第2話 ウシ國の王
「ヲシリよ!まこと無事であるか!!」
(九死に一生を得た!)
正直、人生最大のピンチを乗り越えたような心からの安堵感に、明らかにホッと気が緩んだのは間違いない。
大音響とともに視界に入ってきたのは、想像に違わない巨漢だった。
厚手の上質なシルクに、豪奢な文様をあしらったマントを羽織った偉丈夫が、俺の視界に入り込んできた。
それにしても…。
「お・お尻って、ひょっとして俺の名前でしょうか?」
口に出してしまってから、俺はしまった!と思ったが、その迫力につい声が漏れ出していた。
ここまでの緊張感から、凡そかけ離れた『お・し・り』という単語に、迂闊にも無意識に反応してしまったのだ。
(取り返しのつかない、軽率な発言をしてしまったかもしれない)
冷や汗が全身から噴き出しているかのような、焦燥感に襲われた。
(なんで考えなしに、声に出してしまったんだぁ!)
一難去ってまた一難、まだまだ危機が去った訳ではなかったのだ。
いやここは素直に認めよう。
自らの自爆で、新たな危機的状況を招いてしまった。
その危機感の源泉が、眼前の巨漢の風貌に拠るところが大きかったのは間違いない。
何しろ男の体格はもちろんのこと、その風貌があまりにも現実離れしていたからだ。
屈み込んで俺の視界に入ってきた顔を一見して、思い起こしたのは三国志に登場する、蜀の武将“関羽雲長”だろうか。
しかもその顔面には、隅々まで刺青が入っていたのだ。
強いて言えば、歌舞伎役者の隈取りを全部、刺青で仕上げているって言う感じだろうか。
しかも海外で見るような単色ではなく、極彩色に彩られた一つの芸術品のような品格すら兼ね備えている。
頭上には長い髪を、巻き込むように束ねられていて、煌めく濃緑の宝石があしらわれた、簪のような金属の棒が刺し通されていた。
更には胸にまで届こうか?という程の立派な顎髭が、横たわった俺の身体に乗っかっている。
(こういう立派な髭って、八束髭って言うんだっけ?)
まさに古の豪傑が、目の前に現れたような気がした。
(この人のほうが、よほど勇者に見えるじゃないか!)
男は低音に響く野太い声音で、俺に対してこう言った。
「そうだ。我はウシ國の王、『ウシノデヲシヒコ』である」
そして続く言葉には、優しくも温かみを感じさせる声音を滲ませていた。
「そしてお前は我が御子、『ウシノヲシリ』。つまりウシ國の若王じゃ」
そして今度は振り返って、先程の妖しげな巫女に向かって言い放った。
「聞こえたな、ヤマト國の巫女よ。何故そなたがこの場におるのじゃ?我はヤマト國の巫女まで召し出した覚えはないぞ」
ヤマト國の巫女と呼ばれた女は、他の巫女達を傍らに侍らせ、平伏しながら奏上した。
「王は貴國の巫女の宗女『イヅノメ』に、若王の平癒を祈祷せよと仰せ賜ったとのこと。なれば同じ“日の神”を奉る巫女として、馳せ参じた次第でございます」
そして面を上げて、自己紹介を始めた。
「妾の名は、ヤマト國の巫女の宗女を務めまする『サグメ』と申しまする。若王が神憑りとなったと聞き、助力をと思い参上奉ったまでのことでございます」
ヤマト國の宗女を名乗るサグメは、冷ややかな目線で俺の方を見遣りながら、そう言葉を続けた。
「我が御子は、決して黄泉の国の八色雷公などの穢れた雷神の化身などではないぞ!」
ウシ國の王が発した一言は、先刻以上にドスの利いたド迫力の大声量で広間一面に響き渡った。
「噫ああぁ」
ヤマト國の宗女サグメは、再び平伏した。
「我が御子に対する平癒の祈祷には、相応の褒美を取らせる。だがしかし…」
ウシ國の王は言葉を区切り、重々しく言葉を続けた。
「我が御子ヲシリに危害を加えようという魂胆であるなら、その企みは極刑に値すると知れ!良く心得るがよい。さっさと立ち去れっ!」
「噫ああぁ」
ヤマト國の宗女サグメは平伏したまま、膝を擦りながら退室していく。
取り巻き数名の巫女達も同様に、静々とそれに続く。
そして最後の巫女が静かに扉を閉めると、外から声が掛けられた。
「ヤマト國の宗女を軽んじ召さるな、いづれこの國は大禍に見舞われますぞ!」
一拍置くと声音が、改めて妖艶に変わり言葉を続けた。
「若王様に於かれましては、早くお治りなされます様に、くれぐれもお体を大事になさいませ」
フッと扉の外の気配が消えた。
ひとしきりの静寂が屋敷におとずれた。
「ヲシリよ、障りはないか」
ウシ國の王は、先程の迫力とはうって変わって優しく訊いてきた。
「お・俺は…」
ここまでの怒涛の急展開に、さすがに続く言葉が見つからなかった。
(この人にだけは真実を伝えたい…)
ただそんな思いが、心の奥底から込み上げてくるのを感じていた。
きっと転生前の自身の父親だからだろうか。
しかし真実を告げることに、限界があることも自覚していた。
(俺は別の世界から転生してきた、ただのオッサンです)
そんな事実は、雷神様が憑依しているって話よりも、遥かに信じ難いことだろう。
それでも俺は、受け入れられる範囲で、事実を伝えようと決心した。
(そのうえで殺される羽目になったとしても、この人が決めた運命ならそれに従おう)
覚悟さえ決まれば、自然と言葉は溢れ出してきた。
「ち・父上…いえ、ウシ國の王様でしょうか。俺はたぶん…あなたの息子ではありません。俺には、オ・ヲシリ?様の記憶が全くございません。今の俺には、こことは異なる世界で生きてきた記憶しかありません」
俺は一息にそこまで告げた。
そして先程の巫女との会話を思い出して、続けて事実を吐露した。
「もちろん雷神様なんて特別な存在でもありません。それに今は身体…からだも碌に動かすことが出来ません…」
限界だった、もっともっと伝えるべきことがあるはずなのに、言葉が続かなくなった。
なぜか、いい歳をして涙が溢れてきた。
きっと、この幼い身体に精神が引っ張られているに違いないと思った。
(俺はこんなにも心の弱い人間だったのか?この動かない体が恨めしい。そんな事情を言い訳にして、なんの説明も出来ていないことが、何よりも本当に情けない…)
ウシ國の王はただただ、黙って俺の言葉を聞きながら、その様子を見守っている。
俺が言葉を途切れさせると、広間はあっという間に静寂に包まれてしまう。
「ふはははははははは!」
突然、静寂が打ち破られたかと思うと、目の前のウシ國の王は豪快に笑い飛ばしていた。
気が付けば、俺は放心状態でキョトンとしていた。
「姿形が瓜二つと云えど、お主が真のヲシリで無いのは、直ぐに分かっておったわ。然るに『オレ』とは漢族でも鮮卑族でも、ましてイズモの言葉でもないのう。それに本来は相手を指して使う言葉じゃ…」
ウシ國の王はその立派な顎鬚を一撫でしながら、思案気に言葉を継いだ。
「この世では自分の事を指し示すのに『我』と言う。だからこの国全体は倭國と呼ばれている。しかしお主の言葉も聞いてて自然と理解できたのだから、きっと異なる世界とは、この世と然程違わない世界だったかも知れぬのう」
言葉は紡ぎ出しつつも、王は何でもないことのように振舞ってくれた。
「お主の身体が動かんのは仕方がないことじゃ。稲妻に逢って十日も臥せっておったのじゃ。しっかりと養生致せば、また身体も全快するで有ろう…でじゃ」
改めて王は正面から、俺との眼を合わせてこう言った。
『ヌシさえちかごろなれば、今往くすゑなるも『ヲシリ』としての浮き世を全く、せなむや?』
「お前さえ良ければ、今後も『ヲシリ』としての人生を全うしてはくれないだろうか?」
未だに耳から聞こえてくると声音と同時に、音が脳内では《《ダブ》》って聞こえてくるのだが…。
(ん?なんだろう?なんだか、自然と脳内の言葉のほうが強く伝わってくるようだ…)
心からの言葉だからこそ、よりハッキリと伝わってくるのかも知れない。
「はい、はい…ありがとうございます」
動かない体で、それでも目蓋全体で感謝の気持ちを込めてそう答えた。
「それではヲシリよ、今後は我のことを父王と呼ぶが良いぞ」
ウシノデヲシヒコは満足そうに、それでも少し安堵したような表情を残しながら、視界から外れていった。
入ってきた時とは違い、静かにその豪奢なマントが床を擦る音と重厚な足音がゆっくりと離れていく。
ふっと歩みを止めると振り返りながら、改めて声を掛けてきた。
「ヲシリよ、暫らくはしっかり養生するよう。急ぎ安心できる者を側付きとするので、なんの心配も無く過ごすと良い。とにかくは体の加減が良くなるまでは安静にしているがよい。体調が回復したら、改めてこの世のことを語って進ぜよう。そして…今回の様に余所者は、一切近づけぬことを約束しておこう」
そう言い残してウシ國の王、いや父王は、この広間から退出していった。




