4 『水色』の正体
はらり、はらりと落ちてくる赤や黄、茶色の枯葉。
ユイルは木々を見上げ、冬が近いことを意識した。
秋の収穫が終わた後に村で行われた葡萄絞りの秋祭りは盛況だった。今年はよい実りだったらしく、ユイルの方にも葡萄酒の瓶が一本と小麦粉が一袋分け与えられた。
その理由に、家族が増えている、という印象を持たれているのは否めない。ユイルとヘルブラウは度々藍色のマントを被って、共に村に出ていた。
ヘルブラウは村で一番名高い薬問屋で見事ユイルの薬を売ってみせ、少なくはない金額を稼いでみせた。金銭感覚の薄いユイルに代わって野菜の値段も決め、以前言っていたようにそれ相応の金銭を得て収入も増やしていた。
薬や野菜の値段はそういうものと諦めていたユイルはヘルブラウの手腕に驚き、金銭が得られて嬉しいとともに、ヘルブラウはやはり普通の才覚ではないと思って落ち込んだ。
ユイルの生活になくてはならない人間になりつつあるヘルブラウを怖いと思った。
紳士的な振る舞いや、優しさ。知性や、楽しげな声。
いなくなったときに、一体自分が何を思うのか。
想像しただけで、胸が痛くなった。
そのきっかけは唐突にやってきた。
こともあろうか、ユイルの方から気付いたのだ。
「おめぇ、髪の毛の根っこの色が違げぇが」
ヘルブラウは小川のような色をした目を見開いて、ユイルを見つめた。
夕食後、いつものように縫い物をしていて、ふと机に向かって難しい計算をしているヘルブラウの頭髪が目に入ったのだ。
長くなった髪を手にとると、天井のランプの光りを受けて生え際がブラウンに光っている。
よく見ると、無精髭も茶色っぽい。
「おめぇ、髪の毛染めてただが?」
「僕の髪の色は何色ですか?」
「クヌギの色だが」
ヘルブラウが顔色を変えて、テーブルの木の模様を睨みつけて何事かを考え出したのでユイルは戸惑った。
「なしたがか?」
ヘルブラウはにこっといつものような笑顔を見せた。
「いいえ。今の僕の頭はカラメルソースをかけたみたいだろうなと思いまして」
すぐ、ヘルブラウは紙に向かいだしたので、それ以上会話は進まなかったが、ユイルは彼をフードの下からこっそり眺め、縫い物に目を落した。
縫い物を続けようと針を一回、二回、動かす。
手が止まる。そのままスカートの上に、手を置いた。
きっと自分は彼の過去に関する痕跡を見つけてしまった。
「村に『真実語るトーマス』が来ているだっせ」
秋の最後の朝市に、冬支度の買い物に来た村人たちが口々に言っていた。
このタイミングでやって来るのか。
ユイルは白い息を吐いて、人々のその囁きを聞いた。牛を連れて最後の行商だ。朝市の商品も軒並み少なくなってきている。もうすぐそこに、冬籠りの季節が迫っている。
藍色のマントを被って、ヘルブラウも共に来ていた。
「『真実語るトーマス』?何です、それは」
ヘルブラウが不思議そうに訊ねる。
ユイルは静かに答えた。
「妖精界に一度行き、帰ってきたといわれているお人だ。一体何歳かも分からね、真実だけを言う、物知りのご老人。ハルファッファを歩いて回り、各地方でお伽話や知恵を授けるが。今年の冬籠りさ、サーコイ村に逗留するみたいが」
「なるほど。まるで嘘のような話ですね」
「嘘でなし、本当だ」
ユイルは一瞬躊躇って、ヘルブラウに言った。
「おめぇの記憶を戻す方法も知ってるかもが」
ヘルブラウは何も答えない。
冷たい風が吹き抜けて、藍色のマントを靡かせる。ユイルはフードを引っ張って、しっかり頭を隠した。
「村の一番大けぇ家せ泊まるはずが。行くせ」
答えを待たず、ユイルは牛を引いて、大地主の家へと向かった。
『真実語るトーマス』がいる場所はすぐに分かった。
村の広場にいる彼の側には同心円状に人だかりができており、言葉を聞き漏らすまいと息を殺している。
彼は大きな楓の木の元に腰を下ろしていたが、他の多くの落葉樹が葉を落して裸になっているというのに、その楓の木だけは冬を忘れたかのように赤々とした葉でドレスアップしている。
そして、彼の姿は村の人々とは浮いていた。
白い髪と髭に埋もれた顔、青白い瞳。白衣は輝き、胡坐をかいて膝に笛をかかえている姿はぼんやりと光って見える。
翡翠色をした長い煙管を咥え、美味しそうに吸い込んで、ハーブの香りのする煙をフカフカと吐く。
そして静かに、染み渡るような声で語り始める。
「『輝ける人々』は黄金の髪を靡かせ、白い馬を駆り、勇猛な戦士の日々を続けている」
村人は、女子供も、男も老人も耳を澄ませて聞き入っていた。
「北の山の鉱山に彼らの城はある。城はオパールでできている。壁や柱やシャンデリア・・・。ときに金やエメラルド、ルビーなどをあしらって、その華麗な城は彩られている。その大広間で日夜饗宴を開き、彼らは王様とお妃様を囲んで踊るのだ」
溜め息が広がった。老人の語る夢物語に皆陶酔している。村人たちは『トーマス』にさまざまな話をねだり、冬籠りの間に暖炉の前に集まって皆で語り合うお伽話を蓄えているのだ。
村人のざわめきの中心で、煙草の煙を吹き続けていた『トーマス』は、人々の円の外側に立っている藍色の大小の影に目を留め、その淡い瞳を輝かせた。
「やあ、物語の続きがやってきた」
その途端、ぴたりと人々の声が止み、『トーマス』の見ている方向を振り向いた。
そして、互いに顔を見合わせた。
なんだ、あれは村の森の奥に住んでいる怪しげな魔女と男ではないか。
『トーマス』は両腕を広げて、二人を導いた。
「さあ、お側にいらっしゃいませ。私で役に立つことでしたら、何でもお話しましょうぞ」
ユイルとヘルブラウは互いにちょっとフードの端を見やって、村人が開けてくれた道を進んで『真実語るトーマス』の元へ歩み寄った。
『トーマス』は会釈をして言った。
「これはこれは、領主様ご夫妻とお目にかかるとは。座したままでのご挨拶をお許し下さい」
近くに座っていた村人が顔を見合わせ、笑った。
「領主様ご夫妻だ?『トーマス』様も目が曇りましたか。彼らは森の奥に住む罪人の娘と男だかんら」
ユイルは戸惑った。こればかりは村人の言っていることの方が正しい。この『トーマス』ときたら何をいきなり見当違いのことを言いだすのだろう。
ヘルブラウは『トーマス』をじっと見つめていたが、身をかがめて彼の側に膝をついた。
そして、『トーマス』に訊ねた。
「今、貴方は領主様と仰られました。貴方は私のことをご存知なのでしょうか」
「さあ、ご自分のことは、ご自分が一番分かっているはずですぞ」
「しかし、私は今、自分の記憶がないのです」
『トーマス』は白い髪と髭に埋もれた顔をにっこりとさせた。
「貴方が一番最初に覚えている記憶をお話し下され」
ヘルブラウは金色に輝く髪の人々に白い馬に乗せられて星空の草原を疾駆したこと、美しいエメラルドのような瞳の、この世のものとは思えない美しい人の顔が自分を覗き込んでいたことを話した。
ユイルはヘルブラウが話すのを、後ろで立ったまま聞きながら、初めて聞く話に驚いていた。
『トーマス』はうんうん、と頷き、煙草を吸って一息つくと言った。
「妖精の世界に連れ去られて、それ以前の記憶を落して来てしまったらしい。これは貴女の力でどうにかなるでしょう」
と、今度はユイルの方を向いて、頷いてみせた。
ヘルブラウが立ち上がって下がったので、ユイルは前に進み出て『トーマス』の側に膝をついた。
『トーマス』はゆっくりと、覚え込ませるように言った。
「よいですかな。貴女が彼のことを本当に想うのなら、彼に薬を作ってやるのです。乾かして粉々に砕いた卵の殻を煮立ったサンザシ酒の中に入れ、三回掻き回したら蜂蜜を加えて七回掻き混ぜる。最後に乙女の涙を一滴、落したら、二回掻き混ぜる。これを雪が降ってから最初の月夜に彼に飲ませるのです」
マントの下で体を強張らせているユイルを労わるように、『トーマス』はぽんぽんとユイルの肩を叩いた。
「彼と出会って育んだものを認めなさい。そうすれば万事上手くいきますぞ。悲しく辛い出来事も、貴女は受け止める力がある」
ユイルは老人の皺だらけの白い手をぎゅっと握り、頭を下げた。
『トーマス』は微笑んでユイルに頷きかけ、再びヘルブラウを呼び寄せた。身をかがめたヘルブラウの耳元に二、三囁くと、大丈夫というようにまた頷きかけた。
村人が不思議に思って眺めている中、『トーマス』は並んで立つユイルとヘルブラウに言った。
「これからお二人には困難が待ち受けている。
しかし、すべて試練と思いなさい。試練を乗り越えれば、確固たる礎ができる。
味方が敵に見え、敵を疎ましく思うときもあるであろう。互いの心が分からないときもあるであろう。
だが、味方に優しくし、敵もまた味方にしなさい。
自分と互いを信じ、行動し、発言しなさい。
それがまた、互いを結びつける原点となるでしょう。
どうか、この世が悲しいことばかりと思うことなかれ。
あなた方の力で〝物語の終わり〟へ運んでやって下され」
『真実語るトーマス』の言葉は澱みなく、村の外れに住んでいる怪しげな二人にはとても似つかわない大仰なものであったが、誰も止めることは叶わなかった。
ユイルにも、ヘルブラウにも、誰にも、『トーマス』が何を言っているのか、その言葉が何を暗示しているのか分からなかった、というのもあるだろう。
ただ、『真実語るトーマス』だけは、如何にも「分かっている」というように、翡翠色の煙管を咥えてにっこり微笑むのだった。
ユイルとヘルブラウは『トーマス』に礼を言い、ユイルはベリー酒の小瓶を、ヘルブラウはガーネットの輝く粒を渡して、その場から去った。
二人は無言で朝市の片づけが終わった道を辿り、森の薄暗い小径を抜けて家に帰った。
牛から荷車を下ろし、仕入れた食料や商品を家の中に持って行き、牛を家畜小屋へ連れて行く。
家の中に戻った二人はテーブルを囲んで座った。
ユイルは手に卵を持っている。重たい沈黙を破ったのは、ヘルブラウの方だった。
「何なんですか、あの老人は」
「『真実語るトーマス』だ」
カツン、と卵をテーブルの角で割り、木のボウルの中につるりと白身と黄身を入れる。
「確かに、不思議な方でした」
ユイルは水場に立ち、卵の殻を洗い始めた。
ヘルブラウは半笑いで藍色の背中に言った。
「まるで、僕たちが恋人同士であるかのような仰りようでした」
ユイルは何も言わず、卵の殻を水場の窓際に置いた。
何も答えないユイルに苛立って、ヘルブラウは珍しく声を荒げた。
「あなたは何も答えてくれない!僕はこのままでもいいんです。あなたはそうではないのですか?僕はいつまでもあなたの家の厄介者ですか?」
ユイルは水場の窓から畑を眺める。休閑期の畑だ。ここのところ寒くなって、霜柱ができるようになった。
春にはまた耕し、ユイルは種を蒔くだろう。
雑草を抜き、水をやり、野菜は育つ。それを収穫し、荷車に載せて、牛を引いて村に出る。
同じ春がやって来るだけだ。
ユイルは落ち着いた声で答えた。
「おめぇはもともと居候だが。記憶は失くしているが、都言葉にわたにはなか知恵。こんな森の奥で暮らしているような人間じゃねぇ」
ふっと背に熱が迫った。
水場の桶の縁にヘルブラウが手をついて、いつの間にかユイルを包み込むように立っていた。
体を強張らせて、ユイルは息を詰めた。
「僕はここにいたいがために、あなたといたいがために自分にできることをしてきました。あなたと暮らす、それを実現するために。あなたの生活にとって、必要な一部になっていたつもりでした」
浅黒くなった手はごつごつとしている。ユイルは知っている。ヘルブラウの白かった肌は日に焼けて、筋肉はつき、土に汚れた仕事もすっかりこなせるようになった。ユイル一人では出来なかった宝石の原石集めも、相場の計算も、家の修理も、羊の毛刈りも、ヘルブラウはやってくれた。
しかし、ユイルは知っていた。どんなに泥にまみれ、シャツやズボンを汚して農事を行っていても、彼が本来持つ優雅さは隠せない。
だから嫌だったのだ。
ユイルにとってなくてはならない存在になど、ヘルブラウはなってはいけないのだ。
「それだっせ、おめぇはここにいていけないが」
バンッ と水場の桶の縁を叩いて、ヘルブラウは家の外に出て行った。
ユイルは身を縮み込ませ、悲しい気持ちで卵の殻を眺めた。
最初から心は通じ合ってないが、『真実語るトーマス』さま。
胸の内で呟いて、ユイルは頭の中に甦ってくる静かな声を反復した。
『乾かして粉々に砕いた卵の殻を煮立ったサンザシ酒の中に入れ、三回掻き回したら蜂蜜を加えて七回掻き混ぜる。』
『貴女が彼のことを本当に想うのなら、彼に薬を作ってやるのです。』
ユイルは次の日からヘルブラウのための薬を作った。
彼のことを想っていようが、いなかろうが、ユイルは彼のために薬を作るだろう。
それで彼が記憶を取り戻すのなら。
赤い透明なサンザシ酒に、ふつふつとピンク色の泡が湧いてくる。湯気が立ち上って、甘い香りがふわりと広がった。
粉々に砕いた卵の殻の粉を、さらさらとその中に入れる。
三回掻き回し、蜂蜜の琥珀色をとろぉりと入れた。
ユイルは木の杓子をその中に差し入れた。
一回目。
彼の水色の瞳を思い出す。
二回目。
厳しい仕事に耐え、屈託なく微笑む姿を思い出す。
三回目。
少しおどけた声色。
四回目。
花を手にして差し出した。
五回目。
テーブルに向かう、真剣な顔。
六回目。
藍色のマントとフードに隠れていても、感じる気遣いと優しさ。
七回目。
『ユイルさん僕と結婚してくれませんか』
乙女の涙が、ほろりと零れて、赤い液体の中に零れ落ちた。
『最後に乙女の涙を一滴、落したら、二回掻き混ぜる。』
止まらない涙を藍色のマントの裾で拭きながら、二回掻き混ぜる。
『これを雪が降ってから最初の月夜に彼に飲ませるのです』
冗談でも、嬉しかった。
こんな森の奥で、誰の力も借りずに生きなければならないと思っていた。
だが、出会ってしまった。
他の誰でもいけない。
土にまみれても、穏やかで優雅な男。
『彼と出会って育んだものを認めなさい。そうすれば万事上手くいきますぞ。』
何が万事上手くいくのだろう。
ユイルが求めた人は、いつだってこの手をすり抜けていく。
ユイルが赤い液体の入った小瓶を見せると、ヘルブラウは顔をしかめた。
「作ったのですか」
「んだ」
光沢のあるブラウンの髪をがしがしと掻き、ヘルブラウは不満そうな顔をしていたが、ふと神妙な様子で訊ねた。
「これを作ってくれた、ということは、僕のことを本当に想ってくれている、ということでいいのですか」
ユイルは何も答えなかった。
森は冷気を纏って、刻々と冬を呼び込んでいた。
納屋には腐葉土を積み、家畜小屋を藁束で囲う。
ユイルは羊毛で織った布でコートを作って、ヘルブラウにくれた。深緑に白い複雑な模様が織り込んであるコートはしっかりとしていて、温かかった。
ヘルブラウはこのところ、そのコートを着込んで外の切り株に腰かけて、木の細工を作ることに精を出していた。
広葉樹はもう葉をすべて落し、針葉樹の暗い色が森を彩っている。霜が降りて白っぽい畑を眺め、なんともいえない気持ちになって溜め息を吐くと、吐く息がまた白いから自棄になってくる。
脳裏に染みついているのは、藍色のマントの小さな姿だ。あのまま後ろから抱き締めてしまいたかった。
なのに、頑なな背中姿は許してくれない。信頼はしてくれていると思うのに、どうしてもその心をくれないのだ。
愛している、のだと思う。
記憶など無いままでいいと思うくらいに、藍色のマントの彼女に惚れていた。
独りで立っていようとする姿に、働き者の姿に。
少しとぼけていて、即物的で、でも優しい言葉を発する彼女に。
謎めいたユイルの人間らしい振る舞いが、ヘルブラウには面白くて、可愛くてたまらなかった。
だがしかし。
ヘルブラウは『真実語るトーマス』の言葉を考える。
『トーマス』の非凡な姿・言葉を、信じるとすれば、ヘルブラウがこのままではいけないのは明らかに思えた。
そして、『トーマス』の言葉は、僅かな希望でもあった。
ユイルからもらった、赤い液体の入った小瓶を思い出して、胸が痛くなる。
わけの分からない部分もあったが、あの老人が言っていたことが真実だとすれば・・・。
木彫りの小さな輪を作り上げる。
輪を見つめて、その輪の間から見える冬景色に、また溜め息が零れた。
雪など降らなくていい。
灰白い雲が北からやって来たかと思えば、すぐに雪は降り始めた。
太くて長い蝋燭に火を点け、ユイルは大きなランプを外に吊るし、その側にチーズやパン、保存食の甘い果物を供えた。
ハルファッファの最初の雪には、妖精が混じって降ってくると言われている。家畜や子供を攫って食べてしまうが、妖精のための食糧を出しておいて、その場所をランプで夜通し示しておけば、あるだけのもので満足し、悪さはしないで幸福をもたらすという言い伝えがある。
そして、窓の外に、雪の上で踊る妖精たちの輪を見れば、その人は幸せになれる。
人々は外に出てはいけない。妖精に出くわすと、可憐な姿に惑わされて魂を食べられてしまう。
暖炉を囲み、ご馳走を食べながら、人々は窓を気にしつつ夜通しお伽話を語り合う。
ユイルとヘルブラウの食卓は沈黙で満ちていた。
野鳥の丸焼き、豆のスープ、黒パン、林檎のコンポート。蝋燭の火の光りが揺らめいて照らすご馳走は、美味しそうな匂いさせて並んでいた。
ヘルブラウは下を向いたまま、黙々と食べている。
ユイルは泣きたいような気持ちになった。父母が生きていた頃、こうした食事の日はお伽話で溢れていた。互いに自分が知っている物語を話し合うのである。
楽しかったな。
そんな楽しさを、自分はもう望むべくもない。
雪が降っているだけで、何故こんなにも気が落ち込むのだろう。
「とても美味しかったです。ご馳走様でした」
ヘルブラウはいつの間にか自分の分をすべて食べ終わっていた。
匙を止めたままのユイルに、ヘルブラウは皮肉げに言った。
「さしずめ、送別の宴というところでしょうか。これで明日の夜に月が出れば僕は薬で記憶を取り戻すという寸法ですから。あなたは面倒な居候を厄介払いできるわけだ」
いつになく刺々しい言葉に、ユイルは身を竦ませた。
フードの下から窺うヘルブラウの水色の瞳はとても冷たかった。
「あなたは残酷な人だ」
立ち上がって、食器を片づけようとしたヘルブラウに、ぽつりと呟いた。
「残酷なのはどっちせ」
驚いたように硬直したヘルブラウを残して、ユイルは立ち上がってふらふらと自室に向かい、戸を閉めて鍵をかけた。
そのまま床に座り込む。窓の外では雪が降り続き、雪明りで部屋はほんのり明るかった。
いっそこのまま、部屋の暗がりに溶けて消えてしまいたい。
戸の向こうでヘルブラウが呼んでいたが、泣き声が零れないように押し殺して、ユイルは泣いた。
本当はどこにも行って欲しくないなんて、
これからも一緒にいたいだなんて、
言えるわけがないじゃないか。
残酷なのはどっちだ。
ヘルブラウはここにいるべき人ではない。
彼は『ヘルブラウ』ではないのだから、ユイルは決めたつもりだった。
それでも胸が痛くてたまらなかった。
◆
次の日は嘘のように晴れ渡って、木々の隙間から青い空が覗いていた。
ユイルが朝早くに起きて、外のランプの側を確認すると、食料がなくなっていた。
おや、と思って眺めていると、
「昨日はすいません」
声をかけられ、ユイルは硬直した。
ヘルブラウは気まずい思いをしながら、立っていた。
ヘルブラウは昨日あれから、ユイルが部屋に戻ってしまったことを思って全く眠れず、色々思いを巡らせているうちに結局夜を明かしてしまったのである。
ユイルが外に出てくるのを、屋根の上の雪かきをしながら待っていた。
ヘルブラウはユイルの側に膝をつき、頭を垂れる。
「心無いことを言いました。あなたのことも考えずに。あなたの心が欲しいのに、それを恨み言にしてしまいました」
ユイルはヘルブラウの茶色い髪を見つめて、首を横に振った。
「いんや、それが正しいが。おめぇはこんなところで、こんなところの女に捕まってる男じゃねぇが」
「・・・あのですねぇ」
ヘルブラウが急に顔をがばっと上向けたので、ユイルは慌てて別の方を向いて顔を隠した。
ヘルブラウは立ち上がって、構わずユイルに訴えた。
「あなたのお父様が、あなたがこんなところでずっと一人で暮らしているのを願っていたとお思いなのですか!僕だったら、有り得ない。働き者で優しいあなたが、ずっと一人で森の奥に、誰も頼らずに暮らしているなんて耐えられません。僕は楽しかった、あなたと暮らして楽しかったんです」
ヘルブラウはぎゅっとユイルの腕を掴むと、ユイルの小さな手に硬い何かを握らせて、自分の両手で包み込んだ。
ユイルは俯いたが、心臓はバクバクと暴れていて、落ち着かなかった。
ヘルブラウは平気で、深く落ち着いた声で語りかけた。
「昨日の真夜中、窓の外を見たら、真っ白に雪で覆われた畑の上にキラキラ光る輪ができていました。キラキラ光る粒が跳ね回って、踊っているように見えました」
ユイルはぽかんとした。そしてやや遅れて気付いた。
「それ、妖精が」
「幸運を呼んでくれるという」
「おめぇ幸せになるせ」
「あなたも幸せになるんです。僕の幸せは、あなたと共にいれることです。記憶があろうと、なかろうと・・・僕はそう思っています」
ユイルは言葉を失った。
至極真剣な声が降ってきた。
「いいですか、僕が記憶が戻ったとき、あなたがそれを持っていたら、僕は問答無用であなたを連れ去ります。こんなところで絶対、一人でいさせたりしませんから、覚悟していて下さい」
ぎゅっと握られていたユイルの手に、柔らかい感触があった。
さっと、その手が離れ、去っていく。
キスされた。
ユイルは呆然として、雪の中に佇んだ。
この日の冬晴れは夜まで続き、空が夜色に染まるとぽっかりと満月が出た。
ヘルブラウは夕方になるまでずっと複雑そうな顔をしてうろうろしていたが、夜になると物凄く甘いはずの薬を一気に飲み干し、そのまま部屋のベッドで眠ってしまった。
ユイルはヘルブラウがいつ家を出てもいいように、準備をした。コートに、暖かい帽子、少し離れた場所へ帰らないといけないから、食料といくばくかの路銀。
ヘルブラウ・・・いや、彼はきっと高貴な生まれだから、こんな貧相な準備は嫌だと思うかも知れない。
あれこれ思いを巡らせていると、涙が出てきてどうしようもなくなった。
静かな居間に、いつも彼が書き物をしていたテーブルがある。今の奥には、彼が眠っている部屋がある。
そんな空間にいられない。
ユイルは家を飛び出した。
けれど、闇に静まった森の小径が目に入り、家と畑のある空き地を見ると、胸が掻き乱された。
あの小径に彼は転がっていたのだ。家の前の薬草を抜いていたから怒って、畑を一緒に耕して、森の奥にある小川で魚を獲って、宝石を一緒に採って・・・。
一年に満たない日々が、とても楽しい温かなものとして蘇ってくる。
夜空を見上げると、満天の星空が広がっていた。ユイルの悲しみをより鮮明に彩るみたいに、凍てついた空だった。
ユイルの頬につうっと涙が伝う。
どうして、あのまま一人でいさせてくれなかったのだろう。
森の奥で、一人で頑張るという覚悟をしていたのに。
どうして出会ってしまったのだろう。
出会わなければ、そしたらこんなに悲しくなどならなかった。
誰かと共に歩む幻想を見てしまった。
二度と、同じ日々には戻れないに決まっているではないか。彼にユイルが不必要になったとて、ユイルの心には彼と過ごした日々が宿り、孤独な宝石が胸に埋められたように、ずっと痛んで光り続けるのだから。
ユイルはポケットに入れていたものを取り出した。昼間、彼がくれた木の指輪だ。
最近ずっと慣れない手つきで木の細工を作っていると思っていたら、こんなものを作っていたのか。
指輪には小さなガーネットの欠片が嵌め込まれ、木肌はすべすべにやすりで磨かれてある。
指に嵌めるとぴったりで、ユイルは思わず微笑んだ。木の指輪など湿度でサイズが変わってしまうかも知れないのに、よくぴったりに作ったものだ。
彼が例え自分のことを忘れてしまっても、自分は忘れない。
この喜びを忘れない。
ユイルはこの時、動揺のために忘れていた。
冬の夜は危険であると。
目覚めた彼と顔を合わせるのが怖くて、寒い夜に震えながら外に佇んだ。
空を眺めていれば飽きることはない。真っ暗な森に縁取られた夜空には刻々と表情を変える星々の姿がある。
そう、森は暗く、時折風の唸り声が通り抜けていく。
だからユイルはギリギリまで気付けなかった。
木々の奥に光る目を二つ見つけ、ユイルははっとした。
光る目は闇の中にのっそりと動き、獣の唸り声を上げた。
熊だ。
ここまで近いと、背を向けたら襲われる。
ユイルは緊張しながらゆっくりと後退しようとしたが、無理だ、とパニックに陥った。
冬の熊はお腹を空かせているから、村の方に降りてくることがある。切羽詰っているから、獰猛になっている。
森の中のユイルが住む場所も、当然危険だった。昔、口をすっぱくして冬の夜は外に出るなと言われた。
お父さんが襲われたのも、冬の最中だった。
熊はゆっくりとユイルに近付いてきた。
ユイルは昨日まで火を灯していた大きなランプを掴んだ。襲ってきたら、応戦するしかない。
じり、とユイルと熊は相対した。
ここで死んでたまるか。
ユイルが睨みつけて、唸り声を上げる大きな熊に向かって一歩踏み出そうとしたその時。
「ユイルさん、伏せて」
咄嗟に伏せると、ひゅんと風を切る音がして、矢が熊に命中した。
熊は咆哮を上げ、唸り、跳び上がってユイルの背後にいる人物に突進しようとした。
飛び越えて行った獣の気配を感じ、ユイルは急いで身を起こして、熊の背に向かって渾身の力を込めて大きなランプを投げつけた。
身を捻って熊は悶絶し、振り向いてユイルを見た。
が、その直後。
どす、と肉を抉る音の後に、切り裂く音が聞こえ、熊が雪の中に倒れ込んだ。
白い雪に黒く血が広がっていくのが分かる。
血の匂いが充満する中に、倒れた熊を前にして立っている男がいた。
ユイルはへなへなと座り込んだ。
助かった。そう思うと同時に、恐れを感じた。
暗くても、立ち姿で彼だと分かった。
記憶を取り戻して、目が覚めたのだ。一体今、彼はどんな気持ちで自分を見るのだろう。
と、ユイルは自分の顔を覆うフードがないのに気付き、身を強張らせた。
「何も見えません」
気遣うような声が、ユイルのもとに届いた。
「フードが取れているのは分かります。でも、暗がりで何も見えませんから。・・・近付いてもいいですか?」
「あ・・・」
がたがたと震え始める体を止められない。
声が震えて、言うことを聞かない。
怖かった。死ぬかと思った。
そして。
会いたくてたまらないのに、会いたくなかった人が目の前にいる。
彼は熊を蹴とばして死んでいるかどうか確認すると、死骸を迂回して簡単にユイルのもとにやって来た。
矢筒を背負い、その手にはいつも狩りに使っている大ぶりのナイフが握られている。
「こんなところで・・・。少し遅かったらと思うと・・・」
彼の声は震えていた。
ナイフをその場に落とすと、腕を伸ばす。
ユイルは小さな震える声で訊ねた。
「記憶は・・・」
彼の手が止まり、頷いた。
「取り戻しました」
それは絶望だろうか。
ユイルの目から涙が流れた。もう、彼はユイルの目の前から消えてしまうのだ。
フードも何もないときに、彼の前に出るのは初めてだ。
だが、真っ暗で分かり難いけれど、彼の顔を真正面から眺めることができる。
暗くても分かる。彼はとても素敵な人なのだ。背が高くて、端正な顔立ちで。
ただ憐れに思われるだけかも知れない。
馬鹿だと思われるだけかも知れない。
彼はもう、今までの『ヘルブラウ』とは違うのだから。
それでも、言わずにはいられなかった。
「いかないで・・・」
暗闇で、彼が息を呑むのが分かった。
腕が伸ばされる。両腕で包み込まれて、ユイルは涙が止まらなくなった。温かくて、辛くて仕方がなかった。
彼はユイルの背を撫で、ユイルの髪に頬を当てて言った。
「どうか、僕を信じていて下さい」
緊張の糸が切れて、ユイルはそのまま彼に身を預け、意識を手放した。
◆
眠ってしまったユイルを抱き上げて、部屋に運んだ。
暗がりだから分からないと言ったが、やはり彼女は物凄い美人に見える。
冷え切った体を気遣い、ベッドに寝かせ、暖炉に火をつける。
彫刻のように美しい顔が、そこにあった。
頬を撫で、その顔を眺めながら考えた。
記憶は取り戻している。胸の奥で怒りで燻り、彼に冷徹さを与えていた。
このままではいられない。僕は戻らなくてはならない。
だが考えろ。手はあるはずだ。
『残酷なのはどっちせ』
ここで出会い、生活に入り込み、ささやかな幸せを味わって、愛を求めるようになった。
たった一人で生きてきた女に、それは確かに残酷だった。
帰らなくてはならないのに。
だが、僕はこの人をこのままで終わらせない。
『真実語るトーマス』が、自分を呼び寄せて囁いた言葉を思い出す。
『記憶を取り戻したその暁には、貴方は最愛の人を守らなければならない』
『必ず守り、そして誠実にありなさい。』
『決して、諦めてはならない』
彼は歯を食いしばり、立ち上がった。
行く前に、獣の処理をしておかねば。血の匂いで飢えた別の獣を呼び寄せることになってしまう。
居間のテーブルに簡易な旅の準備があった。あれは使わせてもらおう。
魔法瓶に温かいスープを詰めておこう。彼女が起きたときに、凍えてしまわないように。
ユイルの指に木の指輪が嵌っているのを確認し、彼はもう一度彼女の顔をよく見て、額にキスをして囁いた。
「信じていて下さい。絶対に君を一人にしない。この森の奥から、君を連れ出す」
◆
翌朝、目覚めたユイルに目に飛び込んできたのは木の天井だった。
毛布がこれでもかとかけられていて、ユイルが苦労してベッドを抜け出すと、暖炉に火が燻っていた。
はっとした。
そのまま居間に行き、彼が使っていた部屋に飛び込むと綺麗に片付いていた。
居間には綺麗に毛皮が剥がれ腑分けされた熊の肉が積んである。
外に飛び出すと、昨夜熊が倒れていた箇所は綺麗に血の部分が取り除かれ、森の小径に向かって大きな靴の跡が続いていた。
ユイルは雪の上にへたり込んで、ただ茫然と森の小径を眺めた。
『真実語るトーマス』はイギリスに残る民話から材をとっています。
参考文献:「妖精の国の住人」キャサリン・ブリッグズ著/井村君江訳 ちくま文庫 1991