5 正体は領主様
さて、ここで「領主不在」という事件が発生した当時の、ハルファッファ城の様子をお送りしよう。
◆
―――何の変哲もない、春の日の午後のはずだった。
仕事を終えて「遠乗りしてくる」と出かけた領主ハウプト・ウィクリカイトは、夕餉の時刻になっても帰らず、そのまま行方が杳として知れなくなった。
領主が行方不明になったハルファッファ城は上へ下への大騒ぎになった。
ハルファッファ城付騎士団、王立常駐騎士団が領主の行方を捜しに総出しかけて、慌てて補佐官のヨナタン・ワイルドは引き締めにかかった。
城の警備と治安維持隊、領主捜索隊に騎士団を分けて指令を出す。ハウプトがいないことで、普段治安維持と捜査の自主機能を持っている騎士団もよほど混乱していたらしい。
ヨナタンは重要な物事に気が回らなくなっていることを自覚し、頭を冷静に働かせることを意識しながら城の会議室へ急いだ。
金茶色の髪に、細い切れ長の目、眼鏡がトレードマークのヨナタンは、領主ハウプト・ウィクリカイトと同年の二十四で、幼馴染でもある。
ハウプトが穏やかで優しい一方、ヨナタンは冷徹で嫌味っぽい性格、という認識でハルファッファ城では通っている。しかし、この二人は仲がよく、ハウプトが寛容、ヨナタンが引き締め役といった分担で領地の運営を担ってきた相棒でもあった。
―――あいつがいなくなるなんて、ただ事じゃない。
緊急招集された会議では領主の不在に関する今後の扱いについて話し合われている。
大股で廊下を歩いて行くと、突き当りに巨大な扉が聳えている。
石造りの壁に反響して、会議の内容が響いてきた。
「どのような理由があろうと領主がいない限り、領主代理を立てるべきだ!」
「ハウプト様は無断で行方を暗ます方ではない!これは何かの陰謀だ。十分な捜査を先に行うべきだ!」
やはり、予想通りのやりとりが繰り広げられているらしい。
ヨナタンは小走りになって扉へ突進し、会議室に飛び込んだ。
「私もグレンゲルト様と同意見ですね!!」
息を切らしてやって来た若い補佐官に、円卓に座る有力者たちの目が一斉に向いた。
緊急招集に集まったのは次の通りの面々である。
領主代理の必要を訴えた、役所の全ての課を代表する役人頭のフリードリーン・トラファルガー。麦穂のような色の長い髪と背に流した壮年の男である。制服である黒いローブに、役人頭である証の青いタイを締めている。頬骨の出た輪郭の鋭利な顔つきは神経質さを窺わせ、深刻な状況にピリピリとした険しい表情をしている。
その向かいに座る、捜査の優先を訴えたのはハルファッファ一地方の地主イードル・グレンゲルト。白髪混じりの逆立った茶の髪に、額に深く刻まれた皺とギョロギョロとした目が印象的な男である。領主のハウプト・ウィクリカイトの母方の叔父でもある。円卓の上に手を組み、しきりに指を動かしてやってきたヨナタンを見つめた。
グレンゲルトの隣ですすり泣いているのはハウプトの乳母だったニームス・レイツァルである。頭巾をすっぽり被る未亡人姿をしているが、地元の古い家系の一人である。城内で采配を振るい、ハウプトの面倒をなにくれと見てきているので、その心情が考慮されてこの場に呼ばれている。
ニームスを慰めている白髪の壮健な老人は、カール・ワーゲン。ハルファッファの工業を支える工場の主人である。古くからの有力者であり、資産家でもある。
でっぷり太ったテオ・ロルフは、汗を拭きながら深刻な面持ちで座っている。緑のタイはハルファッファ第一の産業といえる農業を統括し管理する上級役人の証である。見た目の貫禄は誰よりもあるが、実をいうとこの中では若手の方である。
柔和な顔立ちに関わらず、苦々しい表情で会議の成行きを見守っていたハンス・ヴィルヘルムが、ヨナタンが入ってきたところで椅子から立ち上がった。
「丁度よかったが。補佐官が来るのを待っていようと思ったが、この二人が議論を始めたが」
ハンスは苦々しい口調で言った。簡素な服装をした初老のハンスは豪農である。普段は大らかで頑固だが、この時ばかりは落ち着きを発揮した。
フリードリーンが気まずそうに口を閉ざし、グレンゲルトは椅子の中で身じろぎする。
ヨナタンは礼を言って円卓に着席した。ヨナタンに隣りに座る筋骨隆々の男二人が挨拶をする。黒髪の誠実な雰囲気の男はハルファッファ城付の上級騎士のルピナス・ゲルバード団長、箒のようなオレンジっぽい髪を頭頂部で束ねた荒々しい雰囲気のワイエン・ヤードは王立常駐騎士団の団長である。二人とも実力と頭脳を兼ね備えた若者だった。
この九名が会議の主要なメンバーであった。皆、ハウプトを身近に知る者たちである。
会話の流れから、ハンスが進行役となった。
「さて、補佐官殿がいらっしゃったが。まず補佐官殿の意見を聞くが一番だと思うせ」
ヨナタンが早速立ち上がった。
「先程、グレンゲルト様が仰ったように、ハウプト、我が領主は無断で城を空けるような人間ではありません。何かの事件に巻き込まれた可能性が高いといえます」
一同が深刻げに頷いた。
彼らのほとんどはハウプトの父親が領主をやっていた頃からの有力者であるため、年齢層が高い。若くして領主になったハウプトは、彼らが育ててきたといっても過言ではない。彼らは領主をよく知っていた。
そして最年少のヨナタンは、現領主の友人であり頭脳であると認められている青年である。真っ先に意見を求められたのも、そのためだ。
ヨナタンは堂々と、自らの考えを披露した。
「・・・それは、ハウプト様が反逆に遭い・・・謀にかけられた可能性が高いことも意味しています」
円卓の一同はううむと唸って黙り込んだ。
十八で領主となったハウプトを支えてきた大人たち。皆、ハウプトに対する思いに並々ならぬものがある。
ハウプトはよい領主である。民から慕われ、臣下からは愛される、いや、溺愛される、優柔不断で少し面倒臭い女性に好かれることを除いては申し分のない青年なのである。まだまだこれからだという年齢、将来的にも賢明な領主としてハルファッファを長く治めることが望める人物だ。
反逆しなければならない理由などあろうはずもない。
重苦しい沈黙と、すすり泣きの中に、なんともいえない空気が漂い始めた。
カールは顔を顰めて、口を開いた。
「・・・もし反逆を企て、ハウプトを陥れた人間がいるとしよう」
皆の視線が集中する中、カールは至って真面目な表情で言った。
「そいつは馬鹿なのか?」
不謹慎にも、騎士のワイエンはぷっと吹き出した。
その途端、ワイエンはニームスにキッと睨まれた。
「笑いごとじゃないがァ!!!ハウプト様に何かがあれば、あればぁ・・・っ、ニームスは生きてはいけないが~~!!!」
「心中お察ししますぞ、ニームス殿」
カールが涙を流すニームスの背をさすって宥める。
しかし、顔を伏せたニームスがいる円卓の上では、何ともいえない空気が流れていた。ハウプトに何事かが起きたことは由々しき事態である。しかし、こうしてハウプトの人格を信じ、愛する有力者ばかりのハルファッファで、領主の不在という状況を『作り出した』人間がいるとしたら、確かに馬鹿の一言に尽きた。
「と、いうことで、ハウプト様の捜索をさせましょう。ハウプト様が何らかの事情でいなくなっただけならそれはそれでよし。事件が降りかかったハウプト様が見つかれば、それこそ犯人をただじゃおきません」
ヨナタンの眼鏡の奥の目が剣呑に光る。
一同は同意を表わし、一斉に頷いた。
この中にハウプトに害が及ぶことを許す者など、いない。
領主の座を彼らの目が黒い内にハウプト以外の人間が得ることを許す者など、いない。
ハウプトが事件に巻き込まれたなら、その犯人はハルファッファの関係者なのだろう。
しかし、その犯人はこの日を境に、ハルファッファ地方の有力者全員を敵に回したのだ。有力者たちは、どんな手を使ってでもハウプトと犯人を見つけ出し、そして犯人を追いこむだろう。
犯人はハウプトを蹴落とそうとしたと同時に、自らをも絶望の淵へ放り込んだ。
会議に参加する一同は、胸にメラメラと怒りの炎を滾らせて、「犯人許すまじ」とそれぞれ決心していた。
会議の成行きを見守っていたある人物だけは、思い通りにいかなかった会議に冷や汗をかいていた。
彼は思った。
まずい。
「突然暴漢に襲われた、森で迷ったといった事故があった可能性も否めませんから、その辺りも精力的に捜索するように。よろしくお願いしますね、ルピナス、ワイエン」
「了解致しました」
ルピナスとワイエンが敬礼する。
そこで、役人頭のフリードリーンが手を挙げる。眉根を寄せ、神経質そうな顔を更に神経質にさせて発言した。
「しかし、私は最初の主張を変える気はありません。如何に不自然なハウプト様の不在でも、領主の不在は不在、領主の代理は必要です。首長がいなければ役所の仕事の支障が出ます。民の生活に影響が出てしまうのは、何としてでも避けたい。領主代理を誰が行うのか?また、どれほどの期間になるのか?私たちはそれを決めねばなりません。」
「それは私も同感ですな。ハウプト様がいらっしゃらないのが困るのはもとより、領主の代理がいなければ誰にサインを求めればよいのか分かりませんからな」
テオも顎の肉を震わせて言う。
だがしかし、領主代理を誰がやるか、という問題も危ういものを孕んでいた。
ハウプトがいない状況であると、役職としてヨナタンが最も領主代理に相応しいといえる。いつもハウプトが領地を離れる際でもヨナタンが代理として動いているからだ。
しかし、その他の選択肢がないわけではない。領主は世襲制であることから、血縁としては叔父のグレンゲルトが最も領主代理として相応しいといえ、また後見人が領主に代わって務めを果たすのも一案で、ハウプトの後見人のカールも相応しいといえた。
そして、領主代理に相応しい人物は、ハウプトが謀略にかけられていたことが実証された場合に、真っ先に容疑者として疑われる者でもあった。
「やあやあ、まさか大事な甥っ子の無事を見ないで領主代理などやってられない」
グレンゲルトが円卓の上でしきりに指を動かし、弱々しく言う。
そんなグレンゲルトを横目で見ていたヨナタンが声を張り上げた。
「ご心配なく。私に案がございます」
「ほう、何だね」
カールが面白そうに若者を見やった。
「現在、監察官が王城からいらっしゃっています。その方にこの由々しき事態をお知らせして、中立的な立場から領主代理を務めて頂くのです」
ヨナタンの提案に、王立常駐騎士団のワイエンが口笛を吹いた。
「なるほど。俺のように外からやって来て、いずれは帰る人間を上に据えるのな。あの方は公平で厳然たるお方だから、相応しいや」
ワイエンが団長を勤める王立常駐騎士団はその名の通り王都から派遣されている中央政府の騎士団であり、数年に一度組織の組み換えが行われる。長年ハルファッファにいるが、ワイエンはやがてこの土地を離れる人間だった。
王立常駐騎士団は普段、城付騎士団と共にハルファッファの治安維持を行い、必要とあらば王都と連絡をとってその内情を報告する。こうした形態はホルン王家が諸国を統治して領邦国家を成立させた頃の体制が形を残しているといわれている。
とはいえ、現在ではよっぽどのことがない限り領地に中央政府からの干渉はないので、統治機構の一部、すぐ中央政府と連絡がつく便利で高級な騎士団として機能しているのが実情である。
ヨナタンの提案に、一同は頷いた。
ただ一人渋ったのは、グレンゲルトである。
「ハルファッファの土地をよそ者に任せられるかね」
「まあ、そういった感情がないことはない。しかし、今は誰もが協力するべきときであり、誰もが疑わしい状況だ。ハルファッファの領主代理に相応しい人間を領主代理に据えるのは、領主代理をする人間にとっても、周囲の人間にとっても、猜疑心を強めさせることになるだろう。そうなるよりはいいのではないかね?イードル」
カールの後押しで、ハルファッファに派遣されている監察官に領主代理の依頼を行うことになった。
◆
翌朝。有力者たちはヨナタンを先頭に、監察官のもとを訪れた。
今年春に派遣された監察官は、黒髪に分厚いレンズの眼鏡をかけた中年の男、王立政務顧問官にして、王城で王女の教育係の任についていたこともあるクロッサ・ライトネルである。
クロッサは自分に与えられている執務室で、朝一でヨナタン一同から依頼を受けた。
そして、眉間に皺を寄せた。
まったく、なんてことだ。
「で、ご領主がいない間、私に領主代理をしろと」
「何卒よろしくお願い致します」
ハルファッファの有力者たちに一斉に頭を下げられ、クロッサは憂鬱が増した。
どうも、役人は民の為に喜んでその身を差し出すものだと思われている節がある。それも、特に自分はそう思われている向きが強い。
監察官の本来の仕事は、中央政府から支給されている給付金が、領地で正しく使用されているのか確認をし、領地の実態を見て回って異常がないか調査する、というものである。ハルファッファは例年安定しており、クロッサは適切に確認作業を行えば今度の監察は滞りなく済み、今週で王都に帰れるものと見込んでいた。
が、なんということだろう。領主が失踪し、大変だなと思っていたら、自分たちの中から領主代理を出すのではなく、こっちに来た。
領主の失踪は只事ではないので、公正な捜査が必要なのは分かる。この状況での領主代理の選出は中央政府の認可も必要になってくるだろう。中央政府から派遣されて来た自分に領主代理の人事を相談するのは正しい判断だといえる。
だが地方政府はもともと一つの国であった経緯もあって独立志向が強い。まさか事件が起こった翌日に中央政府の人間を頼るとは思っていなかった。
しかも明らかに面倒臭そうで長引きそうな案件。依頼してきた有力者たちには正直恨み言しかない。
クロッサは溜め息を吐いた。
「他に方法はないのですか。例えば、王立常駐騎士団団長」
「はい」
「あなたから王城に連絡して領主代理に相応しい人間を派遣してもらうことができるでしょう」
「はい、閣下の仰る通りですが」
粗野な雰囲気のワイエンがニカッと白い歯を見せて笑った。
「今、王城からこの地に派遣されている最も身分の高いお方は閣下です。閣下から王城に連絡して頂いた方が陛下の耳にすぐ届きますし、閣下がお決めになったことなら中央政府も何も言わずに判を捺すでしょう」
その通りだ。
クロッサは王の信任も厚い政務顧問官として名が通っている。王女の教育係をやっていたこともあってちょっとした有名人だ。自身の判断で動かせる権限も大きい。クロッサさえ事情を手紙を書いて、どのような方針で事を運ばせるかを報告すれば、すんなりクロッサに領主代理の任命が下りるだろう。
偶々今回監察官の役割が回ってきてハルファッファにやって来たのが運のツキか。
クロッサは輝かんばかりの団長の笑顔を眼鏡の奥の垂れ目で睨んで、また溜め息を吐いた。ワイエン・ヤードと言ったかこの王立常駐騎士団団長。地方政府側に味方して。絶対こいつこき使ってやる。
クロッサは疲れたように言った。
「分かりました、『太陽と海風』の公演チケットは諦めましょう」
一同はぽかんとしてクロッサを見た。何を言っているのか分からないという顔だ。
『太陽と海風』は辺鄙な領地のハルファッファでも名の知られた隣国サウラ=フィフィールの劇団である。
彼らは、まさかクロッサが王都に巡回公演にやって来る劇団のために早めにハルファッファでの仕事を終わらせたかったのだと思ってもみないのだろう。
クロッサは波模様が描いてある美しいチケットを思い出して泣きたくなった。二年に一回来るか来ないかの劇団なのだ。女優ベローナを生で観れるのを楽しみにしていた。手紙を書いて、妻に同伴できないことを詫び、他の誰かを誘うように言おう。ただし幼馴染のあの男と一緒に行くのは駄目だと添えて。
ようやくクロッサの個人的な心情に思い至ったのか。有力者の面々がやや気まずそうにしているところへ、仕事の顔に引き締めたクロッサが宣言した。
「領主代理なのですから、失踪した領主の案件については私が独自に捜査を行います」
全員の表情に、戸惑いが走った。
「クロッサ様、それは・・・」
「皆、心配しているのです、ハウプト様のことを」
「我々も捜査に加わらせて下さい」
「あなた方が領主を慕っているのは、ようく理解しています」
言い募る有力者たちにクロッサは頷きかけた。
「しかし、普段の領主からしてみると有り得ない失踪なのですよね?」
「はい、ハウプト様が誰にも何も言わず、いなくなるなど考えられません」
「事件性も高いといえる。だが、一方であなた方はハウプト・ウィクリカイトに思い入れが強すぎる節もある。ハウプト殿が自ら失踪した可能性も捨てきれないのにも関わらず」
有力者たちは気まずそうに口を噤む。確かにクロッサの言う通りであった。
眼鏡を光らせ、クロッサはその場に集まっている一人一人の顔をしっかり見て、語りかけた。
「公正な捜査がお望みなら、私に一任させて頂きましょう。領主は王の信任を受けた者、ハウプト殿の失踪は中央政府としても捨てて置けません。捜査には力を尽くします」
「なんと!お力強いお言葉。ありがとうございます!」
カールが胸に手を当て、礼をとる。
クロッサは頷き、「しかし」と続けた。
「私の任期は一年とします。一年の間に領主が見つからなければ、新たな領主を選出します」
「そんな!」
ニームスが悲痛な声を出した。ヨナタンは憮然とした表情になり、舌打ちをする。他の者も、不安げな表情をした。
一同の動揺を物ともせず、クロッサは決定事項というばかりに断言した。
「自ら失踪したのならば戻らない気であるということ。事件に巻き込まれたのであれば、既に死亡している可能性が高いということ。ただ冗長にいつまでもハウプト殿の行方を案じるわけにはいきません。季節は巡り、社会は刻々と変わります。いつまでも仮の領主がいるわけにはいかない。分かって頂けますね?」
物申したい、そんな顔をしている人々に、クロッサは言う。ニームスのすすり泣く声だけが監察官の部屋に響き、反論は出なかった。
「一年が期限です。捜査にご協力をお願いします」
一同はクロッサの言葉に了承するしかなかった。
この頃、ハルファッファ東部地区の田舎村サーコイの駐在所で、駐在が一人の記憶喪失の男を怒らせ、顔面に机を蹴り入れられたことを誰も知りようがなかった。
◆
一段落終えたヨナタンは落ち着かない気分で城郭内を歩いた。
城の外に出て、石の壁を殴りつける。捜査だけはハルファッファの重鎮たち、ひいては自分の目が届く範囲で行うつもりだった。だがあの監察官の方がうわてだった。あっという間に全て「中央政府の公平の下」に置かれてしまった。
ちくしょう。
俺は手をこまねいて見ているだけしかできないのか。
イラつくままに石壁に寄りかかると、
「ヨナタン」
と、声をかけられた。
少し離れた場所にいる鎧を着た騎士を見つけ、ヨナタンは軽く目を見開いた。
「ゲオルグ」
よう、と言って軽く手を挙げて挨拶をしたのは騎士のゲオルグ・ヘルティゲンである。
有力者会議にはいなかったものの、彼もまたハウプト、ヨナタンと同年であり、二人の友人だ。
茶色い髪に、やや濃い青の瞳。爽やかな雰囲気の青年は、真面目な表情で近付いてきた。
「ハウプトは?どうなった」
「・・・まだ、見つかっていない」
「捜査の方はどうなるんだ」
「捜査は領主代理が行う」
「!!」
「さきほど領主代理をクロッサ・ライトネル氏が承諾した。ハウプトの捜査もライトネル氏に一任されることになった」
苦々しく言うヨナタンをまじまじと見て、ゲオルグは表情をふっとなくした。
「見損なったぞ、ヨナタン。俺らの領主じゃないか。みんな心配してやきもきしているんだ。今すぐ俺たちが捜し出してやるってくらい」
「分かっている」
「分かっていない!そこを交渉して中央政府の役人をどうにか言いくるめるのがお前の役割だろ!」
言い募るゲオルグに、眉根を寄せてヨナタンは噛み付いた。
「俺にはライトネル氏を言いくるめることなんかできない」
「は?何の感傷だ」
「感傷ではない」
吐き捨てるように、ヨナタンは言った。
「ライトネル氏と俺だと立場も頭脳も差があり過ぎるんだよ」
不可解そうな顔をするゲオルグに苛立って、ヨナタンは芝生をずんずん歩いていってその場を後にした。
田舎にずっと住んでいるゲオルグには分からないのだ。このハルファッファで最高の頭脳といわれるヨナタンが、王城の中央政府で長年経験を積んできたクロッサに敵うわけがないのだと。
中央で働き、王の手腕として数多くの業績を上げている重鎮に一領地の領主代理を頼み込むのが、どれだけ大それたことだったか。
反逆だった場合、中央政府にとっても捨て置けない、というのを逆手にとれば、ヨナタンはクロッサへの依頼に勝算があると考えた。だが、偶々派遣されていた監察官に早々に領主代理を頼んだのはこちらの都合でしかない。その理由が正当だとしても。
空は青い。堅牢な灰色の城の背後には白い雲が漂う。春の麗らかな日だというのに、ヨナタンの心は晴れない。先が見えない真っ黒な雲の中に放り込まれた気分だ。
ハウプトは一体どうしたのだろう。心配で仕方がない。
秘密裏にでも動きたいところだが、自分は反逆が疑われる立場でもある。
ゲオルグの先程の言葉に、あいつは俺が慎重に動かなければならない理由にも頭が回らないのだ、とヨナタンは少し落ち込んだ。ハウプトが行方不明なのは最も心配なのは分かるけれども、それによって引き起こされる権力の均衡の問題もある。
クロッサが依頼を受けたので、それについては一応、棚上げができた。だが、クロッサは自分にも厳しい目を向けるだろう。
そうした状況を利用し、犯人はヨナタンを陥れる可能性もある。
だが、可能性は可能性だった。
ハウプト失踪に関して一番疑わしい人物の心当たりはある。
もし本当にそいつが犯人なら、そこまで頭が回るのか疑問だ。
油断はしない方がいいけれど。
ヨナタンは城郭に上がる石階段を上がりながら、考える。
これからどうしよう。
上がり切った先に、ぱっと景色が開ける。
城下町、ハルファッファ市が眼下に広がる。
こういうときのヨナタンの判断は早い。
補佐官としてうまく立ち回り、捜査の進捗状況を把握する。うじうじ悩んでいても仕方がないのだ。
この領地を、守るのだ。
だから、ハウプト、早く帰ってこい。
気持ちを切り替えて、ヨナタンは伸びをする。
まずクロッサに近付かなければ。
いつも通り、補佐官の仕事を誠実に行えば認めてくれるだろうか、と思ってから、ヨナタンはクロッサの発言を思い出して少し憂鬱になった。
自分、監察官殿の余暇を潰してしまった。
◆
クロッサは依頼を受けたその日の午前中に領主の執務室に入った。案内係の使用人は戸惑いながらクロッサを受け入れる。
その反応に、依頼を受けたのにも関わらず招かれざる領主代理の立場をつくづく感じる。だからこそ、早めに自分の足場を作らねばならない。これからこうしたストレスが続くのだと思うとうんざりした。
誰もいない執務室では甲冑や宝飾物が窓から差し込む光に照らされていた。綺麗に整頓された書類棚などを見、この部屋も主人を失って寂しいのであろうかとクロッサは思った。
執務机に腰を掛け、手紙を書き始めたとき、男の声が聞こえてきた。
「ああ 悲しい
領主様のいない執務室
領主様のいないこのお城
我らの希望 育て上げたお人形
愛情の行く末を失って
我等は悲しい臣下たち」
クロッサが目を挙げると執務室に奇妙な男がいた。
その男は白く顔を塗り、目と唇を黒いインクで縁取る化粧をしていた。太り気味に見える白地に空色の菱形模様がついたダボついた衣装と尖った帽子。黒いボンボンを帽子の先につけている。
道化か、とクロッサは思った。なるほど、お伽話と伝承の土地に相応しい。ハルファッファ城にはまだ道化が存在しているのである。
しかしどこからこの道化は登場したのだろう。
道化は古い時代に諸国で雇われていた芸人と吟遊詩人の役割を持った職業である。城に仕え、王に国の賛美や恋物語、市井の面白い話などを歌にして歌い、時には楽器の演奏やちょっとした芸を披露する、ムードメーカーである。また、悪い王がいたらその治世の風刺を歌にして聞かせ、欲にまみれた貴族がいたらその行いを告発する歌を歌って回る。
おもしろおかしい仕草をし、上手く詩にして歌って踊る、こうした神出鬼没の道化から民衆は情報を得、権力者たちは道化を利用しつつ彼らの言動によって自らの行いを引き締めるのであった。
雲を掴むような存在。
統一されていなかったホルン王国の古い時代には、どの国にもこうした道化がいた。
クロッサの前に立つと、道化は胸に手を当てて大仰にお辞儀をしてみせた。
「悲しい 悲しい クロッサ様
お役目なすりつけられたクロッサ様
『太陽と海風』の公演も諦めて
ハルファッファのために残って下さる
私 ヴンダーカマーも 御礼申し上げまする」
クロッサは苦笑した。もうこの道化はどこからか情報を入手しているらしい。
「こちらこそ、よろしく頼みます、ヴンダーカマー。なるべく短い期間で済ましたいものです」
道化の黒い唇が、にんまりと孤を描く。
「お可哀相なハウプト様
遠乗りに出かけられて
悪魔の誘いがあるとは知らず
信用なさったが崖の淵」
クロッサははっとした。
「何かを知っているのですか」
道化は微笑み、くるりと一回転すると、おどけて歌った。
「皆様 ご存知のお方
皆様 かのお方を疑っている」
「皆様」とはあの有力者たちを指しているのか。
クロッサの頭の中が回転を始める。老獪そうな顔ぶれが思い出された。あの中に黒幕がいるのだろうか?
そもそも、この道化は本当のことを言っているのであろうか?
道化はステップを踏んで執務室のドアの前までやって来た。
「領主は絶望に落とされる
しかし日々を失って
本来の心を取り戻す」
不思議なフレーズを残して道化はドアの向こうへさっと消えた。
なるほど、道化らしく、尻尾を捕まえさせない。
クロッサは難しい表情をして考えていたが、ベルを鳴らして使用人を呼んで告げた。
「王立常駐騎士団団長のワイエン・ヤードを呼んで下さい」
ほどなくして、ワイエンはやって来た。
「お呼びですか、領主代理殿」
ワイルドな顔に朗らかな笑みを乗せて、ワイエンが言った。
こいつ、どことなく胡散臭いやつだな、と思いながらクロッサは訊ねた。
「先程、道化がこの部屋に現れました」
「道化?」
ワイエンは少し考える素振りをしてから、「ああ」と思い出したように言った。
「ヴンダーカマーのことですな」
「そう、彼です」
「不思議なやつです。どこに住んでいるのか分からないんですよ」
「・・・先程、彼は気になることを言っていました。領主の行方不明に関して」
ワイエンの夕焼け色の瞳に、鋭いものが宿る。
「「皆様 ご存知のお方
皆様 かのお方を疑っている」」
クロッサはじっとワイエンの表情を窺いながら、道化の歌うような言葉を繰り返した。
「これ、どういうことだか分かりますか?」
ワイエンは口元に笑みを浮かべ、クロッサに問うた。
「それをどうして、俺に訊きますかね?この領地の人たちに訊けばいいものではないですか、閣下」
「貴方、ハルファッファに赴任して十年目ですよね。通常三年で入れ替わる王立常駐騎士団所属にしては長期赴任です。任期切れになる度、赴任希望領をハルファッファにして提出していますね。・・・それだけ、ハルファッファに思い入れがあるということでは?」
クロッサは目線を外さず、正直な受け答え以外は受け付けない、とでもいうようにワイエンに語りかけた。
「今、必要なのは、このハルファッファの状況に詳しく、かつハルファッファから一歩引いている人物です」
「俺にハルファッファに思い入れがあるなら、目が曇るとはお考えにならないのでしょうかね。俺は会議にも出ていたんですよ」
クロッサはゆっくり首を横に振った。
「聞き及んでいますよ、ハルファッファの王立常駐騎士団団長。普段はほとんど城付常駐騎士団の決まりを守り、決定に従い、要請があったときにのみ『王立』としての力を貸していると。貴方は中立としての立場をよく理解しているはずだ」
ぽかんと目を丸くしていたワイエンは、突然笑い出した。
「あっはっはっは、閣下、買い被りすぎです。俺はパンと野菜の美味いハルファッファが気に入っているだけですよ」
「まあ、そうにしても、貴方には中立としての捜査に動いてもらいますよ。城付の騎士団の方とは距離を取り、自分の騎士団にはそのように連絡をして下さい」
にやり、と肉食系の笑みをワイエンは浮かべ、胸に手を当てて礼をとった。
「お任せ下さい」
クロッサも頷く。
ワイエンは内心、クロッサのこの取り計らいを喜んでいた。
実際、ハルファッファには思い入れがあった。
赴任当初は「こんな田舎領地嫌だ」と思っていたが、ハルファッファ地方の人々の穏やかさ、農村ののんびりした空気にいつの間にか染まっていた。最初に任期を伸ばそうと思ったのはそれくらい気まぐれなもので、それこそ美味い食事も理由だった。
先代領主が亡くなった際の、あの空気は何ともいえないものだった。
悲しみと、若い時期領主に対する縋りつくような人々の心。
ワイエンは十八歳の少年が父母の死にも、急な領主任命にも挫けず、真っ直ぐ立つのを見た。
いい領主だ、そう思った。
王立常駐騎士団は三年の任期で交代する。後からやって来る、先代領主の死の直後に立ち上がった若き領主の姿を知らない人間に、ハルファッファを任せたくないと思った。
陰ながら、お力添えして差し上げよう。
豪放な性格の自分に、そんな騎士としての慎ましい精神が宿ったのは、そんな時だった。
だから、クロッサの申し出は渡りに船であった。
領主は絶対、自分が見つける。その覚悟はある。
寡黙で忠誠心の高いルピナスには、少し申し訳ないが。
自分はまた、中央政府の閣下を信頼し、尊敬する者でもあるのだ。
そして、一連のクロッサの言動に、その気持ちを益々強めた。
「ヴンダーカマーが残したヒントのことですが」
クロッサは目をぱちくりさせた。
ワイエンは構わず話し続ける。
「先代領主が突然死した際、周囲は当然次期領主にハウプト様を据えるつもりでした。それだけ先代の人望が厚かったこと、そして若くともハウプト様の賢明な性格が知られていたことによってのことでしょう。皆、ハウプト様を全力で支えるつもりでハウプト様が領主を継ぐものと考えていました」
クロッサは突然話し始めたワイエンの言葉に静かに耳を傾けていた。
ワイエンは自分に重要な情報を与えようとしている。
「しかし、そんな中でまさかの発言をする者もいました。『ハウプト様には執政が必要だ』と」
「執政」
クロッサは眉間に皺を寄せた。
執政とは、領主や市長、村長といった首長が幼かったり、正常な判断に助力が必要な場合に代わりに政治を執る者のことである。現代ホルンでは実力主義で幼い子供を首長に据えることはないと言ってよいので、滅多に聞かない言葉だ。
「補佐官の間違いではなくて」
「はい」
「領主の背後につき、代わって政治を行う者が必要と」
「はい」
「ハウプト様が王都でホルンの精神と領地の運営を学び、まともな判断の出来る青年であり、周囲の協力が確実に得られると分かっているのに」
「ええ、馬鹿でしょ?」
ワイエンがあっさりと嘲る。
クロッサは領内の有力者の中に、ワイエンと同じような認識があるのだろう、と推測した。
「誰です、そんなことを言ったのは」
にやりとして、ワイエンはその名を告げた。
◆
その三日後、クロッサの許に、二通の書簡が伝書鳩によって届けられた。
一方は、正式にハルファッファ領主代理人任命と騒動の収束を任せる旨の王の命令だった。
もう一方は妻からだった。手紙には「馬鹿」と一言だけ書いてあった。クロッサは泣きたくなった。
◆
王都から腹心の部下たちも到着し、クロッサは捜査を本格的に開始させた。
ハウプト・ウィクリカイトの捜索は部下とワイエン・ヤードに任せ、適宜報告を受けながら、クロッサは補佐官ヨナタン・ワイルドの助力を得ながら領主代理の仕事も行った。
ヨナタン・ワイルドの助力は適切かつ誠実みのあるものだった。領地運営の資金運用から、農産物に関する収支、産業、ハルファッファ地方に住む芸術家に対する助成金、それからクロッサが不慣れな領主が参加しなくてはならない領内の行事など、さまざまな事柄に先回りして、クロッサが不自由しないよう配慮した。
クロッサはハルファッファの豊かな農産物を実感すると共に、行事を通してハルファッファが培ってきた風土を理解していった。
乙女の踊る花祭り。
泥をぶつけ合う泥祭り。
洗濯女たちが大騒ぎして町中泡だらけになる洗濯祭り。
炎の周りで男たちが舞踊を披露し、それから皆で輪になって踊る夏祭り。
魔法使いたちが最も力を高めるといわれる夜、妖精界と繋がるといわれる東の野原での儀式。
昨年仕込んだ葡萄酒の樽を開ける日。
カボチャを城下町の坂道の天辺からいくつも落して町中の男たちが一斉に追いかける祭。
それはもう、祭だらけで、クロッサは驚いた。
王都ホルンにだってこんなに行事はない。牧歌的で開放的なハルファッファには、季節を謳歌する文化が根付いていた。
流石、妖精譚、お伽話の故郷。国家の食糧庫、ハルファッファ領。
クロッサは泥を投げつけられ、泡だらけになりながらの日々で、収穫高を見て納得した。それだけの異名をとるだけあると。
そして、ハルファッファは古くからの家系や文化を大切にする土壌があるのだという見解を持った。
かつて、ホルン王国統一以前の争乱期、ハルファッファ地方にあったハルファッファ王国の国王は、当時巨大な軍隊を持ったホルン王国王家から遣わせられた使節の勧告に従い、ホルン王国の属領に下った。
宣戦布告をしたら、ほとんど勝ち目がなかったためだと言われている。
そのとき、ハルファッファ国国王は、一矢報いるよう血気盛んに声を上げる国民を、お伽話を例えに用いて、どうにか説得した。被害を最小限に抑え、ハルファッファの地と人とを守る条件を提示し、ハルファッファ国王はホルン王国に下った。
その後、王都に人質として捉えられた元ハルファッファ国王は、従順に控え、賢く立ち回った。
ホルン王家はその王の態度に敬意を表し、ハルファッファ元国王筋の家系に、領主の地位が与えられることになった。
それがウィクリカイト家である。
元の国王の血筋を存続させたハルファッファの例は、多くの国を下し、数々の王家を取り潰してきたホルンのやり方としては、異例である。
花と戯れる乙女を見て、平和に守られた土壌を知り、妖精譚をそこかしこに聞きながら、クロッサは理解した。
かつてハルファッファ王国国王と呼ばれた人は、きっとその文化を守りたかった。
ホルン王家に突きつけた条件を呑む、ハルファッファ国王の機転によって、ハルファッファは踏み荒らされず、血が流れなかった。
統一後、多くの領地が統合され、祭や風習を失い、再編されていった。
だが、ハルファッファは文化を残し、今に伝えている。
かつてホルン王家は、ハルファッファを領地にした。
だが、ハルファッファ国王には負けた。
百年以上経った今、この領地は明らかにホルンに染まらぬ『ハルファッファ』だった。
クロッサはハルファッファ領の持つ独自性に、一種の畏敬を抱くようになっていった。
―――と、クロッサの心境の変化があったこととは全く関係なく、その大事な領主の捜査は難航した。
手がかりだけはすぐに見つかった。最も、精鋭といえる腹心の部下やワイエン・ヤードがいなければ見落とされたかもしれない。
ハルファッファ北部の平原は、奥地の岩山を背景に、渓谷へと繋がっている。渓谷の底は岩だらけで、東部へと繋がる川が流れる。
渓谷の崖の岩に、何かを引きずった跡のようなものを腹心は見つけた。
渓谷に下に降りて捜査したワイエンらは、古い血の跡と黒い染め粉の痕跡を発見した。
何者かが揉め、黒い染め粉で髪を染めた人物が淵に落ちたことが発覚したのだが、謎に包まれているのがその落下した『誰か』である。
そこには死体もなく、ハウプトが乗っていたはずの馬もいなかった。
「とすると、彼は生きているのでしょうか?」
クロッサはワイエンと腹心フラヴァの報告を受けつつ、眉間に皺を寄せた。
ワイエンは不可解、という表情で肩を竦めた。
「それは分かりません。血痕は確かに致死量にはならない程度のでしたが、そこから忽然と姿を消しているのですから」
「渓流に流されたということはありませんか?」
「血痕と染め粉が残っていたのは川岸です。谷は大人の男性二人ほどの高さがありますが、渓流はそれほど水量が多いものではありませんでした。領主が流されてしまったとは考え難いです」
腹心の報告に、ふむ、とクロッサは考えを巡らせ、使用人にヨナタンを呼ぶように言づけた。
駆け付けたヨナタンはワイエンとフラヴァの横に並び、不機嫌そうに答えた。
「お呼びでございますか」
「地理的なことをお伺いしようと思いまして」
「どうぞ何なりと」
若干投げやりなヨナタンの様子に、クロッサはこの補佐官の態度が大分硬化しているのに思い当った。
しかし、領主にとって有益な情報なら彼は教えてくれるだろう。
「城から北部に向かったところにある渓谷、あれはどこに続いていますか?」
「セーリン川ですか?あれは北部から東部に流れる川です。オドアルゲに行き、それからサーコイの方へ繋がっているはずです」
「セーリン川のある方面は誰が治めている土地でしょう?」
「地主はグレンゲルト氏です」
淡々と答えるヨナタンの手が、ぐっと拳を作った。
「あともう一つお尋ねしたいことが」
「何なりと」
「貴方の領主は染め粉で髪を染めたりしましたか?」
「染め粉?」
不可解げに首を傾げ、ヨナタンは首を横に振った。
「いいえ。そのようなことはありませんでした」
「ご苦労様。もう結構です」
「・・・領主代理様、教えて頂けませんか、捜査の進捗状況を。ワイエンはこの通り口の固い男ですし、誰にも聞きようがないのです」
「おおー。まさかヨナタン坊に褒められるときが来るとはな」
ワイエンがニカッと白い歯を見せ、わざわざ照れて見せる。
ヨナタンは無視して、執務机に両手をつき、そこに座るクロッサの方へ身を乗り出した。
「前にも申し上げましたが、皆、心配しているのです」
クロッサはヨナタンの眼鏡の奥に光る切れ長の目の茶色をじっと探るように見つめた。
「ワイエン、渓谷を辿って着く村や町、集落の捜査を尽く行って下さい」
「了解しました」
「フラヴァ、町々のどんな些細な事件でもいい。髪の毛の色も問いません。忽然と現れた青年がいないか、事例を集めなさい」
「分かりました」
「ヨナタン」
ヨナタンは目を見開いて、クロッサの顔をまじまじと見た。
クロッサは明らかに、ヨナタンに向けて命令を下した。
「領地経営に関するボロ、それから証拠集めをお願いします。領主が見つかったときに、徹底的に叩けるように。勿論、誰が相手だかは分かってますね?」
ヨナタンは少し考えた後、身を引いて、背筋を伸ばして「分かりました」と返事をした。
ワイエンが率いる王立常駐騎士団は渓流に沿って尽く町や村などを調査した。クロッサの腹心たちは駐在所や町の聞き込みを中心に、怪しい人物がいないか捜査を行った。
だが、最初に渓谷で争った跡が見つかった後、捜査の成果はなかなか上がらなかった。
クロッサは時折地方に足を運び、耳よりの情報を虱潰しに調査しながら、自らも捜査に加わった。だが、いずれも徒労に終わり、村や町の人々に「どうかハウプト様を見つけて下さっせ」と頭を下げられ、心を痛める日々を送った。
そうでなくともクロッサは多忙だった。王城宛に報告書を書き、王城から送られてくる政務に関する質問や意見に返信し、学院で教鞭を執っていた頃の教え子の結婚に祝福を送り、論文は添削して赤だらけにして送り返した。
妻には合間を縫ってハルファッファの行事や風習を書いて送った。毎回「馬鹿」とだけ返信が届いた。クロッサは苦笑いをした。
かくして、ハルファッファの日々は飛ぶように過ぎて行った。
ニームスが泣き暮らしながら城内を取り仕切る。
ヨナタンは補佐官の仕事を淡々とこなしつつ、虎視眈々と証拠集めに従事する。
フリードリーンやテオはクロッサと喧嘩してでも農場設備の予算を確保しようと奮闘し、ハウプト様ならもっと話が早いのにとぼやく。
ハンスは大量に収穫できた野菜を城の倉庫に運び入れ、カールは工場で出来た新作の織物や研究所の植物の掛け合せの成果を報告に来て、ハウプトのことに関してクロッサに探りを入れようとする。
ワイエンは捜査の難航に顔には出さないがイライラし、城付常駐騎士団団長ルピナスは王立常駐騎士団が捜査に加わっているのを横目にやきもきする思いを封じ込んだ。
◆
ようやく手がかりが掴めたのは、秋の終わりだった。
東部辺境サーコイ村で捜査をしていたクロッサの腹心の部下たちは、冬籠りの準備も終えている農民たちが口々に藍色のフード付きマントを被った男女の話をしているのを聞いた。
よくよく話を聞いてみると、女は長く森の奥に住んでいる一家の一人だが、今年になってから忽然と男を連れるようになったという。女の行商の手伝いをしていた、と人々は証言した。
「『真実語るトーマス』様を囲んでるときも来たが」
「ありゃわけわかんね。一番目立ってたが。何だったが」
村の駐在に該当する人物がいないかしつこく訊ねると、春に黒髪で水色の瞳をした背の高い男が「記憶喪失だ」と言ってやって来たと白状した。
「何でもっと早くに申し出なかった!!」
「領主様の特徴とちょっと違ったせ!仕方なが!」
震え上がる金髪の駐在を締め上げて、フラヴァはクロッサにすぐさま報告書を送った。
雪が降り始めたら厄介だ、とクロッサはワイエンを引き連れて、すぐさまサーコイに向けて出発した。
だが、無情にも雪は降り、クロッサは早速足止めを食らった。
翌日は晴れたので、また馬車を走らせてサーコイへ急いだ。
フラヴァの報告は内密のものなので、城のほとんどの者がクロッサとワイエンの外出を視察と思っている。クロッサとワイエンは顔を突き合わせて、ハウプトが見つかったらどうするかを議論した。
「それにしても、記憶喪失か。あの谷に落ちて、頭を打って無事なのなら、そういうこともあるでしょうね」
ワイエンが腕を組んで言う言葉に、クロッサは眉根を寄せた。
「だとしてもですよ、あの渓流、確かに下って行ったらサーコイを巡るわけですが、それまでの道のりはかなり険しいものでしたよね?どうやって移動したのです」
「北部から東部ですからね。かなりの距離でもありますねぇ」
ワイエンは白い歯を見せて笑った。
「まあ、細かいことは領主を発見してからでよいではないですか」
「事前に推測を立ててこれからを思料するのも必要な手立てと思いますがね」
だが、クロッサもようやく肩の荷が下りそうな予感はしていた。
そして、サーコイに向かう途中の道で、クロッサは藍色のフード付きマントをすっぽりと被った背の高い人物がハルファッファ城に向かって歩いているところを発見し、馬車を停めさせた。
◆
まずい。
彼はそう思った。
自宅の書類の整理をしていたら、裏帳簿がなくなっていた。会計書類もない。
いつもグリーンの書類鞄に入れていたはずだ。それが何故・・・。
額を伝う汗は冷たく、気味の悪い感触を残した。
この間ハルファッファ城に登城した際に、誰かに持ち去られたか。
確かに鞄の中に裏帳簿と会計書類を入れたまま、机に置いておいた瞬間があったが、誰がそれを知っていたというのだ・・・。
危機感に煽られて、部屋の中をぐるぐると歩き回り、考える。
しかし結局、彼は自らの都合のよい方に思考を流すことにした。
誰かに持ち去られたとして、膨大な収支資料と突きあわせて、帳簿との間違いを探せるだけの知識がある者でないと、帳簿はどうにもできないだろう。
そうだ、あれは持つべき者が持たなければ、理解の及ばない内容なのだ。
ひとまず、大丈夫に違いない。
今日は登城しろと城から使いが来た。
会議に参加するついでに、探したらよかろう。
彼はイライラしつつ、使用人に当たりながら支度を済ませ、粉雪の降る城下町へ繰り出した。
登城すると城は静かだった。
雪の日のホルン王国の城は何処も静かだという。
だが今日はそれが余計に寒々しく感じられるのは、自分の身に起こった事件のせいなのか。
危ういことが起れば、人は気が気でいられないものだ。
羊毛のコートを着込み、ふかふかとした絨毯を歩く彼は、小さめの会議室に向かい、その扉を開けた。
「お久しぶりです、叔父上」
彼―――グレンゲルトはそのギョロついた目を見開き、わなないた。
まさか、いやまさかこんなところにいるわけがない。
小さめの会議室の円卓には五人の先客がいた。
領主代理のクロッサ・ライトネル、補佐官のヨナタン・ワイルド、王立常駐騎士団のワイエン・ヤード、グレンゲルトは名を知らないクロッサの部下。
そして、最も立派な椅子に、足を組み、優雅に座るのは―――行方不明の領主、ハウプト・ウィクリカイトであった。
グレンゲルトは震えるままに後退して退出しようとしたが、既に扉は閉められ、騎士が外から封鎖していた。
円卓に向き直ると、五人の視線が突き刺さる。
ハウプトは日に焼け、何故か最後に会ったときより精悍さを増していた。ブラウンの髪は少し乱れ、顎の輪郭がはっきりし、無精髭が生えている。素朴なシャツに上着といういでたちだったが、筋肉のついた体つきに見てとれた。
そして、水色に光る瞳は、真っ直ぐグレンゲルトを射抜いていた。
グレンゲルトはぶるぶると震え、吐き気を催した。
ハウプトはそんな叔父ににっこり微笑み、席を勧めた。
「さあ、叔父上。会議を始めましょう。そちらへどうぞ」
言われるがまま、従うしかなかった。
落ち着かず、指を組んでしきりに動かす。何故だ、どうしてだ。ハウプトは、何故ここにいる。
「ひ、ひさしぶり・・・ハウプト。元気そうで」
にっこりしたまま、ハウプトは首を傾げてみせた。
ハウプトの隣に座るクロッサが口火を切った。
「ついさっき、私とワイエン・ヤードは帰城しました。ハウプト・ウィクリカイト氏を発見して。道中色々お話を伺ったのですが・・・それによれば、グレンゲルト氏、貴方の今後を考えねばならなくなりました」
「何故!何を言った、ハウプト!」
声を上げたグレンゲルトの背後に、ワイエンが回った。ワイエンはグレンゲルトの肩に両手を乗せ、「まあまあ」と言いながらにこやかな顔で強引に座らせた。
「まず、聞きましょうよ、グレンゲルト氏」
青い顔をしてグレンゲルトは一同を見回した。全員、妙に静かな、凪いだ表情をしているのが気になった。
「私の今日までの捜査報告を手短に致しましょう。北部セーリン川渓谷、岩場に争った跡が見つかったのは初夏のことです」
「そんな報告聞いてない・・・っ」
「ええ、それは極秘の情報だからですね。岩場には底の硬い靴で引っ掻いたような跡がありました。そして、その渓谷の底、川の岸辺に血痕と黒い染め粉がありました」
「崖の上から、谷の底に向かって誰かが落ちた、ということです」
フラヴァがクロッサの説明に言い添える。
ヨナタンが眼鏡の奥の鋭い瞳でグレンゲルトを見据え、言った。
「北部の草原、岩場付近は誰でも入っていいとはいえ・・・グレンゲルト様の土地ですよね」
次に、にこにことしていたハウプトが口を開いた。
「あの日、僕は気晴らしに遠乗りに出かけました。前から、叔父上に北部の人気のない草原や渓谷は素晴らしい、是非来てくれと言われていたもので・・・」
ハウプトは目を閉じ、その風景を思い浮かべるかのように、たっぷり余韻を作って語った。
ふっと目を開け、その小川のせせらぎを表した瞳は、グレンゲルトを捉えた。
「・・・まさか、森の方から矢を射かけられるとは」
グレンゲルトの顔色がますます悪くなる。
ハウプトは構わず続けた。
「暴れたヒート・・・馬の名ですが、ヒートに振り落とされた僕を、更に硬い棒のようなもので殴る男がいた」
「これですね」
ヨナタンがスコップを取り出した。
グレンゲルトはそれを見て、凍りついた。
何故それがここにある。
ハウプトは頷いた。
「それはもうすごい形相で、使用人のキジェンに殴るよう命令していました。ねぇ、叔父上?」
訊かれて、頷くことができるわけがない。
「それから僕は引きずられ、岩場で髪の毛に何かを塗りたくられた。ぼんやりはしていたけれど、意識はありました。『早く、早く、そいつの顔を潰せ!それから谷に放り捨てろ!』」
声真似に、グレンゲルトはびくっと肩を揺らした。
ハウプトは、再び微笑んだ。
「そう言いましたね、叔父上。僕はまずいと思い、キジェンが僕の体を起こして仰向けにさせたところを、わざと渓谷に体を滑り込ませ―――落下しました。何度も岩にぶつかり、体が痛みました。最後の後頭部のショックで気絶しました」
じっと全員の視線が、グレンゲルトに注がれた。
続いて、ヨナタンが拘束したキジェンの証言をまとめたものを読み上げた。
何が起こっている?
グレンゲルトは会議の成行きに冷や汗をかいた。
自分は領主の叔父に当たる者だ。前領主にとっては義弟だった。こんな扱いが、許されるわけがない。
「ハウプト様の髪を染め、顔を潰して、誰の死体か分からないようにしようとしましたね?」
補佐官なんかに、睨まれる筋合いなどないのだ。
そもそも、領主の位は自分に授けられて然るべきものだったのだ。
グレンゲルトは、そう思っている。
前領主、姉の夫が亡くなったとき、グレンゲルトは慎んで領主の役目を頂戴するつもりだった。
ところが、誰もグレンゲルトが継承できる件に言及しない。皆、若造のハウプトを選んだ。執政を申し出たところ、怪訝そうに見られた。
何故だ?グレンゲルトの中では、その疑問がずっと渦巻いている。
自分だって地主で、土地の運営を行っている。何も経験のない、王都で座学だけやってきたハウプトに任せるより、ずっといいはずなのに。
その思いはずっとついて回った。
ハウプトは周りから助けられながら、よくやっていた。
しかし、ハウプトは周りを助けているように見えなかった。いつも助けているのだし、血縁なのだから、少しくらい恩恵があっていいものを。
それを言ったところで、甥っ子は自分を相手にしない。まるで馬鹿にしている。
グレンゲルトにも息子がいる。息子が走り回っているところを見て、グレンゲルトはやはり領主の位は自分に譲られるべきだと思った。ハウプトはちっとも嫁をとったり、世継ぎを作ろうとしたりしないではないか。これはハルファッファにとって由々しき事態ではないか。
その点、グレンゲルトには前途有望な息子がいる。前領主の妻の甥っ子だ。彼にはそれ相応の権利があって然るべきだ。皆もそう思っているだろう。
だが、ハウプトが邪魔だ。
そう考えたとき、グレンゲルトは思い付いた。
それは恐ろしい企てだった。が、ハルファッファのため、未来の子孫のためである。
グレンゲルトは実行に移した。
あとは、甥を思って嘆いておけば、自然に自分に人望が集まり、周囲が領主になるよう頼んでくるだろう。
顔を潰さないままだったのは気がかりだったが、渓谷を見下ろして、グレンゲルトは勝利に浸った。
「実に残念、残念です、叔父上」
ハウプトが憂うように言った。
「叔父上、なんという罪を犯したのか、ご存知ですか?」
ハウプトが顔の前で組んだ手指の間から、水色の瞳が覗き、きらりと光った。
「反逆罪、というのですよ」
しかし、グレンゲルトはぽかんとして「何故だ」と言った。
「お前がいなくなれば、私が領主になるはずだった。領主代理も、クロッサ殿がいなければ私に皆が頼んだだろう」
その途端、けたたましい笑い声をハウプトが上げたので、グレンゲルトはぎょっとした。
ハウプトは笑い顔で叔父に問うた。
「一体、その自信は何処から湧いてくるのでしょうか。昔から古い家柄が偉いと信じて止まない、自分の都合のいいようにしか考えていない叔父上でしたが、ここまでとは。土地を増やしてくれだの、資金を使わせてくれだの、個人的な意味不明な要望に散々振り回されてこのザマだ」
「何を言う。ずっと私はお前のために力になってきたじゃないか、身内として」
「叔父上、存在しているだけじゃ、血の繋がりはあっても『身内』とはいえないのですよ」
クロッサはハウプトとグレンゲルトが一体何を話しているのか理解できていなかったが、まさか、と目を見開いた。
このグレンゲルトという人物は、自分が『叔父』という存在であるだけで、ハウプトに貢献していると考えているのである。
『地主』であり、『領主の叔父』であるだけで、その権益を融通してもらえるのが当たり前だと、考えているように。
ハウプトを支える者は皆身を粉にして働いていた。本気で助言し、ハルファッファのことを考えていた。
しかし、クロッサも理解していた。これまで領主代理をやってきて、グレンゲルトがハルファッファの領内全体において何かしら役に立つよう自発的に動いたことはなかった。
それでいて、ハウプトがいるときには、『叔父』である立場を重んじるよう要求していた。
なんて奴を野放しにしていたんでしょうね。
クロッサは心の中でひとりごちた。
クロッサは会話の通じない奴が嫌いである。
ワイエンからグレンゲルトが見当違いの発言をする人物だと聞き、クロッサは様々な人間からグレンゲルトに対する心象を教えてもらった。
全員が全員、うんざりした顔で「馬鹿」「話しが通じない」「自分の都合のいいようにしか考えない」と言った。
ヨナタンが苦虫を潰したような顔をしている。もっと早くにグレンゲルトを処理しておけばよかったと思っているのだろう。
ハウプトがゆっくりと、幼子に話しかけるようにグレンゲルトに話しかけた。
「いいですか、叔父上。叔父上が相応しかろうと、現在の領主は僕です。分かりますね?」
グレンゲルトは怪訝な表情をした。
「で、叔父上は立場としては、臣下に当たります。いいですね?」
ハウプトはいちいち、笑顔である。
「臣下が、その主である領主を殺そうとした。これは何ですか?」
「反逆・・・しかし、お前は甥っ子だ、そうだろ?」
バーン、と円卓が平手で叩かれた。
我慢し切れなかったのはワイエンであり、縮こまったグレンゲルトをじろりと睨んだ。
そして、クロッサが口を開いた。
「例え、叔父と甥の関係であろうと、領主に対する反逆罪は重たいものです。そして、例え、叔父と甥の関係であろうと、殺人未遂は重大な罪です」
グレンゲルトが目を剥いた。
「うるさい!お前などよそ者のくせに!」
「よそ者、という方便は使えませんよ」
クロッサが黒い落ち着いた瞳でグレンゲルトを見据えた。
「ここはホルン王国の一領地、ハルファッファ地方ハルファッファ領。ホルンに属する一地方です。ホルン王国中央政府王立顧問官のクロッサ・ライトネルが与えられている裁量権は、ハルファッファ領内のみならず、他領においても、王都においても有効です。口を慎みなさい」
グレンゲルトは口をぱくぱくさせ、しきりに手指を動かした。
「おかしい・・・こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃ・・・」
駄目押しでヨナタンが述べた。
「それから、今年度に入ってからの帳簿を調査させて頂きました。不正搾取だらけですね」
そう言いながらヨナタンが出してきたのは裏帳簿と会計書類だった。おそろしい量の付箋が挟まれていることに気付いて、グレンゲルトは自分が想像していた最も帳簿が渡るとまずい人間に帳簿が渡っていたと知った。
「反逆罪、殺人未遂罪、虚偽罪、横領罪・・・」
両手を後頭部にやってリラックスしながら、口ずさむように言ったハウプトが、朗らかに告げた。
「叔父上、これは領地没収、家名返上の上、死刑ですね」
「ハウプト!お前というやつは、これまでの恩も忘れた、かっ」
立ち上がろうとしたグレンゲルトを、怖い笑顔を浮かべたワイルドが肩を押さえつけて座らせる。
ああ、と思い付いたようにクロッサは重ねた。
「それどころか、国王に対する反逆罪にも問われます」
「こ・・・国王?!」
グレンゲルトは目を剥く。
クロッサは冷たくグレンゲルトに言った。
「ええ、国王陛下がお認めになり、任命されたご領主を亡き者にしようとしたのですから、国王陛下に対する背信行為です」
グレンゲルトは身を震わせた。終わりだ。すべて終わったのだ。
ハウプトはある用紙を掲げてみせた。
「これは死刑執行書です」
「!」
「これに僕がサインするわけです」
「や、やめろ!やめてくれ!」
「ああ、そうだ、国王陛下に対する背信行為なのですから、国王陛下のサインも必要ですね。弱りました。この書類を一旦王都に送らなければならないなんて!」
また思い付いたように言ったクロッサの言葉を聞いて、グレンゲルトははっとした。
まだチャンスはある。ハルファッファはホルン王国の最西端だ。王都に書類を送り、戻ってくるまでの日数が稼げれば、グレンゲルトの使用人たちがどうにか主人を助け出す方途を見つけ出すかも知れない・・・。
「しょ、書類をお送り下さい!私はどうせ反逆罪です。覚悟はできております」
「ほう?」
「叔父上は覚悟がよろしい方ですね。そうでなくては」
ぺら、とハウプトはクロッサに死刑執行書を渡す。
「では私がサインしましょう」
は、とグレンゲルトは表情を強張らせた。
「私は王城から派遣された監察官であり、王城では政務顧問官です。こういった書類に関しては委任されているのですよ。そんなことも知らないで領主になりたいと騒いでいたのですか」
さーっと血の気が引いていくグレンゲルトの顔を眺めて、クロッサは嫌そうにハウプトを見た。
「まったく、何でこんな人間を野放しにしておくのでしょうね」
カリカリカリカリッ、とリズム感よくクロッサは死刑執行書にサインをし、ハウプトに渡した。
「ハ、ハウプト・・・」
「あ、ご心配なく。奥さまと息子さんは農業ぐらいはできるようにしますから。僕が甥として出来る事はこれで最後ですね」
縋るような目を剥けるグレンゲルトにそう言って、ハウプトは死刑執行書にサインし、笑顔を向けた。
会議室にグレンゲルトの絶叫が響く中、クロッサは日に焼けて逞しさを増したハウプトの横顔を眺め、長い長い任期を思って溜め息を吐いた。
穏やかな好青年だと思っていたが、どうやらハウプトについての認識を改めた方が良さそうだ。
◆
グレンゲルトが連行された後、会議室にクロッサとフラヴァ、ハウプトだけが残り、尋問と調書の作成が行われた。
ハウプトは生来の優雅さを以て、想像以上の健康さを感じさせる日に焼けた顔で、クロッサとフラヴァの前に着席した。
クロッサが馬車に乗って外を眺めている時、道を歩く、旅装姿の藍色マントの男を発見して、何故か「あれだ」と思った。
馬車に引きいれると、「お久しぶりです」と精悍さを増した顔を露わにしたので、クロッサとワイエンは顔を見合わせた。貴公子然とした雰囲気の中に、素朴な強さが加わって、領主は一層魅力的な青年になっていた。
尋問を始めると、ハウプトは長い不在を詫び、クロッサの仕事に礼を言った。それから身の上にあった出来事を話し始めた。
ハウプトは自分の身に降りかかった犯罪を丁寧に説明した。
「谷に落ちて、気絶をした、と」
「はい」
「それで気付いたときには、サーコイの森の奥にいた?」
「はい」
「物理的な距離がありますが、何か覚えていないのですか?」
「はい、眠っている間にそこにいたようで」
「貴方が乗っていた馬の事も分かりませんか?」
ハウプトは少し考えてから、それもよく分からないとクロッサに答えた。
続いてハウプトは、それから森で出会った女性に助けられたことを述べ、丁寧にこれまでの経緯を説明した。
全てを話し終わった後、クロッサはフラヴァが調書を書くペンの音を聞きながら、驚きを隠せなかった。
「つまり、ずっとサーコイにいたわけですか」
「ええ、その通りです」
そして、記憶喪失になって、謎の人物に助けられながら、森の奥に潜んでいたとは。
大変だった捜査に思いを馳せ、思わずフラヴァと顔を見合わせた。
「記憶の取り戻し方が妙ですね。『真実語るトーマス』、まるでお伽話です。これ本当ですか?」
「僕は真実しか言っておりません」
「もう一度聞きますが、北部の渓谷から東部のサーコイ村の森に倒れていたのも、その経緯が分からない、と」
「はい」
まったく、ハルファッファには不思議なことが多いらしい。
クロッサはハルファッファの空気に流されて妙な調書を自分が書いているのではないかと疑った。
だがしかし、筋が通っているからには、これを調書にしなくてはならない。
森の奥にいた女とやらも召喚して話を聞かなければ、とクロッサは顔を顰めた。
「それで農民のように日に焼け、働いたのですね」
ハウプトは何故か、嬉しそうな顔をした。
クロッサはこの時、嫌な予感がした。この無邪気そうな顔。自分に向けられる素直な表情というのは、大抵厄介な仕事が持ち込まれるときでしかない。
「そういえば、クロッサ殿、王都で行われる春の剣闘会はまだ参加可能でしょうか?」
「え?何を突然。まあ、ええ、可能でしょうね、しかし―――」
「是非参加したいのです」
ハウプトがはっきり、クロッサの言葉を遮り、宣言した。
クロッサは顔を顰めた。
「どうしていきなり。確か貴方は常連ではなかった気が・・・」
「仰る通りです」
「何故、出たいのですか?」
そして何故それを、貴方を待ち侘びているハルファッファの人々にではなく、私に先に言うのですか?
暗にそうした意味を込めて問うたクロッサに、ハウプトが穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「結婚したい女がいるのです」
「まさか」
「はい、僕を匿ってくれた、藍色のマントを被った女性です」
目眩がした。
眉間に皺を刻んだまま、クロッサは厳しく言った。
「貴方が彼女に恩情を感じるのは分かります。しかしそれをいきなり結婚という形にしたがるのは一体何でですか」
「彼女を愛しているのです」
「愛している、ねぇ」
目を眇め、クロッサは問う。
「それは、彼女のためになりますか?彼女は領主の妻に向いている女なのですか?」
「はい」
即答したハウプトに、クロッサもフラヴァも度肝を抜かれた。
ハウプトは胸を張って、答えた。
「彼女は働き者で、思慮深く、純粋な優しい女性です。彼女の良さは僕の隣で発揮されることでしょう。また、彼女も僕を愛してくれています。彼女は僕が元の立場に戻れるよう、いつも一線を引いて接してくれ、それでいて充分に僕が生きていけるよう手ほどきをしてくれました。領主の妻となるのは重責であり、大変だと思いますが、彼女の考え方、知性は、このハルファッファの領主の妻として最良の者と考えています」
垂れ気味の目をぱちくりとさせて、クロッサは参ったなと頭を掻いた。
「そこまで言いきられますとね」
「はい」
「法律上は問題は確かにありません」
「はい。ですが、慣習上、領主が普通の農民の娘と結婚することは、ありません。ハルファッファでは地主の娘と結婚することが多いので、風当たりが強いと思います。そこで、剣闘会で王から直々に、結婚の許可を頂きたいのです」
「なるほど。ですが、分かっていますね?」
少し、おもしろそうにクロッサは訊ねた。
「剣闘会で王と口を利ける者は、数多の戦士を倒し、王と剣を合わせた者のみです」
春の剣闘会は、武を重んじるホルン王国の恒例行事、最強を競う祭だった。
一般の部と騎士・王族の部に分かれ、トーナメント戦が行われる。
そして、最終的に一般の部で勝ち上がった者と、騎士・王族の部で勝ち上がった者が戦う。
ハウプトが出場できるのは一般の部だ。そして、現王シャインは王太子以来無敗の伝説を誇る剣士である。間違いなく騎士・王族の部で最後に勝ち上がった一人となるだろう。
一般の部とて、勝ち上がって最後の一人になるのは、容易なことではない。
シャイン王に負けるのは目に見えていると言っていい。しかし、シャイン王は近年、一般の部で勝ち上がった者に必ず声をかけ、自分に負けようが褒美を与えていた。
最後に自分と闘った者を賛美し、その希望を叶えてくれるのである。
ハウプトは、それを狙うのだという。
「分かっています。決して負けません」
クロッサは若者の目に強い光が宿るのを見た。
これはとんでもないことになった。行方不明の次は、今度は結婚騒ぎか。
クロッサは恋が時に人を強くするのを知っている。
彼は覚悟を決め、ほとんど無謀ともいえる試みを、かの女性を自らに引き寄せる可能性として考えているらしかった。
こういうのは、嫌いじゃない。
嫌いではない。
だが。
嫌な予感を募らせるクロッサに、ハウプトは笑顔で言った。
「それで、クロッサ殿、ここまで代理をされていることですし、僕が王都に行く期間、もう少し領主代理をしていて頂きませんか?」
やっぱり。
『馬鹿』
便箋に一言書いてあった言葉が、クロッサの胸に去来した。
この回、ほとんどクロッサさんが主人公です。
クロッサさんは『国王夫妻のなれそめ』(http://ncode.syosetu.com/n4206bn/)でフレイア王女の教師として登場しました。
ホルン王国は高官だろうと地方に派遣して見聞させる方針です。
クロッサさんいい人だな~と思って頂けると嬉しいです。いい人なんです。