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短編集

戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました

作者: Mel

 シャンデリアの光が粒となって降り注ぐパーティ会場に、私は久しぶりに足を運んでいた。

 

 帝国に対抗するべく同盟を結んだ二つの国。先日ついに領土の一部を取り戻したのだという。

 その祝宴が開かれた大広間では、葡萄酒と香水の匂いが混ざり合い、誰もが笑顔の仮面をつけて踊っている。

 私はその輪から少し離れた場所でグラスを傾けていた。――夫のジェイミーが隣にいないことを、なるべく考えないようにして。


「まあ、エルマ様! 随分とお久しぶりでございますね」

「体調を崩していると伺っておりましたが、お加減はもうよろしいのですか?」


 目立たぬようにしていたつもりだったのに、本国の顔見知りの夫人たちがすぐに私を見つけて声をかけてきた。しばらく床に臥せっていたからそれを心配してくれてのことだろう。


「お陰様でだいぶ良くなりました。ご心配いただきありがとうございます」

「ご主人もお戻りにならない中で大変だったでしょう」

「……ええ。でもお国のためですから」

「第三騎士団のご活躍は本国にも届いておりますものね。帰国はまだ先でしょうけれど、奥様も鼻が高いのではありませんか?」


 帝国との戦が続くなか、ジェイミーは聖騎士として最前線に立ち続けていた。彼の所属する第三騎士団は多くの犠牲を払いながらも、なお帝国軍に引けを取らぬ戦いを続けているという。

 彼らが祖国へ戻る日は、きっとまだずっと先のこと。騎士を夫に持つ以上それは覚悟していたことで、情勢を思えば隣にいない寂しさを嘆いてばかりもいられない。

 私は挨拶に訪れる人々に微笑みを絶やさぬよう、静かにグラスを傾けた。


「そうですね。本当に誇らしく思います」

「無理はなさらないでくださいね。お一人では何かと心細いでしょうから」


 使用人はいるけれど、夫はいつも不在がちで子宝にも恵まれなかった。両親もすでに他界している。それを知っているからこそ、彼女たちは純粋に心配してくれているのだろう。

 けれど、いつまでもその優しさに甘えてばかりはいられない。何よりも遠くにいる夫に心配をかけたくなくて、私は今日この場に臨んでいた。


「あら、あちらにいらっしゃるのは……ルーシア姫殿下ではなくて?」

「王妃殿下によく似ていらっしゃるわ。お隣は……クーヘンでも高名なスペンサー夫人ね」

 

 夫人たちの視線の先には、薄桃色のドレスを纏った若いお姫様と目つきの鋭い夫人の姿があった。

 同盟国クーヘンの姫君、ルーシア様。

 夫の功績を記した報告書の中でその名を目にしたことがある。帝国軍がクーヘンの城内にまで攻め入った折、危うく捕虜となりかけた彼女を間一髪で救い出したのがジェイミーだったと記されていた。


 クーヘンの王族特有の、陽光を映すような金の髪が揺れる。若草色の瞳は宝石のように光を返し、その立ち姿には若さと誇りに満ち溢れていた。


 不躾な視線に気づいたのだろうか。

 ルーシア様が、スペンサー夫人を伴ってゆるやかに歩み寄ってくる。


「失礼。あなたが、聖騎士ジェイミー様の奥様でいらっしゃいますの?」

「ええ。エルマ・フォルンと申します。夫のことをご存じなのでしょうか」


 二人の関わりについては知らぬふりを決め込み、穏やかにそう返す。

 ルーシア様はわずかに目を輝かせ、頬を紅潮させながら言葉を紡いだ。


「ええ、もちろん。あの方には命を救われましたの。……そして、この心も」


 鈴を転がすような声に、周囲の夫人たちが「まぁ」と息を漏らし、口元を押さえて顔を見合わせる。

 ルーシア様が恥ずかしそうに扇で顔を隠すと、隣に控えるスペンサー夫人が私に聞かせるような口調で語りはじめた。


「ジェイミー様はしばらくこの城に留まって姫様の話し相手になってくださったのですよ。捕虜となりかけた姫様を誰よりも気遣ってくださって……そして新たな戦地へ旅立つ前に、誓いを立てていらっしゃいましたの。――戦が終わったら、姫様の元に必ず戻ると」


 ――あの人が、本当にそんなことを?


 誰もが聞こえないふりをしながらも、確かに私たちの会話に耳を傾けている。

 私は驚きを押し隠しつつ、グラスをそっとテーブルに置いた。


「まあ……そうでしたのね」

「あら。奥様はあまり気になさらないのですね」

「ええ。夫は優しく、礼儀を重んじる人でしたから。相手が誰であろうと、分け隔てなく」


 ……あら、これでは嫌味に聞こえてしまったかしら。

 扇に隠れたルーシア様はわずかに顔を歪めたけれど、スペンサー夫人は私の強がりだとでも思ったのか、勝ち誇ったように微笑んだ。


「またお話しできる機会があれば、ぜひ。奥様もお知りになりたいでしょう? 姫様とジェイミー様がどんな日々を過ごしたのかを」


 もしも本当にジェイミーがルーシア様に愛を語ったのだとしたら。

 彼が、この若く美しい手に未来を誓ったのだとしたら――。

 

 あの人の帰りをただ待ち続けていた私にだって、真実を知る権利があるはずだ。


「ぜひ。私も伺いたいわ。彼がどんな顔で、どんな言葉でルーシア様を救ったのかを」


 私たちの間に残された沈黙を楽団の音が押し流していく。

 何事もなかったように、祝宴は遅くまで続いた。

 

 

 *


 

 私とジェイミーの出会いもまた、戦場だった。


 あの日、帝国軍の急襲を受けた折。領内の畑の視察に出ていた私は、炎に追われて逃げ惑う領民を誘導するのに精一杯で――気づけば護衛ともはぐれ、帝国兵の影がすぐ背後に迫っていた。

 そのとき私を救い出してくれたのが、本国第三騎士団の副団長、ジェイミーだったのだ。


 無茶をする人だと知っていたから、彼がルーシア様を助けたという話にはなんの疑問も抱かなかった。

 それに、ルーシア様が彼に心を寄せたという話もよく理解できた。

 救いの手を差し伸べてくれた彼は誰よりも凛々しくて。私もまた、あの瞬間に恋に落ちたのだから。


 ルーシア様はとても愛らしく、さらには同盟国の姫君という立場にある。

 一方の私は辺境の小領主の娘に過ぎず、両親の死によってその領地もすでに王家に返還している。後ろ盾もなく、これといった政治的価値もない。

 もしも彼女が本気で彼を望んだら、国同士の絆を深めるという意味でも私が身を引くべきなのでしょうけれど――。



 同盟の祝宴から間もなくして、ルーシア様から茶会への招待が届いた。

 名目は「両国の友好を深めるため」。

 けれど、締めくくりに記された「お会いできるのを楽しみにしております」という一文が、どうにも別の意図を匂わせているように思えた。


「奥様……まさか参加なさるおつもりですか?」


 古くから仕えてくれている侍女のハンナが顔を曇らせる。あの祝宴でのやり取りは、噂好きの貴婦人たちによって瞬く間に社交界の隅々へと広まっていた。


「お呼ばれされたのだから行かないわけにはいかないわ。相手は同盟国のお姫様なんですもの」

「ですが……その姫君は、旦那様のことを狙ってらっしゃるんですよね?」

「そうみたい。あの人は、そんな人だったかしら……」


 心配顔のハンナに見送られ、馬車に揺られて辿り着いたのは国境近くの迎賓館。

 白薔薇が咲き乱れる中庭には柔らかな風が吹き抜け、磨き上げられた銀器の上には果実茶の湯気が立ちのぼる。

 その湯気の向こう側、まるで絵画の中から抜け出したような可憐な姿でルーシア様が椅子に腰を下ろしていた。 


「ようこそ、エルマ様。遠路はるばるご苦労さま」

「お招きいただきありがとうございます。私のような者にまでお声がけ頂き、恐悦至極に存じます」

「そんなに畏まらないで。あなたとは一度お話をしてみたかったの」


 その声色はやわらかい。けれど、私のことを値踏みするような視線が、周囲に控える夫人や令嬢たちから注がれている。

 私は短く礼を述べ、カップを手に取った。口に含んだ果実茶は、少し甘すぎた。

 

 茶会は和やかに始まった。

 お互いの国の習慣やお茶菓子の話で穏やかな空気が流れる中、やがて話題は戦のことへと移っていく。


「――あの方は、本当に素敵な方でしたの」


 ルーシア様がぽつりと口にした言葉に、隣のスペンサー夫人が待っていましたと言わんばかりに頷いた。


「ええ、姫様をお見舞いくださった時もそれはもう献身的でいらしてね。騎士というのはもっと無骨な殿方ばかりだと思っておりましたが、ジェイミー様はまるで物語に出てくる王子様のようで――」


 夫人の言葉に、若い令嬢たちが一斉に前のめりになる。

「まぁ、素敵!」「本当にそんな方がいるのですね」と囁き合い、まるで姫君の恋を後押しするかのような光景だ。

 ルーシア様は困ったように笑いながらも否定せず、「とても優しくしてくださいましたの」と扇の陰で頬を染めていた。


 ……そうね。あの人は、とても優しい人だった。

 年甲斐もなく暖炉の火すら「怖い」と震える私を、一晩中抱きしめて温めてくれるほどに。


 優しくて、礼節を重んじ、困っている人を放っておけない人。

 記憶の中で薄れかけていたジェイミーの姿が、鮮やかに目の前によみがえる。

 気づけば私は、彼に贈られたハンカチを強く握りしめていた。


「エルマ様は、ジェイミー様とはもうどのくらい会っていらっしゃらないの?」


 スペンサー夫人が、意地の悪い顔で問いかけてくる。


「そうですね……彼が出征してからもう二年になりますかしら。それからは、一度も」

「まぁ、そんなに長い間夫と離れているなんて、わたくしだったらとても耐えられませんわ。ねえ、姫様?」


 スペンサー夫人に続くように若い令嬢のひとりが口を挟む。


「ジェイミー様は姫様にお手紙をくださっているのでしょう? いつも便りが届くと伺いましたわ」

「え、ええ。そうなのよ。戦場にいらっしゃるのに、必ず返事を送ってくださるの」


 控えめにそう告げる姫君の代わりに、スペンサー夫人が声を弾ませる。


「本当に情熱的なお手紙なのよ! 『必ず迎えに行くから待っていてほしい』『愛している』――ええ、確かにそう書かれておりましたとも」

 

 ……そんな、愛しているだなんて。

 私には一度も書き残してはくれなかったのに。

 

 令嬢たちは「まぁ!」と息を漏らし、うっとりと顔を見合わせる。

 本国から同行した夫人たちが困ったように視線を逸らす。

 私はゆっくりと顔を上げ、穏やかに言葉を落とした。


「それは……羨ましいことですね」

「本当はエルマ様にも届いているのでしょう? 姫様の元には定期的に届いてますのよ?」

「いいえ。本当に私は一度も、いただいたことがありませんの」


 静まり返る席。

 ルーシア様は驚いたように目を見開いたが、ご令嬢たちは弾けるように笑い声を上げた。


「まあ! 妻であるはずの御方にお手紙の一つも出さないなんて!」

「きっと照れ屋さんなんですよ。それかもう、姫様に心を寄せているのかもしれませんわ」


 くすくすと侮るような笑い声が漏れ聞こえる中で、スペンサー夫人が勝ち誇ったように私を見据えた。


「ずいぶん冷めたご反応ですのね。二年も顔を合わせていなければそんなものなのかしら。……それならば、いいのではありませんか? どうか姫様たちのためにも、身を引いてくださいませんこと?」

「……身を引く、とは?」

「貴女から離縁を申し出るのですよ。手続きに必要な書類は、私が手配して差し上げますから」


 いくら姫君とはいえ、同盟国の妻帯者を奪えばさすがに角が立つ。だからこそ彼女たちは"私から身を引いた"という体裁を整えようとしているのだろう。


「それは困りますね。私はまだ、ジェイミーから何も聞いておりませんもの」

「手紙が貴女の元に届かないことが何よりの証拠ではなくて? 顧みられていないというのに、妻という立場に縋りつく姿はみっともないのではありませんか?」

「そうですね。仰る通りですわ。だから、彼に手紙を書かせてください。ルーシア様との恋を成就させるために私とは別れると、彼自身の言葉で私に送らせてくださいな。それが叶えば、私も潔く身を引きましょう」


 スペンサー夫人が言葉を詰まらせた。

 気まずい空気が流れる中で、これまで沈黙を保っていたルーシア様が静かに口を開く。


「……皆様、おやめになって頂戴。エルマ様もごめんなさい。わたくしは喧嘩をしたかったわけではないのです」

「私も同じ気持ちですよ、ルーシア様。ただ、せっかくの友好の場がこれでは両国に申し訳が立ちません。私は先に失礼させていただきますね」


「不敬ですわ!」と、誰かの声が鋭く響いた。

 それを気にすることもなく席を立つと、背後で椅子が軋む音が鳴った。

 振り返ると、立ち上がっていたのはルーシア様だった。


「よければ今度は二人きりでお話をしましょう。見ていただきたいものもあるの」


 お姫様からのお誘いだもの。

 私はただ、微笑んで頷くしかなかった。

 

 

 その夜。用意された客室の寝台で体を休めると、随分と懐かしい夢を見た。


『領地を守らんとひとり立ち向かった君の気丈さに、強く惹かれたんだ。どうか、私の妻となってほしい』


 そう言って、指輪を差し出すジェイミー。

 

 今日、彼の名をあまりにも多く耳にしたからかしら。

 夢の中とはいえ、彼の笑顔を見たのは本当に久しぶりのことだった。

 


 数日後、迎賓館の一室を訪ねれば、先日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 卓上には二人分の茶器が並ぶ。その横に、ルーシア様はいくつもの封筒をそっと置いた。きっとこれが、ジェイミーから届くという手紙なのだろう。


「……先日は失礼をいたしました。スペンサー夫人には今日は控えてもらったわ」

「とんでもありません。きっとルーシア様を気遣われてのことだったのでしょうから」

「寛大なお言葉ありがとう。……実はね、今日はこちらを見てほしかったの」


 促されて、一番上の封筒に手を伸ばす。

 知らず、ごくりと小さく喉を鳴らしてしまう。

 恐る恐る中から取り出した便箋には、確かに夫の名が記されていた。


 ――ジェイミー・フォルン。


 指先がわずかに震える。署名の前には『愛しのルーシア様に捧ぐ』だなんて、らしくもない言葉が添えられている。


 それでも――何かの間違いであって欲しいと一抹の期待を抱いていたのに。

 見慣れた筆跡が並ぶ文字を前にして、希望は音もなく砕け散り、私はぎゅっと目を瞑った。


「ちょうど昨日、届いたばかりのものですの」

「……そうですか」


 言葉が喉の奥でつかえる。

 彼女は私の反応を見て、この手紙の送り主がジェイミーだと確信したのだろう。どこか安堵したように口元を緩ませる姿は、とても愛らしいものだった。


「……ルーシア様。ひとつ、聞かせていただけますか?」

「ええ、もちろんですわ」

「ジェイミーの、どんなところをお好きになったのでしょう」


 彼女にとっては今さらな質問だったのかもしれない。

 ルーシア様は一瞬きょとんとしたあと、仄かに染まる頬に両手を添えて、恥ずかしそうに言葉を紡いだ。


「そんなこと……だって、命の恩人ですのよ? 帝国兵の剣戟からわたくしを庇い、傷だらけになりながらも守り抜いてくださった。惹かれない方が無理という話ですわ」

「……実は、私もまったく同じなんですよ。戦に巻き込まれて炎の海に取り残された私を、彼は一切の躊躇なく助けに来てくれたんです」


 あの時の彼は、まさにスペンサー夫人の言うところの王子様のようだった。

 その記憶を掘り起こすように語ると、ルーシア様の瞳がきらきらと輝きだす。


「やだ、何それ。……カッコいいじゃない」

「そうでしょう? 馬上から私に手を差し出してくれた彼は、本当に格好良かったの」


 素直な感想に笑みが溢れてしまう。

 ルーシア様は興奮したように身を乗り出した。


「それとですね。騎士なんて皆、食事の作法も知らない方ばかりだと思っていたのにジェイミー様は違ったの。とても綺麗な所作で、まるで宮廷紳士のようにお食事をなさるのよ。『たくさん練習をしたんですよ』って、照れ笑いを浮かべていらしたわ」

「ああ……結婚したばかりの頃は本当に酷いものでしたよ。出された皿を次々に掻き込むように食べてしまって。男所帯の騎士団寮で育った癖が抜けなかったんですって。だから結婚早々に私がテーブルマナーを叩き込むことになりまして……。でも、そう仰っていただけるなら報われます。あの人も努力の甲斐がありましたね」

「まあ、そんな時代もあったなんて! わたくしが知るあの方はいつだって完璧でいらっしゃいましたのに。エルマ様のお陰だったのですね」

 

 ルーシア様は、私の話した過去のちょっと情けないジェイミーすらも、目を輝かせて受け止めた。

 

 彼女は私の知らないジェイミーのエピソードをいくつも披露してくれる。

 その一つ一つに耳を傾けていると、彼の声まで聞こえてくるようだった。


 あの人ったら、私の知らないところではそんな顔をしていたのね。

 無口で、無愛想で、それなのに大型犬みたいにいつも私の傍から離れない人だったから、こんなことで外でうまくやっていけるのかしらと案じていたのに……。


 私が笑顔のまま聞いていたからかしら。

 感極まった様子のルーシア様が、目元を拭いながら呟いた。


「こんなにジェイミー様のお話が出来たのは初めて。……クーヘンではね、あの方の話をするとみんな困った顔をしてしまうの」


 それは……仕方のない話かもしれない。ルーシア様の命の恩人とはいえ、ジェイミーはれっきとした妻帯者なのだから。きっとクーヘンでも扱いに困っていたことだろう。


「でも、エルマ様はずるいです。……わたくしの知らないジェイミー様のお話ばかり」

「あら、それはルーシア様だって同じでしょう? 私の知らないよそゆきのジェイミーのお話、とても新鮮でしたよ」


 沈黙が落ちたが、どちらからともなく、ふっと息が漏れた。


「……先日は本当にごめんなさい。わたくしがどうしてもエルマ様とお話をしたいと言ったら、スペンサー夫人が変な方向に張り切ってしまったみたいで。あの人も決して悪い人ではないんです」


 思いがけない素直な謝罪に、私はつい微笑んでしまった。

 確かに少し驚いたけれども、スペンサー夫人の立場を思えば気の毒とも言える。きっとこのお姫様がジェイミーを望んだばかりに、胃を痛めていることでしょうから。


「でも……わたくし、諦めきれないんです。こんなに誰かを好きになったのは初めてだから」


 なんて真っ直ぐなのかしら。聞いているこちらのほうが面映ゆくなってしまう。


 でも、そうよね。私にもわかるわ、その気持ち。

 私もあの人のことがとても好きだったの。

 誰よりもあの人のことを愛していたんだから――。


 鮮やかな記憶と共に胸の奥がじわりと熱を帯びる。

 涙が滲んだ気もしたけれど、確かめることはしなかった。

 気づかれる前に、私は席を立った。


 

 その日を境に、ルーシア様からは頻繁に招待状が届くようになった。


「だってジェイミー様のことをお話できるの、貴女だけなんですもの」

 

 無邪気なお姫様は悪びれるでもなく私を呼びつける。

 断る理由もなくて、私もクーヘンまで足を運ぶ。

 それは形式ばった茶会ではなく、ただ二人でジェイミーのことを語り合うためだけの時間。

 

 彼が好んだ食事、少し癖のある笑い方、訓練の合間に見せた真剣な眼差し。

 私だけに見せてくれる、「また、頼まれてくれないか?」とお願いしてくるときの、あの照れくさそうな顔。

 

 ルーシア様が語れば、私は頷き、補い、時に訂正した。

 話しているうちに、ジェイミーの仕草や声がありありと甦る。

 そのたびに、心の奥で彼が息づいていくのを感じた。

 

 だからかしら。いつしか、彼女と過ごす時間が特別なものになっていた。

 帰郷の途に就くのが惜しいとさえ思えるほどに。


 その日も予定の時間を大幅に過ぎてしまい、急いで辞去の挨拶を済ませると、門の外ではスペンサー夫人が待ち構えていた。

 瞳には薄く焦りの色が滲んでいる。


「エルマ様。姫様のお気持ちを、どうか汲み取って差し上げてくださいませ。あの方が城を発たれてからというもの、ずっと気を病んでおられて……。今は元気に見えるでしょうけれど、手紙の返事が届いてようやくなのです」


 夫人は私の手に縋りつき、必死にまくし立てる。


「陛下も、聖騎士さまであれば姫様のお相手として申し分ないと仰っております。姫様は貴女に遠慮しているだけなのです。だから、貴女が身を引いてくだされば――それで全て丸く収まるのです」

「……以前にもお話ししましたが、ジェイミーに手紙を送らせてください。きっとルーシア様からの願いであれば、私のもとにも届くはずです」

「……分かりました。貴女がそれで満足されるのなら」


 渋い顔を浮かべた夫人に一礼し、馬車へと乗り込む。

 扉が閉まると、静寂が訪れた。


 帰りの道すがら、春浅い風が窓を抜けて頬を撫でていく。

 ――その冷たさが、夢から覚める合図のように思えた。


 

 *

 

 

 あれから数ヶ月たったけれど戦況に大きな変化はなく、首都近郊は平和なものだ。

 私はルーシア様との茶会のため、いつものようにクーヘン王国へ向かう支度をしていた。


「奥様。またお出かけなさるのですか」

「ええ。悪いけれど、しばらく屋敷のことは任せるわね。……ジェイミーの部屋も時々風を通しておいてもらえると助かるわ」


 廊下を渡るたびに足音が反響するような広すぎる屋敷で、その音を聞く者は今や私とハンナと通いの使用人しかいない。

 大きな足音を立てて歩いては私に叱られていたジェイミーも、いまだ戦場から帰らぬままだった。


「かしこまりました。その……ルーシア様は、まだご存じないのですよね」

「そうね。同盟国といえども自国の隙を晒すような真似、陛下はなさらないでしょうから」

「左様でございますか。……早く戦が終わればいいのに」


 私のことを案じてか、ハンナが悔しげに唇を噛んだ。


 第三騎士団は各地で戦功をあげていた。帝国が脅威と見なすほどに。

 だからこそ――雷鳴轟く山岳地帯で、一小隊が谷底に消えたことは、士気に大きな影響を及ぼすという理由から公にはされなかった。……たとえそれが、同盟国であろうとも。

 犠牲となった騎士たちについては、王家の上層部と一部の縁者にしか伝えられず、その痕跡は徹底的に秘匿されたのだ。


 その知らせを受け取った日のことは、今でもはっきり覚えている。

 顔なじみの伝令が密かに訪れ、言葉少なに、小さな袋を差し出したあの夜。

 中に入っていたのは、ジェイミーが首に下げていた結婚指輪だった。

 

 彼の体は損傷が激しく、その場で弔われたという。

 指輪だけが傷ひとつなく、私のもとに戻ってきた。


 それからどう過ごしていたか、正直よく覚えていない。

 頭の中は霞がかかったようにふわふわしているのに、身体は鉛のように重く、床から離れることもできない日々。

 ただ、彼との思い出が一日過ぎるたびに薄れていくことだけが恐ろしくて仕方がなかった。


 ――祝宴の折に、ルーシア様からジェイミーと恋仲だと耳にしたときは、さすがに戸惑った。

 あの人は死ぬ前に私を裏切っていたのだろうか、と。


 でもその疑いはすぐに霧のように晴れた。

 だってもう、手紙なんて出せるはずがないのだから。


「真実を知ったら、ルーシア様を悲しませてしまうわね」

「そんな……! 奥様だって、葬儀を上げることすらできずにお辛い立場でしょうに、その姫君のせいで奥様がどんな思いをされていたことか……!」

「あら、そんなことを言わないで頂戴。私は楽しい時間を過ごしているのよ。……不謹慎かもしれないけれどね。ルーシア様と話している間だけは、あの人が本当に生きている気がするの」


 彼女の元に届く手紙は、きっと誰かが整えたものだろう。返事が来ないと嘆く姫君を慰め、情報を出さぬ同盟国の体面を守るために。

 ただ、その文に愛の言葉を添えたのは誰の気まぐれだったのかしら。

 姫君の恋文に応じるうち、いつの間にか恋人に仕立て上げられた彼を想うと、少し可笑しくて、少し哀しかった。

 

 私だってあの手紙を見なければ、彼が谷底で生き延びていた夢を見られたかもしれない。

 私の存在など忘れて、ルーシア様と愛を育む物語を信じていられたかもしれない。

 

 それなのに、手紙に綴られた筆跡は――見慣れた私のものだった。

 

 恐らく騙り手は、公式文書に残されたジェイミーの筆致を真似たのだろう。あの人は自分の悪筆を嫌って私に代筆を頼んでいたことなんて、誰も知る由もないでしょうから。


『エルマ、すまない。また頼まれてくれないかな』

『もう、いつまでもそんな調子でどうするの。報告書を書くことだってあるんでしょう?』

『基本的には部下がやってくれるし、団長は俺の文字を解読できるからいいんだよ。でも公的文書となったら読める字じゃないと困るだろう?』

『仕方のない人ね。……戻ってきたら、今度は字の練習をしましょうね』

『はは……お手柔らかに頼むよ』


 ――ああ、また一つ、思い出せた。


「ルーシア様と話しているとね、私も彼が生きているように振る舞えるの。その間だけ、あの人を鮮明に思い出せるのよ。……内緒にしてね、ハンナ」

「もちろんでございます。でも……ジェイミー様を騙った手紙は、奥様にも届いておりますでしょう?」

「ふふ、律義なことね。暖炉の足しにでもしておいてちょうだい。自分によく似た字を見たって、虚しくなるだけだから」


 もしかするとハンナは、私の気が触れていると思っているのかもしれない。

 でも、安心して。大丈夫よ。

 私はちゃんと、正しく、彼の死を理解しているから。


 ただ、語りたかったの。

 あの人が生きている世界に、もう少しだけ浸っていたかったのよ――。

 

 *

 

 その日もまた、白薔薇が咲き誇る庭で茶会が開かれていた。


 彼女の口から語られるジェイミーは、いつだって生きている。

 勇敢で、誠実で、誰よりも優しい人。

 その姿を描くたびに、声が、仕草が、思い出の中で輪郭を取り戻していく。


「ジェイミー様からまた手紙が届いたのです。今は帝国領近くにいるのだとか……。寒さに弱いと仰ってたから、お身体が心配ですわね」

「そうですね。でもきっと大丈夫ですよ。結婚する前の話なんですけれどね――」 


 楽しげに耳を傾けるルーシア様に、心のなかで謝罪する。

 

 ごめんなさいねルーシア様。

 貴女の貴重な若い時間を、あの人のために使わせてしまって。


 でも私からあの人を奪うつもりが少しでもあったのなら――これくらいは許してちょうだい。

 きっと戦が終わる頃には、私もようやく区切りをつけられるでしょうから。

 

 ルーシア様は無邪気に笑いながら、あの人の話を繰り返す。

 私もさも彼が生きているように振る舞い、あったかもしれない未来を語る。

 

 昨日も、その前も、きっと明日も同じように。 

 戦争が終わり、全てが詳らかになるその日まで――。


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