宿屋でキレる
「ただいまー、お姉ちゃんいるー?」
テーブルと椅子が並ぶ広い部屋の中にクロの元気な声が響く。
少し時間があって、奥のほうからクロと同じ赤髪をポニーテールのように束ねた少女が現れた。
俺の姿を確認して、両手に持った荷物を近くのテーブルに置く。
「おかえりなさい、クロ。そちらの方は?」
「お客さんだよ。タモヒサっていうらしい」
「あら、わざわざこんな所までありがとうございます。私はクロの姉のサフランと言います。長ければランと呼んでください」
深々とした一礼に、思わず俺も礼を返した。
柔らかい笑みと落ち着いた語り口。顔はクロと似通っているのに、やっぱりお姉さんなんだなと感じさせるような大人びた雰囲気がある。
クロがランに歩み寄って何かを耳打ちしているその光景を見ると、よりその印象が強くなった。
「お姉ちゃんはタモヒサを案内してあげてよ、私はちょっと裏に行くから」
「そうね。ご案内します」
ランは奥の階段を指し俺を先導する。ちらちとクロの方を見ながらも、その背中に続いた。
階段が折り返しに入った辺りで、一階の様子が完全に見えなくなる。
「クロとは森で会ったのですか?」
振り向くことなく問われる。
「はい」
「もしかして、危ないところを助けていただいたのではないですか?」
「それは」
いまいちどう答えていいかわからず、一度言葉が切れる。そこで、ちょうど都合のいい伝言を貰っていたのを思い出した。
「危ないところだったのはそうですけど、助けたのは俺じゃないです。アスカっていう奴がバケモノから助けてくれました」
「魔物に襲われたことには、違いないのですね。腕を怪我していると聞きましたが」
「もう大丈夫です。大した怪我ではないですから、もう治ってます」
「そう、ですか」
返ってくる言葉に元気はない。それもそうだ。俺やアスカが助けに来ていなければ、クロは今頃どうなっていたかわからない。
思い返すと、先ほどまでのクロの元気も無理をしていたのかもしれない。ランに無駄な心配をかけさせないために。
「すみません。タモヒサさんのお部屋はこちらになります。外に出られる際はお声かけください」
おそらく一番良い部屋に案内されたのだろう。余裕のある広々とした作りと大きなベッドからなんとなくわかる。
「えっと、実はお金を持ってないんですけど、いいんですか?」
「さっきの話が本当でしたら、お代なんていただけませんよ。一階にある小さなドアから出てすぐに水浴び場がありますから、ご利用ください。包帯などが必要でしたらすぐにお持ちします」
「本当にもう、大丈夫ですよ」
「わかりました」
それでは、と言ってランは部屋から下がっていった。嘘は言ってないが、正直俺はなんもやってないのにうまい汁だけすすれている感じが否めない。
まぁ、ここを出たところで行く当てはない。お言葉に甘えるとしよう。
「さて、どうするかね」
近くにあった机の椅子に座り込み、これからどうするかを考える。整理するような荷物もない。というかここまで手ぶらで来ている。
体感数分ぐらいそうしていたが、まるでいい考えは浮かばなかった。
こういう時は一度さっぱりしたほうがいいな、と部屋を出て水浴び場を目指した。
ランの言う通り、一階の奥の方に小さなドアと案内の看板があったので、それに従って外に出る。
「あ」
「え」
そこに、上半身が裸のクロがいた。
ごしごしと念入りに体を洗っていた途中だったようで、見つめ合った状態でお互い固まる。
「いや、その、なんだ」
綺麗な体をしていた。
きめの細かい肌が作る、美しい曲線のくびれを水のしずくがなぞる。程よく膨らんだ胸の下にはうっすらとあばらが浮いていた。
よほど強くこすったのだろう、両腕だけに赤い布の跡がついている。
いや、腕だけじゃないな。次第に顔も赤くなっていった。
「悪かった」
「……いえ、ごめんなさい。あなたは腕を冷やさなきゃだもの、ここに来るのは当然よね」
「そいつはもう治ってるん、だけ、ど」
予想以上に普通の調子で淡々と言葉を返し、クロは扉の奥に消える。
だが次の瞬間、ドタバタと激しく暴れるような音が聞こえた。ランのクロを叱るような声が、壁を突き抜けてこっちにまで届いてくる。
「悪いことしたなぁ、マジで」
ぼやきながら、先ほどの光景を脳裏に焼き付けた。
これは一生洗い落とさないようにしよう。つってな。