青染めの狩衣(ニ)
さらさらと流れる清水に、青染めの狩衣がゆらいで泳ぐ。
その横を青々とした楓の葉が流れていったけど、青染めの衣は袖に通した竿のおかげで葉っぱのように流れてはいかない。
私はお日様の光をいーっぱい浴びながら、きらきらとまぶしい川に目を凝らして、大きな岩にちょこんと座っていた。
あ、岩魚がいる。捕まえてご飯にしようかな。
でも、ここでの殺生はだめだってキヌに言われてるしなぁ。……もうちょっと川下なら、いいかな?
うんうん唸りながらすいすぃ〜っと泳いでいる岩魚をねつらっていると、頭上がかげった。
「こんにちわ。更紗殿」
「こんにちわ。滝又様」
見上げれば、穏やかな笑みを浮かべた滝又様。
「これは今、何をしているのですか?」
「衣を洗ってます。きれいなお水に十日さらすの。そうすると色が落ちやすくなるんだ」
「なるほど」
興味深そうにうなずいた滝又様は、そうっと私の隣に腰を降ろして、川に流れる青染めの狩衣を見つめた。
滝又様から受け取った青染めの狩衣を水にさらし始めて、早三日。
キヌが半ば強引に白染めを引き受けてしまったから、私はこうして白染めを始めてみたわけなんだけど。
「先は長そうですね」
「まぁねぇ。でも洗うだけじゃなくて、染めもしないとだから、もっと時間かかる。それこそ一月、半年、一年、もっともっと時間がかかっちゃうかもしれない」
「そうですか……それは困ったな」
ちょっと苦笑いする滝又様。
私だって困った顔したいよぅ。
白染めの大変さは、私がよく知ってる。
だって、私はもう何度も白染めをしてるけど、白染めができた例はないんだから。
だから正直、キヌが滝又様のお話を引き受けたのにびっくりしちゃった。
「滝又様。やっぱり今からでも、法師とか陰陽師を頼ったほうがいいんじゃないかな。キヌが言ってたけど、魂魄だけの状態でいるのって、あんまり良くないんだって」
「ご心配ありがとうございます。ですが彼らは術を唱えるだけで、俺の心残りを晴らしてくれるわけじゃないんです。だからこうして尋ねてきたのですよ」
滝又様の心残り。
それがあるから、白染めをしにきたの?
私にとっては法師も陰陽師も白染めも、全部同じだから分かんない。
法師はあるべきものをあるべき場所に。
陰陽師は邪道を正道に。
白染めは染められたものをまっさらに。
供養の方法が違うだけで、行き着く先は全部同じだと思うんだけどなぁ。
でもそんなことは滝又様には言えないから、私はてきとうに相づちを打つだけ。
二人でしばらく、川に流れる青染めの狩衣を見た。
せせらぐ川音が耳に気持ちいい。
「滝又様。滝又様の母様ってどんな人?」
「母ですか?」
「母様の染めだって聞いたから」
親不孝を気にするくらいだから、滝又様にとっていい母様だったんだと思う。
そしてきっと、その心残りもそれなんじゃないのかなってなんとなく思っただけ。
岩魚と泳ぐ青染めの衣を見ていると、訥々と滝又様が教えてくれる。
「とても優しい母でしたよ。生まれは下総国で、父に見初められて京の都に居を移したそうです。父は他に妻がいたようで俺が物心つくころにはもうとんと顔を出さなくなってしまいましたが、母は故郷でそうしていたように都の内でも手慰みに衣を染めては、父の訪れをのんびりと待っているような人でした」
そっかあ。のんびりとした人っていうのは納得。だって滝又様もおっとりしてるっていうか、なんとなーくそばにいて居心地のいい雰囲気のある人だもん。
「主人が下総国の国司として赴任すると聞いたとき、その随身として名乗りを上げたのは、母の故郷をこの目で見てみたいと思ったからでした。ですが……」
そこで滝又様は言葉を止めた。
なんだろう?
そっとその横顔を伺ってみれば、剣呑とした眼差しで滝又様は青染めの衣を睨んでいた。
これはちょっと良くない気がする。
私はぱっと立ち上がると、滝又様から青染めの衣を隠すように身を乗り出してみた。
「滝又様、一緒に岩魚を捕まえましょう!」
「えっ、岩魚、ですか?」
「私のお夕飯です! どうせ日がな一日衣をさらしてるだけなので、退屈しのぎに付き合ってください!」
おいでおいでって、滝又様を誘ってみた。
滝又様はちょっぴりどうしようか考えてたみたいだけど、でもすぐににこやかに笑って私と一緒についてきてくれた。
青染めの衣をそのままに川を下って、いつも魚を捕るところまで来ると、滝又様と一緒に岩魚をとった。
私は薄色の単をたくし上げて、滝又様は指貫袴を膝上までくくりあげて、二人でぱしゃぱしゃ水をはねさせて、岩魚を捕まえた。
うんうん、こうしていると滝又様はすごく優しい人だってわかるよ。
私が石に足を取られて転びそうになったら体を支えてくれるし、単の裾が水に浸かりそうになったら教えてくれるし。キヌなら私が転んで泣いても自業自得の一言だし、衣が濡れても風邪引く前に着替えろよって言うだけだもん。
だから私はどうにかしないとって思っちゃった。
白染め、してあげたい。
こんな優しい人が、優しい母様の衣を睨みつけていた理由。
それが本当の滝又様の心残りで、白染めが供養というのなら、私はそれをすすいであげないと。
でもそのための方法がわかんない。
ただ衣を染めるだけじゃ、だめな気がする。
後でキヌに聞いてみよう。
キヌは物知りだから、何か教えてくれるかも。
うんうん、そうしよう。それがいいかも!
私は元気よくはねた岩魚を捕まえて、滝又様と笑いあった。
さっそく捕まえた岩魚をキヌのところに持っていったら、キヌは機嫌よく岩魚を捌いて、串に刺して焼いてくれた。
キヌはお魚好きだもんね!
「あれ? 滝又様がいない」
「またか。ほっとけ」
滝又様は気がつくといなくなる。
またひょっこり現れるから気にするなってキヌは言うけど、それまでいた人が急にいなくなるのは、いつまで経っても慣れないや。
「魂魄はどこにでも簡単に飛んでいってしまう。それこそ未練のあるもののところにな」
「でも未練って言うなら、あの青染めの狩衣が未練なんじゃないの? わざわざ私のところに持ってきたんだよ?」
「滝又という男の未練はあの青染めだけじゃないってことだ」
そんな二つも三つも心残りがあるなら、私の白染めって意味あるのかな?
むぅと唇を尖らせていれば、キヌはもふっとしたお手で頭を撫でてくれた。
「今のお前にゃ難しいだろうが……いずれ分かるさ」
「むぅ……じゃあさ、あの薄紅の単が白くならないのも、心残りがたくさんあるから?」
「……どうだかな」
キヌはきゅっと眉間の間にしわを寄せて、黙っちゃった。こうなるとキヌはなーんにも教えてくれなくなっちゃう。言いたいことがあるなら、言ってくれればいいのに。
もふもふからぐりぐりっとかき混ぜられるように私の頭を撫でて、キヌは岩魚を大きな葉っぱの上に乗せる。私はその横で姫飯を椀によそった。
さてご飯!
土間から上がって円座に腰を下ろせば、その向かいにキヌものっしりと座る。
香ばしい岩魚にはキヌがお塩を振ってくれたから、皮はちょっとしょっぱい。でもそれが美味しい。
今日も美味しいご飯でしあわせー!
「更紗、さっきの話だが。白染めも染めの一つであることを忘れるな」
「んむ?」
「青染めも、白染めも、同じ染めだ。いいか、憑き物落としとはちと違う。それを実感しろ」
「んんむ?」
「その顔は分かってねぇって顔だな」
呆れたようにキヌが言うけど、キヌが難しいこと言うのが悪くなーい?
岩魚の尻尾をかじりつつキヌを見ていれば、キヌが器用に箸を使って姫飯を食べる。
それを見ながらふと、思った。
「明日、麓に降りてみてもいい?」
「あぁ? なんでまた」
「滝又様の未練を探してみたい。川での清めには後七日あるし」
キヌは箸を置くと、そのもふっとした白い腕を組んでぐるるると唸りだした。
えー、そんなに悩むこと?
「キヌ、だめ?」
「未練を探しに行くと言うが、どこまで行くつもりだ」
「んー、とりあえず、最後に滝又様がいたところ」
「やめといた方がいいと思うがな」
「なんで?」
「滝又のいたところは確実に人里だろうが。お前、そんな人がたくさんいるところ行けると思うのか?」
うっ、それを言われるとちょっと不安になる……。
じとっと半眼で言うキヌの言うことはもっともで、人と関わることなんてほとんどないから怖いのが本音だけど……。
「でも、行かなきゃいけないと思う。滝又様は心残りを晴らしてほしいって言ってたから」
「……まぁいい。これも学びだ。いいか、自分で行きたいって言った以上、泣きべそかくんじゃねぇぞ。無茶だと思ったらすぐに帰ってこい」
「はーい! キヌありがとう! 留守の間、青染めの衣みといてね!」
「……おー」
なんとなくお返事に間があった気もするけど、お許しはくれたから万事問題なし!
ちょっと不安だけど、でも、ちょっとした期待もあるよ。
滝又様に次会ったら、最後にいた場所を聞いてみよう。
できれば案内してもらえるのが一番だけど……ふらっと居なくなっちゃうから、難しいかもしれない。
キヌは夕餉が終わったあとも何か考えるような素振りを見せていたけど、私はそんなキヌを尻目に、明日に備えて床へとついた。