にほ下がって、三歩進んで、十歩走る話。
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その屋敷の主人は、目の前の美しい氷像へと触れた。中にいる雪妖精は、先日訪れた頭の悪そうな輩から、捕え方を教えられ、そうして捕まえた大事な一匹だ。
確か相方、番と言ったか。この雪妖精は自身の番を逃がす為、自ら囮になり、そうして氷像へと姿を変えた。だが、それ自体が主人の思惑であり、逃げた番に関しては、あの輩が欲しいと言ったのもあり、そのまま処理を頼むことにした。
「やはり美しい……。そうだ、次は魔族を捕まえたい。あの男に取引でも持ちかけようか」
氷像を愛でるように撫でた後、主人は喉から乾いた笑いを零す。まぁ、主人の言う“あの男”は、既にこの世から消されてしまったのだが、それを引きこもってばかりの主人が知るはずもない。
「しかしどうやってコンタクトを取ればいいやら。男のほうから来るのを待っていたら、ワシは死んでるかもしれん」
「かもではなく、今死ぬのですが、主人はそれを理解しておりますでしょうか」
「へ?」
揺れたカーテンの隙間から、手のひらほどの何かが部屋の中へと入ってくる。それが何かを理解する前に、主人は自身の視界が酷く歪んだことに気づいた。
「ぁ、ぁへ……?」
顔の半分が歪んだのだと理解した頃には、主人は力無く倒れていた。霞んでいく視界と、遠のいていく声が、これから自身を死へと誘っていくのだと、嫌でも自覚させた。
「ぁ、あんた、だれ、だ……」
「ん? あぁ、これは失礼を。世とは所詮弱肉強食、焼肉定食。故に私は求める。力の赴くままに。私、勇敢な悪と」
「ムウトはん、ムウトはん。もう死んでんで、そ、れ☆」
いつの間に現れたのか。倒れた主人の近くに座り込んだ勝負師が、持っていたステッキの先でその身体をつついた。
「人に名を聞いておきながら死んでしまうとは。なんとも礼儀のなっていないお人のようですね」
「いやいや。ムウトはんの前口上は長すぎるんや。もっと印象的に、一言で出来ひんの?」
何かは「出来かねますね」と主人の身体の上へと移動した。
「名乗るのは大切でしょう。特に世を守るヒーローならば」
「いやぁ、わいらってヒーローっちゅうガラやないで。どっちかと言えば、悪役ちゃうん?」
「悪がヒーローになってはいけないと、誰が決めたのです? 私は、私自身が自身をヒーローだと認めています。例え、貴方が自身を悪だと蔑んでも」
「ほーほー。でもわい、そういうの嫌いやないで」
勝負師は主人をつつくのに飽きたのか、隅にある氷像へと視線を移した。まだ幼さの残る少年が、手を伸ばした格好でその時間を止めている。いかにも趣味の悪いそれに、勝負師は密かに眉を潜めたが、すぐにいつものふざけた笑みを口元へ浮かべ、
「にしても、ムウトはん。こんなとこで寄り道してる暇、あるんかいな。有休中の旅行ってとこかいな」
「いえ。悪の匂いがしまして、天罰を与えに来たまでです。勝負師。貴方こそ、なぜここに? 貴方は確か“赤の国”で別件があったと記憶しているのですが」
なかなか鋭い質問をされ、勝負師は参ったと言うように両手を上げてみせた。
「ま、急ぎの用やないし。わいもあれや、悪に天罰を与えに来たんや」
「ほう。では同志というわけですか」
「少なくとも、わいはムウトはんのこと、嫌いやないで」
ムウトは「それはそれは」と満更でもないように笑い、それから主人から降りると窓枠へと移動した。
「ではそんな貴方にひとつお願いを」
「ん? 恋のお相手以外やったら大体のことは聞いたるで」
「それだと聞いて頂けないかもしれませんね」
その言いように、勝負師は「やれやれ」と首を振ってみせ、懐からカードを何枚か手にする。
「貸しひとつやで」
「同志にも貸しとは……。なかなか世知辛い世の中なんですね、魔王軍というのは」
「ビジネスも大事やからな」
勝負師は欠伸をし、それから手に持ったカードをばら撒いた。カードが部屋を埋め尽くすように広がり、そしてそれらが勝負師の手元へ戻る頃には。
主人の姿はおろか、勝負師、ムウト、そして雪妖精の氷像もまた、消えていた。
※
翌朝。まぁ、朝といっても朝日などという高尚なものはなく、先に言った通り、街灯に明かりが灯ることでこの街は朝になる。
昨夜、魔法剣士たちによって、散々な目に合ったリーパーのことは聖女に任せ、魔法剣士たちは街一番の富豪の屋敷へ向かっていた。しかしその道中だ。人々が「主人が行方不明だってよ」だの「雪妖精の像? も無いらしいわ」だのと、噂話をしていたのは。
「なんだなんだ。氷像でも持ってトンズラしやがったか?」
「一夜で? 今までの財産も捨てて?」
「オレが知るかよ」
疑問に思いながらも、聞いた場所へ向かうと、そこには既にあの協祖の姿があった。見つからないようにしたかったが、まるでそこに魔法剣士がいるのがわかったかのように、協祖は薄ら寒い笑みを魔法剣士へと向けてきた。
「……どうも、おじさん」
仕方なく手を上げ、引きつった笑みを見せる。協祖は人の波を縫うように、いやまるでその一部であるかのように難なく魔法剣士の元まで歩いてくると、
「また会いましたね、少年よ」
と笑みを絶やすことなく、手を差し出した。魔法剣士はそれを握り返すことなく、
「会いたくなかったけどね。それでおじさん、どうしてここに?」
「いやはや、嫌われたものですな。あぁここに来たのはですね、何やら化け物の臭いが染みついている気がしましてね」
と協祖はうっすらと目を開け、魔法剣士を舐るように見つめる。それを鼻で笑い飛ばし、魔法剣士は協祖を下から睨みつけてみせた。
「ここは空気の循環も悪そうだしね。匂いくらい籠もるでしょ」
「ははは、ごもっともですね。あぁ、主人ならもうこの世にはおりませんよ」
「ふうん、それはどうも。皆、宿に戻ろう」
魔法剣士は少女を抱き上げてやり、もう話すことはないとばかりに歩き出す。その背を見送る協祖の呟いた「見つけましたよ」の声は、最早一行には届きもしなかったのだが。
宿へ帰る、とは言ったものの、何も収穫がないとあれば、またリーパーの説教が始まるに違いない。これだから年寄りは……と頭に過ぎるが、そもそもあれを年寄りと定義していいものか。
魔法剣士は道の途中で立ち止まると、自分で歩くと言う少女を降ろしてやり、それから苦笑いと共に仲間を振り返った。
「どうしよっか」
「どうって……、宿に戻るんじゃねぇのかよ」
「いやぁ、帰りづらくない?」
呆れた様子の舞手とは逆に、戦士は「ならば」と宿と反対の通りを示した。
「ここは不凍港といってな、“赤の国”へ行くにはそこから船に乗るしかないのだ。先に行って券を買っておいてはくれぬか」
「おっけおっけ。手持ちで足りるかな?」
魔法剣士が、腰に下げた袋から銅貨を何枚か取り出した。
「ふむ、これだけあればまぁ足りるだろう。今は廃航前で、格段に安く乗れると聞いたことがあるしな」
「運がいいね、僕たち!」
「うんがいい!」
少女と共に、魔法剣士は小さく飛び跳ねはしゃぎ続ける。それに戦士は腕組みし苦笑いすると、
「では頼んだぞ。義弟よ、貴公はどうする?」
と呆れた様子の舞手に視線を移す。舞手は「そうだな……」と二人を眺め、
「誰かがついててやらねぇと、変な奴に連れていかれそうだからな」
「まいちゃん綺麗だからね、仕方ないね! ぷげらっ」
再び飛んできた足技を食らい、魔法剣士は情けなく地面に転がった。少女が「おにぃ、ひどい!」と舞手にしがみつくのを、なんとも面倒くさそうに手で押さえ、
「任せときな」
と戦士を振り返る。
手を上げ宿へと戻る戦士を見送ると、舞手は少女を背負い、まだ倒れたままの魔法剣士を容赦なく蹴り上げた。
「おいヘタレ、行くぞ、起きろ」
「痛い! まいちゃんエスなの!? でも残念でしたぁ、僕もエスでし」
「うるせぇ!」
今度は頭を叩かれ、完全に撃沈してしまった。舞手は少女を片手で支えつつ、舌打ちと共に、もう片手で魔法剣士の襟足を掴むとそのまま引きずっていく。
さて。今回の話はここまでだ。
何。船には乗らないのかだと? 乗るさ。何せ乗らなければ“赤の国”へは辿り着けないのだからな。
ただ、そうだな……。この時の一行は、至極簡単に航路を用いて行けると思っていたのだ。そう、船の乗船券を得るまではな――




