【1.5章 7話】 逃走! 都市伝説が追ってくる
榊さんは微動だにせず、銃口をリビング中央の家具に向けている。
「もし反撃があった時、私がどうにかする」
サマンサが両手で杖を持つと、その先端が淡い光を発した。
「サマンサ、頼んだ」
俺の言葉にサマンサは小さく口角を上げて頷いた。
全員が固唾を飲んで一点を見ている。明美さんが俺の腕を掴む力が強くなった。
そして5人が待つ現象は、突然にして前触れも無く現れた。
赤い犬がそこいた!
どのタイミングで出現したのかはわからない。何故なら積み重ねられた物と同じく、脳が異変を察知するまでに僅かばかりの時間を要するほどに、当たり前のようにそこにいたからだ。
腕を上げる赤い犬。その横顔に榊さんは発砲した。
部屋に響く銃声はサイレンサーで小さくなっている筈だが、緊張感も相まってか耳が痛いと感じる音圧があった。
そして頭から紫色の液体を飛び散らせる赤い犬。
赤い犬は腕を上げた状態を維持して体が傾いた。そしてフローリングに倒れたる寸前に、紫色の液体ごと消えていなくなった。
「倒したのか?」
新しい赤い犬は出現しないし、何も無くなっていないと思う。
「どうなったんだ……」
視線を前方から榊さんの方へ移動させた瞬間、全身の血の気が引き寒気のような感覚を覚える。
榊さんのすぐ横には満面の笑みを浮かべる赤い犬が立っていたのだ。口を開けても言葉が出ない。誰も、目の前にいるにもかかわらず気がついていない。
バイブレーションの音の中、赤い犬が榊さんに向かって腕を上げる。指が榊さんに近づいていく。
まずい!
俺は咄嗟に左手に握っていた教科書を赤い犬に投げつけた。その教科書は見事に赤い犬の頭部に当たる。一瞬だけバランスを崩した赤い犬は、急激に顔を曲げて俺を見る。
赤い犬の2つの目と合った。その目は底が見えない井戸のように真っ黒で、向けられるだけで背筋が凍る。深淵をのぞいているような気がしてくる。
俺を見た赤い犬は更に笑みを深める。
「飛べ!」
サマンサが叫ぶと共に、体が前方から強烈な力で押されて後ろに吹っ飛ばされる。
目の間の赤い犬にも効力があったようで、積み重ねられた物の方へ飛んで行った。俺達5人は全員がガラス窓を突き破り、ベランダを飛び越える。
部屋の中の赤い犬が小さくなっていく。赤い犬は俺の教科書を手に持って消えた。そして放り出された俺達は、放物線を描きアパートの下にある道路に着陸した。
これだけの衝撃でも一切の痛みを感じないのはサマンサの魔法のおかげだろう。
道路に転がる赤い犬の置物を拾い上げてマージエリ夫人に渡すと、サマンサを見る。
「サマンサ、助かった。ありがとう」
「感謝されること、していない。それよりも、ごめん。委員長が本を、投げていなければ、手遅れになっていた」
「そうだね。相山君がいなければ僕はきっと連れていかれていた。大きな恩が出来た」
そう言う榊さんは悔しそうに唇を噛む。
「まさかあの距離で気が付かないとはね。相山君やサマンサさんと違って、僕はまったく反応を取れなかった。不甲斐ない」
榊さんはため息をついて肩を落とした。榊さんは長年国家の平和を脅かす敵と第一線で戦ってきたからこそ、敵を目前にして動けない自分に落ち込んでいるのだろう。
だけど俺がいち早く気が付けた原因は、たぶんだけど俺が一般人であるからだ。慣れというのは怖いもので、感覚を鈍らせてしまう。
「榊さんには組織力があります。先ほど榊さんの携帯電話に連絡が入っていたようですが」
「本当だ。気が付かなかったよ。部下から連絡だ。掛けてみよう」
榊さんは携帯電話を耳に当てて、何かを話している。その間、ふと明美さんの家を見ると、ベランダから赤い犬が置物のようにこちらをじっと見ている。
榊さんが携帯電話を降ろした。
「部下の1人がいち早く赤い犬の出現に気が付いて、連絡をよこしてくれたようだ。1人しか気が付かなかったのが、情けないところだ」
「1人でも早く気が付いたのなら意味があります。
だから引き続き監視をお願いします。それと絶対に赤い犬には手を出さないように伝えて下さい。たぶんですけど、赤い犬は攻撃を加えられると、相手を認識するようです」
「そうだね。となれば僕達の中でまだ赤い犬に認識されていないのは、マージエリ夫人だけということになる」
「危ない!」
サマンサがそう言って杖を振ると、その先から漫画のようなツタが伸びて、俺の前を通りすぎていく。そのツタを目で追っていくと、そこには壁に貼り付けにされた赤い犬がいた。
危なかった。
おそらくターゲットにされたのは俺か明美さんだ。
「サマンサ、助かった。ゆっくり相談もさせてくれないな。ターゲットは物から人に変わった」
「そうだね。僕も臨戦態勢に入るよ」
榊さんはポケットから片側だけのワイヤレスイヤホンを取り出して、右耳に差し込むと棒状の物を俺に差し出した。
「相山君にも攻撃の手段が必要だろう。ボタンを押してみてくれ」
棒を受け取り歪曲面に配されたボタンを押すと、棒は1メートルほどの長さに伸びた。
「これは警棒だ。少し一般に配っている物と違うのは、もう一度同じボタンを押すと人が気絶するほどの電流が出ることかな。
当たり所によっては死ぬから、赤い犬への武器として使ってほしい」
榊さんはかなり物騒な物を俺に渡してきた。だが魔法を使えない俺にとって心強い。
「ありがとうございます。マージエリ夫人は念の為に赤い犬には一切手を出さないでください。とにかく逃げでお願いします」
「わかったわ。でも最後までは突き合わせてもらうわね。そもそも私が持ち込んだ厄介だもの。本来は私が解決しないといけないこと。迷惑を掛けてごめんなさいね」
「大丈夫です。ここで解決すれば、未来の厄介を払うことにもなりますから」
榊さんが突然後ろ振り返って発砲した。その先には紫色の液体を頭から噴出させている赤い犬が腕を上げている。
「無線が役に立った。どうやら赤い犬の出現間隔が狭くなっているようだ。どうにか糸口を見つけないといけないね。どうするかい?」
「まずはここを離れましょう。関係のない人達に被害が及ぶかもしれません。それに榊さんもサマンサさんもあまり一般人に見られたくないでしょ」
「そうだね。それが今できる最善だろうね。僕もこの件を事件にはしたくない。一般人が怪異を見るのは早すぎる。どこに行く?」
「人が少なくて近い場所……。また多田篠公園に行きましょうか」
「あまりあの公園を荒らしたくはないのだけど、仕方が無いね。では走るか。一応僕の部下が監視しているけど、赤い犬はどこから出現するかわからない。注意してい進もう」
「そうですね」
と言った傍から目の前に赤い犬が突然現れた。真っ黒な目で俺を見て、顔の半分ぐらいまで唇の両端を上げた。咄嗟に榊さんから受け取った警棒で殴りつける。感触は弾力のあるグミのようだ。赤い犬の顔を歪む。
そしてボタンを押す。
すると赤い犬がビクリと体を震わせてから、消えていなくなった。
「この警棒は赤い犬に効果があるようです」
警棒の優位性を知らせるために榊さんの方を見た瞬間、背筋が凍った。榊さんの向こうの壁際に、半透明の薄汚れたガウンジャケットを着た人間がいた。髪はぼさぼさで右手が肩から脇にかけて切られたように垂れ下がっている。
その半透明の人間は無理やり作ったかのような不格好な笑みで、俺に向かって左手で手招きをしていた。




