第四夜 凍える記憶
12
突然、近くで鐘の音が鳴った。摩天楼の中で一際高く伸びる多角形のビル、その壁面の大時計がちょうど十二時を差したのだ。
鐘の音に並んで街の雰囲気が瞬時に変わった。眼が痛いほどの極彩色のネオンが一斉に消沈し、続けてビル壁面のホログラムが次々と様変わりした。蜘蛛の怪物と勇者は、赤い服を着た恰幅のある老人とトナカイになった。トナカイが引く大きなソリには、老人と、カラフルな小箱が溢れるぐらい山積みに盛られていた。人工の幻影はきめ細かくてリアルで、ずっと下界にいるアイル達にも鮮明に映った。
突然、薄暗い公園の照明に明るさが増した。噴水が巨木の形に変わる。根から幹へ、枝から葉先へと水が流れ落ちると根へと向かい循環を繰り返す。葉が金色に変わり、太い水の枝に七色のイルミネーションが浮かび輝き出す。そして、木の上に星形の冠が生えた。
「今日はクリスマスだったんだ」
カノンの言葉に、アイルは首をかしげた。
「クリスマスって何?」
地下の世界にはクリスマスはない。カノンにとって見慣れた一年に一度の風景は、アイルの好奇心をくすぐった。生傷の多く浮かぶ顔立ちと合わない、丸い瞳は実年齢よりも幼い感じがする。
いつの間にか、空からは人工の雪が降り注ぐ。
「あの赤い服を着たおじいさん――サンタクロースって言うの――がトナカイに乗って、一年に一度だけプレゼントを持ってきてくれるのよ」
カノンが言うと、アイルはますます驚いた。
「優しいおじいさんなんだね。でもボクのいる地下までは降りてこられないのかな?」
「サンタクロースはね、子供のいる家の煙突から入って、プレゼントを渡すんだよ」
アイルはその場で笑い転げた。
「あんな大きなおなかで煙突に入ったらつっかえちゃうよ!」
「だから、クリスマス以外の日はずっとダイエットをしているんだけど、最後は七面鳥を食べ過ぎてしまって、クリスマスの前日には必ずリバウンドしちゃんだって」
カノンの速攻話に、アイルはケラケラ笑いを止められなかった。もちろん、カノンはサンタクロースの存在を信じなくなったのはずっと以前の頃だった。いつかまでは思い出せないが、少しずつ夢から覚めるように、冷めていったのだろうと思っている。
雪を手に落ちた途端に消えるのを、少年は不思議そうに観察して今度は口を上に向けたりした。カノンが呆れていると、壁面に立つサンタがプレゼントを空中に向けて投げ始めた。虚空に舞う小箱は徐々に結んでいたリボンがほどけ、包装紙が飛び去っては消え、紙の箱だけが残った。そして一斉に蓋が開いた。
プレゼントの中から出てきたのは、色とりどりのおもちゃだった。ゼンマイ仕掛けのロボットに、洒脱な洋服をあしらった人形や、愛嬌な顔をした怪獣がカタカタと動き、テニスラケット、野球のボールがグローブとバットの間を行き来し、自転車やラジコンカーが空中を疾駆するなどしながら、おもちゃの群れが雪の空から降ってくる。
アイルは、落ちてきた丸顔の怪獣を掴もうとしたが、ホログラムなので手が透けた。豪華なプレゼントはすべて幻に過ぎない。アイルの興奮とは逆に、カノンの心はいつしか覚めていた。空しいだけだった。欲しいものが簡単に手に入っても、自分の手元からすり抜けてしまう。何も物だけとは限らず――。
――パパもきっと同じなんだ……。
心の声が囁き、カノンはハッとした。本当の自分が記憶を呼び戻そうとしている。記憶を一切合財押し込んだ(アイルと初めて出会ったような)小部屋の扉に鍵を差し込もうとする。鍵が回り、下りていたカンヌキが軋みながら上がる。
いやだ。思い出したくない。カノンは首を振りながら抵抗するが、頭の中では打つ手もない。クリスマスの夢から覚めたように、自分は今、忘却の夢からも覚めるのだ。じゃあ、そうなったら? 少女は自問した。今の自分は消えるのだろうか?
脳裏に浮かんだのは、彼女の求める答えではなかった。
「カノン、どうしたの?」
さっきまでのあっけらかんなあどけなさが消え、アイルの顔は強張った。
13
カノンは自分の部屋にいた。
ドアから入ると、床から天井までガラス張りの窓が目に入る。分厚い窓の向こうには、目も眩むような夜景が広がっている。無数のビル群が照らす照明、日々変わるホログラムのショー、視界をはるか下に転ずると、看板のネオンと、街に暮らす数多の蠢きが窺える。地上四十八階に位置するここの窓は、当然ながら羽目殺しだった。
それもただのガラス張りではない。壁にあるボタンを押すと、並立する摩天楼の柱は消えて、星々が光る夜空が窓一面を覆った。他にも、薄暗い宇宙や昔滅びた魚介類が泳ぐ海底を映し出す事も可能だ。
他にも、片手に本を抱え、もう片手で松明を掲げる巨大な女神像の周囲を巡るカメラアングル、雪景色で彩られた竹林、二等辺三角形を形作った鉄骨の塔、昔にいたとされる動物達が沈みゆく夕日を背景に大地を闊歩するなど、旧文明に存在したとされる昔日の風景を再現したCGも映し出せる。暗黒の世界の片隅で、人類が新たな再生を始める以前、世界を襲った何度目かの破滅よりも前の時代。
彼女は夜空のプロジェクターしか映さなかった。
「いい加減分かっておくれ、カノン」
部屋の中にいる誰かが言った。
「私はパパの人形じゃないわ!」カノンは金切り声を立てた。「こんな部屋で死ぬまでいたくないの!」
「何でも欲しいものがあれば言ってごらん。カノンは癇癪を起しているだけなんだよ」
いさめる父親の声は僅かに震えている。何を怖がっているのだろうか?
部屋の隅には、何種類もの動物の縫いぐるみが積まれ、高級なドールハウスがあり、楽器やグランドピアノまで置いてある。中には、赤ん坊の時からのおもちゃまで混ざっている。カノンが欲しいと言えば、父親はすぐに持ってきて与えた。物心がつく頃からからずっとそうだった。カノン自身も、初めは辺り前だと思っていた。
しかし、昨日まであっていた友達と会えない日が、数日から一か月、一年から数年と伸びるに従って、抑えきれない孤独が生まれた。
カノンは大変な病気なんだ。外に出ると他の人に移ってしまうから仕方がないんだよ。父親はそう言ったが、どこも痛くないし、気分も悪くなかった。どこも悪くないよ、とカノンは反論したが、父親はいつも話をすり替えては逃げていった。
今日こそは終わりにしようと思った。
「もう何もいらないから、カノンを外に出してよ!」
少女は縫いぐるみを父親に向けて何度も投げつけた。人形の家が壁に当たり、粉々に壊れる。小太りの父親は今にも泣きそうな顔で訴える。
「頼むから、分かってくれ。お前は外に出てはいけない。危ないんだ。誰かを怪我させてまで外に出たいのか」
「そうよ! もう誰がどうなろうと関係ないわ」
少女の背後に何かが佇んでいるのに気がついた。振り向くと、それはいた。天井まで届く、赤いユニコーンが白目で窓の鉄格子を睨みつけて、そして――。
14
カノンがいきなり走り出した時、止めようとするアイルを強く突き飛ばした。
豪快な尻もちをついたアイルは慌てて起き上がって、「カノン、どうしたの!」と叫んだが、少女は聞く耳を持たない様子だった。
カノンの足は迷う事なく、多角形の時計塔のあるビルを目指す。エスカレーターを数段飛び越えながら上がり、曲がりくねったトンネルを抜け、雑踏の中をかいくぐる。彼女の顔を見つけた巡回中の警官も追いかけるが、身軽に動き回るカノンが目的地に着く方が断然早かった。
《マイントワース・エンタープライズ》とあるビルの周りには掘りが囲い、唯一の入り口であるゲートがあった。カノンはゲートを抜けて、ビルへと続く架け橋を駆けた。堀は地下層まで下がり、中空を池が浮いていて、その中を魚が泳いでいる。
橋を渡りきったカノンと、少し遅れて来たアイルは、【ドーム】一のメディア機関を誇る高層ビル《エンタープライズ》の扉の前にいた。
「カノン、もしかして、思い出したの?」
アイルの問いに、少女は無言のままでいた。
15
アイルが少女に歩み寄ろうとした時、ポンッと空気が爆ぜる軽快な音が響いた。続いて、どこからともなく飛んできた巨大な網が彼に覆い被さる。逃げる暇もなく、少年はネットガンの餌食となった。
「アイル!」
カノンは少年を助けようとするが、網は複雑に絡まり容易には解けない。
「犯罪者は現場に戻るの鉄則に従って、ずっと張り込んでいた甲斐があったよ」
哄笑と共に登場するノエル探偵と、多数の警察官に二人は取り囲まれた。警官がカノンの手を掴んでアイルから引き離した。
「イヤ! 私はあの部屋に帰りたくない!」
「かわいそうに」ノエルは年齢に合わない憐れみを浮かべながら、「カノン嬢はストックホルム症候群を発症したみたいだ。後はカウンセラーの先生にでも頼んでくれ。ボクの目的はこ・い・つ」
ノエルは、ジタバタ暴れる少年のそばまで陽気にスキップすると、胸ポケットから取り出した羽ペンの毛先を振りつけた。絶妙なこそばゆさに悶えるアイルに向かって、少年探偵は勝利の笑みを浮かべた。
「誘拐犯アイル、これで分かったろ? 最後には正義が必ず勝つんだ」
「ボクは誘拐犯じゃない!」
大きなクシャミを吹きかけながら、アイルは反論した。鼻露がもろに顔面にかかったノエルは紅顔する。そして、懐から黒光りする手錠を取り出した。
「一度これを使ってみたかったんだよね。ただのアイル、未成年略取の現行犯でお前を逮捕する」ノエルは啖呵を切って、手袋ごと手錠を掛けようとしたが、ハンマーで殴られてできたような分厚いピエロの手にノエル愛用の手錠は小さ過ぎた。
ついにノエルは手錠をかけるのをあきらめた。
「お前には黙秘権がある、と思うなよ。地上の世界では、未成年の誘拐は内乱と並ぶ重罪だ。おまけに現行犯で状況証拠も十分。裁判抜きで刑は執行されるだろう」
「刑?」
「そうとも。地下層の死刑方式は知らないが、ここでは最先端の画期的な処刑方式を取っている。何だと思う? レーザー光線銃だ。四方八方、九十九丁の筒から放たれるレーザーがお前を一瞬で灰の山に変える。骨も髪の毛一本もこの世には残らない」
アイルは喉を鳴らした。ついに相手を屈服させた思いが極まり、少年探偵は残酷な笑顔を満面に浮かべた。
「連れて行け!」
数人の警官が芋虫みたいになったアイルを担ぐ。
カノンが警官の手を振り切り、少年の元へ走ろうとした。その時、「カノン!」と呼び止める声に、少女は立ち止まった。
ビルの入り口から、見覚えのある丸顔の中年男性が鈍足で駆け寄って来た。やや遅れて歩る、見慣れない女性に、ノエルは顔を一瞬引きつらせた。
「カノン……お帰り。本当に無事でよかった」男は涙を浮かべながら、呆気に取られる少女を抱きしめた。
「パパ?」
カノンは自然に口に出した。遠い記憶の映像に出てきた声と重なる。初めて会った相手なのに懐かしい感情が甦る。
「本当に無事で何よりだ」
「あなたは、本当に私のパパなの?」
少女の言葉に、彼は当惑の色を浮かべた。
「カノンは記憶を失っているんだ。ビルから落ちた時から」
「ソコうるさいぞ、受刑者!」
少年探偵がアイルの脇を突く。誘拐犯から受刑者に昇格したようだ。
「ノエル」
マイントワース氏の後ろに立つ女性が、澄んだ声でぴしゃりと少年探偵を射抜いた。電撃を浴びたかのように彼の体は硬直する。さっきまでの余裕は完全に消えていた。喪服と見紛う黒装束に、まっすぐに下ろした黒髪、対をなす白い肌の顔は凛としていて知性に溢れ、鋭い目つきは妥協を許さない人物の特性を具現化しているようだ。
「ミコ社長……どうしてここに?」
ノエルは消え入りそうな声で質問を絞り出した。ミコ探偵は容赦なく小さな助手を睨みつける。その様はまさに、蛇に睨まれたカエル。
「あなたが大立ち回りをしている間、カノン嬢の事情を調べていたのですよ。今回の事件の真実はすべて解けました。さあ、冤罪にした小市民を解放しなさいな」
ミコ探偵がアイルを取られた警官達に命じると、彼らはテキパキとアイルに絡まるネットを切っていく。ノエル配下時に漂うやっつけ感は微塵もない。
「でも、そいつはお嬢さんを誘拐犯した凶悪な――」
「だまらっしゃい! あなたの後始末のためだけに、どれほどコネクションを駆使したと思っているのですか。あなたのお母様も御嘆きでしたよ」
女探偵の喝に、ノエルを始めそこにいた人達は固まった。怒られた本人の目にはすでに涙が浮かんでいる。
「ママに言っちゃったの?」
「もちろんですとも。自分が死んでお詫びしますと包丁まで持ち出した時は、さすがの私も冷や汗をかきかけました。が、なんとか元の鞘に戻してもらいました」
ミコ探偵はアイルに近づくと、ゆっくりと頭を下げた。
「愚かな助手がご迷惑をおかけしました。勤め先のサーカスが被った損害、あなた様に対する人権侵害甚だしい誤報道、すべての責任はノエルの雇い主たる私、ミコ・クリステリアにあります。ノエルの終身までの給与で償わせていただきます」
ミコ探偵の後ろで、ノエルは口をパクパクさせて無言の抗議をする。
「それよりね探偵さん、カノンは記憶をなくしちゃったんだ」
「もう思い出しちゃった」
カノンは冷たい響きのある声でそういうと、父親の手を払い落とした
すべてではないが、彼女にとって知りたいだけの情報は思い出していた。父親は自分を愛してなんかいない。疎んじていた事を。
父親から離れ、少女はさめざめと言い放った。
「パパが、私をずっと部屋に閉じ込めていた事、パパが私を嫌っていた事も全部」
マイントワース氏は太い首を振る。「違う! お前のためだったんだよ」
「嘘つき! 全部自分さえよかったらいい癖に!」
カノンは走り出した。警官らの隙間を突っ切っていく。
16
カノンは闇雲に走っていた。目覚めようとする記憶を振り落し、少女は人垣を避けて、人の少ない路地へと走った。流れ落ちる涙を拭うのをせずに。
――そうだ、私はここから逃げたかったんだ。
どこでもいいから、あの家から離れたかったのかもしれない。あのまま帰れば、明日からずっと牢獄に入れられる。外からしか開かないドアに、鉄格子の張った大きな窓。もしかしたら、窓さえなくなっているかもしれない。
分からない記憶は未だ存在している。とめどない感情が奔流する理由――彼女が自分の家を嫌うものが何であるかが分からなかった。
脈絡のない誰かの言葉が脳裏に過ぎる。
切り裂くように現れる、ある一言。父が本当に言ったのかさえ分からないが。
『汚らわしい。どうして、よりにもよってうちのカノンが……』
記憶を手繰り寄せるように思い出そうとすると、例の頭痛が邪魔をした。足が絡み、カノンは躓いた。それから、ゆっくりと顔を上げ、建物の合間からはるか向こうにビルが覗く。鼻を打ったのか、鼻血がポタリと滴って地面に赤い斑点をつくる。
「カノン!」自分を呼ぶ声がした。
アイルの声だ。カノンは咄嗟に裏路地に身を隠して、やり過ごそうとしたがしかし、彼女の想いに反比例するように、少年は裏路地に視線を送った。こちらに向かって歩いて来る。どうして自分のいる場所が分かるのだろうか? カノンはいら立ちを感じ、自分から少年の前に現れた。相手が何かを言う前に歩み寄って、小さな肩を叩いた。
「どうしてよ! どうして私をそっとしていてくれないの? どうしてここにいると分かるのよ!」
「足跡を辿ったんだ」
少年の言う通り、カノンの小さな靴の後が薄いが点々と続いていた。
「怪我をしたの?」
差し伸べる手を振り払い、カノンは背中を向けた。何も話すつもりはなかった。
「このまま逃げても何も始まらない。カノンは頭がいいから分かるはずだ。君には家族がいるんだ」
「パパは私を愛してなんかいない」
「そんなはずあるもんか。僕も一緒に説得するから」
「アイルには分からないよ。物心つく前から牢屋みたいな部屋に入れさせられて、学校にも行けずに石像みたいな家庭教師に四六時中勉強だけを教えられて、後はずっと自分だけで遊ぶなんて想像できる?」
カノンはそのまましゃがみ込んだ。顔をクシャクシャにさせ、涙が鼻血の混じった鼻水と一緒に流れ落ちる。アイルは少女の背後に座った。
「ごめん。でも、その思いをぶけたらいいんだ。僕も一緒に話す。もしも、君のパパが、カノンをまたあの牢屋みたいな部屋に入れられたらまた助け出しに行く」
「また?」
しまった、と言わんばかりにアイルは口をつぐんだ。本当に、分かりやすいリアクションの持ち主だと思った。
「アイルは知っているの? 私がずっと座敷牢に入れられてたワケを?」
真剣な眼差しを投げかけるカノンの視線を、アイルは受け止めた。アイルをこれほど不思議な男の子だと思ったのは何度目だろうか? 時には屈託のない天真爛漫さで、時には不器用で優しくて。
アイルは一度深呼吸をすると、生傷の残る唇を開きかけた時だった。
「へへへ、無駄だよ無駄、馬鹿な奴らにゃわかりませんよお」
あまりにも場違いな揶揄が、二人の間の静寂を掻き乱した。
どこかで聞いたような声だった。アイルは声のした方をキッと睨んだ。そして腕を伸ばし、カノンを庇う形で後ろに下がらせる。
「よお、お二人さん」
いつの間に傍にいたのか、まるで闇の中から浮かび上がるようにして、その人物はいた。手には前には大きなパラソルの乗ったカートを押している。錆びた車輪がキィキィと逆なでさせる音を鳴らして近づいて来る。
ワゴンには赤い太文字で『トミー・ミート・トミー』とあった。舌を噛みそうな名前の肉屋だった。確か、串肉を売りさばいていた気がする。地下層のサーカスで、地上層の入り口で、街の中で、そしてここでも……。
普通、地下の人間は地上では生活できない。行き来するのが許されていない。普通に考えれば、そもそも地上層で彼に会う事自体が不自然なのだ。
「地下にもいたよね? どうして、僕らの行く先々にいるの?」
アイルの目は不信があった。それ以上に、唇は引き締まりいつになく真剣な顔立ちになっている。カノンには別人に思えた。
「お兄さんからは土の臭いがする。血なまぐささと鉄臭さと、でも――」
「でも? なんだい」
「体臭がしない。人の臭いが全然しない。土と泥。どれも【ドーム】にない臭いだ」
「ほお。ドブネズミの鼻は人一倍強いわけね」
感心しながら接近する肉屋に、とうとう二人は壁際まで追い込まれた。アイルは端に落ちていた酒壜を割ると、それを拾って鋭い方を肉屋に向けた。少年の威嚇に、彼は微動だにしない。
「知りたいかい? それならこれを見な」
肉屋はカートの蓋を開けた。鼻に付く湯気が湧き上がり、吐き気を催すほどの腐臭が周囲に立ちこめる。粘着質の強い油が気化したような感じだった。
「防腐剤もいらねえ程の良い肉だよ」
湯気から覗くのは、人間の頭だった。一緒に腕と脚が二本ずつ突き出している。カノンはたまらず叫んだ。アイルも何かを言うとしする前に、肉屋の手が伸びた。ゴムのようにしなやかに、あり得ない距離まで伸びて、アイルの口を塞ぐ。
「テメエはお呼びじゃないんだよ、星使いの小僧」
肉屋の手は大きくしなり、掴んだままのアイルを壁に叩きつけた。
「アイル!」
駆け寄ろうとするカノンの肩を、別の手が強く掴んだ。知らない間に、もう一人が背後に立っていた。一見スーツ姿の若い女性だが、細い身長は二メートル近く、金髪はヨレヨレにほつれている。女性の顔はまるでおかしかった。目があるべき個所には鼻があり、口があるべき所に鼻があるのだ。顔全体がずれているようだ。
肉屋はシワシワに緩んだ顔の皮を左右に引っ張ると、一気に引き裂いた。中から現れたのは、人間の顔と言えるものではなかった。長細く鋭角に伸びた顎から鋭い牙の並びがはみ出て、頬は痩せこけている。白目の面積が広く、黒目が異様に小さい様は、獰猛な爬虫類を想起させる。
「薄汚れた小僧と違って、お嬢ちゃんの肉は美味そうだ。売る側も涎が滴るほどな」
迫る怪物の顔にカノンが叫んだ時、遠くでサイレンがけたたましく鳴り響いた。
つづく
次回の第五夜「追撃の空」は21日(金)の同時刻に投稿します