だんどり悪くとも進めりゃいい、な話。
まだ魔法剣士が家にいた頃だ。
窓から見える鳥を眺めては、あのように空を飛べたらと考えていた。そうすれば、きっと自分は自由になれるし、何より、空を飛ぶというのは気持ちがよさそうだと、あの時は思っていたのだ。
「まいちゃん! 僕飛んでる!? ねぇ、飛んでる!?」
「落ちてんだよ、馬鹿!」
「やっぱり!?」
会話がこうやって出来るくらいには、この谷は深い。それもそうだ、この谷は“風の穴”と呼ばれ、吹き上げる風が余りにも強く、向こう岸へ渡るための橋がかけられないほどなのだから。
そんな深い谷にも、いずれは終端が見えてくる。地面に叩きつけられ話はここで終わり、ならよかったんだがな。
「ゔおおおお!」
空気を震わすほどの雄叫びが聞こえ、二人は身動き出来ない体を震わせた。
「何!? 今の何!?」
「まさか魔族か! ちっ、こんな時に……」
例え二人が手足を自由に動かせたとして、この状況の打破は到底出来はしなかっただろう。
見えてきた地面に恐怖した魔法剣士は目を閉じる。
だから見えていなかった。閃光のような速さで、何かが自分たちに向かってきたことを。
その何かは、岩肌を身軽に飛びながら二人を抱えると、華麗に地面へと着地してみせた。
「貴公、無事か?」
低く力強い声に魔法剣士が目を開けてみれば、茶の髪をオールバックに撫でつけた、筋肉質の男が笑っていた。魔法剣士と舞手を左右の手に抱えていることから、この男の力強さが伝わるだろうか。
「あ、ど、どうも。すみません」
「降ろせおっさん! 触るんじゃねぇ!」
「そうか、それはすまないことをした」
律儀に舞手を抱えるほうだけ力を抜いて、多少乱暴に降ろしてから、男は魔法剣士を地面へ降ろしてやった。
もちろん舞手からは「いてぇだろ!」と怒鳴り声が上がるが、触るなと言ったのはこいつだ。全く無理難題ばかり言う奴だよ、本当に。
「助かりました、えぇと」
「俺は戦士だ。傭兵を生業にしている。して、貴公は何故こんな場所に? 見たところ、余り腕が立つようには見えんが……」
男は、以後戦士と呼ぼうか。戦士は魔法剣士の手足の縄を短剣で切ってやってから、手を取って立たせてやる。久方ぶりに自由な手足に頬が緩むが、今はそれどころではない。
「話せば長くなるんですが、実はまいちゃんが……」
「おいヘタレ! オレが動けねぇからって、適当なことを抜かすんじゃねぇ!」
「だってまいちゃんが最初に話しかけたからだろ!」
長くなりそうな雰囲気に、戦士が「ふむ」とひとつ頷いた。
「とりあえず、貴公、オレの野営している場所がある。そこで話してはくれないか?」
「わかりました。まいちゃん、先行ってるよ!」
「いや、オレのも切っていけよ!」
こうして爽やかに笑って歩き出した魔法剣士の背中に、舞手のありとあらゆる雑言罵倒が飛んだのは、今更言わなくてもいいか。
土と岩だらけの場所だが、腐ってもここは“緑の国”。泉が湧き出る場所も少なからずあり、戦士はそこで小さな野営地を築いていた。
木を組んで、それらに蔦を巻いて頑丈にし、葉で簡易的な屋根を作った小さな雨よけには、一人の女性が横たわっていた。具合が良くないのか、息が荒い。
「この人は?」
魔法剣士の問いに、戦士が地面へ腰を降ろし、女性の額に手を当てつつ答える。
「俺はここに出るという魔物を倒しに来たのだ。それ自体は、思ったほどに苦戦せずに終わったのだが……」
女性の額に滲んでいた汗を指で拭ってやり、戦士は泉へと向かうと、布切れを浸して絞る。それを額に乗せてから、二人にも座れと促した。
「いざ谷を出ようとした時、この夫人も貴公らと同じように降ってきたのだ。それから既に一週間ほどになるか……」
「具合が悪そうなのに、なんで早く出ないんですか」
「出れたら苦労はせんのだ」
その少し諦めたような言い草に、泉で顔を洗っていた舞手が「なんかあんのか?」と振り返った。
「……この谷には、凶悪な魔物が徘徊していてな。強い魔物ほど出れぬよう、どうやら魔法で封印をしているようでな」
「それは凄い! だからヤバい奴が出なかったんだね!」
「……待ておっさん。その言い草だと、お前まさか」
舞手が信じられないという目を戦士へ向ける。わけがわかっていない魔法剣士が「え? え?」と交互に二人を見ている。呆れたようにため息をつき、舞手が首を小さく振った。
「おっさんが魔族なんだよ。オレらが倒しにきた、な」
「え? ……え」
戦士に目を留め、魔法剣士は「まじ?」と真正面から戦士を見つめた。それに怒るでもなく、むしろ戦士は豪快に笑ってみせてから、
「貴公は中々に面白い奴だな。まぁ、魔族といってもオレは混血だ。見てわかる通り、人間の血のほうが濃いしな」
「いやいや、全然わかんないし」
「はっはっはっ。それは結構なことだ」
と魔法剣士の頭を少し乱暴に撫で回した。しかしすぐに目を伏せ、寝たきりの女性に視線を移した。
「俺では連れていけんのだ。地上へ続く道には門があるのだが、その門に触れようとすれば黒焦げになってしまうからな。だから貴公らに頼みたい。夫人を連れていってほしい」
魔法剣士よりも年上の、しかも大柄な男が、頭を下げて頼んでいるのだ。それを断るなぞ、いくら甲斐性無しのこいつでもしないと思ったのだが。
「いやいや。僕はちょっと無理かな……。最近やっと腹筋が十回出来るようになった程度だからさ、女の人でも持つとか無理……」
「貴公、それでも男か!」
「男だよ!? ちゃんとついてるし! でもね、体格と長さが比例しないように、デカさと根性も比例しないんですよ!」
「お前は馬鹿か!? んなこと聞いてねぇ!」
怒りと呆れのこもった拳で、舞手は魔法剣士の頭を思いきり殴りつけた。それに悶絶する魔法剣士を他所に、舞手が腕を組んで戦士を睨みつけた。
「いいか、オレは姉貴が心配だ。早く出たい、だから協力してやる。代わりにおっさん、お前が知ってることを話せ」
「姉? 貴公、姉がいるのか? してそれは、もしや僧侶ではあるまいな」
「なんでお前にそんなこと……」
「お姉さんは強くて美人な僧侶様なんだって! 師匠が言ってた!」
「まだ復帰してくんな!」
再び殴られ地面へ突っ伏した魔法剣士。誰にも見向きされないのがこいつらしいな。
戦士は「やはり」と呟いた後、女性を見た。
「俺も夫人から聞いた話だ。この世界ではない狭間の場所、そこに君臨する妖精たちを統べる王がいると。なんでも、その場所へ行くのに必要なのが、高貴な女性の血だという」
「じゃ、姉貴はその為に……」
「仮定の話だ。兎に角、急いだほうがいいのは明らかだろう」
戦士は女性に「失礼する」と声をかけると、優しい手つきで背中へおぶる。その反動でか、女性のまつ毛がぴくりと動き、そしてゆっくりと開かれていった。
「戦士、様……?」
「おっとすまない。起こすつもりは無かったのだが、何、今から上へ向かうところでな」
「上……?」
そこで女性は魔法剣士と舞手に気づく。伸びたままの魔法剣士に、可笑しそうに頬を緩めた後、女性は微かに頭を下げる仕草をした。
「皆様、すみません……」
「全くだ。代わりにお前の知ってることを話せ。お前、キノコの言ってた魔法石商人なんだろ」
「……はい」
戦士は地面に無造作に置いてあった斧を片手で持ち上げると、未だ伸びている魔法剣士をそれでつついた。変な叫び声を上げながら飛び起きた魔法剣士に、斧を持てを目で示してから、戦士はゆっくりと歩き出す。
なるべく急ぎつつ、負担をかけないようにしつつ、な。