青染めの狩衣(五)
お日様燦々、お水もすっきり清らか。
私は盥に冷たい川のお水を汲んで青染めの衣をひたすと、そっと足を差し入れる。
つめた〜い。
それでも足首まで水にひたすと、薄色の単の裾をつまんで盥の水を蹴る。
ふみふみ。
ふみふみ。
一生懸命ふみふみしていれば、じんわりとお水の色も変わっていく。
とはいえ、まだまだ序の口です。
いつものように歌を歌いながらふみふみしていると、ふわっと人の気配がした。
ふよっと視線を足元から上げてみれば、にっこり笑う滝又様。
「滝又様、こんにちわ」
「更紗殿、こんにちわ」
ふみふみしながら挨拶すれば、滝又様も挨拶してくれる。
うんうん、やっぱり挨拶は大事だよね!
「滝又様っていつもどこにいるの? ふわっといなくなって、ふらっと来るけど」
「どこ……どこだろう? まるで夢現のようで、気がつくとここにいるんです」
そっかぁ。
下総の国府で会った人は滝又様が義行様を祟ってるって言っていたけど……これじゃあ本当に祟っているのかどうかも分からないや。
青染めの衣をふみふみしていると、滝又様がじっと私を見つめてくる。
「……白染めは、いつ頃できそうですか」
「まだかかりそう。十日のすすぎは今日で終わりだけど、次は灰を煮るの」
「灰を?」
「そうだよ。木の灰と、塩の灰と、思い出の灰。この三つを溶かして煮詰めてできた灰汁で、衣を煮るんだ」
そうすると、布を染めていた彩りは落ちていく。
記憶と一緒に落ちていく。
「滝又様、今夜、思い出の灰を作ろう」
「灰を作る……?」
「簡単。滝又様のこの世に残しておけないものを燃やすだけ」
「この世に残しておけないもの……?」
ふみふみしていた足を止める。
ふぅ、ちょっと疲れちゃった。
盥から出た私は、滝又様を見上げた。
「滝又様の母様からのお手紙、預かってきたんだ」
滝又様が大きく目を見開いた。
「どうしてそんなものが……一体誰が」
「あっ、名前聞くの忘れちゃった……ごめんなさい」
「いや……あぁ、でも。こんなお節介するのはあいつくらいだろうな」
滝又様が眩しそうに目を細めた。
滝又様には、それが誰か分かるんだ。
そしてそれはたぶん、合っていて。
だって、私が会ったあの人も、心から滝又様のことを偲んでいた。だからその名前を出しちゃいけないって言いながらも、怪しい私たちに色々と教えてくれたんだ。
それくらい親しかった人がいたのに、その人には何も相談できないまま、滝又様は一人で悩んで、苦しんで、今ここにいる。
なんだか、それってすごく寂しい。
「滝又様、ごめんね」
「どうしたんですか、更紗殿」
「私、下総国まで行ったんだ」
「そうでしたか。だから昨日は留守だったのですね。ここも素敵ですが、下総も負けず劣らず、のどかでいいところでしょう?」
滝又様が穏やかに笑うのが、ちょっとだけ苦しい。
私は下総国がどれくらいいいところなのかは滝又様ほど知ってるわけじゃない。
だけど滝又様が、心の底からそう思っているのかどうかを疑ってしまうくらいには、滝又様のその死に際が可哀想すぎた。
「滝又様は、下総守を恨んでいますか」
「いいえ」
「滝又様は、平維良様を恨んでいますか」
「いいえ」
「ではなぜ下総守を祟るのですか」
「祟ってなど……」
たぶん、否定しようとしたんだと思う。
だけど滝又様はその口を閉じてしまった。
それからゆっくりとまばたきを繰り返して、困ったように笑った。
「祟ってないと、思いたいだけなのかも。おれは、思ったより芯のない人間です。学もないから善悪がどうあるべきかも分からない。義行様は税の取り立てを厳しく行われたが、義行様が取り立てた税の一部はおれたちの懐に入る。取り立てねば、おれたちが飢え死にしてしまうことを知っておられた。けれど、それと同じくらいに村の困窮もひどかった。それを目にして、見て見ぬ振りをする義行様がなんとも薄情に思えたんだ。……主人に忠義を誓っていたはずなのになぁ。その恩恵を頂いていたはずなのになぁ」
まるでひとり言のようだけれど、それはちゃんと私の耳に届いた。
後悔は先に立たないとはよく言ったもので、今の滝又様はその言葉を噛みしめているみたい。
なら、なおさら。
「滝又様、文を書きませんか」
「文? 一体誰へ?」
「母様に。下総守に。あなたがお節介だって言う人に。それから自分にも。もし生まれ変わったら、同じような過ちを繰り返さぬように、あの世へ一緒に、あなたの後悔もそそいでしまいましょう」
盥から青染めの衣を出して、広げて、私はその隙間からにっこり笑った。
滝又様は私と目が合うと、ゆるりと眉尻がさがる。
「それはいいかもしれないね」
滝又様が淡く微笑んだ。
かさりかさりと紙の音がする。
夜の帳がおりきった白い小屋の前で、私とキヌ、滝又様が円になって焚き火をした。
ちょっと夜風が肌寒くてふるりと震えれば、キヌがもふっと私を抱っこしてくれる。ふふ、あったかーい。
そんな私たちの前では、滝又様が文箱から一つ一つ丁寧に文を取り出しては、じっとその文を読んでいた。
そして読み終えたものから、焚き火の中へ。
たまに躊躇うように文を握りしめるけど、手に持つ文は全て焚き火に差し入れられていく。
滝又様が文を読むうちに、ぽろぽろと涙をこぼしだす。
滝又様が親しい人に贈られた言葉や、自分で綴った言葉に何を思っているのかは、私にはわならない。
苦しいのか、嬉しいのか、悲しいのか、懐かしいのか。
でも滝又様は一度も手を止めることなく、文を読み続けた。
私とキヌはそれを見守るだけ。
満天の星の下で、滝又様は未練を指折り数えては、次々と炎の中に放っていく。
最後の一枚を手に取ると、滝又様はまるで自分の中に刻み込むように、その文をじっくりと長い時間をかけて読んだ。
それもとうとう、火の中へ。
文箱の中身を燃やし尽くしてしまう頃には、滝又様の姿は消えていた。
なんとなく、滝又様が最後の未練に向き合いに行ってしまったんだと感じた。
さあ、その間に私は、私のやるべきことを。
ここからが、私の仕事!
紫がかってきた朝日を背に灰をかき集めて、小屋の作業場へと戻る。
作り置いている木の灰と塩の灰、それからたった今燃えたばかりの、思い出の灰。
その三つを水と一緒に鍋にかけて、ぐつぐつと煮立たせる。
そうしてできた灰汁をすくって別の鍋にそそぐと、その中に青染めの狩衣を浸した。
一日煮詰めて、盥で洗い、また煮詰めて、盥で洗う。
三日三晩、煮詰めては洗ってを繰り返す。
そうすると、自分でもびっくりするくらい、青の染めが落ちてしまった。
「こんなにも白くなるものなんだ……」
淡く残る青染めの名残りに、私は不思議な気持ちになる。
寝不足で倒れそうになりながらも、もう一度丁寧に洗って、とうとう真っ白にしてしまう。
そうして最後、「たらちねの瓷」へと衣を入れて、蓋をした。大層な名前で呼ぶけれど、中身は牛の乳といくつかの薬草と、特別な顔料。これに一日浸して白く染めあげる。
そうして染め上げた衣を丁寧に洗ってやれば、生成りよりも白くて、絹よりも温かみのある、白染めの衣のできあがり。
優しいお日様の下、切り拓かれた山の中腹で白妙の衣を干した。
澄み渡った青空に、はたはたと白い衣がはためく。
やったー、できたぁー。
ほうっと一息つくと、ふらっと身体が傾いた。
うぅ、ねむい……。
「よくやったな、更紗。寝ていいぞ」
「うん……」
ぽすんと後ろに倒れそうになるのを、キヌが支えてくれた。
もふもふであったかい。
キヌが甘やかしてくれるのは珍しいから、そのままキヌに抱きついた。
キヌの大きな腕が私を包んでくれる。
かんばったから、ちょっとだけお休み。
これで滝又様も、胸を張ってあの世にいけるかな。
そうだと、いいな。