アイデンティティ
照明が落ちた途端、ライブハウスを黄色い歓声と熱気が包んだ。あたしはゆっくりと目を瞑って胸に手をあてる。いつもより大分早い鼓動、頭がくらくらしてくる。
目を開けた瞬間、暴力的に美しいサウンドがあたしの感覚の全てを奪っていった。
◆
「あれー、愛奈ちゃんが居るぅ」
店の待機室で携帯をいじくっていたあたしの耳に飛込んできたのは、甘ったるい声と裏腹に少しばかり失礼な言葉だった。
「なに、居ちゃ悪い?」
携帯の画面から目を離さずに返すと、
「そういうわけじゃないけどぉ」
とすねたように呟いたのが聞こえた。
「ライブどうだったぁ?」
ラインストーンで綺麗に彩られた長い爪が携帯をあたしのから奪う。漸く顔をあげると、付け睫とアイライナーで強調された大きな目と視線がかち合った。
この同僚、ゆりあは自分が構ってもらえないと途端に不機嫌になって意識を自分に向けようとする。邪険な態度を取る事もあるけれど、あたしはゆりあが好きだ。同じ店で働くどの女の子よりも、素直で可愛らしい。
「どうって言われても」
いつも通りだよ、と言うと、ゆりあは興味を無くしたのか
「ふぅん」
と言っただけだった。
「新曲出したよねぇ、ヘブンズレインだっけ?オリコンで1位取ってたよねぇ」
あたしから奪った携帯の、バンドのロゴ名が入ったストラップをもてあそびながら、好きだよねぇ、とゆりあが呟く。彼女は丈の短いキャミワンピを着ているのに、無防備に体育座りをしていた。
あたしはinnocence0(イノセンスゼロ)というロックバンドの追っかけをしている。
中学の時に出会って、もう追っかけ暦は7年になる。ライブに行く為に不登校、中学時代は援助交際でチケット代を稼ぎ、高校は中退。そして現在、風俗嬢。あたしほどこのバンドに人生を狂わされたオンナはそうそう居ないと思う。そんなどうしようもない事さえ彼らの為だと思うとステイタスに思えてしまうから、本当にどうしようもない。
「すごいよねぇ、愛奈ちゃん。Reiの為ならなんでもする、みたいなぁ?」
きゃはは、とゆりあが高い笑い声をあげる。綺麗に巻かれたハニーブラウンの髪が揺れて、ベビードールの香りがした。
Reiとは、innocence0のボーカルだ。今年で31とは思えない美しすぎるルックスと甘い歌声、天才的な作詞のセンス。馬鹿みたいだけどあたしは、ブラウン管の向こうの彼を本気で愛している。この事を知っているのは、あたし自身だけだ。
「…出来るよ」
「……マジ?」
「うん。Reiの為なら、死ねるもん」
「それって……」
ゆりあが口を開きかけたちょうどその時、待機室の扉を誰かがノックした。
「ゆりあさん、ご指名です」
扉を開けて従業員が入ってくる。ゆりあははぁい、と返事をすると携帯をあたしに返し、手鏡でヘアスタイルを整えてから立ち上がった。
「じゃあまたねぇ。あ、今夜飲みいこうよぉ。いいトコ見付けたんだぁ」
「いいよ。頑張って」
ぱたんと扉が閉まる。自分しか居ない部屋は無駄に寒く、そして広い。ゆりあが置いていった手鏡を勝手に借りて、マスカラを塗りなおす。
(……Reiがあたしの名前を呼んでくれるなら、本当に死んでもいいのに)
源氏名の愛奈じゃなくて、本名の香織で。あの薄い唇で、あのセクシーな声で。そうしたらあたし、地獄に落ちても後悔しない。
元々短くない上に付け睫をした睫は、マスカラのおかげで少女漫画みたいになった。メーテルみたい、なんてぼんやり思う。そういえばReiは、女の子が目を伏せた時の睫が色っぽいって言ってたっけ。ねぇ見てよRei、あなたの言う通りなら、あたしは今すごいセクシーじゃない?
大してやる事もなくなってしまって、備え付けのテレビのスイッチを入れた。少しの沈黙の後、女性アナウンサーの声が聞こえる。衝撃ニュースだかなんだかで、情報番組のスタジオは盛り上がっていた。
『いやー意外ですねぇ』
『本当ですねぇ。先程関係各社にファックスが届くまで、本当に……』
内容を完全に把握する前に、扉がノックされた。指名です、との言葉にやる気のない返事をして、あたしは立ち上がった。スカートの皺を手で伸ばして待機室を出る。ちょうど入れ替わりに新人の女の子が来たから、テレビはつけっぱなしにしておいた。
来週はライブの為に九州に行く。その為に今週は稼がなきゃいけない。Reiの為なら、全然苦になんかならないけど。
客の待つ個室へ向かう途中、あたしは頭の中で費用の算段を立てていた。
◆
『Reiさんと松本香織さんのお2人は、来月にも海外で式を挙げるそうです』
『innocence0は人気絶頂のバンドですからねぇー、特にReiさんには熱狂的なファンもいるそうですから少し怖いですね』
『そうですねー、でもまさかお2人が7年前からのお付きあいだなんて……』
『人気バンドのボーカルと人気女優ですから、今年一番の話題のカップルになりそうですね』
End.