雪のなかの話(こんとらくと・きりんぐ)
雪の上に雪が。
風の上に風が。
幾層も重なり、北国の美しさもまた幾層も重なって――。
――旅行者を生き埋めにしようとする。
そんな吹雪の日。
涙色のクーペが街道で立ち往生すると、ショートヘアの少女、または長髪の少年に見える殺し屋は手持ちの防寒具でむくむくに着ぶくれてからドアを開け、近くの村まで助けを呼ぶことにした。
まだ昼前なのに、道は白く薄暗い。
吹雪の宙に氷の粉がくるくるとまわり、白く密度のあるきらめきを見せていた。
そのきらめきは膝を抱いた人の形をしていた。
そんなものが、人体実験の培養水槽のようにいくつも宙に浮いていた。
しかし、殺し屋はそんなものには目もくれず、風にばたつく地図相手に悪戦苦闘していた。
鍋つかみみたいな手袋で地図を手にするのは難しく、車に戻って地図を広げようとしたが、振り返ると、もう車は見えなくなっていた。
針葉樹のあいだに続く窪みの列を道と信じ、歩いていく。
足を引っこ抜き、新雪を踏み、また引っこ抜き。
嫌なことが思い浮かぶ。指名手配。野生動物の危険。車に置いてきた銃のこと。
ヤク中からヤクを取り上げようとする警官と売人のおとぎ話。
警官は逮捕でヤクを取り上げようとするが、ヤク中はたとえ刑務所のなかでもヤクを手に入れる。
売人はただでヤクをヤク中にくれてやる。過剰摂取で死ぬくらいの高純度。
旅人のマントを脱がそうとする北風と太陽のおとぎ話の期待度が上がっている。
突然、温かくなり出す。それもひどく心地よい。
ここで寝たら死ぬことくらいは分かる。
分かるが、それだけの話だ。
殺し屋は「ターゲットたちは苦痛にもんどりうって死んでいったが、自分はこんな楽で気持ちのいい死に方をするなんて、世のなかのバランスはひどい傾き方をしているものだなあ」と言葉をくるまれたマフラーのなかにささやいて意識を手放した。
最初、天使が見えた。
あれだけ人を殺して?
まあ、殺されたほうがマシな連中ばかりだったことは認めるが。
天使は天使のように美しい司祭だと分かった。
司祭も天使みたいに美しいと天使の仕事が業務委託されるらしい。翼もないのに天国に行ける方法が分かれば、人間はひとり残らず、現世を捨てる。
「天国ではありません。ここは現世です」
司祭が言った。
「……どこから口に出していました?」
「あなたがわたしが天使の仕事を請け負っているというところからです。あなたは孤児院の前に倒れていたんですよ」
「孤児院の前? てっきり森のなかだと」
「森のなかにある孤児院です。ですが、あなたの左手は扉のドアノブにかかっていたんですよ?」
「生への執着がなせる技です」
「それで助かったのですから、神に感謝いたしましょう。ああ、ご紹介が遅れました。わたしはエスカノ。この孤児院の院長です」
殺し屋は偽名にこのあいだ殺した男の名前を使った。
ちょくちょくこういう悪趣味なことがしたくなる。
「ケネディさん。狭い孤児院ですが、ご自分の家だと思って、くつろいでください」
「できれば出発したいんですが。車もあるし」
「春になって雪が溶けなければ、まず見つかりません」
「ぼくは春までここにいないといけないんですか?」
「おそらく、そうなるかと」
「参ったなあ」
院長は温かいコーンポタージュを小さなテーブルに置いた。
「無事とはいえ、お体はかなり消耗してました。まずは快癒してください」
孤児院は三つの建物からなっていた。
ひとつは宿舎で院長と子どもたちが寝泊まりし、暮らしている。殺し屋の暮らすことになる客間もここにあった。
ふたつ目は礼拝堂で、学校も兼ねている。
三つ目は小さな煉瓦の家で誰も入ってはいけなかった。
子どもは十七人。全員でできる家事を行って、助け合って日々を暮らしている。
食料や薪などは冬になるまでに蓄えたものを使うが、それが心もとないと思ったら、院長が近隣の町に買い出しに行く(礼拝堂の裏手にはタイヤの代わりにスキー板を履いたバイクがあった)。
日課は家事と勉強と礼拝。もちろん自由時間も。
清らかで微笑ましいコミュニティだが、世界というものはこういう人たちを叩き潰すように作られていることを殺し屋は経験で知っていた。
タイヤレバーをタイヤの取り外し以外の目的で使う人間、一分間当たりの発射数を一発でも多くするために試行錯誤する兵器技師、児童ポルノを大っぴらに売ったのになぜか証拠不十分で釈放されるキチガイ。
ギャング、政治家、警官、色事師、ポン引き、奴隷商人。そして、もちろん、殺し屋も。
なにかと忙しい院長に代わって、孤児のなかで最年長のリィという少女が殺し屋に施設を案内してくれた。
「あちらが洗面所で流しはあちらです。院長さまの部屋はこの上です」
「どうもありがとうございます。ご丁寧に」
リィは背の高い少女で実際よりも年長に見えた。院長を支え、しっかりしなければという思いが、どこか母親めいた雰囲気につながり、年少の孤児たちの慕い方にそれがあらわれていた。
「なにか必要なものがありましたら、なんでもおっしゃってくださいまし。蓄えで出せるものでしたら、なんでもお出しします」
「それでしたら、うん、何かお手伝いさせてもらえると嬉しいんですが」
「ケネディさんはお客さまです」
「でも、まあ、性格みたいなもので、こう、されっぱなしは落ち着かないんですよ」
「それでしたら――ケネディさまはお手は器用でしょうか?」
「人よりは器用なつもりです」
リィに案内されたのは礼拝堂の裁縫室だった。
十×十メートルの部屋のほとんどを大きな、だが、まだ未完の物語絨毯が占めている。
「時間のあるときや気の向いたとき、みんなで続きを作るんです」
見れば、少女がふたり、少年がひとり、物語を紡いでいた。
どうも物語はそのとき紡ぐ子どもの気分で変わるらしく、ドラゴン、女剣士、髭を生やした軍人、スイカ、ブランコに乗る少女、海賊船、複葉機、競争自動車に乗る少年など、好き勝手に絵柄が作られていた。
ただ、一番多いのは院長の姿だった。絨毯の真ん中、つまり最初に紡がれた物語は子どもたちがこのときだけ一致団結して紡いだ院長の全身像があり、その院長は微笑んで目をつむり、赤いハートを両手で優しく胸に押しつけて、背中から三対の翼が生えていた。
「もし、気が向きましたら、どうぞ。お教えいたします」
殺し屋はこれを見て、「ああ、ぼくは絶対に触ってはいけないものだなあ」と思いながら、お誘いありがとうとにっこり笑った。
お客とは言うが、殺し屋はとりあえず目についた雑用はこなすことにした。タダより高いものはない。物心ついたころから働いて得たごはんしか食べていないので、タダ飯は落ち着かない。
数日するころには子どもたちとも馴染み、一緒に遊ぶようにもなった。子どもと遊ぶのは苦手ではない。カタギには想像できないかもしれないが、子どもと遊ぶのが好きな同業者は結構たくさんいる。もちろん、警官のいる前ではそんなことはしない。スイカ畑で靴紐を結びなおしたり、杏の実がなっているすぐ下で帽子の向きを整えたりすることはいらぬ誤解のもとであり、避けるべきなのだ。
ただ、礼拝だけは一緒にしなかった。
毎日、二回。朝食と夕食の前に女神像に向かって、五分ほど祈る。
祈ってご飯が出てきたことなど、そうそうない。そうそうないということはつまり、ごく少数だが、祈ったらご飯が出てきた例を見たことがあるということだ。
殺し屋は二回だけ見たことがある。一回目はステーキで、二回目はブイヤベース。どちらも天から差し込んだ淡い光のなかをご飯がゆっくりと降りてきた。
一万回の祈りが不発に終わったのを見てきたが、絶対にないとは言い切れない。よほど困ったら、やってみようとは思うが、そもそもこの仕事には不況というものがない。どこの町にもふたつの対立するギャング団があるし、ギャング団が警察に根こそぎにされていても、殺したいほどの不満を抱えるカタギの姿は一目見れば分かる。
ここはそういうこととは無縁の世界なので、殺し屋は殺す以外の方法で働くしかないのだ。
「ケネディさん、あそぼ!」
小さな子どもたちは先日、殺し屋がサイレンサー付きのスナイパーライフルで頭を吹っ飛ばした死人の名前で殺し屋を呼び慕う。
世のなかが狂ってることの寓意が含まれる気がする。
ボンネットが大きく出っ張った、黒い自動車が走っている。
ドラッグストアや公立学校がある地区で、小さな地方都市の境界まであと数百ヤードの道だ。
ハンドルを握っているのは太った口髭の男で、後部座席には痩せぎすで上唇の形がゆがんだ男がウィスキーの木箱に左の肘を置いていた。ふたりともオーバーを着て、黒い革手袋をはめ、チャコールグレイの中折れ帽をかぶっていた。
「ちくしょうが」
地方都会の雪は決して積もらず、泥色にまみれて、排水口へ消えていく。
「こんなド田舎くんだりまで運転してよ」と運転席の太った男が言った。
「なんだって?」痩せぎすの男がきいた。
「こんなド田舎までやってきて、さらにド田舎まで行かなきゃいけないんだぞ。やってられるかよ」
「文句は〈司祭〉に言え」
「あいつ、本当に司祭なのか?」
「なんだって?」
「だから、あいつは本当に、神学校を出たのかってことだよ」
「どっちでも構わないだろ」
「いや、本物の司祭に殺しを請け負わせてたってのはまずいだろ」
「何が? 新聞か? まさか警察じゃないよな?」
「ギャングどもだよ。あいつらのなかには頭のネジが外れたみたいに神さまバンザイなやつがいるし、そこまで行かなくても、信心深いのが多いだろうが。そういう連中に知られるといろいろまずいんじゃないか」
上唇がゆがんだ男が体を少し動かした。ショルダーホルスターの銃がウィスキーの箱にぶつかって、少し痛かったのだ。
「お前の言う通り、マズいことになる。だから、おれたちが会いに行くんだ」
「それはそうだけどよ」
ふたりは黙り込んだ。
十分後、都会の象徴であるアスファルトの道路が尽きるころ、また太った男が愚痴をこぼした。
「こんなド田舎くんだりまで運転してよぉ」
ある日、院長が物資を買いにスキー・オートバイで近くの村まで出かけていった。
院長は夜になっても戻らず、子どもたちが不安がるなか、リィが落ち着かせ、何とか寝かしつけた。
殺し屋が礼拝堂の窓の外の、蒼白く垂れ下がった針葉樹の氷を見ていると、スキー・オートバイのエンジン音がきこえた。
横でうつらうつらしていたリィが目を覚まし、院長を出迎えたが、院長は手ぶらで、何よりひどく顔色が悪かった。
「院長さま。お体の調子が悪いのですか?」
「そのようだね。うつすとまずいから煉瓦小屋で寝泊まりする」
「看病します」
「大丈夫ですよ。ひとりでできます。あなたは休みなさい。ケネディさんも。ご心配おかけしました」
リィはしばらく粘っていたが、結局、院長の言う通りに宿舎で帰ることにした。
そのあいだ、殺し屋は床に落ちた一滴の血液を見つめていた。
三十分後に殺し屋が煉瓦小屋の鍵をピッキングで開けると、銃を向けられた。
「ケネディさん?」
小屋はベッドとナイトテーブルと小さな違法改造ラジオ、それにサイレンサー付きのスナイパーライフルとオートマティックが三丁、それに簡単な外科手術用具が置いてあった。
「背中にめり込んだ弾はひとりでは取り出せないですよ。手伝います」
「いえ、しかし――すいません。お願いします。わたしは――まだ死ねないのです」
ゆっくり院長の体を裏返し、シャツを破って、傷を見た。
見事な裏切り傷。背後から一発。
「少し、気づくのが遅れました」
「撃ったやつは?」
「死にました」
「上出来ですよ」
麻酔の代わりになるものを探すと、床下扉を開けたら、封を切られていない、かなり古いウィスキーがあった。
それをグラスに注いで、自分で少し飲んだ後、メスや鉗子をウィスキーに突っ込んだ。
消毒を終えると、マッチをすって、ランタンを五つつけて、ふたつを頭上に吊るし、三つは院長の左側、右側に置き、ひとつ目は遊撃部隊――殺し屋が必要に応じて場所を移動した。
十分な明るさを確保したところで、メスで傷を切り開いて、鉗子でそれを少し広げ、ピンセットで弾を抜き出した。
弾が出た瞬間、血がかなり流れたが、消毒済みの綿を押し込み、血を吸わせ、傷を縫い合わせ、包帯を巻いた。
院長は酒は口にしないと言って、ベルトを噛んで手術を我慢した。うめき声ひとつあげずに耐えたが、最後は朦朧としていた。
我ながら会心の出来だな、と思いながら、もう残り少ない煙草――本当に吸いたいときに吸おうと我慢していた煙草をランタンの火でつけた。手術が終わった直後の患者のそばで煙草を吸うようなことをしなければ、本職の外科医に慣れたかもしれないな、と思いながら、明るすぎるランタンのつくる光へ紫煙を吹き上げる。
暗殺で稼いだ報酬でやっていた孤児院。
誰かが孤児院を左の手のひらに乗せ、右の拳で叩き潰そうとしている。
困ったことに情はある。だが、殺し屋にできることは殺しだけ。
滅多にないことだが、一瞬だけ、殺し屋は警察を頼りたくなった。
翌日、子どもたちは院長の風邪を心配して、夜中にこっそり紙で花の輪を作ったといい、元気になったら、すぐ渡すと言っていた。
朝の礼拝と食事、勉強をリィが見て、目の回る忙しさのなかも院長を気遣うことは忘れず、そして、殺し屋にたずねた。
「あの、盗み見るようなことをして、恥ずかしいのですが、ケネディさんが小屋に入るのをわたしは見ました。教えてください。院長さまはもう大丈夫なのですか?」
「大丈夫ですよ。ただ、あの風邪は一度かかったことがある人なら大丈夫だけど、かかってない人は危ない。特に子どもだと命を落としかねないんです」
「そんな――」
「だから、ぼくがしばらく看病しますよ。さっきの花の輪もぼくが届けましょう」
「ありがとうございます。わたしたちは院長さまに何かあったらと考えると――」
それだけで涙がポロポロとこぼれ落ちた。
それは親代わりではなく、好きな人のために流す涙に限りなく似ていた。
二日後の夜。
雪深い田舎町の食堂にふたり組の男がやってきた。
ひとりは角ばった顔に細い目をした気難しそうな男で、もうひとりは若く人懐っこい、ハンサムな男だった。どちらも黒いコートと中折れ帽をかぶっていて、スツールに腰かけても帽子を取らなかった。
「ウィスキー」
「おれも」
食堂の店主はふたりに酒を出し、何か食べるかたずねた。
「あと、肉でも焼いてくれ」
「おれも」
角ばった顔の男が優男のほうを見た。
「なあ、スティーブ。お前には自分の意見ってものがないのか?」
「嫌だなあ。先輩。おれは先輩を尊敬していますから、頼むものは先輩と同じですよ」
「好きにしろ。……肉には卵を添えておけよ」
「おれも」
肉をカチャカチャ切りながら、スティーブと呼ばれた優男が店主にたずねた。
「人を探してるんだ」
「女ですかい?」
「いや。男でふたり組。知り合いなんだけど、連絡が取れないんだよ。このあたりに来たと思うけど」
「どんなやつです?」
「ひとりは太ってて口髭、もうひとりは痩せてて、上唇がちょっと歪んでる。こんなふうに」
そう言って、優男は自分の唇の左側をつまんで持ち上げた。
「知らないかな?」
「そういう連中が来たかどうか、ちょっと覚えがないよ」
「そうか。そういえば、新聞で読んだけど、このあたりにはひとりで孤児院を取り仕切っている偉い司祭がいるんだってね」
「院長さんですか?」
「それが何か?」
「どうやったら会えるかなって」
そして、優男はわざとらしく伸びをして、コートに隠れていたリヴォルヴァーを見せた。白く仕上げた革のベルトに入った大口径の銃は店主を脅かすには十分だったが、この店主は抜け目がなかった。
ふたりが入店してからうさんくさいと思い、きっとギャングに違いないと食堂で使っている小僧を保安官事務所に走らせていたのだ。
優男が銃を見せびらかして、数秒後、表のドアからショットガンを抱えた老保安官があらわれた。
「よし、そこまでだ」
ふたりの男が振り向いた。
「何がそこまでだって?」
角ばった男がたずねた。
「メシを食う場所で銃を見せびらかすよそものは即刻出ていってもらう。これが町のルールだ」
「あんた、保安官?」と、優男。
「そうだ」
「そりゃあ、偶然だなあ」
と、優男が懐に手を突っ込んだので、緊張が走った。保安官の人差し指が引き金に触れる。
だが、彼が取り出したのは銃ではなく、双頭の鷲が刻印された銀のバッジだった。
「おれたちも捜査官なんだ。しかも特別捜査官」
角ばった顔が自分のバッジを見せながら言った。
「先日、ここに来たふたりも捜査官だ。おれたちは捜査官の行方を捜している。さあ、食後のコーヒーと一緒に教えてもらおう。あのふたりがどこに行ったか」
夜になって、雪が少し降り始めた。
殺し屋は単なる興味と包帯を替えているあいだの時間つぶし問題だけど、と前置きして、ここで育てている孤児のうち、あなたに親を殺されたのは誰ですか?とたずねた。
「リィです」
「あー、それは……」
「任務では車に乗っているものは全員殺せと命じられていましたが、わたしはまだ赤ん坊だった彼女を殺すことができなかった」
「まあ、よくきく話です」
「わたしはいま死ねないのです。死ぬのであれば、真実を知ったリィの手で死ななければならないのです」
「でも、あなたが死んだら、子どもだけで冬は越せないですよ。春になる前に全員シャーベットみたいになっちゃいますよ」
「だから、怖いのです」
「困る、ではなく、怖い?」
「わたしに正当な罰が下らなくなってしまうことが」
「そのことなら十分だと思いますけどね。リィの様子を見てると、本当のことを知っても、あなたをそこまで憎悪するかは怪しいです。――なんか、話が暗くなってきましたね。明るい話をしましょう。三十八口径と四十五口径。どっちを使います?」
「四十五口径ですね」
「音が大きすぎません?」
「最近のサイレンサーは優秀です」
「ライフルは?」
「そこに立てかけてあるものを。サイレンサーと亜音速ホローポイント弾を使えば、ポンッ、と頭が弾ける音以外はしません。射程は落ちますが。あなたは何を使います?」
「なんでも。銃、ナイフ、爆弾、ワイヤー。消火用の斧を使ったこともあります。朝急いでたら銃はおろか飛び出しナイフ一本も持ってなくて、仕方なく、ターゲットが入った映画館から斧を失敬しました。結局、ターゲットはポップコーンを喉に詰まらせて死んでしまいました。依頼人はポップコーンを使った暗殺に感激してくれていました。どっからどうみても事故にしか見えない!って。そりゃ事故なんだから事故にしか見えません。でも、まあ、たまには不正直なイージー・マネーをもらっても罰は当たりませんよね」
角ばった顔の捜査官と優男な捜査官は先のふたりの捜査官の車を見つけた。
もみの木に突っ込んで、ボンネットがひしゃげ、運転手――太った男は頭からフロントガラスに突っ込んでいたが、死因は眉間に開いた銃弾の穴だった。
上唇が歪んだ男の死体は五十メートル離れた位置にあり、喉が切り裂かれている。弾倉を開け、薬莢を手のひらに落とすと、一発だけ発射されていた。
「〈司祭〉に一発でも当たってりゃいいんだがな」
翌朝。
礼拝と朝食が終わり、子どもたちが自分の食器を洗うと、縫い取り部屋に行った。院長が煉瓦小屋にこもってから、子どもたちは空いた時間は物語絨毯に費やした。
医者や看護婦、院長さまを治す特効薬の絵が紡がれていく。
リィはひとり、礼拝室に残り、膝を屈して、首を垂れ、手を組んで、女神に祈った。
淡い朝の光に包まれた女神像が柔らかい影でリィを包む。
「女神さま。お願いです。院長さまをお助けください。もし、お助けしていただけたら、わたしの命を差し上げます」
祈りに没頭して、ふたりの男が礼拝室に入ってきたことに気づかなかった。
薬品臭のするコットンで口を塞がれると、リィの祈りはほどけて消えた。
リィ姉ちゃんがいない!
殺し屋はうたた寝から目を覚まして、三人の特にやんちゃで知られた男の子たちが不安げに自分を見ているのに気がついた。
「誰がいないって?」
「リィ姉ちゃん」
「リィは街に買い出しに行ったんだ」
「そーなの?」
「そーなの」
すると、赤い毛糸のセーターを着た少年が言った。
「なーんだ。やっぱり大したことなかったって言ったろ」
「一番ビビってたのはお前じゃんか」
「お前のほうがビビってたよ」
腕時計を見ると、午後三時、宿舎には誰もいない。
みな裁縫室にいるのだろう。
外套を二枚重ねにしてオーバーシューズを履いて、院長の籠る煉瓦小屋に行った。
入ると、寝息を立てていたが、殺し屋が入ってくると目を覚ました。
「どうかしましたか、ケネディさん?」
殺し屋は手紙の要点を伝えた。
彼らがリィをさらったこと。
返してほしかったら、ひとりで武器を一切持たず、ノースウッド・キャンプ場までやってくること。
彼らの汚職の証拠を必ずもってくること。
こちらの要望をひとつでも満たさなかったら、リィの首を孤児院に投げ込むこと。
それらが警察官の報告書風に書いてあった。
「相手は捜査官?」
「……はい」
「不実な依頼人は殺し屋全体の問題だ。報酬を払わないならまだかわいいですけど、殺し屋が死ねば、真相を知るものはいなくなるという悪魔のささやきで今日も依頼人はショットガンを抱きかかえて待ち伏せる」
「過去の委託殺人で依頼人を脅迫する殺し屋がいるのも問題なのでしょう」
「それもそうですね。で、行くんですか?」
「行きます」
「ぼくは、どうしたものかな。あまり気が進まない。寒いし」
「ここにいてくださって大丈夫です。もし、彼らがこちらにも来たら、対処をお願いします。これを」
院長は枕の下の小さな箱を取り出し、それを殺し屋に握らせた。なかには大きなサファイアが入っていた。
「前払い?」
「疑う理由がありません。本当ならあなたと一緒に町に逃がしてあげたいのですが、まだ小さい子もいて、雪が深すぎます」
「まあ、もらった以上、仕事はするよ」
「このようなときに、あなたをここに遣わしてくれたのは女神の御心かもしれません。そして、わたしの罪が暴かれ、罰せられることも」
ノースウッド・キャンプ場は夏ごろになると賑わう場所で、北から東へ流れるスリープ川の南岸に沿って、白く盛り上がった空き地が作られていた。
西は伐採地、南は街道。
出入口には古いアーチがあり、その横に管理人事務所があり、三台の自動車が駐車されている。
ドアの前にショットガンを持った捜査官がふたりいて、院長はそこで止められ、ボディチェックを受けた。
「何もない」
もうひとりがドアを顎でしゃくった。
丸太細工のドアを開け、リィが縛られて、床に転がされているのが見えた。目を閉じて、ぐったりしている。
捜査官は六人。事務所のカウンターがあり、その向こうにふたり。顔の角ばった男と優男、他にふたりがカウンターの手前にいた。
「リィっ」
「大丈夫だ。死んでない」
暖炉に火が入っていて、窓もドアも締め切っていたが、息は白く凍りついた。
リィはブラウスにフランネルのドレスとさらわれたときの室内着で、院長は自分の外套を脱いで、リィを包んだ。
「それで、証拠は?」
「もともと持っていない」
顔の角ばった男は四十五口径を抜いて、院長の頭に突きつけた。
ポンッ!
弾けたのは男の頭のほうだった。
ボルトを引いて、排莢し、二十二口径亜音速ホローポイント弾を薬室に送り込み、院長の背中から銃で狙う捜査官の頭にスコープの十字線をあわせる。
ポンッ!
無音の銃弾が院長を狙った捜査官の脳みそを吹き飛ばす。
院長は捜査官が床に倒れるより先に銃を奪い取った。
殺せ!と誰かが叫ぶ。
交差射撃と反響する破裂音。
ふらつく。スライドを引く。
正確な二連射。倒れる。ショットガンが天井へ発射され、針のような木っ端が落ちてくる。
優男の捜査官がリィを引きずって裏口から逃げようとし、ふたりの捜査官がその途中を阻む。
撃つ――首、胸。ガラスが割れる。血が壁に飛び散る。
チッ。
狙撃者は弾を薬室に送りながら、舌打ちした。
リィが盾になって優男が狙えない。
院長の右足が重くなる。
捜査官が倒れたまま、足にしがみついている。
顔を二度撃つ。
叫ぶ。
雪のなかを優男が銃を撃ち、リィを引きずって逃げている。
院長は細かい雪を蹴り上げながら、優男のほうへと歩いていく。
銃撃。頬をかすめる。
撃鉄が空の薬室を打つ――カチッ。
院長が撃つ。優男の膝にどす黒い溝ができ、軟骨が飛び散った。
発電機につながれたような悲鳴。
クソッタレと罵る声。
「リィにそんな言葉をきかせるな」
また発射される弾が、手から銃と指をさらう。
銃を放り捨てて、リィを抱き上げ、優男の肋骨が肺を貫くまで胸を踏みつける。
白いシーツ二枚でカモフラージュした殺し屋はスキー板で雪の上を進み、仰向けになった院長のそばまでやってきた。
「孤児院は?」
「三人来て、始末しました」
「そうですか。神のご加護を」
リィが手を握って、涙を流しながら口づけ、つぶやいている。
「お慕い申し上げておりました。本当に院長さまを愛してしまいました」
「リィ。わたしはきみのご両親を――」
「何も。言わなくてもいいのです。だって、院長さまは――」
殺し屋は院長を見た。胴体に三発もらっていた。
「きみの手でわたしを罰してほしい」
「なぜ、わたしが院長さまを手にかけることが罰になるのですか? わたしにはそんなことは、――そんなことは――」
白い空と遅い午後の、どこか白々とした晴れ空の下に世界の中心があった。殺し屋はその中心に含まれていない。だが、アドヴァイスはできるだろう。
「あの、こんなときになんだけど、経験から考えると、もう院長は助からない。あとは苦しみだけが待つだけ。意識も混濁して何が何だか分からなくなる。だから、あなたがやってくれたと分かるあいだに楽にしてあげるのも悪くないかなって。と、横からすいません」
殺し屋は捜査官から奪い取ったなかで一番初心者に優しい銃を選んで、それをリィに握らせた。
「院長さま。大好きです。ずっとずっと」
院長が殺し屋を雇うのに使ったものはサファイアとロマンチックだったが、子どもたちのために残したのは鉄道債券と貯蓄銀行の預かり証だった。かなりの額になるが、ロマンチックではない。
院長は礼拝堂のすぐ裏に埋められた。
悪は滅びたが、小さな世界もまた叩き潰された。
これ以上、ここにいるのは罰が悪いので、涙色のクーペと銃はあきらめようかと考えながら、宿舎の部屋をぐるぐる歩いていたとき、ノックがあった。
出ると、リィだった。
ああ、まずいなあ。
目のハイライトが消えている。
手に鉄道債券の束が握られている。
こうなると、次に来るのは、
「ケネディさん」
「はい」
「このお金でわたしに人の殺し方を教えてください」
空に切なげな黄色い影が消えた。
あれだけあった雪も、追いつめられる絶滅動物みたいにバラバラになって、ひとつずつ消えていった。
そして、植物が大地に染み込んだ血を吸い上げて、いっせいに芽を吹く爽やかな腐臭が鼻をくすぐった。
結局、殺し屋は春の雪解けまで孤児院にいた。
出ていくときは子どもたちに泣かれた。
「でも、ぼくもいつまでもここにはいられないんですよ」
殺し屋は涙色のクーペを見つけた。孤児院から百メートルも離れていなかった。
春の陽気がエンジンを凍結から救い出してくれますようにとお願いして、キーをまわすとエンジンがふるえだした。
少し泥っぽい道を走ると、孤児院の前を通った。
リィが立っていた。
あれから教えるだけのことは教えた。
「ふむ」
殺し屋はうなずく。
自分で言うのもなんだがいい出来だと誉めてあげたいと思うほどの仕上がり、――もっと多くの子どもたちを抱えても暮らせるくらいのお金が手に入るくらいの仕上がりだった。生徒の資質によるものもあるかもしれないが。
リィが微笑む。
目には輝きが戻っていた。
いまのリィは院長そっくりだ。