たさいな些細な出来事の話。
歩けども歩けども、道と呼べる道も見えず。自分たちがどこを歩いているのかさえもわからず、それに加えてこの寒さ。魔法剣士の心を折るには十分のはずなのだが。
それでも奴が止まらないのは、そのポケットに入れた暖かさが、僅かながらも魔法剣士を奮い立たせてくれるからか。会話がなくとも、それは一人ではないのだと、確かに感じることが出来たのだ。
「っくしゅ」
魔法剣士が小さくくしゃみをした。まるで「大丈夫?」とでも言うように微かに力がこもり、魔法剣士もまた、返事をするように微かに力を入れた。
そうしてどれくらい歩いたか。
風の音に混じり、地面が揺れるほどの低い鳴き声が、二人に聞こえてきた。
「今の……」
魔法剣士が辺りを見回すも、白い世界が広がるだけだ。
「魔物……、恐らく雪熊だと思うわ。お姉ちゃんも実物は見たことないから、上手く捌けるか自信がないんだけど」
「うん。まず捌く前に捌かれる心配しようよ」
もし本当に魔物、雪熊ならば、この視界の悪さの中で戦わなければならない。それだけは避けたいのだが、右も左も見えないこれでは、雪熊から逃げるのも苦労しそうだ。
「とりあえず、急いで……」
「危ない!」
聖女がポケットの中の手ごと後ろへ引っ張った。蛙の鳴き声のような声が、魔法剣士の喉から出たような気もするが、真剣な聖女様の前では小さなことだ。
瞬間、目の前を何かが横切り、魔法剣士の鼻先を掠めていく。遅れてチリッとした痛みが走るが、それよりも現れた影の大きさに、魔法剣士は息を呑んだ。
「で、でか……」
その真っ白い雪熊は、威嚇するように前足を大きく広げる。ゆうに三メートルは越えるであろう巨体に、思わず魔法剣士の体が震え上がった。
「やっぱり雪熊だわ。この大きさ……、子供かしら」
「子供でこれなの!? おっきすぎない!?」
「でも親がいないなんておかしいわ……」
雪熊が振り下ろす爪を、聖女が棍棒で弾き返し、そのままその巨体へとめり込ませた。しかし棍棒のほうが粉々に砕け、雪熊が続けて放った爪が聖女の腹を引き裂いた。
「くっ」
「お姉さん!」
どれほど白い世界でもはっきりとわかる。聖女が倒れた箇所が、赤く赤く染まっていくのが。
「このっ」
魔法剣士の感情に呼応するかのように、左手に炎が現れる。それは魔法剣士自身の肌を焼き、そのいかにも“美味そうな”匂いに、雪熊の口から涎が滴った時だ。
「駄目よ! 感情のままに魔法を使っては駄目!」
「……!」
腹を押さえる聖女が、魔法剣士に優しく微笑みかける。その額には脂汗が滲んでいるが、辛さなど微塵も感じられない笑顔で。
「魔法、特訓したんでしょう? なら、ちゃんと、練習通りしないと駄目よ……? そうやって使い続けたら、貴方が死んじゃうわ」
「……」
左手の炎が小さくなり、そして消えていく。多少火傷はしたようだが、今の奴には些細なことに過ぎん。
雪熊が再び前足を上げ、魔法剣士に下ろした時だ。魔法剣士はそれを右手で受け止め、
「凍れ」
と“氷蝕”と呼ばれる氷の中級魔法を使った。それは魔法剣士が触れた前足を始めとして、雪熊を一気に凍りつかせていく。
そうして全身が凍りついた頃、魔法剣士は「出来た……」と自らの右手をまじまじと見つめる。
「お姉さん、出来たよ! ちょっと魔法力尽きた気がするけど、もう安全、だ、よ……」
聖女を振り返り、そして魔法剣士の顔から血の気が引いた。
同じような大きさの雪熊が、あと三匹。更には少し大きめの雪熊が二匹。
「ぇ……」
どの個体も目をギラつかせ、どう見ても腹を空かせているのは目に見えて明らかだ。
「逃げ、て」
「お姉さん、何言ってるの……」
「きっと血の匂いに釣られたのね。だから、私が、囮に、なれば……」
「だ、駄目だって。僕のせいなんだし、僕が、ちゃんと守るから」
腰から細剣を抜き、それを小さめの雪熊へと向けた。明らかな敵意に反応し、雪熊たちが低い唸り声を上げ始める。
「うああああ!」
細剣を突き立てようとしたが、聖女の馬鹿力による棍棒も粉砕したのだ。魔法剣士のひ弱な細剣如きが、鉄のように硬い雪熊の皮を貫けるはずがない。
案の定、細剣は先端が折れ、代わりに雪熊によるきつい一撃を腹に叩き込まれてしまった。軽く吹っ飛んだ身体はそのまま降り積もった雪の上へと転がり、その衝撃で全身に痛みが走った。
「……っ」
雪熊は魔法剣士なんぞ興味がないとばかりに、聖女の周囲にぞろぞろと集まりだす。その姿が魔法剣士から見えなくなり、悔しさから「リー、パー……」と思わず口にした時だ。
雪熊の立つ地面から、真っ黒い蔦が生え、それらは雪熊へと巻き付き、そしていつか見たあの赤い閃を走らせた。
苦しげに雪熊が空に吠える。その視線の先、眼鏡の奥に赤目を光らせた四天王の一人、腐蝕の王が浮いているのが見え、魔法剣士は自分の目を疑った。
「四天王……が、なんで……」
蔦によって、恐らくはその生命を吸われたであろう雪熊たちが、次々に倒れ、そして跡形もなく消えていく。
それを満足そうに眺めた腐蝕が、聖女の横へと降り立った。そして倒れたままの聖女を足蹴すると、
「ヒッ、ヒヒッ。雑魚が手を出すから、ヒヒッ、こうなるんだよ。立場を弁えろよ、カスが」
と乱暴に聖女を持ち上げ、指をひとつ鳴らした。するとまたあの蔦が現れ、聖女に巻きつくと繭のような形になり、その中へ聖女を閉じ込めてしまった。
「やめろ……! お姉さんを返せ!」
なんとか立ち上がろうとするが、少しでも動かそうとすれば、容赦ない痛みが全身を襲う。
「っせぇよ、雑魚。折角手に入ったレアものを返すわけないだろ。これで俺ももっと強くなるんだ。ヒヒッ、誰が一番なのかわからせてやる……」
腐蝕は何かしら呟き、そして姿を消した。
「待て! いっつ……」
手を伸ばすが、雪熊に殴られた腹が酷く痛む。動けない魔法剣士の体に、容赦なく雪は降り積もっていく。
ろくに休息も取らず、慣れない魔法を使い、更にこの寒さだ。眠りたくなくとも、次第に瞼は重くなっていき――。
「お姉さん!」
「いで!」
「ぎゃっ!」
布団から思いきり体を起こした魔法剣士は、自分を看病していたらしい舞手と頭をぶつけた。その反動でまた布団へ倒れ、魔法剣士は「まいちゃん……?」と額を擦る舞手を見る。
「よう。やっと起きたか」
「あれ、僕……っ」
再び体を起こそうとし、腹部に走った痛みに顔をしかめた。
「やめとけやめとけ。お前、骨やられてんだぞ」
「骨が……。そんなことより、まいちゃん」
自身の怪我を“そんなこと”で済ませる魔法剣士に、舞手は少なからず顔をしかめる。しかしとりあえずは話を聞こうと「なんだ」とぶっきらぼうに聞き返す。
「まいちゃん、ごめん……。僕、お姉さん……、お姉、さん……っ」
耐えきれず涙が溢れてしまい、魔法剣士はそれを布団で拭ってから、なんとか口にしようと息を吸う。しかし上手く言葉が出ず、何度か口をパクパクと動かすだけだ。
「怒んねぇから、言えよ」
「僕、僕……。お姉さん、守れなかった……」
「……何があった?」
魔法剣士は途切れ途切れになりながらも、雪熊と対峙したこと。更に多くの雪熊が現れ、最後には腐蝕が聖女を連れて行ったことを話した。
舞手はそれを黙って聞き続け、最後に「そうか」と一言だけ口にした。
「怒んないの? 大事なお姉さんなんでしょ? 僕、僕、何も出来なかったんだよ!?」
「別に。ただ、そんな怪我してる奴を責めたら、姉貴に怒られそうだなってオレが思っただけだ」
舞手はそう言い、立ち上がった。
「ま。とにかくここは雪妖精の村だ。わりかし友好的な奴らだから、安心してもう少し寝とけ。オレはおっさんたちに事情を説明してくるからよ」
「うん……、わかったよ」
俯く魔法剣士の表情は舞手からは見えず。しかし舞手の表情もまた、俯く魔法剣士には見えなかった。




