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貴族令嬢は図書室にいる  作者: こはく
3/4

3.出会いと事件

※注意※ 結っ構な暴力シーンがあります




 もうすぐ主人公のノエルが私の前に現れる。

 私は穏やかな日常に満たされながら、ぼうっと考え込む日が多くなっていった。本を読む速度が目に見えて落ちた事にいち早く気がついたのは、他でもないメアリーさんだった。

 彼女は椅子に腰掛けて窓の外をただ眺めている私に、心配そうにして声をかけてくれた。


「ネリ様、ずっとそうやってしていらっしゃいますね。まさか学園で何かあったのですか……?」

「……いいえ、何もないんです。

 ただちょっと、疲れてしまっていて……」


 そう言うと、メアリーさんはすぐに早めの晩餐に切り替えてくれた。主人であるニコル様を差し置いて、私の都合で食事の時間を早めるのもどうかとは思ったけど、今は少しだけありがたい。

 食卓に行くと、すでに兄様は着席していた。浮かない表情の私を険しい表情で見上げている。その瞳の中には、微かな気遣いのような色が揺れている。

 食事中彼は始終穏やかな声音で、私に話しかけてくれていた。


「メアリーから元気が無いようだと聞いたが」


 何もかもを見透かすような金の鋭い瞳が私を見つめている。

 彼の言葉はいつも無駄がない。伝えたいことだけを伝える少ない言葉には、無駄なものなんか一切無い。

 私は心配をかけていることに申し訳無さを感じながら、ニコル様に頭を下げた。


「いいえ兄様、何もございません。ご心配をおかけして申し訳ありません……」

「分かった。

 ……何かあるなら、すぐに言うように」

「ありがとうございます。その、少しだけ……」


 途中まで言いかけて口を噤んだ。

 心配そうなニコル様とメアリーさんに、誤魔化すように笑顔を見せた。


「いいえ、……きっと少し気落ちしているだけなのだと思います。

 少し休めばきっと収まります」

「……」


 ニコル様は私の言葉の真偽を見極めるようにまっすぐ私を見据え、それからすぐに視線を食事へと戻した。

 うまく説明できない。そもそも転生や乙女ゲームといったワード自体が特殊すぎてこの世界には無い。更に言うなら、私はあなた方の誰かに殺されて半年後に死にます。なんて我ながら馬鹿げたこと、もっと言えるわけがない。

 ニコル様には何かを見透かされた気もするけど……


「相談は必ず私かメアリーに伝えろ」

「はい、ありがとうございます兄様」


 食事をする振りをして、こっそりニコル様達を伺い見る。無愛想だけど優しい兄。孤児にも優しくしてくれる屋敷の人たち。

 こんな温かい場所と、あと半年ちょっとでお別れなんだな……

 胸が苦しい。



 最近の学園では、近々やって来る留学生の噂でもちきりになっている。私はその話題をどうしても聞いていたくなくて、図書室の隅でいつもより息を潜めて読書していた。

 人間慣れとは怖いものだ。少し前の私ならシナリオだし死ぬのも仕方ない、と心の整理をつけていた筈なのに……今更になってそれが全然うまくいかないのだ。

 頭に浮かぶのは昨日の兄の顔。主人公のノエルには優しくていつも優雅でにこやかな、人当たりのいい貴族。私にはにこりともしてくれない人。

 何を考えているのかかなり分かりづらいのに、でも心はとても静かで穏やかな、やはり優しい人なのだということが分かって、そう思うだけで心が暖かくなった。

 きっと私はニコル様に、一方的な親しみを感じはじめている……

 それでも彼は攻略対象者なのだ。決して救いの手ではないことをしっかり覚悟しておかないと……死に際はひどく傷つく結果になるだろう。

 私は全く身の入らない読書を続けた。


 いつもの時間どおりに、デリエリ家の馬車が迎えに来た。……が、いつも迎えに来てくれる御者ではなかった。そこにふとした違和感を感じ、名前の分からない御者に一応声をかけた。


「お迎えをありがとうございます。いつも来て下さっているオックスさんはどうされましたか?」


 帽子を被った笑顔の中年御者は私に気がついて馬車から降り、ドアを開けてくれた。馬車と馬自体は間違いなく見慣れたデリエリ家のものだった。


「ああ、彼でしたら、今日は風邪をひいて休んでいますよ。俺は屋敷で馬の世話をしているケインという者です。御者の仕事も昔していましてね、旦那様もお出かけになられていたので、今日はオックスの代わりに来たんですよ」

「そうですか……オックスさんに、お大事してくださいとお伝えください」


 私は杞憂に胸をなでおろし、すぐに馬車に乗り込んだ。

 ドアが閉まる直前、ケインさんが僅かなすき間から何かを馬車内に投げ入れる。いやな予感がしてそれを確認しようと床を見た途端、私の意識は暗転した。



   ◇◇◇◇◇



 頭の痛みと、女性と思しき誰かのうめき声で私は覚醒した。頬に感じる冷たい触感。ここが馬車でないことだけは分かる。

 視界のあまりの暗さに、ここはあの懲罰房ではないかと錯覚してしまう。

 口内に布か何かの詰め物をされていて顎が痛い。両手両足もしっかり縛られていてびくともしない。

 なおも頭上で苦しそうな呻き声が聞こえてくる。同じように猿ぐつわを噛まされているんだろう。


「どうやら目を覚ましたようね。

 ……久しぶりですね、アン。大きくなりましたね」


 ノックも無く開いた扉の向こうから、ランプを持った女性が入室してきた。

 女性は私に歩み寄り、後頭部で結ばれていた猿ぐつわの紐を解く。

 この無機質な声には聞き覚えがある。しかしランプ照らし出されたその顔は、記憶の頃よりもかなり老けて痩せていた。


「……シス、ター?」

「ええそうです。久しぶりですねアン。ですがもう私は孤児院をクビになり、教会からも追放されました。なので違うとも言えますね」


 シスターは床にランプを置いた。すると灯りが床と壁に反射して、もう一人の女性がの顔がうっすらと見えた。

 私は息が止まるほど驚いた。もう少しで悲鳴を上げるところだった。


「……なぜ、ここに……」


 そこに居たのは、椅子に縛りつけられて身動きの取れない、乙女ゲームの主人公……ノエルだった。

 もうこの国に到着しているのは噂で聞いてはいたけれど、まさかこんな所にいるだなんて思いもしない。

 シナリオ上では気丈に振る舞う芯の強い彼女だって、か弱い令嬢であることに変わりない。この状況にとてつもない恐怖を感じているのだろう。その顔はひどく青ざめていて、縛られた身体は震えている。

 私はその姿を見て頭が冷え、どこか冷静になった。目の前の女は間違いなくシスターだ。私に何かの用があるのだろう。どんな事情で拘束されているのかは分からないけど、シスターとノエルに接点あるとは思えない。

 何とかしてノエルを逃してあげたい。私は半年後に死ぬか今死ぬかぐらいの違いしか無いだうけど、彼女は違うはずだ。


「シスター、誘拐という重罪を犯してまで、私に何か言いたいことがあるということですか?

 ……それと、椅子の女性はどなたですか? シスターが話があるのは私ではないのですか? ……元孤児の私はともかく、彼女を開放しないと縛り首になるかも知れませんよ」

「フン、よく囀ること。……お前の義兄のせいで、わたくし達はその後随分と煮え湯を飲まされてきました。

 あの忌まわしい貴族から、わたくし達の大切な財産を取り戻すため……あの貴族の家族であるお前が償うべきだと、わたくしは考えたのですよ」


 この人は一体何を言っているのか、全く意味がわからない。私を見下ろすシスターの目には一切の光が宿らない。もう正気ですらないのかも知れない。

 それでは椅子に縛られているノエルはどういうことなのか? 話の筋が全く通らない。


「……なら、彼女は? 目の前にいる私と同じような格好のあの方をどうするというのですか?

 まさか、孤児院とも当家とも関係のない人も誘拐したっていうんですか!?」

「お黙りなさい! 誰が喋っていいと言ったんだ!」

「ぐっ!! ……か、はっ」


 シスターは座ったままの私の肩に蹴りを入れた。受け身も取れないまま勢いよく背中を床に打ち付け、息が苦しくて思わず身悶えた。

 私を見下ろす彼女を睨みあげると、仄暗い笑みを浮かべていた。目に宿るそれは狂気だ。

 シスターは呼吸をするのに精一杯といった私の肩を踏みつけにし、クスクスと笑っている。


「思えばお前は院にいた頃から反抗的でしたね。あの頃もたっぷり『お仕置き』した筈でしたが……

 この期に及んでまだ反省していないとは……神よ、この罪深き娘をお救い下さい」


 そう言いながら、シスターは私を踏みつける足の力を強めた。だめだ、話が通じない。痛い苦しい、恐ろしい。兄様。


「お前の兄から受けた屈辱を、お前にも与えることにしましょう。

 孤児院で育てた恩を仇で返すような、そんな救いようのないお前を罰し『命だけは』お救い下さるという方を連れてきましたよ? さあアン、よく反省するのです」


 シスターは私から離れ、ドアを開けた。

 そこからはぞろぞろと何者かが入室してくる。ランプ一つに照らし出された足は二人。靴の大きさは男のものだ。彼らの声は笑っている。

 これから何が起こるかは……さすがの私も察しが付く。考えうるパターンの中で一番最悪最低の展開だ。

 シスターは男達に顔を向け、私を指さす。


「その黒髪の娘は如何様にも……ああ、そちらの銀髪の少女には何もなさらないで下さいね。この少女は身代金を多く絞り取れるであろう貴族の娘です。何でも、隣国からの留学生なのだそうで。

 さすがに国の使者は無傷で返さないといけませんから」


 そう言い捨て、シスターはこちらを振り返ることもなく退室した。複数の足音と下卑た笑い声は、どんどん私に近づいてくる。体をよじってどうにか後退しようとする私の服の首元を掴み乱暴に引っ張ると、いとも簡単に体が宙に浮いた。


「いっ! ……ぐっ!」

「ううー!? うううー!!」


 いともたやすくうつ伏せにされ、服を力任せに破られる音が部屋中に響いた。背中で留められていたボタンがあちこちに散らばって、引攣れた服が体に食い込んで痛い。恐怖で額に脂汗が流れる。手足を縛られた私にはなす術無くただ身を固くする以外の行動が取れない。壁際の椅子に縛り付けられたノエルは愕然と目を見開きながら声をあげて、椅子をガタガタと揺らしている。

 おもむろに私の服を破く乱暴な手が止まった。かん高い舌打ちが聞こえる。


「……おい、あのババア騙しやがった! コイツは貴族女じゃねえ、見ろよこの背中!」

「うわっ! なんだこりゃ、鞭打ちの跡かよ……」


 背中なので自分ではよく見えないけれど、確かに私は子供の頃から孤児院で懲罰の度に鞭打たれていた。当時は何の治療もしなかったから、醜い引きつれた古傷はこの先も恐らく消えることはない。

 本物の貴族令嬢のような、大切にされた体じゃないなんて……あの人に釣り合わないことなんて、私が一番よく分かっている。


「あのとぼけたババア、悪趣味な貴族の奴隷か情婦と間違えてんじゃねえのか?

 貴族女がこんな汚え体してるわけねえだろ」


 男どもは憤慨したような声を口々に上げる。

 取り囲む男のうちの一人が私の顎を掴みあげ、無理やりグイと上向かせた。ランプで顔を照らされ、至近距離に髭面のにやけた男の顔がある。ひどく酒臭い。


「おい、そういうのは後回しにしてよ……ま、顔はいいし女には違えねえし。

 これはこれということで、俺は楽しませてもらうとするぜ」

「まあ……汚え背中になんざ用はねえからな。上玉には違いねえし、仰向けにすりゃ何とか――」


 そうして男達が私を床に押し付け、仰向かせようと肩に手をかけた瞬間――

 突然ひどく大きな、落雷でもあったのではないかという音が部屋に響いた。次いで何かがカランカランと転がる音。ノエルはくぐもった悲鳴をあげた。男どもは突然の衝撃音にビクッと体を強張らせ、一斉にドアのある方向を見た。


「あ!? 何だ? ここは今取り込み中……うわっ!」

「お、おい!? しっかりしろ……ガッ」


 最初に声を発した男が突然ドサリと倒れた。もう一人の男も同じようにその場に崩折れる。私を襲おうとしていた男達が突如沈黙し、私は床に伏せていた顔を恐る恐る上げた。

 ランプに映し出された床には倒れた男の腕と、床のタイル目地を伝う黒い液体。新たに入ってきた者であろう、誰かの足が見える。その奥では椅子に縛られたノエルが靴の人物を見上げてボロボロと泣いている。

 体をよじって更に上を見上げると、ランプに照らし出され、目を見開いて顔色を無くしたエドが私を見ていた。


「エド……?」

「……っ、こいつら……っ」

「エド、落ち着いて。私は……まあ色々とこんな感じで言うのもアレだけど全く無事だから。

 ……兄様の頼みで来てくれたのね?」

「っ! ……お前何でそんな冷静なんだよ! こいつら、よくも俺の家族を……! 苦しめ抜いて殺してやる!!!」


 エドは怒鳴りながら、男達にナイフを振り上げた。


「っエドいいから!! 椅子に縛られている彼女と私の! 縄を! さっさと解け!!」


 私はきつい口調で叫び、縛られた両足で我を無くすエドの足に何度もガンガン蹴りを入れる。スカートがまくれ上がったがなりふり構わず全力で。

 さすがに女の蹴りごときでは身じろぎもしなかったけれど、エドは茫洋としたまま振り上げたナイフを止めて、睨みつける私と、次に椅子で泣いているノエルを見た。

 エドは深く眉根を寄せ、苦悶に顔を歪ませていた。湧き上がってくる怒りをねじ伏せるかのように音を立てて歯を食いしばる。


「……くそがっ!」


 エドワルドは持っていた血まみれのナイフを力任せに投げ捨て、使われていないナイフをどこからか取り出して私達の縄を切った。ノエルも椅子から自由になり、長いこと噛まされていた猿ぐつわも外された。椅子から泣きながら崩れ落ちるノエルを、エドが素早く受け止める。


「あ、あり、あり……ありがとうござ、います……!」

「いや……取り乱し、救出が遅れました。申し訳ありません。

 隣国より来られたラスガルド男爵令嬢、ノエル様ですね?」

「はい……はい、そうです」

「貴女を探しておりました。私は騎士のエドワルドと申します」


 ノエルが何とか無事だったのを見て、私はようやく安堵し長く息を吐いた。自由になった手を見ると遅まきながら震えがきている。

 走る靴音が廊下で響いて、こちらに迫ってくる。まさかシスターかと思って、私は何とか緩んだ気を持ち直し、壊された背後のドアを振り返った。

 そこに飛び込んできたのはニコル様だった。外套を羽織り、肩で息をして髪が汗で額に張り付いている。

 金の鋭い視線が床に居る私を見つけて、目を見開く。服を破られて背中があらわになった私を……


「……っ!」


 私はぱっと体を反転させ、背中を隠した。徐々に血の気が引いて震える。

 これだけはどうしても……ニコル様に絶対見られたくなかった。壁まで後退したかったけれど、膝が震えて力が入らない。

 彼は目を見開いたまま私を見て数瞬身じろぎすらしなかったが、視線だけをゆっくりと床に伏す二人の男に下ろした。血は流れているが辛うじて命のある二人の男は意識を取り戻したのか、時折呻き声を上げながら動けずに震えている。

 次の瞬間、ニコル様は誰もが震えるほどの鬼気迫る殺気を男達に向けた。怒気やるかたなしのエドですらそれを見て血の気を失っている。彼と目が合った男はヒッと息を飲み、がたがたと震えていた。徐々に、尿臭が狭い部屋に充満する。

 ニコル様は足早に部屋を横切り、着ていた外套で私の身体を包んだ。背中を見られたショックで頭がガンガンする。悔しくて何も言えずに、ただ外套の前を強く握りしめ、息を噛み殺しながら小さく床に蹲る。もうここから消えて無くなりたい。

 しかしすぐにその上から腕が伸びてきて、私を熱いほどのぬくもりが包み込んだ。抱きしめられてる。力強く……ニコル様に。

 彼は微かにふるりと震えた。奥歯を噛み締めながら、絞り出すような声が聞こえる。


「ネリ……っ」


 苦しくても飢えても寒くても、鞭で打たれても、物心付いたころから私は泣いたことがなかった。大人たちはそんな私を可愛くない娘だとか、冷血だとか言ってた。私も涙なんて体内の水分が失われる気がして勿体無いなと思ってた。

 正直に言うと私は泣き方なんて知らない。泣けない理由も、今泣いてる理由も、止め方も……分からない。


 歯を食いしばりながら声もなくくしゃくしゃの顔で泣いている私を、ニコル様は外套でくるんで抱き上げ歩き出す。

 思い出したようにニコル様は男達の横でひたと立ち止まり、エドワルドを見た。


「……この汚物共を縛り上げて我が屋敷の離れへと運べ。なりはどうでも構わないがまだ殺しはするな。

 同時にラスガルド嬢を丁重に特使の許へお連れし、廊下にいる老婆は主犯格として騎士団に差し出せ。奥の部屋にも数人いるだろうが、そこはメアリーに一任してある」

「承知しました」


 エドは恭しくニコル様に傅いた。

 涙が止まらない私を壊れ物のように優しく抱きすくめながら、ニコル様は再び颯爽と歩き出した。廊下に出るとすぐの所に息を乱したシスターがへたり込んでいた。恐怖の表情でニコル様を見上げ、震える手ですがろうとしている。


「お、お慈悲を……神よ……神よ……」


 縋るシスターの横を立ち止まることもなく足早に通り過ぎ、階段を降りた出口の先にはデリエリ家の馬車が停まっていた。そこには帯剣し、黒い外套を纏ったメアリーさんが立っていて、素早く馬車のドアを開いて私達を待っている。

 ニコル様の腕に抱かれた、めちゃくちゃな泣き顔の私を見て、一瞬だけ激しい憤怒の表情で建物を見上げ、すぐに顔を伏せて主人への礼を取った。


「……こちらは全て滞りなく」

「よろしい、直ちに帰る」

「はい」


 今まで見たこともないような険しい表情のメアリーさんに私は動揺しつつも、決壊した涙腺は留まることを知らず涙を流し続けている。

 ニコル様は私を抱えながら難なく馬車のタラップを登り、そのまま席に座った。私をその横に優しく降ろし、彼の膝に頭を乗せる形で横たわらせられる。

 私の止まらない涙がニコル様のズボンをどんどん濡らしていく。慌てて服の袖で目尻を押さえようとしたけれど、ニコル様は私の手をやんわりと止めて握る。開いた左手は髪を優しくなで梳いている。


「……ネリ、無理に押し止めずにいなさい」


 その優しい声音に、また涙がどっと溢れてくる。メアリーさんがきれいなタオルを私の手にそっと握らせてくれた。

 私はタオルをぎゅっと握りしめて、ニコル様の膝で震え泣いた。



   ◇◇◇◇◇



 いい匂いが鼻孔をくすぐり、私は目を覚ました。

 気がつけばほかほかした布団に私の身体はすっぽりくるまっていた。この屋敷に来てからいつも寝ているベッドの上だった。昼間なのかカーテンのすき間からくっきりした光が差し込んでいる。

 瞼がヒリヒリして、重ぼったくて半分しか開かない。ベッドサイドを見ると湯を張られた桶がある。そこからもたらされる蒸気が頬をくすぐる。湯気はラベンダーの香りがした。

 ゆるゆると上半身を起こすと、服はいつの間にか寝間着に着替えていた。汗やほこりに塗れていた肌もすべて清潔にされている。馬車の途中から記憶がぶっつり途切れていて、自分で着替えた記憶が一切ない。また更に誰かが体を見たのかもと思うと、何だか色々とやりきれなかった。

 脱力して再びベッドに横たわり、毛布を頭から被った。今は誰にも会いたくない。心はずたぼろで、体もあちこち痛い。


 それから幾ばくかして、メアリーさんが入室してきた。心配をかけたくなかった私は再び気だるげに体を起こした。怖くて何も言えないでいると、彼女はそっとベッドサイドにやってきて私の背中を労しげに撫でてくれた。

 また鼻の奥がツンと痛くなったけれど、涙をぐっと我慢した。


「助けて、くださり、あ、りがと…ございます……」


 喉が引きつって、声をつまらせながらメアリーさんを見上げると、いつも心優しく微笑んでいる彼女は頬を濡らして静かに泣いていた。私の頭と肩をふわりと両腕で包み込んでくれた。

 あまりの暖かさに、限界を越えてまた涙をこらえきれなくなってしまった。


「昨日は、ノエル・ラスガルド様もお見えになっていました。ネリ様が必死に自分を救おうと説得していたと、ノエル様が……」


 ノエルは縛られた箇所の擦り傷以外、危害を加えられる事は無かったそうだ。それでも本当に恐ろしい思いをしただろう。

 それなのに私のことも気にかけてくれるなんて、やはり主人公ノエルは強い心の持ち主だった。


「目が覚めたら、旦那様がお部屋に来たいと仰っています。

 ……お会いに、なられますか?」

「っ……は、い」


 ニコル様がここに来る。

 ……それはすごく恐ろしい言葉だったけれど、彼に会うことを避けては通れないのは分かっている。

 ニコル様は、ノエルに出会ってしまった。泣いている場合じゃない。これからは何が起きても気をしっかり持たなければ。

 メアリーさんはとても心配そうにしていたけれど、ニコル様を呼ぶために一旦部屋を出ていった。

 私は痛む背中をどうにか曲げて、ベッドサイドに腰掛けた。また泣いてしまい顔もかなり酷い事になっているけど、もう腹をくくるしかない。


 ――そして少しの後、ノックの音が響いた。

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