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家に帰ってから、捨は兄の吉左衛門に平手で思いっきりひっぱたかれた。
奉公を辞めたいと言った事が原因だった。
おろおろとする菊を尻目に吉左衛門は捨を引きずるようにして奥へと消えた。
「本当なら時が来るまでこの話をするつもりはなかった。だが、お前が余りに人の言うことを聞かないから話すんだ」
そんな前置きをして吉左衛門は話し始めた。
青物問屋川西屋の若夫婦与三郎達には子供がない。前に一度身ごもったことはあるのだが、流れてしまった。
それ以来全く子供ができる気配がない。
後二・三年も待てばそれで諦めるしかない。
与三郎は婿養子だ。
一人娘のお静が、手代だった与三郎に惚れて婿にしたいきさつが有る。
先代もまだ元気なら、外に子供を作るわけにもいかない。
向こうさんの親戚には手ごろな子が居ない。
それで捨に白羽の矢がたったのだ。
最初吉左衛門は、捨を大根や牛蒡などを扱う土物問屋に奉公に出そうと考えていた。
それが、与三郎があと何年かしてそれでも子供ができないなら、捨を養子にする考えもある、だから奉公に寄越してくれと言ってきた。
今のところなんともいえないが、嫌になったからと簡単に断れる話ではないと、懇々と言い含めた。
若旦那が出かけるときには、いつも荷物持ちとして着いていったのにも、言われてみればそんなわけがあったのかと納得できた。
「今聴いた話は胸に仕舞って、後三年辛抱しろ。跡継ぎが出来て暇を出されたなら別だが、どうしても嫌なら考えないでもない。その代わり、お前は勘当だ」
勘当されれば無宿人となり、どこにも住まうことも出来ないし、まともな仕事にもありつけない。
選択の余地は全くないということだ。
その場はそれで引き下がった捨だったが、もう、辞めることしか考えていなかった。
お梅に袖にされたから自棄を起こしたわけではない。
江戸の町を行商でもしながら自由に歩き回りたかった。
与三郎に多少気を使ってのこともあったが、話を聞いてみればその逆であることも理解した。
久しぶりに帰った我が家は、菊があれこれと気を使ってご馳走も用意してあったが、のんびりとすることなく、日が高いうちから江戸の町に帰る事にした。
「どうでも嫌になったら帰って来い。どうにかならあ」
と、三吉兄はそっと吉左衛門に知られないように言ってくれた。
いざとなったら竹やぶもあるか。
捨の所業は若旦那にはもたらされていないのか、変わったことは何もなかった。
追い回されるように捨も良く働いた。そして、お使いの帰りなどに長兵衛のところにも顔を出した。
初めて出会ったときの長兵衛は、今にして考えると良く喋ったほうだった。
普段は本当に寡黙である。
無駄口を叩かないどころか、ほとんど貝のように口を閉じたままだ。
それでも捨が行っても邪魔にする気配はない。
長居しようとすると追い返されることもあるのだが、顔を出すこと自体はかまわない様子である。
火鉢を出す頃になって、長兵衛のところで松吾という先にあった版木師に出会った。
長兵衛に比べると、聞けばきちんと答えてくれるため、いろいろなことが知れた。
初めて会った日の長兵衛は、真っ白な紙に何かを塗っていた。
それは礬水と言って膠と明礬を混ぜたものを紙に塗っていたのだ。
摺る前に滲まないように、下準備をしていたところだったらしい。
摺り師の仕事は単に板に墨を塗って紙を貼り付けるだけではない。
幾重もの工程を経なければならない。
それら一つ一つの工程を修行して一人前になるからこそ、職人なのだと思う。
「ところで、お梅は元気か?」
心配していることがやっと聞けそうである。あれから三月経つ。
そのまま行けばもうそろそろお腹が目立ってこないとも限らない。
いくら帯をきつく締めたところで、後は時間の問題だ。
「ああ、元気にやっているよ。もう直ぐお蔦さんも帰ってくるはずだ」
「誰だって」
「ああ、お蔦さんは長年奉公している女中さんで、孫が出来てしばらく休んでいたんだよ。かわりに近くのおかみさんが通いで手伝いに来ていたけれど、若い子ばっかりで大変だったみたいだな。」
「ふーん。それじゃあだいぶ楽になるな。あんまり無理してなきゃいいけど、重たいものとかもたない方がいいと大婆も言ってたしな」
不自然そうな目を捨に向けたのは、松吾だけではなかった。
それでもしばらくすると、追い立てられるように捨は店へ帰った。
「ただいま戻りました」
折り良くお使いを頼まれたお静と行き当たった。
偶然にも触れた手は少し冷たかった。
「若旦那は、奥にいらっしゃいますか」
「ええ、今奥で帳簿をご覧になっているわ」
とことこと奥に進むと襖の前で一つ大きく息を吸った。
「捨です。ただいまよろしいでしょうか」
「なんだい、はいりなさい」
部屋に入ると一人帳簿に目を通しているところらしく、しばらく待つように言われた。
お静が茶を持って入ったのを気に、若旦那がこちらに振り返って、何用か尋ねた。
「出来ればお暇を頂きたいのですが」
意を決して捨は口を開いた。
「何を藪から棒に。何ぞ、あったのか」
「たとい女の子さんでも、跡継ぎには違いありません。跡継ぎが出来れば、私は無用の身、どうかお暇を出してください」
畳に頭を擦り付けて願い出た。
「何を言っているんだい」
意味もわからずしかめっ面の夫と違い、お静は急にもじもじし始めた。
「あなた、あなた、あの私、私ね、月の物が遅れているようなんです」
最後は消え入るように言った。
目の玉をぐるんと一回転させて驚いたのは若旦那だった。
お静の顔と腹とを交互に何度も見て、その手を取った。
お静の方は頬をほんのりと紅く染め夫の手のひらに包まれた手を眺めている。
「間違いないのかい」
「まだはっきり決まったわけではないけど、多分違いないと」
「そうかい、そうかい。良くやったね」
捨を無視した形で、夫婦の話が進んでいく。
「あのう、若旦那」
「なんだい、まだいたのかい。三年辛抱おし。昨日今日来たばかりで一人前の口を聞くもんじゃないよ。さあさ、いつまでも遊んでいないで仕事にお戻り」
畳に手をついてぺこりと頭を下げて出て行った捨の姿など、若旦那たちには全く眼中に入っていなかった。