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掌編小説集

エステル結合

掲載日:2026/07/08

人生はワインのようだ、なんて誰もが言う。

子供のころ、ワインを飲む大人が、ずいぶん遠くにいるように見えた。

あれが飲めるようになる頃には、自分も、あの遠さの側にいるんだと思っていた。


いまが、その「頃」なのかどうかも、わからない。

グラスの底で揺れる深紅の液体は、子供のころに見たものと同じ色をしている。

舌を刺すような渋みと、ほんの少しの酸味。

喉の奥に熱だけを残して消えていくその味は、想像していたよりもずっと複雑で、決して甘くはない。


こういう味を、人はうまく言い表そうとする。

浜辺で遊ぶだけのつもりが、いつのまにか足がつかなくなっていた海のようだ、と。

タイトルで油断して開いたら、ぜんぶ脚注だった本のようだ、と。

めったに笑わない、けれど一度笑うと誰より美しい人のようだ、と。


そう言葉を並べてみても、口の中のものは、何も変わらない。

言い表せたのは、味ではなく、こちらの気分のほうで、

本当のところ、口の中で起きているのは、ただの化学反応だ。

酸があり、アルコールがあり、どこかでそれらが結びついて、

ふいに、別のもののふりをして立ちのぼる。


それを人は、香りと呼ぶ。

詩でも、人でも、記憶でもない。

ただ鼻の奥に少し残るだけのもので、

それでも人は、その少しを手がかりにして、ずいぶん遠い場所まで行こうとする。


酸とアルコールが結びつくとき、そのあいだから、小さな水が、ひとつぶ、こぼれていくのだという。

失ったぶんだけ軽くなって、できあがったそれは、もうグラスの底にはとどまれない。

立ちのぼり、揺れて、鼻の奥にまで届く。

遠くへ行けるのは、たぶん、何かを手放したものだけで、

もう元の場所には戻れない。

だから、ワインの香りはいつも少し寂しい。


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