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未の八ツ半 ~梅の章~  作者:
華のお江戸の川西屋
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3

 捨の二親もとう亡くなっている。

 母のことはほとんど知らず、父親が亡くなったのは冬の寒い朝だった。病の床についており、もういけないことは皆わかっていたのだろう、亡くなる前から親戚が詰めていた。そして、ある朝起きると何かが少し変わっていた。お菊義姉さんに手を引かれ既に冷たくなった父親と顔を合わせた途端、捨は泣き出した。ほとんど一日中父親の布団の端を掴んで泣いていた。そのまま泣きつかれて、次に起きた時はあれほど泣いていたのが嘘のように何時もの捨に戻っていた。


「これから、知り合いのところにちょっと寄って、それから在所に帰るところなんだよ」

 女が黙っているから仕方なしに、捨はあれこれと話し始めた。

 湿っぽい話は何だから、これから行こうとしている、金太のことや、だまされた話など面白おかしく話しだした。


 江戸の町に来るまで、湯屋には一度も来たことがなかった捨だったから、捨を目の敵にしている平手代の嘉助から、けったいなことを教え込まれる。

 湯屋には石榴口といって、湯気が逃げないよう保温もかねて、湯船の入り口の上半分ほどに綺麗な飾りを施した板があるのだが、普通は嵌め込んで動かないその板を潜って入るが、「板が動くから粋な江戸者は頭で押し開けるようにして入る」とたばかれて、そのまま顔面からぶつかったり、「湯船に入るときには、自分の名前を名乗って入らなければならない」といわれて、見ていると確かに「冷えもんでござる」とか、何とか言っているから、つい、だまされる。


 一度だまされると警戒はするのだが、またすぐにまんまとだまされる。

 片っ端から嘘八百を教えられた。

 金太に教えられて頭から火を噴くほど赤面した楽しい話だのに、「ああ。」とか、「そう。」とか、ちっとも面白がる様子もなく、聞いているのかすらわからない。


 話には載ってこないし、つまらない娘と思った。

 それでも、田舎にいた頃に知っているどんな女とも違った。義姉の菊は母のようだったし、その娘の鶴はまだ子供である。

 しかし目の前の娘は年頃の娘であることも、器量が良かったのも、子供から抜け切れていない捨には、珍しくもあり魅力もあった。

 右の目じりの下に小さなほくろが一つ。それが、悲しげな顔に見えたり、年よりも色っぽく見えたりする。


 口は動かしながら、金太に教わった通りに歩いてみると、目指すところはあっけないほど簡単に見つかった。


「あいすいやせん」

 ガラリ戸を開けると、さほど広くもない場所にぽつねんと男が一人座って仕事をしている。

 見たところ、四十は超えているかもしれない。節くれだった指で刷毛を真剣な顔つきで動かしているが、真っ白な紙は真っ白なままだ。

 それでも、入り口の捨に視線を走らせると、次にこちらが何を言うのか待っている様子だ。


「こちらに金太というのが来ていると思うんですが」

 それでも男は口を真一文字に結んだまま緩めることをしない。


「えと、お仕事中に失礼しますが、湯屋でちょいと馴染みになりやして、一言二言言伝がありますが」


「死んだ」

 男がほとんど口を開かずに答えた。

 仕事の邪魔をして機嫌が悪いのは仕方がないが、勝手に殺すのはお門違いだ。

 つい昨日も元気な顔を湯屋で眺めたばかりだ。


 真っ白な紙に刷毛だけ動かして、結局は何も変化がない。

 これが本当に金太が言っていた摺り師の師匠だろうかといぶかしく思えてきた。


「こちらは、摺り師の長兵衛さんのお宅でございましょう。お仕事中にお邪魔をしちゃって申し訳ありません。一言言えば直ぐに帰りますんで。金太は今日、こちらに来ていないんでしょうか」

 捨は馬鹿丁寧に男に言った。


 すると男は真っ白な紙を傍らに置くと、捨の方に歩み寄ってきた。

「摺り師はくっちゃべっる奴に向くような仕事じゃねえ。大事な紙に唾が飛ぶ。奴にもそういったのに、おめえさんみたいによくくっちゃべる餓鬼だった」


「金太は本当に、本当に、死んだんですか」


 長兵衛はこっくりとうなずいた。

「昨日火事でな」


 言われてみれば、昨日の夜遅くに半鐘がなっていた。

 朝になって隣町で火事があったらしいことを聞かされた。

 その昔隣家の火事で店が焼けてこちらに移って来たということを若旦那から聞かされた。


 江戸の町では火事はそう珍しいことでもないらしい。

 奉公に来てから幾度となくあの半鐘の音を聞いている。

 はじめこそ驚いたが、それでも鐘の鳴らし方で、近くないと教えられると、さほど心配することもなくなっていた。

 それだけに昨日は近かったから、飛び起きたがここまで火が廻る心配はないと知らされると安心し、まだ起きるまでには時間があると考えた。

 再び束の間の深い眠りに落ちていった。


「金太一人、火にまかれちまったってことですか」

 長兵衛は首を振った。

「金太の家族もいけなかったんですか」

 長兵衛は首を縦に振った。


 金太は足が悪かった。金太をかばって、それで家族がみんな火にまかれてしまったのだろうか。


 金太は振り売りになりたかったと言っていた。

 それも父親のような魚でなく、違うものが良いと言っていた。

 父親は、いつも同じところを廻っていると言う。少しでも遅くなれば、売りそびれることもあるという。沢山売ろうにも廻れるところも、担げる荷物も限りがある。

 自然に同じところを毎日同じ道順で歩いていくと言う。

 金太の足がもし普通の子供と同じなら、もっといろんなところに廻りたかった。出来ることなら江戸の町を全て廻ってみたい。金太は笑いながらそんなことを言っていた。


 握り締めた手の甲に、ぽたぽたと涙がはじけた。

 長兵衛は捨の隣にしゃがみこむと、ごつごつと節くれだった暖かい右手で捨の右手を握り、左腕を肩から回して背中を優しく叩いてくれた。ありがとう。泣いてくれてありがとうと、言っているように思えた。

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