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第一夜 カノンとアイル

 

 今よりもずっと先の未来、世界は常闇に包まれていた。そこでは空は暗雲に覆われ、地上は有毒の大気の舞い散り、得体の知れない怪物が跋扈していた。

 やがて、幾億の人々はかつての文明の結晶である、超巨大建造物【ドーム】に籠るようになった。【ドーム】内部で、地上階に住む裕福と中流層と、地下に住む貧民層に別れた。人間は、外界から永遠に断絶する道を選んだのだ。

 ところが――。

 新たな文明が最盛を迎えつつあった頃、地下で謎の力を持つ人間が現れ始めた。不可思議な力を恐れた地上の人々は、彼らを“星使い”と呼んで忌み嫌い、他方で恐れを抱き、地下から地上へと通じる出入り口を封鎖した。



               プロローグ


 落下が始まってから、かなり時間が経った気がする。

 摩天楼のコンクリート壁をかすめながら、少女の小さな体はゆっくりと、はるか遠くにある地上に向かって落ちているところだった。すべてがスローモーションに進みながらも、顔を叩く突風は妙にリアルに感じる。

 後どれぐらいで地面にぶつかるんだろうか? 自分はベチャリと潰れるのだろうか? 浮かんでは消える泡のような夢心地に漂いながら、彼女はボンヤリと思った。肌を裂く風圧に痛みは感じない。試しに、目の前の壁面に恐る恐る手を伸ばして触れてみたが、爪や指先がへし折れる事もない。

 頭を上げると、遠ざかる自分の部屋が小さく見える。あそこから飛び降りたのだろう。自分のような意気地なしにも、勇気があるなど思わなかった。

 自由落下に身を任せていた少女は視界を下に転じた。目前に何かがいた。重力を無視して、黒い数本の足で壁の上を歩く物体。巨大な蜘蛛のようだが、間近で見ると所々に粗が目立つ。特に、複眼の顔が直線的でどこか嘘くさい。機械が故障しているのか、時々、大きな腹にノイズが走った。

 蜘蛛の怪物が作り物だと分かっていても、グロテスクな造形には抵抗がないわけでもなかった。このまま落ちていけば衝突は避けられない。

 思わず、手を伸ばそうとしたが遅かった。

 落ちる少女の体がホログラムの蜘蛛とぶつかった。その際に漏らした悲鳴もまた、口だけを開いたまま消えた気がした。

 予想通り、音や衝撃はなかった。ハリボテの電子蜘蛛は、床に落ちたパズルピースのように粉々に砕け散った。中空を、映像の張り付いた七色の粒子が浮遊し、花火の切れ端みたいに消えていく。それでも少女の落下は続いた。

 やっと地面が見えてきたと思いきや、嫌な予感が的中した。やはり、地上にも何かが待っていたのだ。

大きな口を開けて待ち伏せる、牙の生えたピエロ。白塗りの顔に浮かぶ、バツ印の両目に丸くて赤い鼻。

 少女は体を動かそうとした。死んだように麻痺している。軌道修正をする術もなく、まっすぐピエロの口元へと向かいつつあった。

『ヘマ野郎は地獄行きだぜえ!』

 鋭い牙を口の端からはみ出させ、道化はそう言った。

 自分は地獄に行く。何か悪い事でもしただろうか? 親は悲しむだろうか? 無気力な思考が少しずつ浮かんでは消えた。

 落下の先から逃げるように、少女は上空を仰いだ。黒を背景に散りばめられた大小の星屑。一つとして同じ形はない。それらが一斉に明滅を繰り返していた。小さな生き物達が深海にひしめき合う様を想起させた。

 ――なんてキレイなんだろう。

 その時、誰かが自分の手を握った。電気が走るように少女の体中が震える。今まで一人だけだと思っていた。

 か細い手の主を確かめようとするのと、ピエロの口の中に入ったタイミングはほぼ同時だった。突如、まばゆいハレーションが広がる。モノクロの夢は途切れる寸前、少女は手の主に無声のまま問いかけた。

 ――あなたは誰?

 間もなく、彼女の意識に黒い幕が下りた。


               1


 緑色の瞳孔が一際大きく開き、少女は目を覚ました。

 天井を走る幾本のパイプ管がおぼろげに映っていたが、鮮明になるにつれて、塗装の剥がれ具合まで見えてくる。古ぼけた換気扇が小さな駆動音を鳴らしながら回っている。かすかなカビの臭いが鼻孔を突いた。

 掛かっているツギハギだらけの毛布を払いのけると、ゆっくりと身を起こした時、前触れもなく頭痛が走った。少女は咄嗟にこめかみを押さえる。キリキリと頭にネジが食い込む鈍痛と、耳鳴りに似た重低音が重なった。頭上から聞こえてくる。まるで、天井がさっきよりも低くなっている気がした。下がってきた天井と床が重なって、自分を押し潰すのではないか、と不安に駆られる。いつもいる場所とはあまりにも異なる違和感は、地上のどこにもない気がする。少女は、自分が地下にいるのだと直感的に思った。

 一瞬、えも言われぬ息苦しさに襲われた。彼女は、新しい空気を求めようと大きく深呼吸した。

 徐々に落ち着きを取り戻すと、周りを改めて見渡した。壁と床は色の落ちたコンクリート。天井はパイプが張り巡らされ、一方で、部屋の隅は木箱やシーツを被ったマネキンが所狭しに積まれている。幾何学模様に彩られたボールがいくつも並ぶ。錆びた鉄骨の壁から天井にかけて、蜘蛛の巣が張られている。ベッドがなければ、ただの倉庫にしか思えない。

 部屋の一角を占める棚には、ブリキのおもちゃが飾られ、ハンガーには粗末な服が二、三着掛かっている他、穴の空いた靴下までぶら下がっている。この部屋の主は、かなりルーズな人物かもしれない、と少女は思った。

 彼女は棚から離れると、部屋の出入り口に向かった。なぜか、扉は二つあった。左側の扉の横には、垂れ幕が下りている。右側のドアには、赤いテープでバツ印が貼ってある。ドアノブに手をかけてみたが、壊れているわけでもないようだった。

 垂れ幕を上げると奥行きがあり、手洗い場になっていて壁に鏡が掛けてある。倉庫にしては、生活感が垣間見えるが人が住むには不自由さを感じる。

 少女は鏡の前に立った。表面の埃を軽く払い落すと、一番に自分の顔と目が合い、また息が詰まりかけた。

 肩の周りで揃えた金髪。今にも泣きそうな怯えた子供の顔。普段からそうなのか、頬が少し赤く染まっている。

 自分の服装はどこか滑稽だった。魔法使いが着るような、真っ黒なローブだった。小さな光沢が所々で輝き、胸の辺りに大きな赤いリボンの飾りがある。

 ――これが私の顔?

 言い知れぬ違和感が湧き上がった。何かが腑に落ちない。やがて違和感が不安に変わった。不可解の正体が明瞭になると、不安が明確な恐怖に変わり、彼女の唇は小刻みに震えた。そして、ゆらめく答えがチラついた。

 ――私は誰? 

 鏡に映る自分は、まったく見覚えのない顔をしていた。

「私は……?」

 そう、それは一番大事だった。自分の名前は――。

 鏡の顔が一瞬歪んだ。自分の名前が思い出せない。どこの誰なのかもわからない。考えようとすると、目の前に霞がかったように視界がぼやけてしまう。

 ――ここは……どこ?

 天井から伸びる電球が弱い光を放ちながら、少女のいる部屋の中を照らす。

 さっきまで寝ていたベッドの枕元に、鞄が一つ置かれているのに初めて気づいた。頭の上に乗る眼球が妙に大きく、可愛らしくデフォルメされたカエルの顔を模した、円形のデザイン。

 ガマ口を開けて鞄を逆さにした途端、ベッドの上に中身が散乱した。少女は、一つ一つを丹念に調べていく。必要な物はすぐに見つかった。妙に分厚い財布がそれであった。メモ帳と兼用となっているのか、本のページみたいに見開きになっていて、目次とある項のケースにお目当ての身分証明書が入っていた。

 分厚いそのカードには、『地上層住居証明書』と刻印されている。中央には、顔写真と名前が記されており、さらにその下には、生年月日や住所などが続く。

 写真の顔は、自分の顔とは違っていた。丸顔をした禿げ頭の男。意味もなく眉間にしわを寄せた厳格な顔。顔写真の下に、『グレゴリー・マイントワース』とある。首から下は豪華なスーツに身を包んでいる。この財布に関しては、自分の所持品ではないのは明確だった。もしかしたら、盗んだのかもしれない。

 結局、自分の名前と思しき文字は、カエルの鞄に印刷されていた。

『カノン』

 ――そう、それがわたしの名前だ。

 頭の中を覆う忘却の濃霧が少しだけ晴れた。ふいに記憶の断片が垣間見えた。電子の蜘蛛が這いずる、高層の摩天楼。壁面の大時計。風を切って揺れる振子と、耳をつんざく鐘の音。数フロアに跨る窓ガラスには、ステンドガラスのように電光の文字を浮かべる。なぜか、すべてが逆さまに映っていた。

別の声が脳裏に響いた。妙に明るい軽快な男の声。

 ――マイントワース・エンタープライズへ、ようこそ! あなたの求める憩いがここにある! さあ、夢のひと時をあなたに!

 確か、そんなフレーズ……。カノンは、カードの顔を見つめた。どういうわけか、軽快な声の主が、写真の人物と一致した。それ以上に既視感があった。

 ――私は、この人を知っている……。

 イメージは……スーツを着た満月。

 幼稚なインスピレーションしか浮かばなかった。最も知りたい事は厚い霧に包まれ遮られている。これから、何かの拍子で思い出していくかもしれない。もしくは死ぬまで分からないままかもしれない。

 と、突然――部屋の外でけたたましい物音がした。


               2


 物音が聞こえたのは、右側のバツ印のドアの向こうからだった。

 カノンは脱兎の素早さでベッドの陰に隠れた。しばらく身構えていたが、一向に誰かが入ってくる様子はない。もう少し待ってみたが、やはり何も起きない。

 このままでは埒があかない。カノンは恐る恐るドアに近づいた。木の床は踏む度にギシギシと小気味いい音を立てるので、つい泥棒みたいに自然と忍び足になった。

 ドアの前に立つと、またバツ印が気になった。単に、二つの内のこっちは開けてはいけない、という意味だろう。右のドアは開かずの間かもしれない。とすると、開けると爆発するとか、ドアから一歩先は絶壁か針山になっているとか。もしかすると、危険な猛獣か怖い怪物が潜んでいるかもしれない。そう、例えば……。

 ――人間に化けるヒトモドキとか。

 また、誰かの声が頭の中を通過した。一瞬呆然となるカノンは、知らず知らずのうちにノブに手を掛けて回っていた。

 別に引いたわけでもないのに、見えない力がドアを外に押し出そうとする。少女は間一髪で後ろに下がった。隙間から濁流のごとく、雑多な品々が雪崩となって溢れ出た。少しでも遅れていたら、ガラクタの雪崩に埋もれていたに違いない。

 入口を埋め尽くすガラクタの山から、二本の足が突き出ていた。身動きが取れずにバタバタと暴れる足は、おかしな事に飾りを付けたダブダブのズボンに、履いている靴はと言えば、珍妙な三日月形をしている。

 助けを求める声が、かすかに耳に入った。子供の声。

 カノンは慌てて駆け寄ると、埋もれた足を力一杯に引っ張った。相手は、頭に何か挟まっているのか、小さな呻き声を発した。それでも構わずに引っ張り続けた甲斐もあってか、ガラクタに生き埋めになっていた“遭難者”の救出に成功した。

 そこから出てきたのは、背の低い人物だった。奇異なのは、その格好だった。まるで、道化の服装をしている。赤と黒に分かれたダブダブの服に、間隔を空けるようにポンポンが二つ付いている。頭に大きな瓶を被っていて顔は分からないが、相手の服装はまるで、サーカスのピエロみたいだった。カノンは引き続き、大瓶を取るのを手伝った。間もなくスポンッと小気味の良い音と共に瓶が外れた。その人物は瓶が頭から抜けた反動で後ろに転倒して床に頭を打った。

「イテテテ」と頭を抱えつつ、道化姿の人物はガラクタを無理やりドアの向こうに押し出すと、力一杯にタックルしてドアを閉めた。一段落したように安堵したのか、大仕事を終えたように額の汗をぬぐう。

 そして、カノンと変わらない小柄なピエロは振り向くと言った。

「もうちょっとで窒息しちゃうかと思った。助けてくれて、ありがとう」

 輝きを放つ二重の大きな目が最初に見た特徴だった。幼い顔は所々生傷が目立ち、左の頬に絆創膏を貼っている。年の頃は少女と同じぐらいかもしれない。ボサボサに伸びた黒髪がなんとも印象に残った。初めて、その色の髪の人間を見たような気がしたのだ。

「カノンはどこも怪我はない?」

 カノンは頷きながらも、心底では動揺を隠せないでいた。目の前の少年は初めて会ったはずなのに、自分を知っていただけではない。自分もまた、この少年を知っている。声や顔を、前にどこかで見聞きした事がある気がする。

 でも、一体どこで……。

 思案に耽る少女をよそに、少年は左の垂れ幕へと消えていった。少し間を置いてから、カボチャの絵柄がプリントされた缶詰を、ハンマーで殴られて腫れたような手袋で器用に挟みながら戻って来た。缶詰のプルを外してから、「熱いから気をつけて」と湯気の立つそれをカノンに手渡した。

 缶詰の中身は、絵柄通りのパンプキンスープだった。甘く落ち着いた味が冷えた体を温めてくれた。

「ホントに間一髪だったね。あんな高い所から落ちたら、普通なら死んでるよ」

 少年が別の話をしている。該当する記憶はなく、彼の言葉にピンと来なかった。

「ここは……どこなの? それに私はどこのカノンなの?」

 少年は首をかしげた。

「もしかして、忘れちゃったの?」

 カノンはコクリと頷くしかない。

 少年は安心したように肩をすくめ、「無理もないね。カノンはとても疲れてたんだよ。忘れた事はじきに思い出す……と思うから、慌てないで今は休んでいて」

 後半の励みはなぜか心もとないように思えた。

 少年は早々とスープを飲み終わると(熱いのに一気に飲み切った。一体どんな舌をしているのだろうか?)、バツ印のドアを開けようとして間一髪で踏み止まった。

「おっと、危ない! この部屋から出る時は、こっちのドアを絶対使っちゃダメだよ。今みたいに、色んな物が溢れ出てしまうから」

 少年が隣のドアに移って、部屋から出ようとするのを、カノンは慌てて追いすがった。まだ、彼の名を聞いていなかった。

「待って! 君は誰なの?」

 少年はあっけらかんとした顔で、さらりと答えた。

「ボクの名前は、アイル。孤児で苗字はないから、ただのアイル」

 初めて聞く名前だった。カノンは、最初から感じていた疑問を口にした。

「どうして、アイルは私の名前がカノンだって知っているの?」

「カノンが教えてくれたから」

 アイルはそれだけ言うと、颯爽とバツ印のドアを開いた。少女が「あ!」と叫び、少年は素っ頓狂な悲鳴を上げながら、一気呵成に流入するガラクタに再度飲み込まれた。

 雪崩の中からアイルを再度救助した際、アオタンなのか化粧なのか区別できない斑で囲まれた目と合った。気が緩んだのか、カノンは笑みを浮かべた。アイルは恥ずかしげに頬を赤らめながら笑った。

「このドア、いつも間違えるんだ。君も気をつけてね」

 天井の電球が照らす顔につられ、彼女はまた笑った。

 少年から伝わる不思議な感覚は、決して嫌なものではなかった。先刻まで体の中を漂っていた言い知れぬモヤモヤを霞んだ気がした。

 こうして二人は出会った。もっとも、再会と呼ぶのが正しいかもしれない。



                   つづく

 次回の第二夜「飛翔」は8日(土)の同時刻に投稿します。

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