第035話
魔物の群れは、依然として街の周りに居た
この瞬間にも、脅威が近付いている
もうすぐ冬が来るが、魔物がどうなるか分からなかった
しかしそんな状況でも、領主の邸宅は平常通りであった…
アーネストは暫く、ギルバートとセリアを眺めていた
やがて彼は席を立つと、用事があると辞して部屋を出て行く
その行先は、領主が職務を行う執務室だ
アルベルトは一仕事終えて、執務室で書き物をしていた
アーネストはその部屋に、ノックをして入った
アルベルトは視線を上げると、疲れた目頭を押さえる
「失礼します」
「ああ、来たかね
まあ座りなさい」
「大丈夫ですか？」
「ああ
少し眠れば…」
「無理はしないでください」
「ああ
それよりも…」
「ええ」
アルベルトはアーネストに、ソファーに掛ける様に勧める。
そして自身も、その前に腰を掛けた。
アルベルトは腕を組んで、静かに尋ねる。
「イーセリアはどうだったかね？」
「問題は…
無いかと」
「そうかね…」
アーネストも指を組んで、よく考えながら少しずつ話始める。
「あの様子では…
帝国語も理解していませんでした」
「とぼけたのでは？」
「いえ
そもそも理解してないみたいです」
「ううむ…
あり得るのか？」
「いえ
普通はあり得ません」
「普通は…
か…」
「ええ
実際、魔物の襲撃の影響では無いでしょう
魔物を怖がる様子もありません
初めて見るボクを…
警戒していませんでしたし」
「それならば、他国の密偵等の絡みでは無いと？」
「はい」
「それは本当かね？」
「はい」
「そうか…」
アーネストは考えながら続ける。
「先ず、密偵には向かない年齢ですしね」
「ううむ」
「それと言葉が分からないのは…
確かに他国の人間が入って、産まれた子供という線もありますが…
あり得ないですね」
「どうしてかね？」
「ボクが密偵なら、この国の言葉を教えます」
「ふむ」
「それに…
息子夫婦を狼に襲われて…
子と孫を失った老夫婦が、引き取って育てていたという話ですよね？」
「ああ」
「それなら、話せないのが不思議なんですよ」
「と、言うと？」
「一度子供を産んで育てた老夫婦なら、子供の躾はしっかりしているはずです」
「そうだな…」
アルベルトも、そこが気になっていた。
老夫婦であれば、一度子供を育てた経験があるだろう。
それなのにセリアは、言葉を理解出来ないでいた。
まるで老夫婦が、言葉を話していなかったという様に。
そんな事が、あり得るのだろうか？
「だが、それなら何故？
あの子は喋れないんだね？」
「心因性のショック？
最初はそう考えていました」
「だが違うんだね？」
「ええ
その様な兆候も見られません
話せなくなる様なショックを受けたのなら…
あの年齢では影響があるでしょう」
「そうだな」
セリアは人間を、見知らぬ者も怖がる様子は無かった。
それならば、魔物が原因とは思えない。
それに老夫婦が殺されたにしては、ショックを受けた様子も見られない。
寧ろ見た目以上に、幼くて理解出来ていない様に見えた。
「あるいは他の外的要因…
考えられるのは、見た目ほど育っていないという事です」
「と言うと？」
「まだ精神的な年齢が、２歳程度なのでは？」
「まさか？
見た目は４歳から５歳ぐらいだぞ？」
「ええ
そして聞いた年齢も、そのぐらいです
しかしどう見ても…」
「年相応では無いと…」
「ええ
それよりも下の年齢かと」
「ううむ…」
「いずれにせよ
この国の言葉を解していないと見て…
間違いは無いでしょう」
「理由は未だ、不明か…」
「はい
集落で暫く育てていたのなら、老夫婦から言葉を教わっていた筈です」
「そうなんだよな…」
一番の問題は、セリアが話せない原因だった。
恐らくは、魔物が原因では無いと推察される。
しかしそれを、確証する方法が無かった。
「それなのに、話せない…
言葉が分からないとなると、よほどの事情があると思います」
「つまり、原因は分からないが…
場合によっては魔物なぞ見せたら、恐慌をきたす恐れがあるか」
「無いとは言えません」
「見せるのは危険か？」
「分かりません
分かりませんが…
もしそうなら、見せればどうなるか…」
「それなら、無理に原因を調査するよりは…
言葉を教えて、普通に育てる方が良いのかな？」
「ええ」
原因を調査するのなら、魔物を見せるのが早いだろう。
しかしそれが原因で、発狂する恐れが無いとも限らない。
問題が無いのであれば、被害者として手厚く育てるのが無難なのだろう。
無理に傷を抉るより、忘れさせる方が良いのだろう。
「ならば調査は…」
「止めるべきでしょう」
「そうか…」
「この辺りは公用語として、帝国語が主流として使われていますよね？
他の言葉となれば、相当離れた場所で育った事になりますよね？」
「うむ
試しにフロリスやパルティアの言葉も聞かせてみた
しかしいずれも、理解して居る様には見えなかったな」
「そうですか」
他の遠方の国の言葉も、理解している様子も無い。
クリサリスの西方にあるフロリスは、ほとんど帝国語を共用語としている。
一部元々使っていた言葉も残っているが、それはアルベルトでも話せない。
だから確認のしようも無かった。
そしてパルティアは、南にある国で、ここは共用語と自国の言葉を使っている。
ここの言葉も、セリアは理解している様子は無かった。
それ以外となると、帝国より遥か東の国しかないだろう。
そんな遠方の国から、わざわざこの国に潜入しようと思うだろうか？
そもそも行き来からして難しいのに、この国に潜入する意味が分からない。
「となるとやはり
何らかの原因で言葉を…
場合によっては記憶も失っているかも？」
「そうだな
その可能性が一番高いな」
「流石にあれだけ育っていると、普通は言葉は話せている筈ですしね
何か理由があるんでしょうね」
「そうだな」
理由は兎も角、記憶も失っている可能性は高いだろう。
それならば、彼女の様子も納得が行く。
彼女は食事の仕方も、不慣れに見えるからだ。
アルベルトは顎髭を掻きながら、何気なく尋ねる。
「何らかの…
魔法で記憶を奪う事は出来ないかね？」
「記憶…
ですか？」
「ああ
それなら言葉が分からなくなったのにも、説明が付く」
「うーん
聞いたことがありませんね」
「そうか」
「それに記憶？
スプーンの使い方も分からない程の？」
「ううむ…」
「もしかしたら、そういった魔法も…
あるのかも知れません
ただ、何の為にそんな事を？
あんな小さな子供の言葉を、記憶を奪って、何の意味があるんでしょうか？」
「そうだよな
いや、忘れてくれ」
アルベルトは首を振って考えを締め出すと、再び机に向かった。
「本気で、あの子を引き取る気ですか？」
「ん？」
「こう言っては何ですが
得体の知れない子供ですよ？」
「だが、君の報告が本当なら…
大事な領民の子供になる」
「それはそうですが…」
「両親も老夫婦も失い、身寄りの無い可哀そうな子供だ
教会も今回の事で忙しいし…
何より、妻が気に入っている」
「ジェニファー様ですか？」
「ああ
同じ年の頃の子供が居る、他人事では無いんだろう」
「そうですか…」
アルベルトは一旦筆を置いて、アーネストを振り返る。
「それにな
フィオーナのいい遊び相手になってくれそうだ
ギルバートも気に入った様だしな」
「なるほど
確かにギルはデレデレしてましたね」
「そうだろう？」
「気持ち悪いぐらいに可愛がっています」
「はっはっはっ
そうか、そんなにか」
アルベルトはギルバートが、可愛がっているのを聞いて安心していた。
ギルバートは、最初は不信感を持っていた。
それを忘れて、今は一生懸命に世話をしていた。
その事を聞いて、アルベルトは満足そうに頷く。
「来月の定例報告会で、正式にウチの養女として迎え入れるつもりだ
君もそのつもりでいてくれ」
「はい」
アルベルトは机に掛けて、書類の山に目を通し始める。
今月の収穫量の報告に混じって、野犬や猪の被害、魔物の発見の報告もちらほら見られる。
魔物が近くに出没した影響で、他の野生の獣が街の近くに移動している。
被害が大きくなる前に、対策を講じなければならない。
アルベルトは問題の無さそうな書類を分けて、サインをしていき、残りは対策を書き込んでいく。
そんな領主の忙しい姿を見ながら、アーネストは思案していた。
本来なら、報告はもう終わったので退出しても良かった。
しかし他に問題があり、報告すべきか悩んでいるのだ。
アルベルトはアーネストの様子に気が付き、顔を上げた。
「ん？
どうしたのかね？」
「…ええと
報告すべきか…
まだ確認が必要なのか…」
「？」
「ギルバートが例の詩人に…
再び接触しました」
「なに！」
アルベルトは机から立ち上がる。
「それはどういった事で
いや、先ずは報告をしてくれ」
「はい
一昨日の夕刻に、ギルバートが帰宅途中に街中で会ったそうです」
「一昨日？
遠征から帰って来た時か」
「はい」
「それで？
ギルバートは何か喋ったのかね？」
「ええ
遠征で魔物に襲われた時に、教わった剣術が役立ったと感謝したみたいです」
「ふむ
他には？」
「これを…」
「ん？」
アーネストは懐から、例の書物を取り出す。
ギルバートから預かった、あの２冊の本だ。
「これは？」
「古代王国語で書かれた書物です」
「王国語だと？」
「ええ」
「何処にあったんだ？
確か帝国が…」
「ええ
焚書の対象になる物です」
「そんな物が何故？」
「まだ翻訳している途中ですが、ひょっとしたら有益な情報が書かれているかも知れません」
「なんと！」
アルベルトは本を開いてみるが、流石に何が書いてあるのか分からない。
かろうじて一部の単語を、何とか発音出来る程度だ。
内容を理解して、読む程の知識は無かった。
あるいは国王ならば、多少は読めるかも知れない。
彼は帝国の地方領主ではあったが、元をただせばクリサリスにも、古代王国の血は流れている。
ただ長く帝国語が共用語として使われていたので、そのほとんどが失われて久しい。
ましては焚書で、ほとんどの書物が焼き棄てられた。
さすがに国王でも、読めない可能性が高いだろう。
「ハルバートに見せてみるか？
いや、あいつでも読めるかどうか…」
「そうですか…」
よくよく考えてみれば、アルベルトが従者として居た時にも、国王は共用語を使っていた。
それに思い返しても、こんな文字を見た覚えは無かった。
この辺境の書庫にある本でも、写本された帝国語の本しか無かった。
それ以前の王国語となると、現存する物は見た事が無かった。
「陛下は読めそうですか？」
「分からない
分からないが…
この国で一番知ってそうなのはあいつぐらいだろう
それでも…
この文字を使っているのを見た事が無いからな…」
「となると
やはりボクが訳すしかありませんね」
「出来るのか？」
「やるしかありません」
「ううむ…」
アーネストはそう言うが、それは困難であるだろう。
参考になる様な、書物が紛失して幾久しい。
そんな過去の王国の本を、何の参考資料も無く解読できるのだろうか？
「幸い２冊ありますから
２冊を比較しながら文章を考察しています」
「そうか」
「文字が理解できれば…
後は何とかなりそうなんですが」
「うーむ
ワシには全然分からん」
アルベルトは暫く中身を見たが、結局諦めてアーネストに返した。
アーネストは収納の、マジックバックに本を仕舞う。
「ところでその詩人は、なんでこの本を渡したんだ？」
「どうやらギルが、詩人の教えた剣術を役立てたのをえらく喜んだ様で
ご褒美にあげると渡されたと」
「ご褒美？」
「詩人の話では、剣術はこの本を見て学んだとか」
「ふーむ」
アルベルトは、ギルバートの話していた事を思い出す。
確かにギルバートは、詩人から剣術を教わったと言っていた。
それが元々、この本に載っていた物ならば、彼が知らないのも当然だろう。
「そうなると
その本は剣術が書かれた本なのか？」
「いえ
正確には剣術も書かれた、教科書の様な物ですね」
「教科書？」
「はい
まだ読めてませんが、恐らく戦術とか他にも書いてありそうです」
「うーむ…
古代王国が遺した戦術が書かれた書物か…
それはまた、随分と希少な書物だな」
一介の詩人が持つには、分不相応なという内心の感想は伏せる。
アーネストもそれには頷く。
だが実は、魔法が掛かっていて、もっと希少な物だった。
しかしそこは、黙っておく事にする。
「そんな希少な本を持っていて…
ギルバートに気軽にあげたと言うのか？」
「ええ」
「むむ…」
あり得ない
きっと裏がある筈だ
「それでギルバートは…
何か教えたりしたのか？」
書物の交換条件として、何か教えたのだろうか？
アルベルトはそこを危惧したが、アーネストはあっさりと否定した。
「いえ
何も」
「何も？」
「はい」
「それなのに、こんな希少な物を？」
「詩人もこの本が、希少と思っていたのか分かりませんが…
自分では読めないので不要だと」
「それを信じろと？」
「中の剣術は身に付けたので、同じ様に剣術を身に付けて役立てて欲しいと」
「あり得ないだろ？」
「ええ
俄かに信じられません」
「ううむ…」
アーネストは首を振り、領主の言葉を否定した。
「もし、読めていたら
価値を知っていたら
安易に渡さないでしょう」
「そうだな」
「それに…
本当に密偵なんですか？」
「その可能性が高い」
領主の息子に近付いて来たのだ。
裏があってもおかしくないだろう。
でも、アーネストは、違う可能性を見ていた。
「密偵にしては目立ち過ぎです
真っ赤な服を着ているって？
密偵ならもっと目立たない恰好をするでしょう」
「それは…
そうだが…」
確かに密偵なら、その格好は目立ち過ぎだろう。
敢えて目立たせて、安心させているという考えも出来るが…。
詩人という職業にしても、密偵と疑われても仕方が無い。
逆にそれが、疑わしくもあるのだが…。
「昔から、帝国の密偵が詩人に扮して潜入するのは…
よく知られているだろう？」
「それでも
真っ赤な衣装はやり過ぎです
却って怪しまれるのが関の山です」
「そりゃあそうだが…」
「それに、祭りの開催日とかしか話して無いようですし
問題は無いでしょう」
「そうか…」
アーネストとしては、密偵としては向いていないという感想だった。
現物を見ていないが、聞いた話からも怪し過ぎる。
そんな人物が、密偵など出来るのだろうか？
先ず街に入るところで、摘まみ出される可能性の方が高い。
そういった意味では、とても怪しい人物ではあるが…。
「まあ、確かに
ギルを領主の息子と知ってたみたいですし…
怪しいですが…
少なくともそんな事を言う辺りは、密偵には向いてないでしょう」
「なるほど
密偵ならそんな事は言わないか
怪しまれるからな」
「ええ」
「大体、どこの密偵が入って来るとお考えですか？
フロリスですか？
それとも帝国ですか？」
「いや
さすがに帝国は無理だろう
こちらの内情は知りたいだろうが、まだ国内のごたごたが片付いていない
つい先日の武装も、実は内乱の兆しがあったらしい」
「あの戦争の準備とか言う情報ですか」
「ああ
そんな状態で、敵国である我が国にちょっかいを出したらどうなるか…
帝国の奴等も分かっている筈だ」
「ですよねえ」
「フロリスかもと思っていたが…」
「それにしては甘過ぎますよね」
「ああ」
「でしたら何処が？」
「ううむ…」
「それこそセリアと同じで、密偵を送れる様な国はありませんよ」
「ああ」
魔物が現れたのが、クリサリスだけとは限らない。
帝国の戦争の準備も、あるいは魔物が攻め込んだ恐れがある。
そう考えれば、他国にちょっかいを出せる様な、余裕のある国は無かった。
他の国にも、魔物が現れた可能性は高いのだ。
他にも気になる事があったが、確証が無い以上は迂闊な事は言えない。
アルベルトは散々唸ってから、結論を出した。
「一先ずは何も被害もない
気にし過ぎかな？」
「そうですね
ギルは何も話していませんし
単に領主の息子に媚を売りたかっただけでは？」
「そうだな…」
アーネストの言葉に、一応の納得をし、アルベルトは再び書類に向かった。
それを見て、今度こそアーネストは退出した。
アルベルトは詩人の身なりが、優男風のド派手な詩人というのが気になっていた。
思い当たる事はあるが、それにしても時間が経っている。
とても同一人物とは、思えなかった。
或いは後継者が来ていたのか？
それも考えられるが…
あの組織は大きい
それこそどの様な者が居るのか…
そう考察してはみるものの、確証が無くて確認も出来ない。
相談をしようにも、知っているのは国王ハルバートぐらいだ。
冬が近づいている以上、彼に相談するのは物理的にも無理だった。
もう一度書類を手にして、これ以上考えても仕様が無いと頭を切り替える。
アルベルトは再び、うんうん唸りながら書類を手にしていた。
一方で、執務室を辞したアーネストは、再び客室に向かおうか悩んでいた。
しかし自室に戻って、翻訳を急ごうと思い直した。
親友が妹の世話をするのを手伝うのも良いんだが、書物を翻訳した方が役に立てれるだろう。
それに気になる文言の記載もあった。
早く仕上げてやろうと、いそいそと書庫の方へ向かって行った。
まだまだ続きます。
ご意見ご感想がございましたら、お聞かせください。
また、誤字・脱字、表現がおかしい点がございましたら、ご報告をお願いします。
