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第二夜 飛翔

               

               3


 カノンはしばしの間、ベッドに腰掛けながら目をつぶった。暗闇に手探りをするように、記憶の断片をかき集めようとする。しかし、一分も経たないうちに中断した。名前以外の記憶はバラバラの断片になったまま、頭の中を漂っている感じだった。

 ただ、新たな手がかりはあった。財布の奥から一枚の写真を見つけた。折り目一つない綺麗なままの状態だが、セピア色で今よりも古い感じがする。

 写真には二人の若い男女が映っていた。長い金髪の女性は病院の寝巻姿で、顔は頬がこけ弱々しながらも瞳はこちらを見据え、細い唇は何かを覚悟しているかのように固く閉じられている。

 その彼女の肩に手を添えて、笑顔を湛える若い男性の丸顔には見覚えがあった。ビジネススーツに身を包んだ丸顔の中年男性。財布の主を思しき人物に似ている。

 ――彼女は自分の代わりに君を残してくれた。

 男の声が針となり(幻聴だ。本当にいるわけじゃない、とカノンは自らに言い聞かせた)、頭に突き刺すような疼痛を与える。

 ――なのに、なぜだ! どうして私の娘が……。絞り出すような声で、誰かが叫ぶ。 

 カノンは握っていた写真を凝視する。力一杯に引き裂きたい衝動に駆られ、思わず写真を投げ捨てた。膨らみのある金髪をかき上げながら頭を抑えた。

 頭の中で、とある情景が浮かんだ。

 広い囚人部屋。調度品や机、豪華なベッドが並んでいるのに、そこの大きな窓辺には太い鉄格子が並んでいる。牢屋というよりもふさわしい単語が浮き出る。座敷牢。

歪む情景が打って変わった。

 町の中を疾走する、一頭の赤い暴れ馬。全身を火で包み、あるいは鮮血を被り、鋼鉄の蹄で大地を蹴る。毛細血管の浮いた白目で睨んだ建物や、そこに住む人々を見境なくなぎ倒していく。そして、脳天に鋭い角を屹立させて……。

 まさに、神話に登場する一角獣。記憶を思い出そうとする度に、そいつが角の先で脳を突いているに違いない。

 彼女は首を振って否定した。ユニコーンなんて、はるか昔の人が信じた空想の動物に過ぎない。そもそも架空の獣を妄想する事自体、荒唐無稽だとカノンは思った。

 部屋の中を、重低音と換気扇の音が静かに流れ続ける。アイルとの出会いで得た熱は嘘のように冷め、後に残るのは言い知れぬ不安だけだった。

 カノンは部屋から出たいと思った。ずっとここにいると、気が変になりそうだった。それに、アイルも別段強くここにいろとは言わなかった。

 カノンはおもむろに左のドアノブを回した。扉の向こうは階段が続いている。壁に等間隔で豆電球が吊るされ、脆弱な光を照らしている。カノンは階段を恐る恐る上がっていくと、二又に伸びている通路に出た。いずれも一寸先は闇であった。

 一瞬、彼女は引き返そうかと思った。だが、振り返ってみると、部屋の扉はずっと真下の、小さな点に等しいほどの距離にあった。あそこまで戻る億劫だった。頭の中で暴れまわった、赤い一角獣が実体になって待ち伏せているかもしれない。余計な妄想が踵を返すのを躊躇させた。

 カノンは何の気なしに手を壁に置いた。すると、小さな窪みがあるのに気づいた。それらはいくつも並んでいる。彼女は左の通路にも手を置く。やはり、同じような窪みが並んでいるが、“点”の位置や数が微妙に違うようだった。

 しばらく考えた後、カノンは左の道を選んだ。壁に手を添えたまま、おもむろに暗闇の通路を進んだ。

どれだけ歩いただろうか、しだいに道の先から薄明りが見えてきた。

 

               4 


 カノンはたまらず安堵の声を漏らした。光の漏れている場所に近づくにつれて、人の声が大きくなるからだ。興奮と感動の喝采と並行して、軽快な曲が聞こえる。

 通路のゴール地点である、黒い幕からカノンは顔を少しだけ出して窺った。そこは今までの暗夜行路とは違う、別世界が広がっていた。楕円形に広がる、何層もの座椅子の段。家族連れやカップル、小さな子供達のグループも多くひしめき合い、汗ばむほどの活気に満ちていた。

 観客席に囲まれる形で設置された円形の舞台では、幻想的なショーが繰り広げられていた。

 軽快な音楽が流れ、スポットライトが照らす中、前輪が極端に大きく後輪がおかしいほど小さな自転車が巧みに交差し、その隙間を道化師が乗り回す大玉が際どく通過する。乱雑する中、さらに足に竹馬を仕込んだ別のピエロが入っていく。なのに、ぶつかる様子もない。カノンはワクワクした気分で釘づけになる。

 夢中になって立ち止まっていたせいで、売店カートを引く青年にぶつかりそうになった。席と席の間は意外と狭く、大人二人分ぐらいしかない。すれ違いざま、脂ぎった香ばしい匂いを鼻腔に入ってくる。

「肉はいらんかねえ、肉はいらんかねえ、肉汁が芳ばしいよお!」

 脂ぎった顔の肉屋がそう言いながら通り過ぎた。独特の臭いのせいで逆に食欲をなくしたカノンだが、通り過ぎるカートと入れ違うようにして、見覚えのある制服の二人組の姿が近づいてきたのを見て、鼓動が高鳴った。腰に警棒と拳銃を吊るしている。警官に間違いない。運よく空席を見つけたカノンは、咄嗟にそこへ座り、顔を伏せた。

「本当に、お嬢さんはここにいるのかねえ……あの若造、というより小僧か、生意気な事ばかり言って指図してからに……」

「巡査長殿は、あやつにいいようにこき使われていますからね。お察しします」

 若い方はそう言って慰めるが、気のせいか面白がっているようだ。普段から上司に不満があるせいかもしれない。

 警官らの姿が見えなくなると、少女はほっと胸をなで下ろした。なぜ? と素朴な疑問が湧いた。なぜ、警察の人から逃げる必要があるんだろう? 何も悪い事をした覚えは自分にはないはずなのに。

 舞台では、自分とそう変わらない年の子供がピエロに扮し、ハイテンポのダンスを興じていた。リズムに乗り、入れ代わり立ち代わりバック転を繰り出す。しかも、彼らの動きは寸分も違わずに均一を保っている。少年ピエロ達の織り成すパフォーマンスに、カノンは純粋に再び魅了されていた。

 新しい曲が始まるのと同時に、舞台後方の階段から一人が加わった。カノンは、その新入りに見覚えがあった。アイルだ。白塗りの顔で判別できないのだが、なんとなく動作で分かる。彼だけが浮いていたのは無理もなかった。他の子供と比べ、サンテンポぐらい遅れているし、どこかぎこちない。周りの客も笑っているので、単なる勘違いではないだろう。焦りが招いたのか、アイルの踊りは皆を追いつくどころか追い越してしまい、どんどんと先々に進み、挙句には音楽が終わらないうちにフィニッシュしてしまった。そのまま、得意満面などや顔で退場しようとしたが、皆のダンスが終わっていないのに気がつき、アイルは慌てて戻っていった。

 白塗りの顔に、学校の宿題を忘れて焦る学生を思い浮かべ、カノンは口を覆いながらクスリと笑った。

「何をコソコソしているんだい、お嬢さん?」

 急に横合いから声をかけられ、カノンは席から飛び上がりかけた。

いつから隣に座っていたのだろう、七、八歳ぐらいの小柄な少年がいた。髪は赤く、蝶ネクタイにしてスーツを着こなしていて、小さな紳士という出で立ちだが、目つきはおかしいほどに鋭く光っている。いかにも意地悪そうな顔つきなので、当然、カノンの受けた印象は芳しくはなかった。

「お嬢さんは、ココの人間じゃないね?」

「ここのって?」

「地下層に決まってるじゃん。ここは地上から離れた地下二十階層。あなたの服装や帽子からはみ出る金髪の人間は、どちらかと言えば、地上の人間の特徴に近い」

「……坊やだって同じでしょ?」

 カノンは、弱気ながら反論しようとしたが止めた。事実、観客の人は押しなべて顔の肌が白い。生まれてこの方、光を知らない証拠である。さらに、ほとんどの者が黒髪だった。反対に、先ほどの警官や、カノンと少年の肌は、どちらかというと気色が濃く、さらに燃えるような金髪や赤髪を蓄えていた。

「僕はいいの。例え地上の人間でもさ、警察関係者、それに準ずる権限を持つ者は地下層を行き来できるからね。いわゆる特例ってやつさ。だけど、君は大問題だよ。カノン・マイントワース嬢」

 思わず、少年の方に振り向いた。アイルに続いて、自分を知る少年。けれど、彼に比べると印象を良く感じない。

「マイントワース……」

 財布の持ち主と同じ名前で少年が呼んだ。という事は、あの人物と自分は赤の他人ではない。もしかしたら家族だろうか? そうだとすると……。 

「図星だろ」と、思案に耽っていたカノンに、少年は満足げなしたり顔を浮かべ、「僕はね、君を助けに来たんだ。マイントワース家の令嬢である君は誘拐されたんだよ。地上では、テンヤワンヤのスッタモンダの大騒ぎになってる。だから、大問題だと言ったんだ」

「わたしが、誘拐?」

「君はモグラの輩にここへ連れて来られた」

「モグラ?」

「地下層に住む連中の呼び名だよ。これがその証拠だ」

 ポケットから取り出したのは、ホコリまみれの赤いポンポンだった。

「マイントワース氏のビルにある、君の部屋にこれが落ちていた。さらに……」もう片方には見覚えのある、顔の大きいカエルをかたどったキーホルダーだった。本当の自分はよっぽどカエルが好きなのだろうか?

「発見したポンポンで僕はピンと来た。サーカスなんてアナグロな娯楽は、地下層でしかやっていない。案の定、ビルの数キロ付近に位置する地下層に、ちょうどサーカスの巡業をしている区画を発見した。我々はそこに潜り込んだ。そして今、君の目の前にいる。何か質問は? ――失礼」

 畳み掛けるように話し終えた少年は、脇に置いてある紙コップを持って、何かを飲んだかと思えば、一気に吐き出した。

「うええ……なんだ、この硫酸みたいなトブ水は!」

 少年が示すポンポンには見覚えがあった。アイルのそれに似ていた。そして目を凝らしてみると、舞台の上でヨタヨタ踊っているアイルの衣装のポンポンは、他のピエロよりも確かに一つ少ない。

 ――アイルは私を誘拐したの?

「本当に私は誘拐されたの?」

「そうさ、ミス・マイントワース。それもだ!」少年は身を乗り出してきたので、カノンは咄嗟に身を引いた。「あんな高さから、ここまで連れてこられるのは、ただのモグラじゃない。おそらく、“星使い”の奴だ」

「星使い?」

 少年は呆れた顔を浮かべる。

「地下層の連中の中にいるという、おかしな力を持った奴だよ。地上には決して存在しない、恐ろしく、汚らわしく、得体の知れない魔術だ。金持ちの子供にしては意外と物を知らないんだな、君は」

 カノンは、地下層の人間をモグラと蔑称で呼び捨てする少年を快く思えなかった。住む場所が違うだけで差別するのは間違っている気がしたのだ。

「私を助けに来たの?」

 ――違う。連れ戻しに来たのよ、きっと。

 もう一人の用心深い自分が警告したが、すでに手遅れだった。

「ハテナが多いね、君は。その通りにきまってるだろ」

「本当に私を助けてくれるの?」

「ああ、だから僕らを信じてくれ」

 カノンは舞台で必死にダンスについていこうとするアイルを一瞥し、目の前の少年に頷いた。頭の中でかすかに点滅する青信号を無視した。

「それでいい」

 少年は懐から取り出した笛を口に当て、思いっきり吹いた。ショーの音楽をかき消すほどの大きな音が会場に響いた。観客が一斉にカノンと少年を注視する。警官達も二人の元に駆けつけてきた。

「官憲ども全員集合! カノン・マイントワース嬢を発見したぞ!」

 カノンは逃げようとしたが、左右を警官が囲まれた。

「もう心配はないよ、マイントワース嬢。御父上が心配しておられる。君を保護したと伝えれば、氏も安心する。ついでに、僕の出世も約束される」

 ――あの人が娘を心配するはずがない。いつだって自分の事しか考えてこなかった。絶対、今だって……。

「いや!」

 包囲した警官達が手を広げた瞬間、彼らを押しのけるようにして、ピエロの格好をした少年が割り込んできた。

「止めて! 怖がってるじゃないか!」

 ノエルの顔が、宝を見つけた冒険者よろしく歓喜した。

「出たな、誘拐犯! モグラの子供が、金持ちの子供をかどわかすとはな。だが、この名探偵ノエルが来たからには、お前の野望も終わりだ」

「坊やの勘違いだよ。僕は、この子を誘拐してなんかいない」

 “坊や”の一言に、ノエルはきっと睨む。その呼ばれ方が嫌いなようだ。

「子供が子供呼ばわりしやがって……今さらとぼけて裁判に向けての保身か? はん、まったく往生際が悪いぞ!」

「違う! カノンのためだ」

 アイルの言葉に、彼女は引っかかった。

「構わん、両名とも取り押さえろ!」

 ノエルが叫ぶと、警官達が一斉に取り囲もうとした。

 ――今度こそ連れ戻される。知らない父親の輪郭が浮かぶ。本当の自分はなぜ、これほどまでに親を嫌っているのだろう?

「カノン、飛ぶから、しっかりつかまって」

 ――飛ぶ?

 直後、足元の感覚が消えた。見えない力で無理やり上に引き上げられた。警官に捕まって胴上げされたかと思ったが、何か違和感があった。

 カノンは恐る恐る目を開けた。自分達のいる位置が先ほどと違っていた。足の先が地面を離れていた。眼下で、警官達が互いに頭をぶつけて倒れている。彼らは見上げる形で、少年少女に目を丸くして凝視する。ここで初めて、カノンはアイルと共に宙を浮いているのに気づいた。

 浮遊する二人に、周りのギャラリーが騒然となった。舞台も同様で、猛獣使いと兼任する団長も口を開けたまま呆然とする。

「何してる! さっさと捕まえろよ!」

 ノエルが叫んだ。小太りの警官がジャンプして足を掴もうとする。

「行くよ、カノン」

 アイルと、彼にしがみ付くカノンはサーカスのテントへ上昇した。未曽有の感覚は意外に不快ではなかった。ヒュンと唸る風の音が心地良い。

 乾いた音に遅れ、何かが鼻先を竦めた。驚くべき事に警官が拳銃を撃ってきたのだ。二発目が放たれる前に、警官のすねをノエルが思いっきり遠心をつけて蹴り上げた。

「お嬢さんに当たったらどうするつもりだよ、安月給!」

 その反れた弾丸が、天井に吊るされた水桶(防災用とペンキで書かれている)に当たった。その中の水が 一気に落ち、真下にいたノエルは頭から被った。呆然とするノエル。「一丁羅が……またママに怒られる」

 少年探偵は泣きはらした目で舞台まで駆け上がると、団員らを押し飛ばし、ショーで使う大砲を引っ手繰った。

「こんなゲームはした事ないだろ!」

 耳がつんざくほどの轟音に続き、次々と砲弾が発射される。放物線を描き、黒い鉄球が鼻先をかすめる。無茶苦茶に発射されるそれらを、アイルは右へ左と間一髪に避ける。

 弾切れになり、癇癪の収まらないノエルは小太り警官に命じた。

「あそこを狙って!」

 孫の歳と変わらない探偵に顎で使われながらも、ドンガル巡査長は渋々ながら引き金を引いた。放たれた弾丸は、ノエルが指差す支柱の留め金に命中した。支えを失い、巨大な三日月が刺繍された天幕が、徐々に下がっていく。下の観客には、空が落ちてくるように見えたに違いない。

 アイルはスピードを上げて、目の前に開いた穴――大砲によってできた裂け目を目指す。二人の周りを黄金の鱗粉が舞い散る。

「カノン、目を瞑って!」

 二人は加速し、落ちゆく天幕の裂け目に向かう。隙間が近づけば近づくほど小さくなる気がした。間一髪かい潜って、テントの外へと脱出した。そして、アイルとカノンは巨大な地下の吹き抜けを抜け、星空が覗く地上へと向かった。


               5


「下ろして」

 消え入りそうな声で、カノンは言った。帽子の下の顔は沈んでいた。

「うん」

 彼らは、ちょうど吹き抜けの終わる場所に降り立った。少年の住む地下層の出口でもあり、少女の家がある地上層の入り口でもある。そこは、人が住む巨大施設ドームの貧富を分ける境界線でもあった。地上から漏れる残光と、地下の薄暗さが混ざり合い、少年少女を陰影で分け隔てる。彼らの離別を宿命としているかのように。

 カノンは地上層へ続く検問所へ歩き出した。一刻も早く、ここから出たかった。天井に押しつぶされる圧迫感も、闇に消える不安もまっぴらごめんだった。

 二人の前には、《ドーム》の成り立ちを記した碑が鎮座してある。相当古いもので、『地上と地下を分けるのは、差別に非ず。尊重すべき個性である』とあった。ふと、地下の人間をモグラ呼ばわりするノエルが浮かぶ。

 後ろからゆっくりと追いすがるアイルに、「来ないで」と放った。

「僕は誘拐犯じゃない」

「じゃあ、教えてよ! わたしが地下にいたのはどうして? なんで君の部屋にいたの? やっぱり連れて来られたんでしょ?」

 アイルは黙ったまま俯くばかり。図星なんだと、カノンは決め込んだ。

「さよなら」

 アイルは彼女を追いかけようとしたが、「待って……っ!」と急にひざまずく体勢でその場でしゃがみ込んだ。カノンは足を止めて近づいた。少年は足を挫いていた。ため息をしつつ、彼女は広場を見渡した。近くに噴水があるのを気づき、そこへ向かった。鞄から取り出したハンカチを濡らして、アイルの腫れた足に巻いた。二人は互いに沈黙した。気まずい応急処置が済んだ後も、カノンの体は硬直していた。

「カノンは外に出たがっていたんだ」

「どこで?」

「カノンの部屋だよ。スゴく高い所にある、まるで鳥籠みたいな場所だった。いつも、君は悲しんでた」

 ポツリポツリとアイルは言葉を紡ぐ。

「アイル、私はおうちに帰りたいの。道案内して」

 誘拐犯なら、人質が帰宅しても問題ないはずだ。

「どうしても?」と、心配げな瞳を向けてくるのを無視し、カノンは頷いた。

 二人はそのまま、遠くにある検問所を見た。改札と言っても、そこは検問に近い。退屈そうな顔をする監視員がまばらに通過する者に目を配る。通行人は、例の証明書をかざしている。アレを持っていないアイルは通れない。自分もまた顔を割られているだろう。

 カノンは検問所を眺めていると、その前をアイルの背が遮った。

「どいてよ、アイル」

「何か呼んだ?」

 少年の声は隣から聞こえた。しかし、そこに座っているのは、アイルではなかった。なぜか自分にそっくりだった。カノンは叫びながらベンチから落ちた。腰を痛めながらも立ち上がった彼女の目に映るのは、隣り合う三人のアイルであった。

「君は何人兄弟なの?」

 だが、目を凝らしてみると、まったく違う少年だった。利発そうで悪戯好きな瞳は丸く、白い歯を覗かせる。少年の後ろから浮かび出るようにして、同じ顔立ちだが髪を後ろに束ねた少女が現れた。

 キョトンとしていたアイルだったが、すぐに目を輝かす。「もしかして君、双子座が見えるの?」

「双子座……この人達の事?」

「双子座は人じゃないよ。星座達さ。カストルとポルックスの双子の兄妹。一心同体の悪戯好きなんだ。時々、僕に化けて驚かしたり、僕の姿を別人に変えたりして悪戯するの。でも普通の人には実体は見えないんだ」

 説明するアイルの周りを軽やかに舞踏する一人の双子。表のカストルと、裏のポルックスが交互に入れ替わる。

 僕の姿を別人に変えたりして。その言葉でカノンに妙案が浮かんだ。彼女がアイルの耳元に奇策を説明する間、双子座の幻影は互いに彼らの姿のまま聞き耳を立てていた。


               6


 今年で初老を迎える予定の警備員は寝ぼけ眼をほじくりながら、深夜勤務をこなしていた。勤務と言っても至って単純、パスポートを出す通行人が本人かどうか確認するだけのものだった。『地上地下越境通行警備員』などと、大層な名でもやっている内容は地味なものだった。「行って良し」と通行を許可し、「次の方どうぞ」と後ろに待つ者を呼ぶ。その延々の繰り返しなので、工場の流れ作業と変わらない。

 こんなものを死ぬまでやっているかもしれない根気強さは、定年退職間際のロートルにしか勤まらないと、彼は心得ていた。命を懸ける仕事など割に合わない。安全なのが一番だ。それに越した事はない。

 しかし、今夜は奇妙な戒厳令が老人の耳に入った。金持ちの少女と、道化姿の誘拐犯の少年がいたら特別に逮捕するべしとの通達である。そうでなくとも、少し以前に検問所近くで何人かが消えたという噂で持ちきりだった。子供の間(老人の孫も含む)では、ヒトモドキの仕業だという。

「馬鹿げとるな」

 ハンコを押しながら、警備員は呟いた。通行人が怪訝な視線を送った。

 人を喰い殺して、人に化けるヒトモドキ。古くから《ドーム》の外にいる化け物。親が子供にしつけ目的で怖がらせる定番のネタだ。老人も子供の時に聞いたが、今では自分の年金で保険料の元が取れると同じで、毛ほども信じていなかった。

「物騒なもんだ」とうそぶきつつも、心の底ではまさか自分の担当する検問所には出ないだろうと思っていた。

 世の中は、ホントに不都合にできている。好都合とは奇跡の別称だ。

 警備員は淡々と通行人を眺めていく。地下層区の水質調査に出向く役所の職員。捜査を終えた警察官数人とびしょ濡れの少年(孫に似て生意気そうだ)。地下層の地図を持った若者グループ。先頭が『未知の地下層世界探検ツアー』と書かれた幟を持っている。同類で、歴史グループの団体。ゾロゾロゾロゾロと暇人揃いだと、警備員は心底で揶揄した。次も老夫婦。仲睦しく手を繋いでいる。順々にゲートのボタンを押す。またも老夫婦。仲睦しく手を繋いでいる。ゲートのボタンを押す。

 と、警備員は違和感を抱いた。さっき、同じ老夫婦が二度通った気がしたのだ。だが、後がつかえているのを見て、すぐに再開した。

 まさか、自分の所には――と頭を廻らせながら、老警備員は今夜もルーチンワークを続けた。同じ夫婦の件はすでに消え、代わりに侘しい年金生活の未来を夢想した。


               7


 老夫婦の後ろを歩く同じ姿形の老夫婦。服装も顔も一寸の違いもない。本物のペアが気配を感じ、後ろを振り返ると、そこには知らない男の子と女の子がいた。

「坊や達は迷子かい?」

 少女が首を振って答えた。

「今から家に帰るの」

「そうかい。早くお帰り、こんな遅く子供は出歩いたら危ないよ。ヒトモドキが出るわよ」

「ばあさんや、今時子供は信じてないよ。だが、物騒なのには変わりがないな」

 老人は笑いながら、「パパとママが心配するよ。私らには子供はおらんが、坊や達の帰りを心待ちにしているのは超能力者でなくとも分かる」

「だといいね」とアイルは消えゆく声で言った。

「そうだとも、さあ、早く帰っておあげ」

 そう言い残すと、老夫婦は偶然走って来たタクシーに乗り込んだ。

 暗い顔をしたままのアイル。ふと、カノンは少年が孤児であるのに思い出した。少年の肩が震えている。カノンは泣いている彼の肩に手を乗せた。

「本当に、君を家に帰さないとダメ?」

 アイルの言葉に、少女は何も言えずにいた。やがて、少年の足取りは持ち直し始めた。二人は電燈の続く道を歩いた。すぐに大きなゲートが現れた。検問所ではない。町の入り口である。向こうから強烈な光が漏れている。

 陰鬱さが目立つ地下層とは対をなす、無数の電飾で彩られた豪華絢爛な摩天楼が立ち並ぶ地上層。少年少女は入口を過ぎ、雑踏の中へ消えた。



                   つづく

 次回の第三夜「光る都」は14日(金)の同時刻に投稿します

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