エステル結合
人生はワインのようだ、なんて誰もが言う。
子供のころ、ワインを飲む大人が、ずいぶん遠くにいるように見えた。
あれが飲めるようになる頃には、自分も、あの遠さの側にいるんだと思っていた。
いまが、その「頃」なのかどうかも、わからない。
グラスの底で揺れる深紅の液体は、子供のころに見たものと同じ色をしている。
舌を刺すような渋みと、ほんの少しの酸味。
喉の奥に熱だけを残して消えていくその味は、想像していたよりもずっと複雑で、決して甘くはない。
こういう味を、人はうまく言い表そうとする。
浜辺で遊ぶだけのつもりが、いつのまにか足がつかなくなっていた海のようだ、と。
タイトルで油断して開いたら、ぜんぶ脚注だった本のようだ、と。
めったに笑わない、けれど一度笑うと誰より美しい人のようだ、と。
そう言葉を並べてみても、口の中のものは、何も変わらない。
言い表せたのは、味ではなく、こちらの気分のほうで、
本当のところ、口の中で起きているのは、ただの化学反応だ。
酸があり、アルコールがあり、どこかでそれらが結びついて、
ふいに、別のもののふりをして立ちのぼる。
それを人は、香りと呼ぶ。
詩でも、人でも、記憶でもない。
ただ鼻の奥に少し残るだけのもので、
それでも人は、その少しを手がかりにして、ずいぶん遠い場所まで行こうとする。
酸とアルコールが結びつくとき、そのあいだから、小さな水が、ひとつぶ、こぼれていくのだという。
失ったぶんだけ軽くなって、できあがったそれは、もうグラスの底にはとどまれない。
立ちのぼり、揺れて、鼻の奥にまで届く。
遠くへ行けるのは、たぶん、何かを手放したものだけで、
もう元の場所には戻れない。
だから、ワインの香りはいつも少し寂しい。




