青染めの狩衣(六)
目を覚ます頃にはすっかり衣も乾いていて、なんなら一夜も明け始めていて、小屋の外では朝焼けで茜に染まる東の空を滝又様が感慨深そうに見つめていた。
「滝又様、白染めできました」
「……あぁ、ありがたい」
干していた竿から衣を外す。
白く染めた狩衣は、茜の空の色を写して赤く見えた。
「滝又様、もう一度言います。白染めは供養の一種です。衣に籠もった念や邪気を清めます。……この衣にあったあなたへの母様からの優しさや、あなたが強く願ったこと、思い。そういったものも、すすいでしまいました」
「……そのようだね。もうあまり、思い出せないや」
ぼんやりと衣を見つめた滝又様は、ちょっとだけ寂しそうに微笑む。
「あたたかったことは覚えているのに、そのあたたかさが何か思い出せない。他にも何か、強く腹立たしいこと、情けないことがあったはずなのに、それも思い出せないんだ」
「それが白染めです。すべてをまっさらに、罪も咎も思い出も全部すくってそそいで、また一からきれいに染められるようにしてあげるんです」
滝又様が少しだけ首を傾げた。
子供のような所作を見ると、初めて見たときの滝又様とは全く違う雰囲気で、私のほうが戸惑っちゃう。
でもこれが白染めなんだって、本当の意味で私もようやく理解したんだと思う。
「滝又様。この衣を着れば、後は行くだけです。まっすぐに、あちらを目指してくださいね。そうしたらきっと、神様が新しいあなたを迎えてくれます」
「そうなのかな」
「はい」
私は、私が示した方へと行ったことがないから本当かどうかは分からない。けれど、これが高鈴山の染め手としての務めだから。
「この高鈴山より霊峰・御岩山へとお渡りください、滝又様。この白妙の衣があなたを導いてくれます」
滝又様がそっと腕を伸ばした。
私は身じろぎしない滝又様へと、染めたての衣を着つけていく。
首を通して、袖を通して、とんぼを止めて、帯を締めて。
真白の狩衣を纏った滝又様はふわりと微笑んだ。
「体が軽い。なぜだろう、次はきっと強い人になれたらと思うんだ。優しいだけじゃない、誰かを守れる強さを持つ人になりたいと」
「……それは大事な染残しです。あなたからそそぎ落ちなかった、大切なものです。大事にしてくださいね」
「あぁ。ありがとう、更紗殿。あなたに感謝と幸いを」
滝又様が微笑んで、消えていく。
歩いていく方を見る限り、自分の行くべき方向がちゃんと見えているみたい。よかった。
滝又様の姿がすっかり見えなくなる頃、キヌがのっそりやってきた。
「逝ったか」
「うん」
「よく頑張ったな」
もふっとキヌが頭をなでてくれる。
なんだろう、どうしてかな。
滝又様と一緒にいたのなんて、ほんの少しなのに。
手の届かないほど遠くへ行ってしまったことを思うと、すごく……すごく、悲しい。
「キヌぅ……」
「あー、泣くな泣くな」
「だってぇ……」
ぐずぐずになった顔を、キヌがもふもふの毛皮でぬぐってくれる。
「更紗、これが正しい別れだ。人を知れば知るほど、別れはつらくなる。特に死別というものは突然で、二度と会えなくなるからな。白染めは死者の未練をすすいでやるのは当然だが、生者からのしがらみもすすいでやるものなんだよ」
「うぅ……じゃあ、あの衣は? あの薄紅の単は? 白染めできないのは、なんで?」
「あれはなぁ……あいつの未練も大きいが、いろんなしがらみがまだ解けきってないんだろうなぁ」
「私のせい……?」
ぼろっと大粒の涙を流せば、キヌが私の涙でしめっちゃった腕をもう一度顔にあててくる。
「きちゃない……」
「お前のせいだろうが、たわけ」
うぅ、ごしごしふかないでぇ。
「さっきの続きだが」
「?」
「薄紅の単が白く染まらないのは、お前のせいじゃない。お前が背負うようなものじゃあ、ほんとはないんだ。だがお前が高鈴山の染め手として白染めを継いだ以上は、あいつも染めてやらないとな」
「……どうすればいいの?」
「そうだな。ようやく白染めができたお前なら、分かるんじゃないのか?」
キヌのちっちゃいお目々が、私を見下ろした。
朝焼けの茜色が、キヌの白い毛皮を薄紅に染めている。
どうすれば、白染めができるのか。
あの薄紅にこめられた強い想いを、白く染め上げるには。
「……未練を、探す?」
キヌはうなずくのも、首をふるのもしなかった。
そのかわりに、よくできましたって言うように頭をぽんぽんと撫でてくれる。
「薄紅色の未練……母様が私に残してくれたもの」
先代の染め手だった母様が私に残してくれたのは、あの薄紅の単とそして歌。
朝焼けに向かって、そぅっと口ずさむ。
「きなりすすぐはきよかわに―――」
生成りの布を清川で洗って、恨みつらみをすすぎましょう。
布を洗うための、たった十もの夜明けがひどく待ち遠しい。
夢に見た、ぐらぐらと心を揺さぶるような迷いには灰を撒いて隠してしまって。
沈んでいく儚いもので衣をつくりましょう。
衣を叩いて洗う声が、機織りの音と共に明け方に聞こえてきます。
二人の声が長く編まれた縦糸と横糸のように交わって、響いて、消えていきます。
その様は故郷の母を思い出させますね。
こうして仕上がった衣は真っ白で、貴方と私の間にあった関係も過ちも、すべてを忘れてしまうことでしょう。
白染めの歌を口ずさみながら、キヌと一緒に日が昇りだした東の空を見あげる。
神々の住まう霊峰よりも東にある高鈴山の朝は、神々よりも少しだけ早くて。
キヌがぎゅっとしてくれるから、心が温かくなって、悲しい気持ちもどこかに溶けていく。
後に残ったのは、白染めができた実感と、薄紅の単へ募る想い。
いつか、いつかきっと、白染めしてあげたい。
そのために私は、母様の想いを探そう。
ふと、下総国に行ったときに出会った、墨染めの直垂を纏った白い人を思い出す。
人のキヌ。あの人にももう一度会えるかな。
私が高鈴山の鳥居をくぐるのを見送ってくれて、そこからどこに行ってしまったのかはわからないけれど。
また会ってみたい。
あのぬくもりは、熊のキヌと同じくらい温かったから。
「ねぇ、キヌ」
「なんだ」
「また、山を降りてもいいかな」
「どうしてだ?」
「母様の未練探しをしたいから」
「言うと思った。だがしばらくはだめだ」
「えー、なんで?」
「お前はもう少し常識を身につけろ。……根をあげて帰ってくると思ったのに、そのまま下総国まで行こうとするとは思わなかったぞ」
「えへへ、ごめんなさい?」
笑って謝れば、キヌはふかぁくため息をついた。
でも私はまた行くよ。
母様の、未練を探しに行くよ。
そうしてきっと、一人前の染め手になってみせるんだ。
【青染めの衣 おしまい】
ここまでお読みくださりありがとうございました!
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元々こんなにすぐに作品を掲載する予定のなかった作品でしたので、一度完結設定にいたしますが、のんびりと次章以降も書いていこうと思います。
その時はまたお会いできると嬉しいです。
ではまた。




