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ユカリとシオリ(On the Day I Died)

1


 同じ年齢、同じ服、同じ背丈、そして同じ顔。

 それなのにユカリは、私よりも美人でした。二人並んで写っている写真はありませんから、見比べたことはないのですけれど、友人の反応を見れば、それは明らかでした。

 表情や立ち居振る舞い、そういったものが、おそらく違うのです。

 逆に、両親は私とユカリをしっかりと区別できてはいませんでした。自分たちの娘、とだけ感じていたのかもしれません。彼らにとっては、ちょっとした言動の違いなんて、小さいものだったのでしょう。

 外での周囲の反応に傷つき、家での、私たち二人にはなんら違いはないのだという態度にも、釈然としない思いを抱えていました。

 それでも表面上、私は落ち着いていました。悲しんだり怒ったりせずに、みんなのユカリに対する羨望に対しても、特別何も思っていないかのように振舞っていました。そして、そうするうちに、本当に何も感じなくなっていきました。

 実際にユカリのほうが魅力的なら、それは仕方のないことだと思うようになったのです。

 私が知らない間に、クラスメイトとユカリが話していて、とても盛り上がっていることがあります。私はなんの話題なのかわからないまま、静かにその輪に加わり、入れ替わるようにユカリがその場を去ると、笑ってしまうくらいにクラスメイトたちが落胆するのです。

 私も一応、みんなを楽しませようと努力をしたりするのですが、彼らにとってはどんな些細な、取るに足らない日常の一コマでも、ユカリの話ならたくさん笑えるのです。同じ顔の私では駄目でした。

 そんな毎日が続くうちに、私は学校で他人と話すことはなくなりました。私が話さないぶん、ユカリが私のぶんまで話すので、私が一言も発さないことに誰も気づいていませんでした。

 そういった生活の中でも、ほっとできる時間がありました。放課後の少しの寄り道です。

 学校が終わると、私はまっすぐ公園へと向かいました。そこで本を読んだり、宿題をしたりして過ごすのです。

 家からも学校からも離れていて、たまに犬の散歩を見かける以外は、人が来ないような公園です。

 子供が遊べる遊具がないからかもしれません。ただ芝生が広がっていて、ベンチがあるだけです。でもここには、大きなテーブルと長椅子があって、勉強をするのにちょうど良かったのです。

 私がこうしている間、ユカリが何をしているのかはわかりません。 不思議なことに、放課後のこの公園に、ユカリが来ることはありませんでした。自分の部屋で眠っているのでしょう。

 家には家族が、学校にはクラスメイトがいるので、こういった時間はなかなか持つことができません。だから、たとえそれが、私たち二人の宿題を一人でこなしていたとしても、ほっとした心待ちでいられました。

 午後五時になると、どこか遠くで家路が流れます。それが帰りの合図です。それが聞こえると、私は渋々支度をして家に帰ります。

 ある日、私がいつもの通り一人で宿題を終わらせてから、図書室で借りてきた本を読み始めると、声をかけられました。

 以前はこの公園でよく、犬の散歩をしていた人でした。

 その犬に一度だけ、ひどく吠えられたことがあったので覚えていたのです。その後から姿を見なくなったので、散歩のルートを変えてしまったのだろうと考えていました。

 また吠えられるのではないかと身構えましたが、犬は連れていません。

 その人は、灰色の髪を短くしていて、メガネをかけていました。おじいさんと呼んでも良いくらいの年齢に見えますが、服装もきちんとしていて、背筋もしゃんとしていて、おじいさんと呼びかけるには躊躇うような人でした。

「まえにうちの犬がご迷惑をかけてしまった子かな?」

「……はい……あの、いいえ……」

 迷惑ではありませんでした。突然の大きな音にびっくりして、私が過剰に反応してしまっただけなのです。

 だから散歩はまたこの公園にきてください、と言いたかったのですが、そういった一言をユカリのようにすっと言うことができません。

 ただ、大丈夫です、大丈夫です、と繰り返すことしかできませんでした。

 そんな私をみて、おじいさんは困った顔をして微笑みました。

「あのときはすまなかったね。実は、犬はもういないんだ」

 もういない、というのが、亡くなってしまった、という意味だというのが、おじいさんの表情からわかりました。

「それは……残念です」

「うん。もう年だったからね」

 おじいさんはそういうと、後ろを振り返りました。

 視線の先、公園と道路の境目に植えてあるイチョウ並木の向こう側に、誰かが立っていました。散歩でしょうか。こっちを見ているようですが、木の幹に隠れて、顔はわかりません。

 私たち二人に注目されていることに気づいたのか、どこかへと歩き去ってしまいました。

 その人の姿が見えなくなると、おじいさんは私を見て微笑みました。

「あなたが構わないなら、少しおしゃべりに付き合ってもらっても良いかな?」

「はい」

 私はテーブルに広げた勉強道具を、慌てて鞄に仕舞います。

 おじさんは私の隣に座ると、公園の外を指さしました。さっき人が立っていた方角です。

「僕は今年になってあの家に越してきたんだ」

 イチョウの木々の間から、家の一部が見えています。

 それは私たちが生まれる前から建っている古い家でした。

 ずっと空き家だったので、小学生の間では幽霊屋敷と呼ばれていました。去年あたりから工事の車がとまっているのを見かけていたので、きっとリフォームをして、誰かが引っ越してくるのだろうと噂していたのです。

 おじいさんは大学生になって上京するまでは、その家に住んでいたそうです。

 奥さんや子供は東京に住んでいて、おじいさんは一人でこちらに引っ越してきたのでした。

 おじいさんは老後をゆっくり過ごしたいと思っていましたが、家族はそれぞれ仕事もあるし、東京のほうが生活がしやすいから、と別々に暮らすことにしたらしいのです。

 休日には家族がこちらへくることもあるし、おじいさんが東京へ出ていくともあるし、寂しいということはないと話していました。

 その日はそうやって、お互いの話を五時になるまでしました。そして次の日には本の話を、その次の日には音楽の話をしました。

 私が公園へと通うたびに、そうやって過ごしていると、だんだんおじいさんのことを友達のように感じるようになりました。

 正直おじいさんのほうは、私のことを、よく顔を合わせる近所の子供、くらいに思っていたと思います。

 でも、私のほうは、初めてできた、私だけの友達だったのです。


2


 天気予報にはなかった大雨が降った日のことです。

 いつものように勉強をしていると、急に空が曇り始め、教科書を鞄にしまう間もなく、雨がポツポツと降り始めました。そして公園からでる前に、ざあざあ降りになってしまったのです。

 私は鞄が濡れないように胸に抱えて、走って木の下に避難しました。枝の間から雨粒がどんどん落ちてきますが、仕方ありません。

 急に降ってきた雨だったので、雨宿りしていれば、じきに止むだろうと思っていたのですが、雨足は激しくなる一方でした。

 母にお迎えを頼もうか迷いました。でも頼んだあとで雨が止んだら、と思うと気が進みません。

 そのままぼうっと空を眺めていると、公園の反対側から傘をさした人がこちらにやってきました。

 綺麗な青色の傘です。

 その人は広場の真ん中で一度立ち止まり、傘の縁を上げて空を見上げました。おじいさんでした。

「こんにちは」

「こんにちは。ひどい雨だね」

 おじいさんはそう言うと、私に傘を差しかけてくれました。

「雨が降るなんて知らなくって……ありがとうございます」

「僕もだよ。買い物に出ていたんだけれど、帰る途中で降り始めてね。あんなに走ったのは久しぶりだ」

 そう言って明るく笑います。それから私の状況をさっと見たようでした。

「寒くないかい?」

「大丈夫です。パーカーが、少し濡れただけなので」

「よし、それを乾かしながら、雨が上がるのを待とうか」

 こうして、私はおじさんの家に行くことになったのです。

 目の前が見えにくくなるほどの雨だったので、家に戻るのはかえって危ないようにも思えました。

 公園を横切り、おじいさんの家の前に立ちます。

 幽霊屋敷と呼んでいたその家は、通り沿いに木の扉とガレージのシャッターができていました。昔はどんな家だったのか、もう思い出せません。

 重そうな木戸を開けると、細い通路が玄関まで伸びています。通路の脇には竹が植えてあって、雨が降って暗くなったせいか、足元にあるライトが仄かに光っていました。テレビで見る料亭のようです。

 家の中に入ると、まずサンルームへと向かいました。そこには、おじいさんの洗濯物がきれいに干してあって、除湿機とサーキュレーターが音を立てています。

 おじいさんにハンガーを借りて、私のパーカーもそこに干しました。

 雨が上がるまでのあいだは、いつも通りおしゃべりをして過ごしました。

 いつもと違ったのは、温かな紅茶が出てきたことと、話に出てきた曲を、すぐに聞くことができたところです。

 あと少しで五時になる、というところで、私はお手洗いに立ちました。雨足も弱まっていたので、もうそろそろお暇しなければならないと思ったのです。

 私がお手洗いを出て、リビングルームに戻ろうとしたときです。

 頬にさっと風があたりました。思わず立ち止まります。

 髪の毛もソヨソヨと動きます。ほんの少しだけ、暖かな外の香りがしました。お日様に照らされた干し草のような感じです。

 私は周囲を観察して、それらが二階から流れてくるのを発見しました。薄暗い階段の先、二階の天井が見えます。

 そこで影が揺れていました。木の枝 が風で揺れているような動きです。

 私はおじいさんが待っている部屋のほうを見ました。もちろん壁があるので姿は見えません。小さく音楽が聞こえてくるだけです。

 私は好奇心に蓋をして、おじいさんのもとへ戻ろうと思いました。でも、最後にもう一度二階のほうへ顔を向けると、自然と片方の足が階段にかかりました。

 後ろを確認して、心の中で謝りながら、階段をさらにのぼります。

 段数はそんなにありません。だから静かにのぼりおりしても、一、二分で戻ってこられそうです。

 迷っているよりも、さっと二階を見ておじいさんのもとに帰るほうが良いと、そう自分に言い聞かせました。

 階段をのぼり終えると、そこには三つの扉がありました。すべて閉まっています。

 天井を見上げても、木がそよいでいるようには見えませんでした。

 きっと見間違いだったのでしょう。私はがっかりした気持ちで、下へとおりようとしました。すると、視界の端にある扉が、小さく開いているのがわかりました。

 風で開いたのでしょうか。

 私は閉めようとして扉に近づきます。

 すると、伸ばした指先に、はっきりと暖かな風を感じました。

 風に揺れる木々のざわめき、微かな鳥の囀りも。すべて扉の隙間から聞こえてきます。

 私は部屋の中が、どうしても見たくなりました。

 勝手にそんなことをしたら、おじいさんに失望されてしまうかもしれません。

 少しだけ、少しだけ。中をちらりと見たらすぐに下におりよう。

 そう誓って、私は隙間から中を覗きました。

 広さは六畳程でした。窓はなく、一人用の肘掛け椅子が真ん中に置かれています。

 そして壁や天井には、セピア色の風景が映し出されていました。

 どこまでも続くような空と、草原、遠くには家があります。鳥が飛んできて、草むらに降り立つと、何かを啄み始めました。

 暖かな日差しと草の香り。

 私は誘われるように、中へと踏み入れてしまいました。

 目を閉じれば、本当の草原にいるような感覚です。

 けれど動きは滑らかではなく、パラパラ漫画を見ているようでした。

 きっと部屋のどこかに、この風景を映すためのプロジェクターのようなものと、風や音、匂いを出す装置があるのだろうと思ったのですが、ちょっと見ただけではわかりませんでした。

 くるくると回転しながら壁を見ていると、遠くの家のそばに、人の形のような影が並んでいるのに気がつきました。

 もつひと回転すると、その影は少し大きくなっています。

 ぎこちない動きで、でもしっかりと、私のほうへ走ってきていました。

 表情は見えません。でも笑顔であることがはっきりわかります。

 草を踏み締める音も、聞こえてきました。回転するのをやめて、その様を見入ってしまいます。

 これはただの映像で、なにも起こるはずがないという自信と、壁からその人影かこちらに出てきてしまうのではないかという不安と、最後にはどうなるのだろうという好奇心が、一度に湧き上がりました。

 そのすべての感情は方向性はバラバラのくせに、私の身体を動けなくする、という意見は一致したようでした。

 息づかいが、足音がだんだん大きくなります。

 草むらから、小さな虫たちが飛び出してきました。

 人影は壁にギリギリまで寄ると立ち止まりました。

 私は背後の壁まで下がろうとしましたが、そちらにはすでにもう一人の人影が立っていました。

 その人も、たぶん笑っています。

 私はパニックになって、部屋の中央でしゃがみこみました。心臓が早鐘のように鳴っています。耳を塞ぐと耳元で脈打ちます。

 そこで私はようやく、唯一景色が映っていない扉のことを思い出して、そちらへ這うように向かいました。

 すると、薄く開けた目の前に誰かの足先が見えました。

 ああ、とうとう壁から出てきたんだ。私も壁の中に引き込まれてしまうんだ、と泣きだしてしまいそうになりましたが、それはおじいさんでした。

 おじいさんは少し困ったように笑うと、手を貸してくれました。よろよろと私は立ち上がります。

「遅いと思ったら、ここにきていたんだね」

「ごめんなさい」

「うん……でも仕方がないことなのかもしれない。この部屋に誘われたんだろう?」

 私は頷きます。おじいさんも頷き返しました。

「怖がらなくても大丈夫。彼らは僕の家族なんだ」

「かぞく?」

「そう。うんと昔にこの家で死んでしまった弟たち」

 おじいさんは手を振りました。

 顔を上げると、二つの影は並んで立っていて、おじいさんに手を振り返しています。

「この壁から二人は出てこられないんだ。僕としては出てきてほしいのだけどね」

 おじいさんにそっと背中を押されて部屋を出ました。壁の二人は、私たちのことをずっと見ている。そんな気がしました。

 あの部屋はいつの間にか、ああなっていたのだそうです。

 シアタールームにでもしようかと準備していたところ、小さなシミのようなものが壁に浮き上がり、濃くなり、それが広がっていって、数週間かけて今の風景のようになったのです。

 おじいさんは、たまにあの部屋の椅子に座り、弟たちが草原を駆け回ったり、遊んだりしている様を眺めるのが好きなのだと、恥ずかしそうに笑っていました。

 その雨の日から、私はおじいさんの家にも行くようになりました。天気が悪い日や、公園のテーブルが使われているようなときです。

 そのうち、おじいさんの奥さんとも顔を合わせました。

 奥さんは痩せて、小柄な人でした。灰色の短い髪は綺麗にセットしてあって、靴もバッグも洋服も高級な感じです。今でも仕事で忙しく駆け回っている姿が想像できました。

 奥さんは私のことを歓迎しつつも、小学生の、しかも女の子が、一人で他人の家に気軽に来ているということを、とても心配していました。

 何かのときのためにと、奥さんは私に名刺を渡してくれました。だから私も自分の連絡先を教えました。

 三人で過ごすときは、私と奥さんがたくさん喋り、おじいさんは聞き役にまわります。おじいさんは、私たちが話すのを聞いているだけでも、楽しいのだと教えてくれました。

 おじいさんと奥さんは、私にしか会ったことがないので、ユカリと比べられることはありません。

 自分にがっかりせずにいられる場所ができたのです。


4


 おじいさんの兄弟は、毎回、姿を見せるわけではありませんでした。きっとこの壁に写っている範囲よりも、壁の中の世界はずっと広いのでしょう。

 壁の中に初めて猫を見つけて、嬉しくなってお爺さんに報告したことがありました。

 おじいさんも嬉しそうに「珍しいな」と言って、私とセピアの部屋に入りました。

 猫は遠くにある家の屋根で伸びをしています。

「あれはうちの子なんだよ……おーい!」

 おじいさんは猫に向かって手を振ります。猫の耳が少しだけ動いたようでした。それから、たっぷりと時間をかけて、こちらを見ます。けれど声をかけてきたのが私たちだとわかると、まるで興味がないというふうに顔を背けて、その場にごろんと横になりました。

 毛足の長く、暖かな部屋のソファで優雅に寝ているのが似合いそうな子です。

「ああ、寝ちゃった。十年以上飼っていたんだ。僕にはちっとも懐かなくてね。妻にはとても甘えていたのに」

 おじいさんが名前を呼ぶと、顔は動かさずにしっぽだけを揺らしてこたえます。

「不思議なんだけど、引っ越しの日に限って、僕から離れようとしなかった。だから一緒にこちらにきたんだよ。犬と一緒にね。年寄りの男たちで、結構うまく暮らせてた」

 こんなに遠いのに、猫の毛が風でかすかにそよぐ様子がはっきりと見えました。

「亡くなったのは、こっちにきてしばらくしてからね……猫は死ぬとき姿を消すって聞いたことあったけれど、僕と一緒に布団で寝ているときだった。朝になって気がついたんだ。もしかしたら、妻に死ぬところを見せたくなくって、僕と越してきたのかな。それからはここに、この壁の中にいる。この家で死んだものは、みんなこの壁に入ってしまうみたいなんだよ」

 鳥が急降下して草むらに降り立ちました。この鳥も、この家で死んだのでしょうか。

「妻はあの子がここにいることを知らないんだ。そもそも、この壁のことを知らない。不思議なことに、この部屋があることすら、意識していないようなんだ。あの子が死んでしまって、とても悲しんでいたから、この壁の中で、前と同じように気ままに暮らしているってことを教えてあげたほうが良いんだと思う。けれど、彼女にとってこの部屋自体は、あまり良いものではない気がしてね」

 それはわかる気がしました。

 この部屋は不健康な雰囲気があるのです。奥さんは明朗快活な人なので、この空気に触れさせるのはまずいような気が、私にもしました。

 牧歌的な風景と、カタカタ動く優しい住人たち。

 でも、どことなく、悪いものや怖いものが、奥のほうに隠れていて、この部屋に入ってくる人物が油断するのを待っている。そんな予感めいたものが、心にずっとありました。

 それでも私は、この部屋から離れることはできませんでした。

 離れ難い魅力があったのです。

 少し苦手だったおじいさんの犬も、この壁の住人になってからは大好きになりました。

 虫と追いかけっとしたり、お日様の下でお昼寝したり、そういった愛らしい姿を安全な場所から見られるからかもしれません。

 名前を呼ぶと、どんなに遠くにいても私の近くまで走ってきてくれます。ブンブンと尻尾を振りながら。

 そんなとき、この柔らかな背中を撫でたくなって、ああ、この子が生きていたらと思うこともあります。けれど生きて身近にいたら、やっぱり怖いと感じて、こんなに仲良しにはなれなかったでしょう。

 壁を隔てているから好きになれたのです。


5


 私がセピアの部屋を気に入ってしまったことを、おじいさんはどう思っていたのでしょうか。

 迷惑だとわかっているのに、どうしてもセピアの部屋に入らずにはいられませんでした。いっそのこと、奥さんがそのことを知って、私のことを叱ってくれたら辞められるのに、とすら思っていました。

 そんな日々が、何ヶ月も続いた頃でした。

 おじいさんの家から帰ろうとしたときに、玄関で素敵な封筒を差し出されました。

 どうすれば良いのかわからなくなり、おじいさんの顔を見上げると、微笑んで頷いています。

 私宛なのだとわかったので、封を丁寧に開けました。

 中にはメッセージカードが入っていて、日時と場所が装飾された文字で書かれてありました。

 私の誕生日の二日後の日付でした。

「これは……?」

 これはもしかしたら、私の誕生日パーティーを開いてくれるということだろうか。でも誕生日の当日ではないし、勘違いだったら恥ずかしい。

 おじいさんは私のことをニコニコと笑いながら見ていましたが、そのうち不安そうな表情になりました。

「もしかして、嫌だったかな? 日頃のお礼を兼ねてきみの誕生日パーティーを開きたいなって、妻と二人で話してね。当日だと予定が入っているだろうから、日にちをずらしたんだけれど」

 私は驚いて、そして少し怖くなりました。

 日頃のお礼に祝いたいということが、理解できなかったからです。よくしてもらっているのは、いつだって私で、お礼をするのなら、当然私のほうです。

 私が戸惑っていることに気づいたのか、おじいさんは言葉を重ねました。

「きみが遊びにきてくれるようになってから、うちがなんだか賑やかになったんだ」

 私は気の利いた一言を一生懸命探しました。けれど似つかわしくない言葉ばかり浮かんでしまったので、「嬉しいです……あの、とても」とだけ、なんとかこたえました。

 私だけの誕生日パーティーが開かれることになったのです。

 誕生日パーティーは、これまでも毎年ありました。プレゼントも、お祝いの言葉もたくさん貰えました。でも、主役はやっぱりユカリだったのです。

 例えば、誕生日ケーキのロウソクを吹き消すとか、そのあとみんなに感謝のメッセージを伝えるとか。当然のようにユカリがしていました。

 他人から注目を集めるような役目は、緊張してうまくやれる自信が私にはなかったし、そのことをユカリも知っていたからです。

 けれどこのパーティーの主役は私です。

 それは、自分でも驚くほど嬉しいことでした。

 主役になれないなんて、自分にとってはたいしたことないと、ずっと思ってきたのに。


6


「最近、夕方誰かのお家に行ってるんでしょう?」

「……え?」

 その日家に帰りつくと、二人の部屋でユカリが待っていて、そう尋ねてきました。

 私はどきりとしました。今まで放課後に私が何をして過ごしているのか、聞かれたことがなかったので、興味がないのだろうと安心していたからです。

「そのことについてママから聞かれたの。私、知らなかったけれど、知っているふりをしちゃった。じゃないとママは不安がるでしょう?」

「そうだね。ありがとう」

「楽しいところなの?」

「別に」

 私はできるだけそっけなく言いました。ユカリが興味をもたないように。

「危ない人じゃないよね?」

「大丈夫。良い人たちだよ」

「それなら良いんだけど」

 ユカリは声に不安を滲ませたままそう言って、自分のスペースに戻りました。

 ユカリは別に、私に意地悪がしたいわけではないのです。

 ユカリはただ自分の思うままに行動しているだけで、私はただ振り回されているだけ。いいえ、一人で振り回っているのです。

 ユカリはユカリのままで周囲の人たちに好かれているのですから、意地悪なんて陰湿なことは、考えにも及ばないのだと思います。

 パーティーの当日、私は一度家に帰ると、一番のお気に入りのワンピースに着替えました。それから、お母さんにお願いして用意してもらった手土産を持って、おじいさんの家へ向かいました。

 私が家に戻ったのにも関わらず、ユカリは顔を出してきませんでした。放課後私が帰宅すれば、必ず出てくるのに。

 いつもと違うことに少しだけ違和感を覚えながらも、私の心の大部分は自分のパーティーに占められていたので、すぐにそんなことは忘れてしまいました。

 約束の時間ぴったりにおじいさんの家に着くと、そこにはおじいさんだけが待っていました。奥さんは急用ができて、東京の家へと戻ってしまったのです。

 残念に思いましたが、奥さんが残してくれた私へのメッセージカードには『この埋め合わせは必ず』という文言が入っていました。このパーティーが終わっても、まだ楽しみが残ることに、私はかえって喜んでいました。

 ダイニングテーブルには小ぶりながらもホールケーキが用意されていました。それに、普段この家で見ないようなスナック菓子が、カラフルなプレートに盛られています。

 私はできる限り楽しげに聞こえるように歓声をあげると席につきました。

 おじいさんも嬉しそうに笑い、それからお茶の用意のためにキッチンへ行きました。まさにそのときです。ユカリが現れたのは。

 ユカリはおじいさんの家を珍しげにキョロキョロと見回します。それから私に目配せすると、家の中を探検しようとしました。

 焦りました。

 このままではパーティーの主役がユカリに変わってしまうかもしれません。

 耳を澄ませてキッチンの様子を伺うと、微かに薬缶のシューシューという音が聞こえてきました。

 おじいさんが戻ってくるまで、まだあと数分はあることを願いながら、私はユカリを連れて二階へとあがりました。ユカリとの会話を聞かれないようにするためです。

「どうして? 放課後は私の好きにして良いでしょう?」

 声を潜めてそう非難すると、ユカリは傷ついた表情をしました。

「あなたが心配で……だって毎日のように知らないおじさんの家に入り浸っているのでしょう? そんなのおかしいじゃない」

 

7


 ユカリにそう言われて、反射的に「そんなことないよ」と返しました。

 言葉にしてから、これまでのことをあらためて思い返してみました。大丈夫。嫌なことをされたことはありません。むしろ、嬉しいことばかりでした。

 私がそうやって考え込んでいる間、ユカリは注意深く私を観察しているようでした。私が嘘をついていないか。そう言うことを強要されていないか。

 ユカリは私のことを心配しているのです。私の身に何かがあれば、ユカリにだって被害が出るのです。

「ここで何をしているの? そんなに入り浸っている理由はなに? 実はずっと気になってたの。でもシオリが隠そうとするから」

 ずっと気になっていたのなら、なんで今なのでしょう? よりにもよって。

「別に隠していたわけじゃないよ。家に帰ってから話すから。おじいさんが待ってる」

「おじいさんの前で話したっていいじゃない」

「変に思われるよ」

「しょうがないでしょ? それが私たちなんだから」

「ねぇ、今は帰って。家で話そう。今日は私の誕生日パーティーなの」

 そこでユカリは少し不思議そうな顔をしました。そして無邪気にこう言いました。

「私たちのでしょう?」

 ユカリのその一言を、私は咄嗟に跳ねのけるように「違う!」と言いました。そしてそのとき、言葉だけではなく、身体も動いていました。

 ユカリを両手で思い切り押しのけていたのです。

 ユカリは驚いた顔をしていました。

 それから、それから、階段の下へと落ちていってしまったのです。

 それはあり得ないことでした。

 だってユカリと私は、一つの身体を共有するしているのです。

 ユカリだけ落ちるわけはないのです。

 眩暈がしてふらつきました。

 咄嗟に手を伸ばしましたが、手はどこにも触れません。

 とてつもなく大きな音がしました。

 これはユカリが落ちた音でしょうか。それとも私?

 目の前が真っ暗で何も見えません。

 鼓膜が震えます。そして身体が揺さぶられました。

 おじいさんが気づいてやって来てくれたのです。

 私は、私のほうは大丈夫なのだと伝えたかったのですが、言葉はほつれて、もつれて、何も発することはできませんでした。


8


 次に目を覚ましたときは、病院にいました。両親がベッドサイドにいて、疲れた顔で寝ています。

 私はゆっくりと上半身を起こしました。

 その瞬間、はっきりとわかりました。

 今、私は一人きりであると。

 この身体からユカリは消えてしまったのです。

 両親に声をかけナースコールを押すと、看護師さんとお医者さんがやってきました。

 私は階段の下で倒れているところを、おじいさんに発見され、救急車で運ばれたのです。寝ている間に、いろいろと検査をしたのですが、特に異常は見つからなかったようです。

 おじいさんも病院で、私が目を覚ますのを待っていました。

 私の体調を気遣えなかったことを何度も謝るので、私は元気であることを示すために、とびきりの笑顔を作り、声のトーンを上げ、一人一人の目を覗き込むようにして話しました。

 このアピールで両親は少し安心したようでしたが、おじいさんは浮かない顔をしていました。

 それはこの態度が、いつもの私とまったく違うように見えたからかもしれません。

 翌日に退院すると、念のため、数日家で様子を見てから学校へ行きました。

 学校でも、私はできる限り愛想良く、笑顔を絶やさないように過ごしました。先生もみんなも、私がおじいさんの家で倒れたのだと知っていたので、おじいさんに迷惑をかけたくなかったのです。

 ユカリはもういないのですから、私は単身でアウェーの地へ挑むくらいのつもりだったのに、みんなが私を気遣ってくれて、あたたかな気持ちで過ごせました。

 ひと月ほど経ってからです。私はこっそりおじいさんの家へ向かいました。

 おじいさんの家に行くことが禁止になったわけではありませんでしたが、行ってほしくないと両親が思っていることはわかっていました。

 けれど、おじいさんの奥さんから、私への誕生日プレゼントとお見舞いのお菓子が届いていたので、お礼が言いたかったのです。

 それから、あのセピアの部屋にどうしても入って、確かめたいことがありました。

 おじいさんは私が訪れたことに、一瞬驚いた顔をしましたが、すぐにいつもの柔らかな笑顔になりました。

「身体は大丈夫?」という質問に、私が「大丈夫です。とても元気です」とこたえると、あの日のことはそれで終わりました。そのことに私はほっとしました。何度も何度も、平気だ、大丈夫だとこたえるのは、うんざりしていてのです。

 私たちはいつものように一階でお茶を飲みお菓子を食べ、シベリウスを聴きました。

 そうして、おじいさんがキッチンへといなくなった隙に、いつも通り二階へと上がりました。

 久しぶりなのでドキドキしながらドアノブを握り、ゆっくりとドアを開けます。隙間から気持ちの良い風が流れ出てきます。それから、緑とお日様の香り。

 それらがはっきりと感じ取れました。最近きていなかったせいでしょう。

 そっと中に入り扉を閉め、中央に置かれた椅子に座ります。

 小鳥の囀り、草原駆け抜ける風の音、木々のゆらめき。

 すべてがカクカクとしか動かないのに、音は現実と同じです。

 椅子の背もたれにゆったりと身体を預けると、無意識にため息が出ました。たっぷりと息を吐き出すと、今度は同じだけ吸い込みます。軽く眩暈がして目を閉じました。

 ずっと愛想良く振る舞っていたので、疲れてしまったのかもしれません。

 誰もいないここでなら、いつもの私でいられる気がしました。

 でも、いつもの私とはいったいどんな感じなのでしょう。

 いつもの私というものを考え始めても、なにも思いつきません。

 でもユカリのようになら振る舞えます。近くで見てきたので、それはわかりました。

 草を踏み締める音がして、意識がはっきりしました。

 うたた寝をしていたのでしょうか。

 時計がないため、どれくらいこの部屋にいるのかわかりませんが、おじいさんが二階に上がってきていないということは、ほんの一瞬の眠りだったのかもしれません。

 椅子に座ったまま、足音のするほうを向きます。

 そこにいたのは、私でした。

 私だったのです。

 ユカリには見えません。

 だって、緊張したように洋服を握りしめていて、ちょっと俯いています。

 ユカリはこうではありませんから、つまり、これは私なのです。

 では、今ここにいる私がユカリなのでしょうか?

「あなたはどちらなの? ユカリ? シオリ? 」

 そう問いかけると、壁の中の私はさっと姿勢を正しました。

 これでもう、見分けはつきません。

 それから私に笑いかけました。たぶん、そう。空気が柔らかく揺れた気がしたのです。

 私も笑いました。

 あたたかで、安心した心持ちになりました。

 彼女が誰であれ、この壁の中にいさえすれば、大好きになれます。

 もう一人の私がこちらに背を向けて、ゆっくりと歩き始めます。

 犬が走ってくると、彼女の周りを何周も回ってから、その場に転がりました。

 彼女は一瞬立ち止まり、屈んで犬のお腹を撫でると、また歩き始めます。

 いつの間にか、遠くで二人の影が手を振っています。

 彼女は手を振りかえしました。

 二人のうち一人が、ボールを高く掲げたあとにボールを投げます。

 犬は一直線に走り出してボールを追いかけました。しばらく草むらを掻き分け、ようやくボールを見つけると、ボールを咥え、二人ではなく彼女にボールを返しました。

 二人は大袈裟な仕草でがっかりします。みんながどっと笑ったような感覚がありました。

 三人は集まると、何かを話し始めました。

 私はそれをずっと見ていました。

 これから始める遊びについて話しているのでしょうか。三人はときおり、お互いの肩を小突いたり、笑ったりしています。

 私は少しだけ羨ましく思いました。

 しばらくすると話し合いが終わったのか、三人が沈黙したようでした。

 表情は見えませんが、視線を合わせているのはわかります。

 風がやみました。

 それから、それから、三人が一斉に私のほうを向くと、私に向かって手招きをしました。


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