第13話 牛國神話体系
あの別れの日から、数日が経過していた。
俺は部屋の中で、松葉杖を片手に歩行練習をしていた。
今は右足には多少の体重を掛けられるが、左足はどうしてもバランスが崩れてしまう。
その度に壁に手を当てながら、狭い部屋だがゆっくりと、グルグルグルグル進み続けていた。
左側中心に手足が未だに十分に力が入らないので、暫らくすると直ぐに疲れ切ってしまう。
そこで横に臥せって疲労の回復のために目を閉じると、再びあの出来事が脳裏に浮かんできてしまう。
聴覚情報として、絶叫して息絶えた“老巫女の断末魔”。
そして視覚情報として、漆黒の長髪を振り乱し神御衣を翻して駆け抜ける“狂気の巫女”。
最後に触覚情報として、悲しい運命を背負った巫女の“柔らかな唇”…。
今の俺にとって、最後の感覚ですら悪夢につながる情報でしかない。
そんな休憩のひと時に、引き戸の外から聞きなれた優しい声音が聞こえてきた。
「お兄様、もう起きておいでですか?」
「あぁ、今さっき目が覚めたところだ」
俺は返事をしながら、簡単な身支度をする。
(もう、そんな時間なんだ…)
この世界には時計がない。
しかし人間とはよく出来たもので、朝だなと思えば6時ごろ、昼だなと思えば12時ごろ、夜は…日没が教えてくれる。
相手も時計を持っていないので、時間に縛られることはほとんどない。
不自由に感じるのは、俺の前世の記憶の中だけだ。
マリアは今日も、食事を運んできてくれた。
そして恒例の“りはーびり”を丹念に行っていく。
その後からは今までとは一味違う。
例えば、清拭くらいは自分で出来るようになっていた。
さすがに左手を使うところや、そもそも手の届かない範囲は、相変わらずマリアの手を煩わせていた。
それでもあれ程大変だった食事ですら、不器用ながらも箸を使って食事が取れるまでに身体が動くようになっていた。
それは、マリアとのスキンシップの時間が、間もなく終了することを意味していた。
それでも締めは、楽しいお喋りタイムだ。
今日もマリアは、楽しい話題ばかりを用意してくれていた。
そして、お喋りタイムもそろそろ終了と言う頃合いになって、心配そうに話を切り出してきた。
「お兄様、最近あまり寝られてないんじゃ有りませんか?」
俺はなんて答えて良いのか分からずに、曖昧に答えることにした。
「あぁ、最近ちょっと動き過ぎた反動かな…」
マリアは一息溜息をついて、話を続けた。
「ちょっと位の話では在りませんわ。それと…、お兄様のお加減が良くなったら、父王が“王の間”で会いたいと仰っておりました」
そして俺の様子を改めて見定めながら、続けて言った。
「やっぱり未だ本調子ではないと、父王にはお伝えしておきますわ」
マリアは気を利かせて、そう言ってくれた。
俺は父のデヲシヒコとは、あの日以来一度も会っていないことを思い出した。
(そう言えば重要な会議も、スッポかしたんだよな…)
「マリア。俺はだいぶ体調も戻ったから、父王の都合を聞いて、明日にでもお会いすると伝えてくれないか?」
そう言うと、マリアも渋々引き受けてくれた。
(明日は久しぶりの王族会議になるんだな…)
いま思い返せば、あの時の得意気な話っぷりに耳まで赤くなりそうだ。
恐らくあの時点で、ほとんどの事案に解決の目途が立っていたのだから。
俺がしたことと言えば、出来レースの作戦指揮やら、名探偵の成り損ないの推理や、手品師見習い程度の実演くらいだ。
だからこそ、この羞恥心を忘れてしまう前に、もう一度あの王族会議をやり直さなければならないんだ。
そう思うと改めて松葉杖を使った移動訓練を再開するのであった。
そうしている内に、マリアから明日の予定が決まったとの知らせが入った。
明日のお昼ごろに、侍従長のカラスが迎えに来てくれるとのことであった。
(それにしても今更、王族会議って何の件だろう?)
山門國の陰謀に関しては、山依國のウズメから、全てを聞いてる。
そして父、デヲシヒコもあの“控えの間”近くに潜んでたであろう、侍従長のカラスから、詳細に報告を受けているのだろう。
俺もそこまで浅慮ではない。
あんな儀礼に使うような建物の…例え“控えの間”とは言え、他国の者へ簡単に貸し出す訳が無いのだ。
“控えの間”には要人が集い、これからの会談に際し、最後の密談が行われたりするのだろう。
そこに諜報の網が張られているのは自明の理だ。
(ウズメさんはそれを知ってて、なんで?)
そんな些事に思いを馳せつつ、明日起こり得る話題のシュミレーションを行っていると、いつの間にか例の浅い眠りに就いていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌日の朝は、思っていたよりも頭がスッキリとして目覚めた。
(やっぱり緊張しているのかなぁ?いつもよりも大分、早目に目が覚めてしまったのだが…)
いつもの通り、マリアが持ってきてくれた朝食を取ると、“りはーびり”もそこそこに“王の間”に行くために身支度を整えた。
侍従長のカラスさんは、時間通りに部屋まで迎えに来てくれた。
(まぁ時間通りと言っても、太陽が天頂に差し掛かったってくらいだけどね)
「じゃあ、マリア行ってくるよ」
俺は軽く手を振り松葉杖を使いながら、カラスと一緒に“王の間”に向かった。
父王デヲシヒコは、既に上座に座っていた。
俺も前回と同じように、一段下がった脇の茣蓙に座り、侍従長のカラスは下座に座っていた。
俺は一応儀礼的に必要かな?っと思い、父王に対して、一礼して申し上げた。
「このヲシリ、父王の命に従い罷り越しました。過日は会議に、参加できずに申し訳ありませんでした」
デヲシヒコは俺を見ると、少し嬉しげに答えた。
「若王ヲシリよ、だいぶ体の具合も良いようであるな。それにその方の提案で作った杖も、上手く使いこなしている様で何よりじゃ」
お互いに定例的な挨拶を交わしたところで、父王が口を開いた。
「以前に我が、ヲシリが知りたいことを語って聞かせると約したのを覚えておるか?」
そうだ、あれは異世界から転生してきて直ぐのことだ。
「はい。よく覚えています」
俺の回答を聞いて、デヲシヒコは満足げに頷きながら言葉を続けた。
「ヲシリよ。そなたはいやに名前について知りたがっておったのう。マリアが頻繁に尋ねに来ておったぞ」
俺は素直に名前の由来を知りたいと、デヲシヒコに申し上げた。
「名前を付けたのは、我…と言うよりも先代の王“ヒコ”殿じゃよ」
意外にも、この不思議な名前を命名したのが、お祖父ちゃんだったことに正直驚いた。
「実は先代の王は、遥か西方に伝わる異国の神話に強い関心を持っていての。この国が未だ邑だったころから、独自の神話体系を生み出したいと願って居ったのじゃ。そこで始めたのは一族の長に、遥か西方に伝わる神の御名を冠することから始めたのじゃ。最初に我の命名する際から始まり、最高神の御名である“デヲシ”と決めたと聞いておる」
(ああ、なるほど…“デヲシ”とは、きっとギリシャ神話の最高神“ゼウス”のことに違いない。若干異なってしまったのは、あの表韻文字で伝わって来たのでは無理もないな…)
しかし、そんな事は口にすべきでないと認識しながら、デヲシヒコの言葉に耳を傾けていた。
「そして牛を大量に引き連れて帰国した後、『宇志國』と正式に国号を下賜されたのは知っての通りじゃ。宇志國となってからは特に、『牛と王とを神格化した神話体系を作りたい』と強く願うようになったようじゃ。ちょうどそんな頃に我に長子が生まれた。そこで先代の王はその子に“彌之多呂”と名付けたのじゃ。先代の王によると神話に登場する“牛の賢王”だとのことじゃな」
(なるほど、同じギリシャ神話のミノタウロスから名付けたんだな。それで同じ神話系統の一族としたかったのかな?)
俺は納得して頷いた。
デヲシヒコは、俺を見つめて言った。
「そのあと嫡子として、主が生まれたのだ。先代の王はその誕生にひどく喜んでおってのう。同じ西方の神話から“牛を最高神”と称する神の御名から『牛利《をしり》』と名付けたのじゃよ」
(ん?同じギリシャ神話で、他にも牛の神なんて居たっけ?…って言うか何で俺だけ倭文字入ってるの!)
そもそも“ヲシリ”なんて神様は、国の内外問わずに聞いたことがない。
(もしかして、俺の名前って本当は“ゴリ”さんじゃないよね?俺だけ名前の由来が、遥か西方の動物“ゴリラ”だったら泣けてくるなぁ…)
俺は本当に気になって、名前の読みについて確認してみた。
デヲシヒコも、頭を傾げながら答えてくれた。
「言われてみれば確かにのう。しかしあの時に命名を紙に書かれた時は、“牛利”であったな。我も表韻文字では、“宇斯利”と思い込んでおったからのう。確認もしたんじゃが名前は、“ヲシリ”で間違いないぞ。もっともあの頃になると、“牛”は倭文字としても一般化してたからのう。無理に表韻文字に当てずとも、良かったんじゃないかのう」
俺はデヲシヒコの、こんなに自信なさげな素振りは初めて見た。
(取り敢えず、音として“ヲシリ”なのは確認できた…って言うことは、ひょっとしてお祖父ちゃん…エジプト神話のオシリス神を勘違いしてる?!)
なんで“ス”が欠落してしまったのかは不明である。
きっとオシリ(ス)を“ヲシリ”と思ったのは、牛の神って先入観から“うぉしり”って名付けたかった、心算だったのかも知れない。
これまで俺の名前に、ここまで深い意味合いがあるとは思ってもみなかったので、デヲシヒコの説明を感慨深げに聞いていた。
因みに、異母妹の『馬利亜』は景教神話の聖母神から来てるらしい。
本当はイシスと名付けたかった様だが、これには母親が猛反発したそうだ。
なんでも“石臼”と、聞き間違えたかららしい。
最後に宇志國の神話について、訊いてみた。
「先代の王は、『神話は土台さえ用意しておけば自然と生み出されるもの』と仰っておったが、そう言えば未だに聞いたことがないのう」
デヲシヒコは首を傾げつつ、そう答えた。
俺は思った。
(神話自体に憧れてただけで、構想なんてノープランじゃん!)
さすがに今回は残念な方向で、凄い人だったんだなぁ…お祖父ちゃん。