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ふくろう

作者: 寺西清隆

 どこにでもころがっている飲み屋の話です。

 あえて、書きっぱなしでいきます。

 よそ行きの顔でなくても、いいかなと。

 多々、読みづらい点は、ご容赦を。

   その一


 若かりし時の話である。


 二十六歳の私は、各駅の私鉄電車にゆられ、目を閉じた。


「こんなことは言いたくないけどな、おまえのためを思って言うんだぞ。一回しか言わないからな」

 喫茶店での監督は、いつもと違っていた。

「おまえは、もう、助監督でも助手でも何でもない。今日でおつかれだ」

「……」

 私は、うなだれ、返す言葉もない。

「……そうは言っても、こんな話を突然聞いたら、おまえだって困るよな。そう思って、次の仕事は用意してある。やりたきゃやったっていいし、いやなら、やらなくたっていい」

 その声に、あわれみはなかった。私が、映画という仕事にむかなかったのだ。

 監督は、手書きの地図と部屋の鍵を投げてよこし、仕事の説明を手短にすませた。


 地図にしるされた場所は駅からそんなに遠くはなかった。窮屈そうに年増女がおさまるカラーラボの隣りに、目指すテナントビルがあった。塗装の剥げ落ちた非常階段は、錆びていたが、人が上がり下りするのになんら支障はなかった。秋の西日が、二階の廊下をかすかに照らした。黒光りがする木製のドアには『閉店』のり紙がされていた。その前には、「酒屋が持って来る」という監督の言葉通り、中瓶のビールケースがあった。

 ドアを引くと、中でぶら下がるカウベルが鳴った。『ふくろう 営業時間:pm5:00~am5:00』というプラスチック製の看板が、行く手をふさいだ。私は、心を動かされることもなく、隣りをすりぬけた。

 店内は暗かった。とりあえず、壁のスイッチをいっぱいひねってみた。まばゆさで目がくらんだ。ダウンライトの光量が最高まで達したのだ。

 目がなれると、奥の壁際に、ジュークボックスがあるのがわかった。

 化粧の銅板がくすんだ右正面のカウンターには、何とも言えぬ深みがある。十人くらいは楽にすわれるだろう。他には、四人がけのボックス席が三つある。厨房の横に置かれた水冷機には瓶ビールがかなりはいりそうだ。

 いきなり、ドアが開いた。


   その二


 入口には、会ったことも見たこともない男がいた。ふさふさの黒髪がすべて天然パーマ。背が低いわりには肩幅が広い。顔の肌は褐色。たぶん、日焼けによるものだろう。腕には、それとわかるダイバーウォッチをはめていた。年齢は三十を少し過ぎたくらいだ。

 とっさに、私は、声を張りあげた。

「いらっしゃいませ」

 男は、ストゥールのほこりを手で払い、腰をかけた。私が不審に思うのを知ってか知らずか、男は、自ら姓を名乗った。

「俺は、佐野っていうんだ」

「あ、……は、はい……」

 私は、口ごもった。

「おい、メガネ」

 確かに、私は、セルロイドの黒縁眼鏡をかけていた。

「その眼鏡は何だ?」

 片方の視力はゼロで、もう片方の目も悪かった。当然レンズも分厚くなる。

「ここで何してる?」

 この人は、何を言っても納得してくれる人ではない。気むずかしさが見てとれた。

 佐野は、頭の先から足の先まで見た上で、私を品定めし、侮蔑ぶべつの笑いを口元に浮かべた。

「私は、今日からこの店でマスターをやることになりました」

「マスターだッ!……誰がっ?」

この場から逃げ出したくなった。

「私です」

「ここはな、てめぇなんかが来るとこじゃねぇんだ。とっとと帰ってくんな」

 こっちだって、やりたくてやってる訳じゃない、と言いたかったが、うかつには言えない。

「俺たちはなぁ、命賭けてんだ。てめぇみてぇな野郎が上にいると思ったら、胸くそが悪くならぁ」

 捨て台詞を残し、佐野は出ていった。


 いっそやめようか? ふんぎりがつかない自分がいる。それにあらがうように、変に頑張ろうとする自分もいた。


 昨日まで、昼は港湾の荷役にやく、夜は監督の助手という生活をしばらく続けたせいか、精神と肉体がを上げていた。私は、ボックス席で足をのばし、現実から逃れるように目を閉じた。


「何やってるッ!?」

 荒々しく、椅子がっ飛ばされ、カーペットの床に私の足が落ちた。寝ぼけまなこを開けると、鬼の形相があった。佐野である。

「おいッ、やることがあるだろッ!」

「は、はいーっ」

 語尾が高くなる情けない声だった。

「いつまで閉店にしとくつもりだ?」

「……」

「とりあえず、ビール」

「……あのォ……まだ……ほこりが……」

「後で洗え」

「そ、それに、冷えてません」

「ごちゃごちゃ言うな。氷を入れたらいいだろ」

 私は、生ぬるいビールをグラスに注いだ。

「もうひとつコップ」

「はあ?」

 私は、からきし酒が駄目だった。この仕事には向いていない。佐野がビールを注いだ。

「注いでもらったら、ありがとうございますだ」

「あ、ありがとうございますッ」

 と、少しだけグラスに口をつけた。

「ぐっといけよ」

 私は、覚悟を決め、ひと息に飲んだ。佐野も飲んだ。私が注ぐと、佐野が注ぎ返してくる。カウンターに空瓶が並んだ。

「おい、メガネ。何でマスターなんだ?」

 成り行きで、とは言えない。

「言えねぇのか?」

「……」

「そんなあまっちょろい気持ちでできるわけねぇだろ」

「……」

 佐野は、看板を拳で殴り、出ていった。

 すっかり酔いがまわった私は、カウンター席で眠りに落ちた。


 翌朝、スーツや制服をまとった老若男女が私鉄のホームにひしめいていた。電車が到着すると、乗客にもまれ、とてつもない力で車内に押し込まれた。もう降りられない。私は、電車のゆれに必死で耐えようとした。でも、もう限界だ。私は、ジャンパーとワイシャツの下に顔をうずめた。嘔吐おうとの波が喉の奥に押し寄せてくる。惨劇を予感したまわりの乗客たちが、身をよじり、くねらせ、私からはなれようとする。私は、車内にできた人間の空洞の中でうずくまった。ううぅ……おえっ……ゲボゲボッ……。乗客たちは、顔をそむけ、口と鼻を手でおおった。

 次の駅に到着するや、脇目もふらず、改札口を抜けた。

 そして、公園の電話ボックスに飛び込んだ。今の状況も含め初日の報告を監督にするためだ。

「アホか、おまえは!」

 監督は生粋の江戸っ子だったが、何故か関西弁だった。服にしみついた吐瀉物(としゃぶつ)の臭いが鼻を突く。

「……だから、おまえはトロいって言われるんだ。何年生きてんだよ!」

 吐き気がとまらない。胸がむかむかする。公衆電話に入れる十円玉がなくなり、ぷつんと電話が切れた。

 湿気がたちこめる薄暗い洗面所で、上半身裸になり、私は、ワイシャツとTシャツを洗った。

「うわっ、くっせーッ!」

 小便をすませた男が大げさに声をあげた。歯ブラシをくわえた口から白い泡がのぞいた。男は、公園の住人らしい。

 私は、目もくれず、Tシャツとワイシャツをしぼり、みすぼらしい上半身をおおった。

 ラッシュアワーは終わっていたが、ここは東京である。電車の中でも、駅構内でも、人目を避けるわけにはいかない。ジャンパーでうまく隠したつもりだが、私が(ねずみ)であることはわかるらしい。目を伏せれば伏せるほど、(みじ)めになるばかりだった。


 四畳半一間の下宿は、中央線の沿線にあった。敷きっぱなしの布団の上に着の身着のまま倒れ込んだ。どんよりとすべてがよどんでいた。東京での一切合切は忘れよう。過去にも、現在にも、私は存在しなかったのだ。もちろん未来にも存在しない。明日からは、未踏の地で、誰の目にもふれることなく生きていこう。たわいもない思考が駈けめぐった。


   その三


 最低な目覚めだった。にごった頭で、ぬけがらのような体をひきずり、近所の銭湯に行った。番台のおやじが、自分が経営するコインランドリーで下着がまた盗まれたと、来る客来る客にぼやいていた。『刺青いれずみ客お断り』という忠告看板の前には、(あで)やかな背中の刺青(もんもん)をひけらかす若い衆がいた。熱い湯が、どんよりを倍増させた。


 二階の廊下で看板の灯りをともすと、表がスナックらしくなった。

 普段はろくに掃除もしない私が、水冷機を洗い、布巾で棚をふき、グラスを湯で洗い、カウンターの上に並べた。水冷機にビールをつけ、棚にボトルを置いたところで、店内を見まわた。飲み屋には近づいたが、重い気分は晴れそうにもなかった。

 入口のそばにあるカラーボックスの上で、ピンク電話が鳴った。

「もしもし……」

 店の名前が浮かばなかった。電話の相手は女性だ。

「……かおりです……」

「……?」

「マスターですか?」

「あ、あ、はい」

「オーナーから、『ふくろう』でもう少しやってくれないか、って言われたんですが……」

 そう、店の名前は『ふくろう』だった。

「そ、それはもう、事情がおありでしょうから」

 ……私にだって、あるのだから。

「ちょっと聞いてみるんですが、マスターは、閉店になった理由を知ってるんですか?」

「前のマスターがやめられたからじゃないですか」

「やっぱり、聞いてないんですね。下の店での話」

「下の店……?」

「焼き鳥の『どん』です。チーフの佐野さんがやってます」

 佐野……。あの人だ。

「知ってます」

「一ヶ月前なんですが……」


 その日も、いつもと変わらず、『どん』は、多くの客でにぎわっていた。そこに、一見客いちげんきゃくがやってきた。ぐでんぐでんのチンピラ風は、カウンターの客をどかし、席に着いた。

「おい、ほどほどにしろ。飲み過ぎだぞ」

 となりの客が言ったその言葉に、チンピラ風は、かっとなった。

「あんちゃん、早く帰って寝ろ」

 席を立ったチンピラ風は、腹いせに女の肩を抱いた。

「ねぇちゃん、仲良くしようぜ」

 女は、苦言をていした男の彼女だ。

「この野郎ーっ」

 男は、彼女からチンピラ風を引き離した。

 チンピラ風が、匕首あいくちを抜いた。そのやいばが光を放った。

「まとめて、ぶっ殺してやるっ!」

 客たちは固唾かたずを飲んだ。有線放送以外に音はない。

「静かにしろーいッ! いきがってるのは、どこのどいつだッ?」

 大将の手には、日本刀がにぎられていた。

 チンピラ風は、わめき散らし、匕首を振りまわした。何を言っているのか全くわからない。

 大将が、さやをはらった。日本刀は本物だ。長い刃が一閃いっせんすると、チンピラ風は棒のように倒れ、絶命した。客たちは、あまりの光景に、息を飲み、身を固くした。誰もが震えをとめることができなかった。


 かおりは、実際に見たわけではないが、身近でおこった話だけに、あまりふれたくはなかったはずだ。私は、閉店の理由がなんとなくわかった。

「……オーナーからは何度も説得されたんですが、いろいろ考えてみて、女優一本でいくのもありかな、って思ってます。申し訳ありません」

「お話はよくわかりました。頑張って夢をかなえてください。楽しみにしています……」

 “頑張って”なんて、言ってしまった。心にもないことを……。女優の夢がかなえば、その先には何があるのだろう。お金が入る……!?……高級ブランドが着れる……!?……高級料理が腹一杯食える……!?……いい男とつきあえる……!?……名声……!?……生き甲斐がい……!?……観客に感動があたえられる……!?……世界に向けて生きる意味を発信できる……!? 

 かおりという人。私は、年齢も顔も知らない。

「ありがとう」

 という言葉とともに、電話が切れた。

 他人の人生よりも、今は客だ。いかつい監督の顔が目に浮かんだ。とにかく、なんとかしなければならない。意味なく、訳なく、店中を隈無くまな家捜やさがしした。キッチンで、一冊の電話帳を見つけた。私は、すぐに、十円玉をかかえ、ピンク電話の前に陣取った。順を追って、片っ端から電話をしたが、誰にもつながらなかった。当然といえば当然だ。こちらの都合だけで、ものごとはすすまない。電話をかけられただけでも収穫があったじゃないかと、私は、自分を慰めた。

 からんからん。カウベルが鳴った。長髪を額に垂らしたせぎすの男は、舌がもつれていた。

「ビール」

 痩せぎすは、カウンター席で喉をうるおし、勝手にしゃべりだした。

「俺が、彼女とどんなことをするか、知ってるか?」

 知るわけがない。相手は酔っ払いだ。黙って聞くしかない。

「まずな……パンツをな……脱がすだろ……」

 痩せぎすの目はあぶらぎっていた。

「それからな、四つんいにして、ケツのな……割れ目があるだろ……」

 なかったら、おかしい。

「ひろげるんだよ……でましたッ! 肛門様のひだひだが。それをケツメドっていうのさ……残ってるだろ、そこに……くそのつぶつぶが……それを指でさらっていでみな……」

 くさいにきまってる。 

「その指をスケの口につっこむ……これで、どうだ?」

 と言われても……。

「それが、俺たちの前戯ぜんぎだ。おまえもやってみろ」

 私には、興味もないが、彼女もいない。

 痩せぎすは、新聞の拡張員をやっていると言った。そして、もう配達の時間だからと店を後にした。

 カウベルが鳴った。

「まだやってたんだ」

 七三に髪を分けたサラリーマンが、しんどそうにカウンターにへばりついた。年は三十半ばといったところか。それにしては、背広も顔もくたびれていた。

「お飲み物は何にしましょう?」

「なにもいらない」

 サラリーマンは素っ気なく言った。

「……」

 何しに来たんだよ?

「ごんちゃんは?」

「ごんちゃん……?」

「知らないの?……マスターだよ」

 私は、前のマスターを知らない。


 四十七歳のごんちゃんは、喧嘩けんか相手の頭を片手でつかみ、その体を持ちあげられるほど力持ちだった。そのくせ、強靱きょうじんな体格には似合わず、手先が器用で、料理の腕前は一級品だった。おまけに、人なつこくて、めっぽう酒が強く、お客たちからも愛された。


 サラリーマンが、ぼそっと言った。

「よっぽどこたえたんだろうな」

 かおりが言ってたことと関係があるのだろうか。

「お客さん、お名前は?」

「河西」

「今日、電話をさせてもらいました。お留守でしたけど」

「……?」

「前のマスターが残していった電話帳があったんです」

「今度は、誰がマスターやるの? オーナー?」

「いえ、私です」

 河西が、不快な顔で立ち上がった。

「帰るわ」

 ここで帰したら、二度と来ない気がした。

「待ってください」

 逃がすものか。必死だった。やる気がなく、真剣になれない私が……。

「僕をひとりにするつもりですか?」

 河西の気持ちが動いた。

「マスター、俺のボトル」

 琥珀色こはくいろのウィスキーがちょろっと残る四角い瓶。ラベルには、オートバイの絵がマジックでかれていた。

 私は、どうしたものかと、河西の顔をうかがった。

「何してる?……俺は、いつもロックだよ」

「……」

「ロックを知らないのか」

「それは、わかるんですが……」

 手順がわからない。

「世話のやける奴だな……アイスペル」

 私は、それを取った。

「製氷機の氷」

 アイスペルを満杯にし、バンスプーンで角氷を砕き、グラスに入れた。河西は、あきれ顔だ。酔いがさめたのかもしれない。

「アイストング……タンブラー」

 私は、言われるまま、言葉に従った。

「おとおし……あるわけないか」

 何を聞いても戸惑とまどうばかりだ。

「包丁は使えるんだろうな?」

「自炊の経験はあります」

 流し台下の扉を引くと、先のとがった包丁とナイフが包丁差しにさしてあった。

「なんて呼ぶか知ってるか?」

「わかりません」

牛刀ぎゅうとうとペティナイフだ」

 この仕事は、引き受けるべきではなかった。

「チーフは来なかったか?」

「……?」

「佐野だよ、佐野」

「来られましたけど……何か?」

「あいつは口が悪いから気をつけろよ」

「はい」

 ここは、うなずくしかない。

「あいつはな……」

 佐野は、そーめんが好きらしい。店がひけたら、いつも食べていたそうだ。河西は、近くのスーパーに売っているからと、佐野が好きなそーめんとめんつゆの銘柄めいがらを教えてくれた。

「それと、大葉おおばとネギとしょうがも忘れるなよ。佐野が来たら、そーめんがありますって言うんだぞ」

 私は、断る理由もないので、「そうします」と言った。そのうちに、こっくりこっくりと河西が船をこぎ始めた。

「大丈夫ですか?」

 河西が、薄目を開けた。

「お勘定。大丈夫でないのは、おまえだ」

 私は、またしても、ひとりぼっちになった。

 ()()()な夜が、私を憂鬱ゆううつにした。

 こんなことはもうやめにしよう。

 朝の五時を待たずに、私は、看板を取り込んだ。


   その四


 目覚めると、頭で考えるのとは裏腹に、ワイシャツに手を通し、スラックスをはくという行為こういを体が覚えていた。


 赤い大提灯おおぢょうちんが風にゆれた。筆で書かれた『どん』という文字には勢いがある。店の中では、ちらほらではあるが、早い客がさかずきを傾けていた。客が注文するたびに、はっぴを着た佐野の声が飛ぶ。その隣りに、大将はいない。明らかに相手が悪かったとはいえ、日本刀の不法所持という事実と、殺人者という汚名が消えることはない。いずれにしても、人間ひとりの命を奪った罪は重く、大将は、それ相応の罰をうけることになるだろう。そのつぐないが終わるまで、佐野が、『どん』の切り盛りをするのだ。

 私は、二階に上がり、『ふくろう』の看板に灯をともした。


 店に来る途中、新宿で買った料理本が果たして役に立つかどうか……。狭い厨房で、私は、ぱぱっと本をめくり、料理にとりかかった。まず、たかつめを一袋全部、フライパンでいためた。すると、どうしたことか、涙と鼻水がとめどなく流れ、咳がとまらなくなった。そこへ、薄切りのレンコンを投入し、酒と砂糖と醤油で味付けをし、なんとか完成までこぎつけた。


 客のいない店内は、寂しさよりも、薄気味悪さの方がまさっていた。私は、丸椅子に腰をおろし、ピンク電話に向かった。電話帳のページを行ったり戻ったり、どれほどの時間、それを繰り返しただろうか。しかし、電話はつながらない。何度かけても無駄だ、とあきらめかけたとき、

「もしもし……」

 電話の向こうから、ねばっこい男の声が聞こえてきた。会社帰りに酒を引っかけ、これから、風呂に入るところだという。私は、しつこく食いさがり、男を説き伏せ、店に来るようにしむけた。

 からんからん、とカウベルの音。

 分厚いレンズの眼鏡をかけた男が来店した。その奥にある細い眼は、油断がならなかった。

「この店には、ロクなのが来ないから、覚悟した方がいいよ」

 第一声で、誰だかわかった。

「内田さん、ですね」

「……でも、ごんちゃんは違ったよ。そりゃあもう、すごかったんだ。料理は一級品さ。だって、ここに来る前は、レストランでシェフやってたんだもん」

 私とは、月とスッポンだ。

「かおりちゃんは?」

「やめました」

「いなくなっちゃったんだ……マスターだけじゃ、むずかしいんじゃないの」

「お通しをどうぞ」

 と、小皿を置いた。

「これ、何?」

「レンコンのきんぴらです」

 からんからん……。

 河西が、姿を見せた。

「ウヘーッ、み、み、水」

 辛さに耐えきれず、内田が水を流し込んだ。いけるかな、とは思ったが、やっぱり無理だった。

「あー、殺される。俺は厄年やくどしなんだぞ。これじゃあ、誰も来ないわ。俺ももう来ないけど」

 内田が、早口で言った。

「おいおい、そんなこと言うなよ。久しぶりに会ったんだからさ。俺がおごるよ」

「じゃあ、ビール」

 現金な奴だ。

 内田にビールをついだ河西が、お通しを見て言った。

「普通だけどな」

 と、その一かけらを口に入れると、我慢できず、大あわてでビールをうつした。

「かれぇーな」

「もう来たくなくなるだろ」

「ゆまなら、喜ぶかも」

「えっ!?]

 と、私。

「ゆまさん?」

 電話帳に、その名はなかった。

「この店で、ゆまを知らない奴はいないさ」

 と、河西が電話をかけた。ゆまのアパートは、すぐそこにあるらしい。

 河西と内田は、ビールからウイスキーに酒を変えた。

 カウベルの音がした。

 ゆまは、革のジャンパーとジーンズがよく似合う女だ。茶髪のショートカットもしかりだ。私よりもちょっと上なだけなのに、随分年上のような感じがした。

 内田が、不機嫌そうに言った。

「酒と聞くと、すぐに来るな」

「何だよ、急に?。寝ようと思ってたのに」

「これを食ってみろ」

 ゆまは、きんぴらを食っても、平気だった。

「こんなの食ったら、朝まで飲んじゃうよ」

「俺につけといて」

 と、河西が言った。

 きんぴらのおかげで、次から次にビールの空瓶ができた。

 カウベルが鳴った。

「チーフ、お疲れ」

 河西は、佐野のことをチーフと呼んだ。

「うちに来ねぇと思ったら、こんなとこで油売ってやがったか」

 河西が、私に目で合図した。

「は、はい……。佐野さん、そーめんがあります」

「おおッ」

 と、佐野が、驚きの声をあげた。河西が、ビールをついで、佐野にすすめた。

「おいッ」

 佐野が私を呼んだ。

 私は、厨房から舞い戻った。

「忘れるなよ、びっくり水」

 そんなもの見たことも聞いたこともないが、

「わかってます」

 と、いいかげんな返事をした。

「そうか、頼むぞ」

 びっくり水、びっくり水、びっくり水……えぇいッ! やけくそだッ!

 私は、あらん限りの変顔をし、

「びっくらこえた、びっくらこえた、びっくら水だ、びっくら水だ、あー、こりゃこりゃ」

 これを、映画『どん底』の劇中歌に似せてやった。佐野が、怪訝けげんな顔をした。

「おちょくってんのか?」

 変な空気が流れた。やばいッ! 少しして、佐野の顔がくずれた。どうしてそうなったのかはわからないが、二人はうちとけた。

 厨房は、男二人が入るにはとても窮屈だった。そうめんをいれた湯が今にも吹きこぼれそうだ。佐野が、コップに水を入れた。

「沸騰したら水を一杯入れる。それで、もう一回沸騰したらできあがりだ」

「ありがとうございます」

「そんなことも知らねぇで、よくマスターができるな」

 暖簾のれんの向こうから、河西の声が聞こえた。

「チーフは、きびしすぎるわ」

「あの野郎、飲みが足りねぇみたいだな」

 と、佐野が、暖簾をくぐって厨房から出た。


   その五


 クリスマスイブの昼下がり。監督と、歌舞伎町の喫茶店で落ち合った。地下にたむろする客たちは、スキンヘッドもいれば、まゆげのない者、小指のない者、一見してそれとわかる猛者もさばかりであった。監督は、売り上げがのびない理由や言い訳など聞きたくもないと、店の話は早々に打ち切り、私に酒をすすめた。妻子持ちの男と彼女のいない男とでは、カップルのように話もはずむわけなかったが、差しつ差されつするうちに、監督は、近況を語り始めた。映画の話はいやではない。私は、耳を傾けた。しかし、つい、調子に乗って深酒し、トイレの個室で意識がとんだ。気がついたときには、時すでに遅く、店内は閑散としていた。監督の姿もそこにはなかった。


 私は、吐き気をこらえ、歌舞伎町の街にでた。夕暮れが近かった。裏通りに迷い込むと、女が声をかけてきた。そして、歩きだした。行き先はわからない。私は、通行人たちにぶつかりながら、その尻を追った。

 女は、洒落しゃれた喫茶店を選び、奥まった席で煙草に火をつけた。そのときはじめて、私は、女の顔を目のあたりにした。

 サンタの格好をしたウェイトレスがお冷やを持ってきたが、つとめて目を合わせようとせず、注文もとらずにさっさと背を向けた。その際に、軽蔑けいべつの笑いが見てとれた。それもそのはず、女は、女性とはほど遠い存在だった。ひげりあとを見ただけでも、ぞっとした。

 立ち上がるとき、私は、椅子をひっくり返した。

「あんた、逃げる気?」

 おかまを調子づかせると、罵声ばせいを浴びることになるだろう。それは避けたい。私は観念した。『ふくろう』の電話番号と住所を教えることで、その場をなんとかのりきった。


 駅にある緑の電話で、監督の家に電話をいれた。監督は既に帰っていて、私は、無礼をわびた。しかし、思いのほか、監督は怒っていなかった。

「どうしてホテルに行かなかった? 行けばよかったじゃないか」

 そのあと、もうひとことつけ足した。

「レタスは食ってたのか?」

「レタス、ですか?」

「そうだよ、レタスだよ」

 監督は、酒を飲む前には、レタスを必ず食べるらしい。

 十円硬貨数枚で、電話は終わった。


「クリスマスって気がしないな」

 河西の言う通りだ。クリスマスツリーも飾りもない店内は、殺風景この上ない。おまけに、ケーキさえ用意していない。

 からんからんと音がした。

「メリークリスマス」

 一組のカップルが、河西と挨拶をかわした。ふたりとも、そんなに若くはない。男の方は尾方といった。大学卒業後、日雇い仕事で生活費を稼ぎながら、司法試験に挑戦し続けている。女の方は小学校教諭で、名は涼子。ふたりは同棲中である。既に、十数年になるらしい。

 尾方は、監督に頼まれて店の様子を見に来たと言った。ありうることだ。涼子は酒もいけたが、歌もいけた。河西が、松田聖子のカラオケを8トラで流し、何度もアンコールをした。店内がはなやいだのは言うまでもない。

 カウベルが、騒々しく鳴った。

 今度は、若いカップルだ。とろんとした眼で、ふらつきながら、カウンターの席におさまった。河西が、ふたりを見て、目配めくばせせをした。すると、尾方が首を振った。どうやら、常連ではないらしい。

「けいこちゃん、ビールでいいね?」

「うん」

 ふたりは、瓶ビールを数本あけたところで、唇と唇を重ね、舌をからめあった。常連の三人は、不快な表情を顔に浮かべた。クリスマスだからといって、すべてが許されるわけではない。

「お客さん、店の中では、ちょっと、困ります」

 ふたりには、私の言葉など、どこ吹く風だ。

「いいかげんにしいやッ!」

 尾方が、怒りを声にした。当の本人たちは、抱き合ったまま、きょとんとした顔で声のぬしを見た。

「まあまあ。人に迷惑をかけてるわけじゃないし」

 なだめ役は河西だ。

「悪いのは向こうや」

 尾方は、腹の虫がおさまらない。けいちゃんが、尾方と涼子の肩に後ろからあいらしい手をのせた。

「おじさんとおばさんは、夫婦なの?」

 河西が、手のひらをあわてて振る。“おじさんとおばさん。そんな言葉は駄目だ”

「じゃあ、愛人?」

 河西が、頭を横に振る。“そうじゃない”

「そっか。恋人か」

 河西が、うんうんとうなづく。

「おじさん、何やってる人?」

「尾方さんは、弁護士を目指してるんだ」

 河西が答える。

「司法試験か。なんだかむずかしそう」

「おばさんは?」

「涼子さんは、小学校の先生だよ」

「ふーん、向いてる向いてる」

「おじさんは、仕事してないの?」

 涼子が、即座に答えた。

「アルバイトよ」

「それって、ヒモってこと?」

 河西が、あーっと声をもらす。

 尾方が、叩きつけるようにグラスを置いた。飛び散った水割りで、涼子のワンピースがまだらに染まった。

 言葉が口をついて出た。

「尾方さんに謝ってください」

「気にしなくてもいいわよ。ヒモなんだから」

 涼子の言葉に耳を疑った。尾方は、グラスの亀裂きれつをじっと見ていた。

「許してやってください。このは、まだ子供なんです」

「貴様に何がわかるッ!」

 尾方は、カウンターをバンッと叩き、店から消えた。私はうちのめされた。

「どうもすいません」

 と、涼子に頭をさげた。

「ほっとけばいいのよ」

 涼子は、素知らぬ顔で水割りをおかわりした。傷ついたのは尾方だけだ。  招かれざる客のふたりは、雄太と景子で、都内にある大学の三年生だった。カウンターでつぶれている雄太は、さきほどの騒動を全く知らない。景子が、河西の肩に手をまわした。

「河西さん」

 私は、相手にしないようにと目でうながした。

「わかってるよ」

 その瞬間、景子が、河西の唇に吸いついた。河西は、まんざらでもなさそうだ。

「河西さんッ!」

 河西は、ばつが悪そうに景子から離れた。

「マスター、ごめん。俺、帰るわ」

「河西さん、涼子さんを送ってあげて」

「ひとりで帰れるわ」

 河西が席を立った。

 私は、雄太の肩をゆすりながら言った。

「彼女にはもう飲まさない方がいいよ」

「あ、はいッ!」

 はきはきとした返事が返ってきた。


   その六


 スナック『いちじく』のママは、夜がける頃、たまに、医者とか教授風の紳士をともなって来店する。

 体が芯まで冷えるあの日もそうだった。ママは、金満家風の年寄りと腕を組んでやってきた。

「マスター、元気っ!」

 何がそうさせるのか、ここに来ると、少々()()がはずれるようだ。この日もご多分にもれず、足のシルエットが透けて見える薄手のスカートを大胆にまくり上げた。かわいらしいパンティは、還暦が間近のママには不釣り合いだった。金満家が私を見る。とんだおかど違いだ。意地悪そうにママが言った。

「マスター、元気になった?」

 と、まではいかないが……目の保養にはなった。


   その七


 二八にっぱちという言葉の通り、二月は、客足が遠のいた。それでも、河西だけは、日課のように通ってきた。

「一杯おごるよ」

「ありがとうございます」

 と、カウンターにビアタンを置いた。

「それじゃなくて」

 河西が見ているのは、棚の上にある四角い瓶だ。

「一本、いれるんですか?」

「おまえが飲むんだよ」

 私は、鬼気迫るものを感じた。

「僕が……ですか?」

「アイスペルに氷をいれてみろ。いれすぎるなよ」

 ……?

「その中に、一本、全部いれてみな」

 私は、新しいウイスキーの封をあけた。琥珀こはく色の液体が、トクトクといい音をかなでた。腹をすえるしかない。私は、厨房に引っ込み、レタスをむしり、胃の中にほうりこんだ。

「ごんちゃんは、体を張って、この店を守ってたんだ」

 私は、ごんちゃんじゃない。

「飲まなくてもいいぞ。財布が痛まなくてすむ」

 これみよがしに、生ビールのジョッキをどんと置いた。河西は、それを不思議そうに見た。

「どういうこと?」

 私の口から、言葉が勝手にとびだした。

「ビールももらおうかと思って。のどがからからなんですよ」

 正気か!? 自分を疑った。

 私は、あっけにとられる河西を横目にビールで喉をうるおし、アイスペルのウイスキーにとりかかった。

「いただきます」

 河西の真剣な眼差しを感じた。

 ええいっ、ままよっ!

 んっ、んっ、んっ、喉が、無言の悲鳴をあげる。ウイスキーがあふれ、こぼれ落ちる。カッターシャツが濡れた。体内で炎が燃えさかる。私は、すべてを流し込み、店の外に出た。その時、河西と言葉を交わしたのか、交わさなかったのか、いっさい記憶にない。

 あれから、どれぐらいの時間がたったのだろうか。

 からえずきがひどい。頭が、和式便器の中にある。便器の底が赤い。どうやら、血を吐いたらしい。異臭が鼻の奥を突く。私は、重い頭を持ちあげ、廊下のトイレから脱出した。

 店の中に、河西の姿はなかった。いつ来たのか、ゆまが、カウンターの席でグラスを傾けていた。私は、隣りに座り、両肘をついた。

 ゆまが、いらだたしげに言った。

「あー、暑い暑い」

 どこに行っていたのか私にこうともしない。頭は、朦朧もうろうとしている。ゆまが、がちゃがちゃと水割りをかきまぜた。私は、とろんとした目を横に向ける。ゆまは、ブラウスと下着をゆるめ、胸をはだけていた。私は、手をのばし、白い乳房に触れた。弾力が、たおやかだった。“何をしたっていいのよ”、私には、ゆまがそう言っているように思えた。

「暑い暑い」

 ゆまは、着ているものをさらに脱ごうとした。私は、それを制し、ブラウスのボタンをおぼつかない手でとめた。

「ほんとに暑いんだから」

 と、私の頭を叩き、カウンターで寝息をたてた。私は、ゆまをボックス席に運び、そこで私も眠りに落ちた。


 壁時計の針が七時を指していた。灯りが消えた店内に、ゆまはいなかった。私は、あらためて、胃液と血液にまみれた和式の便器と対面した。


   その八


 私は、重い目蓋まぶたをあげた。店の外には、初夏の陽光が降り注いでいるはずだ。

 からんからんッ。

 あろうことか、見知らぬ男がはいってきた。

「今日はもう終わりました」

「何も聞いてないのか?」

 その男は、オーナーの、つまり、監督の名を“ちゃん”づけで呼んだ。どう見ても、堅気には見えない。日焼けしてできたと思われるしわが五十何歳かの顔に深く刻まれている。腕っ節はなかなかで、両手で抱えたクーラーボックスが小さく見えた。背中に刺青いれずみがあることや、映画の照明技師であることは、それから随分たってから知った。常連たちは、皆一様に、“たかさん”と呼んだ。

 たかさんが、クーラーボックスをカウンターの上にどすんと置いた。

「はやく入れろ」

 カウンターの下には、製氷機がある。私は、かねのボールをつかみ、角氷をすくった。

「そうだよ。わかってんじゃねぇか」

 無我夢中で、残すことなく全部入れた。

 たかさんは、礼を言うことなく、クーラーボックスを軽々と持ちあげ、店から消えた。


 煙草ですすけた天井板に、節がいくつも見える。布団の上で数をかぞえてみるが、らちがあかない。この木は、どこの山で生まれたのだろうか? その場所は山の南側だろうか、それとも、北側だろうか。おまえたちにく。生きているのか、死んでいるのか。答えは返ってこないが、生きていると思った。


 その夜、再び、たかさんが店にあらわれ、カウンターの上にビニール袋をずしっと置き、

「食ってくれ」

 と、つれなく背を向けた。

 皆がのぞき込むと、立派なヤマメが何匹も入っていた。渓流けいりゅう釣りの釣果ちょうかであった。

「食べたいなぁ」

 内田である。そして、余計なことを言った。

「料理できるんだろ?」

 美しい色合いのヤマメが妙にうらめしかった。

「島袋さん、ちょっと教えてやってよ」

 河西が、助け船をだしてくれた。

 島袋は、寿司職人だ。職場は、誰もが知っている有名店である。

「あいよ」

 島袋は、泡盛あわもりを飲み、厨房入り口の木枠に親指と人差指でぶらさがった。沖縄空手のトレーニングだという。しかし、太い腕は、ぬけるように白く、毛が一本もなく、沖縄空手のイメージとはほど遠い。寿司を食べに来るお客さんのためにと、毛抜きで毎晩抜いているからだ。

 島袋の顔が変わった。まな板の上で牛刀が踊る。さながら、命を得たかのように。さばかれるのは、ヤマメだ。見る間に、三枚におろされた白身が何枚かまな板の上に並んだ。

「ありがとうございました」

「どうってことないさ」

 と、再び、指懸垂ゆびけんすいにとりかかった。幸いにして、小麦粉もバターもレモンもそろっていた。私は、ムニエルを、なんとか、かたちにした。

 時として、酒は、ちょっとした不平不満をとんでもない怒りに変えてしまうことがある。

「なんだとぉーッ! これがッ! ムニエルだって? ちゃんちゃらおかしいわッ!」

 不服げな男はボックス席にいた。ダウンライトの灯りで、眉毛がないことや、角刈りであることがわかった。

 すいませんと謝れば、それですむ問題ではあったが、そうはいかなかった。たかさんは、監督が懇意にしている活動屋カットウヤである。その人が、わざわざもってきてくれたのだ。その上、包丁でさばいたのが大切な常連とくれば、黙ってはいられない。

 何のしがらみもない河西が、角刈りをなだめようとした。

「お金はいらないんだから、文句は言いっこなし」

 そんなものでは、角刈りの気持ちはおさまらない。

「口直しにトマトだ。切らなくてもいいぞ。どうせ、タダなんだろ」

 なんて奴だ。

「……」

 河西が、顔をゆがめ、首を振る。お金は俺が払うから、と目で訴えている。こっちだって、一円ももらう気はない。

「ないのか?」

 トマトを皿にのせ、ボックス席のテーブルに置いた。

「あとマヨネーズだ。頭からでいい」

 注文の多い奴だ。私は、角刈りの頭上で、マヨネーズをしぼった。私の何がそうさせたのか。誰もが、トマトの“頭”だと思ったはずだ。

 店内が、凍りついた。

 間髪を容れず、マヨネーズ頭の角刈りが腕をのばした。シャツの袖がめくれ、色のない筋だけの刺青いれずみが顔をのぞかせた。その手首がかえると、私は、テーブルの上に腹ばいになっていた。酔ってはいるが、力はある。角刈りは、四方に体をゆらしながら、私を引きずっていく。体勢がたてなおせない。

 二階の廊下に、人影はなかった。

「おうちに帰られた方がいいですよ」

「なんだとォ!」

 角刈りが執拗しつようにからみついてくる。

「勘弁してくださいよ」

 私は、意気地いくじがない。

「このクソガキがッ!」

 角刈りが、私の胸倉をつかもうとした。ところが、つかみそこねて仰向けに倒れ、そのまま、背にした階段を一階まで一気に転がり落ちた。

 私は、背筋にぞっとするものを感じた。

 ゆっくりと、角刈りが立ち上がった。私は目が離せない。そして、若干、片足を引きずりながら、視界から消えた。。ああ、よかった、と思うと同時に、漠然とした恐怖に襲われた。報復があるかもしれない。心は、おだやかでなかった。

 誰かが、私の肩を叩いた。私は、足がすくんだ。振り返ることもできない。 屈託のない笑顔があらわれた。

「接近戦のときはな」

 と、島袋が、手のひらで私の鼻を下から軽く突いた。

「これで、相手は脳しんとうさ」

 沖縄空手のことはよくわからない。どうやら、階段落ちは見ていなかったようだ。


   その九


 昼間の下宿は、蒸し風呂のようで、とても眠れたものではなかった。

 『ふくろう』に通う目的はなんだろう。お金のため? それなら、いまより稼げるところはいくらでもある。恐ろしいから? それなら、監督と縁を切ればいいだけの話だ。

 嫌々(いやいや)、嫌な場所へ向かう。これほど、つらいことはなかった。 

 ただ、すずしさでは、『ふくろう』の方が下宿よりも数段まさっていた。

 生ビールがそこそこ売れ、客が途切れたとき、カウベルが鳴った。バー『あうん』のマスターである。初対面の者がいると決まって、パーマをかけた長髪とレスラーなみの胸板を見せびらかせようとする。店に来る客は、皆が口をそろえ、あれはもとヤクザだと言うが、組に所属していたのか、愚連隊だったのか、詳しいことは誰も知らない。

 そのかたわらには、必ずと言っていいほど、スナック『いちじく』のママがいた。私には、ふたりの関係が理解できなかった。

 人間は、本人が意図している、いないにかかわらず、何者かによって意図的に動かされているとしか思えない。このふたりが来るときを狙ったようにあらわれる沢村という男がいる。顔の色は白粉おしろいを塗ったように、ま白く、体の線は女性以上に、か細い。有名人がこぞって集まる炉端焼き店で板前をしている。

 今夜も、沢村は、包丁がはいった革の鞄をその手にさげていた。

「マスター、今晩は」

 沢村の『ふくろう』時間は、『あうん』のマスターへの挨拶からはじまる。ふたりは、仲がいいわけでも悪いわけでもない。お互いの店の話はしない。話題は、たわいもない噂話ばかりだ。

 『あうん』のマスターは、水割りを数杯のんで、ラーメンをすすると、

「書いといて」

 と、『いちじく』のママと一緒に店を出る。()()で頼むという意思表示である。月末には、遅れることも値切ることもなく、現金で払ってくれた。

「店を閉めちゃいなよ。もう誰も来ないさ」

 沢村の言う通りだ。

「俺のとこに泊まってもいいよ」

 私は、甘えることにした。

 ふたりで、の明けきらぬ街をあるいた。出会う人は誰もいない。沢村のアパートは、住宅街の一角にあった。室内は、どの部屋も、打ちっぱなしのコンクリートで仕切られ、こざっぱりとしていた。ここなら、誰だって彼女を連れてこられるだろう。

 年齢の近い沢村は、私を“ちゃん”づけで呼び、

「一緒に寝よう」

 と、ダブルベッドに誘った。

「僕は、どこだって寝れるから」

 と、私は、ソファーに横たわった。


   その十


 やわらかな感触が唇にあった。カーテンの隙間すきまから西陽にしびが射し込んでいる。沢村は、重ねた唇を離すと、悪びれた様子もなく小さく笑った。

「ここから仕事に通ったっていいんだよ」

「えっ?」

「その方が楽だろ」

 冗談とも本気ともとれたが、とりあわないことにした。

 ダイニングのテーブルには、早めの夕食が用意されていた。沢村は、日本料理のエキスパートだが、洋の調理人と比べても遜色そんしょくがない。このピザトーストを店でつくれば、客が喜ぶに違いない。

 店までは、沢村が、白いオープンカーで送ってくれた。

 『ふくろう』に着き、まずは一服、と思った途端、佐野が、不機嫌な顔をのぞかせた。

「おはようございます」

 佐野は、私をにらみつけ、ストゥールをった。

「……?」

「白いスポーツカー、それも運転手つき。いい身分じゃねぇか」

 ……見られたか。でも、それの、どこがいけない?

「看板には何て書いてある?」

 何の変哲もないスナックの看板だ。

「五時じゃねぇのに、閉まってたぞ。折角、来てやったのによ」

 昨日、『どん』は早仕舞いだったはずなのに……。どこか、よその店で飲んで、帰り際に立ち寄ったのだろうか。

「そーめん、つくりましょうか?」

「おう、頼む」

 急に、佐野の機嫌がよくなった。


 都心の丑三うしみつ時は、交通網も眠っている。

 カウベルの音が店内に響いた。ひと目でそれとわかる水商売の女である。見た目の年齢は私より上だ。ほんのりと頬があかいのは、酒のせいかもしれない。瞳は、対照的に、うつろで生気がなかった。女は、焼酎を注文した。

「あなたって……」

「どうかしました?」

「水商売に向いてないみたい」

「みんな、そう言います」

「やめちゃえば」

 できれば、そうしたい。

 女は、焼酎のグラスを見つめた。

「ホステスなの」

「はっ?」

「あたしの仕事」

「それが、何か?」

 いきなり、むせぶように泣きだした。胸の奥がゆれる。女が、おかわりを要求した。

「もうやめといたほうが……」

 女は、コップの底をコンッと鳴らした。仕方なく焼酎を注いだ。

「何かあったんですか?」

 やぼな質問だ。

「ほんとに向いてないわ」

 と言うや、せきを切ったように激しく泣き始めた。私は、流し台に手をかけ、足をふんばった。やがて、女は、疲れ果て、泣くのをやめた。

「いくら?」

 その言葉に、私は救われた。

「結構です」

「どういうこと?」

「僕のおごりです」

「じゃあ、ついでに家まで送ってよ」

 店を閉めるには、だいぶ早い。昨日の今日だ。佐野が、何を言って来るか。しかし、私の頭の中は、そんなのお構いなし、ふわふわと、もやもやで爆発寸前だった。

 女が、とろんとした目を私に向けた。ひーふー、ひーふー。息が苦しくて仕方ない。

 結局、タクシーを呼び、私も一緒に乗り込んだ。女が、私の頬に頬を擦りつけてきた。運転手が、ルームミラーでちらちらと後部座席を見た。ふしだらで、だらしのない奴らだ、とでも言いたいのだろう。

 女のマンションまでは、さほど遠くなかった。

 脇に肩を入れ、女を支えた。芯のぬけた体には、ほどよいぬくもりと弾力があった。愛想あいそのない、かたい廊下を進み、鉄のドアを開けた。思いのほか、花の香りが鼻腔びこうをくすぐった。私が肩を抜くと、女は玄関の壁に体をあずけた。

「今夜は、そばにいて」

 突きあたりに、ピンク色の可憐かれんなベッドが見えた。私は、足をすくわれそうになりながらも、すんでのところで思いとどまり、外から重いドアを閉めた。

 かなりの距離を歩き、下宿にたどり着くと、朝の光が待っていた。店で酔いつぶれていれば、足が棒になることもなかったのに……。心底疲れ、眠りにつこうとする私に、ひらべったい敷き布団が、さらなる追い討ちをかけた。


   その十一


 佐野が、血相を変えて階段を駆けあがってきた。

「おいッ! 昨日はどこ行ってた?」

「……」

「俺をコケにしやがって」

「そんなことは……」

「ありますってか。ふざけやがって」

 と、まだ表に出していない『ふくろう』の看板を拳でなぐり、階下に降りた。


 カウベルが、いつもと変わりなく鳴った。

 河西は、階下で一杯ひっかけていた。

「『どん』のマスターが怒ってたぞ」

「どうもすいません」

「今日は朝まで帰さないからな。覚悟しろ」

 と、河西が、グラスを傾けた。

 これでは、どちらが客だかわからない。

「マッスター」

 黄色い声が店内に響いた。

「ケイコちゃんでっすよー」

 しこたま酔っている。だが、贅沢は言えない。大切なお客様なのだ。もちろん、雄太もだ。ふたりの後ろには、もう一人、連れがいた。初めて見る顔だ。ひかえめなである。百合子という名はその外見にあっていた。

「マスター、アルバイトをやとわない?」

「けいこちゃん、やりたいの?」

「違いまっすー。こっちでっすー」

 と、景子が、百合子をぎゅっと抱きしめた。垢抜あかぬけのしない百合子が恥ずかしそうに照れ笑いをした。そのおかっぱ頭がとてもイモっぽかった。知ってか知らずか、百合子がぺこりとお辞儀をした。その仕草が妙に愛くるしかった。

「ぼ、ぼ、僕には、そんな権限はありませんから」

「マスター、何勘違いしてるの?」

 確かに、私は、女性とつきあったことがない。だからって、そんな言い方はないじゃないか。

「オーナーの許可をもらえばいいじゃん。()()()じゃない」

「……」

 勇み足だった。ただし、私にだって女性経験はある。風俗ではあるが。

「ケイコちゃんの言う通りだ」

 と、河西が、背中を押す。余計なことを……。やっとこさ食っていけるだけだっていうのに……。その一方で、女性がいてくれたらと期待する私もいた。私は、皆に悟られぬよう、渋々を装い、ピンク電話の前に立った。

 電話の向こうで、監督が、ぶっきらぼうに言った。

「……いちいち、そんなことで電話してきたのか。おまえらしいよな。好きにしろ」

 せわしげに、受話器が置かれた。

「なんだって? なんていってた?」

 景子が耳元で矢鱈やたらうるさい。

「雇ってもいいって」

「やったじゃん」

 と、景子が、百合子の唇にキスをした。ほんとに見さかいのないだ。


 この時間帯、街には、灯り以外のものは何もない。

 河西だけが、ひとりで飲み続けている。

「そろそろ帰らないと」

「俺は大丈夫だ」

「河西さんがいなくても、五時まで開けときますから」

「それがどうしたッ!」

 瞳の奥で憤怒ふんぬがくすぶっている。他人に対するものか、自分自身に対するものか、世の中に対するものか、それは、わからない。それをかき消すために、酒を飲んでいるのだ。

 河西が、ウイスキーをあおった。

「納得のいくまで飲んでください」

「おまえも飲むんだよ」

 と、河西が、グラスを満たしてくれた。

 結局のところ、佐野は来なかった。

「仕事はどうするんですか?」

「行くに決まってるだろ。おまえとは違うんだよ」

 河西は、幾何学的に体をゆすりながら、あさぼらけの街に消えた。私は、看板もおさめず、寝心地の悪いボックス席で眠りをむさぼった。


 まだ昼前だというのに、電話が鳴った。なんでだ? 河西である。

「おいッ、どうしてくれるんだよッ!」

 大声は、頭にこたえた。

「おまえのおかげでな、こっちは、えらいめにあってるんだぞ」

「会社に行かなかったんですか」

「行ったんだよ、てのは、おかしいか……行こうとしてる途中だ」

「……?」

「たった今、地下鉄から降りたとこだ」

「酔っ払ってるんですか」

「寝てたら、終点まで行っちゃったんだよ。その後もまた寝ちゃって、目が覚めたら終点、目が覚めたら終点。どうしてくれるっ?」

 河西は、駅構内の喧噪けんそうの中にいる。緑の電話を使っているのだろう。

「どうもすいません」

「おまえがあやまってどうするっ」

「酒を売ったのは、僕ですから」

「うるせぇッ! 俺は、死ぬ気で毎晩飲んでるんだッ!」

 そう言うひとに限って、なかなか死ねない。

「死ぬ気で?」

「ああ。俺は、親友を殺しちまったんだ」

 殺人者。河西が……?


 河西が、ひとりでしゃべりはじめた。

 ……大学の時に、アルバイトをして金をため、自動二輪のバイクを買った。そもそも、単車が似合う男ではないが、あこがれだけはあった。

 時として、人は、自分には向かないと知っていながら、苦手なことに手を出したがる。そうならないように、人は、苦手なことから幾度となく逃げるのだが、必ずといっていいほど、人生の場面場面で現われ、逃げても逃げても、逃げられるものではない。

 河西は、うれしくて、バイクの後ろに親友を乗せた。初めて走る、おおやけの一般道。爽快だった。しかし、初心者である。見通しの悪いカーブで、歩行者をかわし、転倒した。後のことはよくおぼえていない。気がついたら、親友が、首の骨を折り、死んでいた。

「俺が、殺したんだ。俺が、ちゃんと転がしてりゃ……」

 その日、親友は、彼女と待ち合わせをしていたが、河西は、そのことを知らなかった。携帯電話なんてない時代だ。彼女には、その状況がわかるわけもない。彼女は、一日中待ち続けたそうだ。いまなお、河西は、親友の両親や、彼女から恨まれているという。


「……毎晩、死ぬ気で飲んでるんだけど、死ねねぇんだよ。朝になったら、目がさめるんだよ。さめなくたっていいのにさ……」

 うかつなことは言えない。

 河西が、おんおん泣いた。駅構内にいる客たちは、奇異な目でこの男を見ていることだろう。でも、どうすることもできない。

 河西が、誰かと言い争いをはじめた。何を言っているのか私には聞き取れなかった。そのうちに、受話器が奪われた。そして、がちゃんと置かれた。河西の相手は、駅員かもしれないし、警察官かもしれない。そんな気がした。

 その日をさかいに、河西が店に来なくなった。そのうち、ひょっこりあらわれるだろうと私はたかをくくっていた。


 時間のたつのは遅いが、夜は終わり、朝は来た。

 何日かが過ぎた。

 さすがに気になり、私は、河西のアパートに行ってみた。しかし、引っ越した後で、そこに姿はなかった。

 その夜、佐野が言った。

「死んでたら、おまえの責任だからな」


   その十二


 週に何日かではあるが、アルバイトの百合子が来るようになった。現金なもので、マスターがかわって来なくなった客までが、噂を聞きつけ、店のカウベルを鳴らした。その中に、気になる女がいた。

 女は、カウンターのすみで煙草をくわえていた。目ざとい景子が、ちょっと年上に見えるその女に言った。

「妊娠してるでしょ」

「だったら、どうだって言うの?」

 女は、喧嘩腰になった。どうやら、図星だったらしい。

「煙草はよくないですよ」

 私は、女の口から煙草を抜き取り、流し台の水で火を消した。

「みなさん、申し訳ありませんが、今日だけ、店内での喫煙はご遠慮ください」

 すぐに、景子がドアを開けた。すると、外の冷気が店内に入り込み、煙りを廊下に押し出した。客たちは、ぶつぶつ言いながら、煙草を吸うのをやめた。

 さらに、

「酒もよくないですね」

 と、私は、グラスをさげた。女には、感謝の言葉など期待していなかったが、返ってきた言葉は、きびしいものだった。

「何さ、えらそうに。どしろうとが。聞いたわよ。映画の仕事じゃつかえないから、ここにぶっこまれたって。ま、水商売でもつかえないだろうけどさ。やめたら」

 妊娠した女は、ぷいと店を出た。また、ひとり、客が減った。


   その十三


 大学の夏休みは長い。その期間中、百合子が毎日きてくれた。おかげで、連日、店はにぎわった。その反面、自分が無力であることを思い知らされもした。

 百合子は、客の相手をするのが苦手で、おべんちゃらのひとつも言えなかったが、カウンターの中でうんうんうなずいてさえいれば、それだけで客たちは満足だった。その上、料理の腕もなかなかのもので、洒落しゃれた盛りつけと素朴な味付けは、客たちに好評だった。

 一日の仕事の終わりは、時間に関係なく、客がひいたときと決めていた。下宿までは、信用のおける常連客が送り届けてくれた。

 ただ、閉店まで忙しかったときには、私が送っていった。

 その日の朝は、テナントビルから外に出ると、まわりが深い霧におおわれていた。街の色は、あいから白に変わりつつある。人影はない。いくらか蒸し暑かった。私は、百合子と歩いている。インターロッキングの道が終わると、ガラス張りのドーナツ屋があった。中の明かりが歩道を照らした。まばゆいウインドーに疲れた百合子と貧相な私がうつった。

「寄って行こうか」

 入りたいという風でもなかったが、百合子は、断らなかった。

 ドーナツ屋の店員は、あきらかに眠気とたたかっていた。コーヒーとドーナツが来ると、彼女が、砂糖とミルクを入れてくれた。私がブラックしか飲まないのを知らないようだ。

 を持たせようと、ありきたりのことをいてみる。返ってくるのは、あたりさわりのないものだ。彼女は、私に何も質問しない。彼女の顔に疲れは見えるが、その疲れがそうさせているのではない。誘うのはもうやめようと思った。

 百合子をアパートに送り届け、駅に向かう道すがら、頭の中で、酔いつぶれたゆまの乳房が浮かんでは消えた。


   その十四


 来なければいい日は、必ずやってくるし、来なければいい人も、必ずやって来る。

 角刈りが、階段を転げ落ちて以来、はじめて、『ふくろう』にやって来た。角刈りは、カウンターに松葉杖を立てかけ、ストゥールに座った。私は、背筋がこおり、震えがとまらなかった。

「これからはよー、あんなには飲まねぇからな」

 と、角刈りは、ショットグラスのウィスキーをぐびっとやり、身を乗り出して私を見た。

「おめぇが、階段の上からどんと俺を……?」

「そ、そんな……」

「……わきゃあねぇか。そんな度胸、あるわけねぇもんな」

 島袋が、クスッと笑った。

「俺の酒を飲んだら、信じてやる」

 角刈りが、ショットグラスにウィスキーをなみなみと注いだ。私は、手が震えた。

「どうした? おまえがやったのか?」

「い、いただきます」

 私は、ショットグラスに口をつけた。

「一気にいかねぇか、このッ! とろい野郎だ」

 私は、ショットグラスを空にした。

「それでいいんだよ」

 人には、機嫌のいいときと、悪いときがある。その夜の角刈りは前者であった。

 そして、数日後の『あうん』のマスターが後者ということになる。


   その十五


 人は、ついつい、その時の気分で軽口をたたいてしまうことがある。


“カンカンッ”

 カウベルが大きな音をたてた。

「痛いッ! やめてッ!」

 『あうん』のマスターと『いちじく』のママがご来店だ。犬のリードのようにママの髪をマスターが引っぱっている。ご愛敬とは言えないが、慣れっこにはなっていた。

 カウンター席の沢村が、マスターのことを“さん”づけで呼んだあと、素直な気持ちをひょいと口にした。

「男がさ、女性の髪をひっぱるなんて、みっともないと思わない?」

 しかし、おっしゃる通りですというわけにはいかなかった。酒もはいっている。かつてヤクザをしていたという矜持きょうじもある。

 マスターが、沢村の髪をつかもうとした。だが、髪が短かった。マスターは、その手で襟首えりくびをひねりあげ、あっという間に外に引きずり出した。あまりにも一瞬のことで、沢村は、自分の身に何がおこっているのか理解できなかったに違いない。ママが、ぐでんぐでんでなければ、とめる素振りくらいはしただろう。

 店のドアが、あけっぴろげになった。どしゃ降りの雨が、びた非常階段をたたいている。マスターのしゃがれ声が雨音で聞きとれない。マスターが、沢村の顔をこぶしでなぐった。

 とっさに、私は、マスターと沢村の間に体をねじ込んだ。その直後、私もあごに一発をくらった。痛みはない。星が舞い、目の前が真っ暗になった。

 気がついた時には、ボックスの椅子に背をあずけていた。沢村が運んでくれたらしい。沢村が、おしぼりであごを冷やしてくれた。私は、沢村の顔から目をそむけた。はれあがった顔はパンチを浴びたボクサーさながらだった。

 沢村の話によれば、

「ここには二度と来ねぇからな」

 と、マスターは、雨の中にママと消えたそうだ。

 それきり、マスターは、店に来なくなった。


   その十六


 あの日以来、沢村が、頻繁ひんぱんに顔を見せるようになった。

 ゆまが、沢村の肩をそっと抱いた。私は、ゆまにいた。

「酔ってるの?」

 ゆまが言った。

「全然、酔ってないから。ほんとに酔ってたのは、ほら……この前……」

 ……この前、といえば……あっ、あのとき……?

 ゆまが、店に来てすぐ、“あんた、何て顔してるの。鏡で見てごらんよ。とにかく、こんなとこにいちゃいけない。あたしが送ってってあげる”と、私の介抱かいほうをしていた沢村を強引に店から連れ出したときだ。

「……沢ちゃんちでね……」

「お、おいっ」

 どうしたことか、沢村が、動揺していた。

「……朝さ、太陽がまぶしーって思ったらさ、なのよ」

 私は、野暮やぼなことをいた。

「誰が?」

「沢ちゃんとあたしに決まってるでしょ」

「ご、誤解だっ!」

 何かあろうがなかろうが、どっちだっていい。沢村も一匹の()()なのだ。私は、何故か安堵あんどした。たおやかな、ゆまの乳房がまぶたに浮かんだ。

 この話は、ここで終わりにしよう。


 いきなり、カウベルが鳴りやまぬうちに、酒を注文した一見いちげんさんがいた。ただし、様子が大分だいぶおかしかった。着ている背広とズボンは、あちこちがすり切れ、砂で汚れていた。その上、顔には、紫のあざがあった。

 一見さんは、日本酒を二合、ぺろりと胃袋におさめ、景気よく言った。

「大将、おあいそ」

 私が、料金を告げると、一見さんは、ポケットに手を入れ、いろいろ確かめた。その後で、顔色が変わった。財布がないことにやっと気づいたらしい。へべれけになって、何者かに殴られ、財布ごとお金を取られたのだ。

 一見さんは、平静をよそおうかのように、ストゥールに座り直した。

「大将、酒」

 沢村が、眉間みけんしわをつくり、首を振った。まゆは、その隣りでカウンターにうつぶし、寝ている。

 私は、水道水をコップに入れ、カウンターに置いた。一見さんは、ゴクゴクッとコップをあけた。酒と水との区別がつかないようだ。

「大将、もう一杯」

 沢村が、唇を動かした。すぐに、“ケイサツ”と読めた。それでもいいとは思ったが、私は、一見さんにいてみた。

「ご自宅の電話番号はわかりますよね?」

「わかるに決まってるだろ」

 先程とは打って変わり、態度は横柄だった。沢村が、うんうんとうなずく。私は、白紙の伝票とボールペンをポンと置いた。一見さんは、何の疑問も抱かなかった。私は、ピンク電話の前に立ち、書かれた番号を見て、ダイヤルを回した。

 電話に出たのは奥さんだった。声には気品があった。

「もしもし、どういったご用件でしょうか?」

 見も知らぬ他人からの、それも深夜の電話に、落ち着いて対応してくれた。私は、一見さんの行動を一部始終、言葉で再現した。

「すぐに、うかがいます」

 その声には、疑いもためらいもなかった。むしろ、慣れているようにさえ感じられた。

 問題の当人は、カウンターでいびきをかき始めた。ときたま、意味不明の寝言を言った。この男の風体ふうていから、上品な細君さいくんを想像することはむずかしい。しかし、ひとり歩きした厄介やっかい妄想もうそうが、容姿端麗ようしたんれいな夫人像を私に思い描かせた。

 カウベルが鳴った。

 沢村と私の目がドアの前に釘付けになった。夫人の顔に見とれ、息をのんだが、すぐにきょうざめした。身にまとうものが、あまりにも、みすぼらしいのだ。パジャマはほころび、羽織はおった革ジャンは色褪いろあせている。

 夫人が、きりだした。

「おいくらですか?」

 言葉には寸分すんぷんの狂いもない。場数を踏んでいるのかもしれない。 夫人は、何食わぬ顔で勘定をすませ、

「あなたっ、しっかりしてっ」

 と、夫を起こし、出口へと向かった。私たちは、ふたりを目で追う。すると、夫人が、きっ、と振り返った。

「宅の主人は、お役所勤めでございますから」

 だから……?


   その十七


 こごえるような寒い日は、店の存在がありがたかった。私は王様だ。あかりを落とせば、ジュークボックスが店内を七色に染めてくれる。

 からんからんっ。カウベルの音が現実に私を引き戻した。

 人影が浮かんだ。見覚えのあるいかつい()()()。監督である。

「暗いところで、何やってる?」

 “いらっしゃいませ”とは言えない。

 監督は、入口に立ったままだ。私は、灯りをつけた。監督がにやりとした。

「仕事ができたぞ」

「どうもすいません」

「なんだ、うれしくないのか?」

 私は、ぽかんと口を開けた。

「三度三度、ちゃんとメシ食ってるか?」

「は、はい」

「ちゃんと睡眠はとってるか?」

「は、はい」

 そもそも、スナックを監督が私にやらせたのは、店舗を少しでも早く高く売るためであった。店が空き家になると、なかなか買い手がつかなくなる。そこで、店を継続して売りに出すという作戦に出たのだ。そのことを、私は、あとになって知った。

 監督が言った。

「店が売れたんだ」

 監督は、愉快でたまらない、といった顔をした。

「もう、終わったぞ」

「私は?」

「お疲れに決まってるだろ」

 またしても、クビだ。

「終わるからには、きれいにしないとな」

「……?」

「客の()()で、残ってるのはないか?」

 言うべきか、言わざるべきか。

「あるんだな」

 私は、監督に見すかされた。

 そして、

「ちゃんと終わらせるんだぞ」

 と念をおし、店から消えた。その真意はわからない。

 “終わらない映画はない”。

 監督の口癖だ。


   その十八


 活動屋カットウヤと呼ばれた映画人の中には、ごく少量ではあるが、河豚フグ()()を奥歯でかみつぶす、命知らずの者もいた。徹夜の撮影が何日続いていようが、びりっと脳天がしびれ、瞬時に睡魔が取り払えたという。言うまでもなく、命の保証はない。まっとうな人間なら、そんなことはしないほうがいい。

 無性にそれが欲しくなった。

 私は、開店準備を早々にすませ、あわただしく人が行き交う夕闇の中にまぎれこんだ。

 バー『あうん』の看板までは、たいして時間もかからなかった。その後ろの階段をのぼれば、店の中にはマスターがいるはずだ。しかし、ここまで来て、づき、ためらう私がいた。

 小学生の頃、祖父から何度も聞かされた話が頭に浮かんだ。  

 

 第二次世界大戦の末期。東南アジアの一国に、若かりし頃の祖父が、兵士として、そこにいた。

 白い顔をした屈強な男たちと、褐色の肌をしたせぎすな男たちが、銃を撃ちながら、執拗しつように追ってくる。祖父は、銃を投げ捨て、必死に逃げた。死体の絨毯は、すべて日本兵だ。とぎれることなく、背後から銃弾が飛んでくる。容赦はない。走る。ただただ走るしかなかった。

 祖父は、奇跡的に助かった。しかし、その先には、捕虜生活が待っていた。

 二年という月日がどういうものであったかはわからない。

 祖父の妻は、戻らぬ夫の帰国を願い続けていたが、その間に、気がふれてしまった。ついには、夫を捜して冬山を何日もさまよい、両足の指を凍傷でなくした。

 もっとはやく帰国していれば、それが祖父の思いだった。

 私が覚えている祖父は、毎日朝晩、仏壇に向かって手を合わせ、一心不乱にお経をあげていた。

 祖父は、怖いものは何もないと常々言っていた。

 私は違う。そんな経験はしたこともないし、したくもない。


 『いちじく』のママが通りかかった。相も変わらず人目をひく格好だ。ちょっと用事で店を出たのかもしれない。

「『あうん』に行くの?」

「ええ、まあ」

「それなら、うちにおいでよ」

 と、ママが、ぎゅっと私の腕をつかんだ。

「そんなんじゃないんです」

「もうっ! はっきりしない男はきらい」

 私は、糸が切れたたこのように、後ろ向きで階段をのぼった。

 『あうん』のマスターは、予期せぬ珍客に舌なめずりをした。私は、蛇ににらまれたかえるだ。マスターが、煙草に火をつけた。

「何の用だ?」

「あ、あの……」

 唇が、ぴくぴく痙攣けいれんした。

「何だ?」

「せ、先月の、お金をいただけませんか?」

「本気か?」

「ええ、まあ……」

「帰れ」

「ど、どうしてですか?」

「いっぱい、もうけさせてやっただろ」

「そ、そうはいかないんです」

「はぁアーッ!!」

 マスターが短刀ドスをカウンターに突き立てた。見事だった。やいばが銀色の光を放つ。黒いワイシャツの下に、いつも忍ばせていたのだ。

「死にたいのか?」

 足がすくんだ。

「死にたくありません」

 声がかすれた。

「じゃあ、帰れ」

 私は、従った。

 店を出たときの、生きたここちは、忘れることができない。


   その十九


 その日以来、夜となく昼となく監督から頻繁ひんぱんに電話がかかってくるようになった。集金の有無うむを確認するためだ。後にも先にも『あうん』に行ったのは一度っきりだったが、電話がかかってくるたびに嘘を重ね、何度も集金に行ったことになってしまった。そのうちに、集金ができない私にごうやしたのか、監督は、ピンク電話を鳴らさなくなった。

 そして、あの日がやってくる。

 例年になく雪が早く降った日だ。

 久しぶりに、たかさんが、『ふくろう』の敷居をまたいだ。後ろには、『あうん』のマスターがいる。ふたりは、そろって、カウンターの席に座った。突き立てられたやいばのかがやきは頭からまだ消えていない。

 マスターが口を開いた。馬鹿丁寧で他人行儀な物言いだった。

()()はいくらですか?」

 どう対処すべきか、私は逡巡しゅんじゅんした。

 たかさんが、私の心中をさっして言った。

「遠慮しないで、正直に言ったらいいよ」

 迷いに迷った。その挙げ句……。

「もういいです。終わったことですから」

 それが、答えだった。

 たかさんの目が、かっと見開かれた。その腕が私の胸倉をつかみ、ひっぱりあげた。ビール瓶とグラスがなぎ倒され、破片が飛び散った。サテンのそでがめくれ、つやのある刺青がのぞいた。私は、突き飛ばされ、食器棚に激突した。

「殺されたいのか?」

 床に尻をつき、肩で息をするのが精一杯だった。

「くそ餓鬼ガキがッ!」

 たかさんは、マスターの肩に手を当て、

「悪かったな」

 と言った。マスターは深く頭をさげ、ドアの向こうに消えるたかさんの後ろ姿を目で追った。私は、ぼうーっと天井を見つめた。たかさんの面目めんぼくをつぶしたのだ。

 マスターは、

「首でもあらっとくんだな」

 と、私をあざけりながら、ドアを足でり、店から出ていった。

 ピンク電話が鳴った。監督は、おかんむりだった。

「たかさんが、えらい怒ってたぞ。どうするんだよ?」

「どうもすいません」

 裏で手をまわしてくれた監督の顔にも、泥をぬってしまったのだ。しかし、監督の言葉は意外だった。

「おまえらしくていいや」

 と、愉快げに笑った。

「やっと、終わったな」

 それは、予想外の言葉だった。


   その二十


 外の空気が吸いたくなって、私は、前の廊下に出た。

 『ふくろう』のドアをあらためて見ると、年輪を経た木の渋みが店の雰囲気に程よく合っていた。非常口から吹き込む風が、頬をなでた。一階では、『どん』の大ぢょうちんがゆれている。

「いーしやーきいもー」 

 どこか間延びがしている。

 階下で、内田の声がした。

「ちっ、いっぱいでやんの」

 どうやら、『どん』は満席らしい。

「おい、内田」

 声の主は、内田の上司か。

「まだ、二階がありますから」

「先輩……」

 不安そうな声は、会社の後輩だろうか。内田が、後輩に言った。

「ぱっとしねぇけど、とりあえずは飲めるから」

 私は、『ふくろう』の扉を開けた。客があふれ、喧噪けんそうで、カウベルが聞こえない。石油ストーブの上でぐつぐつおでんが煮えていた。昆布だしのにおいが鼻をくすぐった。

 遅れて、三人組がやってきた。座れる席はどこにもない。

 休みをとってまで駆けつけてくれた、カウンター席の沢村が声をかけた。

「内田さんは運がいいな。いくら飲んでも、今日は()()。最後ぐらい飲み放題にしようかってことで、オーナーが決めたらしいよ」

 今日で、『ふくろう』が終わる……。

 それならばと、上司も後輩も居座る気になった。三人組は、のっけから、ビールを流し込んだ。遠慮なんか、これっぽっちもない。上司が、満足げな顔で内田に言った。

「ちょっと、行ってこい」

「……?」

「後輩に、格好カッコいいところ、見せてやれよ。いい機会じゃないか」

 と、カウンターの席をあごで指した。

 でも、相手が悪かった。角刈りは、ヤクザである。ここには、看護婦の許可も取らずに、松葉杖をつき、パジャマ姿できている。ただ、ギブスの巻かれているのが、階段落ちで骨折したほうの足ではないのだ。退院間際に、反対の足もやってしまったのだろうか。

 内田は、気乗りがしなかったが、上司の命令にはさからえない。

「その足は?」

「足が、どうかしたか?」

 角刈りは、そっけない。

「お怪我ですか?」

 角刈りが、内田の胸に松葉杖を押しつけた。

「これが、竹馬に見えるか」

 内田は、精神を落ち着かせようと、両手をすりあわせた。

「……実はですね……私は、生命保険の営業をやっておりまして……お宅様のように困っている方を見ると、黙っていることができなくてですね……」

「何が言いたい?、はっきり言えよ、この野郎ッ!」

「今後もですね、そのような目にあわないともかぎりません。もしもですね、そうなったときのために……ひとつ、どうでしょう……私の話を聞いていただけないでしょうか」

 内田は、額の汗をぬぐった。あぶらぎった角刈りの目が、内田をとらえて、はなさない。

「もう一回、足を折れって言ってるのか?」

「め、滅相めっそうもございません」

 角刈りが、声を荒げた。

「そんなに骨が折りたきゃ、おめぇの骨を俺が折ってやるっ!」

「ほほほ、保険で、お困りのことがございましたら、いつでもこちらへ……」

 と、名刺を差し出したが、その手を角刈りに払われた。

「馬鹿にしやがって!」

 名刺は、ひらひらと床に落下した。

「かわいそうに」

 と、『いちじく』のママが、名刺を拾った。すかさず、内田が、ママに近寄り、耳元でささやいた。

「お願いです。嘘でもいいですから、保険に入ると言ってください」

 聞こえよがしにママが言った。

「嘘と、生命保険は、大っきらいだよ!」

 内田の小さな体が、ちぢんだように見えた。しかし、営業魂は、あきらめを知らない。

「そこをなんとか、お願いします」

 と、両手を合わせた。

「そんなに入ってほしけりゃ、あたしが入れてあげるよ」

 ママは、ワンピースのすそをめくりあげると、内田の頭にすっぽりかぶせた。

「せんぱーい」

「あのばか……」

 上司は、舌打ちをして、おでんを口に入れた。


 からんからん……。わざわざ、店が終わる日に来なくても。

「ビ、ビ、ビール」

 すでに、口がもとらない。何ヶ月か前に来た一見いちげんさんだ。背広はくたくたで、髪とひげは長く伸びていた。

 誰かが言った。

「おじさん、勝手に飲んでいいんだよ」

 一見さんが、水冷機に手を突っ込んだ。その反動で、体がよろめき、まわりの人間に次々にぶつかった。 

 誰がともなく言った。

「おい、いいかげんにしろッ」

 私は、しかたなくあの手を使うことにした。

「奥さんを呼びますよ」

 一見さんには、目鼻立ちの整った気丈な妻がいた。

「勝手に呼びゃあいいさ」

「電話してもいいんですか?」

 あの人は来る。そう思った。

 一見さんが言った。

「別れたんだ」

 離婚……。そりゃそうだろう、客たちは納得した。おそらく、公務員はくびになったか、自分からやめるはめになったかだろう。

「お客様にうってつけなのがありますよ」

 内田だ。

「独身の方、限定の商品なんです」

 りない奴だ。

「ひ、ひ、人をバカにするのも、た、たいがいにしろッ!」

「め、滅相もございません」

 誰かが言った。

「酔っ払いは、とっととせろ!」

「お、俺は、きゃ、客なんだぞーっ!」

 角刈りが、怒声をあげた。

「おめぇがいたら、酒がまずくならぁ」

「あ、後で泣くようになるぞっ!」

 と、一見さんが、茶色の紙袋を頭上にかかげた。

「こ、これが、何かわかるか?」

 内田が答えた。

「紙袋ですよね」

「き、聞いて驚くなよ。こ、この中にはな……」

 誰かが、うそぶく。

「パチンコの景品か」

 失笑がもれた。

「ぺ、ペストルがはいってんだ」

 と、一見さんが紙袋に片手を突っ込んだ。顔が真顔である。

 紙袋の底がゆっくり内田に向けられた。

 客たちは皆、階下の『どん』で一年前に起こった殺人事件を思い浮かべた。

「死にたい奴はいないかっ!?」

 上司が内田に言った。

「単なる酔っ払いだ。何とかしろ」

 内田は、後輩に耳打ちした。

「学生時代、確か柔道部だったな」

「でも、私は補欠でしたから……」

 と、蚊の泣くような声で言った。

「し、静かにしろッ!」

 空気が張り詰めた。

「ばんッ!!」

 その声は、酔っ払いとは思えぬ力強いものだった。店内は騒然となり、客たちは出口に殺到した。内田は、腰を抜かしたらしく、動くことができない。

 角刈りが、静かに言った。

「うぜぇんだよ」

 一見さんは、紙袋の底を角刈りにつきつけた。ふたりの間には、息苦しいほどの緊張がある。

 カウベルが、けたたましく鳴った。飛び込んできたのは、『どん』のチーフ、佐野である。おっとり刀で駆けつけたのだ。その手には、日本刀があった。まさか、あの時の……そんなはずは……じゃあ、あれは……!?

 佐野が、刀のつかに手をかけた。抜くと同時に切る構えだ。一見さんが佐野に狙いをさだめた。

「これが何かわかるか?」

「おっさん、これが見えねぇのか」

「や、やめてくださいッ!」

 と、私は、一歩踏み出そうとしたが、椅子につまずき、床に腹ばいになった。

 バンッ、とにぶい音がした。さやが飛び、やいばが一見さんの首をすりぬけた。しかし、何事も起こらない。私は、すべてを理解した。刀の刃は木製だった。バンという音は、からの紙袋を叩きつぶした音にすぎない。

 寿司職人の島袋が、一見さんの腕をねじ上げた。

「警察につきだしましょう」

 佐野が言った。

「税金が無駄になります」

 と、刀を鞘におさめ、

「二度と来るんじゃねぇぞ」

 と、一見さんの尻を蹴り上げた。

「いてーよ、いてーよ」

 という、情けない声がドアの外でいっとき聞こえたが、その声が聞こえなくなると、店内は、再び、賑わいを取り戻した。


「おいっ、開けろッ! 開けろってんだ、このッ!」

 沢村が、そのわめき声にたまりかね、ドアを開けると、角刈りが立っていた。それも、両足で。松葉杖はどこにも見当たらない。角刈りは、何かを抱きかかえていた。

「何してやがるッ! 救急車だッ! 早く呼ばないかッ!」

 内田が悲鳴を上げた。

「ひィーッ! 赤ちゃんッ!」

 確かに、そうだ。抱かれているのは赤ん坊だ。息をしているのか、していないのか。客たちは、言葉を失った。

 あせる沢村は、かなり手こずり、一一九と一一〇のダイヤルを回した。

 時間の経つのが早かったのか、遅かったのか。

 サイレンのかすかな音が次第に大きくなり、ぴたりとやんだ。

 救急隊員の人数は三名だった。その一人が、矢継ぎ早に質問をくりだした。 しかし、当の本人、角刈りは、何を聞かれても、

「そんなこと知るかよ」

 の一点張りだった。とりつく島もない。

 数分遅れで、警察官たちも到着した。

 その間も、赤ん坊はぐったりとしたままだ。

「急ごうッ!」

 救急隊員たちは、角刈りの手から赤ん坊を奪いとると、あわただしく店をあとにした。

 赤ん坊が置き去りにされていた廊下のトイレには、非常線がはられた。警察車両が数台、テナントビルに横づけされ、十数名の警察官が要所要所に警戒のため配備された。

 『ふくろう』の客たちは、店を出ることも、家に帰ることもできなくなった。かといって、酒なんか飲める雰囲気ではない。“一夜限りの閉店無料飲み放題”は、自然消滅というかたちでお開きとなった。


 まてよ……そういえば……。酔っ払いたちの胸には、のどの奥に刺さったとれそうでとれない魚の小骨のようにひっかかるものがあった。だが、警察に言った者は誰もいない。


 今夜のことである。開店してほどなく、静かにドアが開いた。客には見えない中年男が、赤ん坊を抱いていた。中年男は、泣きじゃくる赤ん坊をあやそうとしたが、おさまる様子は一向になかった。

「あのう……」

 中年男が、何かを言いかけた。

 沢村は、黙っていられない。

「ここは、赤ちゃんが来るとこじゃないよ」

「……わかってます……」

 その声に、力はない。

「じゃあ、帰ったら」

 と、沢村は、素っ気なく言った。

 『いちじく』のママは、ちょっと変わっていた。

「ベロベロバーッ! これでどうだッ!」

 あろうことか、ワンピースのすそを思いきりまくりあげたのだ。ところが、赤ん坊はさらに激しく泣き、おまけに、黒いもずくが、皆の目にさらされることになった。下着をはき忘れたのか、意図的にはいてなかったのか、それはわからない。

 中年男が、沢村にたずねた。

「……嫁が来なかったでしょうか?」

「奥さんは、どんな人?」

 中年男は、心ここにあらずといった顔で言った。

「どちらかといえば、身長は低い方で、中肉中背、年は、たしか、二十代半ばです」

「ここには、来てないよ」

「そうですか」

 と、腑抜ふぬけた男は、重い足取りで出ていった。


 それだけのことである。


「最後の日だってのに」

 ふてくされた佐野が煙草に火をつけ、正面から私の顔を見た。

「おまえは、やっぱり向いてねぇな」

 その通りだ。マスターってがらじゃない。

 佐野が、いらだたしげに言った。

「塩だッ!」

 店の外は、ひんやりとして、心地よかった。私は、腕を振り上げ、大きく塩をまいた。

 ペタペタ、ペタペタ……。この寒い時期に草履ぞうりとは……。現われたのは、お坊さんだった。白衣はくえの上に黒の法衣をまとい、ニット帽を目深まぶかにかぶっていた。

 お坊さんは、トイレの前に行き、やおら手を合わせると、お経をとなえはじめた。

かんじーざいぼーさー……」

 私は、お坊さんに背後から歩み寄った。

 お坊さんは、お経を中断した。

「今日で終わると聞きました。一年間、おつかれさま」

 私は、むきになって言った。

「冗談じゃない。まだ死んだわけじゃないんだ。お経なんか……」

 お坊さんは、おっとりと言った。

「私は、子供を助けるために、お経をあげているんです」

 その声には聞きおぼえがあった。

「!? 河西さんッ!」

 涙がこぼれそうになった。

「ひとりでも多くの人に幸せになってほしい。それが、私の願いです」

「あったまるものでもどうですか?」

「酒はやめました」

 その言葉は、河西には似合わない。けれど、らしいとも思った。

「……ふーしょうふーめつふーくーふーじょうふーぞうふーげん……」

 河西は、寒そうな素振りも見せず、お経を続けた。

「ご苦労様です」

 警官たちのんだ声が聞こえた。おおかた、警察のお偉いさんだろう。見ると、それは、革ジャンのポケットに手を突っ込んだ監督だった。

「おい、やる気はあるのか?」

 簡潔で明瞭、だが、わからない。

「!?」

「映画だよ」

「やります」

「あとは頼んだぞ」

 言うが早いか、監督は、階段を下り始めた。


 たった数時間前のことなのに、真実がわからない。歴史の教科書では、何百年前の事がわかるというのに……。取り調べは深夜まで及んだが、手がかりはひとつもなく、刑事たちの苦労は徒労に帰した。


 それでも、ひとつだけ、救いはあった。

 赤ん坊が、一命をとりとめたのだ。

 私は、白い和式便器のおかげだと思った。


                              〈終〉


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