青染めの狩衣(一)
―――生成りすすぐは清川に
十日の曙光 待ち過ぐす
わきかえる夢に灰をまき
しずむ泡沫 衣を結ぶ
はたぐの唄はあけぼのに
経も緯も すそひいて
たらちねの母を思ひいづ
きぬぎぬの綾 白妙なりき―――
今日は気分がとってもいいし、お天気もいいし、なんならお水もすっきり清らか。
私は川から汲み取った水を盥に注いで、その中に沈めた薄紅の単をふみふみする。
ふみふみ。
ふみふみ。
ひたすらふみふみするのも飽きがくるから、ちょっと歌も歌ってみたりして。
そのうちに盥の水がじんわりと赤く染まりだす。
今日は一日、このふみふみが私のお仕事です!
私は額の汗を拭って盥から出ると、薄紅の単を近くの岩場に置いて、盥をひっくり返した。
さぁ、まだまだこれから!
「おい、更紗」
「んにゃ? どうしたの、キヌ」
川端に座って盥にお水を汲んでいると、背中越しに声をかけられる。
ぐぃーっと首をめぐらせれば、ずうぅんと大きな白い熊。
白い毛並みは綿のようにふわふわ。胸にだけ三日月のような黒い模様が入っていて、私の頭四つ分くらい背が高い。
そんな熊にへらりと笑いかければ、熊は大きな口をぐわりと開いた。
「どうした、じゃないわたわけ! 小屋を空けるなら声をかけていけと言っただろうが! 人が来たら面倒だろうと何度言えばわかる!!」
「ごめんて。でもさ、こんな山奥に人なんてめったに来ないしさぁ、大丈夫じゃない?」
「そのめったに来ん客が来とるんだ馬鹿者!」
「ありゃま」
こんな山奥にまで人が訪ねてくるなんて珍しい。
それなら早く帰らないとだね?
まだふみふみが足りない薄紅の単を盥の中に放って、盥ごとキヌに持ってもらう。
キヌは薄紅の単を持つのを嫌がったけど、早く山を下りたいからってお願いすれば渋々持ってくれた。
そんなキヌの隣に並んで歩き出す。
「それでお客さんって?」
「ずいぶん襤褸を着ていたが、元は良さげな染めだったぞ」
「私より綺麗?」
「思い上がるなひよっこが」
「手厳しくなーい??」
ぐだぐだ話をしながらキヌと二人で山道を下って行くと、山の中腹の開けた場所に、ちんまりとした小屋が見えてきた。
小屋はこの辺りでは珍しい白い木で建てられていて、そばには今朝方に干したばかりの白妙の衣がはたはたとはためいている。その小屋の向こうには青い空に白い雲がかかり、私の隣を見れば白い熊。
うん、どこを見ても真っ白。
そしてそんなことを思っている私もまた、肌も髪も真っ白だったり。
私の着ている薄色の単だけが、私の持つ惟一の色かも。
こんな俗世から切り離された白い山の佳景にやって来た奇特な御仁とは、はてさて。
「あ、おかえりなさい」
小屋の戸を開くと、萌黄の水干がよく似合う若い男の人が、板間の円座でくつろいでいた。
この人がお客さんだね?
「ごめんなさい、すぐに片付けるので、もう少しだけ待っててください」
「大丈夫です。先触れもなくお訪ねしたこちらに非があるので」
そう言って申し訳なさそうに笑うお客さん。
優しそうな人で良かった〜!
キヌから盥を受け取って、土間の奥にある作業場に行く。私が片付けをしている間、キヌは大きな体で器用に白湯を淹れてくれたみたい。戻ってきた時にはお客さんが大変恐縮した様子で頭を下げていた。気の利く熊、よきよきです。
「キヌ、ありがとー」
「おう」
板間に上がってキヌから白湯を受け取って、ほっと一息。
はぁー、落ちつくぅ。
「更紗、お前はここ」
「んふ」
喉を潤していたら、キヌが私をお膝の上に乗せてくれた。
わーい、キヌのお膝!
もっふもふ。
この小屋って狭いから、お客さんがくるとキヌが座る場所がなくなるんだよね〜。
ご機嫌でキヌのお膝におさまれば、お客さんは私とキヌを二度見、三度見くらいした。すんごい見るね?
「なぁに?」
「い、いえ……。それよりも挨拶もなしに上がりこんでしまい申し訳ない」
改めて挨拶をさせてほしいと言ったお客さんは、背筋をしゃんと伸ばすと、まっすぐに私を見てくれた。
「俺は下総守宮道義行様にお仕えしていた、滝又と申す者です。どうぞ、滝又とお呼びください」
丁寧な挨拶に感動する。
人とお話することなんてめったにないから、ちょっと照れちゃうね!
「ご挨拶ありがとう。私は更紗。こっちはキヌです」
私も挨拶を返して、キヌも紹介してあげる。キヌはもふっとした右手を軽く上げて挨拶。
滝又様が関心した様子で私とキヌを見比べる。
「それにしても、噂は本当だったのですね」
「噂?」
「はい。常陸国の高鈴山には瑞獣様と……変わり者の染手がいると聞いていたものですから」
瑞獣はもしかしなくともキヌのこと。
染手も、この高鈴山で生業にしているのは私だけ。
でも、変わり者っていうのはさぁ。
「私が白子なことかな?」
滝又様はぎょっと驚いたような顔になるけど、別に私は気にしてないよ?
私はちょんっと自分の白い髪をつまむ。
国津罪だっけ。白く生まれてきた子は生まれながら罪を背負っているらしくて、縁起が悪いものらしい。実際、過去に私のこの姿を見ただけで唾はいて山を下りる人だっていたからさ。
「滝又様もそういうの、気にする御方? この山の染手は私しかいないから、任せるの不安だっていうなら別の染手を探したほうがいいです」
はい、と手のひらを入り口の戸の方へと向ける。
すると滝又様はぶんぶんと首やら手やらを振った。
あれ? 思ってたのと違う反応。
「とんでもない。俺は学もなく、難しいことはよく分かりません。それに今の俺が更紗殿を非難することはできませんよ」
「そう?」
「そうです。ですよね、キヌ様」
「人間だったわりにはよく分かってるじゃねぇか」
キヌも満足そうにうなずいてる。
そっか、滝又様が気にしないのならいいよ。
「それじゃあ滝又様、私にどんなご用事? 染手をお探しなら一つしかないと思うけどさ」
「はい。お察しの通り、染手である更紗殿にこちらの衣を染めていただきたくて参った次第です」
肩から力を抜いてゆったりとした所作で滝又様が差し出したのは、一つの小包。
包みをほどけば、中からは立派な青染めの衣が出てくる。
花が散ってしまった後に芽吹く、夏に鮮やかな青葉のような瑞々しい青。広げてみれば狩衣の形をしていて、縫い目を見れば一針一針が細かく丁寧な手仕事だ。
「夏や秋の襲にとても合いそう。染めも均等で色むらもない、丁寧な染物だね」
これはなかなかの名手が染めたのでは!
ほうほうと感心していれば、滝又様がおもむろに言葉を添えた。
「その衣は、主人の赴任に随従した際に故郷の母から贈られた大切なものなのですが……俺はもう、これを着る資格がありません。そこで親不孝をしてしまった俺が惟一できる孝行だと思い、白染めをしていただきたく思うのです」
白染め、という言葉に私の背筋が伸びる。
滝又様は、その意味を知っているのかな?
「滝又様、この衣に白染めをするの? 失礼かもだけど、私の白染めは普通の染めとは違いますよ?」
「はい。全て承知の上です」
滝又様の決意は固そうで、私は困ってしまってキヌを見上げた。
キヌはじっと滝又様を見ていたけれど、そのうちおもむろに口を開いた。
「その衣だが、白染めした後はどうするつもりだ」
「もちろん、俺が着ますよ。俺のものなので」
「……着た後はどうする」
困ったように肩をすくめる滝又様は、その意味をきちんと理解してるのかもしれない。
それなら、私達がとやかく言うことじゃないのかもしれない……んだけど。
「高鈴山の白染めは、供養の一種です。衣に籠められた念や邪気も清めます。その衣を着れば、あなたの魂魄も清められ、黄泉への道すがら、すべての思い出も忘れてしまうよ」
「そうあって欲しいのです。道理から外れてしまった俺が浄土に行くにはそれしかないと思いますので」
屈託なく笑う滝又様。
その笑顔が眩しくて、私はキヌの手をぎゅっと掴んだ。
この高鈴山は不思議な山だ。
隣には神々が住まう霊峰があるのに、私が住む高鈴山には一柱とて神が祀られていない。
それは滝又様のような迷える死者や、私のように生来罪を背負う者、それからキヌのような物の怪の類いのように、天地から排他されたものが集いやすいからだとキヌは言う。
それらを篩にかけるのが、高鈴山の白染め。
現の雑念で染められたものを、白く染め直すことで、お隣の霊峰への橋渡しをしてあげられるんだって。
そして私が、その白染めを継承した高鈴山の染手なんだけど―――。
脳裏に浮かぶは薄紅の単。
あの呪われた薄紅を白くできない私は、あの薄紅の衣の持ち主を未だ供養してあげられていない。
そんな私が、滝又様の衣を白染めできるのかな。
先代の染手のように、私はまだ一度も正道の白染めができたことはなくて。
どうしよう、キヌ。
私にできる?
助けを求めてキヌを見上げれば。
「分かって来たんなら上等だ。存分に染めてやれ、更紗」
ちょ、軽く引き受けちゃったよこの熊ぁ!!