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お梅は日に日に大きくなっていく腹や胸を何とか同輩達には隠していた。
八文字屋に連れてこられた梅は、簡単に今までの経緯を聞かれたが、父母とも火事で数年前になくしたこと、その後大名家の奥向きに上がっていたお年寄りの家で水汲みなどの雑用をやっていたことなどを簡単に話した。
八文字屋の主人八左衛門はどうも一人合点で話を進める性格らしい。
それでいて都合が悪くなると、簡単に他の話に飛び乗ってしまう。
だから梅の話も型通り聞いただけで前の仕事をどうして止したのかを聞くこともしなかった。
人を使いに出して調べてみるような事は一切しなかったおかげで、心配していた人別帳もさっさと動かして保証人には長兵衛の名前を使った。
人別帳は人の出入りを示したもので、これがきちんとしていないと仕事も住まいも簡単に見つかるものではなかった。
人が足りないところに都合よく人を雇うことが出来た。それで十分だった。
今日は、古参のお蔦という女中頭が帰ってきて奥もだいぶにぎやかになった。
お蔦は身体も良く動かすが小言もその動きにあわせるように多い女だった。
嫁に出した娘が始めてのお産と言うことでしばらく休んでいたのだが、孫が居るように思えないほど元気だ。
「あたしが居ない間に手を抜いて仕事していたんじゃないだろうね。赤子は泣くばかりで手がかかってちっとも可愛くない、全く疲れた。こちらに戻ってきてやっと何時ものように働ける」
と、口では言っているが、孫の話しをするお蔦は、これ以上ない程うれしそうだ。
それほど喜んで迎えられる子供と、どうしたらよいのかわからず思案にくれる母親の腹の中で育っている子供。同じ子供でも、親によって生まれる前から幸せ不幸せが決まっているように思えてしょうがない。
そんなこともあって少し気落ちしていたお梅だが、昼過ぎた頃に皆に誘われて湯屋に向かう頃には、気分もぱっと華やいでいた。
このごろは一日のうちに何度も気分が入れ替わる。
気まぐれ者と思われているようだが、致し方ない。
板場で帯を解き、ぬか袋を咥えて、さて流し場に行こうとしたとき、ふっとお蔦の視線を感じた。
腹や胸の辺りに射るような視線を投げかけてきた。
とっさにお梅は口を開いた。
「前に居たところはお年寄りの病人とそれを看るもう一人のお年寄りの三人で、ご飯もおかずも病人がたべるようなものが本当にちょびっときりだったから。こちらに来てからその反動でものすごく食べるようになってしまって」
同輩が可笑しそうに話を続けたのにはありがたかった。
「お蕗ちゃんは本当にうちに来てから、丸々と太ったわよね。このまま行ったら女相撲に出られるのと違う」
お蕗と呼ばれたのは、お梅である。
ここのお内儀がお梅だったので、一つ家に同じ名前が二人では都合が悪いからとつけられた名だった。
これも少々いわくがあって、つい先ごろ八左衛門旦那はとある女とねんごろになった。
それがお蕗という女で、お内儀の怒りをめっぽう買ったばかりだった。
それをあてつけるようにお梅にお蕗と名づけたのだ。女の恨みは恐ろしい。
旦那は戦々恐々として異論は挟まなかったらしい。
「やぁだあ」
からからと女たちの笑い声が湯屋に響いた。
暖かい湯気に包まれていても、お梅は喉の奥で冷たいものを感じていた。
不審に思われない程度に、出来るだけお蔦から遠い場所を選びながら同輩達とは笑顔で、どこそこの団子が美味いだの一生懸命に食べ物の話を続けた。
それでも笑っている顔の奥で、これからのことを本当に考えないといけない時が来たのをひしひしと感じていた。
つわりが軽かったこともあって、八文字屋では一生懸命に働いた。
その分始終何か食べていないと気がすまなくなったが、台所仕事をしながら口の中にぽんぽんと何でも放り込んだ。
先のことなどちっとも考えていなかったが、今の今まで子供を流すことなど考えてもいなかった。
それ専門の産婆もいるらしいが、探すとなるとちょっとどうにもならない。
支払うほどの手持ちもないし、仕事の合間にどうこうできることでもなかった。
それに簡単に流してしまえるほどお梅にとってはお腹の子が軽くなかった。
古参のお蔦が帰ってきたことで、手伝いに来ていた近所のおかみさんが、最初からの約束でお暇を貰うことになるだろうが、慣れてきてもうしばらく働きたいようなそぶりも見せている。
今お梅が暇を貰っても誰も困りはしない。
理由などどうとでもつけることが出来る。
ただ、ここを出て行ってもどこにも行く当てはない。
せめて身二つになれば、乳母でもなんでも働くことは出来るかもしれないが、今のままではたちまち腹の子を抱えたまま、飢え死にしてしまうのが落ちだ。
いつまでも働けないのはわかっているが、さりとてその先のことを考えると今はどうすることも出来ない。
ぐるぐると同じところで考えだけが堂々巡りをして、埒があかない。
「お蕗。旦那さんが奥でお呼びだよ」
お蔦の声は冷たく乾いていた。
自分が決めなくても世間が勝手に判断を下すのだろうとその時は、半ば諦めて開き直ってしまった。
あがいたところで溺れるだけだ。
流れに身を任せるしかない。
「お呼びでしょうか」
部屋はもぬけの殻だった。
ちょっと肩透かしを食らったが、部屋の中で待つことにした。
その頃当の八左衛門旦那は店の裏にある仕事場のほうに顔を出していた。
仕事場の中をぐるっと見回すと、松吾に声をかけた。
「松吾。ちょっと長兵衛さんの所へ行ってきてくれないかい」
「へい」
仕事の手を止めた松吾は、旦那の前へ歩み寄った。
「お蕗のことで話があるから、面倒でもちょっと顔を出してもらうように言って、今すぐ連れてきておくれ」
小声で言い足すと、松吾は「へい」と神妙に答えて外へ出て行った。
松吾は妙な胸騒ぎがして、外へ出るなり一足飛びに駆けて行った。
先日長兵衛のところで、いつも遊びに来ている捨と会った。
おかしなことを言うものだから気になって、捨が帰った後に長兵衛に一つ二つ聞いてみた。
すると、お蕗ことお梅は長兵衛の親戚の子でもなんでもないという。
松吾が長兵衛のところで初めて捨とお梅に会ったあの日、突然やって来てその足で八文字屋に奉公に行ったから、全く知らないと言っても間違いではないらしい。
捨の話では、あの日偶然見つけて連れ歩いていただけで、本人から聞いたのは二親は既になくなっており、あの日仕事を止してきたことぐらいしか知らなかった。
それでも、死のうとしていたらしいから、よほどの事情のある娘ではないかと案じていた矢先だった。
何かしら騒ぎが起こったのに違いなかった。
「寛治、ちょっとおいで」
旦那は寛治を隣の部屋に連れて行った。
寛治は長兵衛のところで摺り師の修行をしていたが、この春から八文字屋の抱えの摺り師に納まっていた。
一本立ちするには早いが一通りのことは長兵衛から教わってきたので、話があったときに直ぐに決まった。
丁度そのころ金太と言う新しい弟子も入っており都合が良かった。
それまでは十のころからずっと長兵衛の所で働いてきた男だからお梅について何か知っているものと旦那は思っていた。
「お前、お蕗についてなにか知っているかい」
八左衛門は探るように穏やかに聞いた。
「さあ、長いこと師匠の世話になってますが、お蕗さんのことはとんと存じません」
もしかしたらここに来る前から二人は良い仲になっていたかもしれない。
とぼけているのではないかと、うがった見方も出来る。
「そうかい。お蕗は、そうそう元はなんといったっけ、そうだお梅だが、長兵衛さんの縁の子らしいが、一度ぐらい見たり聞いたりしたことはあるだろう」
「いえ、師匠はあの通り口の重たい方ですから。それに江戸には親類と呼べるものはいないと聞いております。十の時からお世話になっておりますが、そんな話は全く聞いたことはありやせん」
おかしな話だと思った。
まだ若い娘だし、寛治と入れ違いに田舎から出てきたとも考えられる。だとすれば、全くこの八文字屋とは関係ないのかもしれない。
「そうかい。ならいいんだ。仕事に戻っておくれ。まったく、急に注文が入って年内にはやっつけなくちゃならないからね。予定が狂って大変だ。よろしく頼むよ」
返事をして立ち去る寛治は、ちょっと小首をかしげてなにやら不思議そうだったが、仕上げなければいけない仕事を思い出し、仕事場に戻っていった。
八左衛門はこの忙しいときに困ったことだと思った。
お梅はご面相は悪くない、いや十分美人の範疇に入る。
変な面倒になるのは避けたい。
本人に問いただせば済むことで、おっつけ長兵衛も現われる、それでことは納まるだろうと考えた。
奥に戻ると既にお梅が座って待っていた。
「お前、ややが出来とるらしいと聞いたが、本当か」
「はい」
「ここに来て半年もたっとらんが、まさかうちの店の者との子か。正直に話してごらん。場合によっては、わしが間に入って夫婦にしてやらんこともない。このまま大きなったらいつまでも働くわけにもいかんやろ。誰の子や」
お梅はやっぱり暇を出されるのだと思った。
この先どうしたらよいのか、深いため息をついた。
「なに、黙っていては話しにならんだろう。きっちとお話」
それでも、お梅は黙ってうつむいたままだ。
困りきっていたところ、庭の方が急に騒がしくなった。
障子を開き庭を眺めていると、松吾が見知らぬ小僧を捕まえてなにやら騒がしい。
「松吾何やってるんだい」
「へい。何でもございません」
なんでもないとは思えなかったが、今はそれどころでもない。
長兵衛を呼んでくるように言ったのに、どうしたことかと眺めていると、少しおくれて息を切らしながら長兵衛が庭に姿を見せた。
「ああ、長兵衛さん待ってました」
八文字屋の旦那は、救いの神が来たとばかりに座敷に招き入れた。
寡黙な長兵衛のことは承知の上で、ことの仔細をかいつまんで話した。
「まあ、そんなわけだから。うちとしてもお蕗がはっきりしないから手を焼いていたところなんだよ。うちの若い者とどうこうというのでもないようだし、このまま働いてもらうわけにもいかないから。まあ、仕方がないしね。それでかまわないよね」
旦那の念押しに、長兵衛は殊勝にうなづいた。
これで話は決まった。
お梅には暇を与えてこのまま長兵衛に連れ帰ってもらう。
それじゃあと、三人は席を立った。