8
襖を開けると、まだ庭先で松吾と見慣れぬ小僧が暴れまわっていた。
「なんだい、まだいたのかい。この忙しいときに困ったもんだ」
独り言とも愚痴ともつかぬ様子で言う旦那の後ろから、長兵衛とお梅が続いていた。
「旦那様。お梅の腹の子は、あっしが父親です。どうか所帯を持たせてやっておくんなさい。お梅、所帯を持とう。いいだろう」
突然言い出したのは、松吾だった。
旦那も驚いたがその場にいた全員が驚いた。
松吾が八文字屋の八左衛門旦那の使いで急いで長兵衛のところに駆けつけると、捨が居た。
長兵衛にお梅のことで主が呼んでいることと、もしかしたらまずいことになったかもしれないと言い二人して出かけようとすると、捨が着いてくる。
それどころか走り出して後を松吾と長兵衛が追いかける形になった。
お梅のことが心配で、八文字屋の近くまで何度か足を運んだことの有る捨は、二人の話を聞きつけると、我先に走り出してしまった。
松吾が何とか庭先で捨を捕まえたところで、だいぶ遅れて長兵衛が追いついたのだった。
捨にしてみれば、松吾の台詞は自分が言うつもりだっただけに、驚いた。
お梅にしてみても何かと気を使ってくれる松吾にありがたいとは思っていたが、身に覚えのない父親宣言には面食らった。
中の様子からお梅が暇を出されるのを悟った松吾は、身寄りも行く当てもないお梅を不憫に思っていた。
それ以上に、少しばかり惚れてもいた。
捨を押さえつけているうちに、なんだか抑えきれず気付いたときには、庭に頭を擦り付けるように土下座をしていた。
「なんと。お梅の腹の子は、松吾、お前の子だというのかい。あきれたね。お前は真面目だし仕事も出来る、そのお前が何で」
「くぉらぁ。お前だって女房がいるのに、吉原辺りで女を口説いたことあるだろが」
松吾の手を逃れた捨が横槍を入れた。
その言葉に一番ドキリとしたのは八左衛門だ。
それでなくてもお梅にお蕗と呼ばせている妻の怒りは収まっていないのだ。
それがこんなところであらぬ話をされてはたまらない。
すねに傷持つ身であるが、身に覚えのない濡れ衣を着せられたらそれこそ今度はどうなることか。
妻が出かけているからよいものの、家の中で大声あげて公然と言われたのではたまったものではない。
「ちょ、長兵衛さん。話は済んだんだ、早いとここの三人を連れて帰っておくれ」
何かあればお上に対抗する意識はあっても、お内儀には屈服する気持ちしか持ち合わせていない。
家の中でのごたごたは何が何でも避けたい。
それでなくても来月には吉原に繰り出すことになるのだから、その楽しみをそがれるようなことはなんとしても避けたい、これで事はうまく治まったが、一歩間違えば自分が疑われていたかもしれないと思うとぞっとした。
今考えれば、普通ならなんでも奥向きは妻に相談している女中頭のお蔦が、この話を自分に持ってきたのは自分を疑っているのではないかとぞっとした。
妻が丁度出かけていたからか、知らない間に雇った娘だから勘繰ったのかはわからないが、八左衛門としても、危ないところだったとつくづく思った。
しかし、腹の子の父親が名乗り出てくれて変な疑いをもたれなくて済んだが、まさか松吾だとは思ってもみなかった。
「旦那さん。お世話になりました」
「ああ、うちじゃ通いは認めてないからね。その代わり今までどおり仕事はお願いするから、よろしく頼むよ。祝いはその内届けさせるからね」
「ありがとうございます。ご恩は決して忘れません」
再び庭先に頭を擦り付けて礼を言うと、話は決まったも同然だ。
八左衛門が廊下を曲がったところで、お蔦がぬっと現われたときには、さすがに叫び声をあげそうになったが、何とか押しとどまった。
「さあさ、二人とも荷物をまとめておいで、長兵衛さんこんなところでなんだが、お茶でも飲んでゆっくりしてくださいな」
女中頭のお蔦が庭の見える縁側で長兵衛に茶を勧め、お梅と松吾は荷物をまとめるため、その場から立ち去った。
お梅は、ああ本当に人に逆らわず流れていけばどうにかなるものだと思いつつ、これからあの人が亭主となるのかとぼんやり考えていた。
十五の娘にはさすがに今全部を考えろという方が、無理な相談だった。
三人が肩を寄せ合って東鍋横丁に帰る道中、長兵衛は古道具屋に寄り、煎餅蒲団二組と茶碗の類を買い揃え、いくばくかの銭を出した。
残りは後払いで店の小僧に荷物を背負わせ、家に着いたら払うという算段で、取引をしている。
お梅と松吾はこれから長兵衛のところで暮らすのだ。
後ろでぶつぶつ何事か言っていた捨だったが、店を出てからだいぶ時間が経っている。
いい加減にしないと今日は本当に小言では済みそうもないので、別れがたい気持ちもあったが、走って店に戻った。
案の定手代の嘉助から小言を喰らい、当面店の外へのお使いは一切なし。
店の中でよくよく仕事に励むように言われた。
冗談ではないと思っていたが、その後嘉助の言ったとおり店の者と一緒に湯屋へ行くとき以外は、ずっと店の中で独楽鼠のように追い回されることになった。
唯々諾々と日々が過ぎていった。
お梅や松吾長兵衛たちがどうなったか気にはなっていた。
ほとんど会話というものをなさないままに当然のように三人で帰っていってしまったことに、捨はどうにも納得できないものを感じていた。
「三年、三年というが、三年経ったら何が変わるってんだ」
またしても、捨は一人つぶやいている。
無駄な時間を過ごすことには、どうにも耐えられそうにもないのに。
華のお江戸の川西屋 これにて 終幕