しそうに近寄り、しかし少女は「いけない」という表情をして、王太子の前に一歩下がって、スカートの端を持ち上げて礼をとった。
「ごきげんいかがでございますか」
フロウは優しい声を掛けた。
「ロティ、わたしを見つけに来てくれたのかい」
さきほどまで見せていたふてくされ顔は何処へやったか、蕩けそうな笑顔を少女に向け、ひょいっと抱き上げて自分の膝の上に下ろす。
周囲に控える側近や侍従にそれを咎める者はいない。いつものことなのだ。
ロティと呼ばれた少女は嬉しげに微笑み、フロウに問う。
「きのう、おうたいしさまがケガをされたのだときいて・・・だいじょうぶなのですか?」
たどたどしいホルン語で訊ねるロティに、フロウは硬質な猫目石の瞳に優しい光を灯して、ロティの頬を撫でた。
「ああ、この通り、大丈夫だ。ありがとう、ロティ、心配してくれて」
ロティは目をキラキラさせて、きゅっとフロウの首に抱きついた。
フロウはすっかりご満悦で、少女を抱えている。ロティは無意識にか、フロウの少し長めの髪をいじりはじめた。彼は咎めず、そのままにさせている。ロティが自分の髪の毛を気に入っているがために、彼は髪の毛を伸ばしているのだ。
フロウの隣で愛らしい少女を眺め、微笑んでいたトゥーイム王妃は、笑顔のまま王太子の耳元にボソッと囁いた。
「いたいけな姫様に無体なことをしたら串刺しにしますからね」
「母上、息子に何を言うんですか」
トゥーイム王妃とフロウ王太子は微笑んだまま睨み合い、王太子の膝の上の姫君はすっかり安心して自分の居場所を占拠する。
暫く睨み合った二人は、やがてそっくりな猫目石の瞳を国王の対決に向けた。
ガキィィィン!
ひときわ鋭い音が、会場内に突き上がり、余韻を残した。
ハウプトと王の間から、銀色の線がキラキラと光って、吹っ飛ぶ。
国王が大剣でハウプトの剣を叩き壊したのだ。
おお、とどよめきが湧く。
ハウプトは内心真っ青になりながら、剣の刃がくるくると宙を舞い、アリーナの土の地面にぐさりと刺さるのを眺めた。
大剣を構える国王の岩壁が立ちはだかるような威圧感。
ここが引きどころか。
ハウプトは国王の前に膝をついた。
「参りました」
ドームに割れんばかりの歓声と拍手が湧き起った。
今年も国王陛下の圧倒的な勝利だ。
くたくたで体に力も入らない。
膝をついて体を支えているのも精一杯だ。
それなのに、国王は息も切らさず、しっかりと立ってその凍てついた氷の青の瞳でハウプトを見下ろしている。
本当に、なんてお方だ。
感嘆とも畏怖ともつかない心地でそう思っていると、シャイン国王の低い声が発せられた。
「よくここまで闘った。昨今、技に磨きをかける者が多い中、勝利にこだわり闘う姿、見事であった」
波が広がっていくように、会場内は静まり、国王の声はどこまでも行き渡る。
ハウプトはよかった、と胸の内で今日までの日々を思い出した。
ワイエン・ヤードに頼み込んで剣闘会の対策を練った甲斐があった。
一般の部で脅威となる傭兵はハウプトの姿にただの身分の高い若者だと思って油断する。そこを突く。
他領の領主の息子や、若い高官はいわば自分に目を留める結婚相手を探して出場するので『技を見せる』剣術を使う。それならば、どんな手を使ってでも勝ち抜く方法を徹底的に研究し、膝をついてでも剣を振るえば、勝機はある。
ワイエンと試合を幾度となく行ったが、サーコイで薪割りをして足腰を鍛えたのが随分役に立ったらしい。薪割りは基本的な筋力をつけるのに有効的なので、王都の騎士養成所でも行っている。燃料補給と新人育成に一石二鳥、ハウプトも王都で勉強していた頃に義務で騎士養成所に入った。
記憶を取り戻して殺気立っていたのと・・・ワイエンに叩きのめされたからだと思うが、意外とすぐに剣筋を思い出したのも僥倖だった。
様々な対策と鍛錬が功を奏し、
「ハウプト・ウィクリカイト。ここまで勝ち残った褒美に、余が叶え得る限りの願いを叶えよう」
ハウプトは国王からこの言葉を引き出すことに成功した。
全ては国王からこの言葉を引き出すためだった。
ハウプトは国王の偉容を見上げ、高らかに声を上げた。
「では、恐れながら申し上げます」
騎士ほど精鋭ではないものの、ごった煮のような一般の部で勝ち上がった者に対する、国王のねぎらい。
勿論成績上位者には他にも褒美が与えられる者はいる。
だが、本人の意見を反映するこの機会は特別なものだった。
ハウプトは自分が思うより、大きな声でその望みを発言した。
「私の結婚したい女性を、国王陛下から認めて頂きたいのでございます」
ざわっ、と会場内の空気が震えた。
思ってもみない要望に、皆戸惑っている。
シャイン国王が片手を挙げると、会場がしんと静まり返った。
「余、直々ということか。そこにはどのような事情がある」
ハウプトは緊張で喉をカラカラにしながら、しっかりと伝わるよう心掛けて話をした。
「私は昨年の春に謀略にかけられて死にかけ、記憶喪失になりました。その時、右も左も分からない私を受け入れ、導き、最後まで私が記憶を取り戻し、元の立場に戻れるよう手配してくれた女性がいます」
静かな会場に、ハウプト一人の声が響く。
頭の中が真っ白になる。何を話すべきか、考えて来たのにそれも全部忘れてしまった。
だから、ひたすら語る。
「私は彼女のお陰で領主に戻ることができました。森の中で、私に生きる方途を教え、一歩退いて立場を考えながら、日々を過ごす彼女に私は惹かれました」
「その女はウィクリカイト殿を求めているのか」
「分かりません」
国王は怪訝そうに見下ろした。
「分からない?」
「ですが」
ハウプトは必死に言い募った。
「私が記憶を取り戻したとき、彼女は泣きながら『いかないで』と言いました」
会場内の人々から、同情の溜め息が漏れた。
領主の語りはどうやら人々の胸を打ったらしい。
「彼女は田舎の森の奥の農民の娘です。法律では身分差のある者同士の結婚は禁止されていませんが、実際は同じ身分の者同士が一緒になる風潮が強く、国内で例があるのは王弟ガウス殿下ただお一人」
紗幕の下で優雅に足を組んでいるガウスは、自分の名が出てにやりとした。「左様だね」
「私は彼女に気持ちがある限り、求婚しようと思っています。どうかそのとき、陛下の後押しを。大それた願いとは分かっております。しかし、諦めたくないのです」
凍てついた瞳が見下ろし、貴公子然とした若者の姿を射抜いた。
沈黙の後、国王は口を開いた。
「そのために、この剣闘会で勝ち抜いて、余が対戦相手にまでなったと?」
「その通りでございます」
「・・・その女は、領主の妻に値する者か?」
「今はそうでなくとも、心を決めてさえくれれば、彼女は相応しい人物だといえます」
「まだ、了承も貰わぬのに、このような場所で宣言して己の恥とは思わぬのか」
「はい」
ハウプトは、水色に光る双眸で、真っ直ぐ王を見返した。
「この恋心を恥じる気持ちは微塵もございません」
おおっ、と歓声とも感動ともつかぬどよめきが走る。
その中で、ひときわ大きな声でシャイン国王が宣言した。
「聞いたか、民よ、そなたらが証人だ。余はハウプト・ウィクリカイトが望む女性を婚約者と認めよう」
歓声は一層大きなものとなって、会場を湧き起こした。
一通り歓声が続いたところで、シャイン国王は手を横に差し出し、人々を静かにさせた。まだ国王の言葉に、続きがあるのである。
「ただし、国王が任命する領主の妻はそれ相応の者でなくてはならない。この者が一時の気の迷いだけで妻を選ばぬよう、婚約期間に王室から、婚約者の吟味を行う者をハルファッファに向かわせる。もしその際、領主の妻に値せぬ人物と評されれば、その時はハウプト・ウィクリカイト、そなたも領主でいれぬと思え」
自分を見下ろす厳しい瞳に、ハウプトは呆然とした。
だが、慌てて頭を垂れて言った。
「心得ております、ありがとうございます!」
歓声に包まれ、ハウプトは希望を噛み締めた。
やった。
彼女はまだ、ハウプトの正体を知らない。
離れて、四ヶ月も経ってしまった。
問題は山積している。色んな意味で、不安はある。
だが、最も大きな不安はまず、取り除けた。
目の前が霞んできた。
安堵の内に、ハウプトは疲労でその場に崩れ落ちた。
「まあま、大変なことになったわね」
大演説を見守っていたトゥーイム王妃がふふふ、と微笑む。
隣りで眺めていたフロウ王太子は、ぽかんとするロティを抱えて、目をぱちくりさせた。
「随分な要求ですね。曖昧でしかも不確定要素だらけ」
「恋は人を混乱させるのね」
すっと王妃が立ち上がる。にっこり微笑んで、彼女は頑強な黒い壁のような自分の夫を眺めた。
「シャイン様も粋なはからいね。惚れ直しちゃう」
膝をついて侍っている側近や侍女、近くに座っているガウスや宰相、大臣といった面々は、トゥーイム王妃の朗らかな発言に顔を引きつらせた。
あの鬼のように強いシャイン国王に「惚れ直しちゃう」なんて言ってしまうとは。
王妃様にはやはり敵わないと心の内で一同は思う。
貴賓席では色めき立ち、紳士や夫人は、若いっていいねなど好意的に語ったり、まるで劇のようと興奮したり、感激で声を詰まらせたりしている。
ある紳士はこう言った。「残念だなぁ、娘の結婚相手にどうかと思ったのに!」
令嬢たちからも残念だわ、という声が上がるが、一方でまるで恋の物語のようと憧れて話す者もいる。剣闘会で勝ち上がり、国王に大それた願いを申し出る機会を掴みとるほどの思いとはどんなものだろう。空想好きの乙女たちの夢が広がる。
ただしあの栗色の髪の令嬢だけは呆然としていた。
なんてこと、と呟く。
他の者には分からないよう、ギリッと奥歯を噛み締める。
令嬢が接触する前から、ハウプト・ウィクリカイトを奪った女に、憎しみが湧く。
このままでは終わらせなくってよ。
誰にも聞こえないように、彼女は呟いた。
王族席から立ち上がった王妃のもとに、国王が歩み寄る。にっこり微笑んだ王妃の手を取った。
王妃が高らかに王の手を掲げ、会場は再び拍手と歓声に包みこまれる。
その間に救急医療員がアリーナで倒れ込んでいた若い領主を回収し、担架に乗せて連れて行った。
こうして、今年度の春の剣闘会は終了した。
◆
―――人々の口元には、若い領主と農民の娘の恋話が上る。
ドームに出るとその話は一気に広がった。
貴婦人や紳士たちには噂話がつきもの。
ハルファッファは辺境の土地であまり政治的に左右されない地方である。ハウプト自体は優良物件であるが、遠い田舎領に積極的に嫁に出したい人はあまりいない。だから王都ホルンに集まる貴婦人・紳士たちは、ハルファッファ領主の結婚は半ば他人事で楽しめた。
話題の領主が突如として剣闘会に出場、それは自分の恋のためであった。国王に恋を打ち明け、慣習を破って結婚することの許しを乞う―――そんな胸を打たれる出来事が自分たちの目の前で起こったのだから、いてもたってもいられない。
貴婦人や紳士たちは自分たちが抱えている詩人・出版人・芸人・講談師に命じた。
すぐさまこの出来事を伝えよと。
最も、公式に王室から発布される新聞もあり、その新聞が正しい情報を伝えるはずであるが。
折しも春の祭りの最中。
人々の気持ちは浮き立っていた。
詩人や出版人、芸人は、その最新の物語をすぐさま自らの領分に引き込み、喫茶店で詩は朗読され、出版人は版木刷りの新聞を作り、芸人は祭りの雑踏の隅で劇を始めた。
「これは実話、さっき起ったことだよ!ハルファッファ領主ハウプト・ウィクリカイト様と農民娘の恋!若い領主は剣闘会で勝ち上がり、身分の慣習を取り払った、法律による結婚を行いたいと申し出て、その後押しを勝ち取った!」
「誰からだい?」
観衆からの野次に、講談師は高らかに声を上げた。
「国王陛下からさ!」
ざわりと観衆は驚きの声を上げ、その中の一部はすぐさま駆け出し、その話を、また誰か知らない人物に伝えに行く。
春祭りの最終日、屋台や舞台が作られ、雑踏に犇めく王都の道々では、このような光景がいくつも見られた。
そして、王都ホルンにあっという間に領主ハウプト・ウィクリカイトの嘆願が伝わっていった。
◆
その頃。
辺境ハルファッファ領に、一人の女性が到着した。
領内でも西端に位置するハルファッファ市は城壁に囲まれ、花を飾った店々が並んで春の賑わいを見せている。王都で春祭りが終わると、ハルファッファ市では一か月後に花祭りが待っている。年頃の乙女たちが最も華やぐ季節なのだ。
ハルファッファの人々は、まだ王都での自領領主の活躍を知らない。いつもと変わらぬ日を過ごしていた。
しかし、この頃から少しずつ、街に『変った出来事』は入り始めていた、かも知れない。
ハルファッファ城の城下町は坂道になっている。馬車が通れない道になっているので、その貴婦人は城下の馬車で行けるところまで行き、石畳の坂道を登って来なければならなかった。
春の陽気を窺わせるハルファッファ城前に、地味なドレスをきっちり着た、一人の女性が立った。
開かれた堅牢な城門を前に、しかめつらしい顔立ちのその貴婦人はきゅっと薄い唇を結ぶと、城門を睨みつけた。
一本の髪の毛の乱れも許さない結い方をしたミルクコーヒー色の髪を整え、疲れなど見せるものか、とでもいうように、背はぴんと真っ直ぐ伸ばす。
門番をしている騎士は見慣れぬその貴婦人を観察して、ふと領主代理殿を思い出した。
しかめつらしい顔や、風貌から服装から何から何まで、隙がない。
雰囲気が似ている。案外、関係のある人なのかも知れないな。
そう思いながら、重たそうな旅行鞄と日傘を持った貴婦人が城門を潜っていく、一直線に定規が入っているのかと思うような背中姿を、見送った。
春の日が差し込む執務室で、領主代理クロッサ・ライトネル氏はしかめつらしい顔に呆れを交えて目の前の人物を睨み上げた。
鋭い目線のヨナタン・ワイルド補佐官は、散々繰り返しクロッサに問うてきた問題をまた蒸し返していた。
「剣闘会に出るなんて、今までのハウプト様からは考えられないことです」
「まあ、そんな気になることもありますよ」
「また悪目立ちして変な女に好かれて来るに決まっています。それが分かっているのに、何であの方は剣闘会になんか行ったのでしょう。ハルファッファの予選会を勝ち上がってまで!何か知ってるんですよね、クロッサ様!何故クロッサ様は領主代理を一年以上も引き受けて下さるのです。確かにまだ事件の調書はできあがってないでしょうがっ」
若い補佐官に睨まれて、クロッサは何を言えば気が済むのだと溜め息をついた。
ヨナタンは優秀な補佐官である。領主の機微に鋭い洞察力を見せ、クロッサのぐずぐずした対応を突いてくる。裏に何かがあると嗅ぎ付けて、ひたすらそれを探っているのだ。
だが、クロッサはヨナタンに告げる気は毛頭ない。この田舎領のことだから、悪い慣習意識があるだろう。なるべく邪魔をされたくないとハウプトに懇願されたのを忘れたわけではない。
人の恋路を邪魔するのは野暮ですしね、と心の内で呟く。まだ女性から結婚の了承をもらってない点は気になるが、領主の妻はどんな生まれであろうと国王の認可が必要になる。慣習上反発が予想される相手なのだから、懸念材料を先に取り払っておくのはハウプトなりの誠意なのだろうと、クロッサは理解していた。
そもそも、身分の意識が強いものの、結婚に関してホルン王国は寛容になったはずだった。それなのに、一般女性と結婚した例がもともとぶっ飛んだ性格の偽優男ガウス殿下しかいないというのはおかしい。
愛人だの庶子だのがいると政治的にも人心的にも入り組んでしまってわけの分からないことになる。
だから好いた人間と結婚できるような法律になったというのに。
クロッサは実はハウプトに期待していた。政治的に。
物語や劇で身分違いの恋が題材にされる。そのお陰で大分ホルンの意識が変ってきたらしいが、現実はそうもいかない。
いい意味で、世間にとって刺激になればよいとクロッサは思っていた。
今この時、王都がハウプトの嘆願によって大騒ぎになっているとも知らず。
「ハウプト様を助けたという女性から調書をとるのは、ハウプト様が剣闘会から帰ってきてからです。何度も言ったでしょう。ハウプト様は王都に自分の無事の報告と心配をかけた詫びに向かったのだと」
「ああ、もう、何度も聞きました。でもそれだからって、何故その女の調書を先延ばしにする必要があるのですか!その女がすごく怪しいじゃないですか!何を隠してるんです?!」
ヨナタンが今にも髪の毛を掻き毟りそうな様子で声を上げる姿を見て、クロッサは憐れに思った。
そりゃ、あれほど心配して、やっと帰ってきた領主が、何事かを隠しながら行動をしているのを見たら、側近としては気もそぞろだし、裏切られたような気分にもなるだろう。
だが、クロッサは沈黙を守る。
強い覚悟で、ハウプトは王都へ向かったのだから。
「だいたい、クロッサ様はお帰りにならなくて大丈夫なのですか?奥様が心配されているのではいのですか?!」
「先日手紙を出しましたので、私が元気に暮らしていることは知っているはずですがね」
「失礼します」
言い合いをふっと止める。
執務室の扉を、使用人が開け、顔を出した。
「ライトネル様、お客様がお見えです」
「誰です」
「ジギー・ライトネル様です」
「! 通して下さい」
クロッサがそう言って立ち上がるか立ち上がらないかの内に、使用人をすり抜けて背の高い女性が執務室に入り込んだ。旅装の重たい荷物と、日傘を使用人に持たせず自分で持ってきたらしい。
ドスンと鞄をそこに置き、ぴっとよい姿勢で立った。
ヨナタンは、女性のしかめつらしい顔立ちと、きっちり結い上げたミルクコーヒー色の髪と、首元から足先までぴったりした灰桃色のドレスを着ているのを見て、瞬時に「似たもの夫婦だ」と思った。
背筋を伸ばしてクロッサを見据える女性の表情には知性が感じられ、しかめつらしい顔立ちの黒髪のクロッサと雰囲気がよく似ている。女性は整った顔立ちで、夫よりも背が高いようだったが。
ジギー・ライトネル夫人はクロッサを目に入れるなり、びしっと言った。
「お久しぶりでございます、旦那様。お元気そうで何よりですわ」
物凄く機嫌が悪そうだった。
クロッサは妻に穏やかに返答した。
「貴女も元気そうで何よりです。こちらはヨナタン・ワイルド、補佐官です」
「夫がお世話になっております」
「い、いえ」
鋭い目線仲間のヨナタンでも彼女の目線には思わず腰が引けた。
ジギーはクロッサを見据え、硬い声で言った。
「よく馴染んでおいでで。一年もいますものねぇ。お手紙に山ほどこちらのお祭りについて書いていらして、勉強になりましたわ」
「そうですか。一年もいれば誰でも馴染みますよ。屋敷の方はどうですか」
「お陰様で変わりありませんわ。孤児院の子供たちがクロッサ様が次にいついらっしゃるのか度々聞いてくるくらいかしら」
「なかなか嬉しいですね。貴女も変わりありませんか」
ジギーはぎゅっと唇を引き結び、眉間に皺を寄せた。
ヨナタンはこれは執務室を出た方がよさそうだ、と領主代理とその奥方に礼をして、部屋を後にした。
しんと室内は静まった。
二人きりになった部屋で、クロッサとジギーは向かい合う。
クロッサの黒い瞳が、優しくジギーを見つめていた。
「少し痩せましたか。家を任せきりにして、すいませんでしたね」
硬い表情で、ジギーが呟いた。
「馬鹿」
ぐっと唇を引き結んでいたジギーの目に見る間に涙が盛り上がり、ジギーは声を引っくり返らせて言った。
「―――心配しましたぁ・・・・!」
クロッサは両腕を広げてジギーに近寄り、ジギーはクロッサの首にしがみついて抱きついた。
領主が蒸発し、反逆の疑いのある領で領主代理に就き、捜査を行うということ。
もし、事件がもっと深く残虐なものであったら、クロッサの命は狙われていただろう。
ジギーはこの一年間、クロッサの側に行きたかったが、クロッサのことを思えば行けなかった。
そうでなくとも、クロッサは手紙に毎回ジギーに書いてきた。
今、自分の側にくれば、クロッサの弱みとして狙われるから、絶対に来るなと。
危険がないと確認できたら、その時に伝えると。
屋敷で、心配で気が狂いそうになりながら、ジギーは王都にまで刺客が及ぶ可能性を考え、自分で出来る限りの防衛ができるよう、手配した。
ライトネル家が基金を出して面倒をみている孤児院の子供達にも気を付け、夫に関係する人々に定期的に手紙を書き、何か異常があればすぐ知らせてもらうよう頼み、力になってもらった。
王都に反逆者の手が伸びたときにすぐ対応できるよう準備をした。
そうやって息を詰めて過ごした一年間だった。
ジギーは、夫が自分に家と関係者を守るだけの頭脳と能力がある人間だと認めているのを知っている。
やるべきことはやった。
だからもう自分が望む通りにするのだ。
不安と緊張から解き放たれた妻を腕に抱いたクロッサは、ようやく自分も安堵しているのを感じた。
震える妻の背をさすり、よく頑張ってくれた、と褒め、悪かった、と詫びた。
そして、「もう心配はないでしょう」と手紙を書いた直後に、真っ直ぐ自分のもとへ飛び込んできた妻に、愛しい気持ちが溢れた。
政治的に、慣習を打ち破る期待があって。
それも確かにあるけれど、ハウプトを応援する一番の理由は、自分の経験にあるのかも知れない、とクロッサは思う。
愛し、信頼できる伴侶を得られた自分は、幸せな男だと思えるからだ。
きっちり結んだジギーの髪に頬を寄せ、クロッサは囁いた。
ありがとう、ジギー。貴女は私の誇れる妻です。
◆
その一週間後。
未だ領主の帰らぬハルファッファに新報が舞い込んだ。
知らせを運んできたのは幌馬車に乗った一団。
やって来る彼らを一番に発見したのは、城に住む道化ヴンダーカマー。
ハルファッファ城城郭内には二つの古い塔がある。
片方は百年ほど前に忽然と現れたといういわれのある賢者の塔。
塔の天辺の部屋には賢者が住まい、歴代領主に広い知見と妖精と魔法の付き合い方を教えるといわれている。黒っぽい石壁の苔むした暗い塔は、不気味でもあり、領主しか見えない賢者がいるという幽霊話もあるため、あまり人が近付かない。
もう片方の塔は、ハルファッファで最も高い物見の塔。戦乱期に多くの侵略者を事前に発見する手助けをしてきた、賢者の塔より更に古い時代から増築を繰り返して高くなっていった、古くて新しい塔である。
土台になっている石は岩盤のように巨大で、苔むしてもなお見事に組み合わさり、塔の基礎を固めている。天辺に近付くにつれ、新しい石が重なっており、天辺の屋上にはハルファッファの麦穂の紋章の旗が風に翻る。
空色と白の菱形模様の、だぼっとした衣装を着た白塗りの道化は、塔の屋上に上がり、危険も構わず石の手すりの上に立って、遠くを見渡す素振りをする。
ヴンダーカマーはこんなときまで、道化のわざとらしい仕草が欠かせないらしい。腰に手を当て、足を広げ、片足の爪先を天に向けている。そして、目の上に手で庇を作り、遠くを見渡しているのだ。
その日、俄かに、ヴンダーカマーは爪先を上げた方の足で、軽快なリズムを踏み始めた。
まるで、行進曲が聴こえてきたいるかのように。
城郭の向こうには町が斜面に広がり、それをまた城壁が囲んでいる。その向こうには畑が広がっている。国の食糧庫たる大農場だ。東の方には川が見え、川に並行するように遥か遠くから続く白い道は、ゆるやかに蛇行して城下町へ続いている。
赤と黄色の幌馬車が、白い道の向こうに、小さく見えた。
ヴンダーカマーは目をキラキラとさせ、塔の手すりの上で思わずステップを踏み、その場でくるりと回った。
城壁の警備に当たっている騎士がそれを見上げて、指をさす。
「おい、ヴンダーカマーが何かを見つけたみたいだ」
ボンボンのついた帽子を跳ねさせて、ヴンダーカマーは手すりから降り、塔を駆け下り始めた。
地面に到着すると、様々な人々の挨拶をしながら、ヴンダーカマーは楽しげにステップを踏む。
厩舎小屋の厩務員も、騎士も、役人も、料理人も、洗濯女も、鶏を追いかけていた少女も、ヴンダーカマーを見ると笑顔になる。
城の側を通り抜け、城門を潜り抜ける。ヴンダーカマーの後には、人がついてくる。町の人に挨拶をしながら、ステップを踏んで踊りながら、城下町の坂道を降りていくヴンダーカマーに、花売り娘も農民も、「おや、何かあるようだっせ」とついていく。悪巧みをしていた子供たちも、本を読みながら歩いていた読書少女も、ついていく。
道をやって来る赤と黄色の幌馬車では、星と月のアップリケがついた紺色の長衣を着た、小粋なハットを被った洒落男が、パイプを咥えながら馬を操っていた。
軽快な行進曲が響いてくるのは、幌馬車の一番後ろに足を投げ出して、金髪のソバカスだらけの少年が、太鼓を抱えて細いバチでそのリズムを叩いているからである。
畑で作業していた人たちも、それを見上げ、ああ旅の楽団が来たのだと、農作業を休んでついていく。
旅の楽団は人々の大切な情報源だ。
田舎領だと殊更重宝されている。王都からの最新情報が娯楽として入ってくる。彼らは歌や踊り、寸劇で道中仕入れた話や出来事を教えてくれる。
今年度は剣闘会に我らが領主が出場したのだから、ハルファッファ城でのお膝元では関心が高かった。
楽団は間違いなく、王都の春祭りの様子や、剣闘会での剣士の活躍を歌にして披露するからである。
街ではステップを踏み、時にターンしながら坂を下りていくヴンダーカマーに、ぞろぞろと人がついていく。
街へ続く道中では、パッカパッカと馬を進め、ガタゴトと車輪が回り、軽快な行進曲のリズムを鳴らす太鼓の少年が乗っている幌馬車に、ぞろぞろとハルファッファの人々がついてくる。
やがて、城下町の入り口にある広場に、幌馬車はついた。
太鼓を少年が叩き続ける中、幌馬車からは次々に踊り子や役者、楽器を持った人々が下りてきた。
パイプを加えた紺色長衣の男は、降り立つと次々に楽器隊を並べさせ、幌馬車から真っ赤な色の看板を出した。看板には黄色い文字で
『太陽を追いかける月団』
と書いてある。
看板が出た瞬間、広場に集まった人々から拍手が湧いた。
旅の楽団は皆一様に紺色地に星と月をあしらった衣裳を着て、にこにこしている。
団長アルタイルは準備を進めながらちらと坂の上を見やった。
そして、水色の衣装の男が跳ねながら降りてくるのを見つけ、やっと笑顔になった。
「やあ、ヴンダーカマー。遅いじゃないか」
その道化には多くの観客がついてくる。
ヴンダーカマーが到着したところで、少年がぴたりと太鼓を叩くのを止めた。
街中の人々が、広場に集まり、皆笑顔で楽団を迎える。広場はすごい人だかりが出来ていた。
白塗りの顔、目と唇を縁取った黒。ヴンダーカマーは仰々しくお辞儀をしてみせた。
「見つからない太陽を追いかけて
はるばるようこそ、ハルファッファへ」
アルタイルが大笑いが空に抜けていく。広場に集まっていた観衆もくすくすと笑った。
ニッと笑ったアルタイルはヴンダーカマーに宣言した。
「今日はハルファッファにとってめでたいお話を持ってきたぞう、ヴンダーカマー。思う存分、踊りやがれ」
ぴょんと跳び、ヴンダーカマーは両腕を広げておどけた。
「本日お送りしますは壮麗な都ホルンの春祭り
栄えある剣闘会で起こった恋物語!」
高らかにアルタイルが宣言すると、楽団を囲んでいた人々から拍手が起こった。
娯楽としての音楽や劇が始まる前に、新しい耳よりな出来事をシンプルな詩歌にして伝える。それが旅の楽団の大きな情報伝達の役割なのだ。
歌い子の少女とアコーディオン弾きが前に出てくる。何故かその隣にヴンダーカマーがしゃしゃり出るので笑い声が起こった。
アコーディオン弾きがムードたっぷりに蛇腹を動かし、しっとりと曲が始まった。
少女は一息吸い込むと、高い声でたどたどしく歌い始めた。
「これは これは 今の世に
驚きと感動を湧かせた恋物語
王の御前で彼の涼やかな青年は熱い思いを訴えた」
アコーディオンのメロディが一度途切れ、少女は一息に響かせた。
「ハルファッファ城の領主 その名もハウプト・ウィクリカイト!」
ざわり。
人々は顔を見合わせた。
曲に合わせて体を揺らしていたヴンダーカマーも驚きのポーズをとってみせる。
「剣に無名の領主様は
身の程知らずと思われながら
その身を削るように剣を振るった
膝をつこうが 払われようが 追い詰められようが
反則知らずの王立図書館長の鉄球に
殺されかけようが
諦めず剣を振るい続けた」
少女の歌声に人々は耳を澄まし、集中する。
一体、自領の領主に何があったのか。
「そして多くの声援を得て
必死の攻防を繰り広げたハウプト・ウィクリカイト
強き気高きシャイン王との対決を勝ち取った」
おお。
思わず喜びの声を上げる領民たちである。
「戦い通して体はボロボロ
領主に重たい剣が襲いかかる!
・・・ご存知の通り我らが国王は鉄壁のごとき強さを誇る
若き領主が敵うわけがなかった」
農民の女たちから残念そうな溜め息が漏れた。
「しかし闘いぶりに感心をした王は
彼の者に慈悲深く仰った
〝そなたの願いを叶えよう〟と」
人々が聞き入る中、アコーディオンのメロディが階段のように音階を登り始め、一旦そこで途切れた。
少女は細い声で驚くほどの声を張り上げた。
「若き領主は乞うた
〝どうか記憶喪失だったときに助けてくれた農民娘と結婚の許可を!〟」
台詞に、誰一人として声を発することができなかった。
目を丸くしているハルファッファの人々を眺め、アルタイルは人の悪そうな笑みを浮かべる。
ただ一人、水色と白の菱形模様の衣装を着た道化だけは、目を輝かせて少女の歌の続きを待ち侘びる素振りをする。
「王は答えた
〝詮議は行う しかし婚約は許そう〟」
少女が歌った瞬間、わっと人々は「一体どういうこったい」「ハウプト様が王都に向かったのはそのためだったが?!」と口々に話し始めた。
年頃の乙女たちは、夢見るように「でも素敵な話だが」と言う。
人々が戸惑う中、城に向かって走り出した者がいた。
金茶色の髪に鋭い目つきの補佐官、ヨナタン・ワイルドである。
「あの領主代理!このこと絶対知ってたはずなのに!!」
誰だか分からないが、意味の分からない女をハウプトに近づけさせてなるものか。
怒りだか悔しさだか分からない思いをぶつけに、ヨナタンは坂を駆け上がる。
だが、ヴンダーカマーは自分の被っていた帽子を放り投げ、器用にその場で一回転して、落ちてきた帽子を手にとった。
「素晴らしい!領主様は最も愛する者と結ばれる!!」
戸惑っていた人々は、ヴンダーカマーの声を聞いて、何とも言えない表情をする者と、ヴンダーカマーの意見に同調して頷く者とで分かれた。
ハルファッファの領主の妻は地主や、他領の領主など、有力者から娘を嫁にするのが慣習である。この慣習が破られるのは、いささか不安に思う者が多い。
だが、ホルン王国の法律では結婚に年齢と男女の合意以上の制約を設けていない。巷の恋愛小説や劇では王城の高官と下働きの娘を題材にした物語もかなり存在する。この数年の間では色んな意味で型破りの王弟ガウス殿下が司書をしていた一般女性と結婚した話が色々脚色されながら有名だった。
しかしながら、ハルファッファの人々は、ハルファッファ領や領城の役所の人々の体制が保守的であろうことをある程度理解している。
ハウプト様は一体どういうおつもりなのだろう。
そんな思いが交錯する中でも、やはりウキウキとした気分になる者もいるらしい。
「こりゃ大変だ!早く帰って女房に知らせなきゃ!」
と肉屋の主人が坂道を駆け上がったり、噂好きの婦人たちが次々に失踪していた領主について話を始めたり。
人々の輪に加わって歌を聞いていたワイエン・ヤード団長は、にやりとしたり。
「やりましたね、ハウプト様」
すぐに、ハルファッファ城の周りの印刷屋は、木版刷りでビラを配るだろう。
その内、正式なお触れが王都から達せられるが、明日には、ハルファッファ領内にこの話が伝わるだろう。
さて、ハウプト様が帰ってきたときに、どうなっているものやら。
ワイエンは側でぽかーんとして歌い子の歌を聞いている騎士団の下っ端たちの頭を小突いて、仕事に戻るように促して、予感に身が震えるような、楽しみなような心地を味わった。
◆
行き交う人々が、井戸の周りに集まった主婦たちが、農家の長話が、その話を伝えていく。
風に乗るように、ハルファッファ城城下町から、畑と野を越え、川を越え、西へ東へ。
やがて、辺境の農村にもハルファッファ領主の王都ホルンでの活躍と婚約話が伝わる。
サーコイ村の人々は皆、度々城の騎士団や役人が村に来て聞き込みを受けていたから、記憶喪失だった領主がこの村にいたことを既に知っていた。
駐在所には幾人かの村人が集まり、王都ホルンでの領主の宣言について持ち切りになった。
真ん中で青い顔をしているのは、領主らしき記憶喪失の人物におざなりな対応をして調査官に叱責された金髪の駐在である。
その周りで、村人は好き勝手に話をしていた。
「領主様も思い切ったことをするだなぁ。王様だっせ、わたなら卒倒しちまう!」
「おめぇが王様の前に立つだぁこと、一生なか!心配すんなが」
一斉に、笑い声が起こる。
「しっかし、領主様たぁ、婚約者は、あの森の奥の魔女だっせ?」
一人の娘が言って、一同は黙り込んだ。
彼女は村長の娘である。彼女は今回運ばれてきた新報に、信じられない気持ちだった。
森の奥の罪人の娘と蔑んできた、あの姿を見せない藍色のマントの不気味な娘が、間違いでなければ、記憶喪失の領主を介抱し、共に暮らしていたのである。
彼女は村一番の有力者の娘であるのにも関わらず、領主の目に留まらなかった。その不満でいっぱいだったのだ。
「あの女が先に見つけただけだっせ。ずるいが、あげな変な女!」
唇を尖らせる。自分なら領主様をあんな森の奥に住まわせたりせず、丁重に家に招き入れ、介抱したに違いないのに・・・。村長の娘に苦々しい表情をした。
それを聞いた人たちは何とも言えない表情をした。
村の共同体から外れている藍色のフード付マントの女に、いい感情を持つ者は確かに少ない。
だが、いい感情もなければ、悪い感情もないといったところで、突如領主の婚約者として浮上した女に、戸惑いはあってもさほど攻撃的な感情にならないのも確かだった。よい作物と商品を荷車に載せて市場に来て行商している姿は、働き者の証拠である。朝市の彼女の姿を知っている者としてみれば、悪い感情を持たないのも道理だった。
村長の娘は森の奥の女に嫉妬しているだけである。言っても仕方ないことだと、その場にいた年長者は「まあまあ」と諌めた。
藍色のフードをすっぽり被った女に男が付き添うようになったのを、「なんか増えたな」程度にしか思っていなかった村人たちにとって、なんとなく後ろめたい気分もある。
わけの分からない男を、領主と知らずとも、介抱して住まわせていた。案外、あの森の奥に住む娘は「えらい」のである。
分別のつく大人には、一応それが分かっていた。
「あんな女が領主様の婚約者だになってよかが?!」
しかし、道理は分かっても気持ちが治まらない村長の娘は噛み付く。
「領主様の目は曇っているが!」
「まあまあ、あの女、何も悪かこったしとらんがか。森の奥にが住んでるだけが」
「お伽話にもあるが。何の罪もないがに、黄金の姫様は呪われた娘だと言われて追われたが。分からないままに決めつけてはいかん」
「んでも!駐在さんも思うわないが?身の程知らずが、森の奥ば行って私が言ってやるが!」
強い口調で意気込みだした村長の娘に、村人たちは不安そうな顔をする。
なりゆきを見守っていた駐在がぽつりと言った。
「無理だ」
「なしてだが?!」
「森の奥へは、入ることができないが」
思わぬ言葉に、村長の娘はもとより、その場にいた者全員が目を丸くした。
「そりゃ何だ・・・?」
駐在は溜め息を吐いて、話し始めた。
「森の奥に若い女が一人。ちょっかい出しに行くっちゃ丁度いいが。二年前、村の若い男たちが二三人で、いつも女が出入りする入り口から森に入ったが」
「! そんなことがあったがか」
「何もなかったがら、咎めもなしだったが」
「何もなかった・・・?」
首を傾げる主婦に、駐在は言った。
「そいつら、森の中がら出れねくなって、数日遭難したが。命からがらでやっとこさ森を出たとこ、保護されたが」
駐在所に集まっていた者たちは、一様に顔を見合わせ、それから呆れたように言った。
「そいつら知ってるが」
「レゲッカ家の二男坊とブルア家の三男坊と鍛冶屋に弟子入りしたドンズ」
「一昨年行方不明になってヘロヘロさなって見つかったがそのせいが」
「まったく、情けねぇ!」
口々に言う中、村長の娘は怪訝そうに訊ねた。
「そんで?何がいけないのが」
駐在はちらっと村長の娘を見て、言った。
「そいつらが言うが、森の小径はどこまでも続く。どこにも出なかったが。ひたすら道に迷い続けたが。遂には二度とその道に入りたくなかと思うまで」
駐在所はしんと静まった。
中年の主婦が、思い出したように言った。
「そういえば、あの女の母親の頃からそんな話ばあったが」
「ああ、そうが。村人数人、森に入って暫く帰って来れなかったが」
「森の奥に住む魔女、つうのは、何にもなしについた名前でないが、ってこった」
駐在の言葉は、暗い井戸の底に石を投げ込んだように不可解さを投じ、波紋のように駐在所の沈黙を広げていった。
森の奥に住む娘。
働き者で、いい野菜と薬を売る。藍色のマントをすっぽりと被り、姿を見せない。何代も前から、彼女の家族はひっそりと住み続けている。
その森には、誰も入れない。
普段意識に登らない、名前も知らない女だが、議題になるとその異様性が目につく。
ふと、農家の主人が思い出したように言った。
「・・・あの女、春になってがら、朝市に一度も出てきていないが」
「森の奥に籠っているかんら」
「何しているがな」
暢気にぼやく村人たちに、あくまで村長の娘は断言した。
「わたは認めないが。あんな森の奥にいるわけ分からん女が、領主様に相応しくないが」
◆
木漏れ日の落ちる森の奥の小屋。
雪は溶け、もう畑はすっかり乾いているのに、耕された形跡はなく、雑草が蔓延っている。
家畜小屋には鶏や牛や羊がゆっくり草を食む。
春はもう来ているのに、小屋のある空間全体が、どこか沈んでいるようであった。
小屋の暗い窓の向こうでは、藍色のフード付きマントをすっぽり被った女が、テーブルを前にして座っていた。
もう誰の目も気にしなくてもよいのに、彼女はまるで隠れるようにして、マントを纏っていた。
窓から注ぐ太陽の明かりの中で、ひたすら白いシャツに、茶色い光沢を持つ糸で、鳥の刺繍をする。
フードの陰の下の瞳は、ぼんやりとして、光っていた。
今年も同じ春がやって来た。
花は咲き、天道虫は冬眠から覚めて、地面に蟻が這い、雑草が伸びてくる。
どうして、同じ季節の巡りで、温かな日和のはずなのに、こうも違うのだろう。
森の奥はどこもかしこも、空っぽだった。
ユイルは森から出ていなかった。
例年ならそろそろ畑を耕し、保存食の行商をする時分だが、冬籠りの準備を二人分用意していたので、保存食の蓄えはまだ充分にある。外に出て行く必要もない。
村に出て、噂話を聞くのが怖かった。
結婚しようと言ってくれた好きな人が、どんなに遠い人なのか、知りたいはずもない。
村は狭いので、変わったことがあればすぐに話が伝わってくる。
村に出れば、きっと記憶喪失だった誰かの話が何かしらの形で耳に入ってくるだろう。昨年ユイルは忽然と男を連れていたのだから、村人の方から教えてくるかも知れなかった。
だが、抱き締めてくれた、暗い雪の夜。
目が覚めたら、もういなかった、その悲しみも。
ユイルだけの思い出を、誰にも塗り潰されたくなかった。
ふと、刺繍する手を止めて窓の外を眺めると、『ヘルブラウ』が耕した畑が目に入る。
暫く畑を見つめ、彼の影を探さなくのは一体いつになるだろう、とユイルは自嘲した。いくら忘れようとしても、思い出すまいとしても、彼のいた場所に記憶が呼び起こされて、ユイルの脳裏に浮かぶ。
母が死んだのは十歳の頃だった。
色々お話を聞かせてくれる美しい母が大好きだった。
時折怖い顔をして自分たちが災厄となりかねない、と語ったけれど、結局それが何故なのか教えてくれないまま亡くなった。
ユイルは寂しそうな父の背中を覚えている。ユイルの覚えている限り、父はとても母を大切にしていた。
母が亡くなった後は、ユイルを一層大切にするようになったと思う。
父はユイルが誰かに見られるのをとても恐れていた。
何故なのかと問うと、「大人になったら教えてあげよう」と言っていた。
それも結局、聞けず仕舞いだ。父はユイルが十六歳のときに唐突に亡くなった。
一人にしないで。
そんな願いを、誰かが聞き届けるわけがなかった。
だから、彼が小径の真ん中で寝ていたときは、びっくりした。
母や父の言いつけを思い出して、困った。
すぐにいなくなるだろう。そう思って滞在を許したのに、彼は屈託がなく、知恵を絞りながら努力を重ね、ユイルと生活を共にし続けた。
そんな彼に、いつしか好感を持っていたのだ。育ちのいい青年のようだったから、近付き過ぎたくなんか、なかった。
いつかは、出て行く人間。いずれは、こんなふうに、一人ぼっちになるのだから。
納得していたはずなのに、どうして胸の痛みはなくならないのだろう。
ぐっと涙をぬぐって、ユイルは溜め息を吐いた。あの日から色々とやる気がない。唯一やっていることといえば、男物のシャツや帽子に刺繍をしていることぐらい。昔母が教えてくれ、母が亡くなった後は自分で練習した。
いつか誰かのシャツに刺繍ができますように。
そんなことを母は言っていた。
泣きたくなる。ユイルはもう、一生恋なんかしたくない。
馬鹿みたい。
それでも生きていかなければならない。
雑草が畑に蔓延るようになった。かつてこんなに畑が荒れるままにしたことはない。
流石に、今の時期になったら、畑を耕して野菜の種を植える準備をしないと。野苺が群生しているはずだから、採りに行かないと。涙をこらえ、ユイルはある日、ようやく前を向く決心をした。
雑草を抜き、畑を耕し、時に涙を流しながら、薪を割る。野苺を摘んで、ジャムを作る。鶏の卵をとってくる。
気弱でなんかいられない。父が亡くなってから二年間、森の奥で一人ぼっちなのだから。
これからも一人ぼっちなのだから。
自分でどうにかして、糧を得なくては。
長い冬を越して、ユイルは再び立ち上がろうとしていた。
◆
久しぶりに森の奥から出ようと思ったのは、晴れた日だった。
もうそろそろ花祭りで、自分などに皆気が向かないだろうと思ったのである。
牛と荷車は連れて行かない。商品がないし、少し外に出てみて、入用なものを買ってくるだけだ。それから古着屋に自分が刺繍したシャツや帽子やハンカチを売る。ぼんやりしながらついつい作っていたけれど、こんなもの作っても、役に立たない。男物の服だ、しかも彼が着ていた。いっそのこと売ってしまえば念が吹っ切れると思った。
村で何を聞こうが、何を言われようが、知らんぷりしてやる。首に下げている木の皮の紐に下がった指輪を、ぎゅっと握りしめ、ユイルは服の下に仕舞った。
指輪をしていないものの、ユイルはそれを肌身離さず持っている。今はまだ、自分だけの思い出に浸っていたい。
いつか、この指輪を捨てられる日が、来るのだろうか。揺れる心を抱いたまま、ユイルは出かけた。
籠に刺繍を入れた男物の服を入れ、藍色のマントのフードを深々と被り、ユイルは春の日を遮る暗い森の小径を歩いた。
かさり。かさり。
久々に歩く道には雑草が生えている。
少し歩かないだけで、すぐ生えてくるものだ。
出口に近付いて、ユイルは外が騒がしいのに気付いた。
歌や音楽が聞こえてくる。その楽しげな曲調は春を謳歌するもの。ユイルはああ今日が花祭りかと思った。
乙女たちが花で飾られ、踊り歌うお祭りは、ハルファッファの娘たちが最も華やぐ季節である。
自分には関係ないけれど、とユイルは自嘲した。藍色のマントをすっぽり被り、身を隠して生きてきたユイルは花祭りに参加したことがなかった。
憧れたときもあったけれど、今はもういい。そんな気力も起きない。
この姿を花で飾る日など、来ないのだ。
そんな鬱々した気分で小径を歩き、森を抜けた瞬間、
「あ」
出会いがしらに上等な青い生地の上着を着、正装した男にぶつかりかかった。
なんだこんなところに突っ立って、とユイルは胸の内で悪態をつき、はてと考えた。
同じような場面に出くわしたことが前にもあった気がした。
「ああ、よかった!会えなかったらどうしようかと思ったんです!」
声を聞いてユイルは愕然とした。
春夏秋と季節を過ごし、顔を伏せたまま、だけど、だてに彼の声を聞いていたわけではない。
「――――っ」
「あ、これ僕のですね?まさか男が出来たなんて言わないで下さいよ、とりあえず荷物を持ちましょう」
正装の男は軽やかに籠を取り、それからユイルの手を取った。
顔を上げたくともあげられない。ユイルは慌てて問うた。
「おめぇ―――」
ヘルブラウ、ではないのだった。
寧ろ誰だ。
ユイルが戸惑っている間に、鮮やかに彼はエスコートしていく。
どうやら目の前に上等な黒塗りの馬車があって、それを村人たちがわらわらと囲んでいるらしいと気付いたときには、ユイルはもう彼に腰に手を回されて軽く馬車の中に押し上げられていた。
さっと上等なマットの上に座らされ、目の前に誰かが着席し、ぱたん、と馬車の戸が閉められる。
え、と思っていると、窓の外に何故か目をキラキラとさせた村人たちが手を振っていた。
「な」
やっとユイルの思考が追いついた。
「なにしてっがか―――――――――!!!おっ、おめぇなしてここにいるがっ!!」
ユイルが引っくり返りそうになって、叫び声を上げたと同時に、無情にも馬車は走り始めた。
フードの陰の向こうに、自分が求めて止まなかった彼が、あの水色の瞳でこちらを見て、にこにことしていた。
『国王夫妻のなれそめ』(http://ncode.syosetu.com/n4206bn/)のトゥーイム王妃とシャイン王が登場しました。
エピソードでしか登場していなかった破天荒ガウスさんとちょこっとフレイア王女が触れていた王子も登場しました。
あれ?フレイアさんは?となりますが、フレイアさんは諸事情があって剣闘会には来ていません。なので登場なし。
あとクロッサさんにお嫁さんがいました。国王夫妻は凸凹夫婦ですが、クロッサさんとジギーさんは似たもの夫婦です。