1.孤児院の少女
私は暗い部屋の中にいた。
ここはとある孤児院の、窓のない懲罰房。殊更悪いことをした孤児をおしおきする為に入れる、外鍵付きの何もない部屋。
文字が読めるようになってからこっそり読んでいた『大人の本』に出てくる、いわば牢屋みたいなものなのだろう。
ここで働く大人たちは私が難しい言葉を読める事を知らない。眉一つ動かさないシスターも、私に暴力を振るって楽しむ修道院のお姉さま達も。
私はなにか悪いことをしたんだっけ? とうすぼんやりした頭で考える。私は懲罰房の硬くて冷たい床に横たわり、ただ闇を見つめていた。
この孤児院に来てからずっと、私を含めた子どもたちはずっと放置されてきた。大人たちは皆ふくよかで厚手の布地でできた仕立ての良い服を着ているけれど、子どもたちはガラガラに痩せて、ズタ布の着倒されたお古を着ていた。
常にお腹が空いているので庭で声を上げて遊ぶ元気もなく、朝から夜まで家事や野良仕事をさせられている。私より小さい子供も。
ここは孤児院だから、当然誰かが養子に貰ってくるれる事でしか、私達はここの強制労働から逃れることはできない。でも養子にと望んで見学に来る身なりのきちんとした外の大人は、私達の様子を見て痛ましそうに顔をしかめて帰っていった。
疲れきって痩せたボロボロの子供なんか、自分の子供にと欲しがるわけがない。ここの大人たちは「お前らが無愛想だから、笑顔を振りまかないから」貰い手が付かないのだと責任転嫁してくるけど、ここの衛生状態が悪すぎて何の病気を持っているか分からないから、外の大人たちは私達の事を敬遠しいているのだ。
12歳の頃から、私達年長はは大人たちの目を盗んで食事のパンを隠し、下の子達に分け与えた。一刻でも早く小さい子を養子に望まれるようにして、孤児の生存率を上げるためだ。
私は文字の読み書きをこっそり勉強しだした。小さい子達に教えて奉公先を見つけるためだ。図書室は誰もが出入り自由になっていたから、労働が終わって皆が寝静まった後、こっそりと本を持ち出して真夜中の庭で読んだ。児童書から始めて今はわりと色んな本が読める。辞書もあったから大人に聞かなくてもそこまで不自由は無かった。
13歳になった頃に計算と簿記の本を読んだら基本は理解できた。試しに忍び込んだシスターの部屋の帳簿を盗み読んだら、これがまた酷い有り様だった。国からのお金と私達の生活にかかるお金がまるで合わなくてちょっと笑った。しかも地域のお役人に賄賂を握らせて黙らせているのだからたちが悪い。
そしてとうとう、私は懲罰房に閉じ込められた。14歳になりたての今。
孤児院の畑の野菜をちょっとずつ数をごまかして、外で売って食べものを買っていたのがばれてしまった。
子どもたちは全員私からの指示だと証言した。いざという時はそう言うように私が言い含めておいたからだ。
そうしてここで水だけ飲んで過ごしてかなり経つ。ここに入る前から既に飢えていたのに、ここに来てもう立ち上がる気分にはならない。というかずっと寝てていいなんて、逆に有り難いぐらいだ。
昼なのか夜なのかは窓がないからまったく分からない。そのどちらでも寝てしまえば関係ない。
まあ私ももうそろそろだろう。寒さも空腹もあまり感じなくなってきたし。
そうして更に時間が過ぎると、私の意識は常に朦朧としていた。聞こえるはずのないあの大人たちの下卑た笑い声や、誰かの叫び声が時折聞こえる。山に遭難した人の自伝本を読んだことがある。これは幻聴だ。
その中で更に幻覚まで見え始めた。四角い、……光る何か。
私はそれが何かは分かっていた。携帯ゲーム機の液晶画面。真夜中眠れなくて、布団の中にすっぽり篭ってプレイしていた乙女ゲームのワンカットが映っていた。
下に私の名前がテロップされてる。主人公にすごく嫌なことを言って全否定してる。私こんな悪口言ったこと無い。
今の自分と同じ名前の、この登場人物が嫌いだった。我儘で冷酷な貴族令嬢が、逆境に立ち向かいどうにか堅実に生きようとする主人公を虐げていい理由なんかどこにもない。私は貴族じゃなくて良かったな。こんなアホにはなりたくない。
その後主人公を殺そうとした貴族令嬢は終盤で死んだ。主人公とのエンディングを迎える攻略対象者達は闇の商売人だったり、凄腕の暗殺者だったり、はたまた最強の権力を備えた貴族だったりした。彼らは愛する主人公のため、眉一つ動かすこと無く令嬢を裏で謀殺した。
このシナリオ……すごく楽しかったな。またプレイしたかったな。前の私は25の時に死んだわけなので、もう無理だけど。
このゲームには理不尽な愛と主人公のトラウマが根底にある。主人公は妹に想い人を取られ、恋なんか一切したくないと思う精神状態から物語は始まる。
私も『前世のあの頃』は色んな理不尽があって、主人公の冷めた恋愛観には深く共感したものだ。
現在の私も、恋だの愛だのより食べ物がほしい。
搾取されるのはもう沢山……早く大人になって、働いて……明日を凌げるだけの、力がほしい……そして年少の子たちをなんとか養子に……出、てみん、な……幸…………、………
◇◇◇◇◇
「この娘がご所望の『カーネリアン』です」
感情を含まない無機質な声が耳に届いた。シスターの声だ。
ずっと暗い場所にいたせいか、目をうっすら開けただけでも眩しくて何も見えない。
けれど体のかゆみが無くてふわっといい匂いがする。まるで石けんで体を洗った時みたいだ。
しかも横たえられているのも温かいフカフカの毛布の中だ。懲罰房の硬くて冷たい床じゃない。
「……この娘は、何故ここまでやせ細っている」
「ああ、侯爵様……どうか勘違いなさらないで下さい。
この子はその、少々……そう、拒食症でして。与えた食べ物をことごとく拒絶するのです。だから痩せております」
嘘つき。
最近はじゃがいもを蒸して潰しただけのものしか当たらなかった。もちろん他の子達も。
懲罰房に何日入ってたかはわからないけど、その間に至っては水しか飲んだ記憶がない。ここの子どもたちなど、もう完全に死んでもいいと思われてる。
しかし体も口も一切動かないので、反論が出来ないのが悔やまれる。
「我が家の侍女が体を検めた際の報告では、左肩が骨折しているとあったが?」
「何分拒食症で食べないので、これは貧血でよく倒れておりました。二日前にも貧血を起こして階段から落ちたのです」
また嘘。
懲罰房に突き飛ばされた時に石床に打った左肩は、めまいが起きるほど痛かった。やっぱり折れてたか……
「ふうん……まあいい。
この『カーネリアン』は、我が家に正式に養妹として迎え入れる。シスターはその手続を速やかに行いなさい」
「……し、承知いたしました」
「少々過酷だろうがこの娘を屋敷に運ぶ。メアリー、今すぐ馬車を入口前に寄せろ」
声の主の指示どおり、私は滑車付の寝台に載せられ、あっという間に廊下に連れ出された。
その頃には目が慣れて辺りが見えるようになった。廊下の向こうには共にこの過酷な孤児院で過ごした子どもたちが集まっていた。
小さな子は私の様子を見て泣いていて、年長達はそれをなだめている。
彼らの一番前に立つエドは、私と同い年で子どもたちのまとめ役だ。彼は私の目を見て、一つ頷いて見せた。言葉を交わさなくても、彼らがこれからも頑張って耐えしのいでくれるだろうことは分かった。その横を通り過ぎる時、私もどうにかエドに頷き返し、声を絞り出した。
「……おね、がいね」
馬車に乗せられた際はさすがに座らされ、体制が変わって左肩がひどく傷んだが、隣に乗った女性が私をしっかりと支えてくれた。
金髪碧眼の女性は若く聡明な顔立ちで、飾り気の無いシックな装いをしていた。今までの誰よりいい匂いがして心地よい。
私を養子に望んだ声の主はその威厳とは裏腹に年若い男性で、背が高く思いのほか大柄。まるで絵画のように上等な紳士の身なりをしていた。艷やかな黒髪にシルクハットを被り、厳しく鋭い金の目が厳しい表情に私は思わず身を竦めた。
彼が私達の向かいに乗り込むとすぐさま馬車は動き出した。
◇◇◇◇◇
私を養女にした紳士の屋敷に着いて、早20日が経過した。
馬車に乗った後どうなったかの記憶が無い。ようやく意識がはっきりしだしたのが到着後5日。野菜出汁と卵の粥から食べ始めて、徐々に通常の食事に戻したのが更に5日後。
院で畑仕事をしていた恩恵か、往診に来るお医者は驚異的な回復力だと私に言っていた。
そして更に10日。ベッドになら座って読書をしても平気なまでに私は回復した。
「メアリーさん、私は自分で着替えられます」
「カーネリアン様ったらいけませんわ! 介抱の全責任は私にあるんですよ。旦那様に叱られるのも私なんですから」
「で、でも」
ちょっとプンプンしながらメアリーさんは私の着替えを手伝ったり、まだ動かせない左手の包帯を替えてくれたりした。
こんなに美しい女性が私を甘やかしてくれて時に叱ってくれて、甲斐甲斐しくお世話をしてくれる。優しい姉を得た気分。ただそんな彼女が私の世話をする専用の侍女だと知った時には、ベッドに寝ながらにして腰を抜かしたものだ。
でも誰かに体を見られるのはまだ慣れない。折檻で鞭打たれた跡や野良仕事の古い傷が黒ずんであちこちにあるし、何よりガラガラに痩せててとにかく醜い。最初の着替えの時にメアリーさんは私の背中を見て、一瞬目を眇めたのを思い出した。
「もう左肩の炎症もずいぶんと収まりましたし、今日こそはお風呂にも入りましょう」
「お、風呂? えっと、お湯に浸かるあれでしょうか」
「えっ? ……カーネリアン様、今まではどのように体を洗っていらしたのですか?」
「えっと……沸かしたお湯を水で割ってたらいに張り、絞った布で拭いていました」
ぬるま湯が当たればいい方で、大体は水拭き。それが2週間に一度あれば良い方だったというのは、言わないほうがいいだろう。
ここで言うお風呂というのは、大きな桶にたっぷりの湯を張り、その中に全身浸かるといった贅の限りを尽くしたような代物だった。この水量が私達の清拭何回分なのかと考えると、貴族という生物が正直恐ろしい。
ハーブオイルのいい匂いがする浴槽にすっぽりと体を浸からせ、これまた清潔な匂いのする石けんで髪からつま先まで綺麗に洗われる。心地よいお湯の中で何度もうとうとと寝そうになって、その度メアリーさんが優しく起こしてくれた。
左手が不自由な体を柔らかいタオルで拭いてくれて、下着から手伝ってくれる。ふと気がつくと、私の横に用意されていたのは寝間着ではなく、シンプルな造りの紺のワンピースだった。
「本日は旦那様がお帰りになるんですよ。カーネリアン様の調子も良さそうなので、一緒に午後を過ごしたいとの仰せです」
「……そうですか」
私を孤児院から連れ出した『旦那様』は、ニコル・デリエリ侯爵という名の貴族。まごうことなき本物の紳士だったのだ。
私はその妹として養子に迎えられた。身元不明の孤児だった私に姓が付いて、カーネリアン・デリエリという名前になった。
前世の記憶の中にあった、ゲームに出てくる悪辣な貴族令嬢と同じ名前、黒髪黒目の同じ容姿。悲しいが、こうなっては認めるしか無い。私はあの悪役令嬢なのだ。
そして私の兄となったニコル様は、清濁併せ持つ強大な人脈と権力で裏社会に精通する貴族。の役で出てくる攻略対象者。
しかし作中では、私とニコル様は実の兄妹だったはずだ。……話中では語られなかった裏設定が存在していて、実のところカーネリアンは養子だったのだろうか?
まあ色々と驚いたりもしたけれど、このままゲームシナリオ通りに行けばどのみち命はない。先日懲罰房で死ぬ予定だったのがちょっと延びただけなのだ。そう考えると、私が今後多少自由に生きたとしても、大して支障は無いのかもしれない。せめて自分を養女に貰ってくれた旦那様には何か報いたいものだ。
でも一つ作中と決定的に異なるのは、主人公に危害を加える気が今のところ塵芥ほども無い。ということだろう。
私は主人公の事は好きなわけだし、何より貴重な時間とエネルギーを悪意を他者にぶつける暇があるなら、大好きな読書や勉学につぎ込みたい。
◇◇◇◇◇
「失礼します」
メアリーに促されるまま入室すると、そこは館の主人の書斎で、その奥には庭に続く大きな窓があった。
窓を通り抜けると光があふれる美しく広い庭が現われた。花木が伸び伸びと育つ園の少し奥に、こじんまりとした東屋が覗いていた。そこに人影がある。
東屋の中に入るとゆったりとした座り心地の良い椅子が二つ用意されていて、テーブルにはティーセット。あまりの非現実感に私は若干遠い目になり、冷めたふかし芋が唯一の娯楽だった時代に思いを馳せる。
ここが私にとって地獄なのか天国なのかは、目の前に座る年若い旦那様が決めてくれるだろう。
私はメアリーさんに習ったように、膝を曲げて淑女の礼をした。左手を首から布で吊るしているため、あまりバランスが取れずふらつくのは容赦して欲しいけど、それを見てニコル様の金の目がやや険しく細められた。
「養子に迎えていただいたにも関わらず、お礼が遅れてしまい心からお詫び申し上げます。カーネリアンと申します」
「……座りなさい。
突然だが君はこれよりこの家で、私の妹として暮らしてもらう。これからは兄として私に接するように」
「はい、お兄様」
厳しい表情にも関わらず、耳に届く彼の声には不思議と穏やかな響きがある。
若い侍従が椅子を引いて着席を促す。私は椅子の肘掛けに掴まりながら慎重に腰を下ろした。ニコル様はその不格好な様子を見て、更に険しい顔をする。
「もうメアリーに聞いているだろうが、私はニコル・デリエリという名の者だ。君はこれからカーネリアン・デリエリとなる」
「はい、承知いたしました」
「私の命令には従い、絶対に裏切ることの無いように」
「はい」
「以上だ。質問を許す」
「一つございます」
「言いなさい」
「私を養子としてお迎えいただいたことで、私が果たすべき使命があるのだと感じました」
ニコル様は相変わらず私を睨み、足を組み顎に手をあてたまましばらく黙っていたが、やがて紅茶のカップを優雅な所作で持ち上げて口を開いた。
「私がお前をこの屋敷に置き保護するのは、さる方からの頼みによるものだ。内容は明かすことはできない。
カーネリアン、まずお前には貴族としての教育を与える。その後16歳になったら学園に通う。現状はそれ以上の使命はないと思いなさい」
貴族であるニコル様に頼んで孤児を保護させる。王族から闇権力にまで広い繋がりのある貴族に、そんな事をお願いできる人物はほんの一握りだろう。
ニコル様は聞いても答えてはくれないだろうし、知っても私に良いことは一つも無さそうだ。
そんな事より私には、もっと大事な願いがある。初顔合わせにもかかわらず図々しいと思われても、これだけは譲れない。
「理解しました。……あの、一つだけ……」
「言いなさい」
「お屋敷の図書につきまして、閲覧の許可を頂きたいのです」
「ああ、いいだろう。
一部制限はあるが、屋敷内の本はどれを読んでもいい。ただし体調がいい日は一冊分の読書感想を私に聞かせるように。
後でメアリーに図書室へ案内させる」
見極めるような鷹の目に貫かれながら、私は本が読み放題な事を大いに喜んだ。
一冊の読書感想でいいだなんて、私の兄になる人はなんてお優しいのだろう。毎日10冊でも語れるのに!
「ありがとうございます!」
初めて正式に会うニコル様への緊張もあったが、堂々と本が読めることが嬉しくて思わず笑みが溢れた。
ニコル様の鋭い目が一瞬驚いたように揺れた気がしたけれど、見極める前に伏せられてしまった。
「紅茶を飲みなさい。
私が部屋によこした本は、全て読んだのか」
ニコル様は話に集中しすぎて目に入らなかった紅茶とお菓子を勧めたので、おずおずと紅茶を手に取り、少しだけ口に含んだ。
初めて飲んだけれど、私のような味の嗜好が分からない者でもさらりと飲める。
「はい! お兄様の心遣いが嬉しくて、大切に読んでいます。
一冊目は大衆童話でしたが、前に読んだものよりも造詣が深く、私が思う解釈と異なっていたため驚いて何度も読み返しました。挿絵も美しいです。中でも赤毛のマリアは――」
1冊、2冊、3冊……と綿密に感想を語るのを、ニコル様は言葉を発するでもなく、ただ黙って聞いていた。
時々頷き、時々何かに思案をめぐらせるような仕草を見せて、何を言うでもなく耳を傾けてくれる。
「最後に頂いた本は……」
5冊目に至った時、私の言葉は止まった。どうしたのかと言うように、ニコル様は私を見た。
「……最後は?」
「申し訳ございません、お兄様。……私はこれまで辞書を見ながら言葉の意味を覚えてきたのですが……5冊目は他の本にはない言葉が多くて、辞書無しでは内容を読む事が出来ませんでした」
「なるほど」
ニコル様はどこか遠くを見つめ、何かを思案しているようだった。がっかりさせてしまっただろうか。
「後ほど辞書を届けさせる。
……ネリ、明日よりお前には家庭教師を付ける。主に貴族としての教養とマナー、語学と発音、算術。
これを二年ですべて物にしてもらうので、そのつもりでいるように」
「は、はい!」
教育を受けられるのは願ってもないことだ。しかも二年後からは学校でも学べるという。即座に返事を返した。
……あれ、この人今、私のことをネリって呼んだ?
孤児院では子どもたちにアンと呼ばれていた。それとは別の愛称を付けられたことに少なからず驚く。本当の兄妹のような気安さだ。しかしゲームで彼は私のことをそんな風に呼んだりしていただろうか?
思わず見上げた彼の表情は相変わらず厳格さをたたえている。表情は読み取れない。
「ネリ、お前とは明日もこの時間にお茶を行う。今後私が館にいる時はお茶と夕食は必ず同席するように。
体調がすぐれない場合は直ちにメアリーに伝えろ」
「はいお兄様、喜んで」
コール兄様は席を立ち、私の右手を取って椅子からゆっくりと立たせてくれた。
来訪時より遥かに柔和したかのようなニコル様の言動に、私は少しだけじわっと心が温まるのを感じた。