49.こちらがボーカルトレーニングの先生です!!
「あー、あーあーあー」
「ふー、プルプルプル……」
優愛はアパートの部屋でひとり発声練習をしていた。
閉じたままの唇に息を当てるリップロール、同じ音を出し続けるロングトーン、お腹を意識する腹式呼吸など、優斗に教えて貰った自宅でもできる基礎練習を地道に繰り返す。
「ん、んん……」
喉の調子は悪くない。ただ病気による体力低下の為か基礎練習すら辛く感じることもある。
優愛は机の上に置かれた『叶えたいリスト』の紙を手にしてじっと見つめる。
「あと12月の文化祭に勝てば『宮北に全部勝つ』は達成。本当に信じられない……」
昨年度は全敗した宮北との勝負。生徒会の手伝いをしていた優愛もその悔しさは未だ昨日のようにはっきりと覚えている。あれからその悔しさをバネに頑張って来たのだが、まさかここまで勝ち続けるとは思っても見なかった。
「あいつのお陰だよね……」
そのあいつとは無論銀髪の男のこと。初めての宮北の対決であるゴミ拾いを思い出し、思わず笑いがこみあげて来る。
(「優斗君が来ない!」って私、すごく怒ってたんだよね。結局、約束通り野球部連れて来ちゃったんだけど)
――約束
上杉優斗はこの『叶えたいリスト』を全て叶えてくれると約束した。
『宮北に全部勝つ』はもう手の届く所に来ている。『大学生になる』も受験を終えれば数か月後には多分叶うだろう。
「妹に謝る、病気を治す……」
無意識に口にしたリストの文字。それはもう自分ではどうしていいのか分からないものや、絶望しか感じないもの。
「約束、本当に……」
優愛は椅子に座りテーブルに頭を乗せて小さく言った。
「夜愛ーっ!!」
優斗は大きなカバンを持って駅の改札を出て来た夜愛の姿を見て声を掛けた。小柄だが金色の髪が美しい女の子。人の群れの中に居てもよく目立つ。
「あ、優斗先輩!! お久なの!!」
夜愛が嬉しそうな顔をして近付いて来る。フリルのついたお嬢様ドレスのような服。可愛らしい夜愛の鞄を持ちながら優斗が言う。
「疲れたでしょ? 大丈夫?」
「夜愛は疲れたの。早く優斗先輩のベッドで休みたいの」
優斗が苦笑しながら言う。
「それだけ冗談が言えれば大丈夫。さ、行こうか」
先に歩き出す優斗の背中に向かって夜愛が小声で言う。
「冗談じゃないの。夜愛は優斗先輩の布団で寝たいの」
夜愛が小さくスキップをしながら優斗を追いかける。
「お腹減った? 何か食べる?」
歩きながら尋ねる優斗に夜愛が答える。
「夜愛はパンケーキが食べたいの。都会の美味しいの」
「パンケーキか……、じゃあ、あっちかな」
優斗は夜愛の大きなカバンを持ち直すと反対の方向へと歩き出す。
「あ、あれ。ちょっと混んでるけど美味しいよ」
そう言って優斗が指差した先には『パンケーキ』と書かれた電飾看板がついたハワイ風の建物がある。店内は明るい雰囲気で軽快な音楽が流れている。ふたりは道路沿いの景色の良い席へと案内された。
「初めて来るの。美味しそうなの。でも夜愛はお金がないの」
メニュー表を見ながら夜愛が悲しそうな顔をする。
「いいって、俺の奢り。夜愛にはこれからお世話になるんだから」
「生涯のお世話?」
「違う。この間電話で話したでしょ?」
「うん、分かってるの」
夜愛はやって来た店員に一番高いパンケーキを注文し、優斗を見つめる。優斗がテーブルにある水をひと口飲んでから言う。
「これから姉の優愛のところに行く。もう気持ちは大丈夫か?」
「……」
夜愛が黙って優斗を見つめる。
少し前、優斗が夜愛に電話を掛けた。内容は『姉である優愛へのボーカルトレーニング』の依頼。高校一年ながら軽音楽部のボーカルに抜擢され、半年で先輩達を凌ぐ実力を身に着けた。それは地道な練習を重ねた夜愛の努力の賜物でもある。
そんな彼女に、実姉への訓練を優斗が依頼したのだ。
「多分、大丈夫……」
最初、姉の友達と知った時の夜愛の反応は優斗も戸惑う程だった。そしてそれは今も同じで、いつもの夜愛とは違う。優斗が運ばれてきたアイスコーヒーを口にしながら言う。
「無理強いはしたくないけど、お願いしたい」
「……分かってるの。大丈夫なの」
そう答える夜愛の声に元気はない。
優愛とは血の繋がらない姉妹。再婚した義母が実の娘の夜愛ばかりを可愛がり、優愛は家での居場所をなくして行く。
当然のように義理の姉妹である彼女らの仲も悪くなり、優愛は病院を理由にひとり暮らしを始めた。
――妹に謝る
そんな姉妹の力になろうと優斗が決めたのはここ数か月のこと。優愛の『叶えたいリスト』を見てからだ。もちろん今日のことは夜愛には秘密にしてある。
夜愛が運ばれて来たホイップが山のようになったパンケーキを嬉しそうな顔で見つめながら尋ねる。
「お姉ちゃんと優斗先輩は、一体どんな関係なの?」
長いスプーンでホイップを救いながら夜愛が尋ねる。
「関係? ええっと生徒会長と……」
『備品』と言いかけてその言葉を飲み込む。
「そのお手伝いさん、って感じかな?」
「そうなの。てっきりお付き合いしているのかと思ったの」
そう言われた優斗が驚いて言う。
「そ、そんなことはないよ! どうしてそう思った??」
「女の直感なの。ただそれだけ」
夜愛は無表情でパンケーキを食べ始める。優斗もアイスコーヒーのストローを再び口につける。夜愛が尋ねる。
「それでやっぱりまだ夜愛のことは言っていないの?」
「うん、言うともしかして会ってくれないかもしれないだろ?」
「……」
その言葉には不本意ながら彼女も同意する。自分は姉に嫌われている。初めて会った時から何となくそう思っていた。
「心配ない。俺が一緒に行くから」
夜愛が尋ねる。
「優斗先輩はどうやってお姉ちゃんを口説いたの?」
「は? 何だそりゃ??」
優斗の手が思わず固まる。
「あのお姉ちゃんと普通に話す男の人って普通に凄いの」
「そ、そうだな……」
確かに優愛の男嫌いは有名で妹が知らない筈はない。優斗が言う。
「最初は大変だったぞ。『備品』って言って毎日馬鹿にされたし。まあ、今でもあまり変わらないけど」
「備品? どうして備品なの?」
「男には存在価値がないんだって」
「ぷっ、くすくす。面白いの。お姉ちゃんらしいの」
優斗は今日初めて笑った夜愛の笑顔を見てようやく何か落ち着いた気分になった。
「さ、じゃあ行こうか」
「分かったの。一緒に行くの」
パンケーキを食べ終えた夜愛は少し落ち着いた表情になって答えた。
『あ、優愛? これから前に話したさ、ボイストレーニングの人連れて行くよ』
『え、ええ。分かったわ。部屋で待っていればいいのね?』
『ああ、それじゃあ』
再び駅前に戻ってきた優斗が優愛に電話をして在宅を確認する。そして電車に揺られふたりは優愛のアパートの前までやって来た。優斗が言う。
「あれが優愛のアパート」
「……」
想像以上に古いアパート。あんな所に姉はひとりで暮らしているのかと思うと複雑な気持ちになる。不安そうな顔をする夜愛に優斗が声を掛ける。
「大丈夫か?」
夜愛が青い顔をして答える。
「やっぱり怖くなったの。おうちに帰るの」
慌てて優斗が夜愛の腕を掴んで言う。
「おいおい、ここで帰られたら困るよ! 大丈夫だって、俺が一緒に居るから!!」
「……それでも不安なの」
その気持ちは十分わかっている。難しい家族の問題。他人である優斗が軽々しく首を突っ込むべきじゃない。
(だが時間がない)
優愛の『叶えたいリスト』を全て叶えると約束した。自分がここに居られるのもあと半年弱。それまでにやれるだけのことはやらなければならない。夜愛と偶然出会えたのは天命じゃないのかと思っている。
「じゃあ行くよ」
「分かったの。優斗先輩に全部任せるの」
夜愛の金色の髪が風に揺らめく。優斗は彼女の肩をポンと叩くと優愛の部屋のドアの前に立つ。
コンコン……
「優愛? 俺だ、優斗だ」
「今、開けるわ」
ガチャ
ドアを開けた優愛。ボイストレーニングの先生が来ると聞いていた彼女もやや緊張した表情でこちらを見つめる。
「え?」
そんな彼女の体が固まる。
「よ、夜愛……!?」
金色の髪の可愛い小柄な女性。その姿は決して忘れるはずのないものであった。夜愛が小さな声で言う。
「お姉ちゃん。こんにちはなの」
少し優斗の後ろの隠れるようにして答える夜愛。驚く優愛に優斗が言う。
「この子が優愛のボイトレの先生。しっかり学んでくれよ!」
「はああああ!?」
声を上げて驚く優愛。
少し瘦せたかな。優斗の陰に隠れながら久しぶりに会った姉の姿を見て夜愛は思った。




