婚約破棄の条件は、最後に仮面舞踏会?
「わたくしとの婚約破棄を目論んでいるそうですね」
婚約者にいきなり言われて、珈琲を吹き出してしまった。
「い、いや。どこからそれを聞いた?」
侍従からタオルを受け取り、口元や太ももを拭きながら聞き返す。
一応、婚約者同士のお茶会の最中だ。
俺は恋人との仲を隠したりせず、堂々としているので知られていてもおかしくはないが。何も言わないので、気付いていないのかと思っていた。
「なぜ、解消や白紙ではなく、破棄なのです」
感情を見せずに、淡々と問いかけてくる。人間味がない、こういうところが嫌だ。
「君が、立場の弱い者に嫌がらせをしていると聞いたのだ。それで……」
予定より早く言う機会が巡ってきたのはいいが、焦って言葉に詰まった。側近が婚約破棄の計画を練っているところなのだ。なぜ、もう少し待てないのだ。
「それで、なぜ解消や白紙ではなく、破棄なのです」
婚約者は同じ言葉を繰り返す。
「……君が説得に応じないと思ったから」
「説得を試みてもいないのに、そう決めつけたのですか?」
「説得に失敗したら、君は婚約を継続するために対策を立てるじゃないか」
この婚約者は頭がいい。俺はいつも言い負かされてしまう。
婚約者は大きなため息を吐いた。知っているぞ、それも計算しての振る舞いだと。
「そのようにお考えでしたのね。よろしゅうございます。
あなたの不貞相手に嫌がらせなどしておりませんけれど、婚約破棄を受け入れますわ。」
婚約者は額を押さえ、頭が痛いと言わんばかりだ。そういう芝居がかったところは、母上の仕込みだろう。
「ほ、本当か?」
「ええ。ですが……」
「ほら、やっぱり。ごねるんじゃないか」
おっと。つい、気安い言葉が飛び出してしまった。可愛い恋人と、気取らないやり取りをしているせいだな。
「違いますわ。……最後に、一緒に仮面舞踏会へ参加しましょう。それだけです」
「最後の思い出に、いかがわしいことをしようと言うのか?」
仮面で素性を隠し、大人の遊びをする場所だ。密かに流行っているが、取り締まらなければという意見も出ている。
「馬鹿おっしゃい! 貴族令嬢にとって貞淑さと純潔は死守すべきもの。はしたなく殿方にしなだれかかる者と一緒にしないでください」
「ほら。すぐそうやって、彼女を馬鹿にする」
「あら、誰とは申していませんわ」
婚約者は、くすくすと扇に隠れて嫌味な笑い方をした。
「では、誓約書を交わしましょう。『仮面舞踏会の後、婚約破棄をする。何があっても、撤回はしない』と」
「ああ、もちろんだ」
望むところだ。
「当日は、わたくしの方で殿下の装いをご用意します。我が家にお越しいただいて、着付けますので。
彼女には、そんな所に参加するなど、内緒ですわよ」
「清純な彼女は、きっと驚いてしまうだろう。そんなことで嫌われてしまうとは思わないが、悲しませるのは本意ではない。了解した」
「では、当日を楽しみにしておりますわ」
これで、大きな懸案事項が一つ片付いたな。
俺は気分が良くなり、この話し合いを側近に伝えるのを忘れてしまった。内緒と言われたのだから、それでよかったのかもしれないが――
そして、当日の夜。
……ひどい。
俺の腹回りに布を巻き、頬に綿を入れられた。用意された服は、田舎者の男爵にしか見えない。数年前の流行の、裾がほころんでいるようなものだ。
何という嫌がらせか。
腹が出て、頬がたるんだみすぼらしい男など、見たくもない。
婚約者は、いつもより少しランクが下という感じの装いだ。ずるいぞ。
はっ。俺に嫌がらせのつもりだな。
――いや、これで数時間我慢すれば、婚約破棄に応じてくれるのだ。可愛い嫌がらせではないか。しっかり耐えてみせよう。
会場へ向かう馬車には彼女の兄も乗り込んできた。外には護衛もついてきている。
「お兄様、どきどきしますわ」
「ふふ、大丈夫だ。少し離れたところにいるよ。不埒な輩が出たらすぐに退治するからね」
「退治する人と野放しにする人は、区別してくださいましね」
「おっと。そうだった」
「もう、不安になってしまうわ」
気安い兄妹の会話に入れない。なんとなく疎外感……昔は三人でよくおしゃべりしたものだ。
いつから、隙間風が吹くような関係になったんだったか……?
まあ、婚約破棄をするのだから、距離が開くのは仕方ないか。俺は空元気を出す婚約者を、ほんの少し可哀想に思った。
約束通り、婚約者をエスコートして会場に入る。
最近は恋人をエスコートしているから、久しぶりだ。最後の思い出にしたいのだな。健気なことだ。
おや? いつもの賞賛の視線がない。それどころかひそひそと、好奇の目が向けられる。
「もしかして、あの紫の仮面の女性は、王太子の婚約者じゃない?」
「くすくす。あの、相手にされていない、情けないご令嬢?」
「ぷぷ。代わりにあんな野暮ったい田舎者を連れてきたわよ」
「パートナーがいないのって、惨めね。彼女も必死ね」
聞こえよがしに、そんなささやきが聞こえてくる。
野暮ったい田舎者だと?
お前たちの目は節穴か! 彼女の家の侍従と侍女が寄ってたかって、俺を変装させたのだ。
主人も主人なら、使用人も使用人だ。嫌がらせに長けているな。
……だが、俺も婚約者にわざと似合わないものを贈ったことがある。その腹いせか。
今夜は諸々のことを精算するのだ。広い心で受け止めようではないか。
今の俺は、腹がぽこんと出た中年男性の体型だ。だが、歩き方や佇まいで俺だと気付かれてしまうのではないだろうか。
見破られたら、なんと答えよう。「ちょっとした余興だ」「よく気がついたな、褒めてつかわす」「内緒だぞ」どれがいいか。
だが、そんなことはなく、汚物を見るような目で遠巻きにされている。
装いが違うだけだろうが。どいつもこいつも節穴か。
いつも、しつこいくらいに付きまとう女性たちが、遠くからクスクス笑う。そちらに顔を向けると、扇で顔を隠したり、話題を露骨に変えたりする。
嫌な感じだ。とても、可愛らしい淑女だなんて思えない。ああ、こんな場所に来ているのだ。いくら着飾っても、中身は残念な娼婦どもということかな。
おかしい。いつもと見える景色が違いすぎる。
これは俺じゃない。だが、王太子という肩書きと、豪華な衣装を脱ぎ捨てた、「俺自身」とも言えるのか?
嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
婚約者は、なぜ俺をここに連れてきたんだ?
「あら。負け犬令嬢がお越しよ」
聞き慣れた声がする。可愛い唇から甘いささやきを紡ぐ、あの声によく似ているが……?
その声の主は可愛い顔を歪めて、胸元の開いたドレスで近づいてくる……見間違えるはずがない。愛しの恋人だ!
信じられないことに、退廃的な雰囲気の、浅黒い肌の男と腕を組んでいる。
「ねえ、もうすぐ婚約破棄されるんでしょ? 次のお相手を探しに来たの?」
気安い話し方なんてものじゃない。蓮っ葉な、下町の女のようだ。
「仮面舞踏会で、個人が特定されるようなお話は無粋ですわよ」
婚約者は、いつも通りの鉄面皮だ。
「ふん。そうやってお高くとまっているから、愛想を尽かされるのよ」
そう捨て台詞を吐いて、彼女は去って行った。
カーテンの奥の、薄暗い廊下へ……。まさか、そういう部屋じゃないだろうな?
「え、今の……本人か?」
「はい。まごうことなく、あなた様の『最愛』でございますわ」
「う、嘘だ」
「嘘かもしれませんね」
婚約者の言葉に、勘違いで嬉しいとは思えなかった。
「今の、見ただろう?」
「嘘か誠か、わたくしにはもう関係ありませんもの。わたくしは目的を果たしましたので帰ろうと思いますが……」
「一曲も踊らないのは、もったいない。俺と踊ろう」
婚約者の兄が、いつの間にか近づいてきていた。いや、ずっと後ろにいたのかもしれない。
「はい、お兄様」
婚約者は嬉しそうに微笑んだ。え、そんな柔らかい表情は見たことがないぞ。
「そこは婚約者の私だろう?」
少し意地になって、手を差しだした。
婚約者は冷たい一瞥を手に向けた。
「一度くらい、婚約者に相手をしてもらえない壁の花を味わってください」
そう言い放つと、兄の手を取ってダンスフロアに進み出る。
手を差し出した俺は、さぞ滑稽に見えただろう。
二人は優雅に踊り始めた。
兄妹だけあって、息もピッタリ。会話をしながら、楽しそうにステップを踏む。
俺はぼーっと馬鹿みたいに立っていた。婚約者の笑顔が眩しくて、目が離せない。
「ちょっと、邪魔!」
肩をぶつけられて、よろけてしまった。
じろじろと不躾な視線が痛い。こんな扱いをうけたことなど、ない。
王太子という肩書きを隠しただけで、扱いが悪くなるのだな。そう考えた瞬間、悪寒が走る。
――王太子と気付かなかった恋人の態度は、どうだった?
いやいや、恋人に似ているだけの他人かもしれないじゃないか。それに、見知らぬ男を警戒するのは、貴族女性として当然だ。
では、あの浅黒い男は?
頭を振って、無駄な思考を追い出した。
壁の花をしろと言われたが、男性は自分から誘ってもいいのだ。踊ろう。
他の女性を誘おうと近づいたが、さっと避けられてしまう。俺が王太子だと名乗れば対応が変わるだろうに。
あれ? それこそ「王太子という身分に寄ってきただけ」というやつか。
恋人がよく言う「婚約者はあなたの肩書きしか見ていない。けれど、私はあなた自身を愛しているの」という言葉は、本当に価値があるのか?
キャハハハと耳障りな嬌声が響く。
俺の恋人が浅黒い男の腕に絡まりながら、フロアに戻ってきた。手を振って、二人は離れていく。
本人か確認するために、話しかけてみようか。
近づいていく俺に、ゴミでも見るような顔を向けた。俺はその迫力に、歩みを止めた。
彼女は俺を無視して、甘い雰囲気の、スタイルの良い男の袖を引っ張り、また奥に入っていった。
そんな……信じられない。ダンスのパートナーチェンジじゃないんだぞ。
そっくりな姉妹とか……?
二重人格とか?
ああ、でも、あの男たちとの距離は……一線を超えていてもおかしくない。
「貴族女性は純潔を死守する」と婚約者は言った。
恋人も当然のようにそうだと思っていた。だが、それが勘違いだったら?
王族と結婚するなど、不可能だぞ。
気がついたら、ダンスの曲が変わっていた。
そして、俺をここに連れてきた婚約者とその兄の姿がない。二曲目を踊っているのか?
目を皿のようにして見るが、見つからない。
そうこうするうちに、三曲目が始まってしまった。
べたべた、いちゃいちゃしている男女が次々と奥の方へ消えていく。フロアに人が少なくなってきた。
あいつら、俺を置いて帰ったな?
主催者に王太子だと名乗って、馬車を出してもらうか?
頬の綿を出してもらえば、顔は元に戻る。しかし恥をさらすことになる。
こんなところに来ていると露見したら、王太子としての評判に傷がつく。
それがわかっていて、あいつら……!
そうだ。そういう陰険な奴らだって、知っていたじゃないか。
そんなことより、どうしよう。
腹が立つが、婚約破棄はなかったことにしなければ。恋人と結婚しないのなら、婚約を破棄する必要はないのだ。
陰険な女だが、彼女の実家は大きな後ろ盾となる。そのために、婚約者を変えてほしいと訴えても父上は聞いてくださらなかったのだ。
あんなアバズレと結婚なんかできない。事前に本性がわかってよかった。
しかし、どうやって目立たずに王宮まで帰ろう?
側近にも内緒で出てきたのだ。王城の方角はわかっても、徒歩で歩いたことなどない。
夜の道は物騒だと聞く。
どうしよう……。
フロアでは、踊るカップルはほんの数組に減っている。
あぶれた者たちの物寂しげな雰囲気が漂い始めた。酒を飲むことにしたらしい数人が、飲み過ぎたのか怪しい感じになってきているぞ。
奥の部屋から走ってきた者たちがいる。賭け事で大負けした者が、逃げてきたようだ。
捕まって、殴られている。誰も止めようとしていない。
この仮面舞踏会は、この世の地獄なのだな。礼儀作法も秩序もない混沌――
ピピーッと鋭い笛が鳴った。
「王都警備隊だ! 全員その場を動くな」
従業員たちが慌てふためいている。青ざめて裏口に走った者が、容赦なく組み伏せられた。
「違法薬物の取引、売買春の斡旋、違法賭博の容疑で捜査を行う」
警備隊長が令状を掲げながら、宣言した。
「手向かいしたり、逃亡したり、馬鹿なことは考えないように。悪あがきをした者には容赦しない。大人しく、身元確認に協力しなさい」
警備隊長がさっと手で合図を出す。
出入り口は封鎖された。フロアにいる人たちは、警備兵に促されて、フロアの中央に集められた。俺も大人しく従うしかない。
カーテンの奥の通路へ、武装した警備隊が突入する。悲鳴や物が壊れる音が聞こえてきた。
これは……城に連れ帰ってもらえるチャンスだ。警備兵に話しかけようと、一歩近づいたら、すごい目で睨まれた。
「勝手に動くな!」
体がびくりと反応し、思わず両手を挙げてしまった。
あれ? もしかして王太子と知られたら、大問題なのではないか?
醜聞になって、父に大激怒されるのは嫌だ……。
どのタイミングで、正体を明かすべきなのだ?
今か。取り調べの順番が回ってきたときか。
誰か教えてくれ!




